西原未達「新御伽婢子」 一夢過一生
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。
注は文中や段落末に挟んだ。]
一夢過一生(いちむ、いつしやうを、あやまつ)
「『癡人(ちじん)の面前に夢を説(とか)ず。』といへば、愚昧なる人には、我が見し夢も異人(こと《びと》)の咄(はなし)にも恠(あやしき)事、をそろしき[やぶちゃん注:ママ。]事、愁(うれへ)なる事、貧賤に成(なる)といふ事など、心して語り出すべからず。官位にのぼりたるの、冨貴(ふうき)に成《なり》たるの、などいふ、心ちよげなるたぐひは、尾に鰭を添へて、かたれ。」
とて、笑はせたる人、有《あり》。
[やぶちゃん注:「『癡人の面前に夢を説ず』「痴人の前に夢を説く」は朱熹の「答李伯諫書」(「李伯が諫(かん)に答ふる書」か)に基づく故事成語で、「愚か者に夢の話をする」は「無益なことをする」喩えである。]
「三歲の童子(どうじ)をすかす戯(たはぶれ)、髭口(ひげ《くち》)をそろへて、いはれけるこそ可笑《をかしけれ》。」
と、いひもて行《ゆけ》ば、又、小ざかしき有《あり》て、
「『我、夢にだも、周公をみず。』と、孔子も、の給へば、聖人すら、好み給ふ。况(いはんや)文盲(もんもう)の我(われら)をや。能(よき)を能と知らば、何(なん)ぞ惡(あし)き夢の氣味わろからで、あるべき。」
[やぶちゃん注:「我、夢にだも、周公をみず」は「論語」「述而第七」の「子曰甚矣吾衰也章」。「子曰、甚矣、吾衰也。久矣、吾不復夢見周公。」(子、曰はく、「甚しきかな、吾が衰へたるや。久しきかな、吾れ、復(ま)た、夢に周公を見ず。」と。)孔子が理想の君子として崇めた周公旦の夢を見なくなるほどに、老いぼれ、理想を求める志しが綿sから失われてしまったものか、と嘆いたもの。]
などいふに、独(ひとり)ありて、聲、打《うち》ひそめて、
「某(それがし)の隣家(りんか)に、ふしぎ成《なる》事こそ侍れ。夜部(よべ)、恠(あやしき)夢に襲《おそはれ》て、今日(けふ)、病(やま)ひづきて、死(しゝ)たる、といふ。可笑(をかし)や、けふは、夢物がたりに暮(くら)す日にこそ。」
「扨《さて》。それは、いかなる夢の、何として、病(やまひ)には成《なり》たる。」
と。
語る。
――此男、下賤の町人ながら、少《すこし》和哥(わか)の道を學ぶ。程よりは、其道に自讃して、又、一文不知(《いち》もんふち)の人に向(むかひ)ては、柿本(かきのもと)の深味(しんみ)、山邊(やまべ)の骨髓をも、掌(たなごゝろ)に、にぎつたるやうに、廣言して、人を人ともおもはねば、惡(にく)まずといふ者、なし。
然《しか》るに、過《すぎ》し夜、不審(いぶかしき)夢を見る。
其さまをいはゞ、いづちとも知らず、かぎりなき廣き埜に、ひとり、有《あり》て、其わたり、見まはすに、秋草(しうさう)、雨を帶(おび)て、万虫(よろづのむし)の聲、哀(あはれ)に、暮《くれ》かゝる。月、玉《たま》をなして、風、浮雲(ふうん)を吹拂(ふきはら)へば、誠に美景の限(かぎり)ながら、廣野(くはうや)に、ひとり、立(たて)れば、物すごく、をそろし[やぶちゃん注:ママ。]。
いづち來《き》にけん、露《つゆ》ふみ分し細みちも見えず、雲かゝる山も、なし。千種(ちぐさ)の原(はら)をかき分《わけ》て、たどる事、一里斗《ばかり》と覺えて、行《ゆく》さきを見れば、たえて人里も、なし。
そのほどに、茂(しげ)き荊(うばら)に手足を破られ、蔦(つた)・栬(かへで)も何ならぬ、もみぢを亂し、麁衣(そい)は、かなしき、つゞりにさけて、身を隱す便(よすが)もなし。時雨(しぐれ)、心もなく、肌をうるほし、秋風(しうふう)、いたく落(おち)て、鬢髮(びんぱつ)をかなぐる。
「かゝる埜は、未(いまだ)見ず。音《おと》にのみ聞く、『日かずわするゝ』と、よみし武藏埜の原は、是にや。古しへ、今の歌人(うたびと)多くとも、驛路(えきろ)より遠詠(《とほ》ながめ)ならん。且(かつ)は、名(な)斗(ばかり)にこそ聞《きき》はせめ、我、此道に達して、たぐひなき人の、みはてぬ此原を、わけつくす事よ。」
