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2022/09/15

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その1)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇は長いので、分割する。

 なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下)   南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……

 

     人 柱 の 話(大正十四年九月變態心理第十六卷第三號)

 

        (南方閑話にも收めたれど、一層增補したる者を爰に入る)

 

 建築、土工等を固めるため、人柱を立てる事は、今も或る蕃族に行なはれ、其傳說や古蹟は文明諸國に少なからぬ。例せば、印度の土蕃《どばん》が現時も之を行なふ由、時々、新聞にみえ、ボムパスのサンタル・パーガナス口碑集に、王が婿の强きを忌んで、畜類を供えて[やぶちゃん注:ママ。]も水が湧かぬ涸池《かれいけ》の中に乘馬のまゝ婿を立《たた》せると、流石は勇士で、水が湧いても退かず、馬の膝迄きた、吾が膝まできた、背迄きたと唄ひ乍ら、彌々《いよいよ》水に沒した、その跡を追つて、妻も亦其池に沈んだ話がある。源平盛衰記にも又、淸盛が經《きやう》の島を築く時、白馬白鞍《はくばしろくら》に童《わらは》を一人のせて人柱に入れたとあれば、乘馬の儘の人柱も有つたらしい。但し平家物語には、人柱を立てようと議したが、罪業を畏れ、一切經《いつさいぎやう》を石の面《おもて》に書いて築いたから經の島と名づけた、とある。

[やぶちゃん注:「土蕃」土着の先住民。未開の野蛮人のニュアンスを附帯するので死語とすべきレベルの単語である。

「ボムパスのサンタル・パーガナス口碑集」イギリス領インドの植民地統治に従事した高等文官セシル・ヘンリー・ボンパス(Cecil Henry Bompas 一八六八年~一九五六年)と、ノルウェーの宣教師としてインドに司祭として渡った、言語学者にして民俗学者でもあったポール・オラフ・ボディング(Paul Olaf Bodding 一八六五 年~一九三八 年)との共著になる‘ Folklore of the Santal Parganas ’ (「サンタール・パルガナス」はインド東部のジャールカンド州を構成する五つの地区行政単位の一つの郡名)。「Internet archive」のこちらにあるが、そこでは書誌にボディングが共著者として記してあるものの、原本(一九〇九年版)には、ボディングの名はない。

「源平盛衰記にも又、淸盛が經《きゃう》の島を築く時、白馬《はくば》白鞍《しろくら》に童《わらは》を一人のせて人柱に入れたとあれば」当該ウィキによれば、「経が島」(きょうがしま)は『日宋貿易の拠点である大輪田泊(摂津国)に交易の拡大と風雨による波浪を避ける目的で築造された人工島』で、承安三(一一七三)年竣工。『その広さは』「平家物語」に『「一里三十六町」とあることから』三十七『ヘクタールと推定されている。経ヶ島・経の島とも書く。後世、兵庫津にちなんで兵庫島とも称された』。塩槌山(しおづちやま)を『切り崩した土で海を埋め立てた。工事の際、それが難航したために迷信を信じる貴族たちが海神の怒りを鎮めるために人身御供をすることになる。一説には、平清盛は何とか人柱を捧げずに埋め立てようと考えて、石の一つ一つに一切経を書いて埋め立てに使う(経石)。その後、事故などもなく』、『無事に工事が終わったため』、『お経を広げたような扇の形をしたこの島を「経が島」と呼ぶようになったとされる』。但し、『実際の工事は清盛生存中には完成せず、清盛晩年の』治承四(一一八〇)年には『近隣諸国や山陽道・南海道に対して人夫を徴用する太政官符が出され、最終的な完成は平家政権滅亡後に工事の再開を許された東大寺の重源によって』建久七(一一九六)年に『なされたとされている』。「平家物語」では、『清盛自身、死後に円實という僧によって経が島に埋葬されたと記述されている』。『現在では、度重なる地形変化等により場所が特定できずにいるが、おおよそ神戸市兵庫区の阪神高速』三『号神戸線以南・JR西日本和田岬線以東の地であるとみられており、松王丸の石塔が伝えられている兵庫区島上町の来迎寺(築島寺)』(しまがみちょう)『周辺とする説もある』とある(後者はここ)。「源平盛衰記」の第二十六の「入道非直人附慈心坊得閻魔請事」(入道、直人(ただびと)に非ず付(つけたり)慈心坊閻魔の請(じやう)を得る事)の冒頭部。今回は、サイト版の注と差別化させるために、国立国会図書館デジタルコレクションの同和装本の書当該部のここから視認して、訓読し、カタカナをひらがなに直して電子化した。読みは一部に留め、私が漢字を正字化したり、歴史的仮名遣を訂したり、勝手に送り仮名や読みを添えた部分もある。

