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2022/09/12

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 佐渡州妙法山蓮長寺瘞龜碑

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。今回は全文漢文であるため、まず、底本通りに示し(但し、底本は全部が読点であるが、吉川弘文館随筆大成版に従い、句読点交りとした)、注で推定訓読を示して、注を附した。なお、「瘞龜碑」は「えいきひ」と読み、「瘞」は「うづめる」「地中に犠牲対象や玉などをうずめて地を祭ること、或いは、その祭祀」「墓」の意である。以下、読んで戴ければ判る通り、佐渡で実際に捕獲された巨大なウミガメ(種は不詳)を埋めて祀った碑の記載である。後注で記すが、現在、この碑自体は、残念ながら、現存しない(碑の拓本はあるという)。]

 

   ○佐渡州妙法山蓮長寺瘞龜碑

瘞龜碑記【碑自然石、高匠尺四尺一寸餘、橫二尺八寸、系欄長與題額共、二尺七寸二尺三寸、五行一行十八言、字大一寸一二分。】、海之漫々。無ㇾ涯無ㇾ底。其爲ㇾ大也。固勿ㇾ論也已。故水族之怪。出沒乎其間者。鼋鼉蛟龍。不一而足也。予嘗奉吏職事佐州。居北海之濱。與魚鰕遊久矣。文政二年己卯春。州之南鄙。澁手浦漁夫獲巨龜。形狀不ㇾ凡。壯者十數人。舁以過ㇾ市。予睹而奇ㇾ之。後數日。有ㇾ人語曰。前日之龜。已就屠家。吾儕食指頗動。予聞ㇾ之惻然曰。君子之於ㇾ物也。見其生不ㇾ忍ㇾ見其死。況食其肉乎。且夫龜者靈物也。而今困於予且。死於鼓刀之手。何其慘也。何其慘也。於ㇾ是乎倍價以貿其肉殼。使州人島充睦。瘞諸妙法山蓮長寺側。寺僧曰。此寺嘗有妙見祠。夫妙見薩埵。崇德北極。耀威一天。或謂元武之神是也。今安措靈龜於此。亦如ㇾ有因緣。然請立ㇾ石記ㇾ之。充睦[やぶちゃん注:底本は「充睡」であるが、吉川弘文館随筆大成版を採用した。]亦數爲之慫慂。予性不ㇾ嗜浮華。懶放修辭遲。緩數年[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『敷年』だが、底本を採った。]。懇請不ㇾ已。遂書其事貽ㇾ之云。飯田近義撰。田中淸題額。島邦俶書。

 是碑文政十丁亥年落成。同年夏五月廿四日。借謄其拓本於關潢南父子。予戯批云。建是碑者。初看其龜不ㇾ拯焉[やぶちゃん注:一・二点を吉川弘文館随筆大成版で補った。]。死後貿肉與殼而瘞ㇾ之。則與ㇾ弔枯魚于市亦何異焉。仁乎慈乎。其不ㇾ及齋宣也遠矣。

 

[やぶちゃん注:まず、訓読を試みる(読みは推定で歴史的仮名遣で附した。また、一部で返り点とは異なる読みをした)。読み易さを考えて、段落を成形した。

   *

「瘞龜碑(えいきひ)の記」【碑は自然石、高さ、匠尺(しやうじやく)四尺一寸餘、橫、二尺八寸、系(つな)げたる欄の長さ、題額とともに、二尺七寸、二尺三寸、五行、一行は十八言(ごん)、字の大いさ、一寸一、二分。】

 海の漫々として、涯(はて)無く、底、無し。其の大(おほ)ひなるるや、固(もと)より、論ずる勿(な)きのみ。故に、水族の怪、其の間(かん)に出沒せる者は、鼋(おほがめ)・鼉(わに)・蛟龍(かうりゆう)、一つとして足らざるなり。

 予、嘗つて、吏職を奉りて、佐州に從事し、北海の濱に居(きよ)せり。魚鰕(ぎよか)と遊ぶこと、久し。

 文政二年己卯(キボウ/つちのとう)の春、州の南の鄙(ひな)、澁手浦(しぶてのうら)の漁夫、巨龜(おほがめ)を獲れり。形狀、凡(ぼん)ならず。壯者(さうしや)、十數人(じふすにん)、舁(か)きて、以つて、市(いち)を過(よ)ぎる。予、睹(み)て、之れを奇(き)とす。

