西原未達「新御伽婢子」 沉香合
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。
注は文中や段落末に挟んだ。]
沉香合(ぢんのかうばこ)
近曽(ちかごろ)、攝刕大坂に下り、爰かしこ、所用勤(つとめ)ける次(ついで)、大坂より一里隔たる平埜(ひらの)といふ所に尋ねしに、一寺あり、男女老少、參詣、おびたゞし。
「何事にや。」
と、茶店(ちやてん)の姥(うば)に問へば、
「『大念仏』と申《まをす》事の侍り。」
と。
「扨は。殊勝の事なめり。逆緣(ぎやく《えん》)の聽聞(ちやうもん)せん。」
と、仏前にのぞむに、勤行の時節、暫(しばし)、
「早(はやし)。」
と、いひて、傍(かたはら)の道俗、打《うち》もたれ、眠《ねむる》比《ころ》なり。
此内に、我にひとしき他國の男、一人ありて、家《いへ》に杖つく斗《ばかり》の老人にむかひ、物がたりする有(あり)。
[やぶちゃん注:「逆緣」悪行がかえって仏道に入る機縁となること。ここは自遜。
「家に杖つく斗の老人」「家の中でも杖を突かねばならぬほどに見える高齢の老人。]
『京みやげに、珍しき事もこそ。』
と、ねぢりよりて、もらひ聞《ぎき》し侍るに、翁の云《いはく》、
「當寺の㚑寶(れいほう)に、『沈(ぢん)の香合(かうばこ)』あり。何(いづれ)の工(たくみ)のきざめるとも、知る人、なし。勤行(ごんぎやう)、滿たらん時、拜(をがみ)給へ。」
といふ。
男、聞《きき》て、
「工のしれぬとは、天竺よりや、わたりし、天よりや、降(ふり)し。」
と。
「左には非ず。是につきて長(ながき)物語あり。念仏の初《はじま》らん迄に、聞(きゝ)給へ。
近き比、和泉の堺に、松やの何某とて、有德(うとく)の人、あり。息女、ひとり、持てり。
かたち、世にたぐひなく、情(なさけ)さへ、いとゞ深かりければ、をよぶをよばぬ[やぶちゃん注:ママ。「及ぶ及ばぬ」]音(おと)ふれて、通はす文(ふみ)の恨(うらみ)わび、ほさぬさ月《つき》の雨くらく、迷はぬ者もなかりしに、問《とひ》よる袖の多き中に、わきて、美男(びなん)の有《あり》けるに、早晚(いつしか)、深く、馴初(なれそめ)て、夜半《やはん》の鐘に枕をならべては、偕老のふすまを、うれしと、よろこび、橫雲(よこぐも)の朝(あした)に鳥の鳴(なく)時は、別離の袂(たもと)をしぼりて、悲し、とす。
男も、親はらから、持てる身にて、いたうしのび、まいて女は、父母(たらちね[やぶちゃん注:二字への読み。])の咎(とがめん)事を恐れて、
『猶、さがなき人の口(くちに)さへ、かゝらん。』
と、限なく包(つゝみ)ければ、やゝ知る人も、なし。
[やぶちゃん注:「をよぶをよばぬ音」「及ぶ及ばぬ」で、「読んで貰えるか、到底、手にさえ及ばない恋文の音信(おとずれ)」の意であろう。
「さ月」「皐月」。陰暦であるから、梅雨の時期なので、「乾さぬ」と枕して、「雨くらく」と続く。
「さがなき人」性質(たち)の悪い人。]
然るに、世の式に任せて、娘の親、
「誠のえにしを、とりむすび、既に、いつの日、送りむかへん。」
など、いひかはしければ、ふたりの人、おどろきて、今更のやうに歎く。
[やぶちゃん注:父母は当時の例式に従って、仲人を立てて、相応の人物を決め、いついつの日に婿として迎える、と告げたのである。]
され共、男、女にいふ、
「日比、ふりたる情(なさけ)、すつるにては、なく侍れど、此事、いなび給はゞ、有し蜜事(みつじ)[やぶちゃん注:ママ。]の顯れて、たかしの濱のあだ浪に、うき名を流し給はん。我は、數《かず》なき埋木(むもれ《ぎ》)の、根(ね)ながら、朽(くち)てむなしくとも、花待《はなまつ》身にも侍らねば、たゞ、そこのため、いとおしきぞや。父母の心に身を任せて、そのかたさまに、ましませ。御心《みこころ》の僞(いつはら)ぬは、月ごろ日比、見し事にて、更に恨(うらみ)をのこさず。」
