多滿寸太禮卷第七 龍法坊拜七星事
[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれ(PDF・第七巻一括版)。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。標題は「龍法坊(りうほうばう)、七星(しちせい)を拜する事」と読んでいる。「龍法坊」は不詳。「七星」は中国の星学で北斗星の中の最も大きい七つの北斗七星。則ち、貪狼星・巨門星・祿存星・文曲星・廉貞星・武曲星・破軍星の総称。]
龍法坊拜二七星一事
去(さん)ぬる嘉祿年中に、王城の東に當りて、白氣(びやつき)、遙かに天にのぼり、よるは、その色、黃赤(わうしやく)にして、末ながく、蒼天にむらがりたり。此氣、西は九州、東は奧州まで、みゆる。
「まことに、先例、いまだ、かくのごときの事を、聞《きか》ず。」
と、家々の勘文(かんもん)、陰陽師(おんやうし)、巷(ちまた)にはしり、近里遠村(きん《り》ゑんそん)は勿論、遠國波濤(をんごくはたう)のうらうらまで、不思義をなさずといふ事、なし。後(のち)は、此の光り、次第に、つよく、折々、ひかりを生(しやう)ず。諸人(しよ《にん》)、此氣を尋ねみるに、粟田山(あは《たやま》)の峯にあたり、いたゞきに、大きなる穴、出來(いでき)、その穴より、此光り、出《いで》たり。數(す)萬人立《たち》つどひ、みるに、此穴より、風の出《いづ》る事、なゝめにして、小石(《こ》いし)をなげ入《いる》るに、吹き上《あげ》て落ちず。
「さらば。」
とて、大きなる石に、繩をつけて、おろしみるに、すべて、はかり、なし。
此事、いそぎ、うつたえければ、
「何とぞ、人をして、見せられん。」
と、しけるに、誰(たれ)、いるべしと、云《いふ》者、なし。
「さあらば、斬罪の囚人(めしと)を入《いれ》らるべし。」
て、僉義(せんぎ)有《あり》しほどに、爰に、「龍法」といへる法師、さがの邊(ほとり)に一寺を住持したるに、余僧(よそう)の妬(ねたみ)によりて、犯戒(ほんかい)ある由(よし)を政所(まん《どころ》)に訴へられ、斗《はか》らずに、牢獄の身と成りけるが、此僧、つたへ聞《きき》て、
「我、無實の科(とが)を受《うけ》て、かく、とらはれ、諸人に恥ぢを、さらしはつべし。ひとへに、宿業(しゆく《ごふ》)とは云ひながら、身を置くに、せんなし。しかじかの穴へ入《いり》て、早く、死なんには、しかじ。」
と、達(たつ)て望み申しかば、則ち、
「此者を入らるべし。」
とて、大なる篭(かご)をつくり、あまたの石をおもりに付《つけ》、大綱(《おほ》づな)を千尋(ちいろ)つけて、かの穴へ、入《い》られけり。
[やぶちゃん注:「嘉祿年中」一二二五年から一二二七年まで。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。
「勘文」小学館「日本大百科全書」によれば、「かもん」とも呼ぶ。天皇・院などの上意を受け、その裁断の資料として先例や故実を考査して提出する答申書を言う。令制の諸寮司が提出する「諸司勘文」と、明経(みょうぎょう)・明法(みょうぼう)・文章(もんじょう)、及び、天文・陰陽(おんみょう)や暦道(れきどう)などの担当官が提出する「諸道勘文」の二種があった。前者の例として「主計寮勘文」・「主税寮勘文」「率分勘文」などがあり、後者の例としては、年号・革命・穢(けがれ)・日時・吉凶・日食・月食・地震などに関する勘文がある。室町時代には武家故実に取り入れられ、将軍の諮問による勘文が徴された、とある。小学館「日本国語大辞典」には、『諸事を考え、調べて、上申する文書。平安時代以後、明法道、陰陽道など諸道の学者や神祇官、外記などが、朝廷や幕府の諮問にこたえて、先例、日時、方角、吉凶などを調べて上申したもの。勘状。かもん。かんがえぶみ。かんぶん』とある。ここはこの異常な天変地異に関する「諸道勘文」に相当するような文書(各家の私的なものも含む)が、名家の間に飛び交ったということであろう。