 後(のち)、數日(すじつ)、人、有り、語りて曰はく、

「前日の龜は、已(すで)に屠家(とけ)に就(つ)けり。吾れ、儕(ともがら)は、食指、頗(しき)りに動かす。」

と。

 予、之れを聞きて、惻然(そくぜん)として曰はく、

「君子の物に於けるや、其の生(い)きたるを見れば、其の死せんとするを見るに忍びず、況んや、其の肉を食ふをや。且つ、夫(そ)れ、龜は靈物(れいぶつ)なり。而して、今、予且(よしよ)に困(くる)しみ、鼓刀の手に死せり。何ぞ、其れ、慘(いたま)しきや、何ぞ、其れ、慘しきや。」

と。

 是(ここ)に於いてや、倍の價(あたひ)を以つて、其の肉と殼を貿(か)ひ、州人の島充睦(しまあつむつ)をして、諸妙法山蓮長寺の側(かたはら)に瘞(うづ)めしむ。寺僧曰はく、

「此の寺、嘗つて、妙見(めうけん)の祠(ほこら)有り。夫れ、妙見薩埵(めうけんさつた)、崇德北極(そうとくほくきよく)、耀威一天(きいいつてん)、或いは謂ふ、元武(げんぶ)の神、是れなり。今、靈龜を此(ここ)に安(やすん)じ措(お)くは、亦、因緣、有るごとし。」

と。

 然(さ)れば、請ひて、石を立て、之れを記(しる)す。充睦も亦、數(たびたび)、之れを慫慂せんと爲(す)。

 予、性(しやう)、浮華(ふくわ)を嗜(たしな)まざるも、修辭に遲れ、懶放(らんはう)たり。緩(かん)たること、數年(すねん)、懇請、已(や)まず、遂に其の事(こと)を書して、之れに貽(のこ)して云へり。

   飯田近義            撰

   田中淸             題額

   島邦俶(しまはうしゆく)    書

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が最後まで一字下げ。馬琴の附記。]

 是の碑、文政十丁亥(テイガイ/ひのとゐ)の年、落成す。同年の夏、五月廿四日、其の拓本を關潢南(せきわうなん)父子、借りに謄(うつ)せり。予、戯れに批(ひ)して云はく、「是の碑を建つるは、初め、其の龜を看るも、拯(すく)はず、死後、肉と殼とを貿(か)ひて、之れを瘞む。則ち、枯魚(こぎよ)を市(いちにう)れるを弔ふに與(くみ)するに、亦、何ぞ異ならんや。仁か、慈か。其れ、齋宣(さいせん)に及ばざるや、遠し。」と。

   *

「妙法山蓮長寺」現在も新潟県佐渡市相川下寺町にある日蓮宗の寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。Lllo氏の佐渡島の総合ブログ「ガシマ」の「佐渡相川郷土史事典」の「亀碑(かめのひ)」に、『相川町下寺町の日蓮宗蓮長寺には、「瘞亀碑」が建てられていた。現在は、この碑がどのように処分されたか不明であるが、拓本が掛軸にして残されている。縦一二五㌢、幅八五㌢という大きなもので、碑文には経緯が記されている。文政二年(一八一九)己卯春に、渋手浦(真野町豊田)に漂着したウミガメ(種不明)を、佐渡奉行所の役人飯田近義』(☜)『が買い取った。碑文は相川町の島□(川嶋)充睦』(☜)『が書き、島家の菩提寺へ埋葬した。現在は、碑石の跡に亀石が置かれている』とあり、『【参考文献】 本間義治・佐藤春雄・三浦啓作『両生爬虫類研究会誌』(四一号)、本間義治・北見健彦『新潟県生物教育研究会誌』(三二号)、本間義治・石見喜一『新潟県生物教育研究会誌』(三六号)』とする。また、サイト「佐渡人名録」のこちらの「亀碑(かめのひ)」の項にも、全く同一の文章が確認出来る。せめてもと以上の参考文献が見られないかと探したが、見当たらなかった。

