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2022/09/22

西原未達「新御伽婢子」 旅人救ㇾ龜

 

[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとした。

 補篇には挿絵はない。

 底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」は正字化した。(*/*)のルビは右/左の読みを示す。

 注は文中や段落末に挟んだ。]

 

     旅人救ㇾ龜(りよじんかめをすくふ)

 或人、京より肥後に下るとて、礒(いそぎはを、舩にて行(ゆく)に、濱ばたに、人、多《おほく》、走集(《はしり》あつま)りて、騷(さはぐ)所あり。

「鯨(くじら)さく市人《いちびと》か、將(はた)、鹽やく賤(すづ)の業(わざ)にや。」

と、同船、四、五人、皆、濱に上《あが》つて、

「何事ぞ。」

と見るに、壱間余《あまり》[やぶちゃん注:一・八メートル超。]の、龜、ひとつ、中に取《とり》こめて、浦の者ども、あやしき刄(やいば)を持《も》て、

「頸(くび)を切らん。」

「足をそがん。」

のと、口々に訇(のゝし)る中に、年よりたる男、ひとり、若き者共に詞(ことば)をたれ、手をつかねて、

「ひらに。ゆるして、たうべよ。」

といふを、旅人、

「何としたる事ぞ。」

と問(とふ)。

 翁の云、

「此浦は、皆、無下にいやしき魚獵師(うをれうし)にて侍る。此ほど、ふしぎに、獵のきゝ侍らねば、恠(あやしみ)思ふ所に、今、なむ、此龜、大網(《おほ》あみ)にかゝつて、あがり侍る。『かやうに異(こと)やうにすさまじき生ものゝ、波上(はしやう)を譟(さはがす)時、衆魚(しゆぎよ/《おほきうを》)、隣浦(りんぽ/となりのうら)に去(さつ)て、其邊(ほとり)に住(すま)ず。去(さる)故、是を生(いけ)て歸さば、毎(いつ)までも、障(さはり)となつて、世の諞(たづき)に方便(てだて)を失(うしなは)んずる。』と、若き者どもの、『殺さん。』といふに、此龜、淚をながす事、間(ま)なく、是なん、血にて侍る。見給へ。」

といふに、實(げに)も血の色なり。

「蟲類(ちう《るゐ》)ながら、此悲しみを知る事、哀(あはれ)に侍れば、某(それがし)、『遠き沖につれ行《ゆき》、猶、遙(はるか)に此沖を立《たち》されと申含(《まをし》ふくめ)ん。』と言(いひ)、佗(わび)、宥(なだめ)侍れど、是非なく、たすくまじきに極(きはま)りぬ。色をも、香をも、知る、都人におはすと覺え侍らふ。翁に、力を合《あはせ》給へ。」

といふに、皆、慈悲の心を發して、いふ、

「誠に、糞中(ふんちう)の金とやいはん。わらづとに錦(にしき)を包(つゝむ)たぐひかは。かゝる邊鄙(へんぴ)のはて、しかも、殺生に渡世する中にして、やさしき翁には侍る。」

と、浦人に、鳥目五百疋をあたへて、龜を乞(こひ)とり、翁に渡す。

 老人、よろこび、すぐに、小舩(こぶね)にかきのせ、沖に出《いづ》れば、人々も、もとの舩にうつりて、西へ行《ゆく》事、五里斗《ばかり》あつて、老人、歸る。

「何(なに)と、放ちけるや。」

と。

 翁のいふ、

「舩より出《いだ》して、海に入れ侍るに、さうなく、海に沈まず、兩の手を合《あは》するやうにして、首(かうべ)をうなだれ、禮義をとゝのへ侍る。能(よく)こそ助(たすけ)給ふ、ありがたさよ。」

