西原未達「新御伽婢子」 古屋剛
[やぶちゃん注:底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらに拠った。本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版はここ。但し、所持する昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊「西村本小説全集 上巻」をOCRで読み込み、加工データとし、挿絵もそこに挿入された写真画像をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。なお、画像は小さく、しかも薄いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のリンクも附しておく。
底本は崩し字であるが、字体に迷った場合は、正字を採用した。読みは、振れる一部に留め、読点や記号は底本には全くないので(ごく一部に句点はあるが、用法が単なる区切りでしかないので、それに必ずしも従ってはいない)、独自に打った。一部で《 》で推定歴史的仮名遣で読みを入れ(歴史的仮名遣を誤っているものもこれで正しい仮名遣で示した)、読み易さを考え、段落を成形した。濁点・半濁点落ちの本文が多いが、ママ注記をすると五月蠅いだけなので、私の判断でそれらを附した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文脈部分は返り点のみ附したものを示した後に〔 〕で訓読文を示した。
必要と思われる語句について、段落末に注を附した。
読みの(*/*)は右/左の読み(左は意訳)を示す。]
古屋剛(ふるやのかう)
九州、或方(ある《かた》)の御内《みうち》に、赤松何某(なにがし)とかや云《いふ》勇猛(ゆうまう/はなはだたけきさふらひ)の士あり。儒窓(じゆさう/ まど)に眠(ねふる)事、良(やゝ)久(ひさしく)、義心、不ㇾ輕(かろからず)、武、また、兼備(けんび/かねそなへ)したり。
もと、此主人、東(あづま)より爰に國替有し砌(みぎり)、御城の側(かたはら)に異やうに荒果(あれはて)て、いつ、人の住《すみ》たりとも覺えぬ、いたく朽(くち)たる屋敷あり。
百性(ひやくしやう)[やぶちゃん注:ママ。]共を召(めし)て、問はせらるヽ。
百性ども、申す。
「此屋敷には、化生(けしやう)、住《すみ》て、幾(いくばく)の人、屋移(《や》うつ)り在りても、一夜《ひとよ》をだに、明(あか)させ申さず。或は、迯去(にげさり)、或は、絕入(ぜつじゆ)し給ふになん、をはす。」
と申《まをす》。
「何条(なんでう)、上(かみ)より拜領し奉る所に、異(こと)ものゝ來て、主(しゆ)たらん事、あらん。赤松何某に爰《ここ》を得さす。堅(かたく)守りて、ぬしたるべし。」
と直(ぢき)に仰在《おほせあり》けり。
赤松、
「忝《かたじけない》。」
と、御請《おうけ》申し、
『誠(まことに)、家中多きに、撰出(ゑらみだ)され、給はる事、若《もし》、化生住《すむ》事、虛僞(きよゐ/いつはり[やぶちゃん注:ママ。])ならずば、退治せよ。』
との御胸内(《きやう》ない/むね )、
「家門美目(かもんのびもく)、何(なに)が之《これ》に加(し)かん。」
と、日をかへず、直(すぐ)に屋敷に移り、其夜は、
「心だめしに。」
とて、身の出立《いでたち》、甲斐甲斐しく、太刀・鑓・長刀(なぎなた)、武器を雙(なら)べ、鉢巻し、具足櫃(《ぐそく》びつ)に腰をかけ、大蝋燭、日をあざむひて(さゝげ)、下侍(しも《ざぶらひ》)、四、五人、二列(れつ/つらなる)し、四方(よも)の咄(はなし)に、夜《よ》更(ふく)るを待(まつ)。
[やぶちゃん注:『赤松、「忝。」と、御請申し』この部分、「西村本小説全集 上巻」では、『赤松添と御請申し』となっているのだが、これでは、読みようがない。崩し字を見るに、確かに「添」の崩しに似てはいるが、意味からも、崩し方からも、これは間違いなく「忝」が正しいと断定出来る。]
既に半夜(はんや)の鐘、是生滅法(ぜしやうめつぱう)の響(ひゞき)を告(つげ)、世間、靜なるに、嵐雨(らんう/あらしあめ)、蘇鉄(そてつ)にそぼち、いとゞ物すごき比《ころ》、下侍、同時に、眠(ねふり)、きざして不ㇾ堪ㇾ忍(しのぶにたへず)、まろび寢(ね)ぬ。
赤松は、至剛(しいかう[やぶちゃん注:ママ。])の人にて、氣を奪はれず、燈(ともしび)、猶、かゝげて、待(まつ)。
時に、したたかなる足音して、來る物、あり。
[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像はここ。]
障子を、
「くわつ」
と、あけ、
「えい。」
と云《いひ》て、座敷(ざしきへ)あがるものを見れば、其長(たけ)、天井にひとしき坊主、顏は臼(つきうす)の大きさして、眼(まなこ)、車輪のごとくなるが、赤松を、