   *

 一年、吉社(ひよしのやしろ)へ參られけるにも、上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)、數多(あまた)、遣し、連れなどして、一の人の賀茂・春日などへ、御參詣あらんも、加程の事はあらじとぞ覺えし。社頭にして、千人の持經者(ぢきゃうしや)を請じて、供養あり。社々(やしろやしろ)に神馬(じんめ)を引(ひか)れ、色々の神寶(じんほう)を奉(たてまつ)らる。七社權現、納受(なふじゆ)して、緋玉墻(あけのたまがき)、色(いろ)を添(そへ)、一乘讀誦の音(こへ)、澄みて、和光の影も長閑(のどか)也。ゆゝしく目出(めでた)かりし事共也。

 又、福原の「經嶋(きやうたう)」、築(つ)かれたりし事、直人(ただびと)のわざとは覺えず。彼(か)の嶋をば、阿波民部大輔成良(あはのみんぶのたゆうなりよし)が承(うけたまは)つて、承安二年癸巳歲(みづのとみのとし)、築き初めたりしを、次の年、南風(なんふう)、忽ちに起つて、白浪、頻りに扣(たた)きしかば、打ち破られたりけるを、入道、倩(つらつら)、此の事を案じて、

「人力(じんりき)、及び難し。海龍王を可宥(なだ)め奉るべし。」

とて、白馬(はくば)に白鞍(しろくら)を置き、童(わらは)を、一人(ひとり)、乘せて、人柱(ひとばしら)をぞ入れられける。其の上、又、

「法施(ほつせ)を手向(たむ)け奉るべし。」

とて、石面(せきめん)に「一切經」を書寫して、其の石を以つて、築(つい)たりけり。誠に、龍神、納受(なうじゆ)有けるにや、其の後ちは、恙(つゝが)なし。さてこそ、此の島をば、「經島(きやうのたう)」とは名付けたれ。上下、往來(わうらい)の船の恐れなく、國家の御寶(みたから)、末代の規模也。唐國(たうごく)の帝王まで聞(きこ)え給つゝ、「日本輪田(にほんわだ)の平親王(へいしんわう)」と呼びて、諸(もろもろ)の珍寶を送くらる。帝皇(てうわう)へだにも參らざるに、有り難き面目(めんぼく)なりき。(以下略)

   *

「平家物語には、人柱を立てようと議したが、罪業を畏れ、一切經《いつさいぎやう》を石の面《おもて》に書いて築いたから經の島と名づけた、とある」「平家物語」巻六の「築嶋」「平家物語」巻六の清盛入道死去直後のパート。今回は同前で、所持する「新潮古典集成 平家物語 中」の本文を参考に、漢字を恣意的に正字化して示した。

   *

 葬送の夜(よ)、不思議の事ども、あまたありき。玉をみがき、金銀をちりばめ造られし西八條殿、その夜、にはかに燒けにけり。人の家の燒くるは、つねのならひなれども、いかなる者のしわざにやありけん、

「放火。」

とぞ聞えし。

 また、その夜、六波羅の南にあたつて、人ならば、二、三十人が聲して、

〽嬉(うれし)や 瀧の水

〽鳴るは 瀧の水

〽日は照りとも たえず

と拍子(ひやうし)をいだし、舞ひ、をどり、

「どつ」

と、笑ふ聲、しけり。去(い)んぬる正月、上皇、かくれさせ給ひて、天下、暗闇(くらやみ)になりぬ。わづかに一兩月をへだてて、入道相國、薨(さう)せられぬ。あやしの賤(しづ)の男(を)、賤の女(め)にいたるまで、いかでうれひざるべき。

