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2022/09/03

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 釘ぬきに就て(その4)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ二行目)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇はやや長いので、分割する。漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。]

 

 以上、書き終りて發送せんとする内、破傷風に罹り、臥蓐《ぐわじよく》半月に涉る。其間、知己の二君、余が萬力の存否の問に對へて、委細の通信を送られたり。本題に關し、頗る重要と認め、要分を左に出す。

 (長野縣松本市住、平瀨麥雨氏書翰。)

 當市女子師範學校付屬小學校の敎員にして、鳶職の硏究を爲居《なしを》る小池直太郞氏に問合せ候所、川中島地方の仕事師の間に、今も大形の

Hirase1

が用いられおる由にて、梃の方は使用に際し、角が擦れて了ふ故、時々、鍛冶屋に燒入《やきいれ》しむる由に候。橋抔に用《もちひ》たる大形の

Hirase2

如斯《かくのごと》き釘は、此器の外に拔くこと能はず、とせられておる由に候。マンリキとは申さずとの事に候。拙妻、申すは、萬力は祖父の代より持傳へたる木工の小道具箱中に在《あつ》て、幼時の心覺え、形態は明瞭ならざれど、

Hirase3

如斯く、鐵棒の下方に圓盤の如き鐵が附居《つきを》り、釘抔をコジル場合に上の棒を廻し居る所を見たりと申候。今から二十年位前の事と存候。當地にては、莖菜《くきな》を漬けるに壓《お》しをする時、圖の如き(第二圖)事をするを、萬力を掛くる、と申す處もあれど、通常は萬力と云《いへ》ば滑車の事に候。

 

Tukenamanriki

 

[やぶちゃん注:キャプションは、「第二圖」・「菜漬の萬力仕掛」・「板」・「石」(左右二ヶ所)。総て、底本のここからトリミング補正した。前の三つの図は底本では、本文中に入れてある。]

[やぶちゃん注:以下は熊楠の附言で、段落全体が一字下げで、頭の字下げもない。]

熊楠謂く、萬力とは、和三に言《いへ》る通り、强剛の義に取りし名なるべし。奧州石河系圖に、義家五男、義時、其次子、義資、二條院判官兵衞尉萬力祖、とあれば、萬力てふ名も古し。但し、何に基きし家名なるを知《しら》ず。竹田出雲等作、小野道風靑柳硯四(寶曆四年)に、「釣上《つりあげ》た額の綱、しつかりと留《とめ》ておこ、ヲツと合點と人夫共、綱、しつかり、萬力へ、笠木へ掛《かけ》た此綱を、下へ取《とつ》て、こう、留めたれば、落《おつ》る氣遣ひ、微塵もない」。其續きに、道風の妻、謀つて、惡人を殺す處に、「たわけの有丈《あるだけ》萬力の、綱を、ずつかり、奧霜が、切つて落《おと》せし鐵の額《ぬか》、東門、極樂、引き替えて、地獄落しに、息、絕えたり」。此萬力は、釘拔ならず、滑車の大なる物と、平瀨氏の狀、讀みて、始めて知れり。

[やぶちゃん注:「平瀨麥雨」既出既注

「莖菜」茎漬にする大根・蕪などの野菜を総称する語。

「今から二十年位前の事」執筆時は大正九(一九二〇)年内と推定されるので、明治三三(一三〇〇)年前後。

「萬力とは、和三に言《いへ》る通り、强剛の義に取りし名なるべし」『「和漢三才圖會」卷第二十四「百工具」の内の「千斤(くぎぬき)」』を参照。

「奧州石河系圖」平安時代中期から戦国時代にかけ存続した石川姓の武家で陸奥石川氏の系図。「続群書類従」巻第百十七に「奧州石河系圖」として所収する(ネットでは視認不能)。当該ウィキによれば、『本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・大和源氏の一門、源頼親の子源頼遠を祖とする。他氏との混同を避けるため』、『陸奥石川氏または奥州石川氏と呼ぶことが多い。仙台藩一門首席』。永承六(一〇五一)年、『頼遠は子の有光とともに陸奥守源頼義に従って奥州に下向』、「前九年の役」に『従軍した。厨川に戦死した頼遠に代わって有光が軍を指揮』し、康平六(一〇六三)年、『有光はその軍功により従五位下安芸守に任じられ、陸奥国(後の磐城国)白河郡から分離された石川郡を下賜された。有光は同郡泉郷を拠点として三芦城を築城して居住し、それ以来』、『石川氏を称した』とある。