「はた。」
と罵(にらん)[やぶちゃん注:漢字・読みともにママ。]で、立居(たちゐ)たり。
「すはや。」
と、刀をくつろげ、
『柄(つか)も、拳(こぶし)も、くだけよ。』
と、にぎつて、是《これ》も、法師を罵(にらん)で、眴事(まじろぐこと)、なし。
暫(しばらく)有《あつ》て、法師の云《いふ》、
「天晴(あつぱれ)、男かな。今宵は更《ふけ》ぬ。明夜《みやうや》、疾(とく)まいりて、語らん。」
と、云捨(《いひ》すて)、又、もとの道を行《ゆく》に、其足音、家に響(ひゞき)て、雷(らい)のごとし。
此時、既に、
『切付《きりつけ》なん。』
と思ひしが、
『否々(いやいや)、明夜來《きた》らんといひし所、面白し。又、いかなる異形(《い》ぎやう/ かたち)を化(け)して來らん、それを見ぬは、無念なり。』
と、靜(しづか)に侍共を動起(うごかしおこ)し、
「此在樣(ありさま)、見けるや。」
と問(とふ)。
皆、口々に、
「何とは不ㇾ知(しらず)、庭に、物の音《おと》なひ、聞ゆと、ひとしく、一向(ひたすら)、眠(ねふり)出《いで》て、死入(しに《いる》)心ちし、何事をも、見ず。」
といふ。
赤松、聞《きき》て、
「『明日の夜、必、來べき。』といひし程に、生(いけ)て歸しぬ。待《まち》つけて、各々(おのおの)、見よ。」
と、次の夜を、遲し、と待《まつ》。
其夜は、早(はや)、戌(いぬ)の過《すぎ》、亥《ゐ》の初(はじめ)[やぶちゃん注:午後九時頃。]なるに、件(くだん)の足音、聞ゆると、宿直(とのゐ)の侍共、寢入事(ね《いること》)前のごとし。
障子、明《かえ》て、いらんとする所を、すかさず、討(うた)んとしければ、法師、聲をかけて、言(いふ)、
「相構(《あひ》かまへ)て卒爾(そつじ)し給ふな。我は是《これ》、此所《このところ》の主(ぬし)として、數百歲(すひやくさい)を經(ふ)る。『此家に來《きた》る人、心、剛なるをもつて、つれづれの伽(とぎ)とせん。』と思ひ、多くの家うつりの初見(しよけん)に出《いづ》れば、我(わが)形(かたち)にをそれて[やぶちゃん注:ママ。]、絕入(ぜつじゆ)し、われかの氣色に成《なる》もあり、逃(にげ)まどひて、二度、爰に來らず。今、君が大剛なる事、千万人に勝り、向後(かうご)參り、昵語(むつまじくかた)るべし。初《はじめ》て昵近(ちかづき)のしるしに、我《わが》重寶(《ちよう》ほう)を引手物せん。」
と、刀一腰(こし)をあたふ。
赤松、打諾(うちうなづき)、此刀をとるやいなや、拔討(ぬきうち)に切《きり》つけたり。
手ごたへ、したゝかにして、法師は、庭に逃去(にげさり)、血は席上に紅(くれなゐ)を亂す。時に侍共を起し、燭(しよく)をかゝげ、血をしたい[やぶちゃん注:ママ。]、跡を求(もとむ)るに、一町斗《ばかり》、巽(たつみ)のかたに、藪あり。
纔(わづか)の穴の内へ、血、流れたり。
各《おのおの》、不審をなし、
「何樣(なにさま)、古き狸(たぬき)なるべし。ふすべよ。」
と言《いふ》こそ遲けれ。
靑松葉をたきて、穴の中へ、あをち入るゝ。
[やぶちゃん注:「あをち」不審。「あふり」(煽り)の誤刻か。]
暫(しばし)して、少(ちいさき)狸の、いくらともなく出《いづ》るを、突殺(つきころ)し、うちふせ、
「猶、此奧、覺束(おぼつか)なし。」
と、卽時に、弐間斗《ばかり》[やぶちゃん注:三メートル六十四センチ。]、堀(ほり)て[やぶちゃん注:ママ。]見るに、特牛(ことい)のふしたるほどの古狸(ふる《だぬき》》、深き疵(きづ)に苦しみて居(ゐ)けるを、引出《ひきいだ》して、切殺(《きり》ころ)しけり。
扨、狸のあたへたる刀を、御前に披露するに、御家老の祕藏の名釼(めいけん)にて、刀箱(かたなばこ)に有しを、蓋(ふた)も鎖(じやう)も其儘にて、盜來(ぬすみ《きた》)るこそふしぎなれ、「あふひの刀」にて侍るとぞ。
[やぶちゃん注:「特牛(ことい)」正しい歴史的仮名遣は「ことひ」。古く「こというじ」とも言った。強健で大きな牡牛。頭の大きい牛。また、単に牡牛のこと。「こって」「こってい」等、変化した言い方が多い語である。
以下は、底本では全体が三字下げで、字も小さい。]
昔、楠正成、㚑鬼(れいき)と成り來りて、大森彥七が名劍を奪はんとはかりしかども、取得る事、叶はざりしに、畜類の妖怪として、かゝる事をなしける、おそるべき事にこそ。
[やぶちゃん注:「楠正成、㚑鬼(れいき)と成り來りて、大森彥七が名劍を奪はんとはかりし」「太平記」由来の怪奇伝承。南北朝時代の武将。通称を彦七(ひこしち)と称した大森盛長。派生話はウィキの「大森盛長」に詳しい。盛長が楠木正成の怨霊に遭った伝説を描いた月岡芳年画「新形三十六怪撰」の「大森彦七道に怪異に逢ふ図」も見られる。「太平記」の原話の梗概は、サイト「日本伝承大鑑」の「愛媛」の「魔住ヶ窪」がよい。]