「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その5)
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇は長いので、分割する。特に以下は「追記」とするも、長い。「選集」に従い(そちらでは、第「五」章と第「六」章に分離されてある)、分割する。
なお、本篇は二〇〇七年一月十三日にサイトで「選集」版を元に「人柱の話」(「徳川家と外国医者」を注の中でカップリングしてある。なお、この「德川家と外國醫物」は単独で正規表現注附き版を、前回、ブログ公開した)として電子化注を公開しているが(そちらは全六章構成だが、内容は同じ)、今回はその貧しい私の注を援用しつつも、本質的には再度、一から注を始めた。なお、上記リンク先からさらにリンクさせてある私の『「人柱の話」(上)・(下) 南方熊楠 (平凡社版全集未収録作品)』というのは、大正一四(一九二五)年六月三十日と七月一日の『大阪毎日新聞』に分割掲載された論文を翻刻したもので、何度も書き直された南方熊楠の「人柱の話」の最初の原型こそが、その論考である(底本は一九九八年刊の礫崎全次編著「歴史民俗学資料叢書5 生贄と人柱の民俗学」所収のものと、同書にある同一稿である中央史壇編輯部編になる「二重櫓下人骨に絡はる經緯」――大正一四(一九二五)年八月刊行の歴史雑誌『中央史壇』八月特別増大号の特集「生類犠牲研究」の一項中に所収する「人柱の話 南方熊楠氏談」と表記される写真版稿を元にしたものである)。従って、まずは、そちらのを読まれた方が、熊楠の考証の過程を順に追えるものと存ずる。さらに言えば、私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」も是非、読まれたい。あなたが何気なく渡っているあの桜木町の駅からすぐの橋だ。あそこに、明治六(一八七三)年の八月、西戸部監獄に収監されていた不良少年四人が、橋脚の人柱とされているんだよ……今度、渡る時は、きっと、手を合わせてやれよ……]
追 記 英國で最も古い人柱の話は、有名な術士メルリンの傳にある。此者は賀茂の別雷神《わけいかづちのかみ》同然、父なし子だった。初め、キリスト生まれて、正法《しやうはふ/しやうほふ[やぶちゃん注:仏教用語では後者であり、それに準じて、私は「ほふ」と読みたい。]》、大《おほい》に興らんとした際、邪鬼輩、失業難を憂ひ、相謀つて一《いつ》の法敵を誕生せしめ、大に邪道を張るに決し、英國の一富家に禍《わざはひ》を降《くだ》し、先づ、母をして、其獨り息子を、鬼と罵らしめて、眠中、其子を殺すと、母は悔ひて、縊死し、父も悲しんで、悶死した。跡に、娘三人、殘つた。其頃、英國の法として、私通した女を生埋《いきうめ》し、若くは、誰彼の別なく、望みさへすりや、男の意に隨はしめた。邪鬼の誘惑で、姉娘、先づ、淫戒を犯し、生埋され、次の娘も同樣の罪で、多《おほくの》人の慰み物となった。季《すゑ》娘、大に怖れて、聖僧プレイスに救ひを求め、每夜、祈禱し、十字を畫いて寢よ、と敎へられた。暫く其通りして、無事だつた處、一日、隣人に勸められて飮酒し、醉つてその姉と鬪ひ、自宅へ逃げ込んだが、心騷ぐまゝ、祈禱せず、十字も畫かず、睡つた處を、好機會、逸《のが》す可らずと、邪鬼に犯され、孕んだ。斯くて、生まれた男兒がメルリンで、容貌優秀乍ら、全身黑毛《くろげ》で被はれて居《をつ》た。