「源義資」(?~治承四(一一八〇)年)以上の人物も、みな、ウィキがあるが、彼のそれのみを引いておく。源義資は平安末期の武将で、『二条院判官代であったことから』、『石川兵衛判官代源義資と称した。河内源氏(石川源氏)の源義時の子。子に有義(一説に武田信義の子ともいう)。孫の信盛が万力氏』(☜)『を称した』。『山城国鳥羽において、平家方の飯富季貞、平盛澄の軍勢の夜襲を受けて大敗。その乱戦の中で討ち死にした』とあり、「系譜」に、『源義家―源義時―源義資―源有義―(万力二郎)』(☜)『源信盛―(万力二郎太郎)源信宗』とある。

「竹田出雲等作、小野道風靑柳硯」(おののとうふうあをやぎすずり)「四(寶曆四年)」は、義太夫浄瑠璃の作品で、歌舞伎の演目の一つ。五段続きで、宝暦四(一七五四)年十月に大坂竹本座にて初演。竹田出雲・吉田冠子・中邑閏助・近松半二・三好松洛の合作。梗概は当該ウィキが詳しい。因みに、「奧霜」は「選集」もママだが、登場人物の名だが、「置霜」(おくしも)の誤りである。]

(平瀨氏宛、長野縣松本市淸水町、木彫職、淸水湧見氏狀。)

小生知人の大工に尋ね候處、御質問の如き釘拔有之、現に數年前まで使用致し候由。名前は、唯、釘拔とのみ申候。使用法は如此《かくのごとく》[やぶちゃん注:以下のキャプションのない図。]して、コジル時は、いかなる長大の物をも拔得《ぬきう》るのみならず、全く是に依《よら》ざれば、拔く能はざる者も有る由に御座候。

 

Simizu

 

[やぶちゃん注:底本にはキャプションがないが、「選集」では『第三図』とキャプションがあり、以下、底本の図版数字とは、ずれている。問題がないので、底本に従う。

 

(靑森縣三戶郡小中野浦、中道等氏、熊楠宛て書翰、槪要。)

和漢三才圖會の萬力は、拙宅に舊藏し、形狀を熟知せり。昔流の釘を拔くに究竟の具とて、諸方よりも借用されしが、近年、西洋釘の丸頭、盛行して、自然、此器、無沙汰となり、此五、六年間、三度、轉宅に紛れ、見失《みうしな》へり。仙臺市出生、加藤兵五郞てふ故人に貰ひし物で、維新前所《どこ》ろで無く、德川中世[やぶちゃん注:「中期」の意。]頃に求めしと見ゆ。第三圖の如く、鐵製の座は、每邊長さ二寸[やぶちゃん注:六センチ。]の正方形、每邊幅四分[やぶちゃん注:一センチ二ミリ。]、厚さ八分[やぶちゃん注:二センチ四ミリ。]、内徑一寸二分ばかり[やぶちゃん注:約三センチ六ミリ。]、梃の長さ一尺五寸程[やぶちゃん注:約四十五センチ五ミリ弱。]、幅、厚さとも、一寸二分位、略ぼ正方柱なるが、イなる前端を稍々《やや》薄手に、必ず、方形乍ら、桿より、狹く作り、是も鐵製、但し、裏面と、イの端、表裏とも、一分五厘許りは、鋼を被ふ。桿の表の四穴大に、之れに通ぜる裏の穴は、小さきこと、煙管の羅宇《ラオ》殺し(一名、羅宇痛め。)の穴の如し。大穴の徑、今時、普通の煙管雁首の點火穴程にて、小穴の徑は、其半分程と記憶す。

[やぶちゃん注:「靑森縣三戶郡小中野浦」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」で旧「青森県三戸郡小中野村」なら、判る。海直近で「浦」とあっても不審ではない。現在の八戸市のこの附近(グーグル・マップ・データ)。

「中道等」(なかみちひとし 明治二五(一八九二)年~昭和四三(一九六八)年)は郷土史家・民俗学者。宮城県登米(とめ)郡登米町(とよままち)生まれ。旧姓は「砂金(いさご)」。後に青森県八戸市に移り、青森県立八戸中学校に進学したが、一年で中退し、二松學舍を経て、大正七(一九一八)年に京都帝大教授内藤湖南の下で、東洋文献の考証学を学んだ。同年、八戸の中道トシの養子となり、姓を改め、その後、八戸に戻って、『実業時論』という雑誌を手がけ、さらに推薦を受けて、青森県史編纂委員や青森県史跡名勝天然記念物調査委員を務め、また、かの「南部叢書」の編纂にも従事している。以降の事績は参照した当該ウィキを見られたい。]

 

Nakamiti

 