「これは、いかさまにも、天狗の所爲(しよゐ)。」

といふ沙汰あり。平家の侍(さぶらひ)どものなかに、はやりをの[やぶちゃん注:血気にはやる。]若者ども、百餘人、笑ふ聲について、たづね行きて見ければ、院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に、この二、三年は院もわたらせ給はず、御所預りの備前前司基宗(びぜんのぜんじもとむね)といふ者あり。基宗、あひ知つたる者ども、二、三十人、夜に紛れて來たり集まり、はじめは、

「かかるをりふしに、音な、しそ。」

とて、酒を飮みけるが、次第に飮み醉(ゑ)ひて、さまざま舞ひをどりけるとかや。押し寄せて[やぶちゃん注:主語は「はやりをの若者ども」。]、酒にける者ども、一人ももらさず、三十人ばかりからめて、六波羅へ參り、前(さき)の右大將宗盛卿のおはしけるまへの坪の内にぞひつすゑたる。事の仔細をよくよくたづね聞き給ひて、

「げにもさ樣に醉ひたらん者は、切るべきにもあらず。」

とて、みな、ゆるされけり。

 人の失ぬるあとには、いかなるあやしの者も、朝夕(あさゆふ)に、磬(けい)、うち鳴らし、例時(れいじ)、懺法(せんぽふ)[やぶちゃん注:懺悔(さんげ)を行う法を指す。]讀む事は、つねのならひなれども、入道相國は死せらてのちとても、供佛、施僧のいとなみといふことも、なし。ただ、朝明けても、暮れても、いくさ合戰のはかりごとのほかは、他事、なし。

 およそは、最後の所勞のありさまこそ、うたてけれ共ども、まことには、ただ人(びと)とも覺えぬ事ども、おほかりける。日吉の社へ參り給ひしときも、他家の公卿、多く供奉(ぐぶ)して、

「籙臣(ろくしん)[やぶちゃん注:摂政・関白を指す語。]の春日の御參籠(ごさんろう)・宇治入(うぢいり)[やぶちゃん注:摂政・関白が氏平等院に就任後に初めて参入することを指す。]なんどといふとも、いかでかまさるべき。」

とぞ、人、申しける。また、何事よりも、福原の經の島、築(つ)いて、今の世にいたるまで、上下往き來(き)の船のわづらひなきこそ、めでたけれ。かの島は、去んぬる應保元年[やぶちゃん注:一一六一年。但し、改元はこの年の九月。]二月上旬に築きはじめられたりけるが、同じき八月に、にはかに、大風(おほかぜ)、吹き、大波たちて、搖(ゆ)り失ひてき。同じく三年三月下旬に、阿波の民部成能(しげよし)を奉行にて、築かせられけるが、

「人柱、たつべし。」

なんど、公卿、僉議ありしかども、

「それは、罪業なり。」

とて、石の面(おもて)に「一切經」[やぶちゃん注:「大蔵経」。但し、その一部を書いたということであろう。]を書きて、築かれたりけるゆゑにこそ、「經の島」とは名づけられけれ。

   *

 以下、「……白蟻を招き害を加ふる術ある樣にきく。」(「選集」ではここまでが、第「一」章である)までは、底本では全体が一字下げである。長いが、附記のつもりであるらしい。

 今少し印度の例を擧げると、マドラスの一砦《いちとりで》は、建築の時、娘一人を壁に築《つ》き込んだ。チユナールの一橋は何度かけても落ちたから、梵種の娘を、其地神に牲《にへ》にし、其れがマリー、乃《すなは》ち、其處《そこ》の靈と成り、凶事ある每に祭られる。カーチアワールでは、城を築《きづ》いたり、塔が傾いたり、池を掘るも、水が溜らぬ時、人を牲にした。シカンダールブール砦《とりで》を立てた時、梵種一人とズサード族の娘一人を牲にした。ボムベイのワダラ池に水が溜らなんだ時、村長の娘を牲にして水が溜つた。シヨルマット砦建立の際、一方の壁が繰返し落ちたので、或る初生の兒を生埋《いきうめ》すると、もはや、落ちなんだといふ。近頃も人口調査を行なふ每に、僻地の民は、是は橋等の人柱に立てる人を撰ぶ爲めだと騷ぎ立つ。河畔の村人は橋が架けらるゝ每に、嬰兒を人柱に取られると驚惶する(一八九六年版、クルック北印度俗宗及《および》俗卷二卷頁一七四。一九一六年版、ホワイトヘッド南印度村神誌六〇頁)。