こんな怪しい父なし子を生んだは、怪しからぬと、其母を法廷へ引出《ひきだ》し、生埋の宣告をすると、メルリン、忽ち、其母を辯護し、吾れ、實は强勢の魔の子だが、聖僧ブレイス、之を予知して、生まれ落ちた卽時に、洗禮を行はわれたから、邪道を脫《のが》れた。予が人の種でない證據に、過去現在未來のことを知悉し居り、此裁判官抔の如く、自分の父の名さへ知らぬ者の及ぶ所でないと、廣言したので、判官、大に立腹した。メルリン、去《さ》らば、貴公の母を、喚べ、と云ふので、母を請じ、メを別室に延《ひ》いて、吾は誰の實子ぞと問ふと、此町の受持僧の子だ。貴公の母の夫だつた男爵が、旅行中の一夜、母が受持僧を引入《ひきいれ》て、會ひ居る處へ、夫が不意に還つて戶を敲いたので、窓を開いて逃げさせた。其夜、孕んだのが判官だ、是が虛言《そらごと》かと詰《なじ》ると、判官の母、暫く、閉口の後ち、實《まこと》に其通り、と告白した。そこで、判官、嚴しく其母を譴責して、退廷せしめた跡で、メルリン曰く、今、公の母は件《くだん》の僧方へ往つた。僧は此事の露顯を慙《は》ぢて、直ちに橋から川へ飛入つて死ぬ、と。頓《やが》て其通りの成行きに吃驚《びつくり》して、判官、大にメを尊敬し、卽座に、其母を放還した。
[やぶちゃん注:「術士メルリン」十二世紀に書かれた偽史「ブリタニア列王史」に登場する魔術師アンブローズ・マーリン(Ambrose Merlin)。当該ウィキによれば、『グレートブリテン島の未来について予言を行い、ブリテン王ユーサー・ペンドラゴンを導き、ストーンヘンジを建築した。後の文学作品ではユーサーの子アーサーの助言者としても登場するようになった。アーサー王伝説の登場人物としては比較的新しい創作ではあるものの』、十五『世紀テューダー朝の初代ヘンリー』Ⅶ『世が』、『自らをマーリン伝説に言う「予言の子」「赤い竜」と位置付けたため、ブリテンを代表する魔術師と見なされるようになった』とある。詳細はリンク先を読まれたい。
「ブレイズ尊者」マーリンの英語版ウィキに、彼を出生後すぐに洗礼した司祭として、“Blaise”の名が挙がっている。さらにフランス語ウィキの‘Blaise (légende arthurienne)’を見ると、この“Blaise”という名前自体が、ケルト神話に於ける狼男を指し、ここにメーリンが毛に覆われていたということと、強い重層性を見ることが出来るという記載があった。]
其れから五年後、ブリトン王ヴヲルチガーンは、自分は前王を弑して位を簒《うば》ふた者故、いつ、どんな騷動が起こるか知れぬとあつて、其防ぎにサリスベリー野《や》に立つ高い丘に堅固な城を構へんと、工匠一萬五千人をして、取掛《とりかか》らしめた。所が、幾度築いても其夜の間に、壁が、全く、崩れる。因つて、星占者《ほしうらなひ》を召して尋ねると、七年前に人の種でない男兒が生まれ居《を》る。彼を殺して、其血を土臺に濺《そそ》いだら、必ず成功する、と言つた。隨つて、英國中に使者を出して、そんな男兒を求めしめると、其三人が、メルリンが母と共に住む町で出會ふた。其時、メルリンが他の小兒と遊び爭ふと、一人の兒が、汝は誰の子と知れず、實は吾れ吾れを害せんとて魔が生んだ奴だ、と罵る。扠は、これが、お尋ね者と、三人、刀を拔いて立ち向ふと、メルリン、叮嚀に挨拶し、公等《こうら》の用向きは斯樣《かやう》々々でせう、全く僕の血を濺いだつて城は固まらない、と云ふ。三使、大に驚き、其母に逢ふて、其神智の事共を聞いて、彌《いよい》と呆れ、請ふて、メと同伴して、王宮へ歸る。途上で、更に驚き入つたは、先づ、市場で一靑年が履《くつ》を買ふとて、懸命に値を論ずるを見て、メが大に笑ふた。