西原未達「新御伽婢子」 水難毒虵
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとした。
本篇には挿絵はない。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。本篇は珍しく標題に読みがない。「水難毒虵」(すいなんどくじや)。「虵」は「蛇」の異体字。]
水難毒虵
萬治三年庚子(《かのえ》ね)五月の比《ころ》、霖雨(りんう/ながあめ)降(ふり)つゞき、大洪水して、國々、所々の田園を損亡(そんばう)し、民屋(みんおく)、爲ㇾ之(これがため)に、浪《なみ》に漂流(たゞよ)ひ、或は、親を失ひ、子に離れたる者、いくばくといふ數を不ㇾ知《しらず》。
[やぶちゃん注:「萬治三年庚子五月」一六六〇年。五月一日はグレゴリオ暦で六月八日。徳川家綱の治世。]
都、賀茂川の流れに、ひとつ家、溺れて、夜中に流れ來たる。燈(ともしび)は挑(かゝげ)ながら、女子共のなきさけぶ事、恰(あたか)も蚊虻(ふんばう/かあぶ)のごとし。
男は、大音を盡して、
「助(たすけ)給へ、淺ましや、家さへあるに、老たる親、いときなき子共迄、河水《かはみづ》のために溺死するぞや、悲しや、情なや、」
と呼(よばへ)ども、舟をも、馬も、のり入《いる》べきたよりなく、河伯・水神も賴《たよる》にいとまなければ、人、川岸(かはぎし)に立《たち》ながら、淚を添(そへ)
て、見送りけり。
其外、柱・桁(けた)・梁(うつばり)の類、はなればなれに浮沈(うきしづみ)、牛馬犬猫(ぎうばけんべう/うしむまいぬねこ)の獸(いきもの)、逆浪(さかまくなみ)に打《うち》こまるゝに、助(たすかる)事、更に、なし。
爰に河内國三固(《さん》が)村といふ所に、内介(ない《すけ》)と云《いふ》冨祐《ふいう》の人、田畑あまた持(もち)侍りしが、此洪水(おほみづ)に氣遣ひて、田地の砌(みぎり)に出《いで》て、木を橫たへ、靑竹を伏(ふせ)て、水除(みづよけ)の要害、嚴しくかこひ、
「さりとも、此かまへにては、水難にあはじ。」
と賴《たのみ》をかけて見居(《み》ゐ)たるに、降(ふり)つゞく。
急雨《きふう》の水上(みなかみ)、日々に、浪、あれて、危《あやふき》事、いふ斗《ばかり》なし。
時に、不思義の白浪、一かたまりあつて、水の面《おもて》より高く、逆浪(さかまく)事、貳丈余り、偏(ひとへ)に雪山(せつさん/ゆきの )のごとし。
彼(かの)内介が、命かけておもひし上田(《じやう》でん)の眞中(まんなか)にて、此波、泥中(でいちう)に打《うち》こむ事、凡《およそ》、壱、貳町[やぶちゃん注:百九~二百十八メートル。]も有なんとみえて、窪成(くぼく《なり》)ける。
間(ま)なく、跡より、せく水に、忽(たちまち)、田畠、池となる。
内助[やぶちゃん注:ママ。]、見るに、
「心狂し、悲しや、」
といふ一聲して、其儘、池に飛入(とび《いり》》しが、形、ひとつの蛇身(じやしん)となり、首は浪に、みえ、かくれ、尾をもつて、岸をたたき、暫(しばし)のほど、漂泊(たゞよひ)しが、又、水底(みなそこ)に入《いり》ける。
妻子、歎《なげき》て、此池に來り、「淚に袖を ほしかねて 今日の日も 命の内に」と、よみたりし。
晚鐘(いりあひ)の比になる迄に、池の面を詠《なが》め居《を》る時に、内介、昔の形に、角(つの)、生《はえ》、いかれる兩のきば、釼(つるぎ)のごとく、池水(ちすい)に、顯然(あらはれ)見えければ、妻子、おそろしながら、嬉しくあれ。
「内介。」
といふ聲の、下より、暗然として、消失《きえうせ》ぬ。