[やぶちゃん注:以上の地名等は、私には労多くして益少なきによって調べない。後の段落でも同じとする。悪しからず。

「梵種」後のクルックの原本の“Brâhman girl”から、「カーストのバラモンの娘」の意である。

「ズサード族」不詳。

「初生の兒」新生児。

「クルック北印度俗宗及《および》俗卷二卷頁一七四」イギリス人のインド高等文官で東洋学者であったウィリアム・クルック(William Crooke 一八四八 年~一九二三年)の‘The Popular Religion and Folk-lore of Northern India’。「Internet archive」のこちらが当該部。そこで以上の地名の原綴りが判る。位置を知りたい方は、それを打ち込んで検索されたい。悪しからず。

「ホワイトヘッド南印度村神誌」イギリス国教会司教でインドに移住したヘンリー・ホワイトヘッド(Henry Whitehead 一八五三 年 ~一九四七 年:彼は著名なイギリスの数学者・哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead)の兄である)の‘The Village Gods of South India’。「Internet archive」の原本のここが当該部。以上の後半の部分の原文に当たる。]

 パンジャブのシアルコット砦を築くに、東南の稜堡《りようほ》が幾度も崩れたので、占者の言に據《よ》り寡婦の獨り子の男兒を牲にした。ビルマには、マンダレイの諸門の下に人牲《ひとにへ》を埋めて守護とし、タツン砦下に一勇士の屍《かばね》を分《わか》ち埋めて、其砦を難攻不落にし、甚しきは土堤《どて》を固めん爲め、皇后を池に沈めた。一七八〇年頃タヴォイ市が創立された時、諸門を建《たつ》るに一柱每の穴に罪囚一人を入れ、上より柱を突込んだ故、四方へ鮮血が飛び散つた。其靈が、不斷、其柱の邊にさまよひ、近付く者を害するより、全市を無事にす、と信ぜられたのだ(タイラー原始人文篇二版、一卷一〇七頁。バルフォールの印度百科全書三版、四七八頁)。

[やぶちゃん注:「稜堡」城壁や要塞の内、外に向かって突き出した角(かど)張った部分、或いは、そのような形式で造られた堡塁。外敵の大砲などの火器による攻撃の死角を無くすために考案されたもので、堡塁全体は星形となる。ヨーロッパで発達した。

「タイラー原始人文篇二版、一卷一〇七頁」イギリスの人類学者で「文化人類学の父」と呼ばれる、宗教の起源に関してアニミズムを提唱したエドワード・バーネット・タイラー(Edward Burnett Tylor 一八三二年~一九一七年)が一八七一年に発表した「原始文化:神話・哲学・宗教・芸術そして習慣の発展の研究」(Primitive Culture, researches into the Development of Mythology, Philosophy, Religion, Art and Custom )。原本当該部は「Internet archive」のここ。]

「バルフォールの印度百科全書三版、四七八頁」スコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。「Internet archive」の“ The Cyclopaedia of India ” (一八八五年刊第三巻)の原本のここ。項目はズバり、‘SACRIFICE.’。]

 支那には、春秋時代、吳王闔閭《こうりよ》の女《むすめ》滕玉《とうぎよく》が素敵な疳癪持ちで、王が食ひ殘した魚をくれたと怒つて自殺した。王、之を痛み、大きな冢《つか》を作つて、金鼎、玉杯、銀樽等の寶と共に葬むり、又、吳の市中に白鶴《はくつる》を舞はし、萬民が觀《み》に來たところ、其男女をして鶴と共に冢の門に入らしめ、機を發して掩殺《えんさつ》した(吳越春秋二。越絕書二)。生を殺して、以て死に送る、國人、之を非とする、とあるから、無理に殉殺したのだが、多少は冢を堅固にする意も有つたらう。

