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2022/10/31

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「志賀隨應神書」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上四行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附したが、訳の分からぬ怪しげな「隨應神書」については、ほぼそのままとし、文末と思われる箇所の読点のみ、吉川弘文館随筆大成版を参考に、概ね、句点とした。

 本篇の「隨應神書」部分は、一種の偏執病(パラノイア)の日本神話や神仙思想をゴチャまぜにして作り上げた妄想的創作物である印象が拭えず、所々、意味が私には判らぬだけでなく、何となくキビが悪いから、訓読しないし、注も附さない。せめても、電子化しただけでも、「よし」と認められたい。悪しからず。どなたか、訓読や注に挑戦されたら、是非とも、ネットにアップされ、その時は御一報下されば、有難い。

 

   ○志賀隨應神書

吾友、大鄕信齋《おほがうしんさい》云、榊原越中守照祗朝臣は、余が莫逆の友なり。彼《かの》家、舊傳《くでん》の書の内に、隨應が神道傳授の一卷あり。書尾に、「正德四年志賀隨應秀則。駿州府君と見《まみ》ゆ。彼家に師賓たり。」とぞ。

[やぶちゃん注:「志賀隨應」「秀則」加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「曲亭馬琴資料」「文政十年(1827)」のページの「十一月十一日『馬琴日記』第一巻」の条に、『雪麿事田中源治来ル。先達而、英泉より、志賀随翁真跡所持之人有之、同藩雪麿ト申者持参、入御覧度旨、私迄頼候間、罷出候ハヾ、御逢被下候様申上候ニ付、今日逢有之』とあり、加藤氏の注で、『雪麿は戯作名墨川亭雪麿』(ぼくせんていゆきまろ 寛政九(一七九七)年~安政三(一八五六)年:浮世絵師で戯作者。本姓は田中、名は親敬。越後高田藩江戸詰藩士。喜多川月麿の門下で美人錦絵を描き、戯作を柳亭種彦に、狂歌を鹿都部真顔(しかつべのまがお)に学んだ)。『「滝沢家訪問往来人名簿」には』、『丁亥十月十一日初入来英泉紹介 榊原遠江守殿家臣湯嶋七軒町(上)中やしきに在り 雪麿事 田中源治』『とあり、ちょうど一ヶ月前に英泉の紹介で対面したばかりである。雪麿が持参した「志賀随翁真跡」の随翁は、大田南畝の』「一話一言」『巻四十九に』、『春毎に松のみどりの数そひて千代の末葉のかぎりしられず 藤恕軒志賀氏随応行年百有余歳』『と書き留められた長寿で有名な人であった』とある。これ以外には事績などの詳細は見出せなかった。同姓同名に本心刀流(ほんしんとうりゅう)の剣士がいるが、同一人物かどうかは不明。

「大鄕信齋」(明和九(一七七二)年~天保一五(一八四四)年)は儒者で越前鯖江藩士。名は良則。初め、芥川思堂、後に昌平黌で林述斎に学んだ。述斎が麻布に作った学問所城南読書楼の教授となった。文化一〇(一八一三)年、藩が江戸に創設した稽古所(後に「惜陰堂」と称した)でも教えた。著作に「心学臆見論」などがある(講談社「日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「榊原越中守照祗」不詳。「照祗」は「てるただ」と読むか。

「正德四年」一七一四年。

「駿州府君」徳川家康。ここは生前の駿府城の家康に逢い、ゲスト格で優遇されたということらしい。]

かく告られしかば、その神道傳授てふ書を、見まくほしう思ひたりしに、近ごろ越後高田候の家臣田中源治【戲號、「雪麿」。】、てふ人、五、六ひらの寫本を懷にし來《きたり》て、「こは、隨應が神書のうつし卷也。同家臣岡島但馬といふもの、『借《かり》得て寫しとりたれば、翁に見せまゐらせよ。』とて、おこしたり。」といふ。やがて、ひらき見れば、かねて信齋老人の告《つげ》られし件《くだん》の一卷なり。「原本は、大字にて、卷物なるを、借抄、只、一日と限られたれば、模寫するに遑《いとま》なかりき。よりて、印章をのみ、模して、余は絹字に錄したり。」といふ。いと惜むべし。則《すなはち》、季女《すゑむすめ》の舅《しうと》なりける渥見老人の手をかりて、臨寫せしめたるもの、左の如し。

[やぶちゃん注:「季女」瀧澤鍬(くわ)。

 以下、奇体な神話の部分は、底本では全体が一字下げである。]

書中に「先代舊事本紀」を引《ひか》れしなど、すべてうけがたきものなれど、その故鄕・實名などは、この書によりて知らる。とまれかくまれ、珍書なり。

天津兒屋根二十世神祗道宗源長祖種子命道統、二十世藤原大織冠鐮足公宗流神祗一道相續、三十九世九州志賀島遊人藤原隨應秀則。

謹奉尊紀

三社大權現普傳記

 葛城章         後號大諏敎本紀

白於天祖時天祖詔日、理罪不ㇾ可ㇾ逃、卽下天咒

 天人熊命化成幡取之則

大照太神大日孁立(をゝひるめのむち)天門前、

 是冗伏ニ誄心貳其元也。

是食保姬命得五穀、自在心生慢情、故遇此難

 人有慢心則得天障其理元也。

其後此三幡磐余彥(いはれひこ)天皇時、化金色鳶諒滕幡今在山背國怨兒(あたこ)山太神、此神摩爲ㇾ神。

 是天狗神爲ㇾ障爲ㇾ怨、其元也。

又素狹雄尊、猛氣滿胸腹而餘成吐物、化成天狗神姬神而威强、其軀人身頭獸首也。鼻長耳長、牙長形也。

食保媛神尸、即化白野干而化惑國神

 是狐化感人 其元也。

天照大神詔曰、地食保媛神者、吾分ㇾ魂神、非邪天神惡神中返怨其氣爲ㇾ魅。

汝月誦神宜ㇾ祭此神、時月弓尊設供祭ㇾ之。遂成世間大富饒主、是狐主富、其元也。

是後大己貴神、惡其妖國中狐一‘神怒曰、方使ㇾ假示ㇾ汝、追ㇾ吾者亦所ㇾ追、謂了西飛、果大己貴神、爲天孫四飛。

 是御威對凶御德和恩吉其元也。

今在山背國飯成山大神、使天下狐主司驗災害。又伏邪夭至人伏邪同彼還化、其元也。

種子命十八世常盤大連、以神代文字儒字

請誰改平安城洛外封藤森大明神

 唯一神祗道統記

宇加魂神、      宇宙曰、

宇所訓天地上下高太也。宙所謂四方四隅廣大也。

加ㇾ當巽虧盈加二不足故、巽撰而禎益道也。潔齋依ㇾ於ㇾ爰、魂造化萬種之氣、而無休神也。

五世國兩大神宮祭末社地、社隨一神、而尊體三面之宇加神也。

天狐神、空狐神、白狐神、地狐神、阿紫靈、是則土社神也。號五社大明神靈玅、大己貴神追ㇾ之、故渡于白齊國乎。其後大己貴神諸共歸朝、而任國中、且四國地不ㇾ足方百里、不ㇾ好天狐神、不ㇾ定千歲死靈之尊號也。

空狐神歷千歲、化仙狐神、則號空狐神乎。

三千年後、身蛻化天遷、則號飯成空狐神乎。千里通達神也。

白狐神、上九百歲餘、下五百歲餘、號白狐神乎。

地狐神、上五百歲餘、下百歲餘、號地狐神乎。是廼地仙神也。人間之一歲當千五年乎。

阿紫靈、上百歲下一歲迄、號阿紫乎。

阿紫五十歲而移靈山靈地修行、而學修身仙術道凡五十年乎。至百歲鄕府千古鄕乎。[やぶちゃん注:「千」の右にママ注記がある。]

崇神御宇、請混諡改或有ㇾ告。故至正一位類多末世乎。

上古奉封飯繩大權現

[やぶちゃん注:以下、底本では、「天遷」の前までが二字下げとなっているので、ブラウザの不具合を考え、一時下げで途中で改行した。]

 夫飯者萬像性情、本養育有於穀乎。繩者

 心緖而、所謂臍帶氣之繩乎。能結ㇾ之謹、

 則無爲而無疾病、得長生乎。

 或曰、無爲者非無有乃言、何爲之道

 乎。曰、本搖乎爲搖乎、大道一貫、貫

 理之明玅也。

 氣緩而解、則身緩解、而或早死。此繩身

 中十六丈二尺、一晝夜營衞身中、流行

 五十度、都八百十丈、而日出時也。氣筋

 骨行内外乎。故修身長生者、有ㇾ結

 於心緖乎。

天遷同空狐神、平安城飯成山、年歲臨遷之次第、

 正月神年壽十二萬七千五百歲餘

 二月神年壽十二萬五千三百歲餘

 三月神年壽十二萬三千七百歲餘

 四月神年壽十一萬七千五百歲餘

 五月神年壽十一萬五千七百歲餘

 六月神年壽十一萬三千九百歲餘

 七月神年壽十一萬二千八百歲餘

 八月神年壽十一萬一千七百歲餘

 九月神年壽十一萬七百五十歲餘

 十月神年壽十一萬五百七十歲餘

 十一月神年壽十一萬四百九十歲餘

 十二月神年壽十一萬三百七十歲餘

每年初午日、替飯成山而五世國、至兩身海邊、拜禮海回戸鏡、拜兩大神宮社宇加神、終歸社諸國于本社畢。

謹敬奉尊紀五社神禮社、

五社奉向神前五身印衆、  口議、

 終五神冗文曰、

 恩慈御意有今爰、

 用日日奉御意、

  次咒曰、

テソダギニ ギヤベヰ キヤチ ギヤヽ、ニヘヒ ソヮカ。

咒終て五神の尊號申して拜社して、

 五種印にて、  口議、

 東方 南方 西方 北方 中央、

 吐普神身依身多女、

 寒言神尊利根陀見、

日本國中大小乃神祇、別而氏神產守(うぶすなのかみ)名神と念終、

飯成五社祭、供饗、

花一枝、或は白けいとうの花、かけぼし口議、

赤飯、もち五かざり、あまざけ、肴鯛五つ、あらひよね五かざり、皆土器にもりて外に菓子有合。

御幣帛三飾、 口議、

  月次の祭

 洗米五そなへ、もち同、さけ二器、又洗米、

 たうふ、さかな有合、さけ迄なり。

 已上、

正德四年甲午歲正月吉祥日謹記之

               志賀隨應秀則

   駿州府君公

  奉呈上

[やぶちゃん注:以下、馬琴の附記で、字下げなし。]

この他、隨應が、牧野新右衞門【高田候家臣。】に與へし自筆の手簡一通あり。そは、興繼に草字せしめて、返魂餘紙、下卷に貼したり。隨應が、水馬の術に妙を得たる事、幷に門人上野恕信《うえのぢよしん》が事も、その書によりて知らる。祕藏すべし。件の老人の事の考《かう》は、予が「玄同放言」に載《のせ》たれど、なほ、引漏せし事、あり。近ごろ、信齋老人の抄錄して、忠告せられしもの、左の如し。

「月堂見聞集」に、『享保八年卯五月、下條長兵衞、尙齒會《しやうしくわい》の第一、志賀隨應一百七十七。』と記したり。又、見「掃聚雜談」、又、小野齋宮高尙【大御番。】の隨筆に、『百二十四』に作る。

又、正德五年、生島氏の會には、『百六十七』とあり。隨應の年紀諸書に載するもの、等しからざる事、斯の如し。件の翁は年をかくして、人には定かに告《つげ》ざりしならん。この他、なほ、考ふべし。

[やぶちゃん注:「牧野新右衞門【高田候家臣。】」やはり、加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「ゆきまる ぼくせんてい 墨川亭 雪麿」のページの、文政一〇(一八二七)年の条の、「『滝沢家訪問往来人名録』下p117(曲亭馬琴記・文政十年十月十一日)」に、『貼紙・馬琴筆』として、『随翁手帋』(てがみ)『伝来 牧野新左衛門ひまご 當時 牧野新介 同 持主ハ 岡嶋但見』とあり、さらに、下方の天保五(一八三四)年の条に、「『馬琴日記』第四巻 p225(天保五年十月十八日付)」として、『榊原李部家臣田中源治事、雪丸来訪。予、対面。同藩牧野新右衛門、享保十三年七十算賀之時、志賀随応歌かけ物携来て見せらる。右新右衛門孫某書付ニ、随翁年百七十餘と有之。しかれども、随応自筆ニハ、百有餘歳としるす事、例のごとし。同人懇友梅丸、来訪願候よし、紹介致さる』と出る。因みに、その後に加藤氏の注があり、『墨川亭雪丸は文政十年、十一年に志賀随翁の書簡などを持参していたが、今度は古稀の祝の歌の掛け軸を持参した』とある。

「興繼」(おきつぐ)は本「兎園小説」諸本にしばしば登場してきた馬琴の嫡男。医名は宗伯。当時は松前藩医員。馬琴が自身の武家への復活をかけていた子で、大いに期待していたのであるが、病弱のため、後、医業をやめ、父の著述校正を手伝ったりしていた。天保六(一八三五)年五月八日に馬琴に先だって(馬琴は嘉永元年十一月六日(一八四八年十二月一日)死去)急逝してしまった。享年三十九。

「返魂餘紙」(四冊)馬琴手製の貼り交ぜ帖。「別集」(二冊)も文化五(一八〇八)年に編されている。「はんごんよし」と読んでおく。

「上野恕信」医師。以下に示す「玄同放言」の随応の記事中に出る。国立国会図書館の「リサーチ・ナビ」の「日本医家伝記事典 宇津木昆台『日本医譜』」の医師名リストにも出る。

「玄同放言」馬琴の考証随筆。三巻六冊。滝沢琴嶺興継と興継の親友であった渡辺崋山が画を担当している。一集は文政元(一八一八)年、二集は同三(一八二〇)年刊。主として天地・人物。動植物に関し、博引傍証して、著者の主張を述べたもの。題名の「玄同」は「無差別」の意である。同書は吉川弘文館随筆大成版で所持するので、調べたところ、「卷三 人事部二」の「壽算」の第三十二「壽算」の一節である。「国文学研究資料館」のこちらで原本の当該部が視認出来る(左丁四行目の「○」以下から)ので、本体部の訓読や注をしていない分、せめても、これは以下に電子化することとする。読みの一部を外に出した。[ ]は底本では囲み罫。読みは一部に留めた。訓点式の部分はそのままカタカナで書き下し、一部に《 》で字を添えた。異体字は知られた正字に代えた。

   *

○ちかき世の口碑に傳へたるものに、[志賀隨應]より壽なるはなし、しかれどもその事迹定かならず。一説云、隨應ハ、志賀氏、名ハ義則、藤恕軒(トウヂヨケン)ト號ス、天正四丙子ノ年[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七六年。]、豊後國ニ生ル、童名ハ亀之助、少少(ワカキ)ヨリ武器ヲ作ルニ賢ナリ。人ト成ルニ及テ、織田内大臣二仕フト云フ、老後江戶ニ來リテ、新橋ノ上(ホトリ)ニ處(ヲ)レリ、又赤坂ニ居リシトモイヘリ、隨應曽(カツ)テ方伎(クスシ)ヲ業トシ、旁ラ神書ヲ看(ミ)ルコトヲ好ミ、閑暇ノ時ハ、釣(ツリ)ヲ垂レテ樂ミトセリ、竹田侯ヨリ月俸ヲ禀(ウケ)タルヲ、辞シテ江戶ヲ去リテ、上野ノ國ニ赴キヌ、時ニ年一百三十歲、其終焉ノ年ヲ詳カニセズ、或ハ云フ、百七十歲、上野ニ於《イテ》沒ス、又一說ニ、志賀隨應ハ、初名ヲ金五郞トイフ、曽て久能ノ摠關[やぶちゃん注:「そうくわん」統轄責任者。]ニ仕ヘタリ、享年百六十一歲、或ハ云フ百八十歲、後の一説は、麁(そ)にして弥々[やぶちゃん注:「いよいよ」。]疑ひあり、猶よく考て、追てしるすべし。昔(むかし)偶(たまたま)其蜩菴(きてふあん)ガ翁草を閱(けみ)せしに、生島幽軒老人、七十の算賀に、七叟來會せり、志賀隨應も、亦其一人なりしと、いへり、隨應が墨跡は、好事の家に鍾翫(ちやうぐわん)せらるれども、僞筆多かり、その手蹟のよきと、その詞句(しく)に趣キあるとは贋作なり、余が視(め)を歷(へ)たる中に梅龍園主人の所藏、是眞跡なり、影寫して右に出しつ、百有餘歲歳としるしたる、そのこゝろを得ざれども、年を隱すは、老人の情(ぢやう[やぶちゃん注:ママ。])なり、こゝをもて百幾歳と、定かには署せざるならん。又この老人の墓は、江戶愛宕下(あたごした)、天德寺の地中なる、不断院に在リ、墓誌には云云(しかしか)と、豫(かね)て聞しをよすがにて、一日(あるひ)興繼を將(い[やぶちゃん注:ママ。])て、不断院に赴きつ、その墓所をおちもなく、半日あまり索(たづね)しかども、竟(つひ)にその墓あるを見ず、困(かふ[やぶちゃん注:ママ。])じ果(はて)て布施を裹(つゝ)み、寺僧に請(こふ)て、過去帳を披閱(ひゑつ[やぶちゃん注:ママ。])するに、享保十五庚戌ノ年[やぶちゃん注:一七三〇年。]、と題せし條下(くだり)なる、許多(あまた)の戒名の中に、

  真月院諦念隨翁居士     志賀隨翁

    六月十六日      施主 上野恕信

とあり、この墓今なほありやと問フに、寺僧もしらず、今はその施主絕えたればなり。もし總墓(さうばか)の中にもやある、ゆきて見玉へといふにより、寺門を出て總墓所(さうむしよ)【天德寺本堂の左りなる、山の上下にあり。】に攀ぢ登り、興継もろ共に、聞つるほとりはさらなり、彼此(をちこち)を見めぐるに、こゝにも亦あることなし、よりて復(また)、興継を寺に遺はして、案内を乞はせしに、道人(てらをとこ)總墓所に来て、わが寺の諸檀の墓所は、こゝなりとて指(ゆびさ)す筋(ぢ)を、又ひとつひとつに索ねしかども、其処(そこ)にも彼墓あるを見ず、さてはその施主なくなりて、墓石も共に壞(くづ)れしならん、とやうやく思ひ決(さだ)むるに、比は卯月のながき日を、はかなくこゝに消(くら)したり。現(げに)寺の過去帳に、正しくその戒名あれば、ちかき比まで、彼ノ墓はありつらん、墓誌には、戒名の下に、志賀氏、左方に、施主上野恕信、と刻せしと聞つ、年月も寺の過去帳におなじ、但(たゞ)支干(しかん)あらざるのみ、よりて寺僧に、施主上野氏の事、又過去帳には、戒名俗名ともに、隨翁と書キたるよしを敲(たづ)ねしに、懜(もう)[やぶちゃん注:ぼんやりとして暗いこと。]として辨ずることなし、その寺により、在世の名號を、戒名に用ふる事を聽かさゞるもありと聞けり、しからば麻布二本榎、常行寺なる、徘諧師其角が墓誌に、喜覺と勒‘ろく)せし如く、隨應の應を、翁字に換(かえ[やぶちゃん注:ママ。])たるならん、とおもふに、そが俗名も、亦隨翁と書キたれば、疑ひいよいよ釋(とき)がたし。口碑に傳フる如く、隨應は、上野ノ國にて沒したらば、彼ノ墓は、その年忌の折などに、江戶なる親族、或(ある)は由緣(ゆかり)のものゝ立たるならん、しかれども、寺の過去帳によりて推(おし)はかるに、享保十五年六月十六日は、その亡日(きにち)なるべし、彼老人の生れしといふ天正四丙子年より、享保十五庚辰年迄僂(かゞなふ)れば[やぶちゃん注:「指を折って数えてみると」の意であろう。]、一百五十五年なり、これをもて推(お)すに、その享年、百六十一歲、或は百七十歲、或は百八十歲といふものは、皆(みな)信(うけ)がたし、百五十五歲といはゞ、當らずとも據(よりどころ)あり。又按ずるに、墓石の施主、上野恕信は醫師(くすし)なるべし、恕信の恕は、藤恕軒の恕を取リたるやうなり、上野はその氏なるべし、上野氏は、何地(いづち)の人なるをしらざれども、隨應衰邁(すいまい)の後、上野氏の扶助により、その家にて身まかりしを傳へ謬(あやま)りて、上野ノ國にて沒スといふにあらざる歟、こは余が推量の說なれども、姑(しばら)く疑ひを述べて、後ノ考を俟(まつ)のみ。

   *

また、図があり、「志賀隨應百餘歳眞跡」とある「長生」(ちやうせい)の遺墨がある(右下に「梅龍園主事藏」ともある)。左手上には「璽」の字のような落款らしきものがあって、さらに中、白抜き文字で「藤恕軒志賀氏隨應百有餘歲」とあって、その左下方に判読不能の文字とそれにかかった形で□がある。吉川弘文館随筆大成版のものトリミングしたものを以下に掲げておく(底本は画像保存が出来ないようになっているため。なお、底本と吉川弘文館随筆大成版では左部分の配置が異なる)。

 

Tiyausei

 

「月堂見聞集」不詳。

「享保八年」一七二三年。

「下條長兵衞」不詳。同じ姓で通称の旗本下條信隆がいるが、彼は享保元年に亡くなっているので違う。

「尙齒會」江戸後期に蘭学者・儒学者など、幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会の名称。主宰は遠藤泰通(遠藤勝助)。構成員は高野長英・渡辺崋山などで、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や、江戸で蘭学者で蘭方医の吉田長淑(ちょうしゅく)に学んだ者などが中心となって結成された。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。

「掃聚雜談」作者不詳の随筆。

「小野齋宮高尙【大御番。】」(享保五(一七二〇)年~寛政一一(一八〇〇)年)は幕臣で国学者。姓は平。名を直方・高格・高武ともいった。宝暦一三(一七六三)年に四十四歳で家督を嗣ぎ、明和二(一七六五)年に小普請方から大番に進んだ。天明四(一七八四)年に同じく国学者でもあった子の高潔に家督を譲り、隠居した。史学に通じ、「古今類聚名諱伝」や「三才雑録」など、数種の史伝や抄録のほか、「本朝奇跡談」(校閲)のような通俗書にも名をとどめている(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「生島氏」先の引用にも「生島幽軒」の名で出た。旗本。初名は山田市之丞。この長寿の祝賀会(生島は八十一で一番若い)については、随筆「翁草」(おきなぐさ:全二百巻。神沢杜口(とこう)貞幹著。寛政三(一七九一)年成立。全刊行はずっと下って明治三八(一九〇五)年。京都町奉行所与力であった自己の見聞した事実や中古以来の古書から記事を抜き書きして、批評などを加えたもの。なお、天明四(一七八四)年刊の抄出五巻本がある)の巻三十八の「生島幽軒年賀に老人集會の事」(国立国会図書館デジタルコレクションの活字本)で読める。その筆頭に「榊原越中守家來初名金五郞」とし「志賀瑞翁」とあって「百六十七歲」とある。その本文の頭に「此瑞翁は百八十歲の頃迄存命成し由。享保の中頃江府殿中の御沙汰書にも見えたり。正德五年に百六十七歲と有れば後奈良院御宇、武將光源院殿義輝公、天文十八己酉年の生れ成べし、寔に希世の老翁り」とある。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 淫書の効用

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 画像は底本よりトリミング補正して載せた。]

 

 

     淫 書 の 効 用 (明治四十五年七月『此花』凋落號)

 

Insyonokouyou     

 

 『此花』第十八枝に、「大阪の夜發(よたか)」と題せる圖を載せて、『異態の百人一首よりとれり。』とあり。此百人一首は、只今、小生の座右にあり。然るに、これと同筆にて、圖の大きさのみ異なる繪を混入せる異態の『女大學』一册あり。小生、往年、龍動(ろんどん)に在りし日、巴里の故林忠正氏店《みせ》より、購《あがな》へり。今は和歌山に置きあり。「雅俗文庫」には、必ず、これあらん。其『女大學』の中ほどにある「野郞仕立樣の事」の條に、野郞の鼻低きを高くする法あり。圖のごときものを作り、鼻を其間に挾み、夜、臥《ふ》さしむべし、とあり(寸法、忘る)。然るに、一咋年、『大阪每日新聞』を見しに、巴里通信に、新發明の婦女の鼻を高くする器といふあり。全く件(くだん)の野郞の鼻を高くする法と同じきものにて、用法も、夜間、鼻を、これに挾みて、臥する由、記しありたり。日本と佛國とにて、別々に發明したるものとするも、日本の方、はるかに古く、凡そ百年以上も早し。小生、明治十九年、米國に渡り、トランクの盛んに行なわるゝを見て、其便利に呆(あき)れしが、後、寬永頃の日本の繪本を見しに、車長持とて日本に古く既にありしなり。此類の事、多々ならん。春畫などつまらぬものながら、世態風俗の變替(へんたい)より、奇巧の具の曾て存せし事を見るに大効力あること、如此。

[やぶちゃん注:以下、底本では二字下げ。ブラウザの不具合を考え、途中で改行した。「選集」には、この一行はない。恐らくは「選集」は投稿記事に従ったもので、以下は『此花』編集者宮武外骨への添え書きであろう。]

  此事、此文、眠たくて、シツカリ書き得ぬが、
  短く御書き直しの上、『此花』へ御載せ被下度
  候云々。

[やぶちゃん注:本篇は表向き「鼻を高くする器具」について述べていながら、題名の「淫書の効用」及び本文の記載から推すに、この器具、女性の自慰用、或いは、若衆道(男色)用の「張形」=ディルド(Dildo)、或いは、その用法から、男根を伸ばす器具ということを暗に匂わせているものではないかと私には思われたのだが、当たらずとも遠からずであることが判った。後の「女大學」の注を参照。

「明治四十五年」(一九一二年)「七月『此花』凋落號」既出既注

「『此花』第十八枝」「大阪の夜發(よたか)」」同雑誌の全リスト・データがあるサイト「ARTISTIAN」の「此花(大阪版)(雑誌)」に第十八枝(明治四十四年十一月十五日発行:「枝」は「号」を雑誌名に洒落て用いたもの)に「大阪の夜鷹」という表記の記事がある(作者不詳)。「夜發(よたか)」は「夜鷹」の別表記。江戸時代の街娼の一種で、夜になると出てきて、野天、もしくは夜だけの仮小屋で売春した女性たちのこと。京都では「辻君」(つじぎみ)、大坂では「惣嫁」(そうか)と呼ばれた者の江戸版で、名称の由来は、夜間に横行するため、あるいは、夜鷹という鳥がいたのでこれに擬えたものともされている。いずれも安い代価(二十四文ともいわれる)で売春する最下級の「もぐり娼婦」たちで、主たる巣窟は本所吉田町にあり、客は武家・商家の下級奉公人や下層労働者であり、しばしば夜鷹狩りの取締りの対象となった(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「異態の百人一首」まず、しばしば巷間に見られる「百人一首」を淫猥なものに作り替えたそれであろう。

「女大學」まともなものは江戸中期以降、広く普及した女子教訓書群の汎名であるが、如何にもおかしい。調べてみたところ、サイト「ようこの本棚」の「女大楽宝開」(おんなたいらくたからがい:著者「開茎(かいまら)先生」(安永年間(一七七二年~一七八一年)刊)を紹介して、『この「女大楽宝開」は、「女大学」の注釈本「女大学宝箱」をもじって色事本に仕立てたもので、女性の身体の図解、男女の人相図、美人の条件や遊廓の遊び方や価格表や、房中術まで事細かく書かれて』おり、『若衆についても』、十五『枚の画とともに、陰間の育て方などが記されてい』るとあって、以下に「若衆仕立様の事」の原文(新字体)が引かれ、そこに若衆(稚児:男色の女性役)を如何に美しい女に仕立てるかという中に、『鼻筋の低きは十、十一、十二の時分、毎夜ねしなに檜木の二、三寸くらいなるにてこのごとく摘み板を拵え、右の通りに紐をつけ、鼻に綿をまき、その上を右の板にて挟み、左右の紐を後にて、仮面(めん)きたるごとく結びてねさせば、いかほど低き鼻にても鼻筋通り高くなるなり。ただし、十二の暮より仕立てんと思わば、初め横にねさし、一分のりを口中にてよくとき、彼処へすり、少し雁だけ入れてその夜はしまうなり。また二日めにも雁まで入れ、三日めには半分も入れ、四日めより今五日ほど、毎日三、四度ほんまに入るなり。ただし、この間に仕立つる人きをやるは悪し。右のごとくすれば後門沾(うるお)いてよし。また、はじめより荒けなくすれば、内しょうを荒らし煩うこと多し。また十三、四より上は煩うても口ばかりにて深きことなし。これは若衆も色の道覚ゆるゆえ、わが前ができると後門をしめるゆえ、客の方には快く、また客荒く腰を使えば肛門のふちをすらし、上下のとわたりのすじ切るるものなり。これにはすっぽんの頭を黒焼にして、髪の油にてとき付けてよし。右記せし仕様の品は、たとえ町の子供にても、右の伝にて行なうがよし。また新べこには、仕立てたる日より、毎晩棒薬をさしてやるがよし。この棒薬というは、木の端を二寸五ぶ[やぶちゃん注:熊楠が忘れたもの。七センチ六ミリ弱。]ほどにきり、綿をまき、太みを大抵のへのこほどにして、胆礬(たんばん:硫酸鋼)をごまの油にてとき、その棒にぬり、ねしなに腰湯さしてさしこみねな(さ?)せば、煩うこと少なし。ただしねさし様は、たとえは野郎、客に行きて、晩く帰りたる時は、その子供の寝所へ誰にても臥し居て、子ども帰ると、その人はのき、すぐさま人肌のぬくもりの跡へねさすべし。かくのごとくして育つれば無病なり。とかく冷のこもるわざなれば、冬などこたつへあたるは悪し。野郎とても晩く帰るときは、右の通りにしてねさすべし。これだい(一・事?)のことなり』とあって、以下の本図と酷似する道具の画像が載っている(同ページより拝借した画像を以下に示す。因みに画像名は「kgema1」(陰間=江戸時代、宴席に侍って男色を売った者の名)である。

 

Kagema1

 

而して、上記の原文を見ても判る通り、「鼻」は叙述の具合が途中から隠語となって変容していることが判然とする。実は「鼻」は「鼻の大きい男はあそこも大きい」と言うように、転じて「男根」のことを隠語で指すのである。さても、熊楠の「女大學」は、実はこの「淫書」たる「女大樂寶開」であることが判り、この器具は、若衆道の淫靡な性具であることが判るのである。

「林忠正」(嘉永六(一八五三)年~明治三九(一九〇六)年)は美術商。越中国高岡(現在の富山県高岡市)出身。当該ウィキによれば、明治一一(一八七八)年に『渡仏。多くの芸術的天才を生んだ』十九『世紀末のパリに本拠を置き、オランダ、ベルギー、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国、中国(清)などを巡って、日本美術品を売り捌いた。美術品の販売ばかりではなく、日本文化や美術の紹介にも努め、研究者の仕事を助けたり、各国博物館の日本美術品の整理の担当をしたりした』明治三三(一九〇〇)年の『パリ万国博覧会では日本事務局の事務官長を務めた』。『その文化的貢献に対し、フランス政府からはそれ以前の明治二七(一八九四)年に、「教育文化功労章二級」を、一九〇〇年には、「教育文化功労章一級」及び「レジオン・ドヌール三等章」を『贈られた。また、浮世絵からヒントを得て、新しい絵画を創りつつあった印象派の画家たちと親交を結び、日本に初めて印象派の作品を紹介した』。一八八三年に』『没したエドゥアール・マネと親しんだのも、日本人として』は、彼、ただ『一人である』。明治三八(一九〇五)年の『帰国に際し』ては、実に五百『点もの印象派のコレクションを持ち帰り、自分の手で西洋近代美術館を建てようと計画したが、その翌年に果たせぬまま』『東京で』五十二歳で病『没した』とある。

「雅俗文庫」雑誌『此花』を刊行した出版社の名。

「明治十九年」一八八六年。

「寬永」一六二四年から一六四四年まで。

「車長持」(くるまながもち)は移動しやすいように、車輪を下部に取り付けた長持。明暦三(一六五七)年の江戸大火で、車長持が道を塞ぎ、混雑したことから、それ以後、禁止された。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 千人切の話(その4) / 千人切の話~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ三行目。底本も改行されてある)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で「選集」を参考(「選集」は漢文部が編者によって訓読されてある。但し、現代仮名遣という気持ちの悪いもの)に訓読を示した。なお、本篇は、やや長いので、分割した。]

 

 『增一阿含經』卷卅一に、佛、央掘摩の因緣を說く。迦葉佛、在世の後《のち》、大果《たいくわ》王有り。其第一妃、男子を生む。希有の美男たり。大力(だいりき)と名《なづ》く。八歲の時、「娶婦(よめとり)せよ。」と勸むるに、「幼なり。」とて辭す。又、二十年經《たち》て勸めしも、辭す。因《よつ》て、名づけて、淸淨太子と云ふh。父王、國中に令して、「能く、太子をして、五慾を習はしむる者有らば、千金と諸寶を與へん。」と宣ぶ。爾(その)時、婬種(いんしゆ)と名《なづく》る女有り。「六十四變を明(あきら)め盡《つく》せり。我、之を能(よく)せん。」とて、王に請《こひ》て、内宮中に勅して、隨意(まゝに)、出入を遮《さへぎ》るなからしむ。其夜、二時、女、太子の門側《もんぎは》に在《あり》て哭《な》く。太子、唯、一男兒と寢室(ねま)に有《あり》しが、之を聞《きき》て、侍臣をして、往《ゆき》て所由(わけ)を問《とは》しむ。婬女、報(こたへ)て、「夫に棄《すて》られ、此次第。又、盜賊を畏れて哭く。」と云《いふ》。因て、侍臣をして、此女を象厩中(ぞうや《うち》)に置《おか》しむるに、復《また》哭《なき》しかば、堂後に置く。爰(こゝ)でも哭く故、太子、躬《みづか》ら尋ねけるに、女は、「單弱(かよわき)故、極《きはめ》て恐怖(おそろし)くて哭く。」、と答ふ。太子告曰、上吾牀上、可ㇾ得ㇾ無ㇾ畏、是時女人默然不ㇾ語、亦復不ㇾ哭。是時女人卽脫衣裳、前捉太子手、擧著己胸上、卽時驚覺、漸漸起欲想、已以起欲心、便身就ㇾ之。〔太子、告げて曰はく、「吾が牀(とこ)の上に上がらば、畏るること亡きを得べし。」と。是の時、女人、默然として語らず、又、復(ふたた)びは哭かず。是の時、女人、卽ち、衣裳を脫ぎ、前(すす)みて、太子の手を捉(と)りて擧げ、己(おの)が胸の上に著(お)く。卽時に驚覺し、漸漸として、慾想を起こす。已に慾心を起こせば、便(すなは)ち、身、之れに就く。〕。扨《さて》、明旦、太子、父王の所え[やぶちゃん注:ママ。]詣(いた》)る。顏色、常に殊(かは)れるを見、問《とひ》て其故を知り、父王、大《おほい》に悅び、「何の願い有るぞ。」と問ふ。太子言《いは》く、「吾が所願を述《のべ》て、大王、中(なかご)ろ、悔いずんば、啓(まう)すべし。」。王、曰く、「決して、中ろ、悔いじ。」と。太子白ㇾ王、大王今日、統領閻浮提内、皆悉自由、閻浮提里内、諸未ㇾ嫁女者。先適我家、然後使ㇾ嫁。〔太子、王に白(まを)す、「大王は今日(こんにち)、閻浮提(えんぶだい)内を統領し、皆、悉く、自由なり。閻浮提の里内(りない)にて、諸(もろもろ)の未だ嫁がざる女(むすめ)は、先づ、我が家に適(ゆ)き、然る後に嫁がしめよ。」と。〕。是より、國内の處女(をとめ)、總て、先づ、太子に詣(いた)り、然る後、嫁する定制《おきて》となる。須蠻(すまん)と名くる長者女(もちまるむすめ)、年頃に成り、太子に詣るべき筈の處ろ、裸跣(はだかすあし)で衆中を行(ある)きて、耻(はぢ)ず。衆人(みなみな)、「是は。名高き長者(もちまる)の娘、云何(いかん)ぞ裸で人中を行く。驢(うさぎうま)と何ぞ異ならん。」と嘲る。女、曰く、「我、驢たらず、汝等、悉く、驢なり。女が、女を見て、相耻《あひはぢ》る事やは有る、城中の生類《しやうるゐ》、悉く、女(をんな)也、淸淨太子一人が男也、我れ、太子の門に至らば、衣裳を着《きる》べし。諸民、相謂(《あひ》かた)るらく、「此女の說(せつ)通《どほ》り、我等、皆、女にて、淸淨太子のみ男也。我等、今日、男子《なんし》の法を、行なうべし。」とて、兵裝して、父王を見、「太子、國の常法を辱《はづかし》めたれば、王か、太子か、孰れか一人を殺さん。」と願ふ。是時、父王、偈(げ)を說《とき》けるは、「爲ㇾ家忘一人、爲ㇾ村忘一家、爲ㇾ國忘一村、爲ㇾ身忘世間。〔家の爲めに一人を忘れ、村の爲めに一家を忘れ、國の爲めに一村を忘れ、身の爲めに世間を忘る。〕。太子を、汝等、隨意(かつて)にせよ。」と告ぐ。諸人、太子を縛りて、域外に將出《つれいだ》し、殺さんとせる時、太子、誓願して、「我、來世、必ず、此怨《うらみ》を報ずべし。又、眞人(しんじん)に値(あ)ひ、速(すみや)かに解脫を得ん。」と。人民、咸(みな)、共に、瓦石《ぐわせき》もて、太子を打殺《うちころ》す。其時の王は、今の央掘摩の師、婬女は、師の妻、其時の人民は、今、央掘摩に殺されたる八萬人、其太子は、今の央掘摩也、と。

[やぶちゃん注:「『增一阿含經』卷卅一」前回と同じく、「增壹阿含經」で「大蔵経データベース」で同巻を確認出来たので、それで一応、校合したが、前の書き下し文の部分は、かなりの省略がある。漢文部も返り点の一部を変えた。

「長者(もちまる)」「持丸長者」(もちまるちやうじや(もちまるちょうじゃ))は江戸時代、「大金持・富豪」を指した一般名詞である。

「驢(うさぎうま)」言わずもがな、驢馬(ろば)のこと。博物誌は「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 驢(うさぎむま) (ロバ)」を参照されたい。]

 之に類せる話、『根本說一切有部毘奈耶《こんぽんせついつさいうぶびなや》』四七卷に有り。但し、央掘摩に關係無し。云(いは)く、佛、王舍城に在《あり》し時、千人力の壯士、曠野の賊を平《たひら》げ、新城を築き、人、多く、住み、繁盛せる謝意を表せん迚、「住民、娶《めと》る者、必ず、此大將を饗し、次に自分等《ら》、宴すべし。」と定む。一人、妻を娶るに、貧しくて、飮食を辨ずる能はず。便(すなは)ち、新婦をして、將軍の室に入《いら》しめ、竟(をはり)て、始めて、之と婚す。將軍、大《おほき》に歡び、爾來、諸民、此(これ)を恒式《こうしき》とす。後日、新《あらた》に嫁せんとする女(むすめ)有り、念(おも)ふに、『この城民、久しく非法を行ひ、自妻(わがつま)を、先づ、他人に與ふ。何卒、斯俗(このぞく)を斷《たた》ん。』とて、裸で、衆中に、立小便す。衆、之を咎めしに、別嬪、平氣で答ふらく、「是れ、何の耻か有(あら)ん。國民、總て、女人で、將軍、獨り、男子たり。將軍の前でこそ、裸と立小便を耻可(はづべけ)れ、汝ら、女同然の輩《やから》の前で、何の恥か、あるべき。」と。衆、之を「然り。」とし、會飮の後、將軍を燒殺《やきころ》せしに、其靈、鬼神と成り、每日、一人宛《ひとりづつ》、食ひ、大災を成せしを、佛、往《ゆき》て降伏せり、と也。『雜寶藏經』卷七所載(のすところ)も略《ほ》ぼ、之に同じ。誠に有る間敷《まじき》不稽《ふけい》の譚の樣なれど、予が『神社合祀論』にも述《のべ》し如く、世には、全くの啌話(うそばなし)、無く、古傳(ふるきつたへ)は、必ず、多少の事實に基《もとづ》く。

[やぶちゃん注:「『根本說一切有部毘奈耶』四七卷」例によって「大蔵経データベース」で確認出来る。

「予が『神社合祀論』にも述し如く」「青空文庫」にある南方熊楠の「神社合祀に関する意見」の終りの方にある箇所を指すもののように見受けられる。新字新仮名であるが、現行、熊楠が最も力を入れて反対活動をした中で知られるこの論稿を原表記で見ることは容易なことではない(私自身、見たことがない)。そもそもこれは原稿であって、公になったものではない。これと、一部の内容を一にする南方の「神社合倂反對意見」が、雑誌「日本及日本人」に明治四五(一九一二)年に四回に分けて載ったが、それは未完である。例えば、以下の箇所である。所持している「青空文庫」が底本としたものの初版(「南方熊楠コレクション第五巻 森の思想」河出文庫・河出書房新社一九九二年三月十日発行)で校合した。

   *

 また一汎人は史蹟と言えば、えらい人や大合戦や歌や詩で名高き場所のみ保存すべきよう考うるがごときも、実は然らず。近世欧米で民俗学(フォルクスクンテ)大いに起こり、政府も箇人も熱心にこれに従事し、英国では昨年の政事始めに、斯学の大家ゴム氏に特に授爵されたり。例せば一箇人に伝記あると均しく、一国に史籍あり。さて一箇人の幼少の事歴、自分や他人の記憶や控帳に存せざることも、幼少の時用いし玩具や貰った贈り物や育った家の構造や参詣せし寺社や祭典を見れば、多少自分幼少の事歴を明らめ得るごとく、地方ごとに史籍に載らざる固有の風俗、俚謡、児戯、笑譚、祭儀、伝説等あり[やぶちゃん注:☜]。これを精査するに道をもってすれば、記録のみで知り得ざる一国民、一地方民の有史書前の履歴が分明するなり。わが国の『六国史』は帝家の旧記にして、華胄(かちゅう)の旧記、諸記録は主としてその家々のことに係る。広く一国民の生い立ちを明らめんには、必ず民俗学の講究を要す。

 紀州日高郡産湯(うぶゆ)浦という大字の八幡宮に産湯の井あり。土伝(いいつたえ)に、応神帝降誕のみぎり、この井水を沸(わ)かして洗浴し参らせたりという。その時用いたる火を後世まで伝えて消さず。村中近年までこの火を分かち、式事に用いたり。これは『日本紀』と参照して、かの天皇の御史跡たるを知るのみならず、古えわが邦に特に火を重んずる風ありしを知るに足れり。実に有記録前の歴史を視るに大要あり[やぶちゃん注:☜]。しかるに例の一村一社制でこの社を潰さんとせしより、村の小学校長津村孫三郎と檀那寺の和尚浮津真海と、こは国体を害する大事とて大いに怒り、百七、八十人徒党して郡役所に嗷訴し、巨魁八人収監せらるること数月なりしが、無罪放免でその社は合祀を免れたり。その隣村に衣奈(えな)八幡あり。応神帝の胞衣(えな)を埋めたる跡と言い伝え、なかなかの大社にて直立の石段百二段、近村の寺塔よりはるかに高し。社のある山の径三町ばかり全山樹をもって蔽われ、まことに神威灼然たりしに、例の基本財産作るとて大部分の冬青(もちのき)林を伐り尽させ、神池にその木を浸して鳥黐(とりもち)を作らしむ。基本金はどうか知らず、神威すなわち無形の基本財産が損ぜられたることおびただし。これらも研究の仕様によりては、皇家に上古胞衣(えな)をいかに処理せられしかが分かる材料ともなるべきなり[やぶちゃん注:☜]。その辺に三尾川(みおかわ)という所は、旧家十三、四家あり、毎家自家の祖神社あり、いずれも数百年の大樟樹数本をもって社を囲めり。祖先崇拝の古風の残れるなり。しかるに、かかる社十三、四を一所に合集せしめ、その基本財産を作れとて件の老樟をことごとく伐らしむ。さて再びその十数社をことごとく他の大字へ合併せしめたり。

 和歌山市近き岩橋村に、古来大名が高価の釜壺を埋めたりと唄う童謡あり。熊楠ロンドンにありし日、これを考えてかの村に必ず上古の遺物を埋めあるならんと思い[やぶちゃん注:☜]、これを徳川頼倫侯に話せしことあり。侯、熊楠の言によりしか否かは知らず、数年前このことを大学連に話し、大野雲外氏趣き掘りしに、貴重の上古遺品おびただしく発見せり、と雑誌で見たり。英国のリッブル河辺の民、昔より一の丘上に登り一の谷を見れば英国無双の宝物を得べしという古伝あり。啌(うそ)[やぶちゃん注:☜]と思い気に掛くる人なかりしに、七十二年前、果たしてそこよりアルフレッド大王時代およびその少しのちの古銀貨計七千枚、外に宝物無数掘り出せり[やぶちゃん注:☜]。紀州西牟婁郡滝尻王子社は、清和帝熊野詣りの御旧蹟にて、奥州の秀衡建立の七堂伽藍あり。金をもって装飾せしが天正兵火に亡失さる。某の木の某の方角に黄金を埋めたりという歌を伝う。数年前その所を考え出し、夜中大なる金塊を掘り得て逐電せる者ありという。

 かかる有実の伝説は、神社およびその近地にもっとも多し[やぶちゃん注:]。素人には知れぬながら、およそ深き土中より炭一片を得るが考古学上非常の大獲物であるなり。その他にも比類のこと多し。しかるに何の心得なき姦民やエセ神職の私利のため神林は伐られ、社地は勝手に掘られ、古塚は発掘され、取る物さえ取れば跡は全く壊(やぶ)りおわるより、国宝ともなるべく、学者の研究を要する古物珍品不断失われ、たまたまその道の人の手に入るも出所が知れぬゆえ、学術上の研究にさしたる功なきこと多し。合祀のためかかる嘆かわしきこと多く行なわるるは、前日増田于信氏が史蹟保存会で演(の)べたりと承る。大和には武内宿禰の墓を畑とし、大阪府には敏達帝の行宮趾を潰せり、と聞く。かかる名蹟を畑として米の四、五俵得たりとて何の穫利ぞ。木戸銭取って見世物にしても、そんな口銭(こうせん)は上がるなり。また備前国邑久(おく)郡朝日村の飯盛(いいもり)神社は、旧藩主の崇敬厚かりし大なる塚を祭る。中央に頭分(かしらぶん)を埋め、周囲に子分(こぶん)の尸(しかばね)を埋めたる跡あり。俗に平経盛の塚という。経盛の塚のみならば、この人敦盛という美少年の父たりしというばかりで、わが国に何の殊勲ありしとも聞かざれば、潰すもあるいは恕すべし。しかるにこの辺に神軍(かみいくさ)の伝説のこり、また石鏃(いしのやのね)など出る。墓の構造、埋め方からして経盛時代の物にあらず。故に上古の墳墓制、史書に載らざる時代の制を考えうるに、はなはだ有効の材料なり。これも合祀のため荒寥し、早晩畑となりおわるならん。

   *

」の箇所が、ここで熊楠の言っている「世には、全くの啌話(うそばなし)、無く、古傳(ふるきつたへ)は、必ず、多少の事實に基く」のよき証左となろう。]

 印度の婆羅門、原來(ぐわんらい)、師の妻の外、他人、殊に、劣族の妻に通ずるを、重罪とせず。後世迄、新婦(はなよめ)を迎ふる者、重く、婆羅門に贈りて、破素《はそ》し貰ひし事、予ら幼時まで、紀州の一向宗の有難屋連(ありがたやれん)、厚く資(たから)を献じて、門跡の寢室(ねま)近く、妙齡の生娘(きむすめ)を臥《ふせ》させ貰ひしに近し。去れば、王政の世には、諸王が配下の妻女に於る權力、無限にて、西曆紀元頃、「ヴアチヤ」梵士の作、『愛天經(かまでゔあすとら)』七篇二章は、全く、王者、臣民の妻・娘を手に入れる方法を說きたり。其末段に言(いは)く、「アンドラ」民の王は、先づ、臣民の新婦を試《こころむ》る權力有り。「ヴアツアグルマ」民の俗、大臣の妻、夜間(よのま)、王に奉仕す。「ヴァイダルブハ」民は、王に忠誠を表《ひやう》せん迚、其子婦(よめ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を一月間、王の閨《ねや》に納(い)る。「スラシユトラ」民の妻は、王の好みの儘、單獨(ひとり)又、群(むれ)て、その閨房に詣(いた)るを例とすと。歐州には、古羅馬の「オーダスツス」帝、吾國の師直《もろなほ》、秀吉と同じく、每度、臣下の妻を招きて、之を姦し、其後の諸帝、斯《かか》る行ひ有りし人、多し。降《くだつ》て、中世紀に及び、諸國の王侯に、處女權(メツヅン・ライツ)有り。人、新婦を迎《むかふ》れば、初夜、又、初め數夜、その領主の側に臥させた後ならでは、夫の手に入らぬ也。蘇格蘭(すこつとらんど)では、十一世紀に「マルコルム」三世、此制を廢せしが、佛國抔には、股權(キユイサーシ)とて、十七世紀迄、多少、存せり。此名は、君主、長靴穿(はき)きし一脚を、新婦(はなよめ)の牀に入れ、手槍を持《もち》て疲るゝ迄座り込み、君主、去る迄、夫が新婦の寢室(ねま)に入るを得ざりしに出づ。夫、此耻辱を免(のがれ)んとて、稅を拂ひ、或は傭役し、甚しきは、暴動を起し、又、「義經は母をされたと娘をし」と云ふ川柳的の復讐をやつたもあり、佛國「ブリヴ」邑(むら)の若き侍、領主が己れの新婦(はなよめ)を試ると同時に、領主の艷妻を訪ひ、通宵(つうせう)して、之に、領主の體格不相應の大男兒を產ませたる椿事、有り。斯る事より、此弊風、遂に亡びつ。

[やぶちゃん注:「破素」処女を犯すこと。

「有難屋」江戸時代以降の語であるが、神仏を無暗に信仰する人。特に一向宗(浄土真宗)の門徒衆を揶揄して卑称することがある。

『「ヴアチヤ」梵士の作』「愛天經(かまでゔあすとら)」古代インドの性愛論書「カーマ・スートラ」。推定で凡そ四世紀から五世紀にかけて成立した作品とされる。著者はヴァーツヤーヤナで、正式なタイトルは「ヴァーツヤーヤナ・カーマスートラ」。大場正史訳の角川文庫版を所持しているが、書庫の深みに沈んでいて、見出せない。

「アンドラ」紀元前一世紀頃にインドのデカン高原を支配した王朝。アーリア系のマハーラーシュトリー族がアンドラ人を征服して建てたとされる。

「ヴアツアグルマ」ヴァーカータカ朝(古代インドのデカン地方を支配した三~六世紀の王朝)のヴァツァグルマ系列の首都であるヴァツァグルマ。現在のワシム

「ヴァイダルブハ」不詳。

「スラシユトラ」不詳。

『「オーダスツス」帝』ローマ帝国初代皇帝(在位:紀元前二七年~紀元後一四年)アウグストゥス(ラテン語:Augustus)か。

「師直」足利尊氏に側近として仕えた武将高師直(こうのもろなお)。正式な名乗りは「高階(たかしなの)師直」。

「處女權(メツヅン・ライツ)」「ライツ」は“right”(「権利」)だが、「メツヅン」の綴り不明。

『「マルコルム」三世』スコットランド王マルカムⅢ世(Malcolm III 一〇三一年 ~一〇九三年/在位:一〇五八年~没年)。

「股權(キユイサーシ)」“droit de cuissage”(ドロワ・ド・キュサージュ:「股の権利」)。

「義經は母をされたと娘をし」「義経も母をされたで娘をし」とも。Q&Aサイトのこちらに、源義経が、母である常盤御前を平清盛が妾とした仕返しに、「壇ノ浦の戦い」の後、助けた建礼門院を犯したという江戸時代の川柳。回答者「けいすけさん」によれば、『丸谷才一によると、「源平盛衰記」が大元です(『恋と女の日本文学』)』。『「源平盛衰記」巻第四十八(灌頂之巻)で、建礼門院は後白河院に対して、「源氏に追われて同じ船で暮らしていたため、兄の宗盛と共寝したというひどい噂を立てられ、また』、『九郎判官に生け捕られて、心ならずも』『浮いた噂が立ちました。これが畜生道に当たります」と語っているそうです』。『ちなみに丸谷は、義経の色好みぶりや女院の都を慕う心から、「この色事はあり得たでせう」と述べています』とあった。以上の回答者の原文当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの明治三五(一九〇二)年博文館刊の「帝国文庫」全一括版のここ(左ページ七行目以下を参照)。

『「ブリヴ」邑(むら)』ブリーヴ=ラ=ガイヤルド(Brive-la-Gaillarde)。ここ。これは、ウィキの「初夜権」「参考:南方熊楠」の中のこの部分への言及のリンク先に拠って判明した。]

 此風俗の起りは、基督敎の古(いにし)え[やぶちゃん注:ママ。]、初婚の夜、素女點(ゔあーじにちー)を上帝に捧ぐる迚、夫婦同臥を嚴禁し、北亞非利加(きたあふりか)では、上帝の名代に辱(かたじけな)くも僧正(びしよつぷす)が、民の新婦と同褥《どうじゆく》し玉へるより轉じて、其れは善い思ひ付きと、諸國君長が、此制を競ふて實行せるに及べりとの事なれど、歐州のみならず、印度、「クルヂスタン」、「アンダマン」島、眞臘(かんぼぢあ)、占城(ちやんぱ)、滿喇加(まらつか)、「マリヤナ」島、亞非利加(あふりか)、及び、南・北米の或る部にも、古來、斯る風俗有《あり》しを參考すれば、歐州、亦、自(おのづか)ら斯《こ》の舊慣有り。必《かならず》しも耶蘇敎より訛傳せしに非じと思はる(『大英類典(エンサイクロペヂア・ブリタニカ)』十一板、卷一五。「ヂスレリ」『文界奇觀(キユリオシチース・オヴ・リテラチユル)』九板、卷一。「カール・シユミット」『初婚夜論(ジユス・プリマエ・ノクチス)』。「コラン・ド・プランチー」『封建字彙(ヂクシヨナール・フエオダル)』卷一、參取。)。『後漢書』南蠻傳曰《いはく》、交趾之西、有噉ㇾ人國云々。娶ㇾ妻美、則讓兄。今烏滸人是也。〔交趾(かうし)の西に、人を噉(くら)ふ國、有り云々。妻を娶りて美なれば、則ち、其の兄に讓る。今、烏滸(おこ)の人は是れなり。〕。本邦で痴漢(あほう)を烏滸(おこ)の者と云ふは之に基くと云ふ。數十年前迄、紀州勝浦(かつら[やぶちゃん注:ママ。])港で、女子、妙齡に及べば、巧者の老爺(おやぢ)に破素を托し、事、竟《をはり》て、桃紅色(もゝいろ)の褌《ふんどし》と、米と酒を以て、酬禮する習俗なりし。又、『中陵漫錄』卷十一に云く、「羽州米澤の荻村《をぎ》にては、媒《なかうど》する者、女の方に行《ゆき》て、其女を受取《うけとり》て、先づ、媒者(なかうど)の傍(そば)に臥《ふせ》しむること、三夜(みよさ)にして、餅を、圓く作《つくり》て、百八、媒者(なかうど)付負(つきおふ)て、女を連往《つれゆ》き、其禮を調ふ云々」。要は、央掘摩千人切りと、淸淨太子、處女權を過用(やりすご)して、民に殺されし話と、最初、別物なりしを、佛徒が、古く釋尊の金口《こんく》に托し、連接して、一《ひとつ》の因緣談(ばなし)と成(なせ)る也。

[やぶちゃん注:「素女點(ゔあーじにちー)」“virginity”。処女性。

「僧正(びしよつぷす)」ビショップ 。“Bishop”。キリスト教会の高級聖職者。カトリックでは「司教」、プロテスタントでは「主教」又は「監督」、ギリシャ正教会・イギリス国教会では「主教」と訳される。その他、広汎に「僧正」とも訳される。

「クルヂスタン」クルディスタン。中東北部の一地域で、トルコ東部・イラク北部・イラン西部、及び、シリア北部とアルメニアの一部分に跨り、ザグロス山脈とタウルス山脈の東部延長部分を包含する、伝統的に主としてクルド人が居住する地理的領域を指す。チグリス・ユーフラテス川の中・上流域を中心に広がる山岳地帯。面積は約三十九万二千平方キロメートルに及ぶ。参照したウィキの「クルディスタン」にある、こちらの地図を参照されたい。

『「アンダマン」島』アンダマン諸島はインド東部のベンガル湾に浮かぶ、インド・ミャンマーに属する島々。南の方にあるニコバル諸島とともに、インドの連邦直轄地域アンダマン・ニコバル諸島を成している。また数島はミャンマーに属す。参照したウィキの「アンダマン諸島」にある、こちらの地図を参照されたい。

「占城(ちやんぱ)」チャンパ王国。現在のベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在した国家。主要住民の「古チャム人」はベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代半ばまで「林邑」と呼び、その後、「環王」を称したが、唐末以降は「占城」と呼んだ。位置は参照したウィキの「占城」の地図を見られたい。

「滿喇加(まらつか)」マラッカ或いはムラカ(マレー語: Melaka)は、マレーシアの港湾都市。マレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する、ムラカ州(マラッカ州)の州都である。古くはマラッカ王国として栄えた。ここ

『「マリヤナ」島』ミクロネシア北西部の列島であるマリアナ諸島。東の北西太平洋と西のフィリピン海の境界に位置し、北には小笠原諸島、南にはカロリン諸島、東にはマリアナ海溝がある。南北約八百キロメートルに連なる約十五の島から構成される。ここ

「『大英類典(エンサイクロペヂア・ブリタニカ)』十一板、卷一五」「Internet archive」ののこれが当該原本であるが、何を見たのか判らないので、表紙でリンクした。 

『「ヂスレリ」『文界奇觀(キユリオシチース・オヴ・リテラチユル)』九板、卷一』イギリスの作家アイザック・ディズレリー(Isaac D'Israeli 一七六六年~一八四八年)の“Curiosities of Literature” (「文学の好奇心」:一七九一年~一八二四年刊)。同前でリンクした。

『「カール・シユミット」『初婚夜論(ジユス・プリマエ・ノクチス)』』ドイツの法律史家カール・ヨーゼフ・リボリウス・シュミット(Karl Joseph Liborius Schmidt 一八三六 年~ 一八九四 年)の“Jus primae noctis. Eine geschichtliche Untersuchung.” (「初夜権利:その歴史的研究」。一八八一年)。同前でリンクした。

『「コラン・ド・プランチー」『封建字彙(ヂクシヨナール・フエオダル)』卷一』コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。当該書は“Dictionnaire féodal ou Recherches et anecdotes sur les Dimes et les droits féodaux, les fiefs et les bénéfices, les privilèges etc. et sur tout ce qui tient à la Féodalité.”(「十分の一税と封建的権利・領地と受益者・その特権等に関する封建時代の辞書、又は、研究と逸話及び封建主義に関連する総てに就いて」。一八一九年)。同前でリンクした。

「後漢書」後漢(二五年〜二二〇年)の歴史を記した中国の正史の一つ。五世紀の南宋の茫曄(はんよう)の撰になる。

「交趾」ベトナム北部の交趾郡。

「紀州勝浦(かつら)港」現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(なちかつうらちょう)。

「『中陵漫錄』卷十一に云く、「羽州米澤の荻村にては、……」「中陵漫錄」は水戸藩の本草学者佐藤中陵成裕(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)が文政九(一八二六)年に完成させた採薬のための諸国跋渉の中での見聞記録。以下のようにある(底本は国書刊行会昭和五一(一九七六)年刊「日本随筆大成 第三期第3巻」所収のものを用いたが、恣意的に正字化した)。読点を追加し、読みは推定で歴史的仮名遣で附した。

