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2022/09/26

西原未達「新御伽婢子」 梭尾螺

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 なお、本篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     梭尾螺(ほらの《かひ》)

 往昔(そのかみ)、松前に下りし人の語りしは、或山里に、旅店(りよてん)、求(もとめ)て、常ならず、日高(ひだか)なれば、寢もいられず、亭主を招(まねい[やぶちゃん注:ママ。])て、

「上がたになき、珍らしき事や、ある。」

と、万(よろづ)の物がたりさせて、聞《きく》に、だみたる聲の、言舌(ごんぜつ)ふつゝかなるぞ、先(まづ)、可笑(をかしき)。

「此所《ここ》の、さま後(うしろ)に、嶮岨(けんそ)の山、つゞきて、右へ遠く、左の方《かた》は、此山のとまりにて、尾さき、すさまじく、卓々(たくたく)たる岩かど、尖(とがつ)て、釼(つるぎ)のごとく、十町斗《ばかり》こなたに、入江の崩口(くづれ《ぎち》)有《あり》、そばだつ事、三町斗、手きゝの工(たくみ)に、鉋(かんな)もて、けづらせたるに、ひとし。此山上に至(いたつ)て、爰《ここ》を覗(のぞか)ば、いかに心つよき者も、目くれて、水に落《おち》ぬべし。」

[やぶちゃん注:「此所《ここ》の、さま後(うしろ)に」以下は、ここの附近の地勢の細部が描写されていることから、「旅店」=「宿」の亭主の台詞である。

「さま後」真後ろ。後背。

「卓々たる」ひときわ高く抜きんでているさま。

「十町」約一キロ九十一メートル。

「三町」約三百二十七メートル。]

「地震なんどにぞ、斯(かく)崩れたるものなるべし。」

と、とふに、亭主、語つて、

亭主「いくとせに成《なり》とも不ㇾ知《しれず》、某(それがし)の祖父(そぶ[やぶちゃん注:ママ。])にて在し者の語り侍る。是より北一里の間は、民家、多く續(つづい)て、數百軒(《すひやく》けん)、宮寺、有り。士農工商、有《あり》て榮(さかふ)る事、晝夜、市中(し《ちゆう》)のごとし。

 或時、何法眼(《なんのほふ》げん)とかやいふ名醫、此所《ここ》に一宿し給ふ。

[やぶちゃん注:「法眼」中世の以降の武家時代に医師・絵師・連歌師・儒者などに授けた称号。]