と、又、爰にて、自讃す。
「六六の歌仙、中古は定家・家隆(か《りゆう》)・良經(よしつね)・雅經(まさつね)などや、我斗(わればかり)の器量にや在《あり》けん。」
など、空おそろしく身をほめて、夢中に二首を詠ず。
[やぶちゃん注:「栬(かへで)」楓。
「日かずわするゝ」「新千載和歌集」(南北朝時代の十八番目の勅撰集)に載る、「題しらず」の鎌倉中期の公卿・歌人の藤原従三位為理(?~正和五(一三一七)年)の、
草枕おなじ旅寢のかはらねば
日數(ひかず)忘るる武藏野の原
である。「日文研」の「和歌データベース」の同和歌集で通し番号を調べ、国立国会図書館デジタルコレクションの「国歌大観」の「五句索引 歌集部」のこちらで確認した。
「六六の歌」三十六歌仙。
「家隆」、鎌倉初期の公卿で歌人の藤原家隆。「新古今和歌集」の撰者の一人で、「小倉百人一首」では、従二位家隆「風そよぐ楢の小川の夕暮は御禊ぞ夏のしるしなりける」で知られる。
「良經」平安末から鎌倉初期にかけての公卿・歌人で、「新古今和歌集」の撰修に関係し、その「仮名序」を書き、「小倉百人一首」では「後京極摂政前太政大臣」として「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねむ」で載り、自撰の家集「秋篠月清集」も頓に知られる九条良経。
「雅經」平安末から鎌倉前期にかけての公卿で歌人の飛鳥井雅経(あすかいまさつね)。やはり「新古今和歌集」の撰者の一人で、「小倉百人一首」の「み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり」で知られる。]
人はいさ草の名をだにたどるべく
小萩をかざすむさしのゝ原
めや遠き心やみると思ふまで
薄にはるゝむさしのゝ月
と、よみて、爰にをゐて[やぶちゃん注:ママ。]、殊に自慢、甚しく、思ひあがりけるまゝ、野路(のぢ)のさびしさも打《うち》忘れ、猶、行《ゆ》くて見れば、ひとつの小池(しやうち)あつて、汀(みぎは)に、菖蒲《しやうぶ》・芦(あし)・まこも、滄波(さう《は》》にみどりの色をそへて、物すごき所あり。
「爰なん、『堀兼(ほりかね)の井』といふ所なるべし。」
と、心得がほに打諾(《うち》うなづき)、岸にのぞみて、水の面をながめ、
「爰にも、一首なくては。」
などゝ、小くびをひねりゐる所に、めてのかたより、なまぐさき風、一通り、しぶきて、むらたつ葭(よし)・芦、
「さはさは」
と戰(そよぎ)けるより、項(うなじ)のあたり、惡寒(ぞつと)とするおり、をそろしさ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、改めて、初(はじめ)分入(わけ《いり》)し時に、十倍せり。
[やぶちゃん注:「堀兼の井」現在の埼玉県狭山市堀兼にある堀兼神社内にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、そう称するものは他にもあるので、こことは定め難い。以下の引用参照。「狭山市」公式サイト内のこちらに、『堀兼之井は、堀兼神社の境内にあります。直径7.2メートル、深さ1.9メートルの井戸の中央には石組の井桁(いげた)がありますが、現在は大部分が埋まっており、その姿がかつてどのようであったかは不明です。この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる「ほりかねの井」の一つと考えられていますが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができます』。