   *

   ○荻村(をぎむら)の婚姻

婚姻の禮、僻邑(へきいう)に至(いたり)ては種々(しゆじゆ)あり。羽州米澤の荻村にては、媒(なかうど)するもの、女の方に行(ゆき)て其女を請受(こひうけ)て、先(まづ)、媒者(なかうどのもの)の傍(かたはら)に臥(ふせ)しむる事、三夜にして、餠を、圓(まる)く作りて、百八、媒者、付負(つきおふ)て、女を連行(つれゆ)き、其禮を調ふ。七日(なぬか)にして蒸飯(むしめし)を添(そへ)て、父母の安(やすき)を問(とひ)に、歸らしむ。此等の送迎は、村中(むらうち)の少年、五、六人にて、往還す。其婚姻の夜も、少年を遣(やり)て、女の道具を負來(おひきたら)しむ。其時に、負來(おひきたり)て、土足にて、上にあがり、出(いで)んとす。是を、其荷繩と共に、忽(たちまち)に、「取らん。」と相爭(あひあらそふ)て、其荷繩を取らんとす。取(とる)を手柄とし、取れざるを[やぶちゃん注:「も」を入れたい。]手柄とす。何れにしても、酒肴を進(すすめ)て、大(おほき)に醉(ゑは)しむ。

   *

「羽州米澤の荻村」現在の米沢市のかなり北に当たるが、山形県南陽市荻があるが、ここか。

「釋尊の金口」釈迦の説法。]c

2022/10/30

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 千人切の話(その3)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(左ページ二行目。底本も改行されてある)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で「選集」を参考(「選集」は漢文部が編者によって訓読されてある。但し、現代仮名遣という気持ちの悪いもの)に訓読を示した。なお、本篇は、やや長いので、分割した。]

 

 指鬘《しまん》、梵語で鴦窶利摩羅(あんぐりまありや)、略して央掘摩《わうくつま》と書く。劉宋の世《よ》、支那え[やぶちゃん注:ママ。]來たりし印度僧、德賢(ぐにやばあどら)所譯『央掘摩羅經《あうくつまらきやう》』によれば、佛、在世に、舍衞城の北、薩那(さつな)村に梵種の貧女(ひんぢよ)賢女(ばあどら)と名《なづ》くる有り。男兒を產み、一切世間現(いつさいせけんげん)と名く。少(せう)にして、父、死す。十二歲にして、人相色力《にんさうしきりき》、具足し、聰明辨才あり。無垢賢(まにばあどら)と云《いへ》る梵師に學ぶ。或日、師王の請《せい》を受け、世間現に、留守、賴み、出で往く。師の妻、年若く、美人なりしが、世間現を見て、染着(せんちやく)し、忽ち、儀軌を忘れ、前(すゝ)んで其衣を執る。世間現、「師の妻はわれの母に齊《ひと》し。如何《いかん》ぞ非法を行はん。」とて、衣を捨てゝ、之を避く。彼《かの》婦、慾心、熾盛(さかん)にて、泣《なき》て念ずらく、『彼れ、意に隨はず。要(かなら)ず、彼を殺し、更に他の女を娶《めと》らざらしめん。』と。卽ち、自攫其體、婬亂彌熾、自燒成病〔自(みづ)から其の體を攫(つか)み、婬亂、彌(いよい)よ、熾(さか)んにして、自ら、燒きて病ひと成る。〕、女人、得意の謟(いつはり)を行ひ、其身を莊嚴(かざり)たて、繩もて、自ら縊《くく》り、足、地を離れず。夫、歸り來り、刀もて、繩を截(た)ち、大《おほい》に叫んで、「誰《た》が所爲(しわざ)ぞ。」と問h。婦、答ふらく、「是れ、世間現、非法を行なはん迚《とて》、吾に强逼(きやうふく)し、斯《かく》行へり。」と。夫、無垢賢、豫(かね)て、世間現、生まれし日、一切王種所有の刀劍、自《おのづか》ら拔け出で、捲屈(まきかがん)で、地に落《おち》たる瑞相より推して、此人、大德力あるを知り、『迚(とて)も自分の手に及ばぬ奴。』と思ひければ、『何とかして、自滅させ遣《やら》ん。』とて、世間現を招き、「汝は惡人也。所尊(めうえ[やぶちゃん注:ママ。])を毀辱(きじよく)せり。千人を殺して罪を除《のぞ》け。」と命ず。世間現、天性、恭順、師の命を重んず。卽ち、師に白(まを)す。「千人を殺す事、我《わが》志に非ず。」と。師、之を强《しひ》しかば、止むを得ず、承諾す。師、又、告ぐ。「一人を殺す每に、其指を取《とり》て鬘《まん》と作し、千人の指を、首に冠《かふぶ》りて還らば、婆羅門となるべし。」と。これより、世間現を指鬘と名く。已に九百九十九人迄殺し、「今一人で事濟(すむ)べし。」と、血眼に成《なり》て暴れ廻る處へ、其母、彼の饑(うえ[やぶちゃん注:ママ。])たるを察し、自ら四種の美食を持ち、送り往く。子、母を見て、『我母を千人の員(かず)に入れ、天上に生まれしむべし。』迚、劍を執《とり》て之を殺さんとす。その時、世尊、一切智もて、此事を知り、忽然、指鬘の前に現ぜしかば、「我れ、母の代りに、この者を殺すべし。」と、斬懸《きりかか》りしも、佛、神足もて、斬られず、反つて偈(げ)を說《とき》て、母恩の大なるを曉(さと)し、指鬘を降伏して、得道し、羅漢と成《なら》しむ。然れども、多く人を殺せし報いに因《より》て、日夜、血の汗、衣を徹《とほ》せりと云ふ。玄奘の『西域記』に、「指鬘が母を殺さんとして、佛に降伏されし故蹟を覩(み)たり。」と記せり。『增一阿含經(ぞういちあごんきやう)』卷三に、釋尊、自ら、諸弟子を品評せる内、我聲聞中第一比丘、體性利根、智慧深淵、所謂央掘魔比丘是也〔我聲聞中(わがこゑぶんちゆう)第一の比丘は、體性(たいしやう)、利根にして、智慧、深遠なり。所謂(いはゆる)、央据魔比丘(わうくつまびく)、是れなり。〕。と見え、卷卅一に、「央据摩千人切」を說く、略《ほぼ》上文に同じく、其得道の後、「我、賢聖に從《したがひ》て生《しやう》じ、以來、殺生せず。」と、至誠の言を持して、難產婦人を安產せしめたり、と見ゆ。罪深かりし丈《だ》け、中々の俊傑と思はる。

[やぶちゃん注:「指鬘」「鴦窶利摩羅(あんぐりまありや)」「央掘摩」既注のアングリマーラ。

「劉宋」南宋(四二〇年~四七九年)のこと。「劉」は帝の姓。

「德賢(ぐにやばあどら)」詳細事績不詳。

「央掘摩羅經」は「大蔵経データベース」では、経典引用はあるが、全経典の電子化が見当たらない。但し、「大方廣佛華嚴經隨疏演義鈔」にいほぼ同一の文字列を確認出来た。他にも複数の中文サイトの当該経のものも参考にして校合した。一九九一年河出書房新社刊の『河出文庫』中沢新一編《南方熊楠コレクションⅢ》「浄のセクソロジー」所収の本篇の注によれば、『四巻。宋の求那跋陀羅訳。仏弟子の一人、央掘魔羅の経歴を大乗的に脚色して述べた経典』とある。

「舍衞城」サンスクリット語「シュラーバスティー」の漢音写。釈迦在世当時、北インドにあった憍薩羅(かまら)国の首都の名。波斯匿(プラセーナジット)王の統治下にあり、後に釈迦族は、その子、毘瑠璃(ヴィルーダカ)王に亡ぼされた。都城南方の祇園精舎は著名。現在のウツタル・プラデシュ州のサヘート・マヘート(グーグル・マップ・データ)一帯に相当する。

「薩那(さつな)村」不詳。

「梵師」バラモン僧。後に「無垢賢」と出るのも彼を指す。

「强逼(きやうふく)」強迫に同じ。

「所尊(めうえ)」目上。

「毀辱(きじよく)」謗(そし)り辱(かづかし)めること。

「鬘」「かづら(かずら)」。髪飾り。ここは殺した人の指を一本斬り取り、蔓草にそれ連ねた飾としたものを指す。「ユニバーサル・ソルジャー」のドルフ・ラングレンが演じた彼が、ベトナム戦争中に殺した人の耳を繋げて首にかけてニヤっとしていたのを思い出す。

「增一阿含經」は「大蔵経データベース」で「增壹阿含經」でヒットし、同一の文字列を確認出来た。同前の「浄のセクソロジー」所収の本篇の注によれば、『四『阿含経』(長・中・雑・増一)の一つ。五一巻。東普の瞿曇僧伽提婆』(くどんそうぎゃだいば)『訳。『阿含経』は原始仏教の経典で実際にブッダが説いたと思われる言葉が含まれている』とある。 ]

 戰國より織・豐二氏の頃、首供養と云ふ事有り。例せば『氏鄕記』に、村瀨又兵衞、首取村瀨と云ふ。首供養、三度迄、せり。無智の者故、氏鄕、五百石與へしを、不足にて、「千石、賜え。」と愁訴す。とかくしてあるうち、毒蕈(どくきのこ)を食《くら》ひ、死せりと云ひ、『常山紀談』に「『別所家《べつしよけ》にて、首供養したる人有り。』と孝隆《よしたか》(黑田)、聞きて、「秦桐若(はだ きりわか)、首、三十一、取りたるに、惜しむべきは、死したりき。吉田六之助正利、供養すべし。」と言《いは》れしに、正利、「首數《くびかず》、二十七、取りて候。』とて、辭したりけり。孝隆、「小氣《せうき》なる男哉《かな》。今、卅一歲也《なり》。此後、首取る間敷《まじき》とや。先づ、供養して、後に、其數を合《あは》せよ。」とて、米百石、與へ、供養して、播州靑山の南に塚を築きたり。後、所々の合戰、朝鮮の軍《いくさ》迄に、取《とり》たる首、五十に及べり」と載す。惟《おも》ふに田代孫右衞門(西鶴は源右衞門、又、如風とし、『繪本合邦辻』には彌左衞門とせり)、若かりし時、戰場で、首、多く取り、又、辻切《つじぎり》抔(など)試みける人の、老後、天王寺内に首供養の塚を築き、碑を立てたるを、千人切りの石塔と略傳せしならん。扨《さて》、後年、上出《じやうしゆつ》佛經諸說を附會して、千疋切りの譚、出で來し物歟。

[やぶちゃん注:「氏鄕記」戦国武将蒲生氏郷の事跡を記した書。似たようなものに「蒲生氏郷記」があるが、別本。国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧」第十四冊で並んで掲載されている。ここからが、「氏鄕記」。二度、探して、やっと見つけた。ここの右ページ最終行から次のページの六行目まで。

「常山紀談」江戸中期の随筆・史書。正編二十五巻・拾遺四巻に付録「雨夜灯」(あまよのともしび)一巻で全三十冊から成る。儒者で備前岡山藩士の湯浅常山の著になる。元文四(一七三九)年の自序があり、原型は其頃に成ったと思われるが、刊行は著者没後三十年程後の文化・文政年間(一八〇四年~一八三〇年)。戦国から江戸初頭の武士の逸話や言行七百余を諸書から任意に抄出して集大成したもの。著者自らが「ここに収めた逸話は大いに教訓に資する故に、事実のみを記す」と述べている通り、内容は極めて興味深いエピソードに富み、それが著者の人柄を反映した謹厳実直な執筆態度や平明簡潔な文章と相俟って多くの読者を集めた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。私も好きな本で、所持する岩波文庫版で読みを添えた。]

「別所家」播磨の戦国大名を輩出した氏族。

「孝隆(黑田)」竹中半兵衛重治とともに秀吉の参謀として知られる黒田如水孝高(よしたか)のこと。「孝隆」は初名「祐隆」から改名した時の名で、後に「孝高」と変えている。

「秦桐若」黒田孝高の家臣秦桐若丸(はた(はだ)のきりわかまる 天文一一(一五四二)年~天正一三(一五八三)年)。当該ウィキによれば、播磨国生まれで、『黒田家中で軍功を挙げ』、『関西から中国地方にかけての習慣となっていた、首を』三十三『個取った者が行う首供養を最初に行った』。「山崎の戦い」(天正一〇(一五八二)年六月二日の「本能寺の変」を受け、同年六月十三日に摂津国と山城国の境の山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町)から勝龍寺城(同前で京都府長岡京市)一帯で、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、明智光秀の軍勢が激突した戦い)での『負傷が元で、翌』『年』『に亡くなった』。一丈(約三メートル)の『旗指し物に唐団扇(とううちわ)を使用していた。これを見た敵は近付けず、近付いてから掲げられれば』、『驚き引き退いたと言われる』。「新書太閤記」では、十『人力の壮士であり、「黒田の十団子」と世に知られ』、「山崎の戦い」にあっては、『踏み止まって』、『寄せ手を持て余させていた明智方に対』した。『左右から切りかかる藤田藤蔵、藤田伝兵衛を切り、そこへ槍で突きかかってきた奥田市助、溝尾五右衛門を』、三『ヶ所の傷を負いながら』、『これも切り倒した。しかし、翌年の正月、湯治していた有馬温泉の湯を飲んで』、『腹痛を起こし、傷が破れて』、四十『歳で亡くなったとされている』とある。毒茸に、有馬の湯と如何にもしょぼ臭い死に様は……何やらん、数多の首の怨念か……

「吉田六之助正利」黒田二十四騎の一人に吉田長利(天文一六(一五四七)年生まれ)がおり、同じ一人に菅(かん)正利(永禄一〇(一五六七)年)がいる。後者は数え十五で小姓として出仕した折り、孝高の命によって吉田長利(六郎太夫)の武運にあやかるように「六之助」を名乗っている。「今、卅一歲」とあること、「播州靑山」(兵庫県姫路市青山)「の南に塚を築」いたこと(吉田は、姫路のすぐ北の八代山に城を構えていた八代道慶の子として生まれている。一方の菅は、父の代に播磨国越部(この附近)に移り住んでいるので、決め手にならない)、「朝鮮の軍」(「文禄・慶長の役」はグレゴリオ暦一五九二年から一五九八年までであるが、二人ともに従軍して活躍しているのでこれもダメ)のに出て活躍したという三つが正しく一致するのは、年齢が決め手となった。それは、先の秦桐若が亡くなった天正一三(一五八三)年の時点で吉田長利は既に数え三十七になってしまっているからで、これは菅六之助正利の誤りであることが判った。]

 多くの動物を殺して、人を呪詛する事、眞言の諸方に屢《しばし》ば、見え、支那にも巫蠱(ふこ)の蠱の字は、皿に蟲を盛れるに象《かたど》る。『康煕字典』に『通志・六書略《りくしよりやく》』を引《ひき》て、造ㇾ蠱之法、以百蟲皿中、俾相啖食、其存者爲ㇾ蠱。〔蠱(こ)を造るの法は、百蟲を以つて皿の中(うち)に置き、相(あひたが)ひに啖-食《くら》はしめ、其の存(そん)する者を蠱と爲(な)す。〕とあり、『焦氏筆乘』續集五に、江南之地多ㇾ蠱、以五月五日、聚百種蟲、大者至ㇾ蛇、小者至ㇾ虱、合置器中、令自相啖、因ㇾ食入人腹内、食其五臟、死則其產、移蠱主之家(下略)。〔江南の地に、蠱、多し。五月五日を以つて、百種の蟲を聚(あつ)む。大(だい)なる者は蛇に至り、小なる者は虱(しらみ)に至る。合はせて器中(きちゆう)に置き、自(みづ)から相ひ啖(く)はしむ。食(しよく)に因りて、人の腹の内に入(い)るれば、五臟を食らひ、死すれば、則ち、其の產は、蠱主の家に移る。(下略)」〕。今も後印度(こういんど)に斯《かか》る法を行ふ者有り。田代が龜を殺さんとせし時、龜、手・足・首を出ださずと云《いへ》るは、『雜阿含經《ざふあごんきやう》』卷四十三に、龜蟲畏野干、藏六於殼内、比丘善攝ㇾ心、密藏諸覺想、不ㇾ依不怖畏、覆ㇾ心勿言說〔龜蟲(かめ)は野干(やかん)を畏れ、六(ろく)を殼(かく)の内(うち)に藏(かく)す。比丘は、善(よ)く心を攝(をさ)め、密(ひそ)かに諸(もろもろ)の覺想(かくさう)を藏す。依らず、彼(かのもの)を怖れず、心を覆《おほ》ひて、言說する勿(なか)れ。〕、比丘(びく)が、能く口を愼むを、龜が首尾手足を藏して、野干に喫(くらは)れざるに比せるに出づ。扨、『本草』に、贔屓《ひき》は大龜の屬、好んで重きを負えば[やぶちゃん注:ママ。]、今、石碑の下の龜趺(かめいし)、其形に象ると云ふ。此風を傳えて[やぶちゃん注:ママ。]、田代氏が建《たて》たる碑にも、龜狀の座石《すへいし》を設けたるを、藏六の譬喩と合せて、彼人(かれ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]龜を殺さんとして、母に妨げられし、と作りしなるべし。『類聚名物考』千人斬りの條の次(あと)に、短く指鬘のことを列せるも、田代氏のことを序《のべ》ず。序(つひで)に言ふ、紀州日高郡、寒川(さむかは)の大迫《おほさこ》某、銃獵の名人で、百年許り前、千疋供養を營めりと、その後胤《こういん》西面欽一郞《にしおきんいちらう》氏より聞く。

[やぶちゃん注:「巫蠱(ふこ)」「蠱毒」「蠱術」「蠱道」などとも呼ぶ、古代中国において用いられた呪術で、一般的にはブラック・マジックに属するネガティヴなものを指す。当該ウィキによれば、『動物を使うもので、中国華南の少数民族の間で受け継がれている』。『犬を使用した呪術である犬神、猫を使用した呪術である猫鬼などと並ぶ、動物を使った呪術の一種である。代表的な術式として』明代の楼英の撰になる「医学綱目」(一五六五年刊)の『巻二十五の記載では「ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いさせ、勝ち残ったものが神霊となるため』、『これを祀る。この毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、思い通りに福を得たり、富貴を図ったりする。人がこの毒に当たると、症状はさまざまであるが「一定期間のうちにその人は大抵死ぬ」と記載されている』。『古代中国において、広く用いられていたとされる。どのくらい昔から用いられていたかは定かではないが、白川静など、古代における呪術の重要性を主張する漢字学者は、殷・周時代の甲骨文字から蠱毒の痕跡を読み取っている』。『「畜蠱」(蠱の作り方)についての最も早い記録は』、「隋書」の「地理志」にある『「五月五日に百種の虫を集め、大きなものは蛇、小さなものは虱と、併せて器の中に置き、互いに喰らわせ、最後の一種に残ったものを留める。蛇であれば蛇蠱、虱であれば虱蠱である。これを行って人を殺す」といったものである』。『中国の法令では、蠱毒を作って人を殺した場合』或いは『殺そうとした場合』、さらに『これらを教唆した場合には死刑にあたる旨の規定があり』、「唐律疏議巻十八では絞首刑、「大明律」巻十九や、「大清律例」巻三十では『斬首刑となっている』。『日本では、厭魅(えんみ)』(「魘魅」とも書く。咒(まじな)いで以って人を呪い殺すこと。或いは、呪法によって死者の体を起こして、これに人を殺させるゾンビ様のものも含まれる)『と並んで「蠱毒厭魅」として恐れられ、養老律令の中の「賊盗律」に記載があるように、厳しく禁止されていた。実際に処罰された例としては』、神護景雲三(七六九)年に、女官の『県犬養姉女』(あがたのいぬかいのあねめ)『らが不破内』(ふわない)『親王の命で』、『蠱毒を行った罪によって流罪となったこと』、宝亀三(七七二)年に『井上内親王が蠱毒の罪によって廃されたこと』『などが』「続日本紀」『に記されている。平安時代以降も、たびたび詔を出して禁止されている』とある。

「通志・六書略」南宋の歴史家鄭樵(ていしょう)が書き、一一六一年に板行された優れた史書。形式は断代史を批判して通史である「史記」に倣い、三皇から隋唐各代までの法令制度を記録する。全書二百巻に、考証三巻を付け加え、紀伝体としての帝紀十八巻・皇后列伝二巻・年譜四巻・二十略五十一巻・列伝百二十五巻を包括しているが、中でも二十略が最も高く評価される。二十略は紀伝体における「書」・「志」といった分野をより拡充したもので、従来の政治史や人物伝に偏りがちな歴史の記述・論評を、様々な学術分野の発展の様子に重きを置いたものにしたいという抱負から生まれたものである。その「六書略」は巻三十一から三十五までで、「漢字の成り立ち」について記されたものである(以上は当該ウィキに拠った)。

「俾」は使役の助字。

「焦氏筆乘」明の儒学者で歴史家の焦竑(しょうこう 一五四〇年~一六二〇年)の随筆。「中國哲學書電子化計劃」の同書の影印本の当該箇所で校合し、熊楠の返り点もおかしいので、勝手に手を加えた。

「死則其產、移蠱主之家」の「產」は、一見、その蠱毒の対象生物が、もともとその蠱を作った主人の家に戻るという意味に見えるが、私は中国の蠱毒が、怨念に加えて、さらに極めて現実的利益に係わることから、蠱毒で死んだ者の全財「産」は蠱を作った者の物になるという意味でとった。中国の志怪小説では、そうしたケースが、結構、多いからである。

「後印度(こういんど)」東南アジアの欧米人による旧称。「後インド」(英語:Further India)。

「雜阿含經」の部分は「大蔵経データベース」で校合し、そこに附帯する別な版本の正字を採用した。

「野干」原仏典のそれはインドに棲息するジャッカルを指すが、ジャッカルがいない中国では、キツネに似た妖獣として認識され、本邦では、専ら、狐の異名となってしまった。「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(5:狼)」の私の『家犬の祖先が狼また「ジヤツカル」より出たるは、學者間既に定論あり』の注で詳しく考察した。

「贔屓《ひき》」読みは「ひいき」ではないの注意(但し、意味は以下に示される通り、これに基づく)。当該ウィキによれば、『中国における伝説上の生物。石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と言う』。『中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ』九『頭の神獣・竜生九子の一つで、その姿は亀に似ている。重きを負うことを好むといわれ、そのため』、『古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。日本の諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺だが、その由来は、柱の土台である贔屓を引っぱると』、『柱が倒れるからに他ならない』。『「贔屓」を古くは「贔屭」と書いた。「贔」は「貝」が三つで、これは財貨が多くあることを表したもの。「屭」はその「贔」を「尸」の下に置いたもので、財貨を多く抱えることを表したものである。「この財貨を多く抱える」が、「大きな荷物を背負う」を経て、「盛んに力を使う」「鼻息を荒くして働く」などの意味をもつようになった』。『また』、『「ひき」の音は、中国語で力んだ時のさまを表す擬音語に由来する』。『明代の李東陽』(一四四七年~一五一六年)『が著した』「懐麓堂集」や、明の文人楊慎(一四八八年~一五五九年)が著した「升庵外集」に『その名が見られる』とある。リンク先に中国の当該物の画像があるが、事実、中国では頻繁に見かけたし、本邦でも、名刹の碑文の台によく認められる。

「田代氏が建たる碑にも、龜狀の座石を設けたる」先に注したが、再掲すると、天王寺の同碑のサイド・パネルにある一枚の塔全景の画像を拡大して、その台部分を見ると、カメの形であることが判る。]

「藏六の譬喩」「亀は六を蔵す」は「法句譬喩経」(ほっけひゆきょう)にも書かれていることを指す。カメが手足四肢と首部と尾部の「六つの体部」を甲の内に蔵し、他物に傷けられぬようにすることを、人が「六根」(外界と直接に接する眼・耳・鼻・舌・身及び意(それらの刺激に連関して発生する内的意識・認識)を守って外界の無常なる何物にも迷わされぬことに譬えたもの。

「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。当該箇所「千人切」は国立国会図書館デジタルコレクションのここにある(「人事部」の一条。左ページ下段)。

「紀州日高郡、寒川」和歌山県日高郡日高川町(ひだかちょう)寒川(そうがわ)

「西面欽一郞氏」(明治七(一八七四)年~昭和三(一九二八)年)は所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九四年講談社刊)によれば、兵生の『富豪』で、熊楠を招かれて、『四十日余り厄介にな』ったとあり、また、「南方熊楠顕彰会のスタッフブログ」の二〇一四年二月八日の記事「本日より開催!! 西面欽一郎・賢輔兄弟展」によれば、『二川村兵生(現田辺市中辺路町)の製材所を南方が植物採集のため訪れてから』(明治四三(一九一〇)年十一月か~十二月頃)『親交が深まり』、欽一郞の『弟の賢輔』ともに、『植物・民俗資料の採集、神社合祀反対運動及び復社運動(上山路村丹生ノ川の丹生神社、龍神村三ツ又の星神社)』(ここが星神社(グーグル・マップ・データ)。そこから南西三キロ弱離れた丹生ノ川(にゅうのがわ)川畔に「丹生神社」が確認出来る)『を通じて南方と文通した』。『欽一郎は、大正年間』には『上山路村長を』十三『年間務め』たとあり、兄弟ともに『日高郡上山路村大字丹生ノ川(現田辺市龍神村)に生まれ』であるとある。既出既注。]

 上述、阿武隈川の源左衞門、知れぬ人に父を討たれ、無念晴しに千人切りを爲せり、と謠曲に有るより、事、相似《あひに》たれば、西鶴、混じて、田代孫右衞門を源右衞門と作(なせ)るか、件《くだん》の謠曲の源左衞門が事と、田代氏の事、頗る、馬來(まれー)人、又「ブギ」人に發生する、「アモク」症に似たり。乃《すなは》ち、彼輩《かのはい》、負債・離別・責罰等で、不平極《きはま》る時、忽ち、發狂して、前後を覺えず、短劍を手にし、出逢ふ男女老幼を刺し盡さんとして息《や》まず、遂に群集に殺さるゝを、衆、之を賞讃の氣味あり。五十六年前、「ワリス」氏、「マカッサー」島で見聞せしは、斯《かか》る事、月に平均、一兩回有り、每囘、五人、十人、又、廿人も、之に遇《あひ》て殺傷されし、となり(氏の『巫來群島記(まれー・あーきぺらご)』十一章)。印度にも、一六三四年、「ジョドプル王(ラジヤ)」の長男、「ジャハン皇(シヤア)」の廷内に「アモク」し、皇(シヤア)を討洩《うちもら》せしが、其臣五人を殺し、十八世紀に「ジョドプル」王の二使、主人と「ハイデラバッド王(ラジヤ)」の爭論に就き、協議すとて、「ハイデラバッド」に往き、突然、起(たつ)て、王(ラジヤ)を刺し、幷(なら)びに、其二十六臣を殺傷して殺されたり(『大英類典(エンサイクロペヂヤ・ブリタニカ)』十一板、卷一)。『武德編年集成』二五に出《いで》たる、平原宮内が、家康の陣營に、突然、闖入して廿七人を殺傷し、自分も殺されたは、隨分、似て居る。

[やぶちゃん注:「アモク」amuck。本来はマレー人に見られる攻撃的な精神錯乱の発作を指す語。マレー語「amog」に由来するが、この語源を遡ると、「決死隊の戦士」を意味する「アムコ」(amuco)から出ているという。この発作が起こると、激しい興奮状態の下(もと)で、破壊的な攻撃性を示し、刀で人に切りかかったりするが、遂には、疲労困憊して倒れ、あとに記憶の欠損が残る。このアモクを、初めて精神医学の立場から記述したのが、ドイツの、かのクレペリンで(一九〇九年)、彼はこれを癲癇・マラリア・脳梅毒・ハシーシュ中毒・熱射病に伴う反応性精神病、或いは躁病の一型などと考えたが,近年では、一種のヒステリー性朦朧状態ととる人が多い(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。しかし、私はこれはマレー人や「ブギ」人(不詳)に限ったものではなく、恐らくは、例えば、未開民族が急激な文明の侵入によって理解不能となること、文字通りの「カルチャー・ショック」の反応性の強い攻撃的なヒステリー症状とみて間違いないと思う。幕末の「ええじゃないか」と、その根っこは共通である。

「月に平均、一兩回」月平均で、必ず一回、或いは、二回。

『「ワリス」氏』「巫來群島記(まれー・あーきぺらご)」インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線「ウォレス線」で知られるイギリスの博物学者・進化論者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)の‘The Malay Archipelago’(「マレー諸島」・一八六九年刊)。

『「マカッサー」島』恐らくは、インドネシアのスラウェシ島のことであろう。同島の東南端近くに、現在のスラウェシ州の州都であるマカッサル(Makassar)がある。

「『大英類典(エンサイクロペヂヤ・ブリタニカ)』十一板、卷一」「Internet archive」の同書のズバリ! “AMUCK, RUNNING”の項である。人物の綴りはそちらで確認されたい。それらの人物に就いては面倒なので、注はしない。悪しからず。

「武德編年集成」江戸中期に編纂された徳川家康の伝記。当該ウィキによれば、『成立は元文』五(一七四〇)年で、『著者は幕臣』『木村高敦。偽書の説、諸家の由緒、軍功の誤りなどの訂正が行われて』、『寛保元』(一七四一)年に『徳川吉宗に献上され』たとある。以下の、「二五に出たる、平原宮内が、家康の陣營に、突然、闖入して廿七人を殺傷し、自分も殺された」というのは、これはなかなか、とんでもない乱入で家康危うしという大事件なのだが、ネット上の記事で言及しているものを見出せなかった。但し、三田村鳶魚の「公方様の話」(中公文庫・鳶魚江戸文庫・一九九七年)の改題再刊本がグーグル・ブックスにあり、その視認可能部分におおまかな梗概が少し、紹介されている。ここである。しかし、これ、実際の話をちゃんと読みたいと思うのは、私ばかりではあるまい。幸いにして、「国文研データセット」のこちらに「武徳編年集成」が総てが画像化されているので、当該画像をダウン・ロードし、視認して電子化することとした。同書の二十五巻を含む表紙は、左二番目のやや半分より手前に、二十四巻と併置カップリンッグしてあるので、そこを目を凝らして探して戴き、その表紙画像の左上外にある「部分URL」(但し、残念なことにこのタグは機能していないので示せない)の末尾の「.jpg」の前の数字「00632」を「00655」まで「<」ボタンで進めると、それが冒頭となる(右丁四行目以下)。この事件、頭に「○頃日」(けいじつ:近頃)とあるだけで、日時がクレジットされていないのが恨みなのだが、前丁の巻頭の記載、及び、直前の記事から、天正十二年十二月十一日(グレゴリオ暦ではこの旧暦の十二月一日が既に一五八五年一月一日である)よりも以前に発生したものと思われる(最後の附記には一説として、同年九月のこととするが、それを最後には否定している。なお、本記事の後の記事は十二月十九日となっている)。本話は長く、「00657」の右丁後ろから三行目まである。カタカナはひらがなとし、漢字はそのまま再現してある(迷った場合は正字としたが、表記出来ない異体字は通用字で示した)。句読点・濁点を追加、一部難読と思われる部分には推定で歴史的仮名遣で読みを添えた(本部には読みは一切ない)。二行割注は【 】で示した。約物は正字で示した。臨場感を出すために、段落を成形し、記号も用いた。敬意の字空けは私には、却って違和感があるので、改行一字下げで示した。

   *

○頃日、甲信の先方の士を、甲陽古府に召(めし)て拜謁を遂(とげ)させ、忠の輕重を糺され、或は、全く本領を賜ひ、或(あるいは)、舊地を減(へら)せらる。

 平原宮内(ひらはらきゆうない)【依田一族。】、本給安堵すべき所に、往日(わうじつ)、「笛吹川一戰」の時、一揆の長(をさ)、大村三右衞門が徒黨たる旨、保坂金右衞門、并に、田村の郷民、是を訴ふ故、兩國の士、拜謁を遂(とぐ)る序(ついで)、

 御前に於て、訴人と對决を命ぜらる。

 平原、

「通意なき。」

由、陳謝して退出する所、其(その)甲乙、

「未判の事、有(あり)て、再び糺問(きうもん)せらるべし。」

とて、是を呼返(よびかへ)さる。

 平原に限らず、羣參(ぐんさん)の先方の士、長袴(ながばかま)を着(ちやく)し、短刀を帶(たい)し、太刀をば、僕從に持(もた)せ置(おき)しが、平原、元來、野心を含める故、其事、露見するかと疑(うたがひ)を生ぜしにや、奥山新八郞が童(どう)、主人の刀を携へ、蹲踞しける處、平原、忽(たちまち)、刀を奪取(うばひとり)て、其僕童を斬殺(きりころ)し、眞驀(まつしぐら)に、

 御前に馳入(はせい)る時、甲陽の小幡藤五郞昌忠、辻彌兵衛(やひやうゑ)盛昌、臺子(だいす)の間(ま)に誥合せしが、兩人、平原に向ひ、藤五郞、短刀を拔(ぬき)ながら、平原が切附(きりつく)る刀を受留(うけとめ)、左の手の指、四つ、擊落(うちおと)さる。續(つづき)て、彌兵衞、短刀を鞘ともに翳(かく)し、飛入(とびいら)んとして、額に疵を蒙る。其血、目に入(いり)て、途方を失ふ。

 時に甲信の士、長袴を着し、進退、輙(たやす)からず。

[やぶちゃん注:「臺子」点茶に用いる諸道具をのせる棚の一種。]

「誥合せしが」「つげあはせしが」(制止の声をかけたが)か。或いは「詰合」で「つめあはせしが」の誤記と考えた方がすんなり読める。]

 手負(ておひ)・死人、廿七人に及べり。

 宮内、既に、

 午前に近付(ちかづく)處、土屋右衛門昌爲、急に、雨戸を引(ひき)て、是れを隔(へだて)る。

 參州衆、永見芯右衞門重頼、傍(かたはら)なる槍を執(とり)けるが、平原、透間(すきま)なく進み來(きた)る故、永見も、槍を取𥄂(とりなを)す。

 隙なく、鐏(やさき)を以て、宮内を突倒(つきたふ)せば、榊原康政が部下、伊藤雁助(がんすけ)、平原を組留(くみとめ)る。

「鐏」本来は、石突(いしづき)の一種で槍の柄の端に被せる筒形で先が細まっているキャップ状のものを指すが、ここはそんなことはしていられない。抜き身の槍の先の意であろう。そこで「やさき」と読んでおいた。]

 時に、脇より、宮内を斬(きらん)とて、誤(あやまり)て、其刀、雁助に中(あた)る【疵、癰(よう)に成(なり)て、後日、雁助、死亡す。】

[やぶちゃん注:「癰」悪性の腫れ物を指す。]

 辻彌兵衞、漸(やうや)く、眼を開き、平原が刀を押(おさ)へ取(とり)、遂に、宮内、誅せらる。

 神君、永見・土屋が働(はたらき)を感ぜられ、小幡が深疵を憐み、丸山萬太郞、山本大琳、兩醫を附置(つけおか)れ、療養を遂(すすめ)らる。

 且、佐藤甚五郞を御使(おつかひ)として、度〻(たびたび)、小幡が陣營に赴く。

 藤五郞、時に二十九歳、日を經て、疵、平癒し、後、又兵衛と改む。

 且、彌兵衛、心は剛也と雖(いへども)、白刄(しらは)を揮ふ敵に空手(からて)に等しき體(てい)にて、卒爾に馳向(はせむ)ひ、創(きず)を蒙る事、

 御旨(おんむね)に應(わう)ぜず、當三月、

 神君へは、八百貫の約を成し仕へ奉る事も、義に叛(そむけ)り。其上、織田信忠へも、勝頼を討(うち)て出(いだ)すべき由にて、三百貫の約をなせし巷說(かうせつ)も有(あり)しかば、僅(わづか)に、綿衣一襲(わたぎぬひとかさね)、黃金一枚、辻に賜はり、御賞愛、甚(はなはだ)、薄(うすし)と云〻。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで、全体が一字下げ。]

 或曰、「平原が狼藉は、當九月、新府に假屋(かりや)を設け、甲信、先方の士、拜謁を許されし時なり。」とも云へり。又、此時、彌兵衛、改易せらると云(いふ)。皆、非也。

   *]

2022/10/29

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 千人切の話(その2)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ七行目の半ばやや下。底本では続いているが、「選集」では改行されてある)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で「選集」を参考(「選集」は漢文部が編者によって訓読されてある。但し、現代仮名遣という気持ちの悪いもの)に訓読を示した。なお、本篇は、やや長いので、分割した。]

 

 是等は小說なれど、古《いにしへ》より諸邦に、淫蕩の人、情事(いろごと)の數多きに誇りし例、少なからず。『三楚新錄』卷一、馬希範淫而無禮、至於先王(馬殷)妾媵無ㇾ不烝通、又使尼潛搜士庶家女有容色上者、皆强取ㇾ之、前後約及數百、然猶有不足之色、乃曰、吾聞軒轅御五百女以昇天、吾其庶幾乎、未ㇾ幾死、大爲識者所ㇾ笑〔馬希範(ばきはん)は、婬にして、禮、無し。先王(馬殷(ばいん:十国の楚の初代の王))の妾媵(せふよう)、烝通(じようつう)せざるは、無し。又、尼(あま)をして士庶(ししよ)の家の女の容色ある者を搜さしめ、皆、强ひて、之れを取る。前後、約(およ)そ、及ぶこと、數百たり。然(しか)も、猶ほ、不足の色、有り。乃(すなは)ち曰はく、「吾(われ)聞く、『軒轅(けんえん)は五百の女を御(ぎよ)して、以つて、天に昇る。』と。吾、其れ、庶-幾(ちか)きか。」と。未だ幾(いく)ばくもなくして死す。大いに識者に笑はらるることと爲(な)れり。〕。支那の黃帝、亜喇伯(あらびあ)の馬哈默德(まほめつと)、希臘の「ヘラクレス」、何《いづ》れも御女《ぎよじよ》の數、莫大なりしを、「盛德」として喧稱され、三世紀の末、「ガウル」の勇將「プロクルス」の自賛に、「サルマチヤ」を征して素女(きむすめ)百人を獲《とり》、一夜に十人を御《ぎよ》し、半月ならぬに、百人を擧げて、既婚婦《しんぞう》に化《くわ》し遣《つか》はせり、と有る。其剛强無雙、恐縮の至りと、「ギボン」先生も『羅馬衰亡史』拾貳章に感嘆せり。古今、實際、かかる俊傑、多ければ、故「ハーバート・スペンセル」が、一夫多妻(ポリガミー)の起りは、繼嗣(あとつぎ)を望むとか、經濟の爲とかよりも、主として、婦女を自意(わがこゝろ)に任せうる事、多きに、誇れるにありと、論ぜしは、最もな言(こと)也。本邦には『長祿記』に、業平の契り玉ひし女、三千三百三十三人、とあり。後世、業平大明神とて、漁色家が專ら仰ぎし事、浮世册子類にしばしば見えたり。六月一日の『日本及日本人』九四頁に、「文化九年云々。『甲子(かつし)夜話』に、ある公卿、もと、院傳勤めし人の、家も富有なるが、何等の好色にや、一千人の女と交わるべき發願して、年若き時より、壯若貴賤を撰ばず、力の及ぶだけ、漁色したり。此兩三年前、願の數に盈(みち)ちたりとて、其祝《いはひ》せられけると云《いへ》るは、高倉太宰大貳永孚(えいふ)(卅九)の事なるべし。」と見ゆ。是等より推して、情事の千人供養も絕無の事ならざるを知るべし。

[やぶちゃん注:「三楚新錄」宋の周羽翀(うちゅう)撰になる十国時代の楚史かと思われる。「中國哲學書電子化計劃」の同書の影印本画像の当該部を調べたところ(影印本の四行目下方から。なお、右の電子化版は機械判読と思われ、誤りが多いので、参考にしてはいけない)、熊楠の引用にはやや問題があることが判ったので、それを参考に手を加えた。返り点なども推定で加えた。

「馬希範」十国時代の楚の第三代の文昭王(八九九年~九四七年/在位:九三二年~九四七年)の本名。武穆(ぶぼく)王馬殷の四男。当該ウィキによれば、『異母兄の衡陽王馬希声の薨去に際し、武穆王馬殷の兄弟相続の遺命により、鎮南軍節度使であった馬希範がその地位を継承した。まもなく』、中国北部を広範に支配していた後唐(こうとう)から『武安武平両軍節度使兼中書令に任じられ、更に』九三四年『には楚王に封』ぜられた。『馬希範は学問を好み』、『漢詩に長じて』は『いたが』、浪費癖や好色癖が『著しく、特に正妻である彭夫人(唐の吉州刺史の彭玕の娘)が死去した後は』姦淫に『走り』、『宴席を数多く設けたとされる。また』、『天策府を建築した際には』、『その門戸檻桿を金や玉で装飾し、壁を丹砂数十万斤を以って塗ったと史書に記録される』。『楚は金銀を産し、また茶葉販売の利益が大きく』、『財政的には豊かであったが、これらの相次ぐ奢侈により国家財政が逼迫、住民への課税が強化されると共に、売官行為や贖罪刑が横行』、『国内は乱れた』。死後は『弟の馬希広が継承し』ているとあった。

「妾媵」「妾」は側室、「媵」(よう)は周代の婚姻形態に始まるとされる側室の一種。当時の天子や貴族が正室を娶る際には、正室の女性とともに、同族の姉妹や従妹が「媵」としてつき従った。そして、正室となった女性が子供を産めなかった場合、その代理として「媵」が子供を産む役目を負った。側室の一種であるが、「妾」とは異なり、媵が産んだ子供は正室の子として扱われた(「媵」の部分は当該ウィキに拠った)。

「烝通」「烝」には「目上或いは身分の高い女性と姦通する」の意がある。

「士庶」「士」は「道を修め、人の長たる身分の者」を、「庶」は「農工商に従う者」の意から転じて、身分の高い人に対して、「一般の人々」の意となった。

「軒轅」中国の伝説上の皇帝である「黄帝」の名。

「庶-幾(ちか)き」この場合は、「庶」・「幾」ともに「近い」の意で、「極めて似ていること」を言う。か。」と。未だ幾ばくもなくして死す。大いに識者に笑はらるることと爲(な)れり。

『「ガウル」の勇將「プロクルス」の……』以下はイギリスの歴史家エドワード・ギボン(Edward Gibbon  一七三七年~一七九四年)の「羅馬衰亡史」(The History of the Decline and Fall of the Roman Empire :一七七六年~一七八八年刊)の「拾貳章」(十二章)を読めば判るだろうと、「The Project Gutenberg」の英文の当該章をざっと見たが、どうも判らない。私は訳本を持たないので、それを購入して調べるまで、以下の部分の注はペンディングする。悪しからず。

「ハーバート・スペンセル」イギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。

「一夫多妻(ポリガミー)」polygamy

「長祿記」室町時代に成立した、「応仁の乱」の元凶といわれる畠山義就(よしなり)の軍記物。「国文学研究資料館」の写本を見ると(始まりはここの右丁の三行目から以下で、熊楠の引用する箇所はここの右丁の後ろから二行目である)、「交野業平事」(かたののなりひらのこと)と目録して、義就が河内国に転戦した際、交野ヶ原を通った折りに、昔、業平がここに鷹狩に来て、俄に大雪に見舞われ、宿を貸してくれた女を見染め、京へ連れ帰ったものの、日に日に女は衰えを見せ、遂に姿を消してしまう。彼女は雪の精であったのであったという話を記したものである。

「日本及日本人」月刊評論雑誌。明治二一(一八八八)年四月、三宅雪嶺・井上円了・杉浦重剛ら政教社同人により創刊された『日本人』を、明治四〇(一九〇七)年に改題したもの。当初から西欧主義に反発した国粋主義を主張し、後、雪嶺の個人雑誌的色彩を濃くした(但し、大正一二(一九二三)年の大震災罹災直後に運営方針から内部で対立し、同年秋に雪嶺は去った)。昭和二〇(一九四五)年二月、終刊。戦後の昭和四一(一九六六)年一月に復刊したものの、時勢に合わず、四年後には廃刊となった。

「文化九年」一八一二年。

「『甲子(かつし)夜話』に、ある公卿、……」私は東洋文庫版で全巻を所持するが、巻数も標題もない中で、調べるのは面倒である。発見したら、電子化して追記する。悪しからず。

「高倉太宰大貳永孚(えいふ)(卅九)」不詳。

 以下の段落は底本でも改行している。]

 上に引《ひき》たる『繪本合邦辻』に、田代の母、百萬遍を催すに先だち、檀寺の僧、仔細を聞《きき》て、「昔し、班足王(はんぞくわう)、『千人の命を絕(たつ)べし。』と大願を發し、九百九十九人を殺し、今一人になって、老母を以て員(かづ[やぶちゃん注:ママ。])に充《あて》んとす。已に害せんとせし時、忽然と、大地、裂けて、班足を陷《おちいれ》る。老母、驚き悲《かなし》み、其髮を摑んで引上《ひきあげ》んとすれど、體、既に地中に落入《おちい》り、髮のみ、老母の手に遺《のこ》りしと、經文に說けり。彌左衞門も、同樣の罪によって、「目前、阿毘《あび》・焦熱《しやうねつ》の苦を受くると覺ゆ。」と言《いへ》りと有り。是れ、其僧、又、著者が記憶の失《しつ》にて、諸經說を混淆せり。乃《すなは》ち、班足王が百王の肉を食らわん迚《とて》、九十九王を囚《とら》え[やぶちゃん注:ママ。]、最後に善宿(ぜんしゆく)王を擒《とら》えしに[やぶちゃん注:ママ。]、「梵志に食を施《ほどこ》さん。」と約して、與へぬ内に死するを悲しむを見、時を期して放還せしに、藏を開き、施し畢《をは》りて、約の通り、還り來たりしに感心して、九十九王と共に縱《ゆる》し歸せし譚(ものがたり)は、『出曜經(しゆつえうきやう)』卷十六に出で、地に陷《おちい》る子の、髮のみ母の手に留まりし話は、『雜寶藏經』卷七に、子が、母の美貌に着(ちやく)し、病と成り、母に推問《おしとは》れて、其由を告《つげ》しに、母、子の死せん事を怕《おそ》れ、卽便喚ㇾ兒、欲ㇾ從其意、兒將ㇾ上ㇾ牀、地卽擘裂、我子卽時、生身陷入地獄、我卽驚怖、以ㇾ手挽ㇾ兒、捉得兒髮、而我兒髮、今日猶故在我懷中、感切是事、是故出家。〔卽ち、兒(こ)を喚び、其の意に從はんと欲す。兒、將に牀(とこ)に上がらんとするや、地、卽ち、擘-裂(つんざけ)て、我が子、卽時に生身(しやうしん)陷入(かんにふ)す。我、卽ち、驚怖し、手を以つて、兒を挽(ひ)かんとするに、兒の髮を捉へ得たるのみ。而して、我が兒の髮、今日、猶ほ、我が懷中に在り。是の事を感切し、是の故に出家せり。〕。是より轉じて、古く『日本靈異記《にほんりやういき》』中卷と、『今昔物語』卷廿、既に、武藏人吉志火麿(きしのほまろ)、母を殺《ころさ》んとして、地に陷沒し、髮のみ、母の手に殘りし誕(ものがたり)を載せ、今も中山寺《なかやまでら》の鱷口(わに《ぐち》)の綱に、罪《つみ》重かりし巡禮女の長髮(かみ)[やぶちゃん注:二字變へのルビ。]、纏ひ着《つけ》りと傳ふ。其の老母を以て、百人の數に充《あて》んとせしと云ふは、指鬘比丘《しまんびく》の傳に基《もとづ》けるなり。

[やぶちゃん注:「『繪本合邦辻』に、田代の母、百萬遍を催すに先だち、檀寺の僧、仔細を聞《きき》て、……」「(その1)」を参照されたいが、以下の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「帝國文庫」版のここの右ページの後ろから六行目の「僧(そう)橫手(よこて)を打ち……」以下の部分である。

「班足王」「斑足太子」(はんぞくたいし)とも呼ぶ。釈迦の本生譚(ほんしょうたん:前世話)中に説かれる人物。その父が、王山を巡っているうちに、牝獅子に出逢い、この牝獅子と交わり、生まれたという太子。その足に「斑点」があったところから名ぐけられた。太子は王位を継いだ後、邪教を信じ、「神を祀るために、千王の頭を得よう。」と誓い、九百九十九王までを得て、一人を欠いていたが、その後、最後に捕えた普明王によって、解悟し、出家して、無生法忍を得たという。日本に渡来した妖狐「玉藻前」はその塚の神だったともされる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「阿毘」阿鼻地獄。無間地獄に同じ。八大地獄の一つで、現世で五逆(母を殺すこと・父を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・仏身を傷つけて血を出させること。僧団の和合を破壊すること)などの最悪の大罪を犯した者が落ちる。地獄の中で最も苦しみの激しい所とされる。

「焦熱」焦熱地獄。同じく八大地獄の一つ。殺生・偸盗・邪婬・妄語・飲酒・邪見の者が堕ち、罪人は熱した鉄板・鉄棒の上に置かれたり、鉄の沸騰した釜の中に入れられるとされる。但し、地獄思想は中国の偽経が元となったものである。釈迦は私の信ずるところでは、地獄とは永遠の闇の世界とのみ表現しているはずである。

「出曜經」美文体の詩集。倫理的教理を説く「法句経」の系統に属する文献で、竺仏念が中国語訳した(五胡十六国時代の三九八年から翌年にかけて) 。 全三十四章で約 九百三十編から成る。詩の詠じられた背景の物語や解説をも併記してある。詩だけの集成である「法集要頌経」(ほうじゅうようじゅきょう)も、恐らくは同一の原典によるものと考えられている(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「雜寶藏經」の経文部は「大蔵経データベース」の「諸經要集」の中の「雜寶藏經」からの当該部の引用と校合して変えてある。後注参照。

「『日本靈異記』中卷と、『今昔物語』卷廿、既に、武藏人吉志火麿(きしのほまろ)、母を殺《ころさ》んとして、……」まず、「日本靈異記」のそれを所持する角川文庫の板橋倫行校注(昭和五二(一九七七)年十五版)を底本としたが、読点・記号を追加し、段落を成形した。一部で私の判断で歴史的仮名遣で読みを推定で入れてある。それは《 》を使った。上付き文字は板橋先生の注記。

   *

 

   惡逆の子、妻を愛(め)で、母を殺さむ
   として謀り、現に惡死を被る緣第三

 

 吉志(きし)の火麻呂(ほまろ)は、武藏の國多麻《たま》の郡《こほり》鴨《かも》の里[やぶちゃん注:当該地不明。]の人なり。火麻呂の母は、日下部(くさかべ)の眞刀自(まとじ)なり。聖武天皇の御世、火麻呂、大伴(おほとも)名姓、分部分明ならず。筑紫の前守(さきもり)に點(さ)さる。

 三年を經(ふ)べし。母は、子に隨ひて、往きて相《あひ》節(か)ひ養ふ[やぶちゃん注:一緒に暮らした。]。其の婦(め)は、國に留まりて、家を守る。

 時に火麻呂、己が妻を離(か)れて去(ゆ)き、妻の愛(め)でに昇(あ)へずして、逆謀《ぎやくぼう》を發(おこ)し、

『我が母を殺し、其の喪服《さうぶく》に遭ひ、役《やく》を免れて、還り、妻と俱《とも》に居《ゐ》む。』

と思ふ。

 母の自性(ひととなり)、善を行ふを、心とす。

 子、母に語りて言はく、

「東の方《かた》の山の中に、七日(なぬか)、「法花經」を說き奉る大會(だいゑ)あり。母を率(いざな)ひて、聞かむ。」

といふ。

 母、欺かれて、

『經を聞かむ。』

と念(おも)ひ、心を發(おこ)し、湯もちて洗ひ、身を淨め、俱に、山の中に至る。

 子、牛なす目もちて、母を眦(にら)みて、言はく、

「汝、地に長跪(ひざまづ)け。」

といふ。

 母、子の面(おもて)を瞻(まは)りて[やぶちゃん注:目を瞠(みは)って見守って。]、答へて、曰はく、

「何の故に、しか言(い)ふ。もし、汝、鬼に託(くる)へるや[やぶちゃん注:鬼が憑いて気が狂ってしまったのか?]。」

といふ。

 子、橫-刀(たち)を拔きて、母を殺らむとす。

 母、卽ち、子の前に長跪きて言はく、

「木を殖うる志(こころ)は、彼の菓《このみ》を得、竝びに、其の影に隱れむが爲《ため》。子を養ふ志は、子の力を得て、幷《あは》せて、子に養はれむが爲なり。恃(たの)みし樹に、雨、漏《もる》るが如く、何ぞ、吾が子、思ひに違《たが》ひて、今、異(け)しき心、在る。」

と。

 子、遂に聽かず。

 時に、母、わびて、身に著(き)たる衣を脫ぎて、三處《みところ》に置く。

 子の前に長跪き、遺言(ゆゐごん)して言はく、

「我が爲に詠ひ被《おほ》ひ裹(つつ)め。一つの衣をもちて、我が兄の男、汝、得よ。一つの衣は、我が中の男[やぶちゃん注:次男。]に贈りたまふ。一つの衣は、我が弟(おと)の男[やぶちゃん注:三男の末っ子の男子。]に贈りたまふ。」

といふ。

 逆子《ぎやくし》、[やぶちゃん注:不孝なる息子の意。]步み前(すす)みて、母の頸(くび)を殺(き)らむとするに、地、裂けて、陷(おちい)る。

 母、卽ち、起ちて前み、陷る子の髮を把(と)り、天を仰ぎて哭き願はく、

「吾が子は、物に託(くる)ひて、事を爲す。實(まこと)の現(うつし)し心に、非ず。願はくは罪を免(ゆる)したまへ。」

といふ。

 なほ、髮を取りて、子を留《と》むれども、子、終《つひ》に陷る。

 慈母、髮を持ちて、家に歸り、子の爲に法事を修し、其の髮を筥(はこ)に入れて、佛像の前に置き、謹みて諷誦(ふじゆ)を請(う)く[やぶちゃん注:僧に読経を依頼したのである。]。

 母の慈は、深し。

 深きが故に、惡逆の子に哀愍《あいみん》の心を垂れ、其の爲に、善を修す。

   *

 思うに、本話は以下の「今昔物語集」を始めとして、後続の因果譚の一つのパターンの手本の濫觴となるのだが、恐らくは、仏典が、この話の原話であろうとは思う。以下の小学館「日本古典文学全集」(昭和五四(一九七九)年第五版)の解説に「雑宝蔵経」第九巻の「婦女厭欲出家縁」や、「法苑珠林」巻二十二の「入道篇引証部」が酷似するとあるが、「大蔵経データベース」で両方とも確認したが、前者はまさに熊楠が引いているそれであり、後者は恐らくは「引證部第四」と思われるが、やはり、内容は母に淫欲を抱いた結果というシノプシスであって、母殺しの動機部分は、或いは本邦で形成されたものかも知れない。或いは、中国の志怪小説にありそうな気もする。

 次に、「今昔物語集」巻第二十の「吉志火麿擬殺母得現報語第三十三」(吉志火麿(きしのひまろ)母を擬-殺(ころ)さむとして現報を得る語(こと)第三十三)を示す。小学館「日本古典文学全集」のテクストを参考に、恣意的に漢字を正字化して示した。その外も同前の仕儀を施してある。特に読みを送り仮名として出した箇所が多い。□は原本の欠字。

   *

 

   吉志火麿、母を擬殺さむとして
   現報を得る語第三十三

 

 今は昔、武藏の國、多摩の郡(こほり)鴨の里に、吉志火丸と云ふ者、有けり。

 其の母は、日下部(くさかべ)の眞刀自(まとじ)也。

 聖武天皇の御代に、火丸、筑前の守□□□□□□と云ふ人に付きて、其の國に行きて、三年(さむねん)を經(ふ)るに、其の母、火丸に隨ひて行きぬれば、其の國にして、母を養なふ。

 火丸が妻、本國に留(とど)まりて、家を守るに、火丸、妻を戀ひて思はく、

『我れ、妻を離れて、久しく相ひ見ず。然(さ)れども、許されざるに依りて、行く事、能はず。而るに、我れ、此の母、殺して、其の喪服(さうぶく)の間(あひだ)、許されて本國に行き、妻と共に居《ゐ》む。』

と思ふ。

 母は、心に慈悲有りて、常に善を修(しゆ)しぬ。

 而る間、火丸、母に語りて云はく、

「此の東(ひむがし)の方(かた)の山の中(なか)に、七日(なぬか)の間(あひだ)、『法花經』を講ずる所、有り。行きて、聽聞(ちやうもん)し給へ。」

と率(いざな)ふ。

 母、此れを聞きて、

「此れ、我が願ふ所也。速かに詣づべし。」

と云ひて、心を發(おこ)し、湯を浴身(みにあ)みし、身を淨めて、子と共に行く。

 遙かに山の中に至りて見るに、佛事を修(しゆ)すべき山寺、見えず。

 而る間、遙かに人離れたる所にして、火丸、母を眦(にら)みて、嗔(いか)れる氣色(けしき)有り。

 母、此れを見て云はく、

「汝(なむ)ぢ、何(なに)の故に嗔れるぞ。若(も)し、鬼の託(つ)きたるか。」

と。

 其の時に、火丸、刀を拔きて、母が頸(くび)を切らむと爲(す)るに、母、子の前に跪(ひざまづ)きて云はく、

「樹(うゑき)を植うる事は、菓(このみ)を得、其の影に隱れむが爲也。子を養ふ志(こころざし)は、子の力を得て、養ひを蒙(かうぶ)らむが爲也。而(しか)るに、何ぞ我が子、思ひに違(たが)ひて、今、我を殺すぞ。」

と。

 火丸、此れを聞くと云へども、許さずして、猶ほ、殺さむと爲る時に、母の云はく、

「汝、暫く、待て。我れ、云ひ置くべき事有り。」

と云ひて、著(き)たる衣(きぬ)を脫ぎて、三所(みところ)に置きて、火丸に云はく、「此の一の衣をば、我が嫡男(ちやくなむ)也(なる)汝に與ふ。」

と。

「一(ひとつ)の衣をば、我が中男(《ちゆう》なむ)也(なる)汝が弟(おとうと)に與へよ。一の衣をば、我が弟男(ていなむ)也(なる)弟子《をとこ》に與へよ。」

と遺言するに、火丸、刀を以つて母が頸を切らむとす。

 而る間、忽(たちまち)に、地(ぢ)、裂けて、火丸、其の穴に落ち入る。

 母、此れを見、火丸が髮を捕(とら)へて、天に仰(あふ)ぎて、泣々(なくな)く云はく、

「我が子は鬼の託(つき)たる也。此れ、實(まこと)の心(こころ)に非(あら)ず。願(ねがはく)は、天道(てんたう)、此の罪(つみ)を免(ゆる)し給へ。」

と叫ぶと云へども、落ち入り畢(はて)ぬ。

 母と[やぶちゃん注:「と」の誤記か。]捕りたる髮は、拔けて、手に拳(にぎ)り乍(なが)ら留(とどまり)ぬ。

 母、其の髮を持ちて、泣々く家に返りて、子の爲に法事(はふじ)を修(しゆ)して、其の髮を筥(はこ)に入れて、佛(ほとけ)の御前(おほむまへ)に置きて、謹(つつしむ)で、諷誦(ふじゆ)を請(う)く[やぶちゃん注:原話と同じく、僧を招いて、経文や陀羅尼を誦して、読経して貰ったことを指す。]。

 母の心、哀れび深き故に、我れを殺さむと爲(す)る子を哀れびて、其の子の爲に、善根を(ぜんごん)を修(しゆ)しけり。

 實(まこと)に知りぬ、不孝の罪(つみ)を、天道、新たに惡(にく)み給ふ事を。世の人、此れを知りて、

「殺さむまでの事は、有難(ありがた)し。只、懃(ねむごろ)に父母(ぶも)に孝養(けうやう)して、努々(ゆめゆめ)、不孝(ふけう)を成すべからず。」

となむ、語り傳へたるとや。

   *

「今も中山寺の鱷口(わに)の綱に、罪重かりし巡禮女の長髮(かみ)、纏ひ着りと傳ふ」「中山寺」は兵庫県宝塚市中山寺にある真言宗中山寺派大本山紫雲山中山寺。本尊は十一面観世音菩薩。当該ウィキによれば、『インドの勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の姿を写した三国伝来の尊像と伝えられる』とある。以上の因縁譚は「宝塚市」公式サイト内の「宝塚の民話・第2集の11」の「鐘の緒(かねのお)」がよい。