「粟田山」現在の東山区蹴上(けあげ)の南の、将軍塚から北へ延びる山。標高百八十メートル。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真)。]
漸々(やうやう)に一時《いつとき》斗りに、落付〔おちつき〕たるとおぼえて、繩、たるみたり。
相圖の時をまちて、諸人、立ちつどひけるに、ろくろを以《もつて》、卷き揚げたり。
此僧、たゞ、茫然として、色を失ひおる[やぶちゃん注:ママ。]。
「いかなる事にや。」
と、いへども、更に、いらへも、せず、只、
「急ぎ、政所へ、つれゆくべし。」
と、いへば、則ち、かきつらねて行きけり。
奉行・頭人、對面して、
「いかなる事にや。」
と問へば、此僧、申《まを》けるは、
「穴の中(うち)、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ほども入《いり》たると、おぼしき時に、ほのかに、日の光り、明らかなり。ふしぎに思ひて、あたりをみるに、大《おほい》なる白砂(《しら》す)に落ち付《つき》たり。金銀を以《もつて》、ちりばめたる樓門、有《あり》。篭より出《いで》て、門のほとりに、よりてみるに、左右に、四天のごとくなる鬼形(きぎやう)の者、數《す》十人、十五、六斗《ばかり》なる鬼童(おにわらは)を、六、七人、からめ付《つけ》、大なる三鈷杼(《さん》こちよ)を以《もつて》、これを、かはるがはる、打擲(てうちやく)す。其《その》跡、破れ、たゞれて、血の出る事、甚だし。此鬼童ども、おめきさけぶ聲、大地にひゞく。これをみて、あまりの怖ろしさに、遙かの片すみに、かゞまり居(ゐ)たれば、一人の靑衣《せいえ》の官人、來りて、[やぶちゃん注:「三鈷杼」ここは密教法具の金剛杵の一つとして知られる、元は古代インドの武器であった三鈷杵(さんこしょ)のこと。挿絵では殆んど先端が三岐になった鑓である。]
『御坊(《ご》ばう)、こなたへ。』
と、いざなふ。ぜひなく御階(みはし)のもとへうづくまり、遙かに簾中(れん《ちゆう》)をみ入《いり》たれば、七人の帝王、をのをの[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、いすに上《のぼ》りて、光明(くわうみやう)、四方(よも)にかゝやけば、あまりの目(ま)ばゆさに、それとは、見へず。かたはらなる官人に、
『いかなる所にて、天子の御名(み《な》)は何(なに)と申《まをし》侍るぞ。』
と問へば、官人、答へて、
『爰は、地界の中輪(《ちゆう》りん)、星宿(せいしゆく)の司土(しと)なり。此七人の天子こそ、七曜星(《しち》ようせい)の精靈(せいれい)にて、おはす。あらゆる星氣(せいき)、皆、此《この》界に住(ぢう)し給ひて、別殿(べちでん)を造りて、すませ給ふなり。』
とぞ語りける。僧[やぶちゃん注:僧の語りであるはずが、ここから齟齬を生じ出す。せめて「拙僧」にして欲しかった。]、重ねて、
『我、きく、諸星は、をのをの、天に浮かびて、いまだ、地に下(くだ)らず。いかにとしてか、此地に、まします。又、門前の罪人は、いかなる者にて、かく罪せられ候や。ねがはくは、示し給へ。』
と申せば、官人(くわんにん[やぶちゃん注:ここで初めて「にん」と振る。])、聞きて、
