毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海膽・ウニ・香箸貝(コウバシガイ) / ムラサキウニ
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここ。見開き全部。細部を観察し易いように百%のものをダウン・ロードし、四方をカットして、そのままの大きさで掲げた。]
「福州府志」。
海膽【「うに」。「うにかい」。】
甲螺【「延喜式」。】
霊螺子【「和名抄」。】
俗に「雲丹(うに)」・「海丹(うに)」の字、用ゆ。又、「海栗(うみぐり)」と云ふ。其の形、栗の「いが」に似れり。
「がぜ貝」【佐州方言。「がぜ」は「海膽」の古名なり。】
「をきのかんす」【阿州。】
「しほちがぜ」【遠州、荒井。】
兠貝(かぶとがひ)【「かぶと貝」。「星かぶと」。】
表 仰圖
裏 俯圖
[やぶちゃん注:以上二つは、図のキャプション。音で読んでいる可能性が高いやも知れぬが、私は「おもて、あふぐ、づ。」、「うら、うつむける、づ。」と読みたい。なお、ここで注してしまうが、この表の中央部に穴が開いているのは、この描いた個体が、最早、死ウニであることを意味する。生体のウニには、こんなぽっかりとした開口部は、無論、ない。則ち、この生物学的に頂上系と呼ばれる領域には、正常の生個体では、小さな生殖板・多孔板・終板・囲肛板によって覆われおり、そこにまた疣が点在し、而してそれらに微細な生殖孔・終板孔と、それらに比すると、やや大き目な肛門があるからである。本個体は、死んでそれらの部位が、ざっくりと抜けてしまっているのである。]
海膽、殻、圓(まろ)く、外に密刺(つの)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]あり。毬(まり)をなす。漂轉(され)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]たるは、刺(つの)、落ちて、狀(かたち)、星に似たり。兠に似れり。故に「甲貝(かぶとがい)」と云ふ。其の落ちたる角(つの)を「香(かう)ばし」と云ふ。海膽、内に、肉、無し。皆、膓(はらはた)のみなり。海膽の醤(しほから)、越前福井の産、最上とす。肥前大村、奥州仙臺の産、次(つぎ)とす。
催馬樂(さいばら)の歌に、
「みさかなには 何よけん あはび さだをか かぜ よけん」と云へり。
香箸介(こうばしがい)
倉橋勝尚、所持、之れを乞ふて、丙申八月廿六日、眞寫す。
[やぶちゃん注:棘の感じからは、
棘皮動物門ウニ綱真ウニ亜綱ホンウニ上目ホンウニ目ホンウニ亜目ナガウニ科ムラサキウニ属ムラサキウニ Heliocidaris crassispina
と思われる。因みに、私が食したウニの記憶は、一九七〇年の夏、志布志湾のホテルの敷地内の岩場で、伯父と一緒に、二、三時間もの間、採りに採った、ムラサキウニ四、五十個のこれ以上ない満腹感、それと、二〇〇九年夏、訪れた礼文島のホンウニ亜目オオバフンウニ科バフンウニ属バフンウニ Hemicentrotus pulcherrimus の養殖場の主人が、私が妻にいろいろとウニの生物学的蘊蓄を聴かせているのを傍で聴いて、「あんた、よっぽど、ウニ好(ず)きだな!」と言われて、「特別だ!」と奥から出し来て呉れた、自分用の塩水一夜漬けの卵巣が、至上の味だったことである。
「福州府志」明代の「福州府志萬歷本」の方で、著者不明。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、以下の通り、確認出来た(手を加えた)。
*
海 膽 殼圓如盂、外結密刺、肉有膏黃。土人以爲醬。
*
「うにかい」「海膽(胆)貝」。
「甲螺」これは「棘甲蠃」(音(現代仮名遣)「キョクコウラ」)或いは「甲蠃」(同前「コウラ」)の誤り。国立国会図書館デジタルコレクションのの活字本の「延喜式」巻二十四「主計上」のここの五行目に、
*
棘-甲-蠃(ウニ)・甲蠃(カゼ)各六斗。
*
という記載を見出せる。