など、いふ内に、むかふより、白波、一きは、高く立《たて》て來《きた》る者、あり。

「何事にや。」

と周章(あはてさはぐ)に、翁の、早く見付《みつけ》、

「先ほどの龜なり。」

といふに、誠に、そなり。

 此舟にむかひ、礼拜(れいはい)のかたちをなし、掌(たなごゝろ)を合する風情(ふぜい)して、又、水底(みなそこ)に入《いり》ぬ。

 時に、翁、人々にかたりて。

「彼(かれ)は此沖に數百歲を經(ふ)る龜也。各《おのおの》、慈悲に依(よつ)て、危(あやうき)命を、のがれぬ。愚癡(ぐち)の因(いん)によつて、蟲類には生るれども、愁(うれへ)たる思ひ、悅ぶ心、人間に、猶、かはらじ。有《あり》がたき御志(《おん》こゝろざし)や。我、又、かれにおなじく、此沖に住(すむ)もの也。」

といふより、壱つの大龜となり、白波に飛入(とび《いり》)しが、忽(たちまち)、龜、二つ、洋々として首(かうべ)をたれ、人々の船を礼拜する事、暫して、又、水底に入《いり》けるとぞ。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]

  唐《もろこし》にて、さる者、「龜を煮て、くらはん。」とて、下女にいひ付《つけ》、「甲(かう)を放(はなち)て、あらへ。」といふ。下女、背戶(せど)の礒(いそ)ばたに出《いで》て思ふに、『生としいける類ひ、命惜(いのちをし)まぬものは、非じ。わきて、龜は、四㚑(《し》れい)のひとつ、殊に、いのちながきものと。我、これを海に放さんに、あるじ、とがむる事ありて、我命(わがめい)を、とらん。たとひ、ころさるゝとも、此龜の一生のながきにくらべば、千がひとつならん。』と、慈愛の思ひ、しきりなれば、誤(あやまつ)て取にがしたるていにて、海に、はなち、たすけにけり。あるじ、大きにいかり、せめ、さいなむこと、命、助かりたる迄也。其後、此國、疫癘(えきれい)はやりて、此下女も煩(わづら)ひしを、主人、もとより、情なきものにて、家の外に捨(すて)けるに、件(きだん)の龜、來つて、身(み)、泥(どろ)をぬりけるにぞ、大熱、さめて、本復(ほんぶく)しぬ。又、本朝に、山陰(《やま》かげ)の中納言御子《ちゆうなごんのみこ》に、如夢僧都(によむそうづ)といふ人、ありき。此人、幼(いとけなき)とき、父黃門(くわうもん)・妻子、各《おのおの》、舟にて他のくにぐにに行《ゆき》給ふに、北の方は、僧都の繼母(まゝはゝ)也けるが、此僧都をにくみて、乳母(めのと)に賂可(まいなひ)をとらせ、取《とり》はづしたるふぜいにて、海にしづめけるを、いづくともなく、龜、ひとつ、來(きたつ)て、甲(かう)にのせて、沈めず。初《はじめ》より、あやまつたる躰(てい)なれば、助(たすけ)侍らねば、かなはぬ事にて、引上ゲぬ。是は中納言、其古(いにしへ)、龜の、人にとられて、既に殺(ころす)べかりしを、、助(たすけ)給ひし陰德によつて、今、御子の命をすくふ陽報(やうはう)ありける。夢のごとく、ふしぎに助かり給ふとて、如夢僧都と申けるとぞ。利根博智(りこんはくち)の僧にて、いまそかりけり。

[やぶちゃん注:この前半の中国の説話の原拠を、私は不学にして知らない。ご存知の方は、是非、御教授願いたい。

「四㚑」「㚑」は「靈」の異体字。陰陽五行説の四神の北の「玄武」のことを言う。

「本朝に、山陰の中納言御子に、如夢僧都といふ人、ありき。……」は「今昔物語集」の巻十九の「龜報山陰中納言恩語第二十九」(龜、山陰(やまかげ)の中納言に恩を報ずる語(こと)第二十九)である。以下に示す。本文及び注は所持する小学館古典全集を参考にした。

