フライング単発 甲子夜話卷之二十二 28 大阪御城明ずの間の事
[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「人柱の話」の注に必要となったため、急遽、電子化する。非常に急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部に句読点も変更・追加し、鍵括弧・記号も用いた。標題の「明ずの間」は以下の本文に従って「あけずのま」と読んでおく。]
22―28
大阪の御城内、御城代の居所の中に、「明けずの間」とて、有り、となり。此處《このところ》、大《おほい》なる廊下の側《かたはら》にあり。こゝは、五月落城のときより、閉《とざ》したるまゝにて、今に一度もひらきたること、なし、と云《いふ》。因て、代々のことなれば、若《も》し、戶に損じあれば、版《いた》を以て、これを補ひ、開かざることと、なし置《おけ》けり。此《ここ》は、落城のとき、宮中婦女の生害《しやうがい》せし所、となり。かゝる故か、後、尙、その幽魂、のこりて、こゝに入る者あれば、必ず、變殃《へんわう》を爲すこと、あり。又、其前なる廊下に臥す者ありても、亦、怪異のことに遇ふ、となり。觀世新九郞の弟宗三郞、かの家伎《かぎ》のことに因て、稻葉丹州、御城代たりしとき、從ひ往《ゆき》たり。或日、丹州の宴席に侍《じし》て、披酒[やぶちゃん注:ママ。「被酒(ひしゆ)」(酒を飲むこと)の誤判読か誤字と思う。]し、覺へず[やぶちゃん注:ママ。]、彼《かの》廊下に醉臥《すゐぐわ》せり。明日《みやうじつ》、丹州、問《とひて》曰く、「昨夜、怪《あやしき》こと、なきや。」と。宗三郞、「不覺。」のよしを答ふ。丹州、曰《いはく》、「さらば、よし。こゝは、若《もし》、臥す者あれば、かくかくの變、あり。汝、元來、此ことを不ㇾ知《しらず》。因て、冥靈《めいりやう》も免《ゆる》す所あらん。」と、云はれければ、宗三《さうざ》、聞《きき》て始《はじめ》て怖れ、戰慄《ふるへおののき》、居《を》る所をしらず、と。又、宗三、物語しは、「天氣、快晴せしとき、かの室の戶の透間《すきま》より窺《うかが》ひ覦《み》れば、其おくに、蚊帳《かや》と覺しきもの、半《なかば》は、はづし、半は、鈎《かぎ》にかゝりたるもの、ほのかに見ゆ。又、半揷《はんざふ》の如きもの、其餘の器物どもの、取ちらしたる體《てい》に見ゆ。然れども、數年《すねん》、久《ひさし》く、陰閉《いんぺい》の所ゆゑ、たゞ其狀《さま》を察するのみ。」と。何《い》かにも、身毛《みのけ》だてる話なり。又、聞く、「御城代某侯、其威權を以て、こゝを開きしこと有しに、忽《たちまち》、狂を發しられて、止《やみ》たり。」と。誰《たれ》にてか有けん。此こと、林子《りんし》に話せば、大咲《おほわらひ》して曰《いはく》、「今の坂城《はんじやう》は豐臣氏の舊《もと》に非ず。偃武《えんぶ》の後《のち》に築改《きづきあらため》られぬ。まして、厦屋《かをく》の類《たぐひ》は、勿論、皆、後の物なり。總て世にかゝる造說《ざうせつ》の實《まこと》らしきこと、多きものなり。其城代たる人も、舊事《きうじ》、詮索なければ、徒《いたづら》に齊東野人《せいとうやじん》の語を信じて傳《つたふ》ること、氣の毒千萬なり。」と云《いふ》。林氏の說、又、勿論なり。然《しかれ》ども、世には、意外の實跡も有り。又、暗記の言《げん》は的證とも爲しがたきなり。故に、こゝに兩端を叩《たたき》て、後定《こうぢやう》を竢《まつ》。
■やぶちゃんの呟き
「五月落城のとき」言わずもがな、「大坂夏の陣」。慶長二〇(一六一五)年五月八日、大坂城は落城、豊臣秀頼は母淀君とともに城内で自害した。
「觀世新九郞」能の小鼓方(ここの「家伎」はそれ)の流派名。
「稻葉丹州」稲葉正諶(まさのぶ 寛延二(一七四九)年~文化三(一八〇六)年)。従五位下丹後守。享和二(一八〇一)年十月十九日に大坂城代に就任し、文化元(一八〇四)年一月二十三日に京都所司代に転任、従四位下侍従となっている。彼は「寛政の改革」にも加わっている。
「半揷《はんざふ》」現代仮名遣「はんぞう」。「はざふ(はぞう)」等とも呼び、「𤭯」「楾」「匜」等の漢字もある。湯水を注ぐのに用いる器で、柄のある片口の水瓶であり、柄の中を湯水が通るようにしてある。その柄の半分が器の中に挿し込まれてあるところから、この名称がつけられた。
「林子《りんし》」お馴染みの、静山の盟友である儒者林述斎(はやしじゅっさい)。
「偃武」天下泰平。
「厦屋」大きな建造物や家屋内の作り物や調度具。
「造說」根拠のないことを言いふらすこと。
「舊事、詮索なければ」そのような古いことは、調べようがないことであるから。
「齊東野人」物の道理を知らない田舎者。人を軽蔑していう語。「孟子」の「万章(ばんしょう)上」に基づく。「斉東」は斉(せい)国の東の辺境で、「野人」は「田舎者」の卑語。
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