 既に寢所に入《いり》て、自(みづから)兩手を拳(にぎつ)て、脉《みやく》をうかゞふに、雀啄屋漏(じやくだくをくろう[やぶちゃん注:ママ。])の死脉、あらはる。

[やぶちゃん注:「雀啄屋漏」「死脈」「雀啄」は雀が物を啄(ついば)むようなリズムを指すか。鍼術で「雀啄術」というのがあり、サイト「東京都はり灸マッサージ師会」のこちらによれば、『直に(まっすぐに)鍼を下し、鍼尖を止める深さは患者の感受性と部位の状態に適宜したがうようにする。適当な深さまで鍼尖を進み入れたら、雀がチョクチョクと餌を啄むように連続的に鍼を上下させる。呼吸四五息も抜き刺ししたら、鍼尖をすっかり離して少し休んでから、またチョクチョクと抜き刺しする。たびたびこの様に抜き刺しして、最後によく捻ってから、直に鍼を引き抜き、鍼痕を速やかに閉じる』とあった。さすれば、緩急或いは間歇のある不整脈のように思われる。「屋漏」同前で、「屋漏術」がやはりあり、『まず鍼を五分ほど直に皮毛の分に刺入し、呼吸五六息ほど鍼を捻り天部の気をうかがってから、呼吸五六息ほど雨漏りの落ちるように荒く鍼を抜き刺しする。また鍼を五分ほど肌肉の分に刺入し、同じく鍼を捻り人部の気をうかがってから、荒く抜き刺しする。また更に鍼を五分ほど筋骨の分に刺入し、同じく鍼を捻り地部の気をうかがってから、荒く抜き刺しする』。『引き抜く時もまた、五分ほど直に引き、鍼を捻った後、荒く抜き刺し、また五分ほど引き、鍼を捻った後、鍼を抜き去り痕を閉じる』とあった。文字通り、雨漏りの雫のリズムで、早い脈を言うか。さらに調べると、「死脈」は日本鍼灸研究会の中川俊之氏の論文「死脈の変遷について」(『日本医史学雑誌』第 六十四巻第二号・二〇一八年発行・PDF)によれば、死脈は、脈の打ち方それ自体が、予後不良を表わす脈状を指すとあり、その論文中にも「雀之啄」「雀啄」と「屋之漏」「屋漏」の死脈が挙げられてあった。さらに、「J-Stage」のこちらからダウン・ロード出来る中谷義雄(なかたによしお)氏の論文「脈診」(『良導絡』第千九百六十六巻 ・一九六六年 ・百二十三号)を発見、そこに、「雀啄」は、『連続に三〜五回脉動がきて一呼吸程、脉動がなく又三〜五回脉動すると云う様に、丁度雀が物をつゝき食べる様にくる脉が現われると、四〜五日はもつが死亡することが多い。これは』、『脾』・『腎』『の機能が全く減退したからである』とあり、「屋漏」は、脉が不整脈を呈し、二呼吸の間に一動したり、雨漏の様に連なりてきたりする様な脉を云う。これも』『胃』『の機能が全く減退した為に死亡する』とあった。]

「恠(あやしい)かな、心神、安くして、更に病(やまひ)なし。」

と、重(かさね)て診(しん)するに、更(さらに)、止(やむ)事なく、死期(しご)近きにあり、と覺ゆ。

 若黨(わか《たう》)・仕丁(してう)其外、家(いへ)の彼是(かれこれ)、集(あつめ)て、脉を診するに、或《あるい》は、彈石(だんせき)、或《あるいは》、魚翔(ぎよしやう)、鰕遊(か《いう》)の脉、出(いで)て、皆、死脉ならぬは、なし。

[やぶちゃん注:「彈石」「魚翔」「鰕遊」総て中川氏の上記論文に載り、再び、中谷先生の前掲論文から引用すると、「弾石」は、『脉は硬く石を弾くが如く強く感じる脉、これは』『腎』『と』『肺』『の機能が全く減退したからである』とあり、「魚翔」は、『指にふれる様な、ふれない様な、脉動は早く去り、次の脉の来るのが遅い。寸部』(右手の手首附近を言う。当該論文の中に図有り)『では脉を感じないで魚の尾だけが、ひらひらと動く形に似ているのでこの名がある』。『腎』『の機能の全く減退した場合に起る』もので、『六時間以上はもたないことが多い』とあり、「鰕遊」は「蝦遊」で出、『浅く細長くふれる静かな中で一度脈動が強くふれているかと思うと又いつの間にかふれなくなる、蛙が水中にあって、にわかに水の底に入り』、『また』、『水の面にあらわれてきた様な感じの脉を云う』。『脾』・『胃』『の機能の全く減退した時に起る。この様な脉を呈すると間もなく死亡する』とあった。なお「蝦」には、「ひきがえる」の意がある。]

「扨は。此家か、若(もし)は、此里か、廣(ひろく)は、一國、同時に、天災にあふ事。必定(ひつ《ぢやう》)。遁(のがれん)には。」

と、亥の刻斗《ばかり》、俄《にはか》に宿(やど)を出《いで》て、道々、駕籠(のりもの)の内にして、自身の脉を見給ふに、壱里此方(こなた)の此山里にて、更に、本脉(ほんみやく)出《いで》たり。

