「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 釘ぬきに就て(その2)
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(左ページ後ろから四行目下方)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。本篇はやや長いので、分割する。漢文脈部分は直後に、〔 〕で推定訓読文を附した。]
元祿十四、巢林子《さうりんし》作、曾我五人兄弟二、小袖紋盡しの發端に、「釘貫、松皮、木むらごう、此《この》木むらごうと申すは、三浦の平六兵衞義村の紋也。」。正德四、紀海音作曾我姿富士三、祐信、狩場の幕の紋を、時宗に告ぐ、「立て續けたる小屋作り、手は盡さねどそれぞれに、主じの心白壁の、高塀板塀、忍び返しの釘貫(考古學雜誌十卷五號、黑川君の論說二五二頁末行參照)、松皮、木むらごう、此木村ごうと申すは、三浦平六兵衞義村の紋なり。」。
[やぶちゃん注:「元祿十四」一七〇一年。
「巢林子」かの近松門左衛門の別号。
『曾我五人兄弟」二、小袖紋盡しの發端に、「釘貫、松皮、……」国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「近松全集」(頭注附き)第六巻のここ。
「木むらごう、此木むらごうと申すは、三浦の平六兵衞義村の紋也」不審。義村というか、三浦氏の紋は「黒地に三浦三引紋(中白)」である(リンク先はウィキの「三浦氏」の家紋)。
「正德四」一七一四年。
「紀海音」(きのかいおん 寛文三(一六六三)年~寛保二(一七四二)年)は浄瑠璃作家・狂歌師・俳人。本名は榎並善右衛門、後、善八。大坂生まれ。父は大阪御堂前の菓子商鯛屋善右衛門(俳号「貞因」)。
『曾我姿富士三、祐信、狩場の幕の紋を、時宗に告ぐ、「立て續けたる小屋作り、……』国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここ(左ページ後ろから二行目途中から)。
「黑川君」「選集」の編者割注に従うと、黒川真道(まより 文政一二(一八二九)年~明治三九(一九〇六)年)は国学者で歌人にして東京帝国大学教授。国語学が専門。]
是等、何か古い紋盡しの文を、其儘、踏襲したので、その一番に釘貫、松皮を擧たるは、三好氏執權として威を振ひし日の作たる證か。惟《おも》ふに、三好氏の盛時、其家に舊緣ある者や、其下風《かふう》に立つを好みし者に、其家紋、松皮釘貫の一部分たる釘貫を割《わ》き與へて好意殊遇を示せし事あるべし。關白秀次、初め、長慶の叔父康長の養嗣として、三好氏を稱せしと云《いへ》ば、定めて釘貫を紋とし、用ひたるべく、其重臣白井備後守範秀は、古今武家盛衰記四に、秀次の乳父《めのと》にて、三好譜代の士なり。一萬三千石を領せしが、秀次、關白職を繼ぐ時、六萬石となるとあれど、若狹郡縣志三や山縣本武田系圖より推《お》せば、秀次と同時に亡びし熊谷直澄の父祖と共に、本《も》と若狹の武田氏の被官たりし白井民部丞の子が一類らしく思はるれば、福井縣人たる白井博士の釘貫の家紋は初め之を三好氏より受けたるに非るか。
[やぶちゃん注:「白井備後守範秀」豊臣秀次の家臣白江成定(しらえなりさだ ?~文禄四(一五九五)年)の別名。当該ウィキによれば、『豊臣秀次が養子入りした三好家の臣であったとも伝わり、また』、『秀次の乳父であったともされる』。『秀次に仕え、天正』一二(一五八四)年の「長久手の戦い」で『水野勝成と戦い、秀次と共に敗走した。秀次が関白に就任すると』、『重臣として』六『万石の知行地を賜った』。『秀次に豊臣秀吉に対する謀反の嫌疑がかかると』、『弁明に奔走し、また』、『秀次に対しては、京都での居館であった聚楽第に留まったまま』、『大坂城の秀吉に対して弁明を行うことと、場合によっては聚楽第での籠城戦を主張したが、秀次は高野山に自主的に移動し、追って自刃を命じられた(秀次事件)。成定は高野山を下りて、かねて昵懇だった京の四条の大雲院貞安寺に一切を話し、殉じて自刃した』。『また、室は成定自刃の後「心をも 染めし衣のつまなれば おなじはちすの 上にならばん」と辞世の句を残し、四条道場で後を追って自刃した』とある。