[やぶちゃん注:「吳王闔閭の女滕玉が素敵な疳癪持ちで、王が食ひ殘した魚をくれたと怒つて自殺した」「臥薪嘗胆」で誰もが漢文で習った呉王夫差の父である。この話、しかし、何か隠喩があるような気がした。滕玉が食べ残しの魚を父に出されて辱められたと悲観して自殺する娘というのはイカにも「ヘン」だ。だいたい魚というのは、中国ではしばしば性的なニュアンスを含んでいるからである。調べてみたところ、図に当たった。個人サイト「石九鼎の漢詩館」の「千秋詩話 (30)」に「呉王闔盧と、その娘・滕玉  (呉越春秋)」で分析されてある。私は実は父娘の近親相姦のメタファーを考えていたのだが、そこまでは踏み込んではおられない。しかし、非常に腑に落ちた。そちらを読まれたいが、サイト主は『娘の想う人に父親・闔盧が反対の意を暗に表したの』ではなかった『か?』 『他の男に嫁がせることは』出来ない(心理的近親相姦感情)、『おまえには一生そいとげる男性は現われないのだ、この魚が半分のように』という『父親の屈折した思いが込められていたのだろうか』と述べておられるのである。是非、読まれたい。なお、「吳越春秋」の当該部が「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここで視認出来る。なお、「掩殺」は「暗殺」に同じで、「機を發す」とは「機会を見定めて急に襲う」の意ととれるものの、どうも原文の「發機以掩之殺」という文字列は見ていると、例えば、墳墓の中に巨大な石弓(「發機」には「石弓を放つ」の意がある)のようなトラップ・システムが設計されてあり、一気にそれを「機」動「発」動させて圧殺し、そのまま人柱として埋めたということを意味しているんではなかろうか? と勝手に夢想した。

 史記の滑稽列傳に見えた、魏の文侯の時、鄴《げふ》の巫《ふ》が好女《かうぢよ》を撰んで河伯《かはく》の妻として水に沈め、洪水の豫防としたは、事頗ぶる人柱に近い。ずつと後に、唐の郭子儀が河中を鎭した時、水患を止めて吳れたら自分の娘を妻に奉ると河伯に禱ると水が退いた。扨、程なく其娘が疾《やま》ひなしに死んだ。其骨で人形を作り廟に祀つた。所の者、子儀を德とし、之を祠り、河瀆親家翁、乃《すなは》ち、河神の舅《しうと》さまと名づけた。現に水に沈めずとも、水神に祀られた女は、久しからぬ内に死すると信じたのだ。又、漢の武帝は、黃河の水が瓠子《こし》の堤防を切つた時、卒、數萬人を發して、之を塞がしめたのみか、自ら臨んで白馬玉璧を堤の切れた處に置かしめたが、奏功せず。漢の王尊、東郡太守たりし時も此堤が切れた。尊自ら吏民を率ひ[やぶちゃん注:ママ。「率ゐ」が正しい。]、白馬を沈め、珪璧《けいへき》を執り、巫をして、祝し、請はしめ、自身を其堤に埋めんとした。至つて貴い白馬や玉璧を人柱代りに入れてもきかぬ故、太守自ら人柱に立たんとした。元代に、浙江蕭山の楊伯遠の妻王氏は、其夫が里正たる所の堤が切れて、何度築いても成らず、官から責めらるゝを歎き、自ら股肉《ももにく》を割《さき》て水に投げ入れると、忽ち、堤が成《なつ》たから、股堰《こえん》と名《なづ》けたとは、河伯も、よくよく、女の股《また》に、思し召しがあったのだ(琅邪代醉編《らうやだいすいへん》三三。史記河渠書《かきよしよ》。淵鑑類函三六、三四〇、四三三。大淸一統志一八○)。

[やぶちゃん注:「史記の滑稽列傳に見えた、魏の文侯の時、鄴《げふ》の巫《ふ》が好女を撰んで河伯の妻として水に沈め、洪水の豫防とした」「中國哲學書電子化計劃」のここから以下を参照。かなり長い。主人公は鄴(ぎょう)の令(地方長官)であった西門豹(せいもんひょう 生没年不詳)。小学館「日本大百科全書」によれば、彼は戦国時代の魏(二二〇年~二六五年)の文侯に仕えた官僚であった。当時の鄴では、黄河の氾濫を防ぐため、黄河の神である河伯の嫁として毎年、娘を黄河に捧げる迷信的生贄の儀式が行われていたが、彼は、果敢にも、『この行事の指導者である巫(ふ)を河に投じ、これを廃止させた。その後、彼は民を徴発して』十二の渠(きょ:用水路)『を開き、田を灌漑した。当初、民衆は、この工事に不満を漏らしたが、やがて長く利益を受けることになり、この地は富裕になったという。この説話は、迷信の残る地方に対して、新しい開明的な思想や技術を握った中央の君主権力が、官僚を通じて支配や開発を推進していった当時の状況を反映するものと考えられる』とある。