「指鬘比丘」仏弟子の一人アングリマーラ(Aṅgulimāla)のこと。「央掘摩羅」などと音写し、「指鬘外道」(しまんげどう)と漢訳される。彼は釈尊の弟子となる以前、あるバラモンに師事していたが,ある事件によって怒ったそのバラモンが、彼を陥れようとして誤った教えを与えた。彼は師の教えに従って、次々と、人を殺し、その「指」(aṅguli)を切って、それを「髪飾り」(māla)とした。 千人の指を集めようとして、千人目に、自分の母を殺そうとした時、釈尊が教化したので、バラモンの教えを捨て、弟子となった。その後、市民の迫害を受けたにも拘わらず、過ちを、ひたすら、懺悔(さんげ)し、行を重ね、遂に悟りを得たとされる。]

2022/10/27

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 千人切の話(その1)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で「選集」を参考(「選集」は漢文部が編者によって訓読されてある。但し、現代仮名遣という気持ちの悪いもの)に訓読を示した。なお、本篇は、やや長いので、分割した。]

 

     千人切の話 (明治四十五年七月此花凋落號) 

 『此花』第四枝最終頁に、寬政十二年板『浪花(なには)の梅』を引《ひき》て、『天王寺境内に、供養塔とて、長き塚、有り。慶安三年庚辰《かのえたつ》、十二月十四日、九州肥後國益城(ますき)郡中島(なかじま)住人、田代孫右衞門造立。世俗に「千人切り」の罪を謝する供養の石碑也。」と云《いへ》り。一說に、田代氏は國元に住居の時、何某《なにがし》の娘と契りて後《のち》、他國へ稼ぎに行き、月日を經て歸國せし所、契りし娘、他家へ緣組せしと聞《きき》て、心外に思い、

「深き契約も今は仇となりし。」

迚《とて》、それより、

「魚鳥獸蟲に至る迄、千の數(かず)、命(いのち)を取り、娘の一命を失はしめん。」

と一心を究め、狂氣の如く、每日、生物の命を取るを、老母は憂(うた)てく思ひ、度々《たびたび》意見をすれども、聞き入れず。さて、九百九十九の命を取り、今、一命に、龜を捕《とらへ》ければ、手・足・首を出《いだ》さず。母、之を見て、さまざま止めければ、

「最早、是《この》一命にて、滿願成就なれば。」

とて、止まらず。母は詮方無く、

「龜を助けて、代りに此母を殺せ。」

と云《いへ》ば、孫右衞門、心得、母に取懸《とりかか》ると思ひしが、其儘、正氣を失ふ。老母も歎き入《いり》しが、忽ち、本性《ほんしやう》と成《なり》て母に向ひ、始終を物語る。

「かりにも、母に手向《てむか》ひし罪を免《ゆる》し給へかし。」

とて、髮を剃り、母に暇《いとま》を乞ひ、廻國に出で、津の國天王寺西門《さいもん》の邊《ほとり》にて、病死せりとぞ。龜の上に碑石を立つ。是れ、此因緣なるべし。』と出ず。

[やぶちゃん注:「『此花』第凋落號」宮武外骨が明治四三(一九一〇)年一月に発刊した浮世絵研究雑誌。大阪で発行されたが、赤字が嵩んで廃刊となったが、同雑誌に寄稿していた朝倉無声(朝倉亀三)の手によって「東京版」として新たに継続発行されることとなった。終刊号である「凋落號」は明治四十四年七月十五日発行。参照したサイト「ARTISTIAN」の「此花(大阪版)(雑誌)」に全リスト・データがある。最終巻を「凋落號」とするのは、これまた、お洒落。明治四三(一三一〇)年四月一日発行である。「最終頁」とあるから、外骨の編集後記内か。当該記事はネット上では読めないので、確認不能。

「寬政十二年」一八〇〇年。

「浪花(なには)の梅」本屋で、狂歌師にして文才もあった白縁斎梅好(はくえんさいばいこう 元文二(一七三七)年~文化二(一八〇五)年:縁斎一好の子で、大坂今橋の本屋金西館の主人。姓は陰山。通称は塩屋三郎兵衛。父に狂歌を学び、画にも長じた。編著に絵を主体にした「狂歌浪花丸」や、さらに説明文をくわえた大坂地誌「浪花のなかめ」などがある)この年に刊行した「狂歌絵本浪花のむめ」(全五巻)陰山白緑斎(別号)・撰で陰山玉岳画とするが、この絵師も本人であろう。国立国会図書館のこちらの書誌に拠った。

「龜」千人切りの動機からこの最後の対象がカメであるのは、フロイトを出すまでもなく、類感呪術的意味があると考えるべきである。バイ・プレイヤーながら、結果して出家遁世のスプリング・ボードとなる点でも、反転的に皮肉な象徴であり、この千人切り誓請を成就するまで、当然乍ら、田代孫右衛門は「女断ち」をしていたに違いなく、たまたまカメではなく、必然的にカメであったことは言うまでもないのである。

「天王寺境内に、供養塔とて、長き塚、有り」出身地繋がりでサイト「くまもと文化の風ドットコム」の高部道子氏の連載「Ms.高部の大阪からこんにちは」の「Vol.44 ある碑[2008.12.24]」に本碑の記事が載る。但し、そこでは「千人斬りの碑」とする。ネタ元として示されてある『南谷恵敬さんが綴る連載「四天王寺奇観」の「千人斬りの碑」』がネットには見当たらないのだが、高部氏の続編「Vol.47 ある碑(2)[2009.4.1]」に現地取材編があり、塔が現存し、その写真も掲載なさっていた。まっこと、「長き」、塔型の非常に高いものである。私の経験からすると、江戸時代の個人の供養塔としては、かなり高いものと思う。ここである。サイド・パネルに一枚だけ塔全景の画像があった。地図上でも「千人斬り碑」とあるので、これが正しい。]

「慶安三年庚辰、十二月十四日」グレゴリオ暦一六五一年二月四日。

「九州肥後國益城(ますき)郡中島(なかじま)」現在の熊本県上益城(ましき)郡山都町(さんとちょう)北中島きたなかしま)附近(グーグル・マップ・データ。以下、本篇で無指示のものは以下同じ)か。

「田代孫右衞門」不詳。次段参照。但し、以下の事績が正確かどうかは、読本の内容であるからして、私の保証する限りではない。

「仇」「あだ」或いは「かたき」。

「本性」物理的には「正気となって」であるが、ここは「殺生の悪を知り、正しく仏性(ぶっしょう)を得て」の意が強い。]

 「帝國文庫」四十九編に收めたる俗書『繪本合邦辻《ゑほんがつぽがつじ》』にも、田代の傳、有り。その名を彌左衞門とす。その略に云く、この處士(らうにん)、若くして父を失ひ、佛敎の信念厚き母と共に棲み、溫順の聞え有りしが、同じ中島村の貧醫藤田養拙の娘、見代女(みよ《ぢよ》)に通ぜり。偶《たまた》ま親戚の用事を受《うけ》て長崎へ行くに臨み、秘藏の小柄《こづか》を、女の護身刀(まもりがたな)と取替《とりかは》して、信(まこと)を表(あらは)し發足しぬ。長崎に二年許り留《とどま》り、還(へつ)て藤田家を訪ふに、彼女は國主の老臣へ奉公に出《いで》しと聞き、其邸に出入《でい》る者を憑(たの)み、書を贈る。見代女の主人の侍臣(ようにん)富田(とんだ)幸次郞、兼て、彼女を慕ひ、口說けども、聽入れず。偶ま出入の者、富田に件《くだん》の田代の書を見代女に傳へんことを賴む。富田、怪しみ、披見して、

「これ。乘ずべきなり。」

となし、女の返簡を僞造して、使者に付く。田代、得て、之を讀むに、

「既に主人の寵幸《ちやうかう》に預り 安樂なれば 卿(おんみ)と永く絕(たた)ん 嘗て取替したる紀念(かたみ)を相戾さん」

となり。田代、大いに怒り、自ら、城下に赴き、見代女が、主人の妻と花見に往(ゆき)し歸路、之を襲ひて、就(な)らず、衞士に縛られんとす。時に、傍らの庵より、老隱士、出來《いできた》り、

「これ、醉狂人なり。」

と辨じ、救助し、庵に伴(つれ)歸り、仔細を聽き、諫め喩(さと)せども、田代、聞き入れず。仍《よつ》て之に、彼女不慮に自ら禍《わざはひ》を受《うく》べき一法を授く。田代、

「之を行《おこなは》ん。」

とて、彼女の護身刀もて、一晝夜に百の生命を絕《たた》んと。既に九十九の動物(いきもの)を害し、最後に自家に飼《かへ》る龜を殺さんとして、母に遮られ、瞋恚《しんい》の餘り、母を斬らんとして、氣絕しければ、母、僧俗を請じ、百萬遍を催す。念佛、終るに臨み、田代、蘇(いきかへ)り、自ら、地獄に往《ゆき》て閻王に誡《いまし》められし次第を語り、出家、廻國して、天王寺邊に歿しぬ。是より前、富田、姦計、顯はれて、追放され、見代女は情人《いろおとこ》田代の成行きを悲《かなし》み、誓ふて、他に嫁がず、一生、主家の扶持にて、終わる、と。

[やぶちゃん注:『「帝國文庫」四十九編に收めたる俗書『繪本合邦辻』にも、田代の傳、有り』「帝国文庫」の第四十九編は渡邊乙羽校訂「續仇討小說集」で、「繪本合邦辻」は全十巻。京の浮世絵師で読本作者でもあった速水春暁斎(明和四(一七六七)年~文政六(一八二三)年の作・画である。文化二(一八〇五)年の序がある。国立国会図書館デジタルコレクションの同「帝國文庫」原本(活字本)のここの巻七の終りにある「肥州の處士田代か(=が)來歷の話」が始まりで、次の「田代私婦の薄情を怒る話」で同巻は終わるが、驚くべきことに、次の第八巻(同前)全部が、これ、まるまるこの話の続きになっているのである。なお、「繪本合邦辻」の原本は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあり、このPDF・同巻一括版)の13コマ目から視認出来、巻八はこちら。正直、驚くべき作話物であり、この事績も私には、到底、信用出来ない。

 『嬉遊笑覽』卷四に云《いは》く、

「千人切りと云事《いふこと》云々、是も往昔(そのかみ)專ら言《いひ》し事と見えて、謠曲外百番《そとひやくばん》に「千人伐」有《あり》て、詞に云《いふ》、「阿武隈川の源左衞門殿と申す人、行衞も知《しれ》ぬ人に父を伐れて、其無念さに千人切をさせられ候云々。又、『秋の夜長物語』山門三井寺合戰の處、「千人切りの荒讃岐《あらさぬき》」云々抔も云《いへ》り。『續五元集』(中)、「心《しん》をつむ迚《とて》消し提燈《ぢやうちん》 出會へと千人切りを呼(よば)ふ覽《らん》」(晉子(しんし))。天野信景云《いふ》、「鵜丸(うのまる)」の太刀は、濃州久々利(くくり)の人、土岐惡五郞が太刀也。惡五郞は、天文頃の人也。土俗にいう、「惡五郞、京五條橋にて千人切りしたりし時、この太刀、川へ落としけるを、鵜二羽、喫(くは)へて上がりし。鵜の嘴(はし)の跡、殘りしゆえ、「鵜丸」と名づくると云り云々」(以上『笑覽』)。

[やぶちゃん注:「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。私は岩波文庫版で所持するが、巻四冒頭の「武事」パートの終りの方にある。国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の上巻(正字)の右ページ四行目から(熊楠の所持しているものは恐らくこちらが、その親本)。それも、私の岩波版(底本が異なる)も、孰れも「千人ぎり」である。

「謠曲外百番」書名ではなく、「百番のほかの百番」の意で、江戸初期以来、謡曲の内百番(うちひゃくばん:江戸初期に謡曲本を刊行する際に、広く世に行なわれているものの中から選ばれた百番の曲を指す)から漏れた選外百番を集め合わせ、二百番の謡本が作られたが、その選外となった百番を外百番と呼ぶ。但し、この選外の百番の曲には出入りがあり、完全に決定した百曲ではない。

「千人伐」サイト「義経伝説」の中の『島津久基著「義経伝説と文学」』の「(七) 橋弁慶伝説」の章の中に謡曲「千人伐」の章詞の一部が引用されてある。

「秋の夜長物語」南北朝時代に成立した代表的な稚児を素材とした物語。作者不詳だが、「太平記」作者の一人とされ、漢詩文に長じた天台密教の僧玄恵との関係が想定されている。三井寺の稚児で、花園左大臣の子息梅若丸と、比叡山の律師桂海との愛、それに関連して勃発する両寺の争いを描いたもの。梅若丸は入水し、それを儚んだ桂海は、離山して東山に籠り、瞻西(せんさい)上人と称した。梅若丸は、実は石山観音の化身であったという形をとる。この瞻西は、平安後期に実在した説教僧・歌僧で、洛東の地に雲居寺(うんごじ)を開いた人物である。物語は瞻西の「新古今和歌集」所収の歌を採り入れるなどして、事実譚化を図っている。梅若丸の名はかの名謡曲「隅田川」に引き継がれ、また、木母寺(もくぼじ)の縁起の形でも伝えられ、近松門左衛門の「双生隅田川」(ふたごすみだがわ)など、浄瑠璃・歌舞伎のいわゆる「隅田川」物の濫觴となった(以上は概ね、平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。ネット上では、原本が二ヶ所で視認出来るが、かな本の崩しで当該箇所を探す気にならない。悪しからず。

「千人切りの荒讃岐」日本刀買取専門店「つるぎの屋」公式サイト内の「千人切」に、『刀 (切付銘)天保八年十二月於千住山田吉利試之 太々土壇払 (号:千人切)』で、長さ二尺三寸五分(七十一・二センチメートル)とあり、『千人切は、千人の人を斬ること、または斬った刀をいう。千人は多数を意味することもある。なお、願をかけて千人斬りする場合もあった。阿武隈川の源左衛門は、父を行方も知れぬ人に討たれた仕返しに、千人斬りをした。三井寺の悪僧に千人斬りの荒讃岐とよばれるものがいた。鵜丸の太刀は、濃州久々利の土岐悪五郎が、京の五条橋で千人斬りしていて、河に取り落としたものを、鵜がくわえてきたものという』。『寛永六年』(一六二九年)、『江戸では白昼に千人斬りが行われた。千人刎ねともいう。織田信長の従弟』『津田信任は、千人刎ねの棟梁といわれているのを、豊臣秀吉がきき、その所領を没収した。千人殺しともいった。天正十四年』(一五八六年)、『大坂で大谷紀之助は癩病』(ハンセン病)『にかかっていて、千人の血をのめば治癒する、という俗説を信じてやったことだった』。幕府代々の首切り役人として知られる『首斬り浅右衛門の家に「千人切」とよばれる刀があった。刃長二尺三寸五分』の『無銘であったが、「天保八年』(一八三七年)『十二月於千住山田吉利試之 太々土壇払」と切りつけてあった。これで吉田松陰らの志士や、高橋お伝の首を落としたと言われていた』とあった。注記があり、『(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)』とある。

「續五元集」榎本其角(「晉子」は彼の号)自選で小栗旨原(しげん)編になる俳諧集。延享四(一七四七)年刊の「五元集」の続編で、宝暦二(一七五二)年刊。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原刊本の「中」巻の(PDF「中」一括版)の27から28コマ目にある。

「天野信景云、……」確証はないが、恐らくは、尾張藩士国学者天野信景(さだかげ)が元禄一〇(一六九七)年頃に起筆し、没年(享保一八(一七三三)年)まで書き続けた随筆「塩尻」からの引用か。私は所持しないし、国立国会図書館デジタルコレクションにあるものの、調べるのは、時間がかかり過ぎるので、やらない。悪しからず。

『「鵜丸(うのまる)」の太刀は……』先の刀剣サイトにも出たが、サイト「名刀幻想辞典」の「鵜丸」によれば、この名の名剣は少なくとも異なる刀が五種が挙げられてある。その内、最もこの話に比較的よく適合するのは、「土岐家伝来の鵜丸」である。但し、持ち主である「土岐惡五郞」(「惡」は「強い」の意)を建武(元年は一三三四年)頃の人物としており、本篇の「天文頃の人也」(一五三二年から一五五五年まで)とは齟齬が甚だしい。引用元が書かれていないが、以下の古文が載る(漢字を概ね恣意的に正字化した)。

   *

三河守先祖ヲ尋ルニ、土岐大膳大夫ト申人在。其弟ニ土岐惡五郞ト云者。(略)[やぶちゃん注:サイト主による注記。]或時惡五郞五條ノ橋ニテ、武藏坊辨慶カ跡ヲ追。千人切リヲ思立。往來ノ人ヲ切ル事二三百人。或時太刀ヲ川中ニ落ス。尋之不見。惡五郞深ク祈氏神。心中ニ求。然時鵜一羽飛來、彼太刀ヲクワエ水上浮ヲ。惡五郞希異ノ思ヒヲ成。此太刀鵜ノ嘴ノ跡在、卽太刀ノ名鵜ノ丸ト號シテ。土岐家永代ノ重寶也。

   *

とあって、以下、その後の経緯が細かく記されてあり、なんと、この太刀、もともとは、仁平三(一一五三)年に、かの源三位頼政が鵺(ぬえ)を射落とした功により、拝領した太刀とあり、この悪五郎から土岐家、森家を経て、伊勢神宮に奉納されたとある(別説・異説・附説も記されてある)。残念ながら、寛文一一(一六七一)年十一月の『大火災で消失したという』とある。一言い添えておくと、この寛文十一年というのは、前年の誤りではないかと思われる。寛文一〇(一六七〇)年十一月に伊勢は大きな回禄に襲われているからである。この大火は「鉈屋(なたや)火事」と呼ばれ、伊勢神宮では月夜見宮(つきよみのみや)が炎上しており、死者四十九人・山田惣中の約六割に当たる五千七百四十三軒・土蔵千百七十七棟・寺院百八十九が焼失するという未曽有の大火であった。

「濃州久々利(くくり)」岐阜県可児市久々利。]

 『兼山記』には、之を南北朝時代の人とし、云く、「和田五郞に討たれし土岐惡五郞、打物取《とつ》て、早業《はやわざ》、太刀の剛の者なり。生得(うまれつき)惡逆無道也。或時、五條の橋にて、武藏坊辨慶が跡を追ひ、「千人切り」を思ひ立ち、往來の人を切る事、二、三百人下略」。

[やぶちゃん注:「兼山記」戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で大名の森長可(ながよし 永禄元(一五五八)年~天正一二(一五八四)年:本姓は源氏)の一代記。先のサイト「名刀幻想辞典」の「鵜丸」によれば、彼は可児郡兼山(金山)城主であったが、「本能寺の変」の後、久々利城主土岐三河守(久々利頼興)を計略にかけ、滅ぼしており、その時に「鵜丸」を得ているのである。国立国会図書館デジタルコレクションの「續群書類從」「第二十一輯ノ下 合戰部」で当該部が視認出来る。「土岐三河守由來之事」の右ページの上段から下段にかけてである。長可が「鵜丸」を伊勢神宮へ奉納したことも記されてある。]

 『續群書類從』の『織田系圖』に、信長の從弟津田信任(のぶたふ)、從五位下左近將監たり。仕秀吉公、於伏見醍醐山科間、爲千人刎之棟梁旨、達上聽、可ㇾ被ㇾ處死流刑處、亡父(隼人正信勝)多年之昵近、所優奉公異ㇾ他、沒收所領(三萬五千石也)、仍落飾號長意、依中納言利光卿芳情、幽居加州金澤〔[やぶちゃん注:底本には返り点や文字位置におかしな箇所があるので、私が勝手に変更した。原本に当たれないので推定である。]秀吉公に仕ふ。伏見・醍醐・山科の間に於いて、千人刎《ぎり》の棟梁となりし旨、上聽に達し、死・流刑に處せらるべき處、亡父(隼人正(はやとのしやう)信勝なり)は、多年の昵近にて、優《あつ》く奉公せし所なれば、他に異(かは)り、所領(三萬五千石なり)を沒收するのみ。仍つて、落飾して「長意」と號し、中納言利光卿の芳情に依りて、加州金澤に幽居す。〕。又、『宇野主水記(うのもんどき)』に云く、「天正十四年二月廿一日頃、「千人切(ごろし)」と號して、大坂の町人にて人夫風情の者、數多《あまた》打ち殺す由、種々《しゆじゆ》、風聞あり。大谷紀之助と云ふ小姓衆、惡瘡氣(かさけ)[やぶちゃん注:三文字へのルビ。]に付《つき》て、千人殺して、その血を與《あた》ふれば、かの病《やまひ》、平癒の由、その義、申し付くと、云々。世上風說也。今、廿一日、關白殿御耳へ入り、如此《かくのごとき》の儀、今迄、申上《まをしあげ》ぬ曲事《くせごと》の間《あひ》だ、町奉行を生害《しやうがい》せらるべきことなれども、命を御免被成《ごめんなさる》る迚、町奉行、三人、被追籠也《おひこめらるるなり》云々。右の千人切の族《やから》、顯はれ、數多、相籠《あひこ》めらる云々。三月三日、四日頃、五人、生害、宇喜多次郞九郞、生害の内《うち》也。大谷紀之助所行《しよぎやう》の由、風聞、一圓、雜談也。」。

[やぶちゃん注:「津田信任」(生没年未詳:「のぶたか」とも読み、信秋(のぶあき)とも)は津田信勝(盛月)の長男。当該ウィキによれば、津田氏は勝幡織田氏庶流で、一説に『織田信長の従甥にあたると云う』。『羽柴秀吉(豊臣秀吉)に家臣として長浜城主時代から仕え』、天正元(一五七三)年には「黄母衣衆」(きぼろしゅう:秀吉が馬廻から選抜した武者で、武者揃えの際に名誉となる黄色の母衣指物(ほろさしもの)の着用が許されたことからの軍団名)に任ぜられた。文禄二(一五九三)年、『父の死去により家督を継いだが、山城国三牧城主として』三万五千石を領した。『しかし』、『同年または翌年、伏見醍醐』や『山科における洛外千人斬り事件の犯人として逮捕された。死罪になるところであったが、父の多年の功績に免じて死一等を減じ、所領(御牧藩の前身)を没収、改易された』。『剃髪出家して長意と号して』、『前田利家(または利光)に身柄を預けられて加賀国金沢に幽室蟄居となった』。『結局、家督は弟・信成が』一万三千石に『減封された上で相続した』とある。

「宇野主水記(うのもんどき)」「宇野主水日記」。宇野主水(生没年不詳)は十六世紀後期の本願寺門主顕如に仕えた右筆。室町・戦国時代の享禄三(一五三〇)年から一五五〇年代(一五五〇年は天文十九年)の本願寺教団や一向一揆及び畿内政情を知る上での第一級史料である「石山本願寺日記」(「天文(てんぶん)日記」とも)の下巻に所収されている。「史籍集覽」のこちらで当該箇所が読める(右ページ後ろから三行目)。

「天正十四年」グレゴリオ暦一五八七年。

「大谷紀之助」豊臣秀吉家臣で越前敦賀城主の知られた大谷吉継(永禄八(一五六五)年(永禄二(一五五九)年説もある)~慶長五(一六〇〇)年)の通称は紀之介で、彼はハンセン病(ここで言う「惡瘡氣(かさけ)」)に罹患していたとする説があり、彼は天正始め頃に秀吉の小姓となっており、彼をこの人物に当てる説もあるようである。既につい最近も述べたが(『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十七 人の魂、死人を喰らふ事 附 精魂寺ヘ來る事」』の私の注)、ハンセン病などの難病の場合、人肉や人の生き血を特効薬とした迷信が近代まで、あった。なお、Wikiwandの「豊臣秀次」の記載には、かの豊臣秀次は『鉄砲御稽古と称して北野辺りに出て行っては』、『見かけた農民を鉄砲で撃ち殺し、あるいは御弓御稽古と称して射貫遊びをするからと言って往来の人を捕まえさせてこれを射ち、また力自慢と称しては試し斬りをするから斬る相手を探してこいと言い、往来の人に因縁をつけさせて辻斬りを行った。数百名は斬ったが、これを「関白千人斬り」だとして吹聴し、小姓ら若輩の者がこれを真似て辻斬りを行ったが咎めなかったという』記載があり、『千人斬りに関しては』天正一四(一五八六)年に秀吉の馬廻衆であった『宇喜多次郎九郎が大坂で』、文禄二(一五九三)年には『津田信任が山科で、それぞれ』、『多数の人間を殺害した容疑で逮捕されており、前者は自害、後者は改易させられたという。特に津田信任は秀吉の城持ち家臣であり、他者の犯罪が秀次の話としてすり替わった可能性はあり、太田牛一が「よその科をも関白殿におわせられ」と書いたこともこれらを指していたと考えられる』という記載もあった。

「追籠」罪科ある者を家などに閉じ籠め、謹慎させること。]

 是等は武士跋扈の世に、武勇を誇るの餘り、成るべく多《おほく》人を殺せるなれば、千人切りとも言うべけれ。田代某が行なひしてふ所は、人ならで、蟲(むし)・畜(けもの)を多く殺せしなれば、千疋切・百疋切と云《いは》ん戶杜(こそ)適當ならめ。併(しかしなが)ら、田代氏が碑を建《たて》たる當時、千人切りの名高かりしは、貞享四年板『男色大鑑《なんしよくおほかがみ》』卷八に、「田代如風《たしろじよふう》は、千人切《せんにんぎり》して、津の國の大寺《おほでら》に石塔を立て、供養を成《なし》ぬ。我、又、衆道《しゆだう》に基《もとづ》き、廿七年、其色《そのいろ》を替へ、品《しな》を好《す》き、心覺えに書留《かきとめ》しに、既に千人に及べり。之を思ふに、義理を詰め、意氣づくなるは、僅か也。皆な、勤子《つとめこ》の、いやながら、身を任せし。一人一人の所存のほども慘(むご)し。『責(せめ)ては、若道(にやくどだう)供養の爲。』と思ひ立ち、延紙《のべかみ》にて、若衆《わかしゆ》千體、張貫《はりぬき》に拵へ、嵯峨の遊び寺《てら》に納め置《おき》ぬ。是れ、男好開山(なんかうかいさん)の御作《ごさく》也。末世《すゑのよ》には、この道《みち》、弘まりて、開帳あるべき物ぞかし。」。貞享元年板『好色二代男』卷八、女郞どもに作らせし「血書《ちがき》は、千枚、重ね、土中《どちゆう》に突込《つつこ》み、「誓紙塚《せいしづか》」と名《なづ》け、田代源右衞門と同じ供養をする。」抔(など)見えたるにて知るべし。

[やぶちゃん注:引用の読みは以下に示した原本を参考に、歴史的仮名遣を正し、一部を濁音にして入れてある。なお、言わずもがなだが、この二篇の「千人切り」は、これ、自ずと今一つの、それである。

「男色大鑑」井原西鶴の浮世草子。貞享四(一六八七)年四月刊。全八巻。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原版本のこちら(最終巻一括PDF版)の12コマ目で視認出来る。

「好色二代男」井原西鶴作。貞享元(一六八四)年刊。副題が「好色二代男」。首章及び最終章では「好色一代男」の遺児世伝を登場させ、続編の体裁をとっているが、他の三十八章は独立した短編である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原版本のこちらの掉尾「大徃生(だいわうじやう)は女色(ぢよしき)の臺(うてな)」(最終巻一括PDF版)の19コマ目の左丁の後ろから四・五行目。]

2022/10/26

ブログ1,840,000アクセス突破記念 梅崎春生 青春

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和四〇(一九六五)年八月号『小説新潮』に掲載された。但し、この年の七月十九日に梅崎春生は逝去しているので遺作の一つと言える。以下の底本の沖積舎全集で初めて収録された。因みに、梅崎春生には先行する同名の別な小説「青春」があるが(昭和二三(一九四八)年五月号『小説新潮』発表)、それは既にこちらで公開してある。

 底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年十二月沖積舎刊)に拠った。

 文中に注を添えた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、昨日夜初更、1,840,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二二年十月二十六日 藪野直史】]

 

   青  春

 

 西東と尾山フサコと、いつそんな関係になったのか、久住は知らない。そんなことにいちいち眼を光らせるほどの好奇心を持っていなかったし、またそれほど彼は人間関係に熟していなかった。

[やぶちゃん注:「西東」「さいとう」と読んでおく。]

 西東は彼の級友であった。二年か三年か浪人して入って来たので、年齢も彼よりは多い。色の浅黒い、ほりの深い顔を持っていたから、実際以上に老成して見えた。あの頃の(十七、八歳から二十歳ぐらいの)二、三歳違いというのは、たいへんなへだたりがあるものだ。同級生というより、小父さんとかおっさんという感じがする。西東もそれを知っていて、意識的にそれを利用していた。議論などしていて旗色が悪くなると、いつも舌打ちをして言った。

 「お前たち子供は、何も判っとらんようだな」

 いくら年長とはいえ、二十歳の知恵や経験など、今思えばたかが知れている。しかし当時はそう行かなかったのだ。子供といわれても、それを反駁(はんばく)する材料は、何もなかった。背伸びして対等に話そうという気持にもならない。

 しかし西東から子供あつかいにされた男が、面と向ってこう言ったことがある。

「そんなに経験豊富なおっさんでも、おれたちと机を並べて、同じ講義を聞いているじゃないか」

 わるいことには、西東はあまり学校の出来がよくなかった。年度末の及落会議にかかって、やっと二年生になることが出来たくらいで、年長の故をもって級友の尊敬をあつめるわけには行かなかったのだ。その頃の高等学校(旧制)は、立身出世の色合いが濃く、成績の悪いのは教師からも級友からもかろんじられる傾向があった。もちろん逆の方向、勉強ばかりして席次に一喜一憂している男への軽蔑、それも併立してあったけれども。

 彼は西東を、その学業成績の点では、かろんじなかった。第一に久住は立身出世を望まなかった。第二に出来の悪い点では西東と同じようなものであった。その二つの理由で彼は西東にいくらかの親近を感じていた。寮の自分の机の前に、

『我が望み低きにあらず。東京帝国大学法学部』

 などと貼紙をして勉強ばかりしている級友を、軽蔑することにおいて、人後に落ちなかった。しかし人生経験の浅い若者の軽蔑なんて、何ごとだろう。彼は軽蔑しているつもりでいで、出世に執(しゅう)する世間知に、むしろ畏怖を感じていたのかも知れない。要するに、西東が言うように、久住はまだ子供だったのだろう。

[やぶちゃん注:「久住」「くづみ」と読む。梅崎春生の遺作となってしまった本篇と並行して書かれたと推定される名篇「幻化」(昭和四〇(一九六五)年六月号及び八月号『新潮』に掲載されたが、春生はその間の、七月十九日午後四時五分に東大病院上田内科にて肝硬変のために急逝している。同作のブログ分割版はこちらPDF縦書一括版はこちら。私のマニアックな注附きである)の主人公の名は「久住五郎」である。これは、既にして確信犯である。それは「幻化」を読まれた方ならば、以下、読み進めてゆけば、随所でお感じ戴けることであろう。

「その頃の高等学校(旧制)」この設定は著者の経歴と合致する。梅崎春生は熊本五高(現在の熊本大学)を昭和一一(一九三六)年三月に二十一歳で卒業(二年時に落第したため。卒業時も試験の成績が悪く、卒業認定で教授会は三十分近く揉めた)し、四月に東京帝大文学部国文科に入学した。

 尾山フサコというのは、当時二十七、八の独身女である。一度軍人と結婚したが、家風に合わぬと追い出され、白川のほとりに家を新築して、下宿屋を始めた。初対面の時はそう美しいと思わなかった。眼が大きくまつ毛が長く、いつも濡れているように見える。つまり眼だけが独立して、あとの鼻や口や耳などと均衡を保っていない。もっとも彼はまだ破調の美を知らなかった。泰西(たいせい)名画に出て来る女のようなのにしか、美しさを感じなかった。しかしその点で自分は幼いと思っていたので、友達に話さなかったし、まして西東などとの会話には、一度も女の美について口を出したことはない。

[やぶちゃん注:「白川」(しらかわ)は熊本県中北部のここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示のものは同じ)を流れる一級河川。旧五高はこの川の右岸直近にあった。

「泰西」当該ウィキによれば、『中国および日本で用いられる、ヨーロッパ』。『大義には西洋世界全体を指す語。英語ではFar Westと訳され、いわゆる極東の対義語とみなされている。もともとこの語は内陸アジアやインドを指すものだったが、マテオ・リッチが中国から見た西洋の外名としても使い始めた。彼はヨーロッパ中心主義的な極東という概念に対し、西洋を泰西と呼ぶことで』、『中国と西洋を対等な地域圏とみる視点を編み出したのである。泰西という語は江戸時代の日本でも』、たびたび『用いられたが、現在では単に欧州またはヨーロッパと呼ぶのが一般的で、この語はあまりみられない』とある。私自身、書いた文章の中で、この熟語を用いたことは、六十五になるこの年まで、一度も、ない。]

 一度フサコに訊(たず)ねてみたことがある。

「どうして小母さんは――」

 齢が十も違っていた。それに相手は曲りなりにも下宿の女将であり、こちらは止宿人なので、小母さん呼ばわりをしても不自然でない。

「前の旦那さんと別れたんだね?」

「あんな生活、とてもたまらなかったのよ。姑はいるし、小姑はいるし――」

「姑や小姑は問題じゃないだろ。小母さんは旦那さんと結婚したんだから」

 彼は言った。彼は世の家庭というもの、その仕組みや構造について、ほとんど知識がなかった。

「旦那さんさえよけりゃ、充分だと思うがなあ」

「主人は悪い人じゃなかったのよ。でも、こちこちの軍人でね、いざこざが起った時、あたしの味方にゃならなかった」

 フサコはこの土地の出身ではない。よその土地で結婚して、主人が第六師団司令部に配属されて来たのである。久住はそのこちこちの軍人、うるおいのない家庭を想像して見た。すると何となく、フサコはその家庭に似合わないだろう、という感じを持った。大尉夫人や少佐夫人という顔ではない。顔として、すこし派手過ぎるのである。

「だから下宿屋稼業の方がたのしいんですよ。あんたたち若い人たちの世話をして、しばられない生活をしてる方が、生甲斐を感じるわ」

[やぶちゃん注:「第六師団」大日本帝国陸軍のそれ。明治五(一八七二)年に設置された「熊本鎮台」を母体に明治二一(一八八八)年五月に師団として編成された。熊本・大分・宮崎・鹿児島の九州南部出身の兵隊で編成され、衛戍地(えいじゅち)を熊本とした。]

 彼はフサコを美しいとは思わなかった。しかしその不均衡な容貌に、いつかはひかれるだろうという漠然たる予感があった。

「だって女の幸福というのは、よき家庭の主婦になることじゃないのかなあ」

 彼はいっぱしの口をきいた。そうそう子供ではないことを示したかったのだ。

「そう思うの? 久住さん」

 フサコは笑いを含んで答えた。

「あんたの家は、どうだったの?」

「そうだな」

 彼は多少の狼狽を感じながら答えた。

「おふくろは、うまくやっているよ。いるように思うよ。ぼくにはよく判らないけれどね」

「世の中には、いろんな生き方があるんですよ。自分を犠牲にして生きて行くか、自分を開放して気ままに過すか、その中間にいろいろね。男にもあるんじゃない? わき目もふらず勉強ばかりする、たとえば江田さんのような人や、その逆のたとえば――」

 フサコは言いよどみ、口をつぐんだ。彼は言った。

「たとえば、ぼくのようにかね?」

「あんたじゃありませんよ。久住さんは中途半端なだけですよ」

 たとえば西東さんのように、と言いたかったらしいた気がついたのは、ずっと後のことである。

「あんたはまだ子供なんだから、無理をしないで生きて行くこと。それが大切よ」

 

 彼をこの下宿に紹介したのは、小城という男だ。小城は中学四年修了で入って来たので彼より年少であり、頰のふっくらとした美少年であった。中学は西東と同じで、大分県である。小城は同郷の故で西東をけむたがっていた。

「中学の時、こいつはおれの稚児(ちご)だったんじゃ」

 西東はなかば揶揄(やゆ)するように、時々放言する。それもけむたい理由のひとつだったのだろう。

[やぶちゃん注:「小城」「こじろ」と読んでおく。]

 寮にいた時、四、五人が一部屋に集まり、こたつに入って、南京豆など食べながら、雑談をしていた。二・二六事件が起きた冬で、たいへん寒かった。その中の誰かが、怪談を始めた。次のような月並みな怪談だ。

[やぶちゃん注:「二・二六事件が起きた冬」昭和一一(一九三六)年。]

 一部屋二人制の寄宿舎で、その一人が時々夜中にいなくなる。不審に思った同室人が、どこに行くのか確かめてやろうと思う。狸寝入りをしていると、真夜中その男が起き上って、同室人の眠りを確かめ、そっと部屋を出て行く。同室人はすぐはね起きて、マントをかぶり、あとをつける。

 つけられているとも知らぬ男は、寮を抜け出し、学校の寮にある山に登り始める。しばらく登ると、墓地があるのだ。そこに這入り、男は墓を掘り始める。

 同室者はがたがたと慄えながら、それを見守っている。慄えるから、マントが笹や木の枝に触れ合って、がさごそと音を立てる。男はきっと振り返る。そして絶望的な声で言う。

「見たな!」

 男の手には、土葬された死体の腕がある。それが血まみれになっている。――

 かんたんな怪談だが、話し方がうまかったので、雰囲気が出て、かなり恐かった。その怪談の途中に、こたつのやぐらに乗せていた久住の手に、濡れてあたたかい掌が、突然かぶさった。ぎゅっとにぎりしめて来た。彼はおどろくというより、あっけに取られた感じで、級友たちの顔を見廻した。皆語り手の顔を見、話にひき入れられていた。話が佳境に入ると、掌の力がさらに強まった。彼も語り手から眼を放さずに思った。

〈小城だな〉

 掌の位置や方向から判る。振りはらう気持は別になかった。秘密を共有しているという隠微な愉しささえある。彼は視線をちらと小城の方に動かした。小城は聞くことに夢中になっているようだ。無意識なのか、頭と掌を意識的に使い分けをしているのか、とっさに彼は判じかねた。

〈すぐ判断をしなくてもいい。しばらく様子を見ていよう〉

 と久住は思った。それは彼の性格であり、生きて来て身につけた唯一の処世術でもあった。その夜は、それで終った。

 

 この学校の寮は、一年生だけで、二年目になると要員だけ残り、あとは校外に出て下宿する。そんなシステムになっていた。そのための素人下宿があちこちにあり、選ぶのに不自由はしない。供給が需要を上廻っていた。娘との交際を欲するものは娘付き下宿へ、遊び好きは街近くへ、勉強好きは静かな下宿へと、好みのまま選択が出来る。

  年の学期末試験が近づいていたが、久住はまだ迷っていた。

 ある夜、彼は試験勉強をしていた。同室者は外出していたので、彼はひとりであった。扉をたたく音がするので、応答すると、小城が入って来た。彼はノートブックを伏せ、小城に向き直った。ただ遊びに来たのでないことは、その様子で判ったからだ。小城は言った。

「もう下宿は、きめたの?」

 まだきめていない、と彼は答えた。

「じゃ一昨日話した通り、尾山荘にして呉れないか」

「なぜそんなにおれを誘うんだね?」

「やはり親しく知り合った同士で住みたいからさ。あそこは川に向いていて、静かだし、学校にも近いし――」

 彼は黙っていた。すると突然、小城は彼の体にしなだれかかって来た。

「もう尾山さんに話をつけてあるんだ」

「おれが下宿することをか?」

 彼はすこし驚いて言った。

「そんなむちゃな。おれはまだその尾山荘なるものを、見たこともないんだよ」

「だから、明日いっしょに行ってー――」

 小城は彼の右手に唇をつけた。不潔だとか、うとましいとは別に感じなかったが、こころよいとも感じなかった。しばらく相手のなすままに任せていた。それから三十分後に、彼はとうとう尾山荘行きを承知させられてしまった。

 翌目の課業がすむと、二人は連れ立って、尾山荘を訪れた。それは白川に面して建っている。新築というのも、うそでなかった。女将の尾山フサコに会う。

〈ふしぎな顔をした小母さんだな〉

 そう思っただけである。それから部屋々々を見て廻った。

  山荘、などと言うと、アパートメントみたいなものを想像するが、この下宿屋はふつうの住宅で、貸す部屋は二階の三部屋だけである。玄関のとっつきに洋風の応接間があったが、それはまだ貸す気はないようなフサコの目ぶりであった。二階に廊下があり、四畳半が二つ、突当りに六畳があった。新築のくせに、二階を歩くと、何か不安定な感じがした。

「ずいぶん大工が手を抜いたらしいな」

 寮に戻りながら、彼は言った。

「未亡人と思って、大工がばかにしたんだろう」

「未亡人じゃないんだよ。離婚したんだ」

 そのあらましを小城は説明した。

「ふん。そんなことかね」

 彼は気のない返事をした。

「それで君は奥の六畳間を約束したのか?」

「そう」

「するとおれは四畳半というわけか」

 小城は黙っていた。彼は追いかぶせるように言った。

「あの六畳をおれにゆずるなら、下宿してもいいな。おれは広い部屋の方が好きなんだ」

 小城は彼の顔を見た。怨(えん)ずるような表情になった。

「どうしても奥の間を――」

「そうだ」

 彼はつっぱねるように答えた。

「でなければ、他の宿をさがす」

 寮に着くまで、あとは口をきかなかった。

 その夜、また小城が訪ねて来た。

「六畳は君にゆずるよ。その代りに――」

 秘密を打ちあけるような、低声であった。

「ぼくにお客が来た時だけ、君の部屋を使わせて呉れないか」

「お客? どんな客だね?」

「身、身内のものなんだけれどね」

 と小城はどもった。何だかあやふやな口ぶりである。彼は単純に考えた。

〈肉親が訪ねて来た時、こんないい部屋で勉強している、ということを見せたいのかな〉

 そして彼は、小城のそのような稚(おさな)い見栄に、かすかな嘲笑がのぼって来るのを感じた。あとになって判ったが、嘲笑さるべきは彼の方であった。

「それなら下宿してもいい」

 彼は答えた。

 学期試験がすむと、彼は小城といっしょに、尾山荘に荷物を運んだ。二階のとっつきの部屋は、江田という理科の男が入っていた。その次が小城。奥の六畳は、この間見た時から、気に入っていた。小さいながらも床の間がついていたし、南の窓をあけると、白川の流れが見える。畳は新しいし、壁もきれいだ。久住は自分だけの部屋を今まで持ったことがない。そのことの満足もあった。

 尾山荘の背後にも素人下宿屋があり、西東はそこに入っていた。その下宿は尾山荘より格が落ちた。尾山荘があるので、展望がきかないのである。その点久住の部屋は『眺望絶佳』と言ってよかった。

 いいことずくめのようだが、ひとつ見込み違いをしたことに彼が気付いたのは、ニヵ月あとのことである。それは蚊であった。五月末になると、蚊が出始めた。河原のところどころに水たまりがあり、そこで発生するのだ。だから寝る時には蚊帳をつらねばならない。寝る時だけでなく、勉強する時も蚊帳が必要なのである。

 六月の末、隣家の西東の部屋に碁を打ちに行ったことがある。蚊はいなかった。一局打ち終って、彼は質問した。

「蚊は出ないのか」

「時々出て来るよ。寝る時は蚊取線香を立てる」

「蚊取線香ですむのか。うらやましいな」

「君んとこには、よく出て来るね」

「いるのなんのって、夜窓をあけると、わんわん入って来る」

 彼は首筋をかきながら言った。

「すごく大きな蚊でね、刺されるとひどく痒い。河原から発生するんだ」

「そりゃ気の毒だね。河原の蚊は尾山荘だけで満足して、うちには廻って来ないんだ」

 西東は笑いながら言った。

「蚊というやつは、人跡未踏の場所にもいる。ということは、人間の血を吸わないでも生きて行けるんだ。だから蚊が人血を吸うのは、趣味か道楽なんだよ」

「道楽でおれは刺されているのか?」

 久住は苦笑いをした。

「尾山荘に入る時、蚊のことだけは、計算に入れなかった」

「そんなに蚊が多いとは、おれも気付かなかったな。初めおれは尾山荘に入る予定だったんだ」

「なぜ入らなかったのかね?」

「入ろうと思ったら、満員だった。小城が無理に君を引っぱり込んだ。そうだね?」

 久住はうなずいた。

「小城がなぜ君を引っぱり込んだか。その意味が判るかい?」

「意味なんて、あるのかね」

「あるさ。君が入らなきゃ、おれが入る。すると小城は困るんだ」

「なぜ困る?」

 西東は立って窓をしめ、元の座に戻って来た。

「小城にこの間女の客が来たね」

「ああ。来たよ」

 彼は答えた。

 西東は家が隣のせいもあって、しょっちゅう尾山荘に遊びに来ていた。久住や小城の部屋にはほとんど入らなかったが、附下の応接室で久住と碁を打ったり、フサコをまじえて花札を引いたりした。フサコも勝負ごとは好きだったようである。独り身の佗(わび)しさを勝負ごとに託するのか、それとも生来のものなのか、ことに花札は強かった。

「花札の強い女なんて、軍人の家庭に似つかわしくないな」

 負けて口惜しいので、久住はそんな冗談を言ったことがある。するとフサコはむきになって答えた。

「あら。あたしは花札を、主人から習ったのよ」

 小城は勝負ごとに無関心らしく、応接間の仲開には入らなかった。西東がけむたかったのかも知れない。

 久住は質問した。

「あの女、一休何ものだね?」

 

 五月なかばの土曜日であった。お客が来るから、二日間部屋を交換して呉れ、と小城が申し込んで来た。

「二日間って、その客は泊るのか?」

「そうなんだよ」

 媚(こ)びるような眼で、小城は彼を見た。

「頼む」

 部屋交換は初めからの約束なので、彼は寝具を小城の部屋に運んだ。客が到着したのは、夕方である。女であった。

 その日の夕食は、小城はとらなかった。女客と町に出て、食事をしたり、映画などを見たのだろう。戻って来たのは、十二時近くである。

[やぶちゃん注:ここから尾山荘は下宿人にそれぞれ玄関の合鍵を持たせている方式らしいことが判る。]

 久住は布団の中に、横になっていた。電燈を消したが、部屋がかわったせいか、なかなか寝つかれない。しばらくして廊下を忍び歩く二人の足音を聞いた。足音は奥の六畳問に入り、襖(ふすま)がぴたりとしめられた。

 久住は聞こうとはしなかったが、隣室の物音が自然に耳に入って来る。新築だけれど、安普請(やすぶしん)なので壁が薄い。寝巻に着かえる気配がする。会話も聞える。彼は眼を閉じたまま考えた。

〈小城は寝具をひとつしか持ってない筈だが、一緒に寝るつもりか〉

 しゃべっていることは判るが、その内容は聞きとれない。すこしずつ声が高くなる。調子が戯語めいて来る。電燈を消す音がつづいた。彼は観念した。

 〈これじゃ眠れそうにないな〉

 音や声はしばらく続き、そして突然やんだ。久住は音のしないように起き上り、催眠薬をのみ、薬罐(やかん)に口をつけて、水とともに飲み下した。

[やぶちゃん注:「戯語」「じょうだん」(冗談)と当て訓しておく。漢語として「ぎご」「けご」ともあるが、凡そここに相応しくはない。但し、春生はルビを振るべきであったと思う。]

 朝眼が覚めたのは、午前七時。その部屋の廊下に面した障子は、上と下は紙で、中間にはガラスがはめこまれている。六畳聞の襖が開かれる音で、眼が覚めたのだ。彼は首だけを寝床から立てた。ガラスの幅だけ、女の姿が見えた。紫色が見える。袴(はかま)のようだと思った時、姿はガラスを横切って消えた。顔や手は見えない。つづいて小城が出て来る。

 それまで見届けて、頭を枕に伏せた。催眠薬がまだ頭に始残っていて、眼がちかちかする。彼はふたたび眠りに入った。十二時頃、本式に目覚めた。寝床にあぐらをかき、煙始草に火をつけた。さっきの紫色を思い出した。先ほどは寝ぼけ眼で見たが、はっきり覚めた今、その色はかなり妖しい情念を彼にもたらした。

 煙草をもみ消すと、彼は階下に降りて行った。昼食の用意がととのえられている。彼はチャブ台の前に坐り、フサコに話しかけた。

「小城んとこに来たお客、あれは何だね?」

「あたしも知りませんよ」

 フサコは不機嫌な答え方をした。

「一昨日電報が来ました。故郷(くに)の人じゃないかしら」

「いくつぐらいの女? たしか袴をはいでいたね」

「顔は見なかったの?」

「見なかったね。寝ていたから」

「小城さんよりずっと年上よ」

「じゃやはり身内の女かな。ひどく親しげだったから」

「のぞいたの?」

 フサコは大きな眼をさらに大きくしで、彼を見た。

「のぞきゃしないよ。ぼくにそんな好奇心はない。部屋を交換しただけだ」

「部屋を交換した?」

 フサコはいぶかしげな顔になった。

「じゃあんたは小城さんの部屋に寝たの?」

「そうさ。いけないかね」

「いけないとは言わないけれど、するとあんたも共犯者ね」

「共犯? 冗談じゃないよ。あれ、犯罪か?」

「ここの風儀を乱したのは、よくないことよ」

 フサコは強い調子で言った。

「うちは逢引(あいびき)宿じゃないの!」

「そ、それは判っているが、初めからの約束だった」

 彼は弁解した。

「しかし逢引きかどうか、ぼくは知らない。小母さんにも判らないんだろ」

 フサコは返事をしなかった。彼に茶を注ぐと、立ち上って二階へ登って行った。彼は茶をすすりながら考えていた。共犯者という言葉に、しばらくこだわっていた。

 

「あれは小学校の先生なんだ」

 西東は碁石を片付けながら言った。

「恰好(かっこう)見れば判りそうなもんだ。つまり小城のやつは、その中田先生から習ったんだよ」

「先生?」

 ガラス越しに見た袴の紫色を、彼は思い出した。

「受持の先生なのか?」

「そうだ。小城が六年生の時、女子師範から赴任して来た。もちろんその時は何もなかった。中学に入ってから、

火がついたんだ」

「どうして君はそれを知っている?」

「おれと小城は同郷だ。小さな町でね、おれもその小学校を卒業したんだ。女教師の顔もよく知っている」

「すると――」

 ちょっと久住は言い淀んだ。

「やはりぼくの部屋で、逢引きをしたんだな」

「君の部屋?」

「うん」

 そして久住は交換の一部始終を説明した。西東は腕組みをして聞いていた。

「お前は利用されたんだよ」

「そうか」

「お前がおとなしいかと思って、尾山荘に引き入れたんだ。お前は口が堅いからな」

 口が堅いのではない。この件に関してしゃべる材料がないだけだと、彼は思ったが、口には出さなかった。

「お前は人が好いんだ」

「そう思うか」

 尾山荘に引き入れられた事情やいきさつについて、彼は、西東に話さなかった。

「しかし、自分が教わった教師と関係を持つというのは、どんな気持のものかなあ」

 久仕がそこに興味を持っているのは、事実であった。彼にはもちろんその経験はない。小学生の時、彼も女教師に教わったことがある。紫色の袴は母性と威厳をたたえていた。だからガラス越しに見た紫色が、強いショックを彼に与えたのだ。久住は言った。

「西東。なぜ君は小城のことを、そんなに気にするんだね?」

「気にはしないさ。しないけれども――」

 西東はそのまま口をつぐんだ。碁盤をたたいた。

「もういっちょやろうや」

 西東の声や態度は、もう元に戻っていた。大したことはないんだな、と彼は思った。

 

 それと同じ申込みが、七月上旬にも小城からあった。やはり土曜日で、久住は放課後寝具を小城の部屋に移し、そのまま外出して、級友の三田村の下宿に遊びに行った。三田村の宿は坪井にあった。

[やぶちゃん注:「坪井」熊本県熊本市中央区坪井。]

 彼のクラスは碁好きが多い。皆入学して始めたので、腕前もほぼ同じである。三田村とも西東とも、彼は互先で打っていたが、どうも三田村が一番上達が早い感じがする。三度やると、二番は負けた。数局打つと、彼はすこし疲れた。その彼に三田村は言った。

「どうだ。ビールを飲みに行かないか」

 生ビールの季節になっていた。否も応もなく、久住はついて行く気になった。今日だけは下宿に戻って、飯を食う気にはなれなかった。

[やぶちゃん注:「互先」(たがいせん)と読む。私は勝負事に、一切、興味がなく、全く知らないので(特に碁は「五目並べ」以外で幼少期に遊んだ以外には全く知らない)、当該ウィキを引く。『囲碁の手合割の一つ』で、『ハンデキャップのない対局を指し、棋力が近い場合に採用される』もの。『囲碁は単純に目数で勝敗を決するとすると先手が有利であるため、一局で勝敗を決する場合、コミを用いて先手(黒)と後手(白)の均衡を図る。日本では』二〇〇〇『年代以降、後手に』六『目半のコミを与える(先手が』七『目以上リードしていないと勝ちとしない)のが一般的となっている。先手・後手はニギリ』(当該ウィキ参照)『によって決められる』。『互先の用語はもともとコミの無い時代に、互いに先(交互に白黒)を持つところからきている』。『棋力に差がある場合には定先』(じょうせん:当該ウィキ参照)や『置き碁』(当該ウィキ参照)『を採用する』。]

 街に出て、生ビールをジョッキで二杯飲んだ。それから行きつけのそば屋に座を移し、酒を飲んだ。そば屋と言っても、門構えのある屋敷風の建物で、部屋々々は独立している。宴会用の広間もある。そばを看板にしているが、むしろ料亭に近かった。二、三の料理を取り寄せ、盃(さかずき)を傾けながら、三田村は言った。

「君の下宿はどうだい。エッセン(食事のこと)はいいか?」

「普通だろうね。ただ蚊が多くて困る」

[やぶちゃん注:「エッセン」ドイツ語“Essen”。食事・料理・食い物。]

 しばらく下宿の話をした。寮の賄(まかない)との比較や環境のことなど。一般論から急に三田村は具体的な話に入った。

「君はあの下宿を出た方がいいよ」

「蚊がいるからか」

「いや。そうじゃない」

 三田村は手を振った。

「あの方向の下宿には、何か毒気があるよ。蛾の粉のようなものが散らばっとる」

「そうかね」

 久住も盃をなめた。三田村がどの程度まで事情を知っているか、興味があった。

「しかしおれはもともと、毒気に当てられないたちだよ」

「あそこに君を引き入れたのは、小城だろう」

 また追加した酒で、三田村は額が赤くなっていた。

「どんな風(ふう)にあいつは持ちかけて来た?」

 久住は返事をしなかった。

「君のためを思って言っているんだぞ。あんな女の腐ったような男と、つき合うな!」

「女の腐った男じゃない。あいつは相当なしたたか者だ」

「したたか者?」

 三田村は反問した。

「具休的には、どういうことだ?」

「どうだっていいよ。ぼくにも君にも関係ないことだ」

「あそこの女将は、未亡人だそうだね」

「それも関係ないよ」

 彼はわらいながら答えた。

「おれは眺めているだけさ」

「しかし醜悪だな。よく眺めるだけでいられるな」

 小城が女将と関係している。三田村がそう解釈しているらしいことが、やがて言葉の端々(はしばし)で判って来た。それを否定する証拠は、久住は持たなかった。

「でも女将は、小城のことを、小城のやり方を、心配しでいるようだよ」

 と久住は言った。

「関係があるなんて、誰からそんなことを聞いた?」

「西東だよ。いつか集会所で碁を打っていたら、そんなことをほのめかした」

「はっきり言ったのか」

「はっきりじゃない。謎をかけるような調子でだ」

「そりゃ君の聞き違いじゃないのか」

 と彼は言った。

「もっともおれは世間知らずだからね。わけも判らないことに、首をつっ込むのはいやなんだ」

 いい加減に飲み、かつ食べて、外に出た。夜の街を歩きながら、久住は言った。

「今晩君んとこに泊めて呉れないか」

「いいよ」

 三田村の宿では、客用の布団を出して呉れた。蚊帳も必要でなかった。三田村の実家は北九州の造酒屋である。押入れから一本出し、蚊取線香のにおいの中で、冷やの茶碗酒を何杯か飲んだ。三田村は言った。

「寝るところがきまったら、酔いつぶれてもいいんだ。家か出る時、おやじにそう言い聞かせられた。酔っても道ばたに寝るのはよせとね」

 部屋の隅に、一週間ほど前に出た校友会雑誌が出ていた。久住は手に取って、ばらばらめくった。西東が短歌を発表しでいた。十首ばかりで、題は『若い日の恋。別離』

『吾が胸にひしとすがりて別れうらむ君いぢらしき若き日の恋い』

 に始まり、

『何時か会はむと吾が手握りし面影の君を抱きて吾旅立ちぬ』

 で終っていた。久住には短歌に趣味はなかったが、すこしばかばかしい気がして、丸めて放り出した。

「いい加減なおっさんだな。西東は」

「いい気なもんだ」

 三田村も相槌(あいづち)を打った。

[やぶちゃん注:「校友会雑誌」『龍南』は明治二四(一八九一)年十一月二十六日の創刊(初期は『龍南會雜誌』か)の熊本第五高等学校の交友会誌。五高の英語教授であった夏目漱石を始めとして、厨川白村・下村湖人・犬養孝・大川周明・上林暁・木下順二などの後の錚々たる文学者が寄稿した。梅崎春生も昭和九(一九三四)年度には編集委員に名を連ねており、同誌に春生は多くの詩作品も投稿している。私は既に当該詩篇群を原雑誌を底本として、その全十六篇を、ブログ単発ではブログ・カテゴリ「梅崎春生」で公開しており(頭が「梅崎春生 詩」とあるのがそれら)、別にサイトの「心朽窩旧館」の「梅崎春生」の頭に『藪野直史編「梅崎春生全詩集」(ワード縦書版)』(ここをクリックしてもよい)がダウン・ロード出来るようにしてある。その内、後者はPDF版にする。]

 翌朝眼がさめると、いい天気であった。朝飯を食べながら、三田村が提案した。

「どうだ。今から阿蘇に登らないか」

 彼は別に異存はなかった。夏の阿蘇なので、別に支度する必要もない。豊肥線に乗り、坊中で下車、あとはバスで頂上近くまで登れる。しかし、バスには乗らなかった。足を使って、えいえいと登った。あと一息で頂上に達するところで、突然地鳴りがして、小さな爆発が起きた。火口にいた何百の登山客が、あばかれた蟻(あり)の巣のように、方向も定めずに急坂をころがり降りた。二人の周囲にも、小さな火山弾が落下した。

「動かない方がいいよ」

 三田村はしずかに言った。

「動くと落石に当る可能性が多くなる」

「そうかな」

 久住は空を見上げながら、そう言った。しかし三田村の言に、瞬間疑いを持った。たとえば俄(にわ)か雨の時、じっとしているのと、走るのとでは、どちらが余計に濡れるのか。一分間ほどで、爆発はやんだ。しかし頂上の火口に行く気持はなかった。方針を変えて山を降り、夕方栃ノ木温泉に泊った。翌日昼間はそこらをぶらぶらして、夕暮れに熊本に戻って来る。そのまま別れるのに忍びず、また街でビールを飲み、夜更(ふ)けて尾山荘に戻って来た。玄関がしまっているので、ベルを押した。フサコが出て来た。

「今までどこに行ってたの?」

「阿蘇山に登った」

 彼は正直に答えた。

「そして栃ノ木温泉に泊ったんだよ」

 そう言い捨てて、彼は二階に上った。見ると彼の寝具は元の六畳に戻され、蚊帳もつられていた。部屋には香水のにおいが残っていた。勉強机の上には見慣れぬ花瓶があり、花が挿してある。彼は酔眼を見開いて、しばらく考えた。

〈一体誰が、どんなつもりで、これを置いたんだろう〉

 気持が激するのを感じながら、彼はその花束を引き抜き、南の窓から力まかせに投げた。ついでに花瓶も投げ捨てた。自分の区切った生活の中に、異質なものが入って来るのが、不愉快だったのだ。