 供の者をうかゞふに、敢(あへ)て、死脈、なし。

 是に驚き、宿の一家・親(したし)き者にも語り、聞せるより、一在(《いち》ざい)、ふれわたりて、周章(しうしやう)す。

 律義なるは、忽(たちまち)、所を去り、信用せざる者は、

「何條(なんでう)、ことなる事、あらん。」

と咋(あざわらひ)て、出ぬ者も、數多(すた[やぶちゃん注:ママ。])なりし。

 其夜の、子の刻の終(をはり)にや、西の方《かた》の高山(かうざん)、鳴(なり)ひゞく事、誠《まこと》に、大山《おほやま》、崩(くずれ)て、海に入《いるる》事なれば、喩(たとへ)をとるに、物、なし。

 此響(ひゞき)、近鄕、二、三里に動滛(どうよう)[やぶちゃん注:ママ。]するとひとしく、山、ふたつに碎(くだく)ると覺えし。

[やぶちゃん注:この「滛」の字には「搖」との同義はなく、「浸す・恣(ほしいまま)・ 淫(みだら)」の意で、代字としては相応しくない。]

 幾憶(いく《おく》)、限(かぎり)なき、ほらの貝、うねり出《いで》て、草木土石(さうもくどせき)、打交(《うち》まじり)、民家の上に覆《おほ》ひかゝりしに、「津波」といふ物、沖より、うつて、今、殘りたる岸(きし)を限(かぎり)に、一時(《いち》じ)に大海に打こみ、一物(《いち》もつ)も、殘らず、なりぬ。

 死たる人、かぞふるに、いとまなし。

 其外、牛馬犬鷄(ぎうばけんけい/  いぬにはとり)、山を家《いへ》とする狐狸兎猿(こりとゑん/きつねたぬきうさぎさる))此ひゞきに、驚き、岩に隱れ、木にのぼれ共《ども》、大地の根(ね)をたつて、崩(くづ)し行《ゆく》。

 波に遁去(のがれさる)便(たより)もなく、卽時に滅沒(めつぼつ)して、夢に夢見るありさま也し。

 それより、かく、家、なく、人、なく、あれ果(はて)て、さはがしき松の風、波の音のみ、枕にかよひて、近きわたりの在々所々にも、柴薪(しばたきゞ)を市(いち)にひさぐ、便りなく成《なり》て侍る。」

と語りしとぞ。

[やぶちゃん注:崩落・地震・津波をメインとした災害型怪奇談で、最後まで読ませる、優れた一篇である。標題を「梭尾螺(ほらの《かひ》)」(底本は「かひ」を「かい」とする)の割に出番は、「幾憶(いく《おく》)、限(かぎり)なき、ほらの貝、うねり出《いで》て」というワン・シーン(或いはカット・バック)だけであるが、これは無論、海産の、本邦の貝類では最大級クラスにランク・インする、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis

である。まず、漢名である「梭尾螺」であるが、「梭」は「ひ」(「杼」とも書く)で織機の付属用具の一つである、シャトルのことである。緯(よこ)糸とする糸を巻いた管を、舟形の胴部分の空所に収めたもので、端から糸を引き出しながら、経(たて)糸の間を左右に潜らせるためのもの。滑らかに確実に通すために舟形の左右が尖っており、ホラガイは著しく大きく、螺頂が尖っているのが目立つ類似性と、螺頂を古人が貝殻の「尾」部と認識したことによる命名と思われるが、そもそもが、腹足類(巻貝類)には螺頂が高く尖っているものは多く、ホラガイのような長巨大なそれよりも、寧ろ、中小型の別種の複数の種の方が「梭」の尾には似ており、実際に「梭」に遙かに酷似した、ズバリ、