其譯を問ふに、彼は、其履を手に入れて、自宅に入る前に、死ぬはず、と云ふたが、果たして、其如くだつた。翌日、葬送の行列を見て、又、大に笑ふたから、何故と、尋ねると、此死人は、十歲計りの男兒で、行列の先頭に、僧が唄ひ、後に老年の喪主が悲しみ往くが、此二人の役割が顚倒し居る。其兒、實は、其僧が喪主の妻に通じて產ませた者故、可笑かしい、と述べた。由《よつ》て、死兒の母を嚴しく詰ると、果《はた》して、其通りだつた。三日目の午時頃、途上に何事も無きに、又、大に笑ふたので、仔細を質すと、只今、王宮に珍事が起つたから、笑うた、今の内大臣は美女が男裝した者と知らず、王后、頻りに言寄《いひよ》れど、從はぬから、戀が妒《ねた》みに變じ、彼れは妾《わらは》を强辱しかけた、と。讒言を信じ、大臣を捉へて、早速、絞殺の上、支解せよ、と命じた所だ。だから、公等の内、一人、忙《いそ》ぎ歸つて、大臣の、男たるか、女たるか、を檢査し、其無罪を證しやられよ、而して是は僕の忠告に據つたと申されよ、と言ふた。一使、早馬で驅付《かけつ》け、王に勸めて、王の眼前で内大臣が女たるを檢出して、之を助命した、とあるから、餘程、露骨な檢査をしたらしい。
[やぶちゃん注:「ブリトン王ヴヲルチガーン」五世紀、サブローマン・ブリテン時代のブリタンニア(現在のグレートブリテン島)に存在したと伝えられるブリトン人諸侯ヴォーティガン(Vortigern)のことか。当該ウィキによれば、『彼の存在は文学的にも注目され、前述の「ブリタニア列王史」にその名が見られた事からアーサー王伝説の登場人物の一人として取り上げられる事となり、さらに後年になってシェイクスピア外典の題材としても取り扱われている。サクソン人の侵攻を誘発した人物として古くから名が記されている事から』、『歴史の流れにおいて彼の役割をした人物は存在すると考えられているが、史的人物としてのヴォーティガンの実在性は、はっきりとしていない』とある。
「支解」遺体の手足を切断すること。死後の凌辱刑の一つ。]
扨、是れ、漸く七歲のメルリンの告げたところと云ふたので、王、早く、其兒に逢ふて、城を固むる法を問はんと、自ら出迎えて、メを宮中に招き、盛饌を供し、翌日、伴ふて、築城の場に至り、夜になると、必ず、壁が崩るるは、合點行かぬといふに、其は、此地底に、赤白《せきびやく》の二龍が棲み、每夜、鬪ふて、地を震はすから、と答へた。王、乃(すなは)ち、深く、その地を掘らしめると、果して、二つの龍が在り、大戰爭を仕出《しで》かし、赤い方が、敗死し、白いのは、消《きえ》失せた。斯くて、築城は功を奏したが、王の意、安《やす》んぜず、二龍の爭ひは何の兆《きざし》ぞと、問ふこと、度《たび》重なりて、メルリン、是非なく、王が先王の二弟と戰ふて、敗死する知らせ、と明かして消え失せた。後ち、果して城を攻落《せめおと》され、王も后も焚死したと云ふ(一八一一年版、エリス著、初世英國律語體傳奇集例、卷一、二〇五―四三頁)。英國デヴォン州ホルスウォーシーの寺の壁を十五世紀に建てる時、人柱を入れた。アイユランドにも、圓塔下より、人の骸骨を掘出したことがある(大英百科全書十一板、四卷七六二頁)。
[やぶちゃん注:「選集」では、ここで第「五」章(「追記」の標題はない)が終わっている。
「一八一一年版、エリス著、初世英國律語體傳奇集例、卷一、二〇五―四三頁」
「大英百科全書十一板、四卷七六二頁」イギリスの古物収集家にして大英博物館主任司書を長年務めたヘンリー・エリス(Henry Ellis 一七七七年~一八六九年)の著作ではないかと思われるが、原題を調べ得なかった。]