 翌朝の朝食の時、花瓶のことについて、誰も触れなかった。もちろん久住も黙っていた。久住から口に出すべき問題ではなかったからである。

[やぶちゃん注:「豊肥線」(ほうひせん)大分県大分市の大分駅から熊本県熊本市西区の熊本駅に至る当時の国鉄の豊肥本線。路線名の「豊」は現在の大分県に当たる豊後国、「肥」は同前式の肥後国に由来する。当初、大分駅と玉来(たまらい)駅の間は「犬飼軽便線(いぬかいけいべんせん:後に犬飼線に改称)、宮地(みやじ)駅と熊本駅の間は「宮地軽便線(みやじけいべんせん:後に宮地線に改称)と称したが、最後の区間であった玉来駅と宮地駅の間が開業し、大分駅 から熊本駅の間が全通したのは、昭和三(一九二八)年で、宮地・犬飼両線を合わせて「豊肥本線」となった。

「坊中」坊中駅。現在の阿蘇駅

「栃ノ木温泉」栃木(とちのき)温泉。阿蘇山南西麓のこの附近。]

 

 夏体みが過ぎて、二学期が始まった。各地方からぞろぞろと、学生たちが下宿に戻って来る。皆日焼けして、黒くなっていた。

 同級の五、六人と、学校の裏にある立田山に登った。酉東もいっしょであった。彼は西東をからかった。

「何時か会わんと吾が手握りし君と、また別れを告げて来たのかい?」

「あれはフィクションだよ」

 西東は冴えない声で答えた。

「君に話があるんだが、連中をまこう」

[やぶちゃん注:「立田山」(たつだやま/たつたやま)は熊本市のほぼ中央に位置する標高百五十一・七メートルの山。現在の熊本大学の東北後背に当たる。]

 先に登って行く級友たちと、別のコースをたどり、静かな場所に出た。巨(おお)きな杉の根っこに腰をおろし、西東はゲルベソルテに火をつけた。

[やぶちゃん注:「ゲルベソルテ」“GELBE SORTE”。ドイツ製の煙草の銘柄。私も若い頃、パッケージが箱型上開きで渋いので、両切りであったが、吸っていた。空き箱がどこかにあるはずなのだが、見出せない。グーグル画像検索「GELBE SORTE」をリンクさせておく。]

「実はおれは尾山のばばあに相談を受けたんだ」

 ばばあ呼ばわりをするところに、西東の偽悪趣味がおこった。

「何の相談だね?」

「小城のことについてだ」

「いつ?」

「そら。小城の女が来た時、君は阿蘇に行っただろ。あれから二、三日してからだ」

 西東は苦笑いをした。

「よく聞いてみると、小城はおれを、よっぽどの悪人に仕立てているんだな。驚いたよ」

「どんな悪人だね?」

「つまりぐうたらで、女たらしということだね。おれの短歌まで利用してさ。言うまでもなく、あれは架空の乙女なんだ」

「そうだろうね。あれは想像だ」

 彼は相槌を打った。

「経験者なら、あんな甘っちょろい歌をつくる筈がない」

「おい。それはおれをほめてるのか、けなしているのか?」

「ほめているんだよ」

 西東からその外国煙草を一本もらいながら、久住は答えた。西東の家は旧家で、大地主だと聞いたことがある。だからこそ外国煙草が買えるのだ。

「で、相談とは何だい?」

「小城のことだよ。女教師と密会している――」

「何で君に相談を持ちかけたんだろう。ぐうたらな君にさ」

 久住は首をひねった。

「どうしでおれに相談を――」

「君ではだめたんだ」

「子供だからか?」

「いや。お前は子供じゃない」

「子供じゃなくなったのか?」

「君は尾山のばばあの花瓶を、河原に投げ捨てただろう」

 西東は煙草を踏み消しながら言った。

「あの花瓶、安物じゃなかったそうだよ。しかし、お前のために、割れて使えなくなってしまった」

「あれ、尾山のばあさんのものなのか?」

 彼はびっくりして、反問した。

「何で花瓶を、おれの部屋に置いたんだろう?」

「君をなぐさめるためにさ」

「何でおれをなぐさめる必要がある?」

 彼は言葉を強めた。

「おれは同情されるのは御免だ」

「まあ、まあ、そう怒るなよ」

 西東は空気を手で押さえつけるようにした。

「ばあさんは小城のことで、いらいらしているんだ」

「嫉妬でかね?」

「嫉妬? それはどんな意味だい?」

「ばあさんと小城と肉体的に関係しているということさ」

 彼はゆっくりした口調で言った。

「君はそのことを、ある男にしゃべっただろう」

「うそだ。誰にもしゃべりはしない」

「しゃべらないにしても、ほのめかすぐらいのことはしただろう」

 西東は顎(あご)に手を当て、しばらく考えていた。顔を上げた。

「関係があるかどうか、おれは知らない。現場を見たわけじゃないからな」

「では、相談というのは、嫉妬からじゃないのかい?」

 西東はまた黙った。少し経って、重そうに口を開いた。

「言葉の上じゃそうでなかった。うちの部屋であんなことをされては困ると言うんだね」

「それはおれも言われたよ。しかも、おれが共犯だってさ」

 彼は煙草の火を杉の根にすりつけながら答えた。

「部屋を貸したばかりに共犯あつかいさ。でもばあさんは、何故そんなことにこだわるのだろう?」

「実を言うと、ばあさんはね、元の亭主のところに戻りたいんだ」

「あの軍人にかい?」

「そうだよ。迎えに来て呉れはしまいかという期待を、まだ捨て切れないでいるんだ。それで逢引宿という噂が立つのを、ひどくおそれてんだ」

「なるほど」

 彼は思わす嘆息した。

「姑(しゅうと)や小姑は悪いやつだが、亭主はいい人間だと、いつかばあさんは言ってたな。そんなことか」

「で、女教師をうちに来させないか、あるいは小城に出て行ってもらうかだ。それが相談の内容だよ。おれにやって呉れと言うんだ」

 西東は立ち上って、背伸びをした。

「おれは小城の中学の先輩だし、同郷だろ」

「うん。おれは共犯者で、花瓶をこわしてしまった」

 彼も立ち上った。どちらからともなく歩き出した。

「しかし、話がちょっと変だな。小城が君を悪者あつかいにしているのを、ばあさんはそれまで隠していたのかね?」

「そうらしい」

「相手が女教師だということを、ばあさんはいつ知ったんだろう?」

「一回目のすぐあとさ、おれが教えてやったんだ」

 西東はややうつむき気味に歩きながら言った。

「女教師を来させない方法は、いくつかある。女教師に手紙を書くとか、小城に忠告するとか、いろいろね。しかしあのばあさんは、自分を悪人にしたくないんだ」

「それで君に委嘱(いしょく)したわけだね」

「まあそういうことだ」

「で、断ったのかい?」

「いや。引受けたよ」

「ばかだね」

 と、久住はわらった。

「他人の情事に頭をつっこむなんて、引合わない話だよ。成功しても怨まれるし、不成功でも憎まれるしね」

「では、相談に乗って呉れないと言うんだね」

「そうだよ」

 彼はつっぱねた。

「君だけでやればいい。おれは君を援助もしないし、邪魔もしないよ」

「そうか。案外つめたい男だな」

 西東は落着いた口調で言った。

「船が沈没して、お前がボートに乗っている時、泳いでいるやつが舷(ふなばた)にしがみついたとする。その指を引剝がして海につっぱねるか、ボートに引揚げてやるか、お前はどちらもやらないだろう」

「そうだね。その場にならないと判らない」

「まったく悪人だよ。君という男は!」

「悪人?」

 一方につめたくすれば、片方をあたたかくすることになる。それを言おうとしたが、何か面倒で、口には出さなかった。

「悪人かねえ、このおれが」

 

 九月の末、尾山荘に異変が起きた。西東が尾山荘の応接間に引越して来ることになった。久住はフサコに訊(たず)ねた。

「応接間は人に貸さないことになってたんだろ。ぼくの思い違いかしら?」

「初めはそうだったのよ」

 フサコは困った顔で答えた。

「しかし今は物価も上るし、四人いなきゃ家計が立たないの。下宿代を上げるか、食事の質を落すか、どちらもあんたたちは困るでしょう」

 たくみな言逃れだと、その時彼は考えた。しかし西東が移って来ることに、別に異存はなかった。西東が来たって、別に困りはしない。そこで彼は西東の荷物運びを、手伝ってやった。

 それから一週間後、今度は小城がよその下宿に引越して行った。この引越しぶりは電光石火で、土曜日の昼食をとりに尾山荘に戻ったら、小城の姿はなく、部屋もからっぽになっていた。学校を欠席して、引越しをしたのである。西東が玄関番みたいに頑張っているから、出て行く気持は判るけれども、

〈おれに相談もしないで!〉

 という気持が、久住の中に瞬間動いた。もともと懇願しておれを尾山荘に引入れたくせに、当人はすぽっといなくなる。そんなことがあってもいいものか。小城の出て行った部屋に、人見という男が入って来た。なぜ西東を二階に移さなかったのかと聞くと、フサコは、

「小城さんが自分の友人を入れて呉れ、ということでしたから」

 とあっさり答えた。彼女にとっては、小城の問題が片付けばいいのだ、と久住は解釈したが、その解釈は幾分見当外れであった。

 釈然としない気持で、彼は小城と学校で会っても、口をきかなかった。十日ほどその状態がつづき、小城の方から妥協を申込んで来た。

「黙って尾山荘を出て、君には悪かったと思っている。許して呉れ」

「あやまられる理由はないね、おれには」

 久住は答えた。

「それはお前の自由なんだから」

「そう思って呉れるとありがたい」

 小城は頭をかいた。

「なにしろあそこは蚊が多くてね、ぼくには向かないんだ」

「そりゃ誰にも向かないよ。向かないことを知っていて、人見を紹介したのか?」

 小城は困ったような顔をした。少し経って言った。

「十月だからね、もう蚊もいなくなるし、と思ってさ」

 ではお前がとどまればいいじゃないか、と言おうと思ったけれども、やめにした。原因が判っているので、これ以上追求しても無駄である。黙っていると、小城は別の弁解を持ち出して来た。

「あの小母さんと西東が関係してることを、知ってるかい?」

「知らないね」

「それでぼくは、あそこを出て行く気になったんだ」

「しかしそれは、君と関係ないことだよ」

 彼はつめたい声で言った。自分のことは棚上げにして、他を批難する。それがいやであった。

「関係ないけれど、何か不潔――」

 言いかけて、すぐ言い直した。

「何となくいやなんだ」

 不潔という言葉が、両刃の剣のように、自分にはね返って来ると思ったんだろう。そしてあわててつけ加えた。

「これは内緒だよ。西東にも小母さんにも、言っちゃいけないよ」

 

 第三の異変は、尾山フサコに結婚式の招待状が来たことから始まる。差出人は、元亭主の軍人で、つまり再婚の通知であった。

 西東は二日続きの休みを利用して、天草に遊びに行っていた。

 久住が夜夕刊を読みに階下に降りて行くと、フサコは長火鉢の前に坐って、じっと宙をにらんでいた。

「夕刊を見せて下さい」

 彼の姿を見ると、フサコは夢からさめたような顔になった。彼が夕刊を読んでいる間に、お茶をいれる。まだ夕刊を読み終らない中に、フサコは話しかけた。

「ねえ。こんなことってあるものかしら?」

 角封筒に入った書状を、彼に差出した。

「中を見てもいいのかい」

 彼は中身を引っぱり出して読んだ。

「あたしの元主人よ」

「そうか。では結婚式に出席して、祝福して上げなさいよ」

「あんた、本気で言ってるの!」

 語調の激しさに、久住は一瞬たじろいだ。

「おめおめと出られると思ってるの。これ、いやがらせよ。あくどいいやがらせよ」

「そう言えば、そんな気もするね。すると元主人という人は――」

「いえ主人じゃないの。この筆跡は、姑のものよ」

 ああためて眺めると、封筒の字は女の手のようである。西東からあらかじめ聞いていただけに、フサコの怒りと絶望の深さが判るようであった。書状を封筒に収め、帰ろうとすると、その手をフサコの両掌が、長火鉢の上ではさみ込んだ。フサコの掌はつめたかった。

「あたし、とてもつらいのよ」

 彼は黙っていた。黙ってするままに任せていた。フサコは彼の指が一本々々剝ぎ取る。手紙は彼の掌から離れ、角火鉢の角にあたり、ぽとんと畳の上に落ちた。

「あたし、今夜、眠れそうにない」

 フサコは眼を閉じて、訴えるように言った。彼は自分の掌がじわじわと、フサコの方に引寄せられるのを感じた。

「催眠薬を少し分けて上げようか」

 フサコはうなずいた。

「では二階から取って来る」

 フサコの掌を巧みに振り放し、彼は自分の部屋から催眠薬の普通量を紙に包み、階下に降りて来た。フサコの姿はその部屋から消えていた。次の間の襖(ふすま)がすこしあいている。のぞくと布団の上に、フサコの体はくの字形に伏していた。内に足を踏み入れていいものかどうか、彼は迷った。フサコがやがて顔だけ上げた。

「入っておいで」

「ちゃんと寝床に入りなさい。でなきゃ、ぼくは入らない」

 フサコはだるそうに立ち上り、長柳絆姿になり、布団の中に入った。彼は薬とコップの水を持ち、その枕もとに坐った。フサコは薄目をあけて、コップを見た。

「それは、水?」

「そう」

「お酒にしてちょうだい。冷やでいいのよ。お酒は戸棚の中に入ってるわ」

 彼は素直に立ち上り、水を捨て、酒瓶を提げて戻って来た。フサコは腹這いになっていた。空のコップに酒をどくどくと、彼は注いでやった。フサコは錠剤を含み、一息にコップ酒をあおったが、腹這いの姿勢のため、いくらかの酒が敷布の上にこぼれ落ちる。フサコはそのまま頭を枕に乗せた。

「お酒、もう一杯ちょうだい」

「だめです。それだけで完全に眠れるよ」

「じゃ眠るまで、そこにいて呉れる?」

「いて上げるよ」

 フサコは眼をつむった。五分ぐらい経った。フサコが突然小声で何か言った。聞き取れなかったので、耳を近づけた。寝ごとだと思ったら、今度はやっと聞き取れた。

「だめですよ」

 彼は元の姿勢になって答えた。

「小母さん。あんたはいつかぼくのことを、中途半端な男と言っただろう。また無理をしないで生きて行け、とも言った。お説の通り、ぼくは無理をしたくないんだ」

 フサコは返事をしなかった。布団を額まで引きずり上げた。しばらくして、彼はそっと立ち上った。酒瓶を提げて静かに歩き、襖をしめて、二階の部屋に戻った。蚊帳の中で、茶碗に酒を注いでは飲み、注いでは飲んだ。

「据(す)え膳食わぬは男の恥、か」

 その言葉は前から知っていたが、現実に遭遇したのは、これが初めてである。酔いが急速に手足まで廻って来た。彼は眼を据えて考えていた。

〈フサコは屈辱を感じただろうな。しかしそれは、おれの責任じゃない〉

 無理をしたくない、と拒絶したが、拒絶そのものが無理だったのかも知れない。近頃彼はフサコに、すこしずつ魅力を感じ始めていた。頽(くず)れたようなものに対する魅力を。――今夜長儒絆からこぼれた白い肩の丸みや、掌の感触や、なまめいた声などに、感覚的にひかれながら、やっと抵抗した。何のために?

「よし!」

 彼は片膝を立てた。まだ機会はある。フサコが階段かを登って来る可能性もある。その時彼は自分の情感に抵抗し切れないだろう。こちらから降りて行く手もある。酔いが彼をけしかけた。

 彼は蚊帳を出て、階下に降りた。足がもつれて、音を立てそうだ。フサコの寝室の襖をそっとあける。電燈がつけ放しになっている。その光の下で、フサコは眠っていた。彼は枕もとにしゃがみ、指でフサコの頰や肩に触れて見た。反応はない。彼女は熟睡におちている。そう確かめて、彼は今のコースを逆に戻り、蚊帳の中に入った。そして残り酒を全部飲み干し、窓から外に放尿し、泥のような眠りに入った。

 

 翌朝の食事時に、フサコと顔を合わせた。フサコは昨夜のことは忘れたように、不断(ふだん)通りに、むしろ濶達にふるまった。それが本体なのか擬態なのか、よく判らない。彼は宿酔のため、梅干を舐(な)め、濃い茶をがぶがぶ飲んだだけで、二階に引上げた。

 西東が天草旅行から戻って来たのは、夕方である。

 その翌日の放課後、街に出ないかと、彼は西東に誘われた。小さなおでん屋で、時間が早かったので、客の姿はない。錫𤏐で二、三杯飲んだところで、西東は切出した。

[やぶちゃん注:「錫𤏐」私は「ちろり」と読みたい。知らない方のために平凡社「百科事典マイペディ」を参考に記すと、酒を温めるための金属製の器で、「銚釐」と書き、「直接に地炉の灰中で温める」の意から「地炉裏」とも書く。多くは錫(すず)・銅・銀・真鍮製で、一般に筒形で、下方がすぼまっており、上部に注ぎ口と取手が付いていて、取っ手をへりに引っ掛けて、湯の中に入れて酒を温めるものである。]

「昨夜、お前はおれの酒を飲んだな」

「あれ、君の酒かい?」

「そうだよ。買って頂けてあったんだ」

 別に詰問する口調ではなかった。

「どうしてあり場所を探り出したんだね。ばあさんが教えたのかい?」

「まあそういうもんだ」

 彼は昨夜のいきさつを簡単に説明した。ただし手をはさまれたことや、そのあとで誘われたことは、話さなかった。

「それだけかね?」

「それから酒瓶を持って二階に上り、飲んでしまったよ。何となく飲みたかったんだ」

 ふたたび二階から降り、フサコの頰や唇に指を触れたことは言えない。

「じゃここは、おれのおごりにしよう」

「いや。それはおれが連れ出したんだから――」

 そう言いかけて、西東は黙った。中途半端な酔い方をして店を出て、表で別れた。

〈あいつはおれに何か相談したかったのかも知れない〉

 三田村の下宿の方に歩きながら、久住は考えた。これ以上尾山荘にとどまると、ろくでないことになるだろう。そんな予感があった。難破を予知して船艙(せんそう)から逃げ出す鼠。自分をそういうものに感じながら、彼は足を早めた。三田村に会って、適当な下宿を頼んだ。

 三田村は笑って承知した。

「そうとう毒気に当てられたな。しかしお前のためには、その方がいいよ」

 

 結局尾山荘を出るのは、二学期の末になった。理由は、川に面しているのでひどく寒いこと、遊びの惰性がつづいて勉強が出来ないこと、などをあげた。実際一学期の成績が悪く、二学期のそれも自信がなかった。勉強しなければ、落第の可能性があった。西東は言った。

「その点はおれも同じだよ。せっせと勉強しなきゃあ、おれも落第だな」

 荷物を引越先に運び出した夜、西東とフサコは長火鉢のある部屋で、彼の送別会をして呉れた。西東は半纏(はんてん)を着ていた。その半纒がフサコの手作りであることを、彼は知っていた。縫っているのを見たことがあるから。

 すこし酔って来ると、西東はフサコに命令したりした。

「フサコ。この間のカラスミの残りがあるだろ。あれを持って来い」

 夫婦気取りである。西東は呼捨てすることによって、彼に宣言したのではない。すべては暗黙裡(り)に、了解が成立していたのだ。はっきりしないことはたくさんある。たとえば西東とフサコがいつ結びついたか、小城がその間でどんな位置を占めているのか、フサコが彼を誘惑したことを西東は知っているのか、その他いろいろが久住には判らない。はっきりしているのは、今眼前の現象だけである。その暗黙の了解を、久住は不潔なものだとは思わない。ただ別の世界だと考えたかった。だから彼は盃をこころよく受けた。

「小母さんは結局――」

 彼はフサコに言った。

「下宿屋の女将という柄じゃなかったね」

「あら。どうして?」

「止宿人と同じ次元で、じたばたしたじゃないか。もっと威厳を保たなきゃ」

「それを言うなよ」

 西東が彼をたしなめた。

「お前はとうとう悪人で通したな。見事なもんだ」

 悪人ではない。臆病なだけだ、と答えようとして、彼はやめた。

 

 引越した下宿で、久住は割に落着いて勉強出来た。学期試験が始まり、そして終った。発表があって、彼はかろうじて進級し、西東は落ちた。自分の進級を見届けたあと、誰にも会わず、彼は故郷に戻った。

 新学期になって、授業が始まっても、西東は姿を見せなかった。人見の話では、荷物はそのまま残してあるという。人見の提案で、寄書を書いて、出て来ることをうながそう、ということになった。で、書状が廻された。

 久住は迷ったが、最後には拒否した。出て来ないのは彼の意志だから、おれはとやかく書く気持はない。その旨(むね)を人見に告げた。旧級友の有志だけで、発送されたようである。そのかわりに彼は尾山荘を訪問し、フサコに会った。元気そうで、以前よりはいくらか肥って見えた。

「あら。あの人、盲腸炎で人院してるのよ」

 フサコはびっくりした声を出した。

「担任の先生に、その届けは出してある筈よ」

「そうか」

 落第したから、担任が変っている。そこに盲点があった。

「しかし――」

 と彼は言った。同郷なのに、小城はそのことを知らなかったのだろうか。そこに不審があった。あるいはあの件で、交際を絶ってしまったのか。

「しかし、何よ」

「いや。何でもない」

 彼は笑って言った。

「西東もいさぎよく落第したもんだな。感服するよ。がっかりしてなかったかい」

「いえ。全然」

 フサコも笑って答えた。

「ゆっくり高校生活をたのしむんだと言ってたわ」

「金のあるやつは、のんきでいいね。うらやましいよ」

 彼は言った。

「出で来たら、歓迎会をやってやろう」

 部屋に上らずに、玄関先の会話だけで、彼は戻って来た。まおあれはあれでいいだろうと思った。教室がいっしょでないので、いつか西東のことは、彼の脳裡から離れていた。

 西東の兄が故郷からやって来て、西東の退学届を出したという話を聞いたのは、ずっと後のことである。何故退学をする気になったのか、彼には理解出来なかった。尾山フサコなら知っているだろうと思ったが、他のことに紛れて、つい訪ねなかった。七月になって行って見ると『尾山』の表札は外(はず)され、他の表札がぶら下っていた。

 彼は白川の河原に降り、しばらく流れを眺めていた。彼は去年の蚊の季節の頃を思い出した。佇(たたず)んでいる間も、大きな蚊が何匹も飛んで来て、彼の顔や手足にまつわった。

 河原から上り、新しい表札の玄関で、事情を聞いた。フサコはこの家を売却し、東京に行ったことが判った。新住人から聞き得たのはそれだけで、他の事情は何も判らない。新しい主人は言った。

「いさぎゅう蚊の多かとこですなあ。知らんもんだけん、高う買い過ぎたごたる」

[やぶちゃん注:「いさぎゅう」熊本弁で、「ひどく」「たいそう」の意。]

 

 西東とフサコの関係が、西東家に知られてしまった。そこで親族会議か何かがあったのだろう。西東を学校から引かせ、東京に追いやった。東京で私大の予科にでも入れるつもりである。当人もそれを希望した。

 尾山フサコに手切金が与えられた。もう西東に会わないとの約束で、フサコは一応承諾した。

 田舎の旧家らしい解決法だったが、事はそれで済まなかった。フサコが持ち家を捨てて上京したからである。よりが戻った。

 それも短い期間であった。徴兵猶予の手続きを忘れたために、彼に召集令状が来た。徴集されて二週間後、西東は大陸に渡り、すぐに戦死した。戦死のことは、久住は小城から聞いた。聞いたとたんに、彼はふっと涙が出そうになった。

[やぶちゃん注:「徴兵猶予」旧兵役法では在学者及び国外在住者に対して、定期的に申し出を出すことで、徴兵時期の延期が適用された。]

「ばかだな。手続きを忘れるなんて」

 久住は横を向いて言った。

「好いやつほど、早く死にやがる」

「それは逆だよ。死んだからこそ、いいやつなんだ」

 小城は感情のない声で言った。

「あの春休み、盲腸で入院する前、西東はぼくのお客に――」

「女先生のことか?」

「そうだ」

 小城はちょっと顔をあからめた。

「会っていやがらせを言ったんだよ。どうせ長くはつづかないから、交際はもうやめろってね」

「いやがらせじゃなく、忠告じゃないのかい?」

「うん。まあ忠告かも知れないが、彼に忠告する資格があるのかね?」

 フサコのことをさしていることは判った。そして小城は語気を強めた。

「西東はおせっかい屋なんだ。おせっかいをやき過ぎる。自分のことは棚に上げて、他人の邪魔ばかりしているんだ。そう思わないか?」

「思わないね」

 出かかった涙は、もう引込んでいた。久住は突放すように言った。

「おれはあいつから、おせっかいをされた覚えはないな。それほどべたべたした交際じゃなかったよ」

 

 その年の秋ごろから、久住の気持はやや荒れ始めた。西東の死の影響ではない。このままでいいのかという気分があって、学校を休んだり、酒に溺れたりした。彼はドイツ語がにが手で、その教授の一人から憎まれているという妄想みたいなものがあり、とうとう落第した。

[やぶちゃん注:「彼はドイツ語がにが手で、その教授の一人から憎まれているという妄想みたいなものがあり」恐らくは相似した事実や精神状態が梅崎春生にはあったと考えてよい。遺作『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (13)』にも優れて映像として印象的なシークエンスとして描かれてある。

 四年間かかって卒業し、東京に出た。中野のあるバーに尾山フサコがいて、彼に会いたがっていると友人が知らせて呉れたのは、学校に入ってすぐである。会いに行こうか行くまいかと、久住はしばらく迷った。会ってどうなるものでなし、と思ったが、結局出かけることにした。バーは中野駅のすぐ近くにあった。重々しげな扉の上に三角燈をつけ、壁には蔦をあしらった、あまり趣味のいいバーではなかった。

 フサコはずいぶん変っていた。顔は化粧でごまかしているが、首筋のあたりの皮膚はざらざらに荒れている。四年前の白いすべすべした肩を彼は思い出した。あれから四年間、こちらは四つ歳をとったのに、彼女は八年ぐらい老けたらしい。

 なつかしい。昔のことを思い出す。そんな月並みなあいさつから始まって、フサコはぐいぐい飲み始めた。

「おねえさん。そんなに飲んじゃ、休に毒よ」

 同僚の女から注意されるほど、がぶ飲みをした。看板近くになって、まだ話したいことがあるからアパートまで送って来て呉れ、と言い張って聞かなかった。彼がためらっていると、フサコはこんなことを言い出して来た。

「西東が学校をやめたのも、あんたのおかげよ」

「なに。ぼくの?」

「そう。寄書きをよこしたでしょう。西東が盲腸炎になって入院した時にさ」

「ああ。寄書を書いて送ったらしいな。おれは書かなかったけれど」

「ウソ! 書いたでしょう。あたしたちの仲のことを!」

 フサコはじれたがって、彼の胸をとんとんと拳でたたいた。

「書きゃしないよ。誓ってもいい。何て書いてあった」

「それを今もあたしは持っている。アパートにしまっているんだよ」

 酔うとあおくなるたちらしい。フサコは眼を据(す)えた。

「今はもう別に、久住さんを恨む気持もなくなったけどね。あんたは虫も殺さないような顔をして、実はほんとに悪人だったのねえ」

「おいおい。何もしないのに、悪人呼ばわりされちゃ、やり切れないなあ」

「何もしない?」

 フサコはけたたましく笑った。

「よくそんなことが言えたもんね。じゃあたしのアパートに来てごらんなさい。証拠を見せるから」

 行って見よう、と彼は決心した。フサコの足どりが怪しいので、彼は抱きかかえるようにしてバーを出た。学生がバーの女に肩をかして歩く。そんなことがもう許されぬ時節になっていたが、仕方がない。幸いアパートまで一町ほどしかなかったので、警官などに見とがめられずに済んだ。

[やぶちゃん注:「一町」百九メートル。]

 フサコの部屋は二階で、廊下の両側に部屋があり、廊下には七厘やバケッが置かれている。実はバーにいると聞いて、そこのマダムになっていると思っていた。しかしただの女給に過ぎない。それが彼の感慨をそそった。部屋には寝床がしき放しで、見覚えのある長火鉢が置いてあった。上京する時も手放さずに持って来たのだろう。部屋はしめ切りなので、空気が濁っていた。

「上んなさいよう」

 フサコは押入れをあけ、行李をごそごそと探し、古ぼけた封筒を持ち出して来た。彼は坐って、内容を取出す。ゆっくりと拡げて見た。

『元気を出して出て来い』

『一度の落第に気を落すな。人生は長く青春は短し』

 その中で、

『尾山フサコさんが待っとるよ』

 という文句に始まる、かなり長い、猥雑な文章があった。それはあきらかに、西東とフサコの関係を、第三者が読んでも理解出来る文である。その文の最後にはという署名があった。彼は二度読み返した。

[やぶちゃん注:「底本では、太字のが丸印の中にある。ブログでは表記出来ないので注した。]

「これを誰か身内の人が読んだんだね?」

「そうよ」

 彼の眼の動きを見ながら、フサコは答えた。

「西東の兄が読んだのよ」

 西東の兄が退学届を出しに来た事情が、初めてすらすらと彼には判った。彼は顔を上げて、フサコを見た。

「これはおれが書いたんじゃない」

 彼ははっきり言った。

「おれの文字に似せてはあるが、おれんじゃない。絶対に違うよ。西東は犯人はおれだと信じて、出征したのか?」

「いえ。迷ってたわ。するとやっぱり――」

 言いさしてフサコは口をつぐんだ。沈黙が来た。

「久住はこんな卑劣なことをやる男じゃない、と西東は言ってたわ。あんたじゃなかったのね」

「そうだよ」

 しかしそうだとしても、あたしはあんたが憎いと、フサコは言った。

「なぜ?」

「あんたは何も傷つかず、無事に大学生になった。西東だって、あんなことがなければ、大学生になれた筈よ」

 その理窟は通らない、と彼は思ったが、口には出さなかった。過ぎたことは、何を言ってもむなしいのである。フサコも重ねては詰め寄らなかった。彼女もそのむなしさを知っていたのだろう。久住は立ち上ろうとした。

「ねえ。今夜泊って行かない?」

「いや」

 事件に巻込まれるのもイヤだったが、今その感傷につき合うのも御免だという気持があった。そこで本式に立ち上った。

[やぶちゃん注:本篇はここで終わっている。こうした断ち切るような終局シーンは梅崎春生特有のもので、一種、映画的な、芝居の見え透いたクライマックスを作らない手法で、私は好きである。]

2022/10/25

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「肥前大村領にて擊獲たりといふ虎皮の縮圖」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段五行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 図は底本のものをトリミング補正した。標題の「擊獲たり」は「うちとりたり」であろう。]

 

   ○肥前大村領にて擊獲たりといふ虎皮の縮圖

文政五年午十一月廿日の夜、肥前國彼杵《そのぎ》郡大村上總介領分、尾和谷村《をわたにむら》山奧にて、獵師、鐵炮にて打捕《うちとり》候獸《けもの》の皮。「是、虎なり。」といふ、未詳《いまだつまびらかならず》。毛の色、虎より、些《すこ》し赤く、斑《まだら》は、すこし薄し。

[やぶちゃん注:「文政五年午十一月廿日」一八二三年一月一日。

「肥前國彼杵郡大村上總介領分、尾和谷村」長崎県諫早市上大渡野町(かみおおわたのまち)の北部であろう。ここに南で接する下大渡野町には、戦国時代には既にあった「尾和谷城」(おわたにじょう)が存在した。「大村上總介」は当時の肥前国大村藩第十代藩主大村純昌(すみよし)のこと。

 以下、図の右下にあるポイント落ちのキャプションと、図左方にあるそれを、後に順に同ポイントで添えた。図に近く添えてあるキャプションは、右上方が、『此辺《このへん》二ヶ所、白シ。』、中央上に転倒して、『鼻ノ形、見ユ。』、左上に転倒して、『目ノ穴。』とあり、右手の皮の抉れた部分思われる皮膚部分に、『白。』と記載されてある。]

 

Yamainunokawa

 

    此處、鐵炮疵《てうぱうきず》と見ゆ。

[やぶちゃん注:右手の抉れて「白」と書かれている位置の脇に縦に一行で記されてある。]

 

縱三尺五寸許《ばかり》、橫二尺餘《あまり》、文政十一年七月廿四日、戸田勘助より借觀《しやくくわん》。

[やぶちゃん注:図の左側に二行で記されてある。吉川弘文館随筆大成版では、図の下方に配されてある。

「三尺五寸」一メートル五センチ。

「二尺」六十・六センチ。

「文政十一年」一八二八年。最後の「戊子」(つちのえね)も同年。

「戶田勘助」伊予国大洲藩士に同姓同名がいるが(直心影流剣術家戸田一心斎の父親)、同一人物かどうかは不明。]

 

右、海棠庵より借抄之《これを、かりて、しやうす》。按ずるに、この獸皮、豺(やまいぬ)なるべし。狼は、毛色、皆、同樣なるも、「山いぬ」は、犬狗《いぬ》のごとく、種々の雜色あるよし、眞葛が「奧州ばなし」にも、いへり。犬にも、虎毛《とらげ》なるもの、あり。そのたぐひなるベし。

  戊子九月         著作堂老逸《らういつ》

[やぶちゃん注:「海棠庵」「兎園会」会員でお馴染みの、三代に亙る書家関思亮(せき しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の号。本書に先立つ天保元(一八三〇)年九月に三十六の若さで亡くなっている。

「豺(やまいぬ)」近世以前には、所謂、「野良犬」「野犬」(やけん)を「やまいぬ」と呼称して、通常の「犬」とは区別していた。無論、そのような別種がいたわけではない。未だに、どうどうと「ノイヌ」とカタカナ書きしてイヌ類と区別して和名の種名(雑種)のように書く輩がいるのは、甚だ虫唾が走る。我々が滅ぼしてしまったニホンオオカミ(「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ) (ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」を参照されたい)に係わって、私の記事にはこの「豺」に関してはかなり言及したものがあるが、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豺(やまいぬ) (ドール(アカオオカミ))」、及び、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗(ゑぬ いぬ) (イヌ)」を示すに留める。

『眞葛が「奧州ばなし」にも、いへり』只野真葛の「奥州ばなし」は私のブログ・カテゴリ「只野真葛」で既に全電子化注を終っている。馬琴が言っているそれは、「奥州ばなし 狼打」を読まれたい。この名文家の才媛については、前記カテゴリの第一記事である「新春事始電子テクスト注 只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注」を見られたい。また、馬琴自身が、真葛の死後に書いた『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 眞葛の老女』を未読の方は、優れた彼女へのオマージュであるからして、是非、読まれたい。

「老逸」「老いて世間から隠逸した者」の意。馬琴の号ではない。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「伊豆州田方郡年川村の山、同郡田代村へ遷りたる圖說」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段中央から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 なお、「伊豆州田方郡《たがたぐん/たがたのこほり》」は、現在は函南町のみであるが、近世の郡域は非常な広範囲である。当該ウィキを見られたいが、そこの「近代以降の沿革」に江戸時代の知行一覧が表で載り、そこの「旗本領」に標題以下の「年川村」と「田代村」が確認出来る。調べたところ、現在の静岡県の伊豆地方で「年川」と「田代」が接して現存するのは、伊豆市の修善寺の東方の山間部の伊豆市年川(としがは)、及び、その南の大見川を境として接する伊豆市田代(たしろ)である(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。グーグル・マップ・データ航空写真で見ると、現在の年川の南端は「白鳥山」(読み不詳。取り敢えず「しらとりやま」と読んでおく。因みに、この北西で比較的に近い静岡県伊豆の国市神島に柱状節理の異様で知られる同名の「白鳥山(しらとりやま)」があるが、全く別なので注意されたい)というピークが田代に最も近いことは判る。この年川の白鳥山の東には、集落が確認出来る。村落名等は現行の読みを参考にした。]

 

   ○伊豆州田方郡年川村の山、同郡田代村へ

    遷りたる圖說

 文政十一年戊子五月

  堀田攝津守殿え、御屆覺。

私《わたくし》、知行所、豆州田方郡田代村《たしろむら》。隣村、寄合《よりあひ》小堀織部《こぼりおりべ》知行所、同郡、年川村《としがはむら》地内。當三月廿八日、山崩仕《つかまつり》、山下《さんかの》田へ崩落《くずれおち》、岩土《いはつち》を推出《おしいだ》し、村境《むらざかひ》、大見川《おほみがは》より、田代村地内へ動き出、高さ廿五間程の新山《しんざん》、湧出《わきいだし》候上に、田代村、田畑・高木《かうぼく》等、其儘に御座候。依ㇾ之、流水を堰留《せきとめ》候に付、田代村田畑、川瀨に相成《あひなり》、深さ一丈四、五尺、或、八、九尺の場所御座候由。尤《もつとも》、追々、田畑、崩落、川瀨に相成候由。屆出候間、家來、差遣《さしつかは》し見分の上、猶、又、追々、可申上候得共、先《まづ》、此段御屆申上候。以上。

 五月六日        本 多 修 理

[やぶちゃん注:「文政十一年戊子」(つちのえね)「五月」グレゴリオ暦では、五月一日は一八二八年六月十二日。梅雨時である。崩落理由には以上の三通に地震などの記載もないから、降雨による原因が最も有力であろう。

「堀田攝津守」若年寄堀田正敦(ほったまさあつ)。彼は寛政二(一七九〇)年に当時の老中松平定信の引き立てによって若年寄になり、天保一四(一八四三)年まで、実に四十二年もの長期に亙り、在任した。優れた文化人として「寛政の改革」で文教新興策をとり、博物学者(特に鳥類)としても名高い。

「寄合」「旗本寄合席」の正式名称。江戸幕府の三千石以上の上級旗本の無役者及び布衣(ほい)以上(御目見得以上)の退職者(役寄合)の家格をいう。

「小堀織部」不詳。

「廿五間」四十五・五メートル。因みに、グーグル・マップの「白鳥山」ポイント地点は国土地理院図で測定したところ、標高は百三十メートル強であるが、大見川自体が凡そ標高が七十メートルであるから、見かけ上の高さは六十メートル程度である。現行では、白鳥山北側はグーグル・マップ・データ航空写真を見ると、後半に人為的に平たく切り崩され、整地されてしまっているので、本来の「白鳥山」のピークがどこであったかを認めにくいが、「今昔マップ」の戦前の地図のここを見ると、確かに、グーグル・マップのポイントがここから東北に連なる尾根の最初の確かなピークであることが判る。恐らくは、崩落の起こったのは、この東北方百七十一・二メートルのピーク(「今昔マップ」の右の現在の国土地理院図を参照されたい)から南西方向に旧尾根間で発生し、現在の白鳥山が形成されたものと私は推定するものである。

「田代村、田畑・高木等、其儘に御座候。依ㇾ之、流水を堰留候に付、田代村田畑、川瀨に相成、深さ一丈四、五尺」(約四・二四~五・五五メートル)「或、八、九尺」(約二・四二~二・七三メートル)「の場所御座候由。尤《もつとも》、追々、田畑、崩落、川瀨に相成候由」言い方が、何となく、同じことを繰り返していて、意味がよく判らないのは、書いた人物も突発的な想像だにしなかった土地の大きな変容に慌てているためか。この山崩れで、一旦、大見川の流れが堰き止められ、その後、現在の田代地区の北端の大見川が蛇行する箇所が新たに形成されたということかとも思う。]

    同御屆

私、知行所、豆州八ケ村の内、田方郡年川村地内の山、字《あざ》「おそろ」と申《まをす》場所、同郡天城山、大見川より、伊東へ往來の道筋に御座候處、去《いんぬる》亥六月中、右道上《みちうえへ》へ、二百間程、崩掛《くづれかけ》候處、當子三月廿八日晝八時《ひるやつどき》頃、右場所、俄《にはか》に崩出《くづれいだ》し、高さ一町程、奧行二町程、長さ六町程の所、山下《さんか》の田、一面に崩落候。右、道の上より、山下の田畑、幷に、松・杉林等は亡所《ばうしよ》に相成り、右崩落候山土《やまつち》、大見川を堰留、水、湛《たたへ》、村中、麥作《むぎさく》・苗代共、水腐《みづぐされ》仕《つかまつり》候。右、川向《かはむかひ》、本多修理、知行所、同州同郡田代村田面《たおもて》、川瀨に相成申候。右、山中道筋、往來、留《とめ》に相成候に付、最寄《もより》御代官江川太郞左衞門方《かた》へ相屆候上、不取敢一、右往來、相附《あひつけ》罷在候由。尤、人馬、怪我等は無御座候。委細の儀は、家來、差出し、見分吟味の上、可申上候得共、先、此段、御屆申上候。以上。

             小 堀 織 部

[やぶちゃん注:『字《あざ》「おそろ」』現地名や戦前の地図でも見当たらない。

「天城山、大見川より、伊東へ往來の道筋」天城峠天城山自体はそこからもっと東北で、当時、そこから伊東への道筋は踏み分け道しかなかったと思われる)山現在の県道五十九号と同十二号相当。伊東方向は大見川に合流する冷川(ひえがわ)沿いとなり、大見川年川方向には十二号が相当する。

「二百間」三百六十三・六メートル。現在の田代地区北端の大見川蛇行の部分の下流側が、丁度、その長さと一致する。

「晝八時」定時法・不定時法孰れも午後二時頃。

「高さ一町程、奧行二町程、長さ六町程」高さ約百九メートル、奥行き約二百十八メートル、長さ六百五十四メートル半。

「亡所」土地一面が消失したことをいう。

「右、山中道筋、往來、留《とめ》に相成候」戦前の地図を見ても、以上の往還路は、田代側にはなく、大見川右岸の年川側を通っている。

「不取敢、右往來、相附《あひつけ》罷在候由」「聞くところによると、年川村の方で取り敢えずは、仮りの往還路を、急遽、復旧はした、とのことで御座る。」の意であろう。何より幸いだったのは、年川村も田代村も、人馬の損害はなかったという点である。]

伊豆國田方郡田代村において、當三月廿八日【文政十一戊子。】夜、小堀織部【寄合席。】知行所に有ㇾ之候山、同郡本多修理【火消役。】知行所へうつり候略繪圖【圖、省略。】。

右、子七月二日、御用番林肥後守殿へ御屆之寫、但《ただし》、當四月、堀田攝津守殿、御用番に付、相屆候處、猶、又、調之上可申出旨、被仰渡候間、此節、再度及御屆候。

           定火消役

             本 多 修 理

[やぶちゃん注:「本多修理」不詳。

「御用番」幕府の老中・若年寄が、毎月一人ずつ、順番で執務責任に当たることを指す。「月番」とも。

「林肥後守」将軍徳川家斉の寵臣で若年寄であった林肥後守忠英(ただふさ 明和二(一七六五)年~弘化二(一八四五)年)。]

2022/10/24

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「京師大佛領阿彌陀が峰南の方地藏山を穿掘して古墳の祟ありし奇談」

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「京師大佛領阿彌陀が峰南の方地藏山を穿掘して古墳の祟ありし奇談」

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段三行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。やや長いので、今回は段落を成形した。

 標題は「京師」(けいし)「大佛領阿彌陀が峰南の方」(かた)「地藏山を穿掘」(せんくつ)「して古墳の祟」(たたり)「ありし奇談」と読んでおく。これは、この「阿彌陀が峰」(現在の京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町に山頂がある阿弥陀ヶ峰(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ))「京」の「大佛」が嘗てあった方広寺の寺領であることを言っているようである。「地藏山」は不詳。現在、「地蔵山墓地」があるが、ここか。「今昔マップ」の戦前図のこの左の地図の中央がそこを見ると、既に墓地があるが、ややそこは高くなっているようには見える。但し、ここは西南西で、南というには、ちょっと問題がある。或いは、ここから東の方へずれた尾根のピークを指しているか。なお、以下の本文で、そこの旧広域地名を、かの風葬の地「鳥部野」(とりべの)の名を出しているが、旧鳥部野の範囲は、この地図の南北の阿弥陀ヶ峰と地蔵山墓地を包含する南北中央部に相当し、謂いは頗る正しい。また、文中に頻出する宮家については、私自身、その殆んど総てに興味が湧かないし、話の展開とも大きな関係を持たないと思われるので、注を附さなかった。悪しからず。]

 

   ○京師大佛領阿彌陀が峰南の方地藏山を穿掘して古墳の祟ありし奇談

 當所、大佛領の山、阿彌陀が峯の山添《やまぞひ》、南の方《かた》、地藏山《ぢざうやま》【この山は、昔、總名を「鳥部野」と申候内也。】と號《なづけ》候。

 此山は、大佛妙法院宮の諸大夫松井大隅守、御先代の宮、獅子吼院《ししくゐん》宮樣より、致拜領候山にて御座候由。

[やぶちゃん注:「大佛妙法院宮」京都市東山区妙法院前側町にある天台宗南叡山妙法院。阿弥陀ヶ峰の西北西一キロ圏内。「地蔵山墓地」はもっと近く四百メートル圏内。当該ウィキによれば、『近世には方広寺(京の大仏)』(☜☞)『や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も妙法院所管の仏堂となっている』とある。

「諸大夫松井大隅守」妙法院諸大夫であった松井永貞。「ADEAC」の「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の「三十三間堂矢場之図」の解説に、「地下家伝」のデータとして宝暦一一(一七六一)年三月に大隅守に任ぜられた、とある。

「御先代の宮獅子吼院宮」不詳。堯恕(ぎょうじょ)親王の院号として知られるが、彼は元禄八(一六九五)年没なので違う。]

 此、松井大隅守と申者、至《いたつ》て舊家にて、後白河院、三十三間堂、御建立《ごこんりふ》有ㇾ之候時、右、松井氏を堂守に被成置《なしおかれ》、其後、今、以、連綿と相續仕《つかまつり》、追々、分家、仕候《つかまつりさふらふ》て、當時、三軒に相成《あひなり》、大隅守を本家と致し、無祿にて、三十三間堂の賽錢、又は、矢數《やかず》等、有ㇾ之時、諸候樣方之御付屆・收納物等を以、相續罷在候處、近來《ちかごろ》、勝手向《かつてむき》、必至《ひつし》と不如意に相成候に付、出入之者共、種々《しゆじゆ》相談の上、此度《このたび》【文政十一年戊子《つちのえね》夏六月初旬の事也。】、東本願寺再建普請に付、地ならしの土《つち》、入用の儀、承り候間、右、地藏山の土を、年限《としかぎり》にて、賣渡《うりわたし》候はゞ、相應の德分も可ㇾ有ㇾ之、且、諸木、伐出《きりいだ》し候得者《さふらえば》、旁《かたがた》、以、宜《よろしく》候に付、大隅守へ右之趣、申聞《まをしきかせ》候處、

「難澁の族《うから》の儀に御座候へば、右體《みぎてい》之儀、出來候者《いできさふらへば》、可ㇾ然《しかるべき》談合いたし吳候樣《くれさふらうやう》。」

申《まをす》に付、則《すなはち》、大佛前に罷在候、鍵屋彌兵衞、丁子屋《ちやうじや》善七、申合《まをしあはせ》、本願寺へ掛合候處、幸《さひはひ》、土、入用の儀に有ㇾ之候得者、右、山を買取《かひとり》候對談、相整《あひととのひ》、拾ケ年・五十金計《ばかり》の定《さだめ》にて、本願寺より、役人、相詰《あひつめ》、當六月頃より【文政十一年丁亥六月。】、日々、人足を以、土を掘取罷在候。

[やぶちゃん注:「矢數」三十三間堂の「通し矢」の「大矢数(おほやかず)」の行事の収入。ウィキの「通し矢」を参照されたい。

「東本願寺再建普請」この五年前の文政六(一八二三)年十一月十五日、浄土真宗大谷派の東本願寺境内からの失火で、阿弥陀堂と御影堂(ごえいどう:宗祖親鸞の御真影を納める)の両堂が焼失していた。同寺から「地蔵山墓地」は直線で二キロ圏内である。

「年限」一定の年数を限って、土取りや木材伐採を許可すること。

「文政十一年戊子」一八二八年。

「文政十一年丁亥」吉川弘文館随筆大成版も同じだが、干支がおかしい。「丁亥」は文政十年。流れから、「文政十年」の誤り。

 然處《しかるところ》、

「右山に、松の木、三本計《ばかり》、有ㇾ之候所を、昔より『山の神』と申傳、有ㇾ之。此山の神の四方四十間は、土掘出し候儀、除《のぞき》吳候樣。」

兼《かね》て、致議定置、段々、掘出《ほりいだし》候て、最早、境目近く相成候に隨ひ、至《いたつ》て能《よき》土、出、境目に至り候得ば、吹革《ふいご》に用ひ候、土、出《いで》候。フイゴに用ひ候土は、容易に得がたき物の由にて、境目より、少しづゝ、穴となし、掘入候《ほりいれさふらふ》にしたがひ、彌《いよいよ》、よき土、出、中々、敷土《しきつち》抔に用ひ候土にては無ㇾ之故、穴にワクを入《いれ》、三丈計《ばかり》、掘入候處、當八月初旬、大き成《なる》壺に掘當《ほりあたり》、

「怪敷《あやしき》。」

と存候《ぞんじさふら》へ共《ども》、追々、右之土、出候に付、壺之廻り、幷に、底之方へ、掘入候得者、俄《にはか》に、土中、致鳴動候て、右之壺、すり落《おち》候音に驚き、人足、兩人、卽死仕候《そくしつかまつりさふらふ》。

[やぶちゃん注:「吹革に用ひ候、土」不詳。金属を溶かす過程で、温度を調節するために鞴(ふいご)で吹き入れる土ででもあるか。識者の御教授を乞う。

「四十間」七十二・七二メートル。]

 然所《しかるところ》、世話仕候、鍵屋彌兵衞、幷に彌兵衞忰某、丁子屋善七、松井大隅守、本願寺掛り役人兩人、其始末、聞付《ききつけ》候より、俄に、大熱病《だいねつびやう》、相發《あひはつし》、色々、祈禱等、仕候得ども、無其驗、兩三日の内に、追々、病死仕候。

[やぶちゃん注:いくら何でも、以上の全員が即死したわけでもあるまいにと思うだろうがのぅ、これ、「ツタンカーメン王の呪い」の江戸版じゃて!]

 依ㇾ之、大隅守親類共、打寄《うちより》、

「右山の神の祟にて可ㇾ有ㇾ之候。昔より、山神とは承り候へども、何と申《まをす》事、聢《しかと》と相分り候儀も無ㇾ之候へば、何卒、祈禱者に相賴《あひたのみ》、『神おろし』を致し、相詫《あひわび》候樣に可ㇾ致。」

とて、若黨一人、此節、流行《はやり》仕候、當處《たうしよ》、繩手通り三條下る三軒寺と申《まをす》内《うち》、「猿寺」と申《まをす》寺へ罷越、相賴、右寺にて、經文を致讀誦候時、老尼、出候て、寄りをかけ候趣《おもむき》にて、段々、修法《しゆはふ》の内、右、老尼、絕入《ぜつじゆ》候樣の形に相成候時、幣《ぬさ》を爲ㇾ持《もちなほし》候へば、

「とく」

と居直り、右。松井氏より參候者を、

「きつ」

と、にらみ付、

「寬太《くわんたい》也。下《さが》れ。」

と申聞候。

[やぶちゃん注:「繩手通り三條下る三軒寺」「内」「猿寺」現在の京都府京都市下京区東塩小路町にある正行院は通称を「猿寺」と呼ぶが、三条通ではない。「三軒寺」という地名もない。三条縄手なら、この辺りか。というより、この「尼」と言っているが、所謂、胡散臭い「巫女」系の感じが強い。

「絕入」気絶。

「寬太」神霊の名らしい。]

 然處《しかるところ》、右參り候者の云《いはく》、

「『寬太(くわんたい)なり』と申候は、何者に有ㇾ之哉《や》、名を名乘《なのり》可ㇾ申。」

と問《とひ》かけ候へば、尼、答《こたへ》て、

「我は、明智《あけち》の一類の者也。」

と答《こたふ》。

 又、問《とふ》、

「明智の一類と計《ばかり》にては、不相分一《あひわからず》。何と申、名の人ぞ。」

 尼、云、

「左馬介也。人の情《なさけ》によりて、彼《かの》山に葬《ほふり》を受《うけ》、被ㇾ稱「山の神」《やまのかみと、しやうせられ》てありしを、理不盡の振舞、此《この》欝憤、やむ事、なし。一々に、思ひしらして可ㇾ晴欝憤也。此旨を、立歸りて可ㇾ申。」

と也。

[やぶちゃん注:「明智」「左馬介」明智光秀の重臣、或いは、彼の女婿であるとか、異説に従弟(明智光安の子)ともされるが、真偽のほどは定かではない、明智秀満(天文五(一五三六)年?~天正一〇(一五八二)年)のこと。通常は「左馬助」と書く。当該ウィキによれば、天正一〇(一五八二)年六月の「本能寺の変」では、『先鋒となって』『本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き』、十三『日の夜、羽柴秀吉との山崎の戦いで光秀が敗れたことを知る』。『そこで』、十四『日未明、安土を発して坂本に向かった』。『大津で秀吉方の堀秀政と遭遇するが、戦闘は回避したらしく』、『坂本城に入った』(ここ)。この日、『堀秀政は坂本城を包囲し、秀満はしばらくは防戦したが、天主に篭り、国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの名物が無くなる事を恐れて、これを荷造りし、目録を添えて』、『堀秀政の一族の堀直政のところへ贈った。このとき』、『直政は目録の通り請取ったことを返事したが、光秀が秘蔵していた郷義弘の脇指が目録に見えないが』、『これはどうしたのかと問うた。すると秀満は、「この脇差は光秀秘蔵のものであるから、死出の山で光秀に渡すため秀満自ら腰に差す」と答えたとされる』。十四『日の夜、秀満は光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺した後、腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる』、『その振る舞いは戦国武将の美学を具現化したようなもので、敵方も称賛している』とある。先の「寬太」の名乗りの由縁は不明。]

 又、問、

「左馬介は、江州坂本にて滅亡と申事は傳聞候へ共、其後、彼《かの》山に墳墓有ㇾ之事は、思ひもよらず。山の神より四方四十間は相除《あひのぞ》き、土を掘出候樣、申付置候得ども、人足共、慾心にて、不法の働をいたし候儀は、大隅守、不ㇾ存《ぞんぜざる》儀に候へば、先々《まづまづ》、怒《いかり》を鎭め、大隅守、致快復候樣、被ㇾ致べし。然《しから》ば、神に成共《なるとも》、佛に成とも、彼《かの》山に、永く、致尊敬、且、讀經の回向《ゑかう》も相營み可ㇾ申候間、何分、大隅守、致本復候樣、相賴候。」

旨、申聞候得ば、尼、

「先《まづ》、此趣を、立歸りて、大隅守に、申聞《まをしきこゆ》べし。」

と答て、倒れ候よしなり。

 右、猿寺へ參り候者、松井宅に立歸り候へば、最早、大隅守は致落命候。

 右、祟にて、掛りの者、是迄、八人、同病にて相果申候。

 其後、山へ入候者、無御座候。

 當時、大佛妙法院宮は、閑院の宮より被ㇾ爲ㇾ成《なしなされ》候御治定《おんぢぢやう》御座候へ共、未《いまだ》御幼椎にて、御里御殿に被ㇾ爲ㇾ在候に付、院家金剛院諸事、執計《とりはから》ひ候に付、右の始末、承り、其儘差置候儀も難相成

「左馬介は、坂本にて致滅亡候得ども、誰ぞ、ゆかりの者にても、此鳥部野へ收《をさめ》候事、可ㇾ有ㇾ之哉《や》。何分、右、土中《どちゆう》を得《とく》と見屆參候樣。」

申付候へ共、「可ㇾ參。」と申者、無ㇾ之。

 依ㇾ之、院家配下に「功節庵」と申《まをす》寺、有ㇾ之。是へ申付、

「『地藏山』と號《なづけ》候山に候得ば、地名を以、地藏一體、彼穴に收、讀經、致供養《くやういたせ、と》、可ㇾ申。」

と申付候。

 依ㇾ之、右、法事、修行之由、御座候。

[やぶちゃん注:「功節庵」不詳。現存しない模様。]

 右、鍵屋彌兵衞妻も、此節、同病にて相惱居《あひなやみをり》候由に御座候。

 右之沙汰、取々、御座候處、一兩日以前、建仁寺町五條下る町たばこ屋の僕童《ぼくどう》、右、山の近邊を通りかゝり、此節、評判の山の儀に御座候故、不ㇾ圖存付《はからずも、ぞんじつき》、彼《かの》穴の口へ、參り見候處、是も、夫《それ》より、忽《たちまち》、大熱、出、相果候由に御座候。

 誠に奇怪、大掘事《おほほりごと》に御座候。

[やぶちゃん注:「建仁寺町五條下る町」この中央附近か。

「僕童」丁稚(でっち)のことであろう。

 以下は、底本では「被ㇾ下候由に御座候。」まで、全体が一字下げ。]

 右は、近來《ちかごろ》の珍事に御座候故、奉申上候。大隅守、右、山の土を賣拂ひ候に付ても、聊《いささか》の德分にて、世話仕候者共、皆、山師共にて、全《すべて》、自分共の邪慾より、事、起り、彼是、三人、命を失候儀、無是非候得ども、大隅守、未、老年にも無ㇾ之、困窮の上、聊の德分にて祟を受、一命に拘《かかわ》り候義は、誠に微運の至《いたり》に御座候。尤、右、山は、昔より、人のおそれ候地のよしに付、獅子吼院樣より、三十三間堂諸佛へ御寄附、日々、供し候、花・松の、「眞《しん》など、切出《きりいだし》候樣に。」との思召にて被ㇾ下候由に御座候。

[やぶちゃん注:「眞《しん》など、切出《きりいだし》候樣に。」は私の勝手な読み。「しん」は「芯」。花道で「草花の芯を残すと、それが盛り上がって、水上げが悪くなって具合がよくない。」と言うようなので、そのようにとった。]

右、此頃、追々、評判高く御座候に付、實說、承り合せ奉申上候。猶、又、相替候儀御座候はゞ、可申上候。以上。

[やぶちゃん注:以下、「來書、其寫。」までは、底本では全体が一字下げ。]

 八月廿五日【文政十一戊子年。】この一通、齋藤平角より申來る。同年九月廿三日、着。京都に罷在候齋藤平角より、來書、其寫《そのうつし》。

[やぶちゃん注:「齋藤平角」不詳。]

一、先便、東本願寺の儀、奉申上候。定《さだめ》て此程は、相屆《あひとどき》、御被見被ㇾ下候御儀と奉ㇾ存候。其砌《そのみぎり》、地藏山土掘出し候儀に付、奇怪御座候故、此節、本願寺より、

「取入置《とりいれおき》候土《つち》、元のごとくに返し度《たし》。」

由に御座候得共、右、地藏山へ運送仕候者、無ㇾ之由にて、甚《はなはだ》迷惑の由に御座候。本願寺普請、專ら、木取等、有ㇾ之候處、色々、變、有ㇾ之由。且は、「○印手支《まるじるしてづかへ》」等も御座候由にて、「暫《しばらく》、相休《あひやす》み候。」由に承り申候。

 先年、本願寺炎上の節、私共、見及居《みおよびをり》候處、風は、南より北へ吹候處、出火は、北の端より、もえ上り、南へ、南へと、火、傳ひ、暫時に、諸堂・大門迄、無ㇾ殘、燒失仕候。

 其以前、「西山御坊」と申《まをす》、掛所、建立《こんりふ》の企《くはだて》にて、西山に場所を買取候。其邊《そのあたり》、至《いたつ》て、狐、多く住居《すみをり》候て、穴、澤山に御座候處、右、穴を掘返し、地取《ぢとり》、出來《しゆつたい》の上、御門主、見分に被罷越候歸路、一統、狐にばかされ、尤、其砌《みぎり》は、門徒の貴賤群集、仕候折柄《をりから》なれば、供廻り、形粧《きやうさう》、美敷《うつくしく》有ㇾ之候處、右の狐にたぶらかされ、東へ可ㇾ歸《かへるべき》道を、北をさして、深田《ふかだ》の中を、夜明《よあけ》迄、行列にて、步行《ありき》、上嵯峨邊《あたり》の百姓に咎められ、漸々《やうやう》。心附、一統、深田の中を步行候儀に御座候得者《そうらえば》、泥に染《そみ》、誠に見苦敷《みぐるしき》爲體《ていたらく》のよし。