「巫」シャーマン。中国古代では男性であったが、この魏の頃は既に巫女であった可能性が高いものと思われる。

「好女」見目麗しい女。

「唐の郭子儀が河中を鎭した時、水患を止めて吳れたら自分の娘を妻に奉ると河伯に禱ると水が退いた。扨、程なく其娘が疾ひなしに死んだ。其骨で人形を作り廟に祀つた。所の者、子儀を德とし、之を祠り、河瀆親家翁、乃ち、河神の舅さまと名づけた」「維基文庫」の「欽定古今圖書集成」の「山川典第二百三十卷」「河部紀事二」の、「旧唐書」と思われる「代宗本紀」「大曆十二年」(七七七年)の条に、「河溢」とあって(一部の漢字と記号を変更した)、

   *

乾𦠆子郭、汾陽鎮蒲、欲造浮橋、而急流毀墠。公酹酒、許以小女妻之。其夕水退、木立墠上。遂成橋、而小女尋卒、因塑廟中、人因立公祠、號爲河瀆親家翁。

   *

とあった。

「漢の武帝は、黃河の水が瓠子の堤防を切つた時、卒、數萬人を發して、之を塞がしめたのみか、自ら臨んで白馬玉璧を堤の切れた處に置かしめたが、奏功せず」薄井俊二氏の論文「古代中國の治水論の思想的考察――漢武の宣房の治水事業をめぐって――」(日本中国学会『日本中國學會報』第三十八号・一九八六年発行・PDF)の七六ページ下段五行目にこの事実があったことが(成功しなかったことは記載がない)、確認出来た。

「漢の王尊、東郡太守たりし時も此堤が切れた。尊自ら吏民を率ひ、白馬を沈め、珪璧《けいへき》を執り、巫をして、祝し、請はしめ、自身を其堤に埋めんとした。至つて貴い白馬や玉璧を人柱代りに入れてもきかぬ故、太守自ら人柱に立たんとした」後で熊楠が示す「淵鑑類函」(清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍)の「四百三十三巻」の「獸部五」「馬一」に(「漢籍リポジトリ」のここ[438-18b]以下。表記の一部を変え、推定で句読点を打った)、

   *

王尊遷東郡太守、河水盛溢、從浸瓠子金堤、老弱奔走。尊、躬率吏民、沈白馬、親執珪璧、使巫䇿祝請、以身塡金堤。因止宿堤上。

   *

とあった。「珪」は「玉」に同じ。

「元代に、浙江蕭山の楊伯遠の妻王氏は、其夫が里正たる所の堤が切れて、何度築いても成らず、官から責めらるゝを歎き、自ら股肉を割て水に投げ入れると、忽ち、堤が成たから、股堰と名けた」「維基文庫」の「古今圖書集成」のこちらの「楊伯遠妻王氏」に(影印本で起こし、電子化物を参考に記号を打った)、

   *

按、「浙江通志」、『楊伯遠妻王氏、蕭山西興人。至正間、江水爲患、伯遠爲里正、築堰不就、日受責。王氏痛之、割股投于水、沙漲堰成固、名曰股堰。』。

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とある。「浙江通志」は明の一五六一年刊の現在の浙江省の地歴書。後代の清・中華民国版もあるが、取り敢えず古いそれを示しておいた。

「琅邪代醉編」明代の官吏張鼎思(ちょうていし)が著した類書。校刊本は一五九七年。

「大淸一統志」清代の全支配領域について記した総合地誌。清建国(一六四四年)から約四十年後の一六八六年に着手され、一八四二年に完成した。]