[やぶちゃん注:底本では、最上部と最下部の穴がほぼ潰れて真っ黒になっているので、「選集」を参考に白抜きにし、梃の左の一部が欠損しているので、線で繋げた。キャプションは頭に「第三圖」、右方に「中道氏舊藏萬力」である。しかし、以下の説明中の指示記号「イ」が存在しない。「選集」を参考にして(そこでは手書きで『(イ)』として当該部に打たれてある)あるべき場所に私が「イ」を活字で打って入れた。実は、次の図の説明との混同が生じるのが気になるので、こちらは丸括弧無しで入れ、本文の以下の「第四圖」の説明の「イ」には、底本が丸括無しで記されてあるので、逆にそっちでは丸括弧を附して明確にした。

 

Manriki4

 

[やぶちゃん注:キャプションは最上部に「第四圖」でその下に「萬力で釘拔く處」とあり、「(イ)」パートが上から下に「釘角」・「板ノ橫截靣」(いたのわうさいめん)・「梃」・「大穴」・「小穴」。「(ロ)」パートが「甲」・「乙」。「(ハ)」パートが「釘頭」(私はこれ、「くぎのあたま」と読みたい)・「梃」。「(ニ)」パートが「乙」・「甲」・「板水平面」。]

 

 第四圖、(イ)の如く、梃の裏面の小穴を釘尻の尖端に嵌め、裏面(虛線もて示す如く、この際《きは》、大穴は見えず。)を鐵槌で叩けば、釘尖、確かに小穴に入る爲め、些《いささか》の屈曲無しに釘頭が板の上に拔け出づ。爾時《そのとき》、梃の表面の大穴を釘頭の曲り角に、一寸《ちよつと》引掛《ひつか》け、桿を、左右にくねり、搖《うご》かす。釘、大にして、小穴に入らずば、大穴に嵌めて、叩き上げる。斯《かく》て拔け始めたる釘の頭へ、無雜作に座を冠《かぶ》らせ、梃の前端を(ロ)の如く、座中の釘根を目指して斜めに揷込み、カチリと合ふ程落《おと》し入る。その體《てい》を上より見れば、(ハ)に示す如し。扨、梃の尾の邊を持ち、座の甲部を力點として押へたる儘、ウンと、コヂ上《あぐ》れば、乙部の座端が甲部に集中せる力に負《まけ》て浮き足になる事、(ニ)に示す如し(事實は釘根に接せる梃の前端は此圖より遙かに板面に近し。)。斯て、座の乙側が、釘を、座の内方に向《むかつ》て强く壓し挾めんとする刹那、座と釘と梃との三者、各《おのおの》、力を緩めずんば、其關係、非常に緊張して分厘の隙《すき》無く、止《やむ》を得ず、釘根が、梃の前端の壓力に迫られ、逃路を求めて、易々と拔出《ぬけいづ》るの外、無し。其釘、細く短くば、一度、座を掛けたる斗りで、容易に拔出《ぬけいづ》れど、若し、木板、堅緻《けんち》にして、釘、太く長ければ、一度、掛けたる儘では、樂に拔けず、グイと、出乍《いでなが》ら、まだ、殘る。その時は、梃を緩めて、上に拳ぐれば、座はカラリと浮足《うきあし》を止《やめ》て、無雜作に、板と水平をなし、舊位に復《かへ》る。所ろを、再び、梃端を釘根に當て、支へ、家の土臺に梃を掛け動かす體《てい》に、力を入《いれ》て、梃を、座の一端に下ろせば、釘は、再び、グイと、出づ。かく、手疾《てばや》く、三、四囘も行へば、いかな難物の釘も、いと面白く、拔き得べし。此器を、當地方で、釘拔、又、萬力と呼ぶ事、和三所說の通りなれど、萬力と稱ふる方《はう》、よく、通づ。その桿、方柱ならず、圓柱形なるものありし。方柱形で、表裏に、大小、穴、四つ宛《づつ》あるを、穴なきものと、別つため、特に八ツ目と唱へしと記憶す。釘は方形なるに、此穴は圓きが常なりしも〔熊楠謂く、本誌十卷六號、板津君の反拔板《そりぬきいた》の穴、方形なるに反す。)、別段、差閊《さしつか》へざりしと、記憶す。