 其砌、大評判に御座候處、引續き、右御堂、燒失、

「是、全く、狐の所爲《しよゐ》。」

と申事に御座候。

 此度《このたび》の再建も、色々、惡《あしき》說、有ㇾ之、怪敷《あやしき》事共、御座候趣、承り申候。猶、亦、相替候儀、御座候はゞ、可申上候。

 九月十五日

此來書二通は、文政十一年十月初旬、老候の、「見よ。」とて、御使《おつかひ》太田九吉をもて、貸し下されしかば、人の手をかりて、寫さし置《おき》たるが、誤字の多かれば、こたび、寫しあらためて、この册子に收めかきつゝ、けふしも、「さぬきの復讐錄」より、こゝに至て、廿七頁、只、一と日の程に、寫し果《はた》しかば、己《おのれ》が筆にも、あやまちあるべし。そは又、異日《いじつ》、校し、正すべきになん。

[やぶちゃん注:「○印手支《まるじるしてづかへ》」「〇印」は日本と中国のみで通ずる、「お金」を意味する指で丸を作る「OKサイン」のこと。「手支」はそれを受けて金銭的に窮してしまうことを言っている。

「暫、相休み候由に承り申候」先に注した通り、文政六(一八二三)年十一月十五日の境内の失火によって阿弥陀堂と御影堂の両堂が焼失した、その東本願寺再建普請は、結局、回禄から十二年も後の、天保六(一八三五)年にやっと完遂している。

「西山御坊」現行では浄土真宗本願寺派(西本願寺「お西さん」)の本願寺西山別院の別称であるが、ここは浄土真宗大谷派の東本願寺(「お東さん」)の話であるから、違う。京都の「西山」は京都市西京区(洛西)・長岡京市・向日(むこう)市・大山崎町に跨る地域の広域地方名である。この中央南北部分に当たる。

「掛所」浄土真宗の寺院の内、地方に設けられた別院。後には、別院の資格のない支院を呼ぶようになったが、一方の本願寺派では、こう呼ばずに「休泊所」と称した(今は違うようである。例えば、本願寺派の「本願寺函館別院」のこちらの解説を見られたい)。

「老候」馬琴の嫡男瀧澤興継が医員として取り立てられていた松前藩の、第八代藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)。既に本「兎園小説」では、お馴染みで、馬琴とも非常に親しかった。当該ウィキによれば、彼は寛政四(一七九二)年十月二十八日に隠居し、長男章広に家督を譲ったが、文化四(一八〇七)年三月、『藩主在任中の海防への取り組みや』、『素行の悪さを咎められて、幕府から謹慎(永蟄居)を命じられる。この背景には元家臣の讒言があったとも言われる』。但し、十四年後の文政五(一八二一)年三月、この謹慎は解かれている。

「太田九吉」『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 阿比乃麻村の瘞錢』と、『曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 松前家牧士遠馬の記』に道広の使いとして登場している。

「さぬきの復讐錄」本篇の冒頭の「文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記錄」。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「文政十年丁亥の秋谷中瑞林寺の卵塔を穿掘して三千金を得たるものありとて、ゑせあき人が板せしを賣あるきしその事の實說」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段二行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 標題は「文政十年丁亥」(ひのとゐ:一八二七年)「の秋」(あき)「谷中瑞林寺の卵塔を穿掘」(せんくつ)「して三千金を得たるものありとて、ゑせあき人が板」(はん)「せしを賣」(うり)「あるきしその事の實說」と読んでおく。

 この「谷中瑞林寺」は、現在の東京都台東区谷中にある日蓮宗本山慈雲山瑞輪寺(ずいりんじ:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)である。同寺は天正一九(一五九一)年、日本橋馬喰町に創建され、慶長六(一六〇一)年に神田筋違橋外へ移り、その後、慶安二(一六四九)年に現在地に移転している。日蓮宗(旧法華宗)江戸三大触頭(ふれがしら)の一つに連なる名刹である(以上は、しばしばお世話になる松長哲聖氏の「猫の足あと」の同寺の記載に拠った。

 また、「御府内寺社備考による瑞輪寺の縁起」の項には寺名を『慈雲山瑞林寺』としている)。「ゑせあき人が板せし」とは、しばしば馬琴が批判的に使う卑称で、虚実綯(な)い交(ま)ぜの噂を面白可笑しく垂れ流す似非商人(えせあきんど)、則ち、「瓦版屋」を指す。]

 

   ○文政十年丁亥の秋谷中瑞林寺の卵塔を

    穿掘して三千金を得たるものありとて、

    ゑせあき人が板せしを賣あるきしその

    事の實說

「瑞林寺卵塔所《らんたふじよ》にて、金《かね》を掘《ほり》候。」と申《まをす》儀、さぞ、御聞及候半《おききおよびさふらはん》。「願主は橘樹《たちばな》郡東子安村、百姓孫右衞門祖父縺崎。同人、病氣に付《つき》、名代《みやうだい》孫右衞門、願ひ出《いで》、寺社奉行檢使、立合《たちあひ》之上、先月廿日後《はつかご》より、廿九日迄に、廣さ四尺餘四方、深さ二丈餘《あまり》ほり候處、朽骨《きうこつ》、五人分、出候のみにて、金は更に出不ㇾ申。」と申《まをす》、屆書《とどけがき》、一昨朔日《いつさくさくじつ》、出申候。「先祖より申傳《まをしつたふ》。」と申《まをす》事にて、しかといたし候。證據は、なきよし、申候。三千兩とか出候由、うりあるき候は、全く虛說にて御座候。

 「縺」字は、「散水(さんすい)の誤《あやまり》」にも候歟。

 當人の書面、右之通に御座候。

  九月三日

右、近隣、一友翁《いちゆうをう》より、告《つげ》られしまゝを錄す。

  丁亥九月四日

 この卵塔を掘《ほり》しもの、「諸雜費、

 凡《およそ》二十金に及びしのみにて、

 功なかりし。」と、しれる人、云ひけり。

 おろかにて、慾ふかきものゝ所行、かゝ

 る事、多かるべし。

  文政十一年八月

[やぶちゃん注:「卵塔所」ここでは広義の「卵塔場」(らんとうば)で単なる「墓場」の意。狭義の「卵塔」は無縫塔(むほうとう)で、主に僧侶(特に禅僧)の墓塔として使われる石塔を指す。塔身が卵形(というより擂り粉(こぎ)木尖塔状)を成す。百姓の墓には決して使われない。

「橘樹郡東子安村」現在の神奈川県横浜市神奈川区子安通のこの附近

「縺崎」読み不明。「縺」は音「レン」で訓は「もつれる・もつれ」である。後で馬琴は、『「縺」字は、「散水(さんすい)の誤《あやまり》」にも候歟』(か)と疑問を呈しているのだが、これがまた、意味が判らない。「散水」という単語は「撒水」とも表記し、慣用読みで「さつすい(さっすい)」があるので、表記や発音上・慣用読みの誤りではないか、と言っているものか。色々調べたが。「散水の誤り」という慣用句は発見出来なかったし、「縺崎」は逆立ちしても「さんすい」「さつすい」とは読めない。それにしても、これ、この当時生きている百姓の祖父の名前としても、例えば、「つれさき」と読んでも、奇異なること、極まりない。この文字列で検索しても、ヒントになるページどころか、クリックしたくない怪しげなサイトしか掛かってこない。お手上げである。切に識者の御教授を乞うものである。

「一昨朔日」「おとつひ(おととい)さくじつ」とも読めるか。本文に即して推定すると、墓の掘削が終わったのが、文政十年丁亥の八月二十九日と読め、この年の八月は大の月であるから、八月三十日がある。文書末のクレジットは「九月三日」であるから、「九月一日に届け書きは出しました。」という意味となり、この日付には齟齬はないことが判る。]

2022/10/23

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「おなじ頃、京なる一兩人より申來る風聞」(新たに項を起こした前回分の続篇)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段冒頭から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 なお、本篇は前話「文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記錄」の新たに項を起こしてある続篇であるので、そちらをまずは読まれたい。そちらで注したことは、繰り返すつもりはないからである。底本では頭に「○」が附されずに行頭から書き出されてあるが、ここは吉川弘文館随筆大成版を参考に三字下げで「○」を添えた。また、当該敵討事件と同じ事件を扱っているものの、こちらは、ソースが異なるため、人物の名前や表記、及び、事件の詳細の一部のシーンに有意な異同があるので、注意されたい。

 

   ○おなじ頃、京なる一兩人より申來る風聞

江州膳所家中平井兄弟敵討之事

 敵《かたき》 硏師辰藏【當亥四十二、三歲。】

右、生國は讃州高松在、阿野(あや)郡羽床下之村(はゆか《しものむら》)の者、十ケ年以前に、其地を出奔いたし、當時、膳所に來り、町々、住宅《すみいへ》いたし、硏師《とぎし》幷に刀・脇指の賣買いたし居候。

     膳所家中

      平井才兵衞實子總領

       平井市郞次【其節、廿六、七歲】

右、才兵衞嫡子にて、家督相續いたし、給人《きふにん》、相勤居《あひつとめをり》候處、故障、有之、其節は致隱居罷在候。

[やぶちゃん注:以下は「隱居被候由に御座候」までが、底本では全体が一字下げ。]

 右故障の譯は、平井才兵衞、馬醫《ばい》の事に委《くはし》く候故、格別に加增有ㇾ之、市郞次も、其跡、相續人の儀候故、爲馬醫の術修行、東都へ罷越、其術、委き方へ、致入門、修行中、同門の人、才器、勝れ候哉《や》、早く、皆、傳《でん》いたし、市郞次は、おくれ候に付、不圖《ふと》、癎症《かんしやう》、差起《さしおこ》り、麁妄《そまう》の事、多く、有之《これあり》。依ㇾ之、隱居被候由に御座候。

[やぶちゃん注:「給人」江戸時代、武家で扶持米を与えて、抱えて置いた平侍(ひらざむらい)。

「麁妄」やることが雑で、出鱈目であること。]

    膳所よりの書狀のうつし。

     水口御家中

      平井才兵衞二男

        竹 内 作 次

      當時改名

        平井外記【當亥廿七歲。】

一、五ケ年已前、平井家斷絕に付、主君水口候へ奉ㇾ願候て、暇《いとま》をとり、弟九市郞と共に敵討に出申候。

     平井才兵衞三男

        平井九市郞【當亥廿一歲。】

[やぶちゃん注:「水口御家」膳所藩家臣に水口姓はネットでは見出せなかった。ただ、近江国水口周辺(現在の滋賀県甲賀市)を領した水口藩(みなくちはん)があり、或いは、膳所藩とは、何らかの友好関係があったのか? 判らぬ。

 以下、底本では、「親類中へ御預被ㇾ成候。」まで全体が一字下げ。]

兄市郞次儀、故障、有ㇾ之、隱居被申付候節、名、相續として、中・小姓組に被申付相勤居候處、市郞次、被ㇾ討候節【右、九市郞、當十六歲。】、宿に爲居合候得共《ゐあはせさうらえども》、不行屆始末、有ㇾ之に付、暇、出申候。其節は思召も有ㇾ之趣にて、改易に成《なり》候。其節、九市郞、祖母、幷に、叔母一人、有ㇾ之候處、親類中へ御預被ㇾ成候。

一、五ケ年前に、隱居市郞次と辰藏と、爭論の儀、有ㇾ之候處、其儀も事濟候て、辰藏、是迄の通り、入込居候處、或日、辰藏參り、市郞次へ、「能き刀、出候間《いでさふらふあいひだ》、見せ申度《まをしたき》。」由、申に付、何心なく出候處、後《あと》より、だまし討《うち》に切下《きりさ》げ、又、一刀、胸先へ切付、其儘、かけ出し候折《をり》、其家の叔母、臺所に居合せ、行當り、打倒候處を、行樣《ゆきざま》に、一刀、切付、直《ぢき》に、表へ出《いで》、西裏の野邊へ出候て、山手へ懸け、山を越、京都へ出、丹州路《たんしうぢ》を經て、但馬邊迄は、足付候得共、其餘は、行方、相知不ㇾ申候。勿論、其節、直に主人【膳所候也。】家より、諸國へ手當の人數《にんず》、出候得ども、能々《よくよく》忍び候哉《や》、相分り不ㇾ申候。其節、市郞次は卽死、叔母は淺手故、日を經て致平癒候。

[やぶちゃん注:以下、底本では、「子細なく候。」まで全体が一字下げ。]

此叔母、貝崎藤内、預り居申候。此度[やぶちゃん注:ママ。吉川弘文館随筆大成版も同じだが、しかし、「このたび」では、ここに相応しくない。私は「者」の誤字ではないかと疑っている。]、平井家出身にて、爰元《ここもと》家内にても、每々《たびたび》申出候。此叔母の歡び、いかならんと、御察し可ㇾ被ㇾ下候。

 【京の友、書狀、別紙。】内々の事

市郞次事《こと》、辰藏に切害《せつがい》せられし譯は、もと、色情の事にて、實は、あまりよからぬ筋合なり。されども、一旦、事濟候上は、何にもせよ、辰藏、あしく候。敵討《かたきうつ》たるものは、子細なく候。

又、膳所よりの狀、寫し。

一、敵打の節、其場に居候目明しの者、則《すなはち》、高松侯よりの使《つかひ》の御同心に付添《つきそひ》、參り、咄《はなし》いたし候一件。

右兄弟、敵《かたき》辰藏は、藝州邊に居《をり》候樣子、承り、早速、下り相尋《あひたづね》候へども、住宅《すみいへ》、知れ不ㇾ申候。其節、近國にて知己に相成、段々、懇意に成候間、賴み候也。

     周防岩國吉川家浪人

      本名黑杭才次郞

       當時、明闇寺宗派の者

        雲  龍【當亥廿六歲。】

[やぶちゃん注:「周防岩國吉川家」江戸時代を通じて長州藩毛利家一門の吉川(きっかわ)家が領主だったため(大名ではない)、吉川藩という通称もある。江戸時代、特殊な扱いであったことについては、当該ウィキを読まれたい。

「明闇寺」京都市東山区にある普化正宗総本山虚霊山明暗寺(みょうあんじ)。かのおぞましい廃仏毀釈により廃宗廃寺の浮き目を見たが、明治二三(一八九〇)年に復宗復興した。公式サイトはこちら。]

右、出地《しゆつち》・案内幷に見證《けんしやう》に相賴《あひたのみ》申候樣子。其後《そののち》、讚州高松邊へ致徘徊候由、直《ぢき》に四國へ押渡り、右三人、高松在《あり》、兼《かね》て承り居候。辰藏、舊里、羽床下村邊を相尋候處、彌《いよいよ》、住居《すまひ》致候樣子、承り【先年も、辰藏、舊里の事故《ことゆゑ》、一度、相尋候處、其節は他國に居候哉《や》、「知不ㇾ候《しれさふらはず》。」由。この儀は貝崎の話しに候。】、其家を伺候處、折節、其日は佛事の樣子にて、大勢、打寄居《うちよりをり》候故、無是非、其夜は野邊へ退《しりぞ》き、物靜《もんおしづか》なる墓所に入《いり》、一夜《ひとよ》を明《あか》し、翌閏六月十二日、早天《さうてん》》に、右、家に參り、表口、裏口より、兄弟、相伺候處、辰藏は致硏物居《をる》樣子故、直《ただち》に飛込、名乘懸け、一刀打懸候處、辰藏、其向《そのむかひ》に立置《たておき》候一刀《いつたう》を追取《おつとり》、引拔《ひきぬか》んとせし處、硏刀《とぎがたな》の事故、目釘、無ㇾ之、柄《つか》計《ばかり》、手に取候故、直《ぢき》に引返し、表口ヘ逃行《にげゆき》候處、庭に、九市郞、居候故、其儘、一刀、切懸候得《さうらえ》ども、何を申《まをす》も、短刀故《ゆゑ》、淺手にて、又、裏口へ、逃出候處、彼《かの》雲龍に行當り、裏口外にて倒れ候を、外記、九市、追懸出、討留《うちとめ》、致留《とどめ》を候由、尤《もつとも》三人共、諸國修業者之體《てい》にて、平井兄弟は明闇寺宗派をはなれ居《をり》候由。三人共、四國道者《だうじや》の體にて、所持の劍《けん》は、一尺餘りの短刀を、竹に仕込、有ㇾ之候由。但、三人共、非人同樣に成居《なりをり》申候。

[やぶちゃん注:「出地」仇相手がどの国に潜入したかということを調べること。

「案内」探索の際の種々の案内役。

「見證」仇討ちの首尾を見届けること。

「平井兄弟は明闇寺宗派をはなれ居候」平井兄弟は普化宗(ふけしゅう)とは無関係であるの意でとる。

「四國道者」四国巡礼者。

 以下、底本では、「尙又、承り可二申上一候。」まで全体が一字下げ。][

 辰藏は、獨身にも無ㇾ之、やとひ女の樣なるもの、有ㇾ之候が、其節、はやく逃去候とやらん、及ㇾ承候。時に、此節、高松、在々所々、盜賊、多く致徘徊候に付、右三人も、「怪敷體《あやしきてい》の者故、可召捕。」と、段々、付廻《つけまは》し、則《すなはち》、其朝《そのあさ》も、三人連《さんいんづれ》にて致徘徊候故、彌《いよいよ》怪《あやし》く、後を付候處、右家近邊にて立留り、何か談合の樣子故、「もし。付廻し候を、氣取られては六ケ敷《むつかしき》。」と、暫く、見合せ候處、殊の外、騷敷《さはがしく》、「人殺し。」と呼《よばは》り候故、早速、駈付見候へば、「敵討の由。」呼はり候故、尙、亦、見合せ居《をり》候内、討留《うちとめ》候《さふらふ》て、段々、譯合《わけあひ》を聞《きき》、庄家《しやうや》へ連行《つれゆき》、其後《そののち》、御城下へ六里計《ばかり》も有ㇾ之候處、早速、致注進候に付、諸御役人、御出候て、警固、有ㇾ之、則、御城下へ御引取にて、當時、御城下へ被差置、殊の外、御叮嚀の御會釋《おんえしやく》の由。右高松候、町御奉行より、同心二人、下方《したがた》の者二人、使として、膳所町奉行所へ、手簡《しゆかん》參り候。當所も、諸役人、評定の上《うへ》、

   物頭一人  榊原新八郞

           組子二十人

           小頭 一人

   給人目付  高 橋 彌 八

           下役三人

   徒士目付  林 吉 兵 衞

           同心二人

 右、上下、總人數《にんず》七十人計《ばかり》、去月《きよげつ》廿九日、高松表《おもて》へ致出立候。右敵討の樣子は、高松侯、御同心の咄にて承り候。定《さだめ》て、右兄弟の者、是迄、尋巡るり候五ケ年内、艱苦《かんく》可ㇾ有ㇾ之候。此儀は、當人、面會の上、尙、又、承り可申上候。

一、高松候より、大小、時服《じふく》・身の廻り一通り、其節、直《ぢき》に御差出しにて御座候由。勿論、同斷、一通りづゝ、三人前、此方《こなた》よりも、差出《さしいだ》しに相成候。

[やぶちゃん注:「時服」この場合は、夏まっさかりであるから、その時候に合った服を賜られたのである。]

一、高松候より、此趣、いまだ、公儀え、御屆も無ㇾ之儀、御互に、先々《まづまづ》、請取候迄は、國切《くにぎり》の取沙汰《とりざた》、外々《ほかほか》へ、御咄も候はゞ、此儀、御心得可ㇾ被ㇾ下候【これは同年七月の書狀也。】。

[やぶちゃん注:以上の一条、意味がよく判らない。藩主松平頼恕(よりひろ)が気を使って言っているのは、思うに、「この仇討ちの完遂は、未だ諸君(と言っても平井の二兄弟)の藩主であられる膳所侯の耳に届いてはおらぬから、まずまず、膳所侯の帰藩の免状が届くまでは、国違い(「國切」は「國分(くにわけ)」で本来は戦国時代の大名間の領土協定を指す語である)の場での、仇討ち成功の話(それから発生するところの「噂」「取り沙汰」)については、そなたらの藩以外の場所では、安易に話は、これを心得て――遠慮して話はせぬように――おくように。」と伝えた内容を遠回しに言ったのではなかったか? 大方の御叱正を俟つ。

京の友、文通。

其後《そののち》、高松と膳所と、段々、懸合《かけあひ》の譯《わけ》、其節、高松より出《いで》候、「近江八景」の落首、且、又、膳所候、在府にて、三人の者、御使、東都へ下向の話【大公儀《おほやけのぎ》へ御屆に成り候、趣。】。外記、九市、五ケ年の内、諸國相尋候事、餘り、事、長ければ、不申上候。御聞可ㇾ被ㇾ成、思召も候はゞ、可ㇾ被仰下候。

[やぶちゃん注:これは大いに不満!!!

同《おなじく》。

一、雲龍、本名、黑杭才二郞【解《とく》云《いはく》、前書に「黑根」とあるは、誤寫なるべし。】と申候へ共、吉川家中に在ㇾ之候節も、他家相續いたし候樣子に聞え申候。當時は、本姓、栗谷、才次郞と名乘候。

同。

一、平井氏、去冬《きよとう》、八十石被宛行候《あてゆかられさふらふ》。其節、外記は六兩三人扶持にて、水口候へ歸參被申付、准給人《じゆんきふにん》に被ㇾ成候。九市は、先年、中小姓《ちゆうこしやう》の節、幾人扶持とやらに候處、元の通りにても難ㇾ有仕合の處、存外、高祿被ㇾ下、立身無此上候。竹内作次【外記事《げきが、こと》。】も養家を暇《いとま》を取《とり》、敵討に出候故、右、養家にては、他人、致相續候故、新家御取立に候へ共、全體、御主君、御小身故、外記も、右の仕合《しあはせ》に候。且、件《くだん》の一件、御家《おんけ》にも拘らぬ事にて候故、殊なる恩賞は無ㇾ之かと申候。

[やぶちゃん注:やっぱり主家水口家、よう、判らん。]

又、京師友人、文通。

一、十二月朔日、栗谷才次郞、膳所へ十五人扶持、召出《めしいだし》、家作料として金三十兩被ㇾ下、給人に被召抱候。十二月末より、才次郞、疱瘡にて、餘程、六ケ敷《むつかしく》候へ共、無難に致全快候由。去冬は、二十歲、三十歲の者の疱瘡、多く有ㇾ之。誠に稀成《まれなる》事どもにて御座候。

同《おなじく》。

一、爰に又、愚妻の親元【親は嘉藤太と申。今は、なし。】吉田平右衞門、懇意の家に、三村善五太夫と申者、給人に候。右、善五太夫、女子計り、四人、有り。總領娘は京都西三條御殿へ宮仕《みやづかへ》に參り、二女も白川殿へ遣《つかは》し置候處、善五太夫、全體、動向、首尾能《しゆびよく》、段々、出身の處、存外、大病にて、大《おほき》に、内證《ないしやう》[やぶちゃん注:家内の財政状態。]、手惡敷成候上《てあしくなりさふらふうへ》、長病《ながのやまひ》、終《つひ》に不ㇾ宜、相果候故、後室、大に當惑にて、娘達世話不行屆困り入候處、白川家に居候二女、其娘十三歲、世話人、有ㇾ之、膳所より五里計《ばかり》有ㇾ之、田上といふ所へ養子に遣し候處、大に不仕合《ふしあはせ》にて、存外、辛《から》きめにあひ、其處《そこ》にては、一、二を爭ふ舊家なれども、片田舍の事故、右樣《みぎさま》も、日々、農業に罷出、一向にならはぬ事共《ども》故、大に難儀いたし、彼《かの》「山庄太夫《さんしやうだいふ》」とやらんに、使《つかは》れ候思ひにて、泣暮《なきくら》し居《をり》候處、不ㇾ計《はからず》、「養父入(やぶ《いり》)」に歸り、一向に打歎《うちなげ》き候。何樣《いかさま》、人柄も替り果《はて》候故、「虛言《そらごと》には有間敷《あるまじ》。」と、親、幷に、隣家の人々にも致相談、無理に引取候處、家内に置《おき》候ても、日々の事も六ケ敷《むつかしく》、奉公に出《いだ》し候にも、衣類、無ㇾ之、大に困り入候に付、平右衞門、了簡上《りやうけんのうへ》にて、「拙者方ヘ、ケ樣の譯故、下女の替りにいたし、差置吳候樣《さしおきくれさふらふやう》。」被ㇾ賴《たのまれ》、上村《うへむら》、後室よりも、別《べつし》て被ㇾ賴候。愚妻は、元來、懇家《こんけ》の事、十五歲の歲暮《としのくれ》より、此方に置《おき》候處、全體、生れ付、貞實にて、容儀よく、申分《まをしぶん》無ㇾ之、女子《をなご》にて御座候也。此上村は、平井氏と近隣にて、彼《かの》九市とは、幼年の頃より、親しく、親ども、聢《しかと》と致約束たるにもなく候得ども、咄合《はなしあひ》も有ㇾ之程の事、此度《このたび》、歸參被仰付、右娘も爰元《ここもと》に浮物《うくもの》にて、重疊《ちやうじやう》の事と被ㇾ思候。然處《しかるところ》、先年、姉娘、引取、相續として、養子出來《しゆつらい》、當時、「上村善五太夫」と名乘《なのり》候。此人の緣家に、京都の町人、某《なにがし》あり。右娘、名を貞《さだ》と申《まをし》、妻の從弟《いとこ》と稱し、爰元に居《をり》候時、右の人も、よく存知、彼《かの》今の養子【後の善五太夫。】に言込《いひこみ》、「もうらひ度《たき》。」よし、段々、かけ合《あひ》、入組候得共《いれくみさふらえども》、さだの叔父もあり、「町家へは、許容、無ㇾ之。」とて、段々、斷《ことわり》候へ共、何分、今の名前主[やぶちゃん注:読みも意味も不詳。]、「是非とも其方へ致相談度《たき》。」などゝ申、落着不ㇾ仕候。「何分、もはや、當年十八歲に相成、爰元に差置候ても如何《いかが》、委細の相談は、手近くならでは。」とて、相談、極《きはま》り、當春、差戾《さしもどし》候。此段、如何相成候事哉《や》、戯場小說《ぎじやうしやうせつ》、何樣《いかさま》、今日、まのあたりの事と、感心仕候。

京師友人手簡。本文。

愚妻は、膳所家中、當時、吉田平右衞門と申者の妹にて候。右、吉田氏緣家に、貝崎藤内《かひざきとうない》と申《まをし》、是も、給人、相勤《あひつとめ》候。右、貝崎、平井氏は親《したし》き緣類にて候故、拙者事も緣續きとは申ながら、平井氏とは親しからず候へども、右、敵討の次第、荒增《あらまし》及ㇾ承候段、別紙に相したゝめ申候。先《まづ》は、右の趣に御座候。

此一枚ずりは、去《さる》七月、至《いたつ》てはやく、高松の者共、京へ持上《もちのぼ》り、大津邊・京師は勿論、近國迄、町々、賣步行《うりありき》候處、近年、類ひ無ㇾ之程にうれ申候。

其後《そののち》、芝居にいたし、初春の雙六《すごろく》の畫《ゑ》にも出來《しゆつらい》、大《おほき》に流行いたし候。もし、雙六の圖など、可ㇾ被ㇾ成御覽候はゞ、取寄入御覽可ㇾ申候。

 二月十二日      角 鹿 淸 藏

            秀     寫

[やぶちゃん注:最後の「一、爰に又、愚妻の親元【親は嘉藤太と申。今は、なし。】吉田平右衞門、懇意の家に……」以下の話は、私は読んでいても、全く、面白くも糞くもなかったので、一切、注する気にならない。悪しからず。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 始動 目次・第一「文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記錄」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 目次はそのままにして手を加えていない。本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

兎園小說拾遺目次

 

   第 一

平井兄弟が福州に爲體をいひおこせし讃岐の高松人消息の寫し

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版目次では、以下の第一話の標題と全く同じ『文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記録』となっている。]

おなじ頃、京なる一兩人より申來る消息

[やぶちゃん注:同前では、末尾の「消息」が『風聞』となっている。]

谷中瑞林寺の卵塔を掘りて金を得たりといふ事の實說

阿彌陀峰の南の岡なる地藏山の土を掘とるとて古墳を犯して祟ありし奇談

伊豆州田方郡年川村の山同郡田代村へ遷りたる圖說

肥前大村領にて擊獲たりといふ虎皮の縮圖

志賀隨應神道傳授の書

[やぶちゃん注:同前では、『志賀随王神書』である。]

西國處々大風洪水幷に越後大地震風聞略記

[やぶちゃん注:同前では、後の「越後大地震風聞略記」が『越後大地震の風説』である。]

  通計八箇條      著作堂主人輯錄

 追加

雷砲同德辨

浦賀屋六右衞門話記

將軍文禰麿骨龕圖【◎本文脫漏】

[やぶちゃん注:以上の一条は吉川弘文館随筆大成版にはない。]

 共二三ケ條三子紀事共二十二ヶ條

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、以上の一行はなく、『天保二年辛卯春正月三子出生の事』と『風聞』の標題が並置されてある。]

   第 二

イギリス船圖說

江戶大雹

文政十三伊勢御蔭參の記

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では、『伊勢お蔭参りの記』とある。]

 松坂一友人來翰の寫

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『松坂友人書中御陰参の事』となっている。]

 泉州堺の人の書狀の寫

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『伊勢参宮お陰参りの記』となっている。]

 駿州沼津人の書狀の寫

 松坂人琴魚書中抄錄

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『松坂人、琴魚より來狀』(読点は編者の打ったものと推定される)となっている。]

 享保八年御蔭參抄錄

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版でも新字で同じだが、一字下げはない。]

京都地震の記

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では末尾の「記」は『事』となっている。]

 飛脚問屋島屋佐右衞門注進狀

[やぶちゃん注:以上の一条は吉川弘文館随筆大成版にはない。]

 二条御番内與力伏屋書狀寫

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『二条御番内藤豊後守組寄騎伏屋吉十郎より或人へ郵書』となっている。]

 西本願寺觸狀寫

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはない。]

 伊勢松坂一友人來翰寫

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、以上の一条の前に、一字下げはなしで、『寅七月二日申上刻京師大地震聞書』があって、同じく一字下げなしで、『伊勢松坂一友人来翰中京の人六右衛門書状の写し』となっている。

 平安萬歲樂

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『地震奇談平安万歳楽』となっている。]

 風怪狀【戲作、】

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはない。]

駒込追分家主長右衞門奇特御褒美錄

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、「奇特」は、ない。]

奧州東磯江村百姓治右衞門の娘とめ孝行記事

豆腐屋市五郞孤女たか奇談

一月寺開帳御咎遠慮聞書

伊勢内宮御山炎上略記二通

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、『文政十三寅の閏三月十九日伊勢御境内出火』とある。]

大阪寺院御咎聞書

荒祭宮以下炎上に付傳奏方雜掌達書寫

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、『荒祭宮以下炎上の節、伝奏方雑達書』である。]

伊勢内宮炎上の略繪圖

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版にはない。というより、底本本文にも、この条は実際には存在しない。]

文政十三年雜說幷に狂詩二編

[やぶちゃん注:底本本文(及び吉川弘文館随筆大成版目次)には、ここに、

宿河原村靈松道しるベ

の一条がある。脱落。最後に「追錄」されてある。]

麻布大番町奇談

山形番士騷動聞書幷に狂詩

夜分磨古墓石怪幷に後記

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では「夜分磨古墓石怪」と返り点附きで、それに「石塔みがき後記」が並置されてある。]

 追錄

宿河原村靈松道しるベ

 

 

兎園小說拾遺第一

  

   〇文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記錄

 讃州阿野《あや》郡高松領、南羽床下《みなみはゆかしも》ノ村《むら》、無宿與之助《よのすけ》と申者、年齡三十八歲、先年【十六ケ年已前と云。】、江州不動寺へ罷越《まかりこし》、家來に成り居《をり》候事、有ㇾ之。右、不動寺は、元來、羽床村出生之者之由、右之由緣にて、與之助、罷越、家來に成り候。然處、與之助儀、膳所御城下なる町人方へ婿養子に罷成、養家之女《むすめ》【名は臺《だい》。】、幷に、養母と、三人暮しにて罷在候處、膳所《ぜぜ》家中、平井市郞二《ひらゐいちらうじ》と申者、右、臺女と密通之風聞、有ㇾ之に付、與之助、殘念に存罷在候内《ぞんじまかりありさふらふうち》、如何之譯《いかなるのわけ》に候哉《さふらふや》、養家、離緣に相成候。『此事、市郞二より、養家へ惡く申成《まをしなり》し候故、及離緣候儀。』と、與之助、致推量、遣恨、彌《いよいよ》增《まし》、不ㇾ得已事《やむことをえず》、右、市郞二を、だまし討《うち》にいたし、立退《たちのき》候。又、一說に、右、臺女をも、不動寺へ連行《つれゆき》、致殺害候とも申候。何れにも與之助儀は、人柄不ㇾ宜《よろしからざる》者にて、羽床村へ立歸り候ても、諍論出入《じやうろんでいり》之取扱ひ、人の腰推《こしお》し等いたし、聊《いささか》、棒なども、つかひ候て、全體、大男の由に御座候。右市郞二弟外記《げき》【廿七歲。】、同人弟九市《くいち》【廿二歳。】。此餘、黑根【「黑根」、當ㇾ作「黑杭」。】才二郞《くろねさいじらう》と申《まをし》、元來、防州家中に候處、樣子、有ㇾ之、國許を立退《たちのき》、鎗術、稽古いたし、薦僧《こむそう》に成り居候者《をりさふらはば》、「敵討場所見屆《かたきうちばしよみとどけ》」として同道、都合、三人連《づれ》にて、諸國を尋《たづね》に出《いづ》【「草ざうし」などに有ㇾ之候樣なる難儀の事、有ㇾ之、候由。略す。】。當月中旬、豫州へ致渡海、夫《それ》より、金毘羅へ罷越、羽床村へ入込《いりこみ》、漸《やうやく》、與之助居所《ゐどころ》を見付、去る十一日、討留可ㇾ申存候處、居宅を窺ひ候へば、何やらん、佛事、有ㇾ之樣子にて、大勢集り罷在候に付、不ㇾ果《はたせず》。其夜は、無常場辻堂に止宿いたし、翌十二日夕七半時《ゆふななつはんどき》頃、敵、討留申候【此節、危き事、有ㇾ之。左の如し。】。羽床下の村百姓、傳藏と申者、去る六月廿一日、盜賊の爲に、品々、被盜取候事、有ㇾ之。右詮議を、如ㇾ例、金毘羅、源右衞門へ賴《たのみ》候に付、源右衞門手寄りの者六人外、辨當持一人、都合、七人連にて、村方へ入込、右無常場へ罷越候處、非人居申候。「此邊に怪敷《あやしき》者は不ㇾ居候哉《をらずさふらふや》。」と尋候へば、「昨夜、此辻堂に非人體《てい》之者二人、又、一人は薦僧と見候者、致止宿候。」由申候付、「それこそ、必定《ひつぢやう》、盜賊にて可ㇾ有ㇾ之候。昨夜の事なれば、遠くは退き申間敷《まをすまじき》。」とて、夫より、處々、相尋《あひたづね》、十二日夕方、山之辻より見下し候處、與之助、居宅廻りに、右三人の者居候樣子に付、早速、走着《はしりつけ》、搦捕《からめとる》べき手段にて、下山いたし候處、與之助、被討果候折《せつ》にて、「御用。」と、聲をかけ、家内へ入込候處、「我等は、兄の敵《かたき》を討留候者にて、江州家中之由。」、相名乘《あひなの》り、御用の趣、相尋、「各《おのおの》は、何役に候哉。」と申に付、「手寄《てよせ》にて、盜賊方。」之由、相答《あひこたへ》、「我々共は、御用にて、相廻り候。」由、申聞候處、「左候《ささふら》はゞ、如ㇾ斯《かくのごとく》、敵、討留候に付、定《さだめ》て、與之助眷族《けんぞく》の者、又は、百姓中《うち》抔も狼藉者と存《ぞんじ》、無法之儀、有ㇾ之候ては、致迷惑候間、樣子に寄り、御村方及騷動に候ては恐入候。宜《よろしく》御守護被ㇾ下度《くだされたく》候、是、又、此樣子を、早々、庄屋へ相屆申度候間、案内いたしくれ候樣。」申に付、則、致案内、右、才二郞、屆に罷越、同夜五時過《いつつどきすぎ》、村役人、罷越、見分いたし、三人の者へは下宿《げじゆく》申付、手寄《てよせ》も、右下宿へ相詰《あひつめ》させ置候て、庄屋より注進申出候。

[やぶちゃん注:地下文書としては、かなり整理されていて、非常に読み易いものである。当時の制度では、「敵討ち」は、先ず、属する組織の上役に願い出て、この場合は、藩の重臣が吟味した上、藩主に許可を得ることになる(内容と敵討ちの相手が逃亡しそうな時には、上司へのそれのみで可能なこともあったという。これを「願い捨て」と称した。但し、敵討ちを希望する当事者の、その被殺者が父親以外の親族の場合(この一件は兄で、まさにそれにあたる)は、吟味の中で不許可になることもあった。なお、言わずもがな、不許可で藩外に出れば、脱藩となる)。また、許可がおりても、自藩以外の場所に仇(かたき)いることが判明し、仇討(あだう)ちを実行に移すためには、その藩主や知行地の知行者の許可を得る必要があった。この場合は高松藩に、それを申し出ねばならなかったはずなのである。しかし、以上の最後の台詞(恐らくは話者は平井外記)を読むに、その許可をどうも得てはいないニュアンスを感じる(というか、そもそも奉行所を通じて藩に許可を得る手続きを踏むと、その過程で、敵討ちの相手の親しい関係者がそれを知ってしまうリスクが高くなり、簡単に逃げられそうな気がする)。以上は、サイト「warakuweb」の『親の仇をとるのは役所に届け出てから!?驚きの江戸時代「敵討ち」事情』に拠った。

「文政十年丁亥閏六月十二日」グレゴリオ暦一八二七年八月六日。

「讃岐州阿野郡羽床村」現在の香川県綾歌(あやうた)郡綾川町(あやがわちょう)羽床下(はゆかしも:グーグル・マップ・データ。以下指示のないものは同じ)。

「江州不動寺」現行、滋賀県には二寺ある。孰れも古刹である。膳所との近さからは、滋賀県大津市田上森町(たなかみもりちょう)にある天台寺門宗太神山不動寺(たいじんさんふどうじ)か。

「家來」というのが、よく判らない。不動寺の寺の、全くの非僧の寺の一般実務に使役された者を指すか。

「膳所御城下」膳所藩(本多氏)。

「臺《だい》」流石に「うてな」とは読まんだろう。

「諍論出入」争いを好み、喧嘩出入りを好んでやらかす鼻つまみの乱暴者。

「人の腰推《こしお》し」自分では争いの表には立たず、人をそそのかしてやらせるという意であろう。

「棒なども、つかひ候て」所謂、長い棒を武器とする武術としての「棒術」であろう。

「黑根【「黑根」、當ㇾ作「黑杭」。】」割注は、姓の「黑根」(くろね)は、別な一本の資料では、「黑杭」(くろくひ)とあるようであるという意であろう。

「防州家中」長州藩士。

「樣子、有ㇾ之」何らかの不都合があっての意か。

「無常場辻堂」村外れにある墓場に付随する辻堂。墓地も辻も村落共同体と異界との境であり、村の辺縁にある。

「夕七半時」これは不定時法である。夏であるから、午後五時頃である。

「手寄りの者」手下の者。

「非人」遺体の葬送・埋葬・火葬などの不浄な作業は、差別された非人らの仕事とされたので、こうした辻堂などや、その近くのあばら家に定住していた。

「非人體」敵地に乗り入れるので、兄弟は武家であるが、変装していたのである。

「手寄にて、盜賊方」「手下方(てしたがた)ではありますが、盗賊改(とうぞくあらため)方で御座います。」。]

      敵討場所の大略

九市は表口に脇指を拔持罷在《ぬきもちまかりあり》、裏口に才二郞、尺八を持罷在、外記一人、内へ入、與之助に向ひ、「敵討候間、致覺悟候樣。」申聞候處【此時、與之助は江州にて仕馴候硏職《しなれさふらふとぎしよく》幷に刀脇指賣買之取次等、渡世にいたし候に付、則《すなはち》、脇指を、ひねくり廻し罷在候。】、與之助、「心得候。」とて持《もち》たる脇指を振揚《ふりあげ》候へども、目釘、無ㇾ之故、刄《やいば》は、鞘共に、飛散《とびち》り、柄のみ、手に殘り候間、外記、不ㇾ透《すかさず》、肩先へ切付《きりつけ》候【餘程、深手の由。】。」依ㇾ之、與之助、裏口へ迯出《にげいで》候處、才二郞、罷在、「迯候事、不相成候。」迚《とて》、押戾し候由【或は、尺八にて打候とも申候。】。表に罷在候、九市、早速、飛込《とびこみ》、左之腕首を切落候【「此時、與之助老母、外記に組付《くみつき》候も、もぎ放し候。」とて、聊《いささか》、時合《じあひ》、延《のび》候よしなり。】外記も亦、追付《おひつき》、首、半分、切《きり》ける。則、「耳の後より、留《とど》めを刺《さし》候。」由に御座候【この時、九市、怒《いかり》の餘り、脇指にて、與之助の面部へ、橫疵を付け候間、疵所、御檢使之節、「敵《かたき》の面《つら》へ疵付、恥敷《はづかしく》存候。」と申、外記、弟九市を、叱り候よしに御座候。】。然處《しかるところ》、手寄《てよせ》の者、入込《いりこみ》、前條の趣に有ㇾ之。扨《さて》、又、敵討候已後、村内の百姓、二十人計《ばかり》、鍬・棒等を持參《もちまゐり》、「狼籍者を打殺せ。」とて入込候を、手寄のもの、推留《おしとどめ》、引取《ひきとら》せ候。「手寄の者、不ㇾ居候《をらずさふら》はゞ、及騷動可ㇾ申處、無故障相靜り、致大慶候。」旨、右三人の者共、厚く歡びを述候由に御座候。

就ㇾ右《みぎにつき》、支配代官中村九兵衞、不取敢出鄕、檢使には徒目付《かちめつけ》、罷越、御城へ引寄《ひきよ》せ候に付、御物頭《おものがしら》二人、罷越候。始末の義は、御用狀には可申參候間、略文仕候。夫々《それぞれ》、御引合《おひきあはせ》、御覽可ㇾ被ㇾ下候。扨々、珍事、是迄、右樣之事、御國許には、先例、無ㇾ之候。當一件、大造成《たいさうなる》御物入《おものいり》にて、凡《およそ》、三十貫目程も掛り可ㇾ申哉《かな》と奉ㇾ存候。御城下ヘ引寄《ひきよせ》候節、田中氏居宅表《おもて》を通り候に付、同所へ打揃《うちそろひ》罷越、透見《すきみ》仕候處、才二郞事《こと》雲龍、儀、大男にて、きつぱり、額の角を拔き、總髮にて罷在候間、別《べつし》て目立申候。外記・九市兩人は、色白にて、中肉、外記は、勢《せい》高く見え候。且、右三人、十二日夜、不宿《ふしゆく》にて、一向、眠り不ㇾ申夜明《よあか》し仕《つかまつり》、依ㇾ之、手寄の者も、夜明し仕候由に御座候。「尤《もつとも》、眷屬に返り討《うち》の用心も可ㇾ之。」と、其節、人々、評判仕候。御城下へ引寄候行列、別紙之通に御座候。

狀中、下ケ札《しもがさつ》

右三人の者、豫州表《おもて》にて、「是より、何方《いづかた》へ可ㇾ行哉《や》。」と、くじ、取《とり》いたゞき候處、「高松表に罷越候樣。」、有ㇾ之。「是は、與之助、故鄕故、我等の心より、高松へ罷越、可ㇾ然存候故、くじ、出候半《いでさふらはん》。」とて、三度迄、取改候得ども、同樣に付、其旨、早朝、咄合《はなしあひ》、先づ、金毘羅を拜し候て立出、途中にて、茶店へ腰を掛け、休み居候處、旅人兩三人、居中《をるうち》、脇指を拔《ぬき》、「此硏《このとぎ》は、羽床下村の與之助と申者、いたし候。殊の外、能《よく》出來候。」よし申候を承り、夫より急ぎ、同村へ罷越候由に御座候。武運の開け、御神《おんかみ》の加護も可ㇾ有ㇾ之と、奉ㇾ存候。

 右、丁亥秋八月十三日朝、借《かり》、抄、畢《をはんぬ》。

[やぶちゃん注:これもまた、臨場感に富んだ記録である。最後の部分は敵討ちに向う際の不思議な「くじ」=「籤」の告げによって、首尾よく与之助のいる所へ向かうことが出来たという神意譚として面白い。

「脇指を、ひねくり廻し罷在候」脇差の修繕をするために分解して、いろいろと直していたのである。そのために、咄嗟に入ってきた討手の外記に向うのに、それを振り上げた結果、ばらばらになってしまったのである。

「聊、時合、延候」その与之助の母の抵抗に対処するために、時間がかかったことを言う。

「不取敢出鄕」「取り敢へず、出鄕(しゆつきやう)」。まずは、とるもの取り敢えず、直ちに当該の村へ出向き。

「徒目付」同職には城内の宿直勤務があったので、その日の当番の人物であろう。

「御物頭」同職は、城下の警備・火災消火を担当していた足軽の組頭である。

「大造成御物入にて、凡、三十貫目程も掛り可ㇾ申哉と奉ㇾ存候」この仇討ち事件の処理に大金が掛かったというのである。銭一貫は一千文で、江戸中後期の金一両は六千五百文であるから、四十六両、江戸後期の一両は現在の四~六万円相当であるから、百八十四~二百七十六万円相当である。

「透見仕候」藩の重臣クラスの一人が、事件当事者らの姿を、長屋門脇の部屋の透き格子から彼らを観察したのである。

「才二郞事雲龍」虚無僧才次郎の僧名。虚無僧は、尺八を吹いて物乞いをする僧。薦僧(こもそう)・ぼろんじ・暮露(ぼろ)・「ぼろぼろ」とも呼んだ。その初めは、単なる「薦を携えて流浪する者」の称であったと思われる。鎌倉時代、中国の禅宗の一派である普化 (ふけ) 宗の流れを汲む日本の天外明普が、虚無宗を開き (鎌倉後期の 鎌倉後期の永仁年間(一二九三年~一二九九年)、京都白川で、門弟を教導し、尺八吹奏による禅を鼓吹したのに始まる。「世は虚仮(こけ)で、実体がない。」と知り、「心を虚しくする」という、その教えから、この名があるとされる。江戸では青梅(おうめ)の鈴法寺(れいほうじ)、下総小金(こがね)の一月寺(いちがつじ)、京都では明暗寺(みょうあんあんじ)に属し、天蓋 (編笠) を被り、袈裟を着け、尺八を吹いて、托鉢して回った。仇討ちの浪人や、密偵などが、世を忍んで、虚無僧となった者も多いとされる。百姓や町人は、なれないなどの規則もあったが,後には、門付け芸人ともなった。江戸中期頃から。尺八を得意とする者で、派手な姿で、「伊達 (だて) 虚無僧」となった者もある(概ね、「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「額の角を拔き」彼は虚無僧というが、これは例の虚無僧笠ではない。額とあるからには、修験道の山伏が被る黒白の布で作った兜巾(ときん)としか思われない。或いは、これも仇討ち助っ人の彼の変装の一つであったか。]

   讃州復讐錄追書

此度、阿野郡南羽床村にて、敵討有ㇾ之候に付、村方庄屋より注進狀の寫し上申候。

         阿野郡南羽床村出生

          百姓與太郞忰

           出奔人無宿

              與 之 助

[やぶちゃん注:以下、箇条書の前までは、底本では全体が一字下げ。]

右者、江洲膳所本多下總守樣御内、平井外記・同九市兄、市郞二と申者を、去《いんぬる》文政六未年、致殺害、同所を立退候由にて、是迄、處々、心懸け申候處、今日、七半《ななつはん》時分、當村方《かた》、川下中★、百姓半九郞、枝村の内にて出合《であひ》、敵討取候段、黑根才次郞と申者、右市郞二、親友の事故、見屆心添場所《みとどけこころぞへばしよ》爲立合《たちあひなし》罷出候由にて、同人儀、私方《わたくしかた》へ屆參候。尤《もつとも》、右外記・九市者《は》、與之助死體、見守爲ㇾ仕《つかまつりなし》候段、申出候に付、私儀、組頭、召連、罷越、見分仕り候處、疵、左之通。

[やぶちゃん注:「★」部分は、崩し字画像で挿入されてあり、横にママ注記がある。底本の国立国会図書館デジタルコレクション当該箇所から最大でダウン・ロードしてトリミング補正すると、以下である。

Husyouji

吉川弘文館随筆大成版では、『免』と活字化してママ注記がある。確かに、この崩しは「免」である。吉川版がママとするのだが、私が思うには、これは江戸時代の年貢の賦課率に由来する地名で、「川下中免」(読みは不詳。「かはしたちゆうめん」と取り敢えず読んでおく)ではないかと考える。但し、戦前の地図も確認したが、見当たらなかった。大方の御叱正を俟つ。

一、左之腕、切落し御座候。

一、左之肩、切疵、一ケ所。

一、首、半分、切り下げ。

一、左之目之下、切疵、一ケ所。

一、左之眼、疵、一ケ所。

一、左之耳、後、突疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:以下、次の「一、去る十六日」の前まで、底本では一字下げ。]

右之通、裸身《らしん》にて打捨御座候に付、早速、番人、付設《つめまうけ》御座候。外記・九市。才次郞儀は、下宿、申付、番人等、付置御座候。

 閏六月十二日

            羽床村庄屋

               傳 右 衞 門

右庄屋え、屆參候、黑根才次郞と申者は、岩國加藤佐渡守樣御内、浪人者の由に御座候。右、才次郞儀、助太刀仕候者にて御座候。尤、右三人共、邊路《へんろ》に相成《あひな》り、廻國六部、又は、非人同樣にて、刀等《かたななど》は、こも包《づつみ》に致し、或は、金剛杖《こんがうづゑ》に仕込、罷在候由。

右に付、羽床村より引繼申《ひきつぎまをし》、物頭《ものがしら》中、二頭《にがしら》御組三十、猩々緋袋入《しやうじやうひのふくろいり》鐵炮等、爲ㇾ持《もちなしたり》。十五日朝七時《あさななつどき》致出立《しゆつたつ》候。右、何れも、引纏罷歸《ひきまとひまかりかへ》り、西新通町《にししんとほりまち》、津輕屋孫兵衞方に引取候。右に付、御家中は不ㇾ及ㇾ申、鄕村共、見物に罷出申義、不相成段、御觸《おんふれ》御座候。

[やぶちゃん注:「岩國加藤佐渡守」不詳。識者の御教授を乞う。

「邊路」四国遍路に変装したのである。

「引纏」捕縛の縄を絡みつけた状態で。

「朝七時」定時法で午前四時頃。

「西新通町」香川県高松市通町(とおりまち)はここで高松城の南東近くだか、試みに「今昔マップ」で戦前の地図を見たところ、高松城の南西直下に「西新通町」を発見出来た。]

一、去る十六日、無ㇾ障、引纏、津輕屋迄、罷歸申候。誠に々々、珍敷《めづらしき》事にて、御林前より、丸龜町《まるがめまち》・古新町《ふるじんまち》・西新通町迄の群集は、言葉にも、筆紙にも、難ㇾ述次第に御座候。津輕屋にても、晝夜共、御醫者幷に物頭中《ちゆう》御組、召連、時不明《ときふめいに》、御番にん、御座候。右に付、三人の衆中《しゆううち》へ、御上樣《おかみさま》より、仕着《しきせ》等被ㇾ下、帷子《かたびら》黑紗綾《くろしやあや》・帶・じゆばん・下帶・羽織等迄被ㇾ下、膳所へ御差遣《おんさしつかは》し、御引渡に相成候由に御座候。皆々、大男にて、大力の人物の由、御座候。道行《みちゆき》、五、六町も續《つづき》、村役人初《はじめ》、大庄屋・小庄屋・郡代組《ぐんだいぐみ》・鄕方手代《がうがたてだい》・代官・物頭、雨具籠《あまぐかご》三荷《さんか》、物頭は、騎馬箱、傘、鎗持《やりもち》、先づ、是等が、先立《さきだち》候分《ぶん》、是より、御用の衆、駕籠に乘り、兩脇ヘ、一人に御足輕《おんあしがる》六人宛《づつ》立圍《たちかこ》ひ、其次へ、物頭、中郡奉行、右、何れも騎馬、大同勢に御座候。先《まづ》は、荒々、右之段申上候。

    閏六月十九日

         助太刀

         吉川監物馬廻り相勤四十石取

             黑 根 才 次 郞

[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では、全体が一字下げ。]

右の樣子、有ㇾ之候て、岩國を立退、宗役《しゆうやく》憲順《けんじゆん》の弟子に成り、「雲龍」と申候。

町方與力、物書同心、津輕屋へ相詰《あひつめ》、見聞被仰付候。右、津輕屋内《うち》は、此方《このはう》、引請《ひきうけ》、相勤《あいひつとめ》申候。

平井市郞次、知行六十石、馬廻り番組、相勤候人、右、召連候名前、左之通り。

            木内與惣右衞門

            中 村 茂 太 夫

            小 頭 二 人

            中 間 五十人

[やぶちゃん注:「丸龜町」ここ

「古新町」ここ

「御上樣」当時の讃岐高松藩主は松平頼恕 (よりひろ)。

「五、六町」約五百四十六~六百五十五メートル弱。

「鄕方手代」郡代・代官などの下役として村郷の農政を直接担当した実務役の地方(じかた)役人の一つ。

「騎馬箱、傘、鎗持」「騎馬箱」と「傘」の「持」を省略したもの。

「中郡奉行」この「中」が判らない。「郡奉行」は「こほりぶぎやう」で郡村の行政を統轄する郡代・代官を指すが、江戸時代の藩ではそれらの代わりに「郡奉行」を置いたところが多かった。「中」が宙ぶらりん。識者の御教授を乞う。]

2022/10/22

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 假男子宇吉 / 「兎園小説余禄」~完遂

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 本篇を以って「兎園小説余禄」は終わっている。]

 

   ○假男子宇吉

吾友、松坂なる篠齋《じやうさい》の來書に云《いはく》【壬辰冬十二月の郵書なり。】、「京都祗園町《ぎをんまち》に宇吉《うきち》といふものあり。こは、女《をんな》也。元は曲妓なりしよし。いつの程にか、男姿《をとこすがた》になりて、あり。最《もつとも》、元服、「天窓《てんさう》」也。衣服より、立振舞《たちふるまひ》まで、すべて、男にかはること、なし。但し、是は惡事《あくじ》あるものには、あらず。曲妓の時より、皆人《みなひと》、知居《しりをり》候へども、「男の女」にて、人々、濟《すま》し居《をり》候樣子也。怪しく、をかしき事は、やゝもすれば、其邊《そのあたりの》娼妓抔と情を通じ、いはゆる、間夫《まぶ》に成《なり》候事、一人、二人、ならず。當時は、ある曲妓の勤《つとめ》を引《ひき》たる美婦と、右宇吉、夫婦の樣子、一つ家《いへ》に住居《すみをり》候由に御座候。猶、くはしく申《まを》さまほしく候へども、頗《すこぶる》、筆頭に載《のせ》がたき所も有れ之候故、それらの事は省き候。右兩婦、衾中《きんちゆう》の私語《ささめごと》など、密《ひそか》に聞《きき》候へば、眞《まこと》に男女《なんによ》の樣に候よし、をかしく、いぶかしき事に御座候。右、宇宙の廣き、樣々の奇物もあるものに御座候。右、宇吉を、琴魚《きんぎよ》などは、よく存居《ぞんじをり》候事に御座候。但し、曲中などには、「妹分」などとて、男女の間より、親しき筋抔も有ㇾ之ならひに候へば、宇吉は、その長じたるものともいふべし。嚮《さき》に仰越《おほせこ》され候、かの吉五郞は、今一段、奇怪の婦と存候」云々。

この書によりておもふに、件《くだん》の宇吉は「半月(ふたなり)」なるべし。「半月」は、上半月《うへふたなり》男體《をとこのからだ》にて、下半月女體《をんなのからだ》なるも、あり。又、陰門と男根と相具《あひぐ》するものも、あり。「その男根は、陰門に隱れてあり、事を行ふとき、發起《ほつき》しぬる事、禽獸の陽物の如し。」といふ說あり。吾《わが》舊宅近邊の商人《あきんど》の獨子《ひとりご》に「半月(ふたなり)」ありけり。そが幼少の折《をり》、母親の將《ひき》て、錢湯に浴するを、則《すなは》ち、荆婦《けいふ》などは、「折々、見き。」といふ。「陰門の中に、男根あり。廷孔(ていこう)のほとりに、龜頭、少許《すこしばかり》、垂れたり。「なすび」といふものゝ如し。母親は、人に見られん事を、傍《かたは》ら痛く思ひて、「下《しも》に居《い》よ、下に居よ。」といへども、小兒の事なれば、恥もせで、立《たち》てありし。」と也。七、八歲までは、女子《をなご》のごとくにしてありけるが、十歲以上になりてより、名をも、男名に改めて、男裝に更《かへ》たり。近ごろ、その父は歿して、親の活業《なりはひ》を嗣《つぎ》てあり。小男《こをとこ》にして、溫柔なり。『「半月(ふたなり)」は、嗣《つぎ》、なし。』といふ。寔《まこと》に、しかなり。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

按、「齋東野語」【卷第十六。】云、大般若經載五種黃門云。凡言扇𣝸半釋迦。唐音黃門。其類有ㇾ五。一曰半釋迦。總名也。有男根用。而不ㇾ生ㇾ子。二曰伊利沙半釋迦。此云ㇾ妱謂他行欲。卽發不ㇾ見。卽無ㇾ具男根。而不ㇾ生ㇾ子。三曰扇𣝸半釋迦。謂本來男根不滿。亦不ㇾ能ㇾ生ㇾ子。四曰博叉半釋迦。謂半月能男。半月不ㇾ能ㇾ男。五曰留拿半釋迦。此云ㇾ割。謂被ㇾ割刑。此五種黃門名。爲ㇾ人中惡趣受ㇾ身處。然周禮奄人。鄭氏註云。閹眞氣藏者。謂之宦人。是皆眞氣不足之所ㇾ致耳【摘要。】。この餘、「黃門《くわうもん》」の事は、「五雜俎」などにも見えたり。文、多ければ、亦、贅《ぜい》せず。

 

 

兎園小說餘錄第二

[やぶちゃん注:「篠齋」既出既注の殿村篠齋(とのむらじやうさい)。再掲しておくと、国学者殿村安守(やすもり 安永八(一七七九)年~弘化四(一八四七)年)の号。本姓は大神。伊勢松坂の商人殿村家の分家の嫡男。本家を継いで、殿村整方の養子となった。寛政六(一七九四)年に養父に倣って本居宣長に入門し、寵愛を受けた。宣長没後は本居春庭に師事し、盲目の春庭を物心両面から援助した。馬琴とは特に親しく、「南総里見八犬伝」や「朝夷巡島記」を批評し、これに馬琴が答えた「犬夷評判記」があるが、実際には、その殆んどは馬琴の手になったものではないかともされる(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「壬辰」(みづのえたつ)「冬十二月」は天保三年十二月。グレゴリオ暦では十二月一日でも既に一八三三年一月二十一日。

「曲妓」「くるわのあそびめ」で普通の「廓の芸妓」の意か。或いは「曲」は「くせ」で「悪い」の意で、下級の性質(たち)のよくない芸妓のことかとも思ったが、篠斉の書きぶりからは、そうした卑称とは思われない。

「最」ちゃんと。

『元服、「天窓」』元服して「天窓」と名乗っている。

「男の女」両性の生殖器を持って生まれた真正半陰陽か、男性仮性半陰陽(精巣組織を持つが内性器又は外性器が女性型であるもの)か、以上の記載では、よく判らない。

「間夫」ここでは「遊女の情夫」。

「琴魚」戯作者で、書簡の筆者殿村安守の弟にして馬琴の弟子の櫟亭琴魚(れきていきんぎょ 天明八(一七八八)年~天保二(一八三一)年)。伊勢松坂生まれ。名は精吉。文化五(一八〇八)年に馬琴の門に入った。兄と師が共同執筆した「犬夷評判記」(馬琴の「南総里見八犬伝」と「朝夷巡島記」の批評と馬琴自身のそれへの回答の形式をとる評論物)を校訂。浮世絵師合川珉和(あいかわみんわ)とも親交があった。作品に「刀筆青砥石文」などがある。