『其事也。惣じて諸星は、中天を主(しゆ)として、其の世界を別にす。中にも七星は、中央の大星(《だい》せい)、三千界の專星(せん《せい》)の第一なり。しかるに、近年、天運、逆にして、五穀、みのらず。飢饉・ゑきれい[やぶちゃん注:「疫癘」。流行り病い。]、多く、人馬(にんば)、道路に、うへ[やぶちゃん注:ママ。]、死ぬる事、其數(かず)、あげて、かぞへがたし。承久の初《はじめ》より、天下の政事、すなを[やぶちゃん注:ママ。]ならず、國家の政事、絕《たえ》て、君(きみ)は臣を殺し、臣は君を弑(しい)す。父は子を殺し、子は父を討つ世となり、兵亂(ひやうらん)、うちつゞき、風雨、順(じゆん)ならず。これによつて、天の怒り、甚敷(はなはだしく)、諸星、其世界に落ちて、地界に居(きよ)をしむ。かゝるほどならば、世の人民(にんみん)も種(たね)をたつべし。諸天善神、哀れみ給ひ、北辰七星(ほくしんしちせい)に命じて、暫く、地界に住して、ゑき鬼(き)をかり、遂(おひ)て、これを、いましめ、地福(ちふく)を冨饒(ふねう)にして、五穀を熟し、人民を救はむ爲に、今、爰に、來臨まします。門前の鬼形(きぎやう)ども、皆、人の命をたち、しかばねをくらふ疫神(ゑきしん)たり。粗(ほゞ)、これを、いましめ給ふといへども、佛神の威力(ゐりき)、よはく、邪神のちから、つよふして、悉(ことごと)く、かりおひ給ふ事、あたはず。此事を人民にしらしめて、諸佛諸神に祈り、大法會(だいほうゑ)をとげおこなはしめむ爲に、大地に穴をひらきて、此事を、見せしめたまふ。汝、急ぎ、歸りて、此事を一天下(いつてんか)に披露し、はやく。神威を、ますべし。』
と、つぶさに語り給へば、僧、かうべを、地に、つけ、
『われ、不肖の身をうけ、あまつさへ、無實の罪をかふむり、禁獄の者なれば、此よしを申共《まをせども》、更に、うたがひをうけて、信ずべからず。ねがはくは、いかにも正しき證據を給はりて、此事を披露し侍らむ。』
と申せば、官人、
『さらば、其事をうたがひなば、天の七星、暫く、世の靜まらんまでは、天に出づまじ。そのうへ、洛中・五畿内のうちは、ゑきれい[やぶちゃん注:ママ。]、童子の形を顯はし、死人(しにん)の骸(かばね)を取りくらふべし。此の事を告げしらせて、信(しん)を致すべし。』
と、あれば、僧、ふしぎの思ひをなし、いそぎ、もとの地に走り歸りて、又、篭にうちのり、かへり來る。」
よしを語れば、奉行をはじめ、諸人、きどくの思ひをなし、急ぎ、上(うへ)に訴へたり。
「いよいよ、その僞りなき所を見るべし。」
とて、七星をみるに、すべて、夜ごとに出《いで》ず。貞永元年[やぶちゃん注:一二三二年。]より、洛中を始めて、畿内の國々に、十四、五斗《ばかり》の童子、出《いで》て、死人を取《とり》くらふ。
これによつて、將軍家(しやうぐんけ)、鎌倉より、上洛ましまして、諸社に參詣し給ひ、一天下に命じて、「最勝經(さいせうきやう)」を轉讀有《あり》。ならびに、二十二社に奉幣使を立《たて》られ、さまざまの御祈禱(《ご》きたう)、ななめならざれば、やうやう、これより、少《すこし》、靜まりけり。
此の法師も、ゆるされて、もとの官職にふせられ、御祈禱の料(れう)として、地領を寄附せられけるとかや。
[やぶちゃん注:「將軍家、鎌倉より、上洛ましまして、諸社に參詣し給ひ」史実では、頼経は、一度だけ、上洛している。暦仁元(一二三八)年で北条泰時や連署北条時房(時政の子で泰時(八つ下)の叔父に当たる)らを率いて正月二十八日に鎌倉を出た頼経は、二月十七日に京に入り、十月十三日まで九ケ月(この年は閏二月があった)滞在した。参照した当該ウィキによれば、『この間に祖父母や両親、兄弟たちと再会した他、権中納言、検非違使別当を経て』、『一気に権大納言まで昇進、更に』六月五日には『北条時房』『らを率いて春日大社に参詣した。また、既に』正妻であった『竹御所』(頼家の娘)『が亡くなっているため、代わりとなる正室を然るべきから迎えるための候補者選定も目的であった可能性がある』とある。言わずもがなだが、無論、本篇にあるような目的ではない。]
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