 又、和三、圖《ゑがく》所《ところ》、座に嵌《はむ》べき梃の前端が、不動尊の劍刄《つるぎば》狀をなせば、

Hudousonturugi

座に嵌《はめ》たる三角尖の兩側に、兩隙間を生ずる、其一つに釘を挾み拔《ぬき》しと見ゆ。沼田氏も斯《かか》る物を製作したるならん。然し、座の力點部より推せば、兩隙間にて、二本の釘を一度に拔く場合の外は、大分、力を冗費《じやうひ》すべし。小生、試用せし萬力は(第四圖(ハ))、梃の前端、方形で、座の一内側に接して、一小隙のみを構成せり。前書、萬力梃の前端、必ず方形なるを須《ま》つ如く述《のべ》しも、いかに鋼《たがね》を被せ、摩損を防ぐも、何百囘となく、使用せば、方形、漸く、耗殺され、甚だしきは、釘が恰好に入り留《ど》まる斗りに、矢筈形を成すに及ぶあり(第五圖)。是れ、却つて、細釘を、イキナリ、挾むに宜し迚、直さずに使ひしを見しことあり。二月十九日、一つ穴ある長一尺の萬力の梃のみ、發見せり。其の座を失ひし後は、唯、此一つ穴もて、釘を動かしたるにや。叩きし半面が、甚しく潰れまくれ居れり。同二十一日、盛岡市に出で、古金物店、數軒を搜せしに、其二、三は、ツイ四、五日前迄、店頭に在《あり》しを、在方の輩、釘拔は是に限るとて、買去《かひさり》し、と申す。試みに知《しら》ぬ振りして、二十九歲斗りの店主男と、三十四、五の店主婦に、其形と用法を問しに、答ふる處、異口同音に、小生、知るところに符合す。以て、今も南部地方奧在に之を用ひ居るを知《しる》べし。何とか一對を手に入れ、捉影して進上せんと搜索中なり。

 

Maniriki5

 

[やぶちゃん注:キャプションは「第五圖」で、以下、「萬力梃の前端」「矢筈形」(やはずがた)「に磨耗されたる處」。]

 

 當地方で、目今、船大工等が萬力と稱へ使用するは、一段と、進步工夫したる者にて、御來示のコゼヌキと酷似す(第六圖)。小生、取寄せて、爰に寫出《うつしいだ》すものは、桿の長さ二寸八分(鯨尺)[やぶちゃん注:九・五センチメートル。]、重量一貫四百六十匁[やぶちゃん注:五キロ四百七十五グラム。]あり〔熊楠謂く、是れ、コゼヌキに外ならず。但し、尾尖も釘拔用を爲すと見え、狹き三角形の切込みあるが、紀州の者に異なり。〕。前述、古態の萬力の座は、カラリカラリと、桿を離るる心配あれど、この萬力は、枠の兩端が鋲止め故、一々手にて直す必要なく、至《いたつ》て便利乍ら、雅趣は遠く及ばず。此萬力の使用も、前頭の空隙へ、船釘を挾み、桿を下へ押える樣に揚ぐる、其理は一《ひとつ》なり。船釘は、潮水の爲め、太く錆び付き居れば、是ならでは、拔き得ず。(以上、中道氏書翰、槪要。)

 

Manriki6

 

[やぶちゃん注:キャプションは、「第六圖」、その下方に「靑森縣中野浦町邊」、「船工」、「所用」、「萬力」。最上部の図に「幅二分」・「厚さ三分」・「鐶」(かなわ)「橫長さ一寸四分」。中の図下に、「上の桿の方へ反りし所」。「下方へは」、「枠」、「行かず」。「桿」、「六分六厘宛」(づつ)「正方」、「柱形」(はしらがた)。最下部の図に指示線で「尖尾」(せんび)。]

 

[やぶちゃん注:以下は、熊楠の附記で底本では全体が一字下げで頭の一字下げもない。]

 熊楠謂く、紀州でコゼヌキを用《もちふ》るに、釘が木に深入して、此器の掛り處なき時は、釘を尖端より鐵槌で叩き上げ、又、可成《なるべく》、釘を眞直《まつすぐ》に拔出《ぬきいだ》さんとせば、釘戾しを用ひたり。是は、板津君の反拔板と同功一體の物で、長《たけ》八寸[やぶちゃん注:二十四・二センチ。]、幅八分[やぶちゃん注:二・四センチ。]、厚さ四分程の壓尺(ケサン)、又、竿樣《さをやう》の鐵製器、前部は四角、後部の柄らしき處は、稍々圓みを帶ぶ。前部の表裏に鋼を被せ、相對《あひたい》し、相通《あひつう》ぜる、大小の穴、各四、五、ある體《てい》、中道君所說、萬力の桿に異ならず。其穴に釘を突入れ、槌で敲き上《あぐ》るも、同樣なり。扨、釘頭、可成り出でたる後、コゼヌキで、コジ拔きたるなり。

[やぶちゃん注:「壓尺(ケサン)」は「あつしやく(あっしゃく)」と読み、書物や紙が飛び散らないように「重し」として用いる文鎮のこと。「卦算(けさん)」とも呼ぶのを当てたもの。]

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