「匠尺」通常の曲尺(かねじゃく)のこと。

「四尺一寸餘」一メートル二十四センチ超。

「二尺八寸」八十四・八四センチ。

「系(つな)げたる欄」柵と入口の上に額を掛けた高欄があったものか。

「二尺七寸」八十一・八センチ。

「二尺三寸」約六十九・七センチ。

「一寸一、二分」三・三三~三・六三センチ。

「鼋」大型のウミガメ類。一九九三年三月発行の『富山市科学文化センター研究業績』第百四十三号の南部久男氏の短報「富山湾四方沖からのオサガメの記録」PDF)によれば(コンマを読点に代えた)、『佐渡を含む新潟県沿岸のウミガメ類の1922年から1990年における記録(漂着、定置網、刺網等)では、オサガメが56例と最も多く、次いでアカウミガメ27例で、その他、アオウミガメ11例、ヒメウミガメ6例である(本間、1990)。このうちオサガメは9月から3月まで記録があり、1月が多い。』とあるから、可能性が高い順に種は、

脊索動物門脊椎動物亜門爬虫綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科オサガメ科オサガメ属オサガメ Dermochelys coriacea

ウミガメ上科ウミガメ科アカウミガメ亜科アカウミガメ属アカウミガメ Caretta caretta

ウミガメ科アオウミガメ亜科アオウミガメ属アオウミガメ Chelonia mydas

ウミガメ科ヒメウミガメ属ヒメウミガメ Lepidochelys olivacea

となる。

「鼉(わに)」サメ類。

「蛟龍」所謂、想像上の海龍の一種である「みづち」。

「一つとして足らざるなり」一種というのでは、到底、言い尽くせない。

「文政二年己卯春」グレゴリオ暦で一八一九年一月二十六日から四月二十三日。

「澁手浦」現在の真野港のある新潟県佐渡市豊田地区の海辺。真野湾の小佐渡川の南東。

「屠家」動物類の屠殺業者。

「惻然」あわれに思って、心を傷めるさま。

「予且」「予且之患」(よしょのかん:身分の高い人が気付かれないように出掛けて、不幸な出来事にあうこと。「予且」は人名で、天帝の使者である白い龍が、魚の姿になって泳いでいると、漁師の予且に目を射抜かれて捉えられた、という故事に基づく)を元にした表現。

「鼓刀の手に死せり」「鼓刀」は「刀(とう)を鼓(こ)す」とも訓じ、「包丁を使って音を立てる」こと、則ち、「野生の中・大型の動物や家畜を殺して料理すること」を意味する。

「貿(か)ひ」「買ひ」に同じ。

「妙見」妙見菩薩(みょうけんぼさつ)は、北極星又は北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。妙見信仰はインドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星及び北斗七星信仰や星学と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来した。詳しくは参照したウィキの「妙見菩薩」を読まれたい。

「薩埵」菩薩に同じ。

「元武の神」五行思想の易や道教で言うところの「北」に応ずる四神の一つ「玄武」に同じ。

「浮華」うわべは華やかであるが、内実の乏しいこと。見掛け倒しの虚飾性(しょう)。

「修辭に遲れ」文章で表現するのに時間がかかり。

「懶放」「放懶」に同じ。「ものぐさ」の意。

「緩(かん)たること」ずるずると、文を成さずに延引すること。

「貽(のこ)して」残し伝えて。

「飯田近義」前注以外の事績は見当たらない。

「田中淸」不詳。

「島邦俶」不詳。先の引用に従うなら、正式な姓名は川嶋充睦。島邦俶は雅号或いは唐風の名乗りであろう。

「文政十丁亥」「五月廿四日」グレゴリオ暦一八二七年六月十八日。

「關潢南」は「せきこうなん」と読み、江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。彼は兎園会の元締であった曲亭馬琴とも親しく、息子の関思亮は「海棠庵」の名で兎園会のメンバーでもあった。

「批して」批評して。

「拯はず」命を救わず。

「枯魚」魚の干物。

「齋宣」意味不明。識者の御教授を乞う。]

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