「吉五郞」本「兎園小説余禄」で先行する「僞男子」に登場する、男装の真正の女「吉五郞」のこと。

「半月(ふたなり)」真正半陰陽・男性仮性半陰陽・女性仮性半陰陽(卵巣組織をもつが陰核肥大などの男性化性器を有するもの)を総て含むもの。

「上半月《うへふたなり》男體《をとこのからだ》にて、下半月女體《をんなのからだ》なるも、あり」見た目は男性であるが、生殖器が女性のものである男性仮性半陰陽であろう。

「陰門と男根と相具するもの」真正半陰陽のアンドロギュヌス(Androgynous)。

「發起」勃起に同じ。

「禽獸の陽物の如し」馬などで見られるように、大きく伸び上ってエレクトすることを言っている。

「荆婦」自分の妻を言う際の遜卑称。

「廷孔」膣。

「下に居よ」「しゃがんで座っていなさい。」。

「『「半月(ふたなり)」は、嗣《つぎ》、なし。』といふ。寔《まこと》に、しかなり」その後、この商人の家の男子は成人して妻を貰ったが、結局、子は出来なかったということを指す。「齋東野語」)さいとうやご)は宋末元初の文人・詩人周密(一二三二年~一二九八年)の随筆。「中國哲學書電子化計劃」の影印本こちらの当該部で校合したところ、「𣝸の字が底本も(へん)が「木」が「扌」になっていたので訂した。「閹」も「奄」とあるのを訂した。内容が内容だけに、かなり訓読が難しいが、頭から自然流で試みる。最初に言っておくと、以下に見る通り、仏典にちゃんと載るもので、「黃門」(くわうもん(こうもん))は、ここでは先の広範囲な半陰陽を指すが、本邦の隠語では、「受胎させることが出来ない性的な不具合(勃起不全や無精子症等の生殖不能症)を持っている男を指したり、「有婦の男子で、子のない人のこと」を「子(こ)を産(う)まん」を「黄門」に捩った謂いとされる。

   *

按ずるに、「齋東野語」【卷第十六。】に云はく、

『「大般若經」に五種の黃門(くわうもん)を載(の)せて云はく、『凡そ、「扇𣝸半釋迦(せんてつはんしやか)」と言ふ。唐音は「黃門」なり。其の類、五つ、有り。一(ひと)つを「半釋迦」と曰ふ。總名(さうめい)なり。男根を用ふること有るも、而れども、子を生ぜず。二(に)を「伊利沙半釋迦(いりさはんしやか)」と曰ふ。此れ、「妱」(しやう)とも云ふ。他行(たぎやう)を欲するを謂ひ、卽ち、發(はつ)することを見ず。卽ち、男根を具ふること、無し。而しれば、子を生ぜず。三(さん)を「扇𣝸半釋迦(せんきはんしやか)」と曰ふ。本來の男根の不滿なるを謂ふ。亦、子を生ぜず。四(し)を「博叉半釋迦(はくさはんしやか)」と曰ふ。半月(ふたなり)の能(のう)のある男(をとこ)を謂ふ。半月は、男たる能(あた)はず。五(いつ)に「留拿半釋迦」(るだはんしやか)と曰ふ。此れ、割れたるを云ふ。割刑(かつけい)にされたる者を謂ふ。此の五種、黃門の名たり。人として、惡趣に中(あた)れる身を受けたる處(ところ)なり。』

と。

 然(しか)れども、「周禮」(しうらい)の「奄人」(えんじん)の、鄭(てい)氏が註に云はく、

『眞(まこと)の氣藏を閹(あん)ずる者は、之れを「宦人」(かんじん)と謂ふ。是れ、皆、眞の氣、不足に致(いた)るのみ。』と。【摘要なり。】。

   *

判ったような判らぬ話だが、一寸だけ言っておくと、「他行(たぎやう)を欲するを謂ひ、卽ち、發(はつ)することを見ず」は、同衾するものの、コイツスを好まず、別なことを要求し、少しも興奮せず、実は男根を所有していない様態(男性仮性半陰陽)を言っているようだ。「本來の男根の不滿なるを謂ふ」は勃起不全であろう。「半月(ふたなり)の能(のう)のある男(をとこ)を謂ふ」真正半陰陽。「此れ、割れたるを云ふ。割刑(かつけい)にされたる者を謂ふ。此の五種、黃門の名たり。人として、惡趣に中(あた)れる身を受けたる處(ところ)なり」という最後まで読むと、これは所謂、宮刑(きゅうけい)、宦官(かんがん)のように男性生殖器を切断する刑を受けた者を指しているようには読める。「奄人」は宦官と同義。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。検索で三箇所ほど見つけたが、馬琴も引用していないのだから、私がやる必要はない。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 稻葉小僧

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○稻葉小僧

天明のはじめの頃、あだ名を「稻葉小僧」といふ盜賊ありけり。親は稻葉殿の家臣なりしが、その身、幼少より盜癖ありければ、竟《つひ》に親に勘當せられて、夜盜になりぬ。よりて、惡黨仲ケ間にて、「稻葉小僧」と呼ぶといふ巷說あり。虛實は知らず。かくて此もの、谷中《やなか》のほとりにて、町方定廻《まちかたぢやうまは》り同心に搦捕《からめと》られ、向寄《むかひより》の自身番へ預けられしかば、町役人等《ら》、索《なは》かけられしまゝ具して、町奉行所へ赴く程に、「不忍の池」ほとりにて、「内《うち》、逼《せま》りぬ、出恭《だいべん》せまほし。」といふより、そのほとりなる茶店の雪隱《せつちん》に入れたるに、厠《かはや》にありし程、竊《ひそか》に綁縛《ほうばく》の索を解《とき》はづして、走りて、池中に飛入《とびい》りつゝ、水底《みなそこ》をや潛りけん、ゆくへも知れずなりし、とぞ。「折から、薄暮の事なりければ、さわぐのみにて求獵《あさり》かねし。」といふ風聞、人口に膾炙しけり。この頃、葺屋町《ふちやちやう》の歌舞伎座にて、この事を狂言にとり組《くみ》て、殊さらに、繁昌したりき。世界は「お染久松」の世話狂言にて、市川門之助は、お染が兄の惡黨何がしと、お染と、二役の早がはり、大當り也【久松は市川高麗藏《こまざう》、是、今の松本幸四郞なり。久松の親、野崎の久作は、大谷廣次にて、淨瑠璃あり。】。お染が兄、縛られて率《ひか》るゝ折、索を脫《ぬけ》て池中へ飛入《とびいる》ると、やがて、お染になりて、花道の切幕《きりまく》より出《いづ》る「はやがはり」、惡黨と、美女子と、しわけたる新車《しんしや》【門之助が俳名。】を、人みな、うれしがりし也。この狂言は、五日も觀たり。今の世ならば、かゝる狂言は、必ず、禁ぜらるべきに、この比《ころ》までは、さる沙汰もなかりき。扨《さて》、彼《かの》稻葉小僧は、逃《にげ》て上毛《じやうまう》のかたへ赴きしに、痢病を患ひて、病死したりとぞ。程經て、同類の盜人の搦捕られし折、白狀、この事に及びしよし、當時、風聞ありけり。抑《そもそも》、件《くだん》の稻葉小僧は、前に錄したる「鼠小僧」と相似《あひに》たる夜盜にて、しばしば、大名がたの屋敷ヘしのび入りて、金銀・衣類・器物をぬすみとりしとぞ。かゝる窃盜の病死せしは、恨み也。その惡名の、當時、噪《かまびす》しかりしは、この兩小僧に、ますもの、なし。但《ただし》、稻葉小僧は、「逃《にげ》たり」といふより、その名、世に聞え、鼠小僧は搦捕られてより、その名、俄《にはか》に聞えけり。無益のことながら、錄して、もて、いましめとなすのみ。

[やぶちゃん注:「稻葉小僧」は当該ウィキによれば、『因幡小僧と記載されることもある』とし、天明五(一七八五)年に『捕らえられた当時』は二十一『歳であったという。名は新助といった』。『しかし、彼の出生や最期、名前の由来については、山城国淀藩』十万二千『石の城主稲葉丹後守正諶』(まさのぶ)『の家臣の子だったため』、『「稲葉小僧」と呼ばれたという説や、因幡国で生まれたために「因幡 → 稲葉」の名で呼ばれたという説など、諸説あり、またその多くが』、「田舎小僧」の『逸話と混同されていて、定かではない』。『稲葉小僧新助の口書の写し(筆者不明)には、稲葉小僧は稲葉丹後守の侍医の子で、幼少より甚だたくましく、熊坂長範の如き「兵(つはもの)とも相成るべき力量のもの」と記されている』という(以下、本篇を現代語で紹介しているが、略す)。『杉田玄白の』「後見草」(のちみぐさ:警世書。天明七(一七八七)年成立)では、『稲葉小僧の活躍が評判になったのは天明』五『年の春から秋にかけてで、人家の軒に飛上り』、『飛下る様は』、『天をかける鳥よりも軽く、塀を伝い』、『屋根を走ること、地を走る獣よりも』、『はやいと噂されたとある。どのような堅固な屋敷であっても』、『入り得ぬことなしとされ、御三卿の本殿を筆頭に薩摩藩、熊本藩、広島藩、小倉藩、津藩、郡山藩の他、時の老中である浜田藩松平康福や相良藩田沼意次の屋敷の御寝所、御座の間近くに』、『いつの間にやら忍び入り、太刀、刀、衣服、調度、それに』、一千金・二千金もする『宝を数多く盗みとったとされる。それを聞いた人々は』、『稲葉小僧は人間にあらず、妖術使いの悪党である』、『と噂した。稲葉小僧が捕まったのは』、天明五年九月十六日の『夜』、『一橋家の屋敷に忍び込んだ時のことであった。名も無い小者に捕えられ、奉行所に引き渡された稲葉小僧は、自分は武蔵国入間郡の生れの新助という男で年齢は』三十四『歳、片田舎の生れのため』、『田舎小僧と名乗っていたのが、聞き違いから』、『稲葉小僧と呼ばれるようになったと供述』し、『ほどなく判決が下り、稲葉小僧新助は獄門となった』とする。『玄白は、いかに平和の世とはいえ、たとえ戸締まりはしていなくとも、その御威勢に恐れ入って武家屋敷に忍び入ろうなどとは考える道理も無いはずが、それを容易に侵入する新助は「是ぞ誠に人妖」と評している。しかし、取調に対する供述で』、『稲葉小僧は、大名家というものは居間も寝所も戸締まりはせず、番士が警護しているといっても』、『他人の持ち場には関ろうとはせず、自分の管轄のみ守ろうとするのが「武家一同の風儀なり」として、忍び込むのは至って容易いことであったと語っている』。『また、盗むのは』、『金銀の諸道具や腰物(刀剣類)のみで、衣類には決して手を出さなかったのは、「顕れ安き故」つまり衣類は売却しても』、『足がつきやすい』から、『とも言っていたという』。『とある大名屋敷の寝所に忍び入り、そこにあった太刀を盗んだはいいが、余りの逸品であ』ったために、『上手く売却できず、仕方なく』、『穴を掘って地中に埋めたと自白したので、埋めたという場所から件の太刀を掘り出すのを、本多利明は目撃したという』とある。以下、「田舎小僧のエピソードとの混同」の項。『田舎小僧と稲葉小僧』は、『語呂が似ており』、『名も「新助」で、盗賊として活動していた時期が近く、両者とも大名屋敷に盗みに入ったことなどから』、二『人の逸話を混同して書いた記録は多い。曲亭馬琴は不忍池に飛び込んで逃れた新助を稲葉小僧とし、松浦静山は天明』五『年に獄門になった新助が稲葉小僧で、杉田玄白は田舎小僧が稲葉小僧と聞き間違えられたと記している』。『三田村鳶魚も、田舎小僧と稲葉小僧は』、一『人の泥棒に仕上げられたとしている。稲葉小僧は不忍池を泳いで逃げ』、『潜伏先で死んだのだから、本名も凶状も分からない。稲葉小僧は刀・脇差ばかり盗み、逆に田舎小僧は刀剣には手をつけなかったのに』、『申渡しには「金子並』(ならびに)『腰のもの、亦は小道具、反物、提げもの、衣類」を窃取したとあるのは』、『稲葉小僧の分まで罪を着せられたもので、これは稲葉家としても家中の人間から盗賊を出したとあっては外聞を憚るので、事実を塗抹すべく運動したのだろうと鳶魚は考えている』。『それに』、『田舎小僧より』、『稲葉小僧の方が聞えもよく、稲葉小僧の罪も背負わせた方が泥棒らしくなるので、よく芝居や講釈の材料になったとも鳶魚は語っている』とある。以下、馬琴も述べている「稲葉小僧を扱った創作物」の項があるが、私は歌舞伎が大嫌いなので、以下の注はそちらに任せ、一切注さない。悪しからず。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その8) / 「己丑七赤小識」~了

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの右ページ上段の後ろから三行目から。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。今回は、残りを総て一緒に電子化注した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

一、三月廿一日の大火に奇なる事あり。

 本町三丁目【一丁目の方より左り側中ほど。】の賣藥の建看板《たてかんばん》、火中に燬《やかるる》を免れて、聳然《しやうぜん》たり。こは、余も目擊したるに、看板の覆戶《おほひど》はさら也、柱に至るまで、毫も焦《こげ》たる處、なし。この邊《あたり》は、みな、藏造りにて、向ひも、三、四軒、店庫《たなぐら》なればなるべし。さるにても、火粉《ひのこ》は飛散りたらんに、かくの如きは、いと奇也。

[やぶちゃん注:「本町三丁目」現在の新日本橋駅前郵便局前の国道十四号一帯。

「看板の覆戶」ネットで調べても見当たらないが、その高く建てた店看板をさらに覆う格子戸或いは金属の網目戸が付随していたものか。]

 又、和泉橋のあなた南の土手際に、さゝやかなる柿葺屋《こけらぶきや》あり。そのほとりなる茶店は、なごりなく燒《やき》うせて、寸草[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版にはママ注記がある。「寸毫」の誤字か。]も殘さゞりしに、此小家のみ、燬を免れたり。こゝは、火元より、第一の火さきにて、風のいと烈しかりければ、火は向ひへ走る勢ひにて、彼《か》家に及ざりしにやあらん。かゝることは、折々なきにあらねば、奇とするに足らねども、本町なる建看板は、見る人每に駭嘆《がいたん》せざるは、なかりき。

[やぶちゃん注:「和泉橋」現在の東京都千代田区を流れる神田川に架かる、「昭和通り」(国道四号)上の橋。左岸(北側)は神田佐久間町一丁目及び神田佐久間河岸(本大火の出火元)、右岸は神田岩本町および岩本町三丁目となる。ここ

 以下、一行空けた。]

 

一、築地なる御救小屋《おすくひごや》は、後に愛宕下《あたごした》へ移されけり。

 是は夜中に、燒亡の幽靈、あらはれて、怪しき事ありて、其處にをるもの、すくなくなりしによりてなり。

 四月中旬、築地の海にて、「河施餓鬼(かはせがき)」ありけり。

 しかるに、件《くだん》の幽靈は、贋物にて、人を驚かして、物を奪ひとらんと欲せし盜賊の所爲なりき。その事、露顯して、盜人は搦捕られたるよし、當時、風聞あり。

 虛實、詳《つまびらか》ならざれども、御救小屋を他所へ移されし事などを思ひ合《あは》するに、虛談には、あらざるべし。

 彼本町なる賣藥の看板の事と、この幽靈の事は、「薪の煙《けぶり》」に漏らされたれば、『後の話柄の爲にも』と思ふばかりに、しるすのみ。

[やぶちゃん注:「御救小屋」(その4)で既出既注だが、幽霊の話が出るので再掲しておく。この「文政の大火」の際、幕府が緊急に設けた避難民の避難所。「国立公文書館」公式サイト内の「天下大変 資料に見る江戸時代の災害」の「32. 文政回禄記」を見られたい。直後に発生した怪談話も載っている。

「愛宕下」現在の港区新橋から西新橋へかけての地域で、愛宕山の東側、東海道と挟まれた低地一帯の名称。大名屋敷が多かった。

「河施餓鬼」主に水死人の霊を弔うために川岸や舟の上で行う施餓鬼供養。私の「小泉八雲 海のほとりにて  (大谷正信訳)」も参考になろう。

「薪の煙」既出既注。「薪」は「たきぎ」か「まき」かは、不明。

 以下一行空けた。追記記事で、底本では全体が一字下げとなっている。]

 

 每年、相摸《さがみ》より、江戶の武家、及《および》、市店《いちみせ》へ、下女奉公に出るもの、八、九百人あり。麹町《かうぢまち》には、「さがみや」と唱へて、それらが手引をなし、且、請人《うけにん》にもなりて、世渡りにするもの、二軒あり。

 しかるに、こたびの火災に、右の下女等《ら》、多く燒死したるをもて、怕《おそ》れて、相摸より出《いづ》る下女、稀になりたり。

 但《ただし》、相摸のみならず、江戶近郊よりも、農戶《のうこ》の娘を、江戶へ召仕《めしつかひ》に出《いだ》すことを、欲せず。

 この故に、己丑の春より、今に至るまで、下女奉公人、まれなり。たまたま、ありても、過分の給金をのぞみ、よろづ己がまゝにして、主《あるじ》を主とも思はず、吾《われ》ごとき、わづかに下女一人を使ふものすら、年中、事をかくまでになりたり。羹《あつもの》に懲《こ》りて韲《なます》を吹く人情、かゝる事、世に多かり。

[やぶちゃん注:江戸の大火での大量死が風聞として伝わり、こうした結果になったと言った感じが表向きはするが、実際には、馬琴の不満は、そうした江戸の辺縁から来る下女の質の悪さの方を、実は、言い添えたかった感が強いな。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その7)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの左ページ上段の十四行目から。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

○燒死の尸骸《しがい》の多かりしは、木挽町の橋のほとり、三十間堀の川筋、八町堀桑名候の長屋の下の溝などには、幾人たりともなく、ありけり。

[やぶちゃん注:「木挽町の橋」木挽町は既出既注当該「江戸切絵図」で、北から「紀伊國橋」、「新橋」、「木挽橋」。

「三十間堀の川筋」木挽町の川を隔てた西側。上記「江戸切絵図」参照。

「八町堀桑名候」既出既注。]

 劣甥《れつせい》[やぶちゃん注:「甥」の遜卑称。]田口某、次の日、主君の使者に出《いで》て、そこらを目擊しけるに、

「燒《やけ》ふすぼりたる尸骸は、頭毛・衣裳、燒うせ、黑くふすぼり、いと、ちいさくなりて、男女を分別しがたし。『犬か』と思ひて、よく見れば、みな、是、人の尸骸也。」

と、いひけり。

[やぶちゃん注:「劣甥」「甥」(おい)の謙遜卑称。]

 この他、本町《ほんちやう》すぢ・日本橋・小田原河岸《がし》などにも、燒亡のもの、多くあり。吾家へ日每に來ぬる魚《うを》あき人《びと》の、四、五日の間は、

「けふも、小田原河岸にて、『灰を搔く』とて、死人をほり出し候ひき。」

などいふことの、しばしば、耳に入りたりき。

[やぶちゃん注:「本町」江戸本町。現在の中央区日本橋本町二・三丁目、日本橋室町二・三丁目、日本橋本石町二・三丁目。この中央附近

「本橋」ここ

「小田原河岸」中央区築地六丁目。隅田川右岸。本願寺南東に接する。

「吾家」ここで言っておくと、後で馬琴自身が言っているが、馬琴はこの時、神田明神下石坂下同朋町(現在の千代田区外神田三丁目の秋葉原の芳林公園付近)に家を建てて興継らと住んでいた。]

 或は、稚《をさな》きものを脊負《せおひ》ひて、七、八才なる子の手を挽きながら、倒れ死したる婦人あり。

 或は、

「妻と、子どもの、ゆくへ、知れず。」

とて、尋ねあるくものありと、聞えしも、日每のやうなりき。

 そが中に、吾居宅のほとり近き、あき人【伊勢屋。】がり、脫《のが》れ來ぬるものも、妻と子どものゆくへ、知れざりしに、二、三日を歷て、

「紀州の御藏屋敷の、灰の中より、ほり出《いだ》せし。」

と聞えけり。こは、木挽町に、をりしものにぞ有ける。

 かくて、やよひ廿六日は、吾先考《わがせんかう》の祥月忌《しやうつきき》なれば、菩提所へ詣《まうで》たるかへるさに、鳶坂《とびざか》なる茶店に憩ひしに、茶店の老婆が問ずがたりに、

「こたび大火の折、ゆくへしれずなりしものも、多かるべし。きのふ、こゝにいこひ給ひし木挽町なるあき人の、

『妻と子どもを尋ねて、きのふ迄、四、五日、尋《たづね》あるき候へども、些《いささか》の便りを、得ず。けふは、淺草わたりより、山の手を尋ん。』

とて出《いで》たる也。家を亡《うしな》ひ、本錢《もとぜに》をうしなひ、妻と子どもさへ喪ひては、何を、よすがに、世渡りをせん。せめて、かれらが亡骸也とも、見まほし。」

といはれし。」

と、いひにき。

[やぶちゃん注:「吾先考の祥月忌」私の父の祥月命日。馬琴(本名瀧澤解(とく))は旗本松平信成の用人瀧澤運兵衛興義(おきよし:当時四十三歳)・門(三十歳)夫妻の五男として明和四年六月九日(一七六七年七月四日に生まれた。父興義は、安永四(一七七五)年三月二十六日、馬琴九歳の時に亡くなっている。]

 おもふに、これらも彼《かの》御藏屋敷へ、火をのがれんとて、其處《そこ》にて燒死したるにはあらぬか、是も亦、知るべからず。

 近來は江戶の良賤、みな、火災に熟《な》れて、進退、遲鈍ならざるべきに、こたびは、多く、うろたへて、死するものゝ千百に及びしは、家財に殉ずると油斷して、火に包まれし故也。日ごろより、士人たるもの、火災の折の進退に用心して、其期《そのご》に及びて慾に惑《まど》はずば、かくまでには、あるべからず。

[やぶちゃん注:「家財に殉ずる……」「家財を第一に守らんとする結果、どこかで命を守るという大切な基本に油断が及び、おめおめと火にまかれて、亡くなったのである。」の意か。]

 吾身は江戶に生れて、ひとたびも、類燒しつること、なければ、幸にして、この苦を知らず。明和九年の大火の折は、年甫《ねんぽ》六歲にて、親はらからと共に深川にありければ、彼《かの》燬《くゐ》を免れたり。又、文化丙寅《ひのえとら》の大火の折は、飯田町に在りければ、亦、免れたり。かくてこたびの大火には、神田明神下に在るをもて、さわぐ程の事も、なかりき。生涯かくあらんには、只、是、人間の一大幸《いちたいこう》といはまくのみ。

[やぶちゃん注:「明和九年の大火」「明暦の大火」(明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)まで江戸の大半を焼いた大火災。詳しくは当該ウィキを参照されたい)に次ぐ「江戸三大火」の一つ「明和の大火」「目黒行人坂(ぎょうにんざか)の大火」。安永元(一七七二)年二月二十九日昼過ぎ、目黒行人坂大円寺より出火、西南の強風に煽られ、麻布・芝・郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草等に延焼、千住まで達し、翌晦日の夕刻、漸く鎮火した。また二十九日夕刻には、本郷丸山町より出火、駒込・谷中・根岸を焼いた火災もあった。延焼地域は長さ六里(約二十四キロメートル)・幅一里で、江戸の約三分の一に及び、延焼距離は江戸時代から今日までの最長とされる大火であった。

「年甫」正月。ここは「数え年」の意。

「燬《くゐ》」現代仮名遣の音で「キ」。「焼かるる」の意。

「文化丙寅の大火」文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)に江戸芝の車町(くるまちょう:現在の港区)から出火し、大名小路の一部、京橋・日本橋のほぼ全域、神田・浅草の大半を類焼した「江戸三大大火」の一つ。「車町火事」・「牛町(うしちょう)火事」(車町の別称)とも呼ぶ。死者は一千人を超え、増上寺・芝神明社・東本願寺なども被害を受けた。幕府は罹災者を御救小屋(おすくいごや)に退避させ、救済金を与え、火災後の諸色物価・高値(こうじき)取り締りなどの対策も講じている。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その6)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの右ページ下段の十一行目から。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

一、築地なる紀州の御藏屋敷に、逃籠《にげこも》りて、燒死したる男女《なんによ》、數、百十數人ありし事は、世の人のしる所也。

 そが中に、境の塀を乘越《のりこえ》つゝ、他所《よそ》へ脫《のが》れ出《いで》て、恙なかしりもの、一人、あり【名を忘れたり。】。そは吾媳《わがよめ》の親と相識《あひし》るものなりき。

 凡《およそ》、木挽町・築地わたりにすまひしものゝ、常にいひしは、

「紀州の御藏屋敷は、昔より、一とたびも類燒せざる所也。前は海にて、御藏、多く、棟《むね》をならべたれば、よしや、いかばかりの大火にても、件《くだん》の御藏のほとりにあらんには、燒死すること、なかるべし。」

とて、たのもしく思はぬは、なかりき。

 この故に、初《はじめ》、築地なる本願寺へのがれゆきしものも、其處《そこ》すら、危《あやふ》くなりし折《をり》、件《くだん》の御藏屋敷へ逃籠りしもの、多かりしに、餘炎、御藏にさへ、かゝりて、多く、御藏、燒失《やけうせ》ければ、もろ人、免るゝに路《みち》なくて、木石《ぼくせき》とともに、燒《やか》れしも尠《すくな》からず。或は、海に逃入《にげい》らんとして、溺死せしも、いくばくなりけん。

 それにはあらで、深川なる料理酒や平淸《ひらせい》が娘、十九歲、八町堀なる某候の奥方《おくがた》に給事(みやづかへ)してありければ、其親平淸、みづから、下男、三、四人を將《ひきい》て、はやく、件の屋敷へ、かけつけしに、

「鑑札《かんさつ》、なければ、内へ入れがたし。」

とて、門番人、許さず。

 しかるに、この娘も、

「召仕ふ下女とともに、彼《かの》船中にて、燒死したり。」

とて、次の日、深川なる宿《やど》へ、知《しら》せ來つ。

「尸骸《しがい》を引《ひき》とるべし。」

とて、呼《よば》れしとぞ。

 親の遺恨は、いかならん。

 この一條は、平淸としたしきものゝ、はなしなり。

[やぶちゃん注:「築地なる紀州の御藏屋敷」これは安易に認識してしまうと、とんでもない誤りを引き起こす。何故かというと、例えば、「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「築地八町堀日本橋南之圖」には、築地本願寺前の海際(真東。この図は右が北)に突き出たところに「紀伊殿」とあり、これは確かに紀州藩の蔵屋敷なのではあるが、この切絵図は、実は「文政の大火」よりも後のものなのである。而して、この事実関係を明確に明かして呉れるのが、サイト「和歌山社会経済研究所」の「紀州 in 東京(紀州藩江戸屋敷)」の「(8)築地邸(中央区築地6-20)」であり、そこに、『文政123月の火事で木挽町の蔵屋敷が焼失した後、同年6月旧南小田原町(現在の築地6丁目辺り)にあった旧堀田家中屋敷の敷地(6,320坪)を拝領した(「江戸史跡事典」新人物往来社)』とあることで、この本願寺海側の「紀州殿」蔵屋敷は、まさに「文政の大火」で、本篇に出るそれ以前の蔵屋敷がそこに語られるようにテツテ的に焼け果てた結果として、紀州藩が「文政の大火」後に拝領した蔵屋敷なのである。そして、さらに時間が経って、『幕末も近くなると』、『黒船来航など海外からの開国要請が強まる中、幕府は防備と海軍力を強化する必要に迫られ』、『築地の紀州藩蔵屋敷は江戸の中心部に近く、海の玄関にあたる好立地であったため、安政3年(1856年)幕府の講武場(幕府の武芸訓練機関。後、講武所と改称。)が設けられたときに、紀州藩は幕府に返上したのではない』『か』とあって、『翌年、長崎海軍伝習所の一部が移転してきて、講武所の中に軍艦教授所(後、軍艦操練所と改称)が開かれ』、『勝海舟やジョン万次郎達が教官となり、咸臨丸などが練習船となった時代で、大慌ての海軍創設期』となったとあるのが、ここの歴史なのである。事実、私の所持する「江戸切絵図」嘉永年間(一八四八年~一八五三年)版の文久元(一八六一)年改正再刻版では、ここは最早、「御軍艦操練」となっているのである。

 では、ここで言っている「御蔵屋敷」はどこなのかというと、前のリンク先の「(6)木挽町邸(中央区銀座1-19202-1216)」がそこのなのである。そこの解説に、『拝領時期が定かではない』が、『慶長17年(1612年)という説もあり、そうなると』、『一番古い紀州徳川家の江戸屋敷かもしれ』ないとされ、『「南紀徳川史」によると、この屋敷は前後両度御拝領とあり、何故か宝永5年(1708年)に返上し直ぐ再拝領してい』とある。そしてここは、『紀州から船で海上輸送されてきた物産(松脂、椎茸、鰹節、塩鯨など数十品目)を納入・保管していた蔵屋敷として使用されてい』『た(「江戸史跡事典」新人物往来社)』とあるのである。これは、『大坂冬の陣・夏の陣の23年前で』、『未だ徳川幕府が政権不安定な時代』であり、『江戸城を築城し』、『防備を固めることが最優先課題であり、江戸の“町づくり”も急がれた時代』でもあった。『早い段階から蔵屋敷が準備されていたことには、徳川幕府が戦闘集団でありながら、経済的な基盤を固めるための施策にも長けていたことの現われかと関心を惹かれ』るとある。『なお、物産は紀州家出入りの特権商人(栖原屋角兵衛と紙屋庄八)によって売り捌かれていた』。但し、『今はこの蔵屋敷跡(銀座2丁目の東半分に相当)に何の痕跡も残されて』おらず、『寛永9年(1632年)の寛永江戸図には「紀伊大納言様御蔵屋敷」が三十間堀の南側に記載されてい』るという。『三十間堀には藩が架橋したと言われる「紀伊国橋」が架かっており、対岸には銀貨を鋳造していた「銀座」の表記が読み取れ』るが、『この三十間堀は戦後埋立てられてしまい』、『「紀伊国橋」も撤去され』、『影も形も』ないそうである。さて、この以下が重要なポイントで(太字は私が附した:☞)、『この地図で面白いのは』、『蔵屋敷の南側は』、『直ぐ』、『海として描かれてい』るとあって、『江戸初期で』ある『から』、『築地の埋立が終わっていなかったので』(☜)あろうと推定されておられる。「文政の大火」の前年の『文政11年(1829年)分間江戸大絵図・栖原屋茂兵衛版にも同じ場所に中屋敷の表示をつけて、紀伊国橋ともども記載されて』おり、『寛永江戸図では海であった場所が』、『この分間江戸大絵図では武家屋敷地となってい』る。『しかしこの屋敷も、この翌年、神田佐久町からの火事で類焼失してしま』うとあるのである。これこそが、本編で語られる焼け落ちた「紀州蔵屋敷」であることが判明するのである。

 而して、そこに示された地図に従うと、この「文政の大火」で焼失した蔵屋敷があった場所は、中央区役所の北西の銀座二丁目の角辺りであり、南南東六百メートル圏内に築地本願寺があることが判るのである。先の「江戸切絵図」の本願寺左上方に「板倉周防守」の邸があるが、その上にある「二丁目」が「木挽町」のそれである。ここが本篇の舞台だったのであり、「文政の大火」の時でも、この辺りまで、海が、運河を広くした形で、深く貫入していたのである。

「吾媳《わがよめ》」馬琴の嫡男興継の嫁の土岐村 路(ときむら みち 文化三(一八〇六)年~安政五(一八五八)年)。後年、曲亭馬琴の筆記助手を務めたことでとみに知られる。当該ウィキによれば、『紀州藩』(☜)『家老三浦長門守の医師・土岐村元立(げんりゅう)の次女として神田佐久間町』(☜:「文政の大火」の出火元)『に生まれる。はじめ』、『鉄と名づけられ、手習い、三絃を学ぶが』、『三絃を好まず』、『舞踊を学ぶ。姉とともに』摂津国尼崎藩第五代藩主『松平忠誨』(ただのり)『邸に仕える。その後』、『江戸城に勤め』、二十一『歳で父の許にあり、文政』十年、二十二『歳で曲亭馬琴の嫡子滝沢宗伯興継に嫁し、みちと改名する。嫡男太郎興邦のほか』、『二女を儲け』たが、天保六(一八三五)年に宗伯は亡くなってしまう。翌』『年』、『神田信濃町で馬琴夫婦と同居す』るようになり、天保一〇(一八三九)年『前後より』、『馬琴の眼疾が進み』、『遂に』失明『に至るが、路は』、『その口述筆記を行い』、『時に琴童の名で代作も行』った。但し、馬琴の妻会田氏の娘「お百」が彼女に嫉妬し、なかなかな修羅場であったらしい。

「鑑札」「八町堀なる」「某候」(=大名)の屋敷内に入ることを許されている許可証。]

2022/10/21

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その5)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの左ページ下段の終りから七行から。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

一、この日、茅場町《かやばちやう》にて火に包まれて、「鎧《よろひ》の渡」の川へ逃のびたる、男三人、女一人、ありけり。

 「砂場蕎麥《すなばそば》」のほとり、こなたの河岸《かはぎし》の家どもの、燒《やく》るまにまに、火の粉、ひまなく、降りかゝりて、かくても、凌ぎがたかりしかば、その男等《をとこら》が、女にむかひて、

「おん身のもて來ぬる葛籠《つづら》の内には、衣《き》もの、あるべし。とり出《いだ》して、われらにも、貨し給へ。水に浸《ひた》し、頭に被《かぶ》りて、火を防《ふせが》ん。」

と、いへば、女、こたへて、

「問《とは》るゝごとく、この葛籠には、きものゝみあり。命だにたすかることならば、何をか惜《をしま》ん。ともかくも、し給へ。」

といふ。

 男等、歡びて、葛籠の鎖《かぎ》を、こぢ、ひらきつゝ、上なる衣《ころも》、四つばかり、取出《とりいだ》すに、みな、縮緬袖《ちりめんそで》・八丈縞の、まだ、巳の時ばかりなりしを、手に手に、わかちとりて、女にも、ひとつ、とらせ、各《おのおの》、件《くだん》の衣を、水にひたしつゝ、頭にうちいたゞきて、火の粉を防ぐに、火氣《ひのけ》にて乾くを、いくたびとなく、水にひたしては、うちかむりつゝ、からくして恙なきことを得たり。

 只、この資《たす》け、あるのみ、ならず。

 はじめ、川へ逃入《にげい》りし折《をり》、水中に、大八車、二、三輛、ありけり。

 これは、そのほとりなる車力《しやりき》の、石を、おもりにつけて、沈め置きし也。

 件の男女は、この車の上にのぼりをり。よりて、水に溺れざりき。女の背負ひ來《き》ぬる衣つゞらも、この車の上に措《さしおき》たれば、身を放ちても、流れず。

 扨《さて》、火の鎭りて、川より出《いづ》る折、女のゆくてを問ふに、

「本所なる所親《しよしん》がり、赴く。」

よし、聞えしかば、濡らせし衣どもは、みな、よく絞りて、葛籠に收め、

「此衣のありたればこそ、からくも恙なきことを得たれ。報恩の爲、送りゆかん。」

とて、一人、件の葛籠を背負《せおひ》て、女を、本所なる所親がり、送りしとぞ。

 この一條も、吾婿《わがむこ》、渥見某と踈《うと》からざりし牧野殿の家臣の話にて、來歷あり。浮《うき》たることにはあらざる也。

 又、只、この事のみならず。

 茅場町の向ひ河岸、小網町《こあみちやう》にても、火に包《つつま》れて、川へ逃入りつゝ、水火の爲に死《しし》たるもの、すくなからず。

 小網町一丁目なる西野屋といふあき人《びと》の組合の家主の子も、死して三日の後《のち》、件の川より、尸骸《しがい》を得たり。

 かゝること、なほ、多くあり。

 燒死の人のうへには、あはれなるもすくなからねど、只、風聞のみにして、來歷、定かならざるは、省《はぶ》きつ。

[やぶちゃん注:「茅場町」中央区日本橋茅場町附近

「鎧《よろひ》の渡」日本橋川の渡し。東京都中央区日本橋兜町のここに跡がある。リンク先のサイド・パネルのこちらの画像で中央区教育委員会の説明版が視認出来るので、読まれたい。

「砂場蕎麥」ウィキの「砂場(蕎麦屋)」によれば、『大坂を起源とする蕎麦屋老舗のひとつ』で、『蕎麦屋の老舗としては、更科・藪とあわせて』三『系列が並べられることが多い』とし、『名称の由来は、大坂城築城に際しての資材置き場のひとつ「砂場」によるものとされる』ものの、『砂場(大坂)の正確な創立年代はわかっておらず』、『諸説ある』とある(以下の成立年代等はリンク先を読まれたい)。『江戸への進出時期についても明確な記録はないが』、寛延四・宝暦元(一七五一)『年に出版された』「蕎麦全書」に『「薬研堀大和屋大坂砂場そば」の名称が』、一七八一年から一七八九年に板行された「江戸見物道知辺」(えどけんぶつみちしるべ)に『「浅草黒舟町角砂場蕎麦」の名称が、それぞれ見られる』ものの、『大坂の砂場との関係は明らかではない』とある。

「車力」大八車の類いを牽いて、荷物の運搬を生業(なりわい)としていた者。

「吾婿、渥見某」前回、既出既注

「牧野殿」やはり前回既出既注の丹後国田辺藩第八代藩主牧野節成。

「小網町」東京都中央区日本橋小網町。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その4)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの左ページ中ほどから。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

一、又、海賊橋《かいぞくばし》なる牧野佐渡守殿の第《だい》は、市中に近ければ、火災を防ぐ爲にとて、長屋はさら也、厩・雪隱《せつちん》までも、瓦屋《かはらや》にせられて、杮葺《こけらぶき》はあることなかりしに、廿一日の大火の折《をり》、はやく、玄關なる板庇《いたびさし》に、火の飛移《とびうつ》りしを、もろ人、

「防ぎとゞめん。」

とて、なべて、其處《そこ》につどひし程に、火は、板塀にも、もえ移り、又、芥溜《ごみため》よりも燃起《もえおこ》りし程に、奧長屋にありける人々は、出口を失ひて、せんかたのなきまゝに、川手の小門《こもん》をひらきて見しに、屋根船一艘ありければ、人みな、これに乘りけれども、船やるべき棹なければ、鎗をもて、漕《こが》んとするに、風の烈しかりければ、船、覆《くつがへ》らんとしたりしかば、

「とく、屋根を、碎《くだ》き捨《すて》よ。」

と罵《ののし》るに、とみには、破るべくもあらねば、手に手に、刀を引《ひき》ぬきて、からくして、柱を伐《きり》たふし、船の屋根を、とり棄《す》て、一石橋《いつこくばし》まで漕退《こぎしりぞ》けり。

「このとき、危かりし事、述盡《のべつく》しがたし。」

と、いへり。

 此折、侯の奧方、立退《たちのき》、後《おく》れさせ給ひて、怪我ありしなど、風聞ありしは、そら言也。彼《かの》藩中には、下ざまのものまでも、恙なく、立退たり。

 只、土藏は、十七棟、なごりなく燒《やけ》うせけり。

 彼藩中の士、幾人か、吾婿《わがむこ》の同家中【宇都宮候。】に親族ありて、そが、小屋に退《の》き來つる人々の話說、

「かくのごとし。」

と聞《きき》にき。

 又、淀侯【稻葉。】の築地の中屋敷の土藏も、十數棟、燒《やけ》たり。

「その、くらには、武具を多く入れ置れしが、みな、烏有《ういう》になりし。」

といふ。是も吾婿の所親《しよしん》あれば、實說なり。

[やぶちゃん注:「海賊橋」「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「築地八町堀日本橋南絵図」[2-201]「海賊橋」で江戸切絵図の位置が判る。「位置合わせ地図表示」があるが、ちょっと判り難いので、グーグル・マップ・データで「海運橋親柱」をリンクさせておく。「海賊橋」は明治元(一八六八)年十月に「海運橋」と改められ、その後、「東京オリンピック」に向けた道路整備の一環で架かっていた「楓川」が埋め立てられたため、橋は消滅した。この異様に見える橋の名は「中央区」公式サイト内の「中央区民文化財24 海運橋親柱(かいうんばしおやばしら)」によれば、『東詰に海賊衆(幕府成立後は船手頭)・向井将監の屋敷があったことにちなむようで』ある、とある。

「牧野佐渡守」中村岳稲氏のサイト「按針亭」の「向井将監忠勝上屋敷跡」に、『向井将監忠勝上屋敷は、元海運橋(将監橋または海賊橋)東詰親柱(日本橋兜町3-11(三田証券)正面左手植込中)から北東方向で』、『現「東京証券取引所ビル」辺りにあったといわれる』。『向井将監忠勝は、向井一族に中で』、最『初に「将監」を名のり、もっとも華やかに活動した人といわれる』。『向井将監忠勝が寛永』一八(一六四一)年に『に没し、忠勝』の次『男直宗(忠宗)が継いだものの』、『忠勝没』の三『年後の寛永』二十一年に三十八歲で『病死』し、『その跡を継いだ直宗の子息・右衛門太郎某も正保』四(一六四七)年に『病死した』。『これにより』、『向井将監忠勝上屋敷であった邸は、翌慶安元年』(一六三八年)『に牧野内匠頭信成邸となり さらに慶安』三(一六五〇)年に『牧野信成の子息・牧野佐渡守親成の屋敷となった』とある。但し、この「文政の大火」の時は、牧野氏の後裔で丹後国田辺藩第八代藩主の牧野節成(ときしげ:但し、養子)の代であるが、彼は「佐渡守」ではなく、「河内守」なので、それは誤り。先の注の「海賊橋」の近くのそれも、「牧野河内守」となっている。

「一石橋」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「築地八町堀日本橋南之圖」の標題の右手にある(この図は右方向が北)。現在のここ

「吾婿の同家中【宇都宮候。】」馬琴の末娘(と思われる)鍬(くわ)は文政一〇(一八二七)年に宇都宮藩藩士で優れた絵師でもあった渥美覚重(雅号は赫州(かくしゅう))に嫁している。

「小屋」この「文政の大火」の際、幕府が緊急に設けた避難民の避難所「御救小屋」(おすくいごや:現代仮名遣)のこと。「国立公文書館」公式サイト内の「天下大変 資料に見る江戸時代の災害」の「32. 文政回禄記」を見られたい。直後に発生した怪談話も載っている(大災害のごく直後に怪談が囁かれるというのは、噂話としては現象的には珍しい部類に属すると思うが、実はその一部は幽霊に化けて避難民の所持品を盗もうとした輩がいたことが、本篇の最後(「その8」内)に記されてある)。

「淀侯【稻葉。】」山城淀藩稲葉家第十代藩主稲葉正守(在位:文政六(一八二三)年~天保一三(一八四二)年)。

「築地の中屋敷」淀藩中屋敷は築地木挽町にあった。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「築地八町堀日本橋南之圖」で判る通り、現在の築地本願寺の真ん前である。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その3)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの右ページ頭から。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

一、又、元飯田町中坂下なる湯屋《ゆうや》惣兵衞が姪【名は梅。】、そが、おさなかりし折、予も識れるものにて、辨慶橋のほとりなる疊や何がしの妻になりたり。此梅がいふよしを聞しに、かの日【三月廿一日。】、

「神田に火事あり。」

と聞《きき》て、風の、いと烈しければ、

「先づ、晝飯をたうべてこそ、家財を、とり片づけん。」

とて、あるじをはじめ、家の内のものども、飯をたうべてありしに、

「はや、一軒さきなる家に、火の、飛《とび》うつりたり。」

といふに、皆、さわぎ立《だ》つ程に、火は、急にして、物を出《いだ》すいとまもあらず、あるじは、錢箱ひとつ、引提《ひつさげ》て、妻もろ共に、逃出《にげ》けり。

 扨《さて》、京橋まで來にけるに、此わたりも、風下なれば、

「本所なる所親《しよしん》がり、いなん。」

とて、引《ひき》かへすに、京橋を渡る折柄《をりから》、人に推しもまれて、苦しさに堪《たへ》ざれば、橋の上より、錢箱を、川へ、

「はた」

と投棄《なげす》て、からかくして、兩國橋まで來にけるに、逃《にげ》まどふもろ人《びと》、幾千萬にやありけん、さしも廣大なる兩國橋は、人に、人、かさなりて、進退、自由ならざるに、火熖《くわえん》の、そびらの方より、降《ふり》かゝりて、頭の上に落《おち》かゝるもあれば、その艱苦《かんく》、譬《たとへ》るに、物も、あらず。このとき、心に思ふやう、

『錢・財・衣裳も、何にせん、只、この橋を恙なく渡り果《はて》なば、生涯の幸ひならん。』

と念ぜし、とぞ。

 さて、又、京橋にて棄《すて》たる錢箱には、あるじの名も、町名も、書《かき》つけてありければ、二、三日を經て、京橋なる町役人より、件《くだん》の錢箱を、とりあげ置《おき》たるよしを、辨慶橋の町役人に告《つげ》おこしにけり。

 よりて、あるじは、その錢箱を受取にゆきけるに、

「相違あらじと思へども、後々の爲《ため》なれば、家主《やぬし》もろ共に、書札《しよさつ》をしたゝめて、もて來よ。」

と、いはる。

 さばれ、家主のゆくへ、知れざりければ、親類、加印《かいん》の證文を、もてゆきて、件の錢箱を受とりし、といふ。

 是より先、廿二日の宵の程、あるじ夫婦は、

「吾家《わがや》の燒跡を見ん。」

とて、本所より、かへり來にけるに、人ありて、灰を搔起《かきおこ》しつゝ、火鉢・藥鑵《やかん》の類《たぐひ》の燒《やけ》たるを、とるもの、あり。

 あるじ、これを咎《とが》めしに、そのもの、聲をふり立《た》て、

「汝は、是、何ものぞ。吾《わが》燒失《やきうしな》ひし物を取るを、咎るは、賊《ぞく》ならん。近づかば、一打《ひとうち》ぞ。」

と罵りながら、突立《つきたて》たる朸《あふご》を、とり直したる勢ひに、妻はさら也、あるじさへ、怖れて、おめおめと取《とら》せしとぞ。

「『泰平の時だにも、かゝる折には、人をおそれぬ盜兒《たうじ》の多かるに、亂れたる世は、さぞありけん。』と、今さら、思ひあはせし。」

と、いへり。

 此疊やが町内の番人は、彼《かの》大火の折、火の見梯子に登りて、頻りに半鐘を打鳴《うちな》らしてありけるが、只、向ひのみを見て、火の近づき來ぬるを、知らず。扨、ありける程に、火の見の下なる家に、火は、もえ移りて、此やぐら【やぐらといへ共、梯子也。寬政の御改正以後、此やぐらばしご、町々にあり。】を燒く程に、くだることを得ざりけん、燒鎭《やきしづま》りて後《のち》に、人々、これを見しに、件の番人は、燒死したるか、みづから、飛《とび》おちたるにや、膝を折布《をりし》きたるまゝにして、倒れも、えせず、ありけると也。すべて、高きより、飛《とび》たるものが、死するといふとも、倒れず、といふことは、かさねて聞《きき》たることながら、此番人の死ざまにて、その事實を知るに足れり。

[やぶちゃん注:「元飯田町中坂下」現在の東京都千代田区九段北一丁目和洋九段女子中学校・高等学校の「講堂・体育館・プール」の入り口の前に「中坂」の表示板が建っている。ストリートビューのここ。グーグル・マップ・データではここ。従って、「中坂下」は九段北一丁目交差点附近となろう。

「辨慶橋」神田松枝町と岩本町の間を流れる藍染川に架けられていたが(現在のこの附近)、明治に入り、川が下水道工事で埋められたため、後に現在の東京都千代田区紀尾井町と港区元赤坂一丁目の間の弁慶堀上に架け替えられた。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「日本橋北之圖」の上部中央左附近の「和泉橋」を南南東に下った、小さな藍染川に架かっている([ 3-097 ])。この橋は、当該ウィキによれば、『江戸城普請に携わった大工の棟梁であった弁慶小左衛門が架けた橋に始まり、彼の名から「弁慶橋」と名付けられたと伝えられる』とあり、現行の「弁慶濠」とは元は関係なかった(というより、移設された橋の名が明治になって濠の名となったように思われる)ことが判る。

「京橋」橋も京橋川も現存しない。東京都中央区京橋のここ「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「築地八町堀日本橋南之圖」の上部中央の[ 2-131 ]

「兩國橋」ここ

「そびら」「背(そ)平(ひら)」の意で。背中。背後。

「書札」確かに本人であることを証明する家主の記載・署名による証明書きを添えた書付(かきつけ)。

「朸《あふご》」現代仮名遣「おうご」。天秤棒のこと。

「盜兒」泥棒。「兒」は子どもや青年の意味ではなく、接尾語で、「~を成す輩・男」の意。この場合は多分に卑称のニュアンスを持つように私には思われる。

「寬政の御改正」江戸中期に老中松平定信が在任期間中の天明七(一七八七)年(天明九年一月二十五日(グレゴリオ暦一七八九年二月十九日)に寛政に改元)から寛政五(一七九三)年に主導して行われた広範な分野に及んだ幕政改革「寛政の改革」。ここでは、火災の多く、その被害も甚大であった江戸の新しい都市政策の一環の中で行われたもの。但し、平凡社「世界大百科事典」に拠れば、江戸では、火の見『櫓のない町には』、『自身番屋の上に火の見梯子が設けられた。防火策として火の見櫓は画期的なものではあったが,たとえ町方が先に火災を発見しても,定火消の太鼓が鳴らぬかぎり,半鐘を鳴らすことは許されなかったという』とあった。グーグル画像検索「火の見梯子」をリンクさせておく。それを見て戴くと判る通り、現在でも地方には現存している。

「膝を折布きたるまゝにして、倒れも、えせず、ありける」膝を折ってちゃんと正座して上半身を立てて座ったまま、倒れずに、亡くなっていたということであろう。]

2022/10/20

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その2)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここから(右ページ上段五行目の改行部から)。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

 按ずるに、この年、太歲己丑《たいさいつちのとうし》は、九紫《きうし》、中宮《ちゆうぐう》に入れり。九紫は、南方、火《くわ》を掌る。この年の月宿春三月は、三碧《さんぺき》、中宮に入れり。三碧は、東方、木《もく》をつかさどる。されば、月宿の三碧木、年宿の九紫火に入りぬ。

[やぶちゃん注:「太歲」ここでは単に以下の干支が「年」(とし)を指すことを表わすための冠字。本来は、古代中国の天文暦学に於いて、現在の「木星」の鏡像となる仮想の惑星名を指した。その木星は、十二年の周期で巡行すると考えられたことから、十二支の運行と関連して考えられるようになり、「太歳〇〇」の形で、後に示す干支によって歳=年を記す暦法が行なわれるようになったのである。

「九紫、中宮に入れり」私は一切の占いに興味がないため、九星術について判りたいとも思わないので、注する気があまり起らない。幸い、札幌市西区にある西野神社の公式サイト内のこちらに説明されてあり、また、占いサイト「ウラコレ」の「星気学」にも図を用いて、ここに出る「中宮」なども説明されてあるので、そちらを参照されたいが、小学館「日本国語大辞典」によれば、「九紫」は「九紫火星」(きゅうしかせい)で、『運勢判断でいう九星の一つ。南を本位とし、五行では火に、八卦』『では離(り)に属する』とある。後者リンク先によれば、『方位版はその時々によって配置が変わ』る『が、基本的な配列は五黄土星(ごおうどせい)が中心である「後天方位盤」というもので』あり、その盤の『中心を「中宮」と言い、ここにどの星が配置されるか』(移動してくるか)『により』、『方位や運勢を占うことができ』るとある。

「月宿春三月」以上のような私にはどこで切れて、どう読んで、何を言っているのか判らない。調べたが、判らない。悪しからず。取り敢えず「げつしゆく/はる/さんがつ」と読んでおく。ただ、以下の「三碧」というのは、小学館「大辞泉」に『九星の一。星では木星、方角では東。』とあるからして、これは年単位で「三碧木星」、月単位で「九紫火星」で、七星術では、既に年としては、火星が中宮に入っており、この春三月には(その月の単位の方が「月宿」という表現であるものか)、木星が中宮に入る、ということを指しているらしい。]

 こゝをもて、江戶の中央、みな、燒けたり。

[やぶちゃん注:五行思想に於いては、「木生火」(もくしょうか)で「相生」(そうしょう:順送りに相手を生み出して行く「陽」の関係を示す)であり、「木は燃えて火を生む」それが、中宮に入っているから、「中宮」のミミクリーで江戸の「中央」が灰燼に帰したのだ、と馬琴は言っているようである。]

 只、これのみにあらず、この春、三月廿一日、乙卯《きのとう》なり。乙は、丙、火《くわ》を生ず。卯も亦、木《もく》に屬す。

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、最後の「木」を「本」としているが、底本に従う。五行思想では十干・十二支を配置するに、「木」には「甲・」、「寅・・辰」が配されあるからである。この重合を、陰陽説では「比和」(ひわ)と呼び、これは、「同じ気が重なると、その気は盛んになり、その結果が良い場合には、ますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。」とされるのである。しかも、「乙」の次に従う「丙」は「火」に属するのである(ウィキの「五行思想」を参照した)。]

 且、この日の巳の時は、五不遇時《ごふぐうじ》に値《あた》れり。失火は四半時《よつはんどき》なれば、なほ、巳の終り也。乙卯の納音《なついん》は「水」なれども、大溪水《だいけいすい》なれば、火を制するに、力、なし。又、この日は閉也。閉は勾陳《こうちん》也。加ㇾ旃《しかのみならず》、月宿・天吏・致死・血支の惡殺に値れり。吉星《きつせい》は官日・嬰安・五合・鳴吠對の四星のみ。星殺《せいさつ》方位の吉凶も偶然にあらず。怕《おそ》るべし。

[やぶちゃん注:「巳の時」本大火の出荷推定時刻。午前十一時頃。

「五不遇時」これは五行説に基づいて形成された風水学で、日の十干と、時の十二支が、相克となることを指し(日の十干と時の十干とする記載もあったが、十干を時刻に当てるというのは不学にして知らない)、この時間帯に何らか行動が起こされると、そこに不和の大凶となる状態が生ずるとされる(諸風水学サイトを参考にした)。而して、この日は「乙」で、その五不遇時は、確かに巳時(みどき)で、午前九時から十一時に相当する。

 底本でもここは改行されてある。

「四半時」定時法で午前十一時。

「納音」現代仮名遣「なっちん」。「のういん(なふいん)」の連声(れんじょう)。甲子から癸亥にいたる六十干支を、五行の孰れかに帰属させるために、五音(ごいん:伝統的な中国音韻学に於ける声母(頭子音(とうしいん)))と音楽の十二律呂(じゅうにりつろ)とを組み合わせた六十律を当て嵌め、それによって、各干支の五行を定める法。基本的には宮(土)・商(金)・角(木)・徴(火)・羽(水)の五音五行によって五分するが、さらに甲子・乙丑は海中金、丙寅・丁卯は爐中火というような名称をつけ、三十種に細別する。運勢判断に用いられる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。「乙卯の納音」は確かに「大溪水」であるが、ネットでは人柄のことばかりで、「火を制するに、力、なし」に相当する内容は見当たらなかった。但し、そのある記載に、大河のような総てを呑み込む度量はない、と書かれていたから、「火(か)」には負けるらしい。

「閉」サイト「占いのお店 アプラボ」の「閉」では、「とづ」と訓読みしており、『金銭出納、建墓は吉。棟上げ、結婚、事始め、諸事一般は凶。』とあった。

「勾陳」「土」に属し、時では「土用」、方角では「中央」に対応する不動性を司る神で、土地・建物・愚鈍さなどを現わす(「コトバンク」の「占い学校 アカデメイア・カレッジ」の「占い用語集」に拠った記載を参照した)。

「月宿・天吏・致死・血支」「・」は私が打った。中文サイトの占いサイトの「凶神にして忌むべきもの」という意味のタイトルの中に、それぞれ、ばらばらにあった。調べる気になりません。悪しからず。

「惡殺」非常な凶を指す語らしい。「ココナラブログ」の昭晴 Akiharu氏の「【四柱推命神殺】自分の命式にある凶殺の影響力」の中に、四回、「悪殺」の語が現われる。但し、「殺」自体は「突発的に現れる運気」を言うフラットなものであるようだ。その昔、流行ったねぇ、天中殺とか……。

「官日嬰安五合鳴吠對」「・」は私があてずっぽで打った。「四星」とする内、「HITOSHIブログ!」の「擇日日家吉神 ―象意解説①―」の記事に、最後の「鳴吠對」があったことと、「J-STAGE」の黄智暉氏の論文「馬琴の吉凶観―『後の為乃記』を中心に―」(『近世文藝』八十五巻・二〇〇七発行・PDFでダウン・ロード可能)の47ページに、「後の為乃記」の引用があり、そこに黄氏が中黒を打って、『吉神は月徳合・五合・明堂・鳴吠対のみ』たるのを見出したからである。それぞれの星は調べる気にならない。悪しからず。それにしても……馬琴は大変な占い好きだったのだねぇ……六十五になる私は……神社の「おみくじ」さえも、今まで一度も引いたことがない輩なんでねぇ……

「星殺」星宿神のそれらしいが、もう、結構です、すみません。

 以下は底本でも改行している。]

 又、按ずるに、凡《およそ》、大火に及べるときは、火氣《ひのき》、地中に徹《とほ》るものなれば、井の水の、常のごとくには、涌出《わきいで》ず。河水も、多く、涸れて、潮も常のごとくにさし來《きた》らざるもの也。

 この日、八町堀なる桑名候に給事の女房は、役人、はからひて、門前より、船に乘せて、立退《たちのか》せんとしつるに、その船、ゆかず。とかくする程に、むかひ河岸《かはぎし》より、火熖《くわえん》、舶中にふりかゝりて、防ぐによしなく、乘船の男女《なんによ》、會《あはせて》、多く、怪我ありし、と聞えたり。

[やぶちゃん注:「八町堀なる桑名候」伊勢国桑名藩。当時の藩主は松平定永(さだなが)で松平久松家初代藩主。同藩の江戸上屋敷は、現在の八重洲通りの貫通するこの附近(グーグル・マップ・データ。以下、本篇で指示のないものは同じ)にあった。「江戸マップβ版」の江戸切絵図の「築地八町堀日本橋南繪圖」の中央やや右手に「松平越中守」とあるのが、それである。屋敷の西側を楓川(かえでがわ)が流れているのが確認出来る(現在は干拓されて存在しない)。]

 予が少《わか》かりし時、一老翁の言に、

「近火《ちかび》の折《をり》は、主人たるもの、はやく、臺所なる瓶《びん》の水、家のほとりなる溷(どぶ)にも、手をさし入れて、試るべし。その甁の水、溷の水、あたゝかならば、火事は、なほ、遠し、といふとも、はや、その火氣の、地中に入り來《きたり》ぬる也。さるときは、十に八、九は、脫《のが》れがたしと、知るべし。縱《たとひ》、火事は近くとも、瓶の水も、溷の水も、冷やかなるは、十に八、九は、燬《くゐ》を免るゝものぞ。」

と、いひにき。

[やぶちゃん注:「燬」現代仮名遣の音で「キ」。「焼かるる」の意。「やかるる」と訓じた方が古老の言葉としては自然かとも思う。]

 この儀を思ひ合するに、「己丑の大火」の日、井の水も、常のまゝならず、河の水も涸れて、潮水さへ匱《とぼ》しかりしこと、亦、偶然にあらずかし。

 又、按ずるに、「薪のけぶり」にしるされし、火災にあへる人々のうへなどは、或は、傳聞により、或は、見聞のまゝを載《のせ》たれば、『いかにぞや』と思ふも、まじれり。こゝには、親しく、その人に聞し事、或は、その人の所親《しよしん》の、予が爲にいへりしを、ふたつ、みつ、とり出《いで》て、しるすもの、左の如し。

