西原未達「新御伽婢子」 太神宮擁護
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻四・五・六のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」を加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」とした。標題中の「擁護」(現代仮名遣「おうご」)は仏語で、仏・菩薩などが人の祈願に応じて、守り助けることを言う。
注を段落末に挟んだ。]
新御伽巻六
太神宮擁護(だいじんぐう《わう》ご)
天和三のとしの春、江刕水口(みなくち)、去(さる)土民の女房、伊勢に參宮の心、しきり也。二才の子、ひとり、持(もて)りければ、いだきて出《いで》んも、はるばる難義なるべし。殘し置《おか》ば、飢《うゑ》なん。夫(をつと)に問(とひ)たりとも、やわか、ゆるすまじければ、とかく案じけれ共、唯、一向(ひたすら)引《ひつ》たつる斗(ばかり)、詣《まうで》たくおもひければ、今は堪(たへ)しのぶへくもあらず、或曉(あかつき)より、まぎれ出《いで》ぬ。乳(ち)のみ子を捨置(すておき)、亭主にもしらせずして、出《いで》る。
[やぶちゃん注:滋賀県甲賀(こうか)市水口町(みなくちちょう)水口(グーグル・マップ・データ)。
「やわか」ママ。「やはか」が正しい。副詞で下に打消推量表現を伴って、「よもや」「まさか」の意。
「引たつる斗」ここは民俗社会でよく用いられる、「神仏の招く超自然の力に自然に引っ立てられるかのように」のニュアンスであろう。]
跡にて、此子、なきさけぶ事、暫(しばし)もやまず、おさおさ、母をみしりたる比《ころ》にて、余所(よそ)の乳味(にうみ)は、ふくみもやらず、男、大きにいかり、腹立て、
「かく、いとけなき子を置《おき》て、日かず、ほどふる物詣(ものまふで)、假令(たとへ)ば、己(おのれ)、所願ありて、身のほゐを祈る共、只、独(ひとり)ある小児(こ)を捨(すて)、爭(いかで)、神慮に叶(かなふ)べきや。哀《あはれ》を知らぬ心、畜類になん、をとり[やぶちゃん注:ママ。]たり。」
と惡口(あつこう)を盡(つく)す。
[やぶちゃん注:「ほい」ママ。「本意」であろうからして、「ほい」が正しい。「かねてよりの願い・宿願」の意。]
一曰(ひとひ)、二日と過行《すぎゆく》内に、此子、次第に瘦枯(やせほそり)て、賴《たより》なく見ゆるに、父、悲しみ、粥(かゆ)・地黃煎(ぢわうせん)なんど、調(とゝのへ)、もだゆれ共《ども》、嬰児(《えい》じ)の、かひなく、弱果(よはりはて)て、四日といふに、むなしく成《なり》ぬ。やらんかたなく、悲しめ共、力なく、土中(ど《ちゆう》)におさめ、一基(《いつ》き)の主(ぬし)となし、淚の雨にかきくれ、打《うち》しほれたる所へ、女房、いせより、下向しけり。
[やぶちゃん注:「地黃煎」根が漢方生剤「知黄」とされるキク亜綱ゴマノハグサ目ゴマノハグサ科アカヤジオウ属アカヤジオウ Rehmannia glutinosa の甘味のある根の粉末を添加して練った本邦の飴。ウィキの「地黄煎」によれば、室町時代には、同類のものが売り出されており、『江戸時代』『にも、飴としての「地黄煎」は製造・販売されており』、元禄五(一六九二)年に『井原西鶴が発表した』「世間胸算用」にも、『夜泣きに効くという趣旨で「摺粉に地黄煎入れて焼かへし」というフレーズで登場する』。元禄八年刊の「本朝食鑑」には、『膠煎(じょうせん)として紹介され、これを俗に「地黄煎」という、としている』。元徳二(一七一二)年刊の「和漢三才図会」に『よれば、膠飴(じょうせん)と餳(あめ)は湿飴』(しるあめ:水飴のこと)『とは異なり、前者は琥珀色、後者は白色であり、煮詰めて練り固めて製造する膠飴』(こうい:漢方名)『のなかでも、切ったもの(切り飴)を「地黄煎」という、と説明している』とある。
「もだゆれ共」夫は嬰児のために「ひどく苦しんで」世話したのであるが、の意であろうが、ちょっと無理のある表現である。]
夫、更に目もやらず、歎きの床(とこ)に臥(ふし)ながら、女を、のゝしりて、いふ、
「何條(なんでう)、己(おのれ)參宮の心、切ならば、いとけなき者を、負《おひ》ても抱(いだき)ても、つれゆかぬぞ。つれ行《ゆく》事の、くるしくば、詣(まふで)ぬこそ、まさるべけれ。たまたま、ひとりの子をまうけて、朝(あした)の花、夕(ゆふべ)の月と詠《ながめ》し。情(なさけ)なくも、捨(すて)をきて[やぶちゃん注:ママ。]、あへなく、むなしく、消(きえ)しぞや。ふびんや、かはゆや。」
と、且は、恨(うらみ)、且は、歎(なげき)て、かきくどくに、女、きいて、少《すこし》も、なげかず、
「そなたは、何を、の給ふ。我、此子を置(おき)て出《いで》しを、隣(となり)成《なる》人の、跡を追《おひ》て、つれ來り、我に手渡し給ひしほどに、道のなんぎを思ひしかども、是非なく、つれて參宮せしが、長《なが》の旅路もくるしまず、殊更、健(すこやか)にて、乳(ち)を吞(のみ)て爰にあり。是、見給へ。」
と抱出(だきいだ)す。
[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]
夫《をつと》、誠《まこと》と思はずながら、枕をあげて、見やりけるに、あらそふべくもなき、我子也。
「こは。そも、いかに。不審(いぶかし)。正(まさ)しく、此子、世を早(はやう)し、きのふのくれ、そこそこに土葬し置《おき》たるぞ。」
と。
急ぎ、其所《そこ》に行《ゆき》て、土を穿(うがち)てみるに、棺の内に、「太神宮」の御祓(《おん》はらい)、箱ながら、いと、たうとくて、おはしける。
男、甚(はなはだ)、感信(かんしん)して、
「おほけなくも、訇(のゝしり)ける事よ。」
と、悔悲(くいかな)しみけるとぞ。
誠に、和朝(わてう)は神の御国(みくに)にて、かゝる御《おん》めぐみの數(かず)をしとふに、いか斗《ばかり》と限なきを、とり出て申《まをし》侍らんも、こと更《さら》めきたれど、曉季(ぎやうき)の今の世にも、誠(まこと)、心に祈るには、利生(りしやう)あらたにまします事よ。と有がたく思ひ奉る事の、あたらしければ、是を書《かき》しるし侍る。
[やぶちゃん注:「曉季」既に注したが、末法の世の初めの意であろう。
因みに、江戸時代、中・後期には伊勢神宮参詣が爆発的に盛んになった。人ばかりではなく、驚くべきことに、犬や豚までが、単独で、参詣した。私の「耳嚢 巻之九 奇豕の事」の本文及び私の訳注を参照されたい。]