   *

 今は昔、延喜の天皇[やぶちゃん注:醍醐天皇。在位は寛平(かんぴょう)九(八九七)年~延長八(九三〇)年。]の御代に、中納言藤原の山陰[やぶちゃん注:公卿藤原山蔭(天長元(八二四)年~仁和四(八八八)年)。四条流庖丁式の創始者として知られている。但し、ご覧通り、ここの叙述には時制に齟齬がある。]と云ふ人、有りけり。

 數(あまた)の子、有りけるが、中に一人の男子(をのこご)有りけり。形ち、端正にして、父、此れを愛し養ひけるに、繼母(ままはは)有りて、父の中納言よりも、此の兒(ちご)を取り分き、悲しくして、養ひければ、中納言、此れを極めて喜き事に思ひて、偏(ひと)へに繼母に打ち預けてなむ養せける。

 而る間、中納言、太宰の帥(そち)に成りて、鎭西に下りけるに、繼母を後安(うしろやす)き者に思ひて有る程に、繼母、

『此の兒を、何(いか)で失なはむ。』[やぶちゃん注:「何とかして、この子を殺してしまおう。」。先の優しさは偽りのポーズに過ぎなかったのである。]

と思ふ心、深くして、「鐘(かね)の御崎(みさき)」[やぶちゃん注:現在の福岡県宗像市玄海町(げんかいまち)の響灘に突き出た鐘ノ岬。]と云ふ所を過ぐる程に、繼母、此の兒を抱(いだ)きて、尿(ゆばり)を遣る樣にて、取り□□[やぶちゃん注:「外(はず)し」の欠字。]たる樣にて、海に落し入れつ。

 其れを、卽ちは、云はずして、帆を上げて走る船の程に、暫し許(ばか)り有りて、

「若君、落入り給ひぬ。」

と云ひて、繼母、叫びて、泣き喤(のの)しる。

 帥、此れを聞きて、海に身も投ぐ許り、泣き迷ふ事、限り無し。

 帥の云はく、

「此れが死(しに)たらむ骸(かばね)なりとも、求めて、取り上げて來たれ。」

と云ひて、若干の眷屬を、浮船(うきふね)に乘せて、追ひ遣る。

 我が乘りたる船をも、留(とど)めて、

「何(いか)でか、此れが、有り無し、聞きてこそ、行かめ。聞かざらむ限りは、此に有らむ。」

と云ひて、留るなりけり。

 眷屬ら、終夜(よもすがら)、浮舟に乘りて、海の面(おもて)を漕ぎ行くと云へども、何にしてかは、有らむ。[やぶちゃん注:「どうして見つかることが、これ、あろうか、いや、ない。」。]

 漸(やうや)く、夜、曙離(あけはな)るる時に、海の面(おもて)□[やぶちゃん注:欠字。「靑」(あをあを)辺りか。]として渡るに、海の面を見遣れば、浪の上に、白らばみたる小さき物、見ゆ。

『鷗(かもめ)と云ふ鳥なめり。』

と思ひて、近く漕ぎ行くに、立たねば、

『怪(あや)し。』

と思ひて、近く漕ぎ寄せて見れば、此の兒の、海の上へに打ち□□[やぶちゃん注:「屈み」「屈(かがま)り」などか。]て居(ゐ)て、手を以つて、浪を叩きて有り。喜び乍ら、漕ぎ寄せて見れば、大笠(おほがさ)許(ばか)りなる龜の甲の上に、此の兒、居たり。