 本邦にも、經の島人柱の外に、陸中の松崎村で白馬に乘つた男を人柱にし、其妻共に水死した話がある(人類學雜誌三三卷一號、伊能嘉矩君の說)。江州淺井郡の馬川は、洪水の時、白馬、現じて、往來人《わうらいびと》を惱ます。是は、本文に述べた、白馬に人を乘せ、若《もし》くは白馬を人の代りに沈めた故事が忘れられて、馬の幽靈てふ迷信ばかり殘つたと見える。其から、大夏の赫連勃々《かくれんぼつぼつ》が叱干阿利《しつかんあり》をして城を築かしめると、此者、工事は上手だが、至つて殘忍で、土を蒸して、城を築き、錐で、もみためして、一寸《ちよつと》入《はひ》れば、すぐ、其處《そこ》の擔當者を殺し、其屍を築《つ》き込んだ。かくて、築き立てた寧夏城は、鐵石ほど堅く、明の拜の亂に官軍が、三月餘り、圍んで、水攻め迄したが、内變なき間は拔けなんだ。アイユランドのバリポールトリー城をデーン人が建《たて》た時、四方から工夫を集め、日夜、休みなし、物食はずに、苦役せしめ、仆《たふ》るれば、壁上に其體をなげかけ、其上に壁を築かしめた。後ち、土民がデーン人を追拂《おひはら》ふた時、この城が最後に落ち、父子三人のみ、生きて、囚はれた。一同、ただちに殺さうと言つたが、一人、勸めて、之を助命し、其代り、アイリッシユ人が常に羨むデーン人特長の、ヘザー木《ぼく》から美酒を造る秘訣を傳へよ、と言ふた。初めは、なかなか聽き入れなんだが、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]承引して、去《さ》らば傳へよう、だが、吾れ、歸國して後ち、此事が泄《も》れたら、屹度、殺さるゝから、只今、眼前に此二子を殺せ、其上で秘訣を語らう、と述べた。變な望みだが、一向、此方《こちら》に損の行かぬ事と、其二子を殺すと、老父、「阿房共め、吾《わが》二子、年若くて、汝らに說かれて、心動き、どうやら秘訣を授けさうだから、殺させた。もはや秘訣は大丈夫、洩るゝ氣遣ひがないわい。」と大見得を切つたので、アイリツシユ人、大《おほい》に怒り、其老人を寸斷したが、造酒の秘法は今に傳はらぬさうだ。是等は、人屍を築き込むと、城が堅固だ、と明記はし居らぬが、左樣信じたればこそ、築き込んだので、其信念が堅かつたに由つて、極めてよく籠城したのだ(近江輿地誌畧八五。五雜俎四。一八五九年板、ノーツ・エンド・キーリス撰抄、一〇一頁)。

[やぶちゃん注:「陸中の松崎村で白馬に乘つた男を人柱にし、其妻共に水死した話がある(人類學雜誌三三卷一號、伊能嘉矩君の說)」これは人類学者・民俗学者伊能嘉矩(いのうかのり 慶応三(一八六七)年~大正一四(一九二五)年:明治時代に於いて逸早く人類学を学び、特に台湾原住民の研究では膨大な成果を残した。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われた)の「陸中に於ける馬に就きての諸傳說及行事」。「J-Stage」のこちらPDFで原雑誌でダウン・ロード可能。その「㈥ボナリ傳說に顯はるゝ馬の犠牲」が当該記事で、『陸中上閉伊郡松崎村字矢崎』とある。現在の岩手県遠野市松崎町松崎九の「矢崎だんご」店附近に相当する(グーグル・マップ・データ)。

「大夏の赫連勃々」五胡十六国時代の夏の創建者である武烈帝赫連勃勃(かくれん ぼつぼつ 在位:四〇七年~四二五年)。匈奴の出身。

「叱干阿利」武烈帝の家臣の武将。ウィキの「赫連勃勃」によれば、四一三年、『勃勃は胡漢合わせて』十『万人を動員してオルドスの地(現在の陝西省楡林市靖辺県)に都統万城を築いた。その位置はオルドスの中心地であり、隴東や関中への進出に便利であった』。『統万の名は天下を統一し万邦を臨むという勃勃の言が元である。この都の建設は将の叱干阿利に命じた。叱干阿利は残虐な性格(錐を打って一寸以上』、『壁に食い込めば』、『その部分を築いた者を即座に殺して壁に埋めた)であったが、勃勃は叱干阿利を信任した』とある。

