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2022/09/17

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その4)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇は長いので、分割する。

 なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……

 

 

 こんな事が外國へ聞こえては、大きな國辱といふ人も有らんかなれど、そんな國辱は、どの國にもある。西洋にも人柱が多く行はれ、近頃まで、其實跡、少なくなかつたのは、上に引いたベーリング・グールド其他の民俗學者が證明する。二、三例を手當り次第列ねると、ロムルスがロ-マを創《はじ》めた時、フスツルス、キンクチリウス、二人を埋め、大石を覆ふた。カルタゴ人はフヰレニ兄弟を國界に埋めて護國神とした。西曆紀元前一一四年、羅馬が、まだ共和國の時、リキニア外二名の齋女《さいぢよ》、犯戒して男と交はり、連累、多く、罪せられた體《てい》、吾が國の江島騷動の如し。この不淨を祓はん爲め、ヴェヌス・ヴェルチコルジアの大社を立《たて》た時、希臘人二人、ゴール人二人を生埋《いきうめ》した。コルムバ尊者がスコットランドのヨナに寺を立てた時、晝間仕上げた工事を、每夜、土地の神が壞すを、防ぐとて、弟子一人(オラン尊者)を生埋にした。去《さ》れば、歐州が基督敎に化した後も、人柱は、依然、行はれたので、此敎は一神を奉ずるから、地神などは、薩張《さつぱ》りもてなくなり、人を牲に供えて[やぶちゃん注:ママ。]地神を慰めるてふ考へは、追々、人柱で土地の占領を確定し、建築を堅固にして、崩れ動かざらしむるてふ信念に變つた、とベ氏は說いた。是に於て、西洋には基督敎が行渡《ゆきわた》つてから人柱は、すぐ、跡を絕たなんだが、之を行ふ信念は變つた、と判る。思ふに、東洋でも、同樣の信念變遷が、多少、有つただらう。

[やぶちゃん注:「ロムルスがロ-マを創めた時」伝承では紀元前七五三年に初代ローマ王ロムルスが建国したとされる。

「齋女」神に仕える未婚の若い女性。本邦では「いつきめ」と訓ずる。

「江島騷動」江島生島(いくしま)騒動。江戸中期の正徳四年一月十二日(一七一四年二月二十六日)、時の第七代将軍家継の生母月光院に仕える大奥御年寄の江島(絵島とも)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者千四百名が処罰された綱紀粛正事件。江島は高遠藩お預け、生島は伊豆大島へ遠島となった。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「ゴール人」ガリア人。「ガリア」は現在のフランス・ベルギー・北イタリアなど一帯の地名で、そこに住んでいた先住民(ケルト人(=ガリGalli)が主体)を指すローマ時代の呼称。フランス語では「ゴール」(Gaule)となる。紀元前三世紀初めから前二世紀初めに、ローマ人が、その一部を征服、カエサルの遠征により、ほぼ全域がローマ領となった。

「コルムバ尊者」聖コルンバ(Saint Columba 五二一年~五九七年)はアイルランド出身の修道僧で、スコットランドや北部イングランド布教の中心となったアイオナ修道院(Monastery of Iona:以上の本文の「ヨナ」はここ)を創設した。]

 なほ、基督敎一統後も、歐州に人柱が行なわれた二、三の例を擧げれば、ヘンネベルグ舊城の壁額(レリーヴィング・アーチ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。]には、重賞を受けた左官が自分の子を築《つ》き込んだ。其子を壁の内に置き、菓子を與へ、父が梯子に上り、職工を指揮し、最後の一煉瓦で穴を塞ぐと、子が泣いた。父、忽ち、自責の餘り、梯子から落ちて頭を潰した。リエベンスタイン城も同樣で、母が、人柱として、子を賣つた。壁が、段々、高く築き上げらるゝと、子が「かゝさん、まだ、見える。」、次に「かゝさん、見えにくゝなつた。」、最後に「かゝさん、もう、みえぬ。」と叫んださうだ。アイフェルの一城には、若い娘を壁に築き込み、穴一つ、あけ殘して、死ぬまで、食事を與へた。オルデンブルグのプレクス寺(無論、キリスト敎の)を立てるに、土臺、固まらず、由《よつ》て、村吏、川向ふの實婦の子を買つて、生埋にした。一六一五年(大阪落城の元和元年)、オルデンブルグのギュンテル伯は、堤防を築くに、小兒を人柱にする處へ行合《ゆきあは》せ、其子を救ひ、之を賣つた母は禁獄、買つた土方親方は、大《お》お[やぶちゃん注:ママ。]目玉、頂戴。然るに、口碑には、此伯、自身の城の土臺へ、一小兒を生埋にしたといふ。以上は、英人が、獨逸の人柱の例斗《ばか》り、書き集めた多くの内の四、五例だが、獨人の書いたのを調べたら、英、佛等の例も多からうが、餘り、面白からぬことゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、是だけにする。兎に角、歐州の方の人柱のやり方が、日本よりも、殘酷極まる。其歐人、又、其子孫たる米人が、今度の唯一の例を引いて、彼是れいはゞ、是れ、百步を以て、五十步を責《せむ》る者だ。

[やぶちゃん注:「選集」は以上で第「四」章が終わっている。

「ヘンネベルグ舊城」ドイツのハイデルベルク城(Heidelberger Schloss)。

「レリーヴィング・アーチ」relieving arch。「隠しアーチ」。ドアや窓の鴨居等にかかる力を分散させるアーチで、通常、壁に埋め込まれている。

「アイフェル」Eifel。ドイツ西部からベルギー東部にかけて広がる標高の低い山地。多くの中世の城跡があることで知られる。

「オルデンブルク (Oldenburg (Oldb))は、ドイツのニーダーザクセン州北西部に位置する代表的な都市である。

「プレクス寺」不詳。]

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