と、袖ほしわびて口說(くどけ)ば、女、更に、うけひかず、
「そも、うつゝなの、御こと葉や。包(つゝむ)ほどこそ久かるべきとは、かねて、いひかたらひし。たとひ、父母には背(そむく)とも、在《あり》し契りを捨(すつ)べきや。あゝ、世は、せばき世也。唯(たゞ)、身ふたりの置所《おきどころ》、此娑婆にては、をもほえず[やぶちゃん注:ママ。]。弥陀の蓮(はちす)のうてなこそ、心の儘に、すみよしの、まつぞ跡より、來ませ。」
とて、剃刀(かみそり)、取《とり》て自害におよぶ。
男、
「暫し。」
と、とゞめ、
「我も、左こそ思ひしかど、心を引見《ひきみ》んため斗《ばかり》に、かくは申《まをし》》侍り。惡(にく)からずの心や。いで、手を取《とり》て、友(とも)なはん。」
と、最後の念仏、心靜にして、女を、さし殺(ころし)、男も同《おなじく》自害しぬ。
双方の親、なけゝども、甲斐なし。
[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]
其比、奧より西国をめくる順礼ふたり、つれて、上がたに、のぼる。
箱根の山にかゝりけるが、日は、漸々(やうやう)、暮《くれ》ぬ。
いとゞ、心、せきて、道をいそぐに、上がたより、年十七、八とみえて、容㒵(ようがん)類(たぐひ)なき女の、色、靑ざめ、小袖、白く、裾、引《ひき》て、杖を梓(あづさ)にゆがめ、淚に成《なり》て來(く)る者、あり。
二人の者共、
『はつ。』
と思ひ、
「いかにや、かゝる遠国(をんごく)の、殊に、人なき山中に、日さへ暮雲(ぼうん)に心ぼそきを、最媚(なまめき[やぶちゃん注:二字への読み。])たる女の、あるべき事とおもはれず。いかさま、化生(けしやう)の類(たぐひ)ならん。」
と、恐《おそれ》て、すゝまず。
漸々、ちかづくまゝに、女、ほそく、甲斐なき聲やせて、順礼に云《いはく》、
「卒尒(そつじ)ながら、上がたへ、言傳(ことづて)申《まをし》たく侍る。泉州堺のいづこにて、『しかじか。』と尋給ひ、『娘があと、念比《ねんごろ》に弔(とひ)給へ。』と申てたべ。」
と、いひて、息を休(やすめ)る。
順礼、いぶかしながら、
「御身、何人《なんびと》なれば、左《さ》の給ふ。」
と、いふ。
「恥かしながら、我、其家(や)の娘なるが、刄(やいば)の上に、むなしく成《なり》たり。若き者の、はづかしといふ類(たぐひ)、跡は只(たゞ)、いはずとも推量(《おし》はかり)おぼしめせ。たゞ、左斗(さばかり)申して、たべ。」
と、淚にむせぶ。
順礼も、今は、思ひたゆめて、
『扨は。蜜夫(みつふ/かくし《をとこ》)などのため、死(しゝ)たる者ならん。』
と打諾(《うち》うなづき)、
「げに。さる事ならば、しるしや、送り給ふ。」
と、いふに、女、懷(ふところ)より、手拭(《て》のごひ)ひとつ、取出《とりいだし》、
「身に添(そふ)る物、是ならで、なし。父母は、是、能(よく)見知給へり。しるしにし給へ。相《あひ》かまへて、賴《たのみ》侍る。」
と、いひて、莪々(がゝ)[やぶちゃん注:ママ。]たる山の、岩が根を、坂道、遠く、たどり行《ゆく》とみえしが、順礼、泪《なみだ》に見送り、上(かみ)にのぼり、敎(あおしへ)し堺に行《ゆき》て、親に、此事、かたり、記念(かたみ)の物を渡すに、
「こは。いかに。」
と、驚《おどろき》、いひし事共、間(まゝ)聞《きき》て、今更に泣悶(なき《もだえ》)しが、順礼を、もてなし、樣々、引《ひき》とむれども、此人さへ、末(すゑ)の長路(ながぢ)を急ぎて、別れ行《ゆけ》ば、むなしき床(とこ)にひれ臥《ふし》ぬ。