[やぶちゃん注:「所親」親しい間柄或いは遠い親戚筋を指す語。

 以下、底本でも改行。]

一、元飯田町《もといひだまち》なる木具や惣兵衞といふもの、三月廿一日の大火の折、その所親、三十間堀なる親族何がしがり、走りゆきて、家財をとり出し、つかはしなど、しけるに、その家のほとりに、土藏、三棟《みむね》ありて、川に臨めり。こは、あるじの親方の土藏にて、あるじは、これを守るもの也ければ、家財は、この土藏を片どりて、みな、川端へ出《いだ》しにけり。かゝりし程に、その處も亦、風下になりて、火の、やうやう、近づき來にければ、

「こゝに家財は設《まうけ》がたかり。いづこにまれ、風脇《かぜわき》へ移せよ。」

といふを、あるじは、聽かで、

「この處は藏を盾《たて》にして、前は川也。何事のあるべき。」

とて、さわぎたる氣色、なければ、

「さて、おきつ。」

とて、する程に、いよいよ、火は、もえ來にければ、あるじも、今さら、おどろき、怕れて、

「かくては、こゝに凌ぎがたし。はやく、風わきへ、家財を移し給はれ。」

といふ。惣兵衞、

「こゝろえたり。」

とて、數町あなたへ、家財を移すこと、ふたゝび、既に、三たびに及びし折、件の土藏に、火の入りて、火勢、甚しくなりしかば、とりもて、退《の》かんとしぬる葛籠《つづら》を、そがまゝ、火中へ、うち棄て、走り去《さ》らまくする程に、火は、はや、川むかひへも、移りたり。むかひは、薪《たきぎ》、多く積たる處なるに、その薪に、火のうつりしかば、いづち、ゆくべき處も、あらず。已むことをえず、川へ飛入りたるに、折から、潮、そこりにて、水、涸れたれば、火を凌ぐに足らず、只、泥水の中へ、身をまろばしつゝ、

「焦《こが》されじ。」

と、したりとぞ。かゝる處に、誰とはしらず、五、六人、又、この川へ逃入《にげい》りて、どろ水を、身にそゝぐもの、ありければ、惣兵衞は、わがかたはらに、人の來ぬるを見かへりて、

「聊《いささか》こゝろづよく覺し。」

とぞ。この折、又、三十間堀の橋の下にも、五、六人、居《ゐ》たり。そを、こなたより見て、

「只今、あの橋、燒落《やけおち》なば、下《した》なる人は、必ず、死《しな》ん。やよ、こなたへ、來よかし。」

と、聲を限りに呼《よび》かくれども、烈しき風の音と、熚𤏋《ひはつ》たる猛火《まうくわ》の、物をやく、ひゞきに、まぎれて、得《え》聞えざりけん、なほ、その處にありける程に、果して、橋は、燒落て、その火、下なる人を打《うち》しかば、矢庭に死するもの、二人、ありけり。殘れる四人は泥の中に、くゞり入りなどしつゝ、からくして、死《しな》ざりけり。姑《しばら》くして、少し、潮のさし來にければ、川中なる人々、これに、ちからをえて、身に水をそゝぎつゝ、十死の中に一生をなん、得たりける。

 扨、惣兵衞は、そこらの火のやけ鎭《しづま》りて後《のち》に、川より出《いで》て、その夜《よ》、飯田町なる宿所にかへりしと云【己丑四月朔《ついたち》、惣兵衞と同町のもの、予が爲に、いひしまゝを、しるすものなり。】

[やぶちゃん注:「元飯田町」現在の千代田区富士見一丁目及び九段北一丁目

「木具や」「木具屋」「木具」は恐らくは足付きの折敷(おしき:歴史的仮名遣は「をしき」)である「足打折敷(あしうちおしき)」「木具膳(きぐぜん)」を作る職人である。

「三十間堀」現在の東京都中央区銀座通と昭和通の間を並行に流れていた三十間堀(現在は埋め立てられて現存しない)の西河岸にあった町名。北から南に八丁目まであった。「江戸マップβ版」の江戸切絵図の「築地八町堀日本橋南繪圖」の左上方(右が北)に確認出来る。

「走り去らまくする」上代語の助動詞「む」のク語法を転じた「まくほし」の持つ希望・遺志の意を示したものであろう。

「そこり」「底り」で名詞。潮が引いて海の底が出ること。潮干(しおひ)。干潮。

「熚𤏋」盛んに火が燃え、しかも、それが、跳ね、飛び散ること。

「得」不可能の呼応の副詞「え」の当て字。

「己丑四月朔」大火出火の九日後。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その1)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、標題は「つちのとうし しちせき しやうしき」と読んでおく。読み始めで判るので、先に言っておくと、内容は文政一二(一八二九)年三月二十一日昼前に出火した「文政の大火」の記事である。別名を「佐久間町火事」(さくまちょうかじ)「己丑(つちのとうし)の火事」ともいう。昼前の巳の刻過ぎ(午前十一時頃)、神田佐久間町二丁目の材木商尾張屋徳右衛門の材木小屋より出火し、西北の強風に煽られ、日本橋・京橋・芝一帯を焼き、その焼失面積は幅二十町(約二・二キロメートル)、長さ一里に及んで、翌朝、鎮火した。大名屋敷七十三、旗本屋敷百三十、町屋の類焼約三万軒、船や橋も、多数、焼失し、二千八百余名が焼死した(概ね、平凡社「世界大百科事典」に拠った。因みに、佐久間町一帯は材木商や薪商が多く、一丁目には特に前者が多くあったことから、「神田材木町」の俗称もあったが、扱う物が物だけに、火災の発生も有意に多かったことから、口の悪い江戸っ子は語呂合わせで「悪魔町(あくまちょう)」と呼んだりした。場所は「江戸マップβ版」の「江戸切絵図の「東都下谷繪圖」の左端中央にある「和泉橋」(神田川に架かる)を北(右)に進んだ直ぐの東西(南北)部分にあることが確認出来るはずである。グーグル・マップ・データで示すと、この中央部の国道一号の、西の少しと、東側に相当する)。「己丑」は以下に見る通り、文政十二年の干支で、「七赤」は中国伝来の暦・占いに用いられる九星術の星の一つ。「小識」は「ちょっとした覚え書き」の意。この文政十二年は九星術で「七赤金星」に当たる年であった。なお、しかも、出火したその日を調べてみたところ、今も和風の暦に附される六曜の赤口(しゃっこう/しゃっく)であった。「赤口」は一般に「仏滅」の次に縁起が悪いとされるもので、「赤」は、まさに火事や血を連想させるからでもある。

 この「文政の大火」についての現代の論考では、「J-STAGE」のこちらからダウン・ロード可能な災害間題評論家秋田一雄氏の「己丑火事と甲午火事」(『安全工学二十四巻・一九八五年第三号『談話室』内所収』が、事前に読まれる価値が十分にあるものと存ずる。氏はそこで、本「文政の大火」は「文化の大火」(通称「車町(くるまちょう)火事」)の代わりに「江戸の三大大火」の一つとすべき資格があり、『むしろそのほうが妥当かもしれない』とさえ評しておられる。是非、一読されたい。その本大火部分の解説は、そのまま以下の馬琴の本文への有効な注にもなるからである。

 

   ○己丑七赤小識

 文政十二年己丑春三月廿一日、江戶大火の顚末は、「八人抄」、「薪のけぶり」といふ二書に、しるしつけられたれば、今、亦、こゝに具《つぶさ》に、いふべくもあらず。さばれ、この火事の火元の事は、件《くだん》の二書にも、只、風聞によれるのみにて、實說を得ざりければ、予が聞く所をもて、詳《つまびらか》にす。

[やぶちゃん注:「八人抄」不詳。ネット検索でワードは勿論、いかなるフレーズで検索しても、いっかな掛かってこない。辛うじて、「グーグルブックス」の柴田光彦・神田正行編「馬琴書翰集成 第七巻」の画像の中に、「55」として『文政十二年十二月十四日』附で松阪の殿村『篠斉宛』の馬琴の書簡に書誌に、『『八犬伝』上帙、『秘書八人抄』発送覚』とあるのを最後の最後に見出した。これがそれか。或いは、馬琴の執筆になる「文政の大火」の記録なのかも知れない。

「薪のけぶり」「国文学研究資料館学術情報リポジトリ」の岩淵令治氏の論文「18 世紀の〈消防教訓書〉と江戸町人の消防意識」(『国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇』五十三巻十八号・二〇二二年三月発行・リンク先からPDFでダウン・ロード可能)の注22に、『「御坊主衆竹谷次春」作の写本で、国立国会図書館、東京都公文書館などの所蔵が複数確認できる。』とあった。]

 原《たづ》ぬるに、初《はじめ》、この火は、外神田佐久間町河岸《さくまちやうがし》なる、材木商人伏見屋と尾張屋が材木置場の堺垣《さかいがき》の邊より出《いで》たれど、猛烈風の折《をり》なれば、その火、忽《たちまち》に、材木に移りしかば、定かに見とめたるもの、あらず。

 扨《さて》、尾張屋の材木河岸には、秣屋某(まぐさや《なにがし》)が借用して、建措《たてお》くところの飼葉小屋《かいばごや》あり。この小屋より、火が發《おこ》れりなど、いふめり。

 この日、伏見屋構《かまへ》の河岸にて、

「津輕侯の普請を受負《うけおひ》たる、材木の伐組《きりぐみ》をす。」

とて、大工等《ら》、手斧《てうな[やぶちゃん注:現代仮名遣「ちょうな」。]》どりしてありしかど、

「巳の刻、少し過《すぎ》たる頃なりければ、いまだ、煙草休《たばこやす》みといふことも、せず。かゝれば、聊《いささか》にても、火をとり扱ひたることは、あらず。」

と、いふ。

[やぶちゃん注:「津輕侯」弘前藩の通称。当時の藩主は津軽信順(のぶゆき)。]

 又、尾張屋には、

「このあした、材木を買はんとて來ぬる客もなければ、わが構《かまへ》の河岸へ、出入りせしものは、なし。」

と、いひけり。

[やぶちゃん注:「あした」。朝。]

 されば、

「飼葉小屋より、出火せしならん。」

など、罵《ののし》り、爭ふ、のみ。

 さりとて、聢《しか》と見たることにはあらで、伏見屋が構の河岸にありける大工等すら、火の起りしを、しらでありしに、神田川を遡《さかのぼ》る船の篙師(ふなびと)が、はやく見いだして、

「云々。」

と呼《よばは》りしかば、これにぞ、件《くだん》の大工等も、駭《おどろ》き、譟《さは》ぎしことなれば、伏見屋と尾張屋と秣商人《まぐさあきんど》と、互《たがひ》に相爭《あひあらそ》ひて、果《はて》しなかりき。

[やぶちゃん注:前掲の秋田一雄氏の論考では、秣商人は示さず、前の二者を火元候補として挙げられた上で、『いずれが真実かわからないが』、尾張屋『のほうが正しそうな気がする』と記しておられる。根拠は記しておられないが、以下の馬琴の、町奉行の吟味部分の記事を読むに、腑に落ちる事柄が語られてある。

「篙師(ふなびと)」「篙」(音「コウ」)は「船を進めるための竹竿(たけざお)」の意。]

 かくて、件の三人と、初に火を見出したる笥師をも、町奉行所【榊原主計頭殿《さかきばらかずへのかみどの》御番所。】へ召呼《めしよば》れて、吟味ありしに、伏見屋・尾張屋がまうす趣《おもむき》は、右のごとし。又、飼葉屋が。まうすやうは、

「やつがれは、出入の大名方へ、月每に定目《ぢやうもく》ありて、秣を納め候に、居宅《きよたく》より、程遠く候へば、尾張屋が構の材木置場の内を、些《すこし》ばかり、借用して、小屋をしつらひ、件の秣を入置《いれおき》候のみ。この四、五日は、『秣納め』の定日《ぢやうじつ》に候はねば、秣小屋の戶を開きしこと、なく、勿論、件の河岸へ立入りしことは、候はず。しかれども、やつがれが秣小屋より出火したるや。この儀は見とめざることなれば、いかにとも、まうしがたし。」

と、いひけり。

[やぶちゃん注:「榊原主計頭殿」旗本で、当時は江戸北町奉行であった榊原主計頭忠之(明和三(一七六六)年~天保八(一八三七)年)。当該ウィキによれば、彼は『迅速かつそつのない裁決を行い、江戸市民から人気があった。北町奉行在任は』十七『年に及び、これは歴代江戸町奉行中でも長期にわたる』。江戸後期の儒者山田三川(さんせん)が記した著名人二百八十四名のエピソード計千百四十一話を集めた一種の伝記的随筆「想古録」では、『「前任者が七八年、時には十年以上掛かっていた採決を二三日で行ってしまう」ほどのスピード裁判であったと伝えており、長期にわたる訴訟で訴訟費用に苦しんでいた江戸庶民から歓迎された。また、在任中に鼠小僧次郎吉、相馬大作、木鼠吉五郎など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した』とある名奉行として知られた人物であった。]

 これも亦、まうす所、實情に近く、且、その理《ことわり》あれば、いづれとも、定めかねられて、なほ、再三、吟味あり。

 しかるに、尾張屋には、二軒の枝店《してん》あり。そは、尾張屋佐兵衞、尾張屋德右衞門とか喚《よばは》るゝものども也。前《さき》の德右衞門【イ佐兵衞。】は、本店なる尾張屋に、年來《としごろ》仕へたる老手代也ければ、主人の娘を妻《め》あはして、出店《でみせ》にはしたる也。しかるに、件の材木置場は、本店なる尾張屋が構の河岸なれども、今の德右衞門が借用して、その身の材木を置くことも、久しくなりぬ。かゝりし程に、この年三月廿日に、德右衞門が老母、病死してけり。これにより、その夜《よ》さり、年わかき手代二人、棺に建《たて》る花筒《はなづつ》に、

「竹を伐らん。」

とて、小夜《さよ》ふけしころ、張灯《てうちん》を引提《ひきはり》つゝ、件の材木置場にゆきて、竹を伐りしことあり。この事、主人德右衞門は、しらざりければ、

「はじめ、吟味の折、『材木置場へ出入せしもの、一人もあらず候。』とまうせしに、再三の吟味に及びて、この事ありと聞えしには、德右衞門は知らずといふとも、その前夜に、二人の手代が、張灯をものして、材木置場にゆきしことありながら、數度の吟味に及ぶまで、推默《おしだま》りてありしこと、不埓《ふらち》也。定めて、隱情《をんじやう》あるべし。」

とて、件の手代二人は入牢し、火元は尾張屋德右衞門に定められて、おん咎《とが》を蒙《かうむ》りつゝ、件の材木置場は、百日許《ばかり》の間、灰だも搔くことを許されざりき。

 かくて、二人の手代等《ら》、しばしば、拷問ありしかど、

「聊《いささか》も、手あやまちせし覺《ぼえ》、候はず。」

と、いく度も、まふす[やぶちゃん注:ママ。]ことの違《たが》はざりしかば、榊原殿も、

『冤なるべし。』

と、おもはれけるにや、秋に至りて、評定所へ召出さるゝ罪人の茶の給仕などにして、苦艱《くげん》なきやうに、ものせられしとぞ。

[やぶちゃん注:「隱情」この場合は、町奉行が、この時は、「主家及び支店主人に対する申し訳ないという思いから、不当にその事実実態を隠蔽しているのであろう。」と推断したのである。]

 この事、多く世の人は知らず。只、さまざまに風聞したる也。

 これによれば、この火災は、誰があやまちより發りしといふことは、詳ならず。實《げ》に、是、天災也。彼《かの》尾張やの本店のあるじと親しかりける和泉屋【外神田金澤町《かなざわちやう》の髮結の隱居。】の源藏といふ老人が、おなじ年の八月、予が爲にいふ所、右のごとし。

[やぶちゃん注:底本でも、ここで以下が改行されてある。

「外神田金澤町」千代田区外神田三丁目の内。右下方に出荷元の神田佐久間河岸を配しておいた。]

2022/10/19

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 大空武左衞門

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、今回は段落を成形した。

 なお、この「大空武左衞門」(おほぞらぶざゑもん)は講談社「日本人名大辞典+Plus」によれば、寛政八(一七九六)年生まれで、天保三(一八三二)年に享年三十七で亡くなった力士で、肥後出身、本姓は坂口。文政一〇(一八二七)年に江戸の勝ノ浦部屋に入り、土俵入りを専門に務めた。身長二メートル二十七センチ、体重百三十一キロの巨人ぶりが評判となって、「牛股」「牛またぎ」と呼ばれ、錦絵にもなった当時の著名人である。サイト「東京散歩トリビア」の「江戸に現れた巨人。大空武左衛門(おおぞら ぶざえもん)」が詳しい(画像・手形碑有り)。また、サイト「山都町郷土史伝承会」の「大空武左衛門と角盤」も参考になる。さらに、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらPDF)で、まさに滝沢馬琴の賛の付随した、かの渡辺崋山(馬琴及び長男興継とは親しかった)の筆になる「大空武左衛門肖像」(最初のリンク先の解説によれば、この原画は、崋山が、所謂、ピンホール・カメラの一種である「カメラ・オブスクラ」(本文に出る「蘭鏡」がそれ)を使用して描いたとある)の亀屋文寳(かめやぶんぽう:大田南畝の弟子で二代目蜀山人を名乗った。馬琴の親友で本文にも出る。本書刊行に先立つ文政一二(一八二九)年に没している)の写本(文政一〇(一八二七)年頃)を見ることができ、さらに同じデータベースのこちらHTML)では、同じ時期に歌川国安が描いた錦絵も見ることが出来る。まずは、それらを見られてより、本文を読まれると、より面白いと存ずる。

 底本の挿絵は、最大でダウン・ロードし、トリミング補正をして原画像よりも、より見やすくした。]

 

   ○大空武左衞門

 文政十年丁亥《ひのとゐ》五月、江戶に來ぬる大男、大空武左衞門は、熊本候の領分、肥後州《ひごのくに》益城《ましき》郡矢部庄《やべのしやう》田所《たどころ》村なる農民の子也。今茲《こんじ》、二十有五歲になりぬ。身の長《たけ》、左の如し。

[やぶちゃん注:「文政十年」一八二七年。

「熊本候」文政十年時は細川斉護(なりもり:在位:文政九(一八二六)年~万延元(一八六〇)年)。

「益城郡矢部庄田所村」熊本県上益城(かみましき)郡山都町(やまとちょう)田所(グーグル・マップ・データ)。

 以下、底本では、二段組であるが、一段で示した。]

一、身長、七尺三分。[やぶちゃん注:二メートル二十一センチ。]

一、掌、一尺。[やぶちゃん注:三十・三センチ。]

一、跖《あしのうら》、一尺一寸五分。[やぶちゃん注:三十四・八センチ。]

一、身の重さ、三十二貫目。[やぶちゃん注:百二十キログラム。]

一、衣類着、丈け、五尺一寸。[やぶちゃん注:一メートル五十四・五センチ。]

一、身幅【前、九寸。後、一尺。】[やぶちゃん注:「九寸」は約二十七センチ。]

一、袖、一尺五寸五分。[やぶちゃん注:約四十六センチ。]

一、肩行、二尺二寸五分。[やぶちゃん注:約六十八センチ。]

 全身、瘦形にて、頭、小さく、帶より上、いと長く見ゆ。

 右武左衞門は熊本老候御供にて、當丁亥五月十一日、江戶屋敷へ來着、當時、巷街說には、牛をまたぎしにより、「牛股」と號するなど、いへりしは、虛說也。

 「大空」の號は、大坂にて、相撲取等が願出《ねがひいで》しかば、侯より賜ふ、といふ。是、實說也。

 武左衞門が父母幷《ならびに》兄弟は、尋常の身の長け也とぞ。父は既に歿して、今は母のみあり。生來、溫柔にて、小心也。力量は、いまだ、ためし見たることなし、といふ。

 右は同年の夏六月廿五日、亡友關東陽《せきとうやう》が柳河《やながは》候下谷の邸にて、武左衞門に面話せし折《をり》、見聞のまにまに、書つけたるを寫すもの也。

[やぶちゃん注:「關東陽」「兎園会」会員で「海棠庵」で頻出する三代に亙る書家関思亮(しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の号。本書に二年先立つ天保元(一八三〇)年九月に三十六の若さで亡くなっている。

「柳河侯」筑後国柳河藩の当時の藩主は立花鑑賢(あきかた:在位:文政三(一八二〇)年~天保元(一八三〇)年)。]

 下《しも》に粘《ねん》する武左衞門が指掌の圖は、右の席上にて、紙に印《しる》したるを、模寫す。當時、「武左衞門が手形也。」とて、坊賣《ぼてぶり》の板《はん》せしもの、兩三枚ありしが、皆、これと、おなじからず。又、武左衞門が肖像の錦畫、數十種、出《いで》たり【手拭にも染出せしもの、一、二種あり。】。後には、春畫めきたる猥褻の畫さへ摺出《すりいだ》せしかば、その筋なる役人より、あなぐり、禁じて、みだりがはしきものならぬも、彼が姿繪は、皆、絕板せられにけり。當時、人口に膾炙して、流行、甚しかりし事、想像(おもひや)るべし。

[やぶちゃん注:「坊賣」「振り売り」のこと。笊・木桶・木箱・籠を前後に取り付けた天秤棒を振り担いで、商品(又は種々のサービス)を売り歩いた業者。その異称である「棒手売(ぼてふ(ぶ)り)」の当て字であろう。

「あなぐり」警邏(けいら)し。]

 しかれども、武左衞門は、只、故鄕をのみ、戀《こひ》したひて、相撲取にならまく欲《ほつ》せず。この故に、江戶に至ること、久しからず、さらに侯に願ひまつりて、肥後の舊里に、かへりゆきにき。

[やぶちゃん注:ここは底本も改行している。]

 當時、この武左衞門を、林祭酒の、「見そなはさん。」とて、八代洲河岸の第《だい》に招かせ給ひし折、吾友渡邊華山も、まゐりて、その席末にあり。則、蘭鏡《らんきやう》を照らして、武左衞門が全身を圖したる畫幅あり。亡友文寶、揃來《そろひきたり》て、予に觀せしかば、予は又、そを、文寶に摹寫《もしや》せしめて、一幅を藏《をさ》めたり。この肖像は蘭法《らんぱふ》により、二面の水晶鏡を掛照らして、寫したるものなれば、一毫も差錯《ささく》あること、なし。錦繪に振り出せしは、似ざるもの、多かり。さばれ、件《くだん》の肖像は、大幅なれば、掛《かく》る處、なし。今こそあれ、後々には、話柄になるべきものにしあれば、その槪略を、しるすになん。

[やぶちゃん注:「林祭酒」儒者で林家第八代林大学頭(だいがくのかみ)述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。「祭酒」は大学頭(幕府直轄の昌平坂学問所を管理した役職)の唐名。

「差錯」乱れや、誤りのこと。

 図の以下は手形の上にあるキャプション。底本のそれは全体がポイント落ちの一字下げで改行されて載るが、字間の乱れがあるので、字下げは一部に留め、解説部を続けて電子化した。]

 

Ohozora1

 

 大空武左衞門手形

  (原寸六分の一)

 文政十年丁亥夏六月廿五日、柳河候の邸にて、武左衞門が掌に、燕脂《えんじ》を塗りて、紙に印したるを摹寫す。當時、坊間にて板せし渠《かれ》が手形は、これと、同じからず。合せ見ば、玉石立地に分明なるべし。

[やぶちゃん注:「燕脂」「臙脂」とも書く。本来は、臙脂虫(えんじむし)の雌から採取する赤色染料を指し、ウチワサボテン属(ナデシコ目サボテン科ウチワサボテン亜科 Opuntioideae)のサボテンに寄生する有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科コチニールカイガラムシ科コチニールカイガラムシ属コチニールカイガラムシ Dactylopius coccus の虫体に含まれる赤色系の色素を抽出したものを指す。アステカやインカ帝国などで古くから養殖され、染色用の染料に使われてきた。本邦には棲息せず、現代ではメキシコに分布するが、古くはインド・西アジア産のものがあり、江戸時代に大陸から到来してはいる。但し、ここでは、強い赤い色の色名として用いられているもので、恐らくは、キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctoriusキク科ベニバナから精製された「臙脂」を指しているものと思われる。

「玉石立地」意味不明。「ぎよくせきりつち」と読んでおくが、「玉(ぎょく)と石(いし)くれほどの違いがあり、立ちどころに真贋は明らかになるはずである。」の意であろうとは思う。

 以下は彼の草履の模写の画像。キャプションは底本通り、前に持ってきた。]

 

 大空武左衞門所ㇾ穿裏附草履(原寸五分の一)

[やぶちゃん注:「大空武左衞門、穿(は)く所(ところ)の裏附草履(うらつきざうり)」。後もキャプション風に挟まっている。]

 

Ohozora2

 

 亡友海棠庵は、その性《しやう》、好事《こうず》なりければ、かゝるものすら、もらさず、蠟墨《ろうずみ》にて、草履のはしばしを搨《す》りて、その形を、とりおきにたるを摹寫す。

[やぶちゃん注:以下の後の二行もキャプション。]

 

Ohozora3

 

肥後國熊本在、矢部村、出生。牛股武左衞門、

亥廿六歲、身丈《みのたけ》七尺六寸。

[やぶちゃん注:以下、本文に戻る。箇条は「一」の後に続くが、読点を挟み、二段組を一段とした。データが異なるのは、最後に示された瓦版のようなものに拠ったからである。]

 

   武左衞門、人品、幷、「牛股」と名乘る事

一、年二十六歲。

一、身重さ五十二貫目。[やぶちゃん注:底本には「五十」の右にママ注記がある。百九十六キログラムは流石におかしい。]

一、身の長《たけ》、七尺六寸。[やぶちゃん注:二メートル三十センチ。]

一、かほ、長《ながさ》、二尺二寸。[やぶちゃん注:三十六・三センチ。]

一、手首より中指迄、一尺二寸。[やぶちゃん注:約三十六・四センチ。]

一、たび、長、一尺四寸。[やぶちゃん注:四十二・四センチ。]

一、兩手を合せ、米、一升三合、入《いる》。[やぶちゃん注:米の重量換算で一キロ九百五十グラム。]

一、こし、巡《めぐ》り、八尺一寸。[やぶちゃん注:約二メートル四十五センチ。]

 熊本より二十里ほど、東の方、矢部むらの出生也。しぜんと、太守の御聞《ごぶん》にたつし、

「御らん被ㇾ遊度《たし》。」

との上意に付、衣類・上下《かみしも》を下さる。其寸法、着丈《きだけ》、六尺二寸[やぶちゃん注:一メートル八十八センチ弱。]、袖、二尺三寸[やぶちゃん注:約三十九・四センチ。]。

「酒食をあたへ、酒と飯とは、はかり、ためすべき。」

よしの上意、まづ、酒五升、米五升、其外、種々《しゆじゆ》、御料理を給はる。

 太守、御すき見あそばさる。

 およそ、酒三升、のむ。飯は、五升を、半分、給べる。一尺五、六寸[やぶちゃん注:約四十五~四十八センチ。]の鯛、三まい、二まいを、さしみ、一まいを、「あら」ともに煮附にしたるを、殘らず、たべる。

 御側の衆、

「いまだ給べる哉《や》。」

 武左衞門、申上《まをしあげ》る。

「ぼう食は、毒なるよし、父母、申候へども、珍味、御料理ゆゑ、父母にそむき、たべすぎ候。」

と申《まをす》。

 その後《のち》、御狩野《おかりの》の節、

「武左衞門を、つれ行《ゆく》べき。」

との上意、前々日、よびよせ、御ぜん所にて、御遠見《おとほみ》被ㇾ遊、

「にこやかなる奴《やつこ》也。」

との上意、太守の一言、捨置《すておき》ならず、一升ぶち・五人扶持、給はる。

「御なぐさみも。」

とて、色々の力業《ちからわざ》を御覽に入《いる》る中に、大《おほき》なるコトヒウシを、ひき出《いだ》し、たゝせおき、そのうしの脊を、またぎ、こす。

 太守、不ㇾ斜《なのめならず》、

「くつきやう也。」

と、上意なり。

「名を『牛股《うしまたぎ》』と名乘《なのる》べし。」

との上意、明日《みやうにち》、刀・脇差を給はるべし。

[やぶちゃん注:「コトヒウシ」「特牛(ことひうし)」強健で大きな牡牛(おうし)を指す語。

 以下の段落は、底本では、全体が一字下げ。]

 文政十丁亥年五月十八日、市中を賣あるきしを購得《かひえ》たり。「このもの、本月、江戶に到る。猶、道中なり。」といふ。或は、「既に到來しつ。」とも、いへり。到來といへるが、實《まこと》なるべし。

 右に貼《てん》せしは、世にサゲとか、唱《となへ》らるゝ「ゑせ商人《あきんど》」の、當時、巷を喚《よばは》りつゝ、賣《うり》もて、ありきし也。かゝる類《たぐひ》に、三板《さんぱん》あり。六、七月に至《いたり》て、肖像の錦繪、多く、出たり。それも、はじめは「牛股」としるせしを、後には、皆、「大空」と改めて出《いだ》せり。身のたけなど、或は、推量をもて、しるし、或は傳聞によれるのみなれば、謬《あやま》りならざるは、なかりき。只、上に識《する》すもの、實事也。もて、標準となすべし。

[やぶちゃん注:「サゲ」小学館「日本国語大辞典」に、『江戸時代、事件を印刷して急報することを業とした者。また、その印刷物。』とあり、なんとまあ、例として、ここが引用されていた。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 雀戰追考

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、今回は段落を成形した。

 本篇は『曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~追記 雀戰』の追考である。標題はそれに合わせて「すずめいくさ ついかう」と読んでおく。]

 

   〇雀戰追考

 客の云《いはく》、

「「左經記《さけいき》」に、後一條院長元四年五月二日、宇佐宮、神殿にて、雀、鬪ひ、或《あるい》は、栖《すみか》を作る、といふこと、見えたり。」

と、いへり。

 「左經記」は藏弃《ざうき》せざれば、「大日本史」、後一條帝の紀を檢索せしに、「日本史」には、八月四日の下《した》に見えたり。五月にありし事を、八月に至りて言上しつるにや。こゝろ得じ【以上、木默老人の說なり。】。

 よりて、予も亦、「大日本史」【卷三十八。】後一條天皇の紀を閱《けみ》するに、「史」に云、『長元四年云々、八月四日己卯。卜群雀巢宇佐宮殿上於軒廊【「紀略」、『係十二日、十七日、今從「左經記」。』。】と、ばかり、ありて、「雀戰」の文、なし。註に『今從「左經記」。』と、あれば、客の『五月二日云々』といへりしは、暗記の失《しつ》には、あらずや。なほ、考ふべし【「扶桑略記」、長元四年の條に、雀戰の事、漏れたり。】。

 愚、按ずるに、「巢」は「栖」を爭ふことにて、雛を生《しやう》ぜん爲に、巢を、いとなみ、作りしには、あらざるか。又、八月、巢を作ることの奇異なれば、おん卜《ぼく》、ありしか。不審。

○小津桂窓云【伊勢松坂の人。】、

「文政十二、三年の頃、遠州秋葉山街道、森村といふ所にて、雀戰ありしよし、同鄕の何がし、いへり。そは、その人の正しく見たるにあらず、掛川なる相識《さうしき》より、告《つげ》おこせし事なれど、虛談にあらず。」

といへり。

 又、一說に、凡《およそ》、春每《ごと》に、雀の雛、多く生ずれば、秋にいたりて、ねぐらを爭ふて、群《むれ》、戰《たたか》ふこと、田舍には、折々、これあり。怪しむに足らず。」

と、いへり。「本集」第十六【「別集」下卷。】に收めたる、壬辰の秋、湯島天澤山麟祥院の隣寺《となりでら》にてありし雀戰の條下に、これらのよしを、漏《もら》したれば、追錄す。和漢の故實は、なほ又、異日、暇《いとま》あらん折《をり》に、考索して、別にしるすべし【又、三、四年前、伊勢の白子のほとりにて、雀戰ありけるよし、松坂なる殿村篠齋《とのむらじやうさい》より告らる。かゝること、なほ、あるべし。】

天保四癸已年春二月下旬、伊勢松坂村、篠齋より、差越候書付、

      覺

凡、四十年前、

一、津、古川と申《まをす》所え、雀、夥敷《おびただしく》集り候よし。

廿七年前、

一、神戶《かんべ》領高岡村え、夥敷、集り、四、五町四方え、鳴聲、聞え候よし。

五年以前、

一、御領分郡山《こほりやま》村。

 是は、雙方、藪へ集り、折々、食合《くひあひ》、少々、死鳥《してう》も出來《しゆつらい》候よし。最《もつとも》、六、七日の間に候由。

去《さる》卯六月末より、七月初《はじめ》迄、

一、同、圓應寺村。

 畠中、又は、藪へ、夥敷、集り、畠場《はたば》、荒し候に付、近村へ、每日、人夫十人宛《づつ》、追人《おひびと》出《いだ》し候由。是、又、折々、食合、少々づゝは、死鳥も出來候て、鳴聲、三、四町、四方へ響《ひびき》候由に御座候。

一、玉垣村の儀者《は》、聞合《ききあひ》候處、存知候者《もの》、無御座候。

一、江戶、當年、集り候者《は》、「むく鳥」に御座候。

右の通《とほり》、模寄《もより》の者に相尋候處、實說に御座候。在中《ざいうち》には、前段の事共《ども》、折々、御座候由。「不ㇾ珍《めづらしからず》。」抔と申居候。

中にも、前《さき》、申上候者《ば》、其内、目立《めだち》候筋《すぢ》にて、見物に罷出候者も御座候也。

 辰十二月十八日       市 兵 衞

    佐六樣

[やぶちゃん注:「左經記」平安中期に書かれた参議左大弁源経頼の日記。「経頼記」「糸束記」とも呼ぶ。写本で 十五冊。欠けている年もあるが、長和五(一〇一六)年 から長元九(一〇三六)年の記事を含み、当時の宮廷儀式・摂関政治・貴族の生活などを知る上で貴重な史料である(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「長元四年五月二日」ユリウス暦一〇二九年六月十六日。グレゴリオ暦換算で六月二十二日。

「宇佐宮」現在の大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮(グーグル・マップ・データ。以下、指示のないものは同じ)。馬琴が不審を抱いている通りで、国立国会図書館デジタルコレクションの大正四(一九一五)年日本史籍保存会編の「左經記」の長元四年五月二日の条を見たが、そんな記事はない。馬琴の指示する長元四年八月四日の条に、

   *

依宇佐宮恠異、可有軒廊御卜也、

   *

とあり(右ページ上段九行目)、さらに、同じページの下段の九行目に、その具体な「恠異」の内容が、

   *

自去五月二日、至于晦比、宇佐神殿上、雀群集、或作栖云々、

   *

とあった。

「藏弃」整理せずに蔵書すること。蔵書の謙遜の辞と思う。

『「大日本史」後一條帝の紀』「八月四日の下に見えたり」の「卷三十八」は馬琴の誤りで、「卷之四十」である国立国会図書館デジタルコレクションの明治三三(一九〇〇)年刊の「大日本史」第五冊のここ。右ページの九行目に、

   *

八月四日己卯、卜郡雀巢宇佐宮殿上於軒廊、【左經記○日本記略 係十二月十七日

   *

「木默老人」『曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~追記 雀戰』に出るが、不詳。

「扶桑略記」歴史書。元三十巻。天台僧皇円の著になり、平安末期に成立した。漢文体による神武天皇から堀河天皇に至る間の編年史書。仏教関係の記事が主で、現存するのは十六巻分と抄本である。

「小津桂窓」小津久足(おづひさたり 文化元(一八〇四)年~安政五(一八五八)年)は江戸深川に店を構えた豪商で、松坂の干鰯問屋「湯浅屋」の六代目で、蔵書家にして紀行家。当該ウィキによれば、十四『歳で本居春庭に師事し』、『国学・和歌を学ぶ』。文政五(一八二二)年に『家督を継いだ後も』、『詠歌に励み』、文政十一年に『春庭が没した後は』、『その継嗣である有郷の後見人となって』、『歌会を取り仕切った』。天保八(一八三七)年に『家督を婿に譲り』、『稼業を退いた後も』、『詠歌を続け、生涯に』実に七『万首以上の歌を詠』んでいる。「文政元年久足詠草」など四十を『超える歌稿本』を成し、『歌論書として』「桂窓一家言」を記している。『紀行家としての久足は』、十九『歳の時に綴った』「吉野の山づと」を始めとして、「陸奥日記」など、生涯に四十六点の『紀行文を残すが、その作品は友人である曲亭馬琴をして「大才子」と評価される程質の高いものであ』あった。また、『久足は蔵書家としても知られており、幅広い分野の書籍、数万巻を所蔵した』「西荘文庫」は、『曲亭馬琴・本居宣長・上田秋成らの自筆本などの貴重な本を多数含む、近世後期を代表する文庫である』。『馬琴の愛読者であった久足は』、『同郷の友人殿村篠斎の紹介により』、『知己となって以降』、「八犬伝」などの『作品に対する詳細な批評を馬琴に送』り、『馬琴もまた』、『久足の批評に対して丁寧に回答するなど、「馬琴三友」の一人として親密な交際を続けた』とあり、驚くべきことに、『映画監督の小津安二郎は久足の異母弟の孫』とある。

「文政十二、三年」一八二九年から一八三一年(文政十三年十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元している)。

「遠州秋葉山街道、森村」静岡県周智郡森町(もりまち)。因みに、「町」を「まち」と読むのは静岡県でここのみである。秋葉山の南東直近。

「掛川」静岡県掛川市。森町の南東直近。

「相識」互いによく知っている知人。

『「本集」第十六【「別集」下卷。】に收めたる、壬辰の秋、湯島天澤山麟祥院の隣寺《となりでら》にてありし雀戰の條下』既にリンクさせた正編のこと。

「伊勢の白子」三重県鈴鹿市白子(しろこ)。

「殿村篠齋」既出既注

「天保四癸已年春二月下旬」一八三三年。

「凡、四十年前」寛政五(一七九三)年前後。

「津古川」三重県津市の古河町域か。

「廿七年前」文化三(一八〇六)年頃。

「神戶領高岡村」旧神戸(かんべ)藩領であった三重県津市一志町のこの附近。伊勢は、江戸時代、藩と天領が混在していたため、この市兵衛なる者の書き方では、村域を確定することがやや難しい。

「四、五町」約四百三十七~五百四十五メートル強。

「五年以前」天保一二(一八四一)年頃。

「御領分郡山村」この「御領分」は前の条を受けた同じ神戸藩の「御領分」の意であろう。とすれば、これは三重県鈴鹿市郡山町(こおりやまちょう)と断定出来る。

「食合」私はスズメが共食いをするというのを聴いたことがない。スズメが相互に戦って結果して死んだというのも、不学にして、知らない。従って、この「戰」「鬪」も含めて、甚だ不審を持っている。その真相の私の推定は既に『曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~追記 雀戰』の注で述べたので、参照されたい。

「去卯六月末より、七月初」この書簡の書かれた前年は天保三年で、その六月は大の月で六月三十日、グレゴリオ暦では八月七日である。

「同、圓應寺村」現在の三重県鈴鹿市郡山町及び三重県津市河芸町(かわげちょう)西千里(にしちさと)に跨る旧村名。「Stanford Digital Repository」の戦前の地図で「圓應寺」村が確認出来る(左上部)。

「追人」雀を追い払う役の者。

「三、四町」約三百二十八~四百三十六メートル。

「玉垣村」三重県鈴鹿市内のここに南・北・東玉垣町の三町がある。

「むく鳥」ズメ目ムクドリ科ムクドリ属ムクドリ Sturnus cineraceus 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 椋鳥(むくどり) (ムクドリ)」を参照されたい。

「市兵衞」不詳。小津久足の隠居した元使用人か。

「佐六」殿村篠斎の隠居後の名。]

2022/10/18

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 靈蝦蟇靈蛇

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、今回は段落を成形した。標題は「れいひき・れいじや」と読んでおく。]

 

   ○靈蝦蟇靈蛇

 東叡山御領、根岸の御隱殿《ごいんでん》に、辨才天の祠《ほこら》あり。神體は畫幅《ぐわふく》也。

「利益あり。」

とて、その邊の良賤は、常に參詣す。

[やぶちゃん注:「東叡山御領」(ごりやう)「根岸の御隱殿」東叡山寛永寺本坊で公務をこなしていた門跡輪王寺宮さまが、時に、息抜きをするために設けられていた、旧根岸にあった別邸。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「根岸谷中辺絵図」右上方の判例下方に「東叡山御山内」とあり、その左手に「御隱殿」が確認出来る。グーグル・マップでは、ここの中央附近一帯に当たる。寺からそちらへ下る御隠殿坂を左中央に配した。また、サイト「おでかけナビ」の「御隠殿跡碑」のページに『敷地は三千数百坪で、老松の林に囲まれた池を持つ優雅な庭園で、ここから眺める月が美しかったといわれ』たが、慶応四(一八六八)年の「上野戦争」に『よって焼失し、現在は全くその跡を留めてい』ないとあり、その遺跡を示す碑が根岸薬師堂(地図有り)にある旨の記載がある。

「祠」「ほこら」。]

 文政三年壬辰の冬十一月中旬、宮樣御家來にて、御隱殿の勤役《つとめやく》すなる豐田冲見といふもの、夫婦、彼《かの》辨天に參詣したるに、その夜、豐田が家僕《かぼく》の夢に、物ありて、告《つぐ》るやう、

「われは、當家の庖廚《くりや》なる上下流(うはながし)の下《した》に、年來《としごろ》、栖《すめ》る癩蝦蟇也。けふしも、主人夫婦、前面《まへおもて》なる辨天の祠に【冲見が宅は御隱殿の邊に在り。彼《かの》辨天の祠と遙《はるか》に向へりといふ。】、參詣の折、婦人は月の障りありて不淨也。折から、御橋の下に靈蛇ありて、行法《ぎやうはふ》を修《じゆ》してありしに、件《くだん》の不淨に觸れて、行法、破れたり。是により、靈蛇は、主人夫婦を怨みぬ。明晚、その怨《うらみ》を復さん爲に、あまたの蛇を駈催《かけもよほ》して、推《おし》よせ來つべし。われ、年來の報恩の爲《ため》、命を捨て、蛇孼《へびのわざはひ/じやげつ》を防《ふせが》んとは思へども、一己《いつこ》の力に及ばずば、われを助けて、かの蛇を逐拂《おひはら》ひ給へ。」

と、いひけり。

[やぶちゃん注:「文政三年壬辰」(みづのとたつ/じんしん:但し、底本はこの干支の横にママ注記あり)「の冬十一月中旬」文政三年は「庚辰」(かのえたつ/こうしん)である。文政に「壬辰」はないので、この場合、「文政三年」を信用する(干支の誤りはそれだけで史料的真実性が否定されるのが普通)。グレゴリオ暦では一八二〇年十二月十五日から二十三日までとなる。

「上下流(うはながし)」家内の床の上で用いる炊事用の流し台。

「癩蝦蟇」ハンセン病を患ったヒキガエル。ハンセン病、旧「癩病」(これは永く不当に差別されてきている病名であるから、現在は使うべきではない)については、先般、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十七 人の魂、死人を喰らふ事 附 精魂寺ヘ來る事」』の「癩病氣」で注したので、そちら、及び、その私の注のリンク先を読まれたい。この謂いは甚だ差別的で気に入らない。ハンセン病の皮膚病変はさまざまあるが、時に、ヒキガエルの背面のような顆粒状の変成を示すことがあり、単にそれをミミクリーとして、かく名づけたことが判るからである。

「豐田冲見」「とよだおきみ」或いは「よよだちゆうけん」。前者で読んでおく。

「月の障り」メンス。旧民俗社会の「血の穢れ」である。]

 天明《よあけ》て、僕、この夢を主人に告るに、半信半疑しつれども、聊《いささか》、心におぼえや、ありけん、

「縱《たとひ》、實《じつ》なき夢想也とも。」

とて、その夜は間《ま》每《ごと》に燈燭《たうしよく》を點じて、主・僕、おのおの、刀を佩《は》き、鎗・棒を引《ひき》つけて、終夜、まちけれども、『怪し』と思ふこともなくて、既にして、天は明《あけ》けり。

「さては。虛夢にこそありけめ、さりながら、彼《かの》蝦蟇は、『とし來《ごろ》、下流邊《したながしへん》」にあり。』といへば、まづ、よく、そこらを見よ。」

といひつゝ、主・僕、流しを引起《ひきおこ》しつゝ見るに、果して、殊に大きなる癩蝦幕の、死して、仰《あふのけ》ざまになりたる、あり。

 かゝれば、

『よしあることに、こそ。』

と思ふに、胸は、安からず。

「その死したる蝦蟇をば、家構《いへがまへ》の内《うち》に埋《うづ》めよ。」

と吩附《いひつ》けるに、この日は、これ彼《かれ》と、事の多くて、いまだ、埋めざりけるに、この夜、又、彼《かの》癩蝦蟇が、主人の夢にみえて、

「某《それがし》、既に命《いのち》を捨《すて》て、蛇孼を退《しりぞ》け候へば、この後《のち》、祟り、あるべからず。後《あと》安く思ひ給へ。又、某が亡骸《なきがら》は鼠山《ねづみやま》にもてゆきて、彼處《かしこ》に埋め給ひねかし。わが命數の盡きたれども、種《たね》を當所《たうしよ》に遺《のこ》したれば、なほも、おん家《け》を守るべし。疑ひ給ふべからず。」

と、いひけり。

[やぶちゃん注:」「鼠山」ちょっと前に、「甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件」で、『個人ブログ『Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク』の『江戸期の絵図でたどる「鼠山」』で古地図を用いて細かな考証がなされている。恐らくは、下落合の丘陵地帯で、この「御留山」辺りに近いか。』と注したのだが、どうも、御隠殿と位置が離れ過ぎているのが、気になった。而して、実はもっとずーっと以前に私は「鼠山」を注に出していることに気づいたのであった。それは「耳嚢 巻之八 租墳を披得し事」の中で、「感應寺」という寺への注の中でである。詳しい経緯は、そちらの注を読まれたいが、この寺は通称を「鼠山感応寺」と呼ぶ日蓮宗であったものが、天保四(一八三三)年の宗門改により、同寺が、幕府が激しく弾圧した日蓮宗のファンダメンタルな不受不施派に属していたことが発覚し、天台宗へ改宗したのだったが、後に、再び日蓮宗に改宗する再興運動が日蓮宗内に起こった。ここで輪王寺宮舜仁法親王で、その働きによって、日蓮宗への改宗は中止となり、長耀山感応寺から護国山天王寺(現在の東京都台東区谷中にあり、寛永寺の直近であり、寛永寺とともに門跡寺院でのである)へ改称しているのである。但し、日蓮宗再興のそれも汲んで、別に上記リンク先の鼠山に、天保六(一八三五)年に感応寺の寺の再興が認められたのである。則ち、ここに僅かながら、この場所と鼠山の接点が見えてくるのである。本篇の事件内の時制は文政三(一八二〇)年であるが、本篇が書かれたのは、最後の割注によって天保四(一八三三)年一月以降である。則ち、タイトだが、この話、実は、執筆時に形成された新しい「噂話」だったのではなかろうか? そこにうっかり、新しい感応寺の通称、「鼠山」を出してしまったというのが、真相ではないか? いや、もしかすると、この怪談を考えた人物は、感応寺のままで、日蓮宗としてここに再興して貰いたかった一派に属していた者のではなかったか? さればこそ、確信犯で、この蝦蟇を日蓮宗の信者ならぬ「信蝦蟇」として描き、「鼠山」へ遺骸を葬って呉れ、と言わせているのではなかろうか? 但し、感王寺は天保一二(一八四一)年に再興の中心人物であった僧日啓が女犯の罪で捕縛され、遠島を申し渡されたが、牢死し、感応寺は破却・廃寺となって現存しない。]

 主人は奇異の思をなして、則、蝦蟇の亡骸を鼠山に埋めたるに、その夜、又、件《くだん》の蛇が、主人冲見の夢にみえて、

「嚮《さき》には、『婦人の不淨によりて、わが行法の破れたる怨を復さん。』と思ひしに、癩蝦蟇に防がれて、宿意をば、得《え》果さねども、あるじ夫婦の身代《みがは》りに立《たつ》たる蝦蟇を殺したれば、今は、怨の、はれたる也。されば、『今より、怨を轉じて、われも當家の守護神にならん。』とばかりにして、驗《しるし》なくば、なほ、疑《うたがは》しく思はれん。翌《あす》、辨天に參詣し給へ。その折《をり》、必《かならず》、見るよし、あらん。扨《さて》、宿所にかへりし折、鞠箱《まりばこ》を、開きて見給へ。さらば、應驗を知るに足らん。」

と、告らるゝと思へば、夢、さめけり。

 あるじは、いよいよ、怪《あやし》み、おそれて、明《あけ》の朝、御隱殿なる辨才天に參詣しけるに、社壇の内より、忽然と、蛇、ふたつ、走り出で、ひとつは、祠の簀子(えし)[やぶちゃん注:簀(す)の子(こ)。]の下に走り隱れ、一蛇《いちじや》は、神前なる池の内に走り入《いり》て、共に、みえず、なりにけり。

 かくて、宿所に立《たち》かへりて、鞠箱を【冲見は蹴鞠を嗜むにより、祕藏の鞠ありと云。則、その箱なり。】とりおろし、やがて葢《ふた》をひらきて見るに、箱の内に、いと、ちひさなる蝦蟇と、小蛇、ありけり。

 こゝに至て、あるじ夫婦は、いよいよ、驚き、且、歡びて、小蝦蟇をば、庖廚なる、上ながしのほとりに放ち、小蛇をば、硝子《がらす》の壜《びん》に沙を敷き、その内に藏《をさ》めて、日々に祭る、といふ。

 この一條は、鈴木有年の話也。

「昔ばなしにありぬべき、怪談に似たる事ながら、彼《かの》豐田生は、德ある人にて、常住坐臥に恭謙ならざることなし。かゝれば、虛談をいふべくもあらず。」

と云《いふ》。

 鈴木生も、同家臣にて、家は根津の三島門前にあり。豐田の居宅と相去《あひさ》ること、遠からず。正《まさ》しく、その小蛇を見て、いひおこしたる奇事なれば、聞けるまにまに、しるすになん【壬辰冬閏十一月十九日、琴嶺、が有年の「喪《も》ごもり」を問ひし折《をり》、この事を聞《きけ》る也けり。】。

 傳聞のまゝなれば、漏れたる事も、たがへることも、あらん。そは異日、有年に面會の折、たゞすべし。

[やぶちゃん注:「壬辰冬閏十一月十九日」天保三年のこの日は、グレゴリオ暦では既に一八三三年一月九日。

「琴嶺」馬琴の長男瀧澤興継(おきつぐ)。「琴嶺舍」(きんれいしゃ)は彼の号。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 目黑魚

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入した。]

 

   ○目黑魚

天保三年壬辰の春二月上旬より三月に至て、目黑魚【鮪の類なり。】、最、下直也。いづれも中まぐろにて、二尺五、六寸、或は、三尺許のもの、小田原河岸の相場、「一尾、二百文也。」など聞えしが、後には裁賣[やぶちゃん注:「きりうり」。]も、片身、百文、ちひさきは、八十文に賣たり。巷路々々に、まぐろ、たち賣をなすもの、多くあり。わづかに廿四文許、費せば、兩三人、飯のあはせ物にして、なほ、あまりあり。かくまで、まぐろの多く捉られたる事は、おぼえず。さりながら、旬はづれの魚なれば、味ひ、可ならず。「餘魚、最、高料にて、河岸にも稀也。」といふ。さればにや、鯛・平魚・ほふぼふ・かながしらなど、春の物ながら、賣あるくものは、なかりき。一奇といふべし。無益の事ながら、後の話柄の爲に、しるしつ【壬辰三月四日記。】。

[やぶちゃん注:「天保三年壬辰の春二月上旬より三月」グレゴリオ暦で一八三二年三月十二から四月三日(陰暦三月四日)相当。

「最、下直也」「もつとも、げぢきなり」。最安値を更新したことを言う。因みに、天保元年で米一升の小売値は百五十文、酒一升は百二十から二百文であった。

「小田原河岸」現在の中央区築地六丁目(グーグル・マップ・データ)。

「平魚」「旬」と言っているので、条鰭綱カレイ目カレイ亜目ヒラメ科ヒラメ属ヒラメ Paralichthys olivaceus ととっておく。

「ほふぼふ」新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目コチ亜目ホウボウ科ホウボウ属ホウボウ Chelidonichthys spinosus

「かながしら」ホウボウ科カナガシラ属カナガシラ Lepidotrigla microptera 。思わず、馬琴の魚の好みが判る形となっている。

「無益の事ながら、後の話柄の爲に、しるしつ」あんまり、以下の話の枕にはなっていないと思うがなぁ。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 雷雪

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入した。]

 

   ○雷雪

天保二年辛卯冬十二月十八日の朝、伊勢松坂邊、雪中に雷鳴あり。その中に、大雷鳴、三聲、大坂も亦、おなじ。京は雷のみにて、雪はふらざりし、といふ。この事、松坂なる殿村篠齋の郵書に告らる。篠齋は、雷を怕るゝ癖あれば、俄に蚊帳を垂れて籠り居たりし、とぞ。江戶も、この日、雪はふりたれども、雷鳴は、なし。但、每夜、深更に遠電ありしのみ、越後などには、雪中の雷も稀にはありと、かねて聞えしかども、そは、名におふ雪國なればなん、この例には、なしがたし。按ずるに、宋の周密が「癸辛雜識」云、『至元庚寅正月二十九日癸酉。是年二月三日春分。送女子吳氏。至博陸早雪作。至未時電光。繼以大雷。雪下如ㇾ傾。而雷不ㇾ止。天地爲ㇾ之陡黑。余生平所未見。爲驚懼者終日。客云。記得。春秋魯隱公九年三月。三國吳主孫亮太平二年二月。晉安帝元興三年正月。義煕六年正月。皆有雷雪之變。未ㇾ及ㇾ考也。』【「見續集」第四十八條、○周密字公謹。宋末人。至元元世祖號。庚寅當ㇾ作丙寅。】。

[やぶちゃん注:「天保二年辛卯」(かのとう/しんぼう)「冬十二月十八日」グレゴリオ暦では既に一八三二年一月十六日。

「殿村篠齋」(とのむらじやうさい)は国学者殿村安守(やすもり 安永八(一七七九)年~弘化四(一八四七)年)の号。本姓は大神。伊勢松坂の商人殿村家の分家の嫡男。本家を継いで、殿村整方の養子となった。寛政六(一七九四)年に養父に倣って本居宣長に入門し、寵愛を受けた。宣長没後は本居春庭に師事し、盲目の春庭を物心両面から援助した。馬琴とは特に親しく、「南総里見八犬伝」や「朝夷巡島記」を批評し、これに馬琴が答えた「犬夷評判記」があるが、実際には、その殆んどは馬琴の手になったものではないかともされる(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「周密」(一二三二年~一二九八年)は宋末元初の文人で詩人・詞人。呉興(浙江省)の人。原籍は済南(山東省)。宋末に任官したが、宋の滅亡後は杭州に流寓し、風雅の生涯を送った。詩文・書画に優れ、美術の鑑識で重んじられた。歌辞文芸「詞」に於いて、殊に有名で、先輩の呉文英と「二窓」と並び称さられ、高雅幽遠な南宋文人詞を代表する詩人である。詩集は「草窓韻語」、詞集は「蘋洲漁笛譜」(「草窓詞」とも)。また、詞の名作を選んだ「絶妙好詞」を編集している。ほかに美術評論「雲煙過眼録」や随筆「武林旧事」・「斉東野語」(せいとうやご)などがある(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「癸辛雜識」(きしんざっしき:現代仮名遣)は周密が見聞した多くの出来事を記載した随筆で、当時の社会状況を知る重要な資料とされる。以下は、同書の「続集」の上の「雷雪」で、維基文庫のこちらに電子化されてある(「48雷雪」)。それと比べると、若干の異同がある。以上の訓読を自然流で試みる。返り点のない一部でそれに従わずに読んだ。

   *

至元庚寅(こういん)正月二十九日癸酉(きいう)、是の年、二月三日、春分なり。女子を送る。吳氏へ嫁せり。博陸(はくりく)に至りて、早(はや)、雪と作(な)る。未(ひつじ)の時に至りて、電光あり、繼いで、大雷(だいらい)を以つてす。雪の下(ふ)ること、傾(かたぶ)くがごとく、而(しか)も、雷、止まず。天地、之れが爲めに陡(には)かにして黑(くら)し。余、生平(ひごろ)、未見の所なれば、驚懼を爲(な)すは、終日たり。客、云はく、「記得(きどく)するに、「春秋」に『魯の隱公九年三月』と、三國の吳主孫亮の太平二年二月と、晉の安帝の元興三年正月と、義煕(ぎき)六年正月と、皆、雷雪の變、有り。』と。」と。未だ、考ふるに及ばざるなり【「續集」の第四十八條を見よ。○周密、字(あざな)は公謹、宋末の人。「至元」は元の世祖の號。「庚寅」は當(まさ)に「丙寅」と作(な)すべし。】。

   *

「博陸」は地名(不詳)ととった。「未の時」午後二時前後。「記得するに」「私の記憶によれば」。「魯の隱公九年」紀元前七一四年。所持する岩波文庫版「春秋左氏伝」の当該条に『三月癸酉、大雨、震電ス。庚辰、大イニ雪雨(フ)ル』とあるが、これは「雪中の雷」ではなく、時季外れの雷と雪の天変の意である。「吳主孫亮の太平二年二月」二五七年。「晉の安帝の元興三年正月」東晋で四〇四年。「義煕六年正月」前と同じ東晋の安帝の年号で、四一〇年。割注は馬琴によるもの。「號」元号。馬琴はここで元号の干支が誤っているとして「庚寅」は「丙寅」とすべきであると言っているのだが、「是の年、二月三日、春分なり」を根拠として逆算したもの。確認済み。「至元」はモンゴル帝国のカアン・クビライ(元の世祖)の治世で用いられもので、元年は一二六四年で、至元三十一年まで。「至元」の「庚寅」は至元二十七年で一二九〇年、「丙寅」は至元三年で一二六六年である。

   *]

「草木子」云、『雪中雷電。自至正【元順宗年號。】、至庚寅【至正十年。】。已後屢々見ㇾ之。葢陰陽差升之氣。異平常也。辛亥【明太祖洪武四年。】春正月十一日。雷而大雪者凡三四日。又其甚也【見二卷三「克謹篇」。】。又按。明錢希言「獪園」云、『萬曆癸丑冬十二月二十六日。立春先一日。夜半子刻忽有烈風暴雨。震雷閃電。一時交作。霹靂數聲。擊ㇾ人而死。月駕園千年怪柏。爲ㇾ風吹斷。遲明乃定。占者謂、「冬行夏令。主其國澇。」。至明年甲寅五月。果大水。然幸不ㇾ爲ㇾ苗矣。」【卷十五「妖草編」。】。

[やぶちゃん注:同前で訓読を試みる。

「草木子」に云はく、『雪中の雷電は、至正より【元の順宗の年號。】庚寅(こういん)に至り【至正十年。】、已後(いご)、屢々(しばしば)、之れを見たり。葢(けだ)し、陰陽の差升(さしよう)の氣、平常と異(こと)なるなり。辛亥(しんがい)【明の太祖洪武四年。】春正月十一日、雷して、大雪するは、凡そ、三、四日。又、其れ、甚だしきなり【二卷三「克謹篇」を見よ。】。又、按ずるに、明の錢希言が「獪園」(くわいゑん)云はく、『萬曆癸丑(きちう)冬十二月二十六日、立春は先きの一日(ついたち)たり。夜半、子(ね)の刻、忽ち、烈風暴雨、有り。震雷・閃電、一時は交じり作(な)す。霹靂、數聲、人を擊ちて、人をして、死せし。月駕園の千年の怪柏(くわいはく)、風の爲めに、吹き斷(を)れり。遲明にして、乃(すなは)ち、定(ぢやう)せり。占者、謂はく、「冬行夏令(とうぎやうかれい)、其れ、國澇(こくらう)を主(あるじ)す。」と。明年(みやうねん)甲寅(こういん)五月に至りて、果(はた)して、大水(おほみづ)あり。然れども、幸ひにして、菑(わざは)ひとは、爲(な)らず。』と【卷十五「妖草編」。】。