「古今武家盛衰記」戦国・江戸期の武将ほかの伝記集の写本。別名「近代武家盛衰記」「諸家栄衰記」。作者不詳。先の黒川真道編になる国立国会図書館デジタルコレクションの活字本のここから。
「熊谷直澄」熊谷直之(?~文禄四(一五九五)年)の別名。当該ウィキによれば、『若狭国三方郡大倉見城(井崎城)主。武田四老の一人』。『当初は若狭守護であった若狭武田氏の家臣』で、『元亀元』(一五七〇)年に、『武田元明に付いて』、『織田信長に従属したと思われ』、『同年の朝倉攻めに参陣』している。天正九(一五八一)年の『馬揃えの際には若狭衆として丹羽長秀の下で行進した熊谷氏は彼である可能性がある』。翌天正十年の「本能寺の変」の『後は豊臣秀吉に仕えた』。『その後』、『関白豊臣秀次に配され、家老とな』った。文禄四(一五九五)年七月、『秀次が譴責使を受けた時』、「川角太閤記」では、『謀反を勧めたとされる。秀次が高野山蟄居となると、これの責任を取って京都嵯峨野二尊院』『で自ら切腹して果てた。秀吉は使者を送って止めようとしたが』、『間に合わなかった』。『辞世は「あはれとも問ふひとならで問ふべきか 嵯峨野ふみわけておくのふるてら」』とある。
「白井民部丞」若狭武田氏の重臣白井勝胤。]
又續群書類從一二四の「小笠原系圖」に、小笠原氏の門葉家老の名を列せる内に、東方、西方、南方、北方の四氏あり(近頃、平瀨麥雨氏、來示に、今も松本市付近に南方、北方てふ地あり、殊に南方は小笠原氏舊城地の山麓にあり、と)。紀伊の南方輩が釘貫を家紋とするは、何か小笠原より分れたる三好氏に因緣すと想はる。紀伊續風土記一八、名草郡《なぐさぐん》三葛村《みかづらむら》に南方てふ字は、もと、御名方神《みなかたがみ》を祀りしが、他へ其社を移してのち、若宮八幡宮を氏神とす。此字に、南方氏、甚だ多し。諏訪明神を氏神とせるは信州に緣ありし如し。
[やぶちゃん注:「平瀨麥雨」俳人で民俗学者でもあった胡桃沢勘内(くるみざわかんない 明治一八(一八八五)年~昭和一五(一九四〇)年)。長野県筑摩郡島内村平瀬生まれ。「平瀨麥雨」は別号の一つ。十八歳で俳句を上原三川(さんせん)に学び、二十歳の時、三川の勧めで、伊藤左千夫に師事。『比牟呂』・『馬酔木』・『アララギ』で活躍した。歌集「胡桃沢勘内集」がある。後に民俗学を研究し、「松本と安曇」・「福間三九郎の話」などを著わしている。『松本時論』にも多く寄稿した(講談社「日本人名大辞典+Plus」に拠った)。
「紀伊續風土記」は紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年)完成した。「国立公文書館」の「デジタルアーカイブ」で同巻をダウン・ロードして「三葛村」を確認したが、熊楠はかなり粉飾している。まず、「南方」というのは姓ではなく、字地名で、『今廢絶す』とあり、『今村中』に『南方八軒』という語を含む『諺のこれり』とあるだけである。なお、三葛村は現在の和歌山県和歌山市三葛(みかずら:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。和歌山市の海浜に近く、紀三井寺(きみいでら:寺と地名と同一)の北直近である。
「御名方神」建御名方神(たけみなかたのかみ)に同じ。
「若宮八幡宮」和歌山県和歌山市紀三井寺のここ。]