爰に此《この》御寺《みてら》の本尊、靈仏(れいぶつ)なる事をたうとび、當寺に別時大念仏(べつじだいねんぶつ)を執行(しゆぎやう)す。一七日、滿ずる日の旦(あした)、在《あり》し娘、忽然として、仏前に顯(あらは)れ、父母并(ならびに)上人に語《かたり》て云《いはく》、
「我、邪婬の惡執にひかれ、地獄に入《いり》なんとせしを、御弔(《おん》とふらひ)の力に、得脱(とくだつ)しぬ、いかにして報謝せん。」
と、掌(たなごゝろ)を合《あはせ》、本尊を礼し、沉(ぢん)の香合(かうばこ)を如來に捧(さゝげ)、かきけちて失せしを、其座に詣(まふで)たる人々、殘らず、見し。」と語る内に、念仏、初(はじまり)、聽聞し、事《こと》終(をはり)、かの香合を、望みて、拜(をがみ)けるに、げにも、凡卑(ぼんひ)の細工(さいく)とみえず。
猶、住僧に、緣起、こまごま、とはまほしかりしを、いさゝか、私用を宿(やど)にのこし侍れば、歸り來て、程なく、京にのぼりしまゝ、問(とひ)のこしぬ。
[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]
去《さる》人の云《いはく》、
「死せる人は、中陰のほど、中有(《ちゆう》う)にあつて、生所(しやうしよ)、さだまらず、我ながら、仏所にまふでんも、惡趣に入らんも、しる事、なし。只、極善(ごくぜん)の者と、極惡(ごくあく)の者と斗《ばかり》、頓(とみ)に淨土と地獄に、をもむく[やぶちゃん注:ママ。]といへば、今、爰にして、はこねなんど、さまよひありかん事、心得ず、たゞ童(わらべ)の物がたりにこそ、いひふれたれ、信用するにたらず。」
と垣(かき)やぶりにいふに、かたへより、
「よしなきあらそいや[やぶちゃん注:ママ。]。所詮、弥陀の本國に歸らざる内、生(いき)ても死(しゝ)ても、皆、中有なる物お[やぶちゃん注:ママ。「物《もの》を」で誤刻であろう。]。」
と、いはれし。
是(ぜ)なりや、非(ひ)なりや、大俗(《だい》ぞく)の身なれば、不ㇾ知(しれず)。
[やぶちゃん注:「中有」衆生が死んでから次の縁を得るまでの間を指す「四有(しう)」の一つである。通常は、輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。この七七日(しちしちにち・なななぬか:四十九日に同じ)が、その「中有」に当てられ、中国で作られた偽経に基づく「十王信仰」(具体な諸地獄の区分・様態と亡者の徹底した審判制度。但し、後者は寧ろ総ての亡者を救いとるための多審制度として評価出来る)では、この中陰の期間中に閻魔王他の十王による審判を受け、生前の罪が悉く裁かれるとされた。罪が重ければ、相当の地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を七日目ごとに行って、追善の功徳を故人に廻向すると、微罪は赦されるとされ、これは本邦でも最も広く多くの宗派で受け入れられた思想である。恐らく、若い読者がこの語を知ることの多い契機は、芥川龍之介の「藪の中」の「巫女の口を借りたる死靈の物語」の中で、であろう。リンク先は私の古層の電子化物で、私の高校教師時代の授業案をブラッシュ・アップした『やぶちゃんの「藪の中」殺人事件公判記録』も別立てである。私は好んで本作を授業で採り上げた。されば、懐かしい元教え子もあるであろう。
なお、本篇も作者自身の一人称で、実際に聴書した体裁をとった直近の「噂話」の形をとっている。知られた過去の人物に仮託した怪奇談は有象無象あるが、こうした等身大のものは、思いの外、多くはないのである。]