『井戸のかたわらに2基の石碑がありますが、左奥にあるのは宝永5年(1708)3月に川越藩主の秋元喬知(あきもとたかとも)が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたものです。そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在をこの凹(おう)形の地としたこと、堀兼は掘り難(がた)かったという意味であることなどが刻まれています。しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳にしたがったまでで、確信に基づくものではないともあります。手前にある石碑は、天保13年(1842)に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明(きよはらのぶあき)の漢詩が刻まれています』。『それでは、都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのでしょうか』? 『神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われますが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようで、江戸後期に編さんされた』「新編武蔵風土記稿」を『見ても「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは定めがたいとあります。堀兼之井が後世の文人にもてはやされるようになったのは、秋元喬知が宝永5年に石碑を建ててから以後のことと考えられます』とある。因みに、ここには現在は水はない。]
[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]
かく、風のをこる[やぶちゃん注:ママ。]方《かた》を見やれば、眞黑なる大木、太さふた抱(だき)斗《ばかり》なるが、此上に、ころびかゝる。
「はつ。」
と驚《おどろき》、逃(にげ)ざまに、其梢を見あげたれば、木にはあらで、名のみ聞《きく》蟒(やまかゞち)といふ物ならん、頭は、つき鐘(がね)なんど、動(うごく)ほどして、紅《くれなゐ》の舌、氷の牙、此男を、のまんとする。
此時、大きなる聲して、うめきけるを、添臥(そひぶし)の女房、遽(おびたゞしく)起《おこ》しけるにぞ、夢は、覺(さめ)ける。
起《おき》ても、猶、一身(いつしん)、大熱(《だい》ねつ)し、戰慄(ふるひわなゝく)事、更(さらに)不ㇾ止(やまず)。
妻女、驚き、藥など、口にそゝぎ、暫(しばし)、靜(しづまる)と見えし。
「扨(さて)、いかなる夢を見て、かく迄、襲《おそはれ》給ふ。」
と問へば、有《あり》し夢中を、細(こまか)に語り、彼《かの》うはばみの所を語る時、俄《にはか》に、又、
「をそろしき物、見えたる。」
と覺えて、顏色(がんしよく)、靑く、眼(まなこ)の内、かはりて、
「あなをそろし。夜部の蟒(やまかゞち)、爰に來たり。あれ、追拂(《おひ》はら)へ、切《きり》ふせよ。」
と、手足を悶(もだへ)、一身、顚倒(てんどう)する事、不ㇾ止《やまず》。
病乱(びやうらん)しけるが、一日、かく、有《あり》て、たゞ今、息、絕《たえ》侍る。命終(めいじう)の有樣、えもいはれず、らうがはしさ、推量(《おし》はかり)給ヘ。」
と、かたられ侍る。
[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]
常の人のならひ、名利(みやうり)につかはれて、慢心を先(さき)とする事、有(あり)。わたるわざながら、たはごとに、身におよばぬ憍心(きやうしん)、和歌の奧旨《あうし》なんどいふ事は、其職にあそぶ人だに、たやすく覺悟するは、なし、といふを、卑賤の、をろ心に[やぶちゃん注:ママ。「おろか」の誤字と脱字か。]、まさなくも、したり㒵かほ)なる、天のにくむ所、鬼神(きしん)の罰するたゝり、さも在《ある》べき事にぞ。