扨、此釘貫の紋と云ふ事、和漢三才圖會に二種の釘拔を出《いだ》せる。其第一種、俗云萬力〔俗に萬力(まんりき)と云ふ。〕と有るに、象《かたど》つて畫きしなり。弘安中の作、沙石集《しやせきしふ》二卷八章に、「念佛は他力と云《いひ》ながら、自力もあり。されば、二力なり。眞言は以我功德力《いがくどくりき》、如來加持力、及以法界力《きふいほふかいりき》とて、三力なり。之を譬へば、釘拔のさをは、如來の加持力、座は法界力、我手は以我功德力なり。釘拔の寄合《よりあひ》て大きなる釘をも易く拔くが如し。中略。是れ、古き人の譬へに聞かずと雖《いへども》、私《わたくし》に思ひより侍べり」と筆せるを見れば、和漢三才圖會の成《なり》しより、四百三十年程の昔、鎌倉幕府の世、既に萬力種の釘拔が用ひられたるを知るべし、と。(已上、白井博士への文意記憶の儘。但し、書名、卷數等は、一々、調べて記す。)
[やぶちゃん注:「和漢三才圖會に二種の釘拔を出せる」事前に電子化注しておいた。『「和漢三才圖會」卷第二十四「百工具」の内の「千斤(くぎぬき)」』を参照。
『弘安中の作沙石集二卷八章に、「念佛は他力と云ながら、……』鎌倉時代の仏教説話集。全十巻。臨済僧の無住一円の著になる。弘安六(一二八三)年成立。「八 彌勒行者の事」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫(昭和一八(一九四三)年刊)のここの右ページ八行目以降。
「以我功德力」その人自身が現世に於いて修行によって得た能力。絶対自力。
「如來加持力」如来が請願し、加持祈禱を行って衆生を救った大慈大悲心の力。絶対他力。
「及以法界力」その人自身が既に持っているところの仏性(ぶっしょう)。謂わば、極楽往生を決定づける唯一真実の内因。なお、底本も「選集」も「乃以法界力」とするが、所持する「日本古典文学大系」版で訂した。]
考古學雜誌十卷五號二四二頁に、黑川君は埃囊抄《あいなうしやう》を引て、釘拔なる造作具は、足利時代、用ひ初られたる樣述られしも、實は其以前、北條時宗執權の世、既に用いられ居りしなり。吾邦に古く、釘を拔く具ありしことは嬉遊笑覽一上に出《いづ》るを、白井博士へ上述の書信を出して後ち、見出せり。其文、一向、黑川氏の論說に引れざる故、念の爲め、爰に引んに云く、モヂ、和名抄、考聲切韻を引て錑鑽なり、漢語抄に毛遲とあり。新猿樂記に、大工の容顏を云處、「臂者曲尺、肩者錑柄、足者鐵鎚」〔臂(ひぢ)は曲尺(かねじやく)、肩は錑柄(もぢりえ)、足は鐵鎚(てつつい)。〕抔云り。諸家、之を詳らかならず。思うに、此器、鐵にて作り、戾《ねじ》る物なれば、俗に錑字を當て用ひなれたるを、字書に據《よつ》て註したるより、分らぬ事と成《なり》ぬるか。是れ、恐らくは、今、いふ、釘拔にや。木の道にも何にも必用の具なるを、是なくば、あらじ。
[やぶちゃん注:「埃囊抄」(あいのうしょう:現代仮名遣)は室町中期に編纂された辞典。勧勝寺の僧行誉の著で、文安二(一四四五)年又は翌年の成立。
「北條時宗執權の世」在職は文永五(一二六八)年から弘安七(一二八四)年。
「嬉遊笑覽一上に出る」同書は国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作で、諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻・付録一巻からなる随筆。文政一三(一八三〇)年成立。私は岩波文庫版で所持するが、異なった版の国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 上」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここの右ページに「釘貫 忍び返し」の項がある。
「モヂ、和名抄、考聲切韻を引て錑鑽なり、漢語抄に毛遲とあり」「倭名類聚抄」の巻第十五」の「調度部下第二十二」の「工匠具第百九十七」に、
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錑(もち) 「考聲切韻」に云はく、『錑は【「雷」・「内」の反。又、音「戾」。「漢語抄」に『錑、毛遲(もち)。』と。】、「鑚」なり。』と。