吸腔目タカラガイ上科ウミウサギガイ科ヒガイ(梭貝)属ヒガイVolva volva habei

がおり、この漢名は私には全く腑に落ちないのである。次に、「何で地震で、法螺貝が山の中から出るねん?」とおっしゃる方は多かろうと思う。実は、山の崩落や地震時には、本邦では――妖怪のように――山から――法螺貝が出現する――ことが、江戸以前の民俗社会ではかなり頻繁に語られたのである。山に年経た海の法螺貝が住んでおり、それが神通力を得て、龍となって昇天するという「出世螺(しゅっせぼら)」伝承は、実はかなりメジャーで日本各地に残っているのである。というより、ちゃんとした本草書である貝原益軒の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 梵貝(ホラガイ)」でさえも、例外ではないのである。そこで益軒先生でさえ(太字は私が附した)、『今、按ずるに、俗に「ほらの貝」と云ふ。大螺なり。佛書に法螺(ほうら)と云ふ、是なり。海中、或いは山土の内にあり。大雨ふり、山くづれて、出(いづ)る事あり。大に鳴れりと云ふ。本邦、昔より軍陣に用(もちひ)て之を吹く。「源平盛衰記」に見ゑたり。佛書「賢愚經」にも、軍に貝を吹(ふく)こと、あり。亦、本邦の山伏、これを、ふく』とあり、さらに畳みかけるように、『後土御門院明應八年六月十日(ユリウス暦一四九九年七月十八日)、大風雨の夜、遠州橋本の陸地より、法螺の貝、多く出て、濵名の湖との間の陸地、俄(にはか)にきれて、湖水とつゞきて、入海(いりうみ)となる』というトンデモはっぷんの解説を大真面目でやらかしているのでも、お判り戴けるであろう。図入りのものでは、解説を上記の「大和本草」から殆ど丸ごと剽窃している『毛利梅園「梅園介譜」 梭尾螺(ホラガイ)』がよかろうが、「何で、山の中から法螺貝が?」という疑問には、人がまず立ち入らない深山に山伏の吹く法螺貝が置かれているのを、たまたま目撃したのを、「生きた法螺貝が山の中にいる」という錯誤を生んだというのが、最も無理がなく、納得出来るものと思う。或いは、本邦では先史時代より前の隆起によって貝の化石が山間部からもよく出土することとも関係すると思われる。ホラガイの化石が頻繁に出るというのは聴かないのだが、多数の貝化石が山中から出土すること自体が、近世以前の人間にとっては、それだけで怪奇であり、それは、容易に「巨大な貝の石に化けた奴らの親玉妖怪が、山中の洞穴辺りの中にきっといるに違いない。とすれば、それはもう、あの大きな法螺貝に決まってるぜ!」という連想に発展することは、極めて腑に落ちるのである。さらに、山伏が山中で吹くそれは、異様な音として、遠くまで響き、それが山崩れの音や現象と、幻想上の相似性を持って認識されたというのも、異論はあるまい。具体に妖怪としてのそれを見るなら、例えば、私の電子化物では、「佐渡怪談藻鹽草 法螺貝の出しを見る事」、或いは、同書の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」や、「三州奇談卷之五 縮地氣妖」がある。なお、この話のモデルになった地震は不明である。本書は天和三(一六八三)年刊であるが、旅宿の亭主の祖父の記憶に基づくとしていること、松前藩が立藩してからのことと推定出来るので、その必要条件を満たし、被害の生じた津波が発生した地震は、慶長十六年十月二十八日(一六一一年十二月二日)に発生した「慶長奥州地震」である。主に被害を受けたのは現在の青森県・岩手県・宮城県で、地震の規模は諸説あるが、マグニチュード八・一と当該ウィキにはある。但し、この時に発生した津波が松前を襲ったかどうかも判らないし、松前藩内の海浜で大規模な山崩れが発生したという話も調べ得なかった。逆に、ウィキでは、『この地震において、現在の三陸海岸一帯は強震に見舞われたが、太平洋側沿岸における震度は』四~五『程度と推定され、地震による被害はほとんどなく、津波による被害が大きかったことから津波地震と推定されている』とあるので、松前で山崩れが起きた可能性は限りなくゼロに近い。ただ、本篇が「津波」を語っている点では、モデルであったという感じはする。]

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