「デーン人」(デンマーク語:Daner)は現在のデンマーク及びスウェーデンのスコーネ地方に居住した北方系ゲルマン人(ノルマン人)の一派。現在のデンマーク人の祖先に当たり、ヴァイキング時代にイングランド及び西ヨーロッパ一帯に侵攻した(当該ウィキに拠った)。

「ヘザー木から美酒を造る」「ヘザー木」は我々日本人が「ヒース」と呼んでいるツツジ目ツツジ科エリカ属 Erica の常緑小木。嘗て、この花から採れるヘザー・ハニーはウイスキー・リキュールなどの香りづけに使われていた。

「近江輿地誌畧」享保 八(一七二三)年に、膳所藩主本多康敏(ほんだやすとし) の命を受けて藩士寒川辰清(さむかわとききよ 元禄一〇(一六九七)年〜元文四(一七三九)年)が編纂を始めた地誌。享保一九(一七三三)年に、全百一巻百冊の大著として完成した。近江国全域を対象にした初の本格的な地誌で、滋賀県地理研究の基礎文献として著名である(「滋賀県」公式サイト内のこちらに拠った)。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。「維基文庫」のこちらで当該部が電子化されて(記号と表記の一部を変更した)、

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寧夏城、相傳赫連勃勃所築、堅如鐵石、不可攻。近來哱拜之亂、官軍環而攻之、三月餘、至以水灌、竟不能拔、非有内變、未卽平也。史載勃勃築城時蒸土爲之、以錐刺入一寸、卽殺工人、並其骨肉築之。雖萬世之利、慘亦甚矣。近時戚將軍築薊鎭邊墻、不僇一人、期月而功就、城上層層如齒外出、可以下瞰、謂之「瓦籠成」、堅固百倍、虜終其世不敢犯、則又何必以殺僇爲也。

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とある。叱干阿利の名は出ないが、築城は赫連勃勃が命じたわけだから、何ら、違和感はない。

「ノーツ・エンド・キーリス」‘Notes and Queries’(『ノーツ・アンド・クエリーズ』。「報告と質問」)は南方熊楠御用達の一八四九年にイギリスで創刊された読者投稿の応答に拠ってのみで構成された学術雑誌。]

 予が在英中、親交したロバート・ダグラス男が玉篋卦《ユツヘアケ[やぶちゃん注:「選集」で補った。]》てふ占ひ書から譯した文をタイラーの原始人文篇、二板一卷一〇七頁に引いたが、「大工が家を建て初めるに、先づ、近處の地と木との神に牲を供ふべし。其家が倒れぬ樣と願はゞ、柱を立てるに、何か活きた物を下におき、其上に柱を下《おろ》す。扨、邪氣を除く爲め、斧で柱を打ちつゝ、よしよし此内に住む人々は、每《いつ》も溫かで、食事足るべし、と唱へる。」とある。之に反し、工人が家を建《たつ》るに、種々《いろいろ》と、其家と住人を、まじなひ破る法あり(遵生八牋《じゆんせいはつせん》七)。紀州西牟婁郡諸村には、大工が主人を怨み、新築の家を呪して、白蟻を招き、害を加ふる術ある樣にきく。

[やぶちゃん注:「選集」では、ここで第「一」章が終わっている。

「ロバート・ダグラス男」ロバート・ケナウェイ・ダグラス(Sir Robert Kennaway Douglas 一八三八年~一九一三年)はイギリスの中国学者。サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、『中国領事館に勤務』後、『大英博物館へ』移り、『東洋書籍部の初代部長を務め』た。『大英博物館館長フランクス卿の後見を受けてやって来た』熊楠『と出会い、その知識に瞠目したダグラスは熊楠に東洋書籍部の仕事を手伝わせ』たが、『熊楠は大英博物館内で何度ももめ事を起こし、その度にダグラスが事態の収拾に当た』ったとある。

「玉篋卦《ユツヘアケ》」《 》は「選集」のルビで補った。本書は不詳。綴りも判らぬ。

「タイラーの原始人文篇」既出既注で前と同じで、原本当該部は「Internet archive」のここ

「遵生八牋」明の高濂(こうれん)の著になる随筆。全二十巻。一五九一年自序。日常生活の修養・養生に関する万端のことが述べられ、また、歴代隠逸者百名の事跡が記されており、文人の趣味生活に関する基礎的な文献とされる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

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