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とあった。因みに、「考聲切韻」というのは、論文を見るに、散佚しているらしく、本邦での研究者も一人しかいないと、ある国語学者がQ&Aで回答されておられた。
「新猿樂記」平安後期の漢文体の芸能の記録。全一巻。藤原明衡(あきひら)の著。当時、都で流行していた猿楽の種類を挙げて、芸人を評した後、見物人の様子を述べ、観衆の一人である右衛門尉の家族を紹介する形で、当時の人事全般に亙る樣々な事物の名称や所作を列挙する。「堤中納言物語」を始め、多数の書に引用が見られる(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。]
[やぶちゃん注:以下の一段落は補注らしく、底本では、頭の字下げ無しで、全体が一字下げとなっている。]
熊楠按ずるに、和漢三才圖會二四には、錑にモジリと假名振り、按錑大鑚也、柄橫於頭、如丁字樣、先以三稜錐、次敲入之、以柄紾捩(モジル)○南蛮鍍、捻如眞糕餅形、功倍於常と載せ、二圖を出すを見るに、英語で pod auger 及び screw auger と呼ぶ栓拔き狀の鑽《きり》らし。別に、捕り物に用うるモジリ(和三、二一に三才圖會の狼牙棒《らうがぼう》に充つ)をも錑と書く事あり(民俗第一年第一報、志田君の「辨慶の七つ道具」)。新選類聚往來上、番匠鍛冶具に䤤字をモジりと訓せるは何物か知れず。康煕字典に音、開、器名となり。釘拔は戾《ねじ》る物故、錑、書きしならんてふ笑覽の說は、黑川君の釘を喰ひ〆て拔取る故、釘拔を、又、釘〆と名《なづ》く、との說に類す。拔取る時に限らず、押込むにも、曲れるを直すにも、釘を喰ひしめる故、釘拔を英語で pinchers(喰ひ〆る物)と名く。
[やぶちゃん注:「和漢三才圖會二四には、錑にモジリと假名振り、按錑大鑚也、……」事前に『「和漢三才圖會」卷第二十四「百工具」の内の「錑(もぢり)」』で電子化注しておいたので、訓読や注はそちらを見られたい。
「pod auger」「auger」は木工用の「螺旋錐(らせんきり)」を指す語。「pod」は「エンドウなどの鞘」・「鞘状の物体」・「蚕の繭」などの意。
「和三、二一に三才圖會の狼牙棒に充つ」『「和漢三才図会」の巻二十一に「三才図会」の「狼牙棒」に「錑」(もじり)を当てている』の意。事前に当該部である『「和漢三才圖會」卷第二十一「兵器 征伐」の内の「長脚鑚」』を電子化注しておいた。そこでは「三才図会」の原本画像もリンクさせてあるので、是非、見られたい。
「志田君」『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 古き和漢書に見えたるラーマ王物語』で既出既注の国文学者。
「新選類聚往來」数多ある「往来物」(平安後期から明治初期まで広く使用された初等教科書の一群を指す)の一つで、手紙文例集。成立年未詳。作者は丹峯和尚(たんぽうおしょう)と名乗る人物。江戸前期の成立。アーカイブがあるが、調べる気にならない。悪しからず。
「釘拔は戾る物故、錑、書きしならんてふ笑覽の說」これは、先に示した国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 上」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)の箇所ではなく、少し後のここの右ページの「もぢ」の項であるので、注意されたい。
「pinchers」音写「ピンチャーズ」。この単語は、広く、挟んで抜いたり、切断したりする工具である「ペンチ」(pincers・cutting pliers)や、小型の「ラジオ・ペンチ」(和製英語:radio pinchers)、「プライヤー」(pliers)、「ニッパー」(nipper)などの総称である。]
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