「延喜式」平安中期の法典。全五十巻。延喜五(九〇五)年に醍醐天皇の命により、藤原時平、継いで、弟忠平らが編修し、延長五(九二七)年に完成。「弘仁式」・「貞観式」及びそれ以降の式を取捨し、集大成したもの。康保四(九六七)年に施行された。
『霊螺子【「和名抄」。】』これも「靈蠃子」(同前「レイ(リョウ)ラシ」)の誤り。「倭名類聚抄」巻第十九「鱗介部第三十」の「亀貝類第二百三十八」に(国立国会図書館デジタルコレクションのこちら)、
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靈蠃子(ウニ) 「本草」に云はく、『靈蠃子【「漢語抄」に云はく、『𣗥甲蠃は「宇仁(うに)。」と。】、貌(かたち)、橘(たちばな)に似て、圓(まど)かなり。其の甲、紫色にして、芒角(ばうかく)を生ずる者なり。』と。
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「雲丹(うに)」「海丹(うに)」通常は、これらはウニの卵巣を加工した塩蔵品(塩辛)を指す。
『「がぜ貝」【佐州方言。「がぜ」は「海膽」の古名なり。】』「佐州」は佐渡国。ウニの古語「がぜ」の語原はよく判っていない。現在、地方によってはヒトデもガゼと呼ぶ。私は古くは棘(とげ)の短いものも長いものも(普通のヒトデでも体表に細かな凸部を持つ)、皆、かく呼んでいたのではないかと考えている。触ってツンツンした感触があるものから、刺せば、激しく痛む棘の長い種をひっくるめて、かく呼んだのではなかろうか。
『「をきのかんす」【阿州。】』「阿州」は阿波国。「沖の管子」か。細い尖った折れやすい中空の棘を針治療の「管」に擬えて、かく言ったか。
『「しほちがぜ」【遠州、荒井。】』「遠州、荒井」現在の静岡県湖西(こさい)市新居町(あらいちょう)か(グーグル・マップ・データ。浜名湖の海開部の西部分)。
『兠貝(かぶとがひ)【「かぶと貝」。「星かぶと」。】』図の下方の、棘が抜け落ちた死殻を見れば判る通り、また、梅園も説明するように、鋲を、さわに打って強化した兜(かぶと)の鉢に似ていることから。
「密刺(つの)」全体に、概ね、密(み「つ」)に鋭い棘状の角(つ「の」)が生えているのだから、当て読みとしても、言い得て妙ではある。
「漂轉(され)たる」風波に曝された。
「香(かう)ばし」高価な香道のごく小さな香を、必要なだけ、僅かに挟むものに似ているというのは、雅びな名ではないか。
「催馬樂の歌に」『「みさかなには 何よけん あはび さだをか かぜ よけん」と云へり』「催馬樂」は雅楽の曲種名。平安時代に起こり、宴遊の際に演奏された歌曲。当時の民謡などをもとにして、雅楽風な旋律にのせて、雅楽楽器の伴奏をつけたものだが、十五世紀頃には、殆んどが廃絶した。今日、雅楽の一種として宮内庁楽部に伝承されてはいるが、これは十七世紀以降に復興されたものである。なお、催馬楽の語源については定説がない。「伊勢海》《更衣》などの曲がよく知られる。サイト「紅玉薔薇屋敷の秘密」の「催馬楽篇(その三)」の中に、
*
我家
我が家は 帳(とばり)帳(ちょう)も垂れたるを
大君来ませ 婿にせむ
御肴(みさかな)に 何良けむ 鮑(あわび)栄螺(さだを)か
石陰子(かせ)良けむ
鮑栄螺か 石陰子良けむ
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とあった(現代語訳もあり)。これを含め、全体を読むに、実は歌詞の裏に極めて性的な含みが濃厚にあることが判る。
「倉橋勝尚」「倉橋尙勝」が正しい。既注であるが、再掲すると、本カテゴリで最初に電子化した『カテゴリ 毛利梅園「梅園介譜」 始動 / 鸚鵡螺』に出る、梅園にオウムガイの殻を見せて呉れた「倉橋尚勝」であるが、彼は梅園の同僚で幕臣(百俵・御書院番)である(国立国会図書館デジタルコレクションの磯野直秀先生の論文「『梅園図譜』とその周辺」(PDF)を見られたい)、
「丙申八月廿六日」天保七年八月二十五日。グレゴリオ暦一八三六年十月五日。]
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