是より、此池、今にあつて、雨あらき朝(あした)、霧くらき夕《ゆふべ》、必《かならず》、内介が姿、蛇に半《なかば》はなりて、水上(すいしやう/みづのうへ)に顯はるゝを、所の人はみる事とぞ。
[やぶちゃん注:「河内國三固(《さん》が)村」言っておくと、底本では「固」の読みは、「か」であるが、現在の地名を探し、それと一致させるために、「が」とした。現在の愛知県豊田市三箇町(さんがちょう)か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]
昔、天臺の學匠肥後阿闇梨黃圓(わうゑん)、出離(しゆつり)の道を悟(さとり)かねて、五十七倶胝《くてい》六十百千歳を待《まち》て、弥勒慈尊の出世にあひ、成佛を得んに、「生としいける中に、㚑蛇(れいじや)斗《ばかり》、命長きは、なし。」と、遠州櫻井が池に身を沈め、千尋(ちひろ)の大蛇と成《なり》給ふ。法然上人は、「はかなき、あじやりの心にもあるかな。」との給ひしとぞ。此土民、わづかの泥土(でいど)をおしみて[やぶちゃん注:ママ。]、永く、畜生の穢體(きたい)にうつり、世々に至りて、待《まつ》事もなく、身をくるしめけむ、哀なる事どもなり。
[やぶちゃん注:「肥後阿闇梨黃圓」法然の師である天台僧皇圓(承保五(一〇七四)年?~嘉応元(一一六九)年)。諡号を肥後阿闍梨という。当該ウィキによれば、『熊本県玉名の出身で』、『王朝末期に』『日本最初の編年体の歴史書』「扶桑略記」を撰した人物として知られる。『弥勒菩薩が未来にこの世に出現して衆生を救うまで、自分が修行をして衆生を救おうと、静岡県桜ヶ池に龍身入定したと伝えられる。湖畔の池宮神社では秋の彼岸の中日に池の中に赤飯を奉納する「お櫃納め」の行事が営まれる。また』、『皇円を本尊として祀る熊本県玉名市の蓮華院誕生寺では、皇円大菩薩』、乃至、『皇円上人と尊称されて人々の信仰を集めている』。示寂は九十六とされる。『関白藤原道兼の玄孫(孫の孫)で、豊前守藤原重兼の子として肥後国玉名荘(現熊本県玉名市築地』(ついじ)『に生まれた。兄は少納言藤原資隆』、『母親は玉名の豪族大野氏の娘とも推測されるが』、『不明。幼くして比叡山に登り』、『椙生(すぎう)流の皇覚のもとで出家得度し』、『顕教を修め、さらに密教を成円に学び』、『二人の名前からそれぞれ一字を取り』、『皇円と称したとされる。比叡山の功徳院に住み、その広い学徳により肥後阿闍梨』『と尊称された。浄土宗の開祖である法然は、皇円の下で学んだが、その後』、『離れ』た。事績は鎌倉末期に編まれた法然に関する「拾遺古徳伝」や「法然上人絵伝」に『頼らざるを得ない』が、『それらによると』、嘉応元(一一六九)年六月十三日、『遠州桜ケ池に大蛇の身を受けて入定したとされる。平安末期に盛んとなった弥勒下生信仰』、所謂、『弥勒菩薩が釈迦入滅後』、五十六億七千万年後、『この世界に現われ』、『三度』、『説法をして』、『衆生を救済するという信仰のために、その時まで菩薩行をして衆生を救うという願いを立てたものと思われる。遠州桜ケ池は静岡県御前崎市浜岡に現存する直径約』二百メートル『余の堰き止め湖で、湖畔には瀬織津比詳命(せおりつひめのみこと)を祭神として祀る池宮神社』(ここ)『があり、桜ヶ池主神として皇円阿闍梨大龍神をも祀っている。約』十キロ『離れた応声教院』(おうしょうきょういん)『には、大蛇のウロコと称されるものが祀られている』とある。
「千尋」一尋は六尺であるから、一キロ百メートル。
「倶胝」仏語の数単位。「一倶胝」は一千万。「一億」とする説もある。]