 喜び迷ひて、抱(いだ)き取りつ。

 龜は、卽ち、海の底へ入りぬ。

 帥の御船(みふね)の許(もと)に、迷(まど)ひ[やぶちゃん注:大慌てで。]漕ぎ寄せて、

「若君、御(おは)します。」

と云ひて、指し出でたれば、手迷(てまど)ひして抱くままに、喜び、泣きぬる事、極(いみ)じ。

 繼母も、

『奇異(きい)。』

と思ひ乍ら、泣き喜ぶ事、限り無し。

 此の繼母は、内心を深く隱して、思ひたる樣に持て成して有りければ、帥も、偏へに其れを憑(たの)みて有りけるなり。

 此くて、船を出(いだし)て行く間(あひだ)に、帥、終夜(よもすがら)、肝心(きもこころ)、碎けて、寢(いね)ざりければ、晝(ひ)る、寄り臥して寢入りてける夢に、

――船の喬(そば)に、大なる龜、海より頸を指(さ)し出でて、我に物云はむと思ひたる氣色有り。然(しか)れば、我れ、船の端(はし)に指し出でたれば、龜なりと云へども、人の言はむ如くして云はく、

「忘させ給ひにけるや。一と年(せ)、我れ、河尻(かはじり)[やぶちゃん注:淀川の河口。]にして、鵜飼(うかひ)の爲めに釣り上げられたりしを、買ひ取りて、放たしめ給ひし所の龜なり。其の後、『何(いか)にしてか、此の恩を報じ申さむ。』と思ひ、年月(としつき)を過ぐるに、帥に成り下り給へば、『御送(おほむおく)りをだに、せむ。』と思ひて、御船(みふね)に副(そ)ひて行く間に、夜前(やぜん)、「鐘の御崎」にして、繼母の、若君を抱きて、船の高欄(かうらん)を打ち越して、取□□す樣にして、海に落とし入れしかば、其れを、甲の上に受け取りて、『御船に送(おく)れじ。』と搔(か)き參りつるなり。今、行く末も、此の繼母に打ち解け給ふ事、無かれ。」

と云ひて、海に頸を引き入れつ、と、見て――

夢、覺めぬ。

 其の後(のち)、思ひ出すに、一と年、住吉に參りたりしに、「大渡(おほわたり)」[やぶちゃん注:不詳。]と云ふ所にして、鵜飼、有りて、船に乘りて來たるを見れば、大(おほ)きなる龜一つ、面(おもて)を指し出でて、我れに面を見合はせたりしかば、極めて糸惜(いとほ)しく思へて、衣を脫ぎて、鵜飼に與へて、其の龜を買ひ取りて、海に放つ事、有りき。今ぞ、思ひ出でたる。

『然(さ)は、其の龜なりけり。』

と思ふに、極めて憐れなり。繼母の、怪しく、樣惡(さまあし)く、泣き迷ひつる、思ひ合はされて、極めて惡(にく)し。

 其の後(のち)、兒をば、乳母(めのと)を具して、我が船に、乘せ、移しつ。

 鎭西に着きても、心に懸りて後(うしろ)めたく思(おぼ)えければ、別の所に、兒をば、住ましめて、常に行きつつぞ、見ける。

 繼母、其の氣色(けしき)を見て、

『心得たるなりけり。』[やぶちゃん注:「感づかれてしまったのだわ。」。]

と思ひて、何(いか)にも、云ふ事、無かりけり。

 帥、任、畢(をは)りて、京に返り上りて、此の兒をば、法師に成しつ。

 名をば、「如無(によむ)」と付けたり。既に[やぶちゃん注:一度は。]失(しつ)たりし子なれば、「無きが如し」と付けたるなりけり。

 山階寺(やましなでら)の僧として、後には宇多の院[やぶちゃん注:宇多天皇。在位は仁和三(八八七)年~寛平(八九七)年)。]に仕へて、僧都(そうづ)まで成り上(のぼ)りてぞ、有りける。

 祖(おや)の中納言、失せにければ、繼母、子、無くして、此の繼子の僧都にぞ、養はれて失せにける。事に觸れて、何(いか)に恥かしく思ひ出だしけむ。

 彼(か)の龜、恩を報ずるにしも非ず、人の命を助け、夢見せなどしけるは、糸(いと)只者(ただもの)には非ず。

『佛・菩薩の化身などにて、有けるにや。』

とぞ思ゆる。

 此の山陰の中納言は、攝津の國に總持寺と云ふ寺、造りたる人なり、となむ語り傳へたるとや。

   *]

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