   *

「草木子」元末・明初の葉子奇の撰になる文学的散文。「至正」元年は一三四一年。「差升」不詳。陰陽の気の変動を言うか。「明の太祖洪武四年」一三七一年。「明の錢希言」官人。「獪園」は志怪小説らしい。「萬曆癸丑」万暦四十一年で一六一三年。「立春は先きの一日たり」二月一日。確認済み。「月駕園の千年の怪柏、風の爲めに、吹き斷たる」『「月駕園」という庭園(不詳)にある樹齢千年とされる、妖しくも名樹たる古木の柏(はく:中国ではカシワではなく、ヒノキの類を指す)が、その暴風のために、吹き折られた。』。「遲明」夜明けがた。暁よりは曙の頃であろう。「定せり」穏やかに静まった。「冬行夏令」冬であるのに夏のようであるの意で、「激しい異常気象」を指すものと思われる。「國澇を主す」「澇」は「長雨」の意であるから、この暴風雷電は凶兆であり、これより、一国全体を長雨・洪水が襲うことを言っているようである。

 以下、前の段落に続いているが、改行した。]

解云、寒中の雷雨は文政十年丁亥十二月中旬、一夕、暴雨雷電【丑より曉方に至る。】。明年戊子の秋、西國、幷に、東海道濱松邊、大風雨。洪水の菑[やぶちゃん注:「わざはひ」。]あり。但、雷雪の故實は、外朝の先蹤のみ、管見をしるす。天朝の故實は、いまだ考に及ばず。文政十二年己丑冬十二月十五日【小寒後、四日也。】、今夜、雨ふる。夜中、雷、三、四聲、晚に至て、小雪、まじり、程なく、雨、歇[やぶちゃん注:「やむ」。]。去々年[やぶちゃん注:「おととし」。]、寒中に雷電あり。今茲、又、かくのごとき氣候の差異あり。明年の夏、江戶郊外、野疏、豐ならず。米價も、頗[やぶちゃん注:「すこぶる」。]のぼりにき。

[やぶちゃん注:「解」「とく」。馬琴の本名。

「文政十年丁亥十二月中旬」グレゴリオ暦では既に一八二八年一月中旬から二月上旬に相当する。

「文政十二年己丑冬十二月十五日」グレゴリオ暦では既に一八二九年一月二十日。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 鰻鱧の怪

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 久々の本格怪異譚。句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入した。例によって、ダラダラのベタ文なので、段落を成形し、読みの一部を《 》で推定で歴史的仮名遣にて添えた。

 標題の「鰻鱧」は音は「マンレイ」だが、そもそも「鱧」は海産の「はも」(但し、その場合は国字。漢語では「大鯰(おおなまず)」或いは「八目鰻」を指す。孰れにせよ、ウナギを指さない)で、この熟語はおかしい。ウナギを別に「鰻鱺」(バンレイ)と書くので、その誤りではないかと思う。二字で「うなぎ」と読んでおく。但し、実は題名から判る通り、これはウナギの怪奇談で、「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」には、本書を引用元としているため、「鰻鱧」の標題で載り、しかも読みは「バンレイ」となっている。正直、甚だ不審ではある。

 

   ○鰻鱧《うなぎ》の怪

 吾友鈴木有年《いうねん》、名は秀實《しゆうじつ》、俗字は一郞【東臺輪王寺の御家臣。】。

 叔父某乙《ぼうおつ》は、沙翫《さくわん》の頭領也【有年の實父は、伊勢の龜山侯の家臣にて、下谷《したや》の邸《やしき》にあり。今玆《こんじ》、七十二歲にて、十月廿四日に歿したり。有年は東臺の儒臣鈴木翁の養嗣たり。件《くだん》の叔父は、則《すなはち》、父の弟也。】。

「わかゝりし時、放蕩なりしかば、浮萍《うきくさ》のごとく、東西南北して、竟《つひ》に沙翫になりし。」

といふ。

[やぶちゃん注:「東臺輪王寺の御家臣」「輪王寺」(りんのうじ)は東京都台東区にある門跡寺院であった天台宗東叡山輪王寺。皇族が関東に下向して輪王寺宮となっていた。鈴木有年の養父は、その門跡附きの儒学者であったということであろう。

「某乙」姓名を伏せた仮名。

「伊勢の龜山侯」伊勢亀山藩。藩主は譜代の石川家。

「沙翫」壁塗り職人の左官(さかん:この字は当て字で、古くは「沙官」「沙翫」と表記した)。]

 いまだ、泥匠《でいしやう》ならざりし時、某町《ぼうちやう》なる「うなぎ屋」の養嗣になりて、しばらく、その家に在りける程、養父とともに、鰻鱧の買出《かひだ》しに、千住へもゆき、日本橋なる小田原河岸へゆくことも、しばしば也。凡《およそ》、鰻鱧は、一笊《ひとざる》の價《あたひ》、何《いか》ほどと、定め、手をもて、ひとつ、ひとつに引《ひき》あげ、見て、利の多少を推量《おしかは》ること也とぞ。

[やぶちゃん注:「泥匠」一人前の左官職人のこと。

「小田原河岸」現在の中央区築地六丁目(グーグル・マップ・データ)。

「利」個体の良し悪し。]

 かくて、あるあした、又、養父と共に、かひ出しに赴きて、かたのごとく、うなぎを引あげ、見つゝ、損益をはかりて、幾笊か、買《かひ》とりしを、輕子《かるこ》に、荷《に》なはして、かへり來つ。

[やぶちゃん注:「輕子」軽籠(かるこ:縄を縦横に編んだ正方形の網に、四隅に棒を通す縄を付けて、石などを二人で組んで運ぶもの。一人用で背負うタイプもある。「簣(あじか)」「もっこ」とも称する)で荷物を運んだところから、雇われて荷物を運ぶ担(かつ)ぎ人足のこと。]

 しばらくして、養父なるもの、件のうなぎを生簀箱《いけすばこ》に入《いれ》けるに、特に大きなる鰻鱧、ふたつ、ありけり。養父、いぶかりて、有年の叔父なりける某乙に、

「かゝる大うなぎあり。今朝、買とる折には、『かくまで、大うなぎは、なし。』と、思ひしが、いかにぞ。」

といふに、某乙も亦、訝《いぶか》りて、

「宣ふごとく、こは、おぼえず候へども、こは、めづらしきものにこそ候へ。折々、來給ふ得意の何がしどのは、鰻鱧の大きなるを好み給へば、かこひ置《おき》て、賣《うら》ばや。」

といふに、養父、うなづきて、

「寔《まこと》に、さる事あり。かの人にまゐらせなば、價を論ぜず、よろこばれん。かこひおくこそ、よかめれ。」

と、いひけり。

 かくて、その次の日、彼《かの》大うなぎを好む得意の町人、ひとりの友とともに、

「うなぎを食《くは》ん。」

とて、來にければ、あるじは、

「しかじか。」

と告知《つげし》らするに、その人、歡びて、

「こは。いと、めづらかなるもの也。とく、燒《やき》て出《いだ》せ。」

とて、友人とともに二階に登りたり。

 その時、あるじは、件の大鰻鱧《おほうなぎ》を、ひとつ、生簀より引出《ひきいだ》して、裂《さか》んとしつるに、年來《としごろ》、手なれしわざなるに、いかにかしけん、うなぎ錐《きり》にて、手を、したゝかに、つらぬきけり。

 既に、いたみに堪《たへ》ざれば、有年の叔父某乙を呼びて、

「われは、かゝる怪我をしたり。汝、代りて、裂くべし。」

とて、左手を抱へて退《しりぞ》きければ、某乙、やがて、立代《たちかは》りて、例のごとく裂《さか》んとせしに、その大うなぎ、左の手へ、

「きりきり」

と、からみ付《つき》て、締《しむ》ること、甚しく、既にして、動脈の得《え》かよはずなるまでに、麻癱(しび)るゝ痛みに堪ざれば、少し、手をひかんとせしに、その大うなぎ、尾をそらして、腔(ひばら)を、

「はた」

と打《うつ》たりける。

[やぶちゃん注:「得」は不可能の呼応の副詞「え」の当て字。

「腔(ひばら)」脾腹。脇腹。]

 是にぞ、息も絕《たえ》るばかりに、痛みをかさねて、難儀しつれど、人を呼《よば》んは、さすがにて、なほも、押へて、些《すこし》も緩めず、ひそかに、うなぎに、打向《うちむか》ひて、

「汝、われを惱《なやま》すとても、助かるべき命に、あらず。願ふは、首尾、克《よく》、裂《さか》してくれよ。しからば、われは、この家を立去《たちさ》りて、後々まで、かゝる渡世を、すべからず。思ひ給《たまへ》よ。」

と、しのびねに、かきくどきたりければ、そのこゝろを、うけひきけん、からみたる手を、まきほぐして、やすらかに裂《さかれ》にけり。

 扨《さて》、燒立《やきた》て出《いだ》せしに、得意の客も、その友も、

「心地、例ならず。」

とて、これをたうべず。

 初《はじめ》、かの得意の客は、わづかに半串《はんぐし》たうべしに、

「死人《しびと》の如きにほひして、胸、わろし。」

とて、吐きにけり。

 かくて、その夜さり、丑三《うしみつ》の頃、うなぎの生簀のほとりにて、おびたゞしき音のしてければ、家の内のもの、みな、驚き覺《めざめ》て、

「何にか、あらん。」

と訝る程に、某乙、はやく起出《おきいで》て、手燭《てしよく》を秉《とり》て、生簀船《いけすぶね》を見つるに、夜さりは石を壓《おし》におく。その石も、もとのまゝにて、異《い》なる事のなけれども、

『さりとも。』

と思ひて、生簀船の蓋を開きて見ぬるとき、あまたのうなぎの、蛇の如くに、頭を、もたげて、にらむに似たり。

 只、この奇異のみならで、ひとつ殘りし大うなぎは、いづち、ゆきけん、あらずなりけり。

 某乙、ますます、驚き怕《おそ》れて、次の日、養家を逐電しつゝ、上總の所親《しよしん》がり、赴きて、一年ばかり歷《ふ》るほどに、養父は、

「去歲《きよさい》より、大病《たいびやう》にて、今は、たのみなくなりぬ。とく、立《たち》かへり給へ。」

とて、飛脚、到來してけるに、既に退身《たいしん》したれども、いまだ、離緣に及ばざれば、已むことを得ず、かへり來て、

「養父の看病せん。」

と、しつるに、養母は密夫を引入《ひきい》れて、商賣にだも、身を入れず、病臥したる良人をば、奧なる三疊の間《ま》にうち措《おき》て、看《み》とるものもなかりしを、某乙、その怠りを、たしなめて、病人を納戶《なんど》に臥《ふせ》さしつ。

 藥をすゝめ、粥を薦《すすむ》るに、いさゝかも、飮《のま》ず、くらはず。

[やぶちゃん注:「所親《しよしん》がり」親しい間柄或いは遠い親戚筋の方(かた)へ。

「去歲」昨年。

「三疊の間」あなたは三畳間に住んだことは、まず、ないであろう。私は大学の最初の一年間、渋谷の今やお洒落な町となった代官山の路地の奥の、関東大震災で倒れなかったという歴史的遺構の如き下宿屋の、二階の三畳間の部屋に住んだ。

「措て」邪魔者として除(のけ)おいて。

「納戶」衣服・調度類・器財などを納めておく部屋。一般には屋内の物置部屋をいうが、主人夫婦や家族の、居間や寝室などにも転用した。]

 只、好みて、水を飮むのみ。

 ものいふことも、得ならずして、鰻鱧のごとく、頤《おとがひ》をふくよかにして、息をつく、あさましき體《てい》たらく、又、いふべくもあらざりけり。

[やぶちゃん注:運動機能障害がひどく動けない結果、水ばかり飲み、顔がむくんで、ウナギの鰓の前の頤の如く、膨らんでいるのである。糖尿病のもともとも基礎疾患と、重い脳梗塞の併発が疑わられる。]

 かゝる業病《ごふびやう》也ければ、病むこと、稍《やや》久しくして、竟《つひ》にむなしくなりし折《をり》、某乙は後《あと》の事など、叮嚀にものしつゝ、扨、養母と養母の親族に身《み》の暇《いとま》を乞ひ、離緣の後《のち》、料《はか》らず、泥匠のわざを習ふて、その世渡りになすよし也。

 こは、天明年間の事なりければ、さすがに、叔父のうへながら、有年は、かゝる事のありしともしらざりしに、今より、五、七年以前に、家を作り替《かへ》ぬる折、その壁一式を、叔父にうちまかせしかば、叔父は弟子を日每《ひごと》に遣し、その身も、をりをり來つるにより、ある日の晝食に、鰻鱧の蒲燒を出《いだ》せしに、叔父は、いたく、忌嫌《いみきら》ひて、

「われは、うなぎを、見んとも思はず。とく、退《の》けて給ひね。」

といふ事、頻《しきり》なりければ、有年夫婦、いぶかりて、

「よのつねなる職人ならぬ、叔父なればこそ、心を用ひ、とりよせたりける物なれども、嫌ひとあるに、强《しひ》かねて、ほい、なかりき。」

と呟きしを、叔父は、

「さこそ。」

と慰めて、

「わがうなぎを忌嫌ふは、大かたのことならず。この儀は、和郞(わらう)が未生《みしやう》以前の事なりければ、しらぬなるべし。懺悔《さんげ》の爲に說示《ときしめ》さん。その故は、箇樣々々。」

と、彼《かの》怪談に及びしとぞ。

[やぶちゃん注:「天明年間」一七八一年から一七八九年まで。]

 其叔父の名も、養父の家名も、しるすに易き事なれども、よき祥《きざし》にしも、あらざれば、あなぐりもせず。有年の話せるまゝに、錄するのみ。

[やぶちゃん注:「あなぐり」細かな部分を訊ね聴いて詮索すること。]

「彼《かの》大うなぎは、稀なるものにて、かの折、腕を、三まき、卷《まき》て、尾をもて、瞎を打《うつ》たるにて、その長さを推量《おしはか》るべし。打れし迹《あと》はうち身になりて、今も寒暑の折は發《おこ》る。」

といふ。

[やぶちゃん注:「瞎」は「片眼」(かため)の意があるが、彼が打たれたのは、前の当該シーンでは、脇腹であって、「腔(ひばら)」とあった。「腔」の崩し字を誤判読したととるのが自然であろう。因みに、仮に片方の眼を打たれた時、鰻の生の鮨がないのは、ウナギやアナゴの血液にはイクシオトキシン(ichthyotoxin)という有毒物質が含まれているからで、一定量を飲用すると、下痢・吐き気を惹起し、傷口に入ると、炎症を起こす。大量に誤飲すれば、死亡することさえある。これ、眼に入ると、激しい結膜炎を発症し、下手をすると、本当の「片眼」になることさえある。その辺りを判読者は想起して、思わず、かくしてしまったものかも知れない、などと、夢想した。ウナギの博物誌は、私のサイト版の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の「鰻鱺」、或いは、「大和本草卷之十三 魚之上 鰻鱺 (ウナギ)」も参照されたい。なお、寺島は「無鱗魚」に入れているが、誤りである。ウナギはしっかり鱗がある。ただ、非常に微細なものがびっちり並んでおり、それに加えて、あの「ぬめり」(体液中のタンパク質ムチン由来)のために、「ウナギには鱗はない」と考えている日本人も多いと思われる。ユダヤ教は戒律が数多くあることで知られ、彼らは鱗のない魚は食べない。それに由来する私の面白い体験談を後者の注で紹介しているので、是非、読まれたい。]

「うなぎ渡世をするものは、末《すゑ》、よからず。」

といふよしは、常に聞くことながら、こは正しき怪談也。浮たる事にはあらずかし。【天保壬辰《みづのえたつ/じんしん》の冬閏十一月十三日の夜、關潢南《せきかうなん》に招れて、彼處《かしこ》に赴きし折、有年は、なほ、喪中ながら、はからずも、來《きたり》て、まとひに入《い》りけり。その折、有年の、「かゝる事しも、ありけり。」とて、話《はなし》せられしを、こゝにしるすもの也。有年は關の親族也。】

[やぶちゃん注:「天保壬辰の冬閏十一月十三日」天保三年閏十一月十三日は、既にグレゴリオ暦一八三三年一月三日である。

「關潢南」江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。彼は兎園会の元締であった曲亭馬琴とも親しく、息子の関思亮は「海棠庵」の名で兎園会のメンバーでもあった。

「喪中」冒頭割注にある通り、実父にそれ。

「まとひ」「まどひ」「円居・団居」。円座の談話会。

 なお、江戸時代、食されることが多かった鰻に関しては、その怪異譚が、思いの外、多くある。中でも、私の「耳嚢 巻之八 鱣魚の怪の事」(「鱣魚」(せんぎょ)は「鰻」のこと)が出色で、そこで魚類絡みの怪異類話も紹介してあるので参照されたい。]

2022/10/17

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 感冒流行

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号(「〽」も)も挿入した。]

 

   ○感冒流行

文政三年庚辰[やぶちゃん注:一八二〇年。]の秋九月より十一月まで、世上、一同に感冒、流行して、一家十人なれば、十人、みな、免るゝものなし。輕きは、四、五日にして、本復す。大かたは、服藥せず。重きは傷寒のごとく、寒熱、甚しくて、譫言[やぶちゃん注:「うはごと」。]するものもあれども、それも病臥十五、六日にして、痊可[やぶちゃん注:「せんか」。治癒に同じ。]に及べり。この風邪にて病死せしものは、なし。江戶は九月下旬より流行して、十月盛りなりき。京・大坂・伊勢、及、長崎などは、九月、さかりなりしよし、大坂、並に、伊勢松坂なる友人の消息に聞えたり。前々流行の風邪には、「何風」など唱へて、必、苗字ありしが、こたびの風邪には、苗字を唱ることを、聞かず。二十餘年前に、琉球人來朝の折も、感冒流行したるに、今茲[やぶちゃん注:「こんじ」。今年。]も亦、琉球人の來ぬれば、京大坂にては「琉球風」といふものもありとぞ。予、おもふに、はやり歌・はやり詞の流行せる年は、必、感冒、流行す。安永の「おせ話風」、文化の「たんほう風」など、當時のはやり詞・はやり歌を苗字にして唱へたり。今茲は、秋八月の比より、江戶にて、「かまやせぬ」といふ小うた、流行したり【『〽くもらば、くもれ、箱根山、はれたとて、お江戶が見ゆるぢや、あるまいし、コチヤ、かまやせぬ。[やぶちゃん注:底本にここに囲み字で『原本脫字』とある。]く、名高き團十郞、あらためて、海老藏になりたや、親の株、こちや、かまやせぬ、』などいふたぐひ、あまたありて、小人は、をさをさ、うたへり。此うた、はじめは、「よみうり」とかいふ、ゑせあき人の、うたひしものなり。】しかるに、こたみ、流行の感冒は、中より以下の男女、多く、服藥せぬひとゝいへども、かまはずして、おこたりにき。童謠は、必、吉凶の表兆[やぶちゃん注:「へうてう」。前触れ。]たる事、和漢に例、尠[やぶちゃん注:「すくな」。]からず。「かまひはせぬ」といふ童謠、又、是、一奇といふべし。しかれども初冬一ケ月は、江戶中の湯屋[やぶちゃん注:「ゆうや」。銭湯。]も浴るもの[やぶちゃん注:「あびるもの」と訓じておく。]、多からざりしかば、風邪流行に付、「夕七時早仕舞」[やぶちゃん注:「ゆふななつどきはやじまひ」。不定時法で午後四時頃。]といふ札を出し置たり。この折、「窮民御救ひ」の御沙汰ありて、籾藏町會所へ裏借屋の町人を召呼れ、一人別に、御米五升、女は四升、三才以上の童には、三升づゝ下されしよし、聞えたり。文化の「たんほう風」の折には、錢にて、一人別に、二百五十文づゝ下されしよしなりしが、こたびは、米にて下されたり。借家といへども、表店に在りて、渡世しつるもの、並に、召仕は、男女ともに、除れしと云。

[やぶちゃん注:「感冒」現在のインフルエンザ。

「傷寒」漢方で「体外の環境変化により経絡が冒された状態」を指し、高熱を発する腸チフスの類を指す。

「二十餘年前に、琉球人來朝の折」文化三(一八〇六)年、琉球王国第二尚氏王朝の第十七代国王尚灝王(しょうこうおう 在位:享和四・文化元(一八〇四年)~天保五(一八三四)年)の国王就任挨拶の謝恩使使節が来府した時のことを指す。

「琉球風」この時のそれは前の来府の二十六年後に当たる天保三(一八三二)年。本篇の前の「木下建藏觀琉球人詩」の記事を参照。

『安永の「おせ話風」』病院検索サイト「DDまっぷ」の「感染症(インフルエンザ)特集2022 / 2023 インフルエンザの歴史と進化」では、安永五(一七七六)年に流行した風邪については、当時人気の高かった浄瑠璃「城木屋お駒」という毒婦の祟りという事で「お駒風」』(おこまかぜ)『と呼ばれた』と書かれてあったが、別な信頼出来る論文によれば、安永九(一七八〇)年に、当時の流行語に「大きに御世話、お茶でもあがれ」というのがあったとあるので、この別名もあったことが判る。

『文化の「たんほう風」』前注のリンク先に文政四(一八二一)年の『「ダンホ風(当時人気だった小唄のおはやしに”ダンホサン・ダンホサン”とあった事より)」』があったとある。文政の始めを、文化の終りと馬琴が勘違いしたものかも知れない。

「籾藏町會所」(もみくらまちかいしょ)「籾藏」囲籾(かこいもみ)= 囲米(かこいまい)と称して、 江戸幕府が、非常時に備えて、諸藩や町村などに命じて備蓄した籾米。 凶作や災害時の備蓄が目的であったが、中期以降は米価調節にも利用された。江戸では五ヶ所に常置された「町會所」は町内の用務のために町役人などが寄り合った所。

「裏借屋」(うらかりや)と読んでおく。借り長屋住まいの者。

「召呼れ」「めしよばれ」。

「表店」(おもてだな)「に在りて、渡世しつるもの」表通りに店を構えて商売をしている商人。

「召仕」(めしつかひ)。

「除れし」(のぞかれし)。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 木下建藏觀琉球人詩

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入した。]

 

   ○木下建藏觀琉球人詩

天保三壬辰冬。維月閏餘當黃鐘。初之九日天漸霽。滿地無ㇾ風曉色濃。聘使此日上東台。虎旗龍刀部伍雄。正使豐見城王子。烏冕玉帶錦袍紅。身駕花轎簾半捲。朱顏黑髭中山風。賛度親雲左右連。副使親方稱澤岷。紫袍白鬚肩輿中。騎馬黃帕是樂正。束髮花簪里之童。凉傘牌符紅映ㇾ日。喇叭銅角響徹ㇾ空。見者滿城群如ㇾ山。街頭衞護新作ㇾ關。樓上簾翠樓下幕。朱門粉壁似仙寰。美服飾粧鋪花氈。玳瑁銀簪照香鬟。一望驚ㇾ目中山客。始信扶桑冠百蠻。吾輩幸是太平臣。座見入貢萬里人。萬里波濤南海外。兒女祈ㇾ安天孫神。遙憶首里歸ㇾ鞍日。說盡海東結構新。

[やぶちゃん注:標題は「木下建藏、琉球人を觀るの詩」と読んでおく。

 以下は、底本では全体が一字下げ。]

この詩、よく出來たり。恨らくは、「始信扶桑冠百蠻」の句あり、前儒腐爛、皇國をもて、夷狄に比するもの、往々あり。木下生もその謬妄を受て悟らざるのみ。この頃、諸家の「藏板琉球狀」【一卷。】、「中山傳信略」【折本一卷。】、「琉球年代記」【一卷。】等出たり。當日、營中にて、「諸吏、琉球の事を見るには、何の書がよかるべきや。」など、いへりしを、貂皮君、聞て、「琉球の事實を知らまくほりせば、『弓張月』を見給へ。詳にして盡せしものは、彼小說に、ますこと、なし。」と宣ひにきと、ある人の話也。この節、「弓張月」を見るもの尠からず、といふ。さもあらんか。

こたび、「琉球より、大さ、九尺まわりある琉球芋を、獻上したり。」などいふ風聞ありしを、その筋なる吏職に質問せしに虛談也。「あはもりの壺を菰にて包みしを見て、『りうきう芋ならん。』と推量せしものゝ、いひ出ぬるかとなるべし。」といへり。又、正使・副使の品川にて、よみし、といふ歌を、ある人の見せたれど、虛實、詳ならざれば、寫しとめざる也。

[やぶちゃん注:これは天保三(一八三二)年琉球王国琉球の第二尚氏王朝第十八代国王尚育王(在位:一八三五年~一八四七年:父尚灝王(しょうこうおう)の体調不良により(通説では精神疾患を患っていたとされる)一八二八年に摂位し、十五歳で実質的な王位に就いていた。以上は当該ウィキに拠った)の即位に先だって、江戸幕府へ派遣された謝恩使を詠じた漢詩とそれへの馬琴の批評・感想である。漢詩の作者である「木下建藏」なる人物は不詳。この時の来朝の行列についての本邦側の板行本「琉球人行列記」が「琉球大学附属図書館」の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」のこちらで、視認出来る。その解説ページによれば、一六〇九(慶長十四年)『年の島津侵入以後、琉球では、徳川将軍の代替わり(就職)の際には慶賀使、琉球国王代替わりの際には謝恩使を江戸へ派遣し、これを「江戸立ち」と言っていた。本史料は、』一八三二『年に京都で出版された版本で、この年の江戸立ちの使者を紹介したものである。使者の名前や行列の挿絵などを載せ、解説している。「琉球人行列記」は天保』三年、十三年、嘉永三(一八五〇)『年に重版されている。このときの使節は、正使豊見城朝春』(とよみぐすくちょうしゅん)『(途上死亡)、副使沢岻安慶』(「たくしあんけい」か)、『合計』九十七『名であった』とある。翻刻電子化は、こちらで見ることが出来る。その最終丁に『干時天保三年辰十月耒朝』(時に、天保三年辰(たつ)十月、耒朝(らいてう))とある。グレゴリオ暦では十月一日は一八三二年十月二十四日である。但し、詩の二行目から、江戸に入ったのは、同年の閏十一月ではないかと思われ、そうすると、閏十一月一日は十二月二十二日であるから、この月一杯、使節がいたとすれば、既に一八七三年一月となっている。

 以下、漢詩の訓読を試みる。参考にすべきものがないので、自然流でやる。

   *

天保三壬辰(みづのえたつ/じんしん)の冬

維(こ)れ 月(げつ)の閏餘(じゆんよ) 當(まさ)に黃鐘(わうしやう/くわうしき/くわうしき)たり

初めの九日 天 漸(やうや)く霽(は)れ

滿地(まんち) 風 無く 曉(あかつき)の色 濃し

聘使(へいし) 此の日 東台(とうたい)に上(のぼ)る

虎旗(こき) 龍刀(ろんとう) 部伍(ぶご) 雄(ゆう)たり

正使 豐見城王子(とよみぐすくわうじ)

烏冕(うべん) 玉帶(ぎよくたい) 錦袍(きんぱう) 紅(くれなゐ)たり

身は花轎に駕(が)して 簾(すだれ) 半(なかば)捲(ま)きたり

朱顏 黑髭(こくし) 中山(ちゆうざん)の風(ふう)

賛度(さんど)の親雲(おやくも) 左右に連なり

副使の親方 澤岷を稱す

紫袍(しはう) 白鬚(はくしゆ) 肩輿(けんよ)の中(うち)

騎馬の黃帕(わうはく) 是れ 樂正(がくしやう)

束髮 花簪(くわしん) 里之童

凉しき傘 牌符 紅 日に映ず

喇叭(らつぱ)銅角(どうかく) 響(ひび)きて 空(そら)を徹(てつ)す

見る者 滿城 群るること 山のごとく

街頭の衞護 新たに關(せき)を作る

樓上 簾翠(れんすい) 樓下(らうか)に幕(まく)し

朱門 粉壁(ふんぺき) 仙寰(せんくわん)に似たり

美服 飾粧 花(はな)の氈(まうせん)を鋪(し)く

玳瑁(たいまい) 銀簪(ぎんしん) 香鬟(かうくわん)を照らし

一望 目を驚ろかす 中山(ちゆうざん)の客(かく)

始めて信ず 扶桑(ふさう) 百蠻(ひやくばん)の冠(かんむり)たるを

吾輩(わがはい) 幸ひ 是れ 太平の臣

座して 見入る 貢(みつぎ) 萬里(ばんり)の人

萬里 波濤 南海の外(そと)

兒女 安(やすん)じて祈れ 天孫の神(かみ)

遙かに憶へ 首里 鞍(くら)を歸すの日に

說き盡(つく)せ 海東の結構の 新たなるを

   *

 あんまり上手い詩ではない。

「閏餘」一年間の実際の日時が暦の上の一年より余分にあること。既に述べた通り、天保三年は閏十一月があった。

「孽」不詳。

「黃鐘」陰暦十一月の異称。

「東台」「関東の台嶺(たいれい)の意で、東叡山寛永寺及びそ上野の山の異称。東岱(とうたい)とも表記する。

「虎旗 龍刀」「琉球人行列記」のこちらに絵図があり、「虎旗(とらのはた)」「龍刀(なぎなた)」の訓がある。「虎旗」には「ふうき」の読みも添えられている。

「部伍」隊列の組をつくること。また、その組。「隊伍」。

「豐見城王子」豊見城御殿(とみぐすくうどぅん)七世豐見城王子朝春。「琉球人行列記」のこちらに「轎」(きょう)に載った人物が描かれてあり、添書に装束は中国式の衣冠であると書かれてある。キャプションにもちゃんと彼の名が記されているのだが、この絵の人物、実は彼ではない。朝春は往路の鹿児島で客死してしまったため、急遽、普天間親雲上(おやくもい:後注参照)朝典が「替え玉」となって、豊見城王子と偽って、正使役を務めたのであった。

「烏冕」「烏」は本邦の烏帽子に擬えた言い方で、「冕」は本邦では、天子・天皇や皇太子が大礼の時に着用した礼冠。冠の上部に五色の珠玉を貫いた糸縄を垂らした冕板(べんばん)をつけたところからいう。これ自体が中国からの移入であるから、琉球王のそれは中国直伝のそれである。

「玉帶」宝玉の飾りをつけた革製の帯。貴族の束帯に用いられた。

「錦袍」錦(にしき)で作った豪華な上衣。

「黑髭」黒い口髭。

「中山」琉球国の統一王朝名。もと沖縄本島に興った山北・中山・山南の三国があったが、中山が一四二九年までに北山・南山を滅ぼし、琉球を統一した。これ以降、統一王国としての琉球王国が建国され、国号・王号は「琉球國中山王」を継承し、これは幕末の不当な「琉球処分」まで続いた。

「風」風習。

「賛度」不詳。「常に国王を讃える」の意か。

「親雲」「親雲上」(おやくもい)。沖縄方言で(ペーチン/ペークミー)は琉球王国の士族の称号の一つ。主に中級士族に相当する者の称号で、黄冠を戴き、銀の簪(かんざし)を差した。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「澤岷」「澤岻」の誤り

「肩輿」肩で担ぐ輿(こし)。先の「琉球人行列記」の図を参照されたい。拡大して見ると、輿の前後にいる担ぎ手は前後に出た引手から上方へ出た棒の上に、横に置かれた材を肩に掛けて担いでいることが判る。

「黃帕」琉球で王・世子以下の位階によって被った鉢巻。一見、冠(帽子)のように見える。「琉球人行列記」のこちらの「議衞正(きゑしやう)」とあるのが、この「樂正」(何故、こう書いたかは不明。或いは、行列の前の方にいた「樂人(がくじん)」と混同して誤ったものか)であろうから、その被り物が「黃帕」と考えてよい。

「牌符」「琉球人行列記」の前を行く者が持っている謝恩使の行列であることを示す牌板(「謝恩使」・「中山王府」)を指す。

「喇叭」「銅角」「琉球人行列記」のこちらに載る。この絵図を見ると、キャプションに「喇叭」(「喇」の字の(つくり)は「利」)には「ちやるめる」とあり、その下に「銅角(とんしゑ)」とあって、これは絵から見ても、二つの楽器ではなく、銅製の吹き口が角(つの)状に尖ったチャルメラの意ととれる。

「粉壁」江戸城の白壁であろう。

「仙寰」仙界。

「玳瑁」海亀のタイマイで作った鼈甲製の櫛か。

「香鬟」香り良き油を塗った髷(わげ)。

『恨らくは、「始信扶桑冠百蠻」の句あり』よくぞ言ったり! 馬琴先生! 今の政府の連中に先生の爪を煎じて呑ませたい!!!

「謬妄」「びやうまう」。出鱈目な理屈。

「藏板琉球狀」「琉球狀」は「琉球大学附属図書館」の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」の解説ページによれば、馬琴の盟友で、「耽奇会」「兎園会」の常連であった『江戸幕府御家人で国学者であった屋代弘賢』『が』寛政九(一七九七)年に『桑山左衛門に宛てた書簡であることが奥書に見える。本文の差し出し人である輪池先生とは屋代弘賢の号である。この書を源直温が木版を製作し、同好の識者に配布したものと考えられる。内容は、屋代弘賢が当時の琉球という名称について、各書物を引用しながら検討をしている。当時の識者が琉球に対してどれほどの知識を共有してもっていたことがうかがわれる史料である』とある。こちらで、視認でき、翻刻もこちらで読める。

「中山傳信略」清の徐葆光(ほこう)が一七二一年(本邦では享保六年)に著した琉球の地誌。全六巻。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍ビューア」のこちらで全巻を閲覧できる。

「琉球年代記」「琉球大学附属図書館」の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」の解説ページによれば、天保三(一八三二)年に『大田南畝』『の遺稿として刊行された』もので、『琉球開闢以来の歴代国王について記した「琉球年代記」、江戸上り』『の年代をまとめた「来聘年暦」、琉球国王の印の図、琉球の寺社の説明、神仏の図像、娼妓の図および説明、酒や銭に関することなど、琉球の実情・風俗を記した「琉球雑話」の項目に大別できる』とある。こちらで原本も視認できる。

「貂皮君」テンの毛革を着した謝恩使節の高官を指すのであろう。

「弓張月」馬琴の読本「椿説弓張月」(ちんせつゆみはりづき)。葛飾北斎画。文化四(一八〇七)年から同八年にかけて刊行された。全五編二十九冊。「保元物語」に登場する強弓の武将鎮西八郎為朝と琉球王朝開闢の秘史を描く、勧善懲悪の伝奇物語であり、後発の「南総里見八犬伝」とならぶ馬琴の代表作。当時は「八犬伝」よりもこちらが絶大なる人気を得た。詳しくは、参照した当該ウィキを読まれたい。

「琉球芋」サツマイモ。]

2022/10/16

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版)「目錄」+「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内「貴重和本ライブラリー」所収初版板本最後に載る僧報慈の「跋文」 / 「因果物語」オリジナル電子化注~了

 

[やぶちゃん注:「目錄は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用したが、それと全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、サイド・パネルに漢字のみの目次が電子化されてあるので(但し、新字体)、それを加工データとさせて貰った。但し、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限って読みを添えた。前で一度ふったものと同じ場合は、原則、附さないこととした。通し番号の「十一」以下は底本では半角であるが、全角で示した。

 各話へのリンクは附さないが、この目録と、別にブログ・カテゴリ「続・怪奇談集」を開いて並べて戴ければ、容易に当該話にジャンプ出来る。なお、本文と送り仮名や漢字などの表記の異なるものが多くあるが、そのままとしておき、注も附さない。因みに、「付」(本文内では「附」の右寄せポイント落ち表記)は読みはふられていないが、「つけたり」と読む。なお、本文でもそうであるが、「中」(ちゅう)の読みを「ちう」とするが、正確には、正しい「中」の現在の音「チュウ」の歴史的仮名遣は、「ちう」ではなく、「ちゆう」であることは、ここに指摘しておきたい。

 さらにその後に、参考追加資料として、本底本には存在しない、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで視認出来る初版板本(一括PDF)の最後(8687コマ目)にある跋文(カタカナ漢字交りの表記)を本底本に合わせて、ひらがな漢字交りに訓読したものを(読点を自由に追加した。読みに関しては同前)、アスタリスク三点以下に示すこととし、オリジナル電子化注の最後の手向けの花とした。当初は一部、タイピングのため、時間がかかると踏んだのだが、結局、概ね、これだけに集中作業した結果、「怪奇談集」電子化注の短期完成の記録を、今回も、十六日と、また、最短期間更新をした。

 

因果物語 目 錄

 

     上  卷

一、亡者人に便(たより)て吊(とむらひ)を賴む事夢中に吊を賴む事

二、幽靈夢中(むちう)に僧に告(つげ)て塔婆(たふば)を書直す事經書寫(きやうしよしや)を請(こ)ふ事

三、幽靈夢中に人に告げて僧を請(しやう)ずる事血脈(けちみやく)を乞ふ事

四、人を詛(のろ)ふ僧忽ち報いを受(うく)る事火炙(ひあぶ)りの報いの事

五、妬(ねた)み深き女(をんあ)死して男を取殺(とりころ)す事死して蛇(へび)と成り男(をとこ)を卷く事

六、妬み深き女死して後(のち)の女房を取殺す事下女を取殺す事

七、下女(げぢよ)死して本(もと)の妻を取殺す事主人の子を取殺す事

八、愛執(あいしふ)深き女忽ち蛇體(じやたい)と成る事夫婦蛇(ふうふへび)の事

九、夫(をつと)死して妻を取殺す事

十、罪(つみ)無(な)うして殺さるゝ者怨靈と成る事

十一、女生靈(いきりやう)夫に怨(あだ)を作(な)す事

十二、塚燒る事付塚より火の玉飛び出る事

十三、生(いき)ながら地獄に落(おつ)る事精魂(せいこん)地獄に入(い)る事

十四、弟(おとゝ)の幽靈兄に怨を成す事兄婦(あによめ)に付く事

十五、先祖を吊(とむら)はざるに因(よつ)て子に生れ來(き)て責(せむ)る事孫を喰(くら)ふ事

十六、難產にて死したる女幽靈と成る事鬼(おにご)子を產む事

十七、幽靈來(きた)つて禮を云ふ事不吉を告(つぐ)る事

十八、幽靈來りて藏(くら)を守る事亡父(まうふ)子(こ)に告(つげ)て山を返す事

十九、善根(ぜんこん)に因(よつ)て富貴(ふうき)の家に生るゝ事

二十、臨終よき人の事

      中  卷

一、神明利生(りしやう)の事御罰(ごばつ)の事

二、佛像を破り報いを受(うく)る事堂宇塔廟を破り報いを受る事

三、起請文(きしやうもん)の罰の事

四、親不孝の者(もの)罰を蒙(かうむ)る事

五、二升(ふたます)を用ふる者雷(らい)に摑(つかま)るゝ事地獄に落(おつ)る事

六、食(しよく)を踈(おろそか)にして家(いへ)亡(ほろぶ)る事

七、鳩(はと)來り御劍(ぎよけん)を守り居(ゐ)る事神前(しんぜん)の刀(かたな)にて化物(ばけもの)を切る事

八、石塔(せきたふ)人に化(ばけ)る事

九、鳩の愛執(あいしふ)の事

十、母鳥(はゝどり)子(こ)の命(いのち)に替る事猿(さる)寺に來り子(こ)の吊ひを賴む事

十一、鷄(にはとり)寺入(てらいり)する事

十二、鯰(なまず)人の夢に告(つげ)て命を乞ふ事牛(うし)夢中に命の禮(れい)を云ふ事

十三、馬(うま)の物言(ものい)ふ事犬の物言ふ事

十四、蛇(へび)人へ遺恨を成す事犬猫(いぬねこ)の遺恨の事

十五、蝮(まむし)に呑(のま)れ蘇生する者の事[やぶちゃん注:この「蝮」は大蛇の「蟒蛇」(うわばみ)の意。]

十六、大河(たいが)を覺へず走る事[やぶちゃん注:「覺へず」はママ。以下の「廿九」も同じ。]

十七、雪石(せつせき)夢物語りの事

十八、實盛(さねもり)或僧に錢甕(ぜにがめ)を告(つぐ)る事

十九、產(うま)れ子(こ)の死したるに註(しる)しを作(な)して再來を知る事

二十、幽靈來りて算用する事布施配る事

廿一、亡母(まうぼ)來りて娘に養生を敎(をしふ)る事夫の幽靈女房に藥を與ふる事

廿二、亡者錢(ぜに)を取り返す事鐵(くろがね)を返す事

廿三、幽靈來りて子を產む事亡母子(こ)を憐(あはれ)む事

廿四、生れ子(こ)田地を沙汰する事生れ子親に祟る事

廿五、常に惡願(あくぐわん)を起(おこ)す女人(によにん)の事母子(ぼし)互(ただひ)に相憎(あひにく)む事

廿六、幽靈と問答する僧の事幽靈と組む僧の事

廿七、蘇生の僧四十九の釘(くぎ)の次第を記(しる)す事

廿八、卒塔婆(そとば)化(け)して人に食物(しよくもつ)を與(あたふ)る事

廿九、夙因(しゆくいん)に依つて經を覺へざる事

三十、畜生人(ひと)の恩を報ずる事

卅一、犬(いぬ)生(うま)れ僧と成る事

卅二、殺生の報いの事

卅三、馬の報いの事

卅四、乞食(こつじき)を切(きり)て報いを受(うく)る事

卅五、幽靈刀(かたな)を借(かり)て人を切る事

卅六、精靈棚(しやうりやうだな)を崩されて亡者寺(てら)に來(きた)る事

     下 卷

一、閻魔王より使ひを受(うく)る僧の事長老魔道に落る事

二、亡者引導師により輪回(りんえ)する事引導坊主に就き行(あり)く事

三、生(いき)ながら牛と成る僧の事馬の眞似する僧の事

四、生ながら女人と成る僧の事死後女人と成る坊主の事

五、僧の魂(たましひ)蛇(へび)と成り物を守る事亡僧(ばうそう)來りて金(かね)を守る事

六、知事(ちじ)の僧(そう)鬼(おに)に打るゝ事弟子を取殺す事

七、僧の口より白米(はくまい)を吐く事板挾(いたばさみ)に逢ふ僧の事

八、無道心の僧亡者に責(せめ)らるゝ事破戒の坊主雷(らい)に逢ふ事

九、怨靈と成る僧の事

十、座頭(ざとう)の金(かね)を盜む僧盲(めくら)と成る事死人(しにん)を爭ふ僧機違(きちが)ふ事

十一、惡見(あくけん)に落(おち)たる僧自他(じた)を損(そん)する事

十二、愚痴の念佛者(ねんぶつしや)錯(あやま)つて種々(しゆじゆ)の相(さう)を見る事

十三、第二念を起(おこ)す僧(そう)病者に若(く)を授(さづ)くる事

十四、破戒の坊主死して鯨(くじら)と成る事姥(うば)猫と成る事

十五、死後(しご)犬と成る僧の事犬と成る男女(なんによ)の事

十六、死後馬(むま)と成る人の事牛と成る人の事

十七、人の魂(たましひ)死人(しにん)を喰(くら)ふ事精魂(せいこん)寺に來(きた)る事

十八、女の魂(たましひ)蛇(へび)と成り夫(をつと)を守る事餅(もち)鮎(あゆ)を守る事

十九、五輪(りん)の間(あひだ)に蛇有る事

二十、愛執深き僧蛇と成る事

廿一、慳貪者(けんどんしや)生(いき)ながら餓鬼の報いを受(うく)る事種々(しゆじゆ)の若(く)を受る事

   目錄を安ずるに、因て、年代を前後す。又、當時、現存する人、其名を除く者、多也。

[やぶちゃん注:最後の添え辞の最後の読みは「多きなり」であろう。]

 

   *   *    *

 

師、平日(へいじつ)、人(ひと)、耒(き)たり、右の如き事を語るを聞く毎(ごと)に嘆じて曰はく、「かほど大事なることを知らず、人毎(ひとごと)に死ねば、なにも無きやうに思ひ、後世(ごせ)を恐れる人、なく、𢙣(あく)を愼む者、なし。扨々(さてさて)、笑止千万也。」。亦、曰はく、「是(か)くの如くの物語(ものかたり)を聞(きゝ)ても、恐(をそる)る心なきは、業障(ごふしやう)の深き故(ゆへ)也。」と云云。誠(まこと)に此の書を余所(よそ)に見るは、愚(おろか)なる心(こゝろ)なり。皆、是れ、人々(にんにん)、一念上(ねんしやう)の事(じ)也。念力の作(な)す処(ところ)、右、種々(しゆじゆ)の事(じ)を見て、自己を慚愧(さんぎ)すべし。「經(きやう)」に曰(《いはく》)、『假使(たとひ)、百千劫(ひやくちんがう)、作(つく)る所《ところ》の業(がふ)は亡《ほろ》びず。因緣(いんゑん)の會遇《えゑぐう》の時(とき)、果報、還(かへ)りて、自(おのづか)ら受く。』と說(と)き玉(《たまふ》)。此の文(もん)を信(しん)にして、𢙣(あく)をも成すべからず。况んや、亦、一念、纔(わづか)に生(しやう)すれば、生死(しやうじ)に輪廽(りんね)して、永刧(やうがう)、浮ぶこと、無し。誰(たれ)か、是(これ)を悲しまざらんや。此の外(ほか)、何ことか大事あらんや。是(かく)の如く、見得(けんとく)して心頭(しんとう)に眼(まなこ)を著(つ)けば、此の書の本意(ほんい)なり。若(も)し又、自己(じこ)を忘れて、他(た)の事となさば、佛祖も亦、救ふこと、得(ゑ)ず。甚だ、懼るべし。開板助縁 報慈比丘書

 

[やぶちゃん注:句読点や記号は私が打った。歴史的仮名遣の誤りはママ。読みの一部を送り仮名に出した。《 》部分は、汚損が激しいため、推定での読みを示したもの、或いは欠損している読みを振ったもの。「經に曰」はく、の「經」は「華厳経」の一節である。冒頭の書き出しから、筆者の報慈(ほうじ)という僧は鈴木正三の弟子の僧である。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「二十一 慳貪者生ながら餓鬼の報いを受くる事 附 種々の若を受くる事」 / 「因果物語」本文~了

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「二十一 慳貪者生ながら餓鬼の報いを受くる事 附 種々の若を受くる事」 / 「因果物語」本文~了

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   二十一 慳貪者(けんどんしや)生(いき)ながら餓鬼の報いを受くる事

       種々(しゆじゆ)の若(く)を受くる事

 江州肥野(ひの)の谷(たに)、石原村に道節(だうせつ)と云ふ福人(ふくにん)、有り。慳貪(けんどん)、無道心なること、類ひ無し。

 七十歲にて、生きながら、餓鬼と爲つて、大食(たいしよく)、限り無し。一日に四、五升、飯(めし)喰(く)ひして、終(つひ)に、あがき、死す。

 六十日目に、己れが婦(よめ)に取り憑き、

「飯、喰ひたし、飯、喰ひたし、」

と、呼ばはること、十日ばかりなり。是は、樣々、吊(とむら)ひければ、頓(やが)て本復(ほんぶく)す。

 彼(か)の道節兄(あに)も、乾(かわ)き病(やまひ)にて、大食、限り無し。大桶(おほをけ)に食(めし)を入れ、晝夜(ちうや)共に、喰(く)ひ次第に喰はせけるが、百日程、際限もなく喰ひて、終に死しけり。

 大塚(おほつか)にて、確(たしか)に聞くなり。

[やぶちゃん注:「江州肥野の谷、石原村」滋賀県蒲生郡日野町(ひのちょう)石原

「福人」金持ち。

「慳貪」吝嗇(けち)で欲張りにして、無慈悲なこと。

「乾き病」この場合は、異常な多食症状を指す。]

 

〇江州かばた村、孫右衞門と云ふ者、法體(ほつたい)して西源(せいげん)と名付く。

 或夜(あるよ)、大入道(おほにふだう)に責(せめ)られ、其後(そのゝち)、荒男(あらをとこ)に縛り吊(つる)され、火に入れ、水に入れ、色々、呵責(かしやく)せらるゝ程に、後(のち)には雪隱(せついん)などに隱れけれども、尋ね出(いだ)して責め、終(つひ)には、五十日程に、責め殺されたり。所の代官治右衞門、語るを、平右衞門、聞きて語るなり。

[やぶちゃん注:「江州かばた村」『中卷「三 起請文の罰の事」』にも出たが、不詳。再度、識者の御教授を乞う。滋賀県針江の古くからある浄水システム「かばた」(川端)は知っているが、ここは確かな村名である。ただ、今回、「代官」の名として「治右衞門」が出たので、これがヒントにはなりそうだ。但し、変名(特に代官職の場合、可能性が高い)であるとすると、お手上げである。

「雪隱」せっちん。便所。]

 

〇越前鶴河(つるが)に、隱れ無き分限者、有り。貪慾深き者なり。

 寬永廿年六月の末(すゑ)に、難病を受け、眼(まなこ)を皿程に見出(みいだ)し、金銀を取出(とりいだ)し、積ませ、

「此の金にて、養生して、命を助けよ。」

と云ふて若(くる)しみけり。

「今日(けふ)、死ぬ、今、死ぬ、」

と云ふて、廿日程、强く若痛(くつう)して、怖しき有り樣(さま)にて、死す。

 押籠(おしこめ)て置くに、又、活返(いきかへ)り、匍(は)ひ回りけるを、敲(たゝ)けども、死せず。

 爲方無(せんかたな)く、終(つひ)に、切り殺すなり。

 死骸の捨樣(すてやう)、知りたる者、なし。

[やぶちゃん注:「鶴河」福井県敦賀。

「寬永廿年」一六四三年。]

 

〇京、西魚屋町(にしうをやまち)に、骨屋與宗右衞門(ほねやよそうゑもん)と云ふ者、有り。内裏樣(だいりさま)へ肴(さかな)を上ぐる魚屋なり。

 勝(すぐ)れて慳貪の者なりしが、老いて後(のち)、本願寺にて、剃刀(かみそり)を頂き、法體(ほつたい)せんとするに、髮、更に、切れず。

 剃刀、七本、合(あは)せて、取替(とりか)へ、取替へ、剃れども、切れず。

 餘(あま)り、爲方なく、鋏(はさみ)にて、鋏み切りて置きけり。

 死期(しご)に、火の病(やまひ)を受け、狂ひける程に、數多(あまた)、看病して居(ゐ)たるに、何(いつ)の間(ま)にか、井(ゐ)の中へ入りて、死にけり。

 寬永十七年の事なり。

 水翁(すゐわう)、物語(ものがたり)なり。

[やぶちゃん注:「京、西魚屋町」「江戸怪談集(中)」の注に、『中京区竹屋町押小路通柳馬場西入』(たけやちょうおしこうじどおりやなぎのばんばにしいる)『のあたりにあった』とある。この附近

「火の病」重傷の熱病。冷やしたくなる故に井戸に入水したのであろう。熱性マラリアと思われる。

「寬永十七年」一八四〇年。]

 

〇攝州大坂、天滿(てんま)、高倉屋庄衞門と云ふ者の母、勝(すぐ)れて慳貪なる者にて、恒(つね)に婦(よめ)を、せこめけること、限りなし。

 七十餘歲にて、煩ひ付き、命限(いのちかぎ)りの時、怖しき有樣(ありさま)にて、死す。

 三日目、大(おほき)なる蟇(かへる)、蚊屋の内へ入(い)つて、婦に喰(く)ひ付くこと、度々なり。

 下女、心得て、此の蟇を捉(とら)へて、耻(はぢ)しめ、惡口(あくこう)して、敲き出(いだ)しければ、再び、來たらず。

 其後(そのゝち)、婦を許して、寺社堂塔へ參詣させし、となり。

[やぶちゃん注:「攝州大坂、天滿」

「せこめけること」「せこめる・せごめる」(他動詞マ行下一段活用)或いは「せこむ」(同下二段活用)は「責める・いじめる・虐待する・ひどい目にあわせる」の意。鎌倉中期の経尊(きょうそん)の著になる建治元(一二七五)年成立の語源辞書「名語記」(みょうごき)に既に載る。同書は当時の語彙を、まず、音節数で分類し、次いで第二音節までを、イロハ順に配列、相通・反音・延音・約音などを用いながら、語源を問答体で記してある。なお「名」は「体言」を、「語」は「用言」を指し、他に「テニハ」などの名称もあって、品詞分類の萌芽が見られる辞書とされる(書名解説は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「大なる蟇(かへる)」ヒキガエル。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」を参照されたい。

「心得て」蟇がその「高倉屋庄衞門」の亡き母の変じたものだと判って。

「耻しめ、惡口して」ここでは、ヒキガエルに正面から向って立ち、母の名をじかに名指して、かく、したものであろう。こういう場合、民俗社会では、相手の正体を正しく先に名指すことで、対象者たる鬼神や変化(へんげ)の物は、後手に回る側に落ち、引いては、退散するケースが多いからである。

「婦を許して」亡き母が主語である。今までの本書に例を見るに、彼女の夢に出て、「寺社堂塔へ參詣」して菩提を弔って呉れ、とでも言ったというのであろう。]

 

〇京、新在家(しんざいけ)、角屋永春(かどやえいしゆん)、女房、常に煩ひ故、永春、悔いて、

「町人は、女房の營(いとなみ)を以つて、世を渡るに、其方(そのはう)が樣(やう)に、常に煩ひて、何の用(よう)にも立たず、男の若勞(くらう)になる。死なば、早く、死にもやらで。」

と、折々、云ひける處に、女房、煩ひ、重り、死期(しご)に及ぶ時、永春を近付(ちかづ)けて、「我、日比(ひごろ)、煩ふに付き、『早々(はやはや)、死ねがし。』と、度々(たびたび)申されけるが、唯今、相果(あひは)つる間(あひだ)、定めて、本望たるべし。」

と云ふ。

 永春も、少し、いぶせく思ひ、何かと、陳(ちん)じけれども、女房、聞きも入れず、終(つひ)に死す。

 さて、一兩日、過ぎて、夜半(やはん)の比(ころ)、永春が家へ、裏の口を敲(たゝ)く。

 永春、寢間(ねま)近き間(あひだ)、起きて、

「何者ぞ。」

と云へば、我(わが)女房の聲にて、

「此の戶を、明け給へ。」

と云ふ。

 永春、以つての外に驚き、寢間へ逃入(にげい)り、戶を鎖(さ)して居(ゐ)けるに、

「此の戶を明け給はずは、表の口ヘ廻(まは)るべし。」

と呼(よば)はると否(いな)や、表の戶を、

「さらり」

と明けて、寢間へ走り入つて、永春が肩に、したゝかに、咬(く)ひ付く。

 内の者ども、聞き付け、火(ひ)を燃(とも)して見れば、永春、殺入(せつじ)す。

 其家(そのいへ)の向かひに、宗愚(そうぐ)と云ふ醫者、有り。呼び寄せ、氣付(きつけ)を與へければ、漸々(やうやう)、活(い)き返る。

 此の疵(きず)、癒えて後(のち)まで、牙痕(はあと)、失せず。

 同じ町の正庵(しやうあん)と云ふ人、委しく知つて語るなり。

 寬永の初めの事なり。

 

 

因果物語下卷大尾

[やぶちゃん注:「京、新在家」地名。「江戸怪談集(中)」の注に、『上京区中立売通新元町』(なかだちうりどおりしんもとちょう)『のあたりの旧地名』とある。ここ

角屋永春(かどやえいしゆん)、女房、常に煩ひ故、永春、悔いて、

「少し、いぶせく思ひ」ちょっと気詰まりに思って。

「何かと、陳(ちん)じけれども」いろいろと、弁解して謝ったりしたが。

「殺入」既出既注。「絕入」(ぜつにふ(ぜつにゅう))に同じ。気絶すること。

「寬永の初め」寛永は元年は一六二四年で、寛永二十一年まで。

 この後に奥附があるが、私の底本と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの画像の当該リンクに留める。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「二十 愛執深き僧蛇と成る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   二十 愛執深き僧蛇と成る事

 下總(しもふさ)の國、結城の高顯寺に、恩貞(おんてい)と云ふ若僧、有り。本國は尾州折津(をりづ)、義恩(ぎおん)長老の弟子なり。

 九州より下る周慶(しうけい)と云ふ僧、館林(たてばやし)、善長寺に居(きよ)す。此の僧、高顯寺の江湖(かうこ)へ來て、恩貞に戀慕(れんぼ)して、煩(わづら)ひと成る。

 善長寺に歸つて、彌々(いよいよ)、憬(あこが)れ、終(つひ)に臥し居(ゐ)たり。

 恩貞、古き袷(あはせ)を、周慶に出(いだ)しければ、是を引きさき、引きさきして、喰(く)ひ盡(つく)し、次第々々に、煩ひ、重くなり、終に死期(しき)に究(きはま)る。

 然(しか)れども、死に難(かね)て、若患(くげん)かぎりなし。

 善長寺、泉牛(せんぎう)長老、恩貞指南坊主へ、右の子細を具(つぶさ)に云ひ遣はして、恩貞を呼び寄せ、周慶に引き合はせければ、目を見出(みいだ)して、手を取り、悅びけるが、則ち、死す。

 其後(そのゝち)、恩貞、伏したるふとんの下に、何やらん、動きけるを、振ひ出(いだ)し、見れば、白き蛇なり。

 六、七度、殺して、串(くし)に指(さ)して捨てけれども、終に絕へず。

 然(しか)る間、關東に居る事、叶はずして、尾張へ歸國しけれども、彼(か)の僧の面影、身に添ひ、畏毛立(おぞけだ)ちて、煩ひに成り、次第々々によわり、終に死す。

 其時まで、蒲團(ふとん)の下に、白蛇、有り。

 確(たしか)に、諸人(しよにん)、知りたる事なり。

[やぶちゃん注:本書で初めて出る男僧の同性愛譚二連発!

「下總(しもふさ)の國、結城の高顯寺」茨城県結城市結城にある曹洞宗天女山永正禅林泰陽院孝顕寺(てんにょざんえいしょうぜんりんたいよういんこうけんじ)。

「尾州折津」愛知県一宮市の南方に接する稲沢(いなざわ)市下津町(おりづちょう)と思われる。「江戸怪談集(中)」の注でも、そこに比定している。

「義恩長老」不詳。

「館林、善長寺」群馬県館林市当郷町(とうごうちょう)にある曹洞宗巨法山(こほうざん)観音院善長寺

「江湖」は既出既注。「がうこ」が正しい。夏安居(げあんご)。

「袷」裏地のある長着のこと。

「恩貞指南坊主」恩貞の師匠。

「目を見出して」目を大きく見開いて。]

 

〇關東にて守誾(しゆきん)と云ふ僧、若僧(にやくさう)に戀慕して、其の念、蛇と成りて、若僧の居(ゐ)たる寮(れう)の、窓より、見入れて居(ゐ)たり。

 若僧、「双紙(さうし)きり」にて、蛇(へび)の目を、つきければ、隣りの寮の僧、「あつ。」

と云ふて、呼ぶ。

 其の由を聞けば、俄かに、片目、つぶれたり。

 其後(そのゝち)、徧參して步きけるが、

「蛇守誾(へびしゆきん)。」

と、人々、云ふなり。

 天正年中の事なり。

[やぶちゃん注:「守誾」読みの「しゆきん」はママ。この漢字の音は「ギン・ゴン」である。初版板本84コマ目)でもママで、唯一、「江戸怪談集(中)」が正しく『しゆぎん』と振る。但し、それが同書の底本である東洋文庫岩崎文庫本でそうなっているかは、現物が見られないので、判らない。高田先生が補訂された可能性もある。先行する『上卷「三 幽靈夢中に人に告げて僧を請ずる事 附 血脉を乞ふ事」』の第二話に全く同名のバイ・プレイヤーとして庫裡坊主「守誾」(但し、そこでは「しゆぎん」と正しい読みが示されてある)が登場するが、同一人物かどうかは不明。同一人物とすると、長老らを除けば、陰鬱なる主人公としての返り咲きという有難くない特異点となる。

「双紙きり」「双紙錐」。草紙を綴るために穴を開けて糸を通すための錐。

「天正年中」一五七三年から一五九二年まで。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十九 五輪の間に蛇有る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十九 五輪の間(あひだ)に蛇有る事

 尾州萬松寺(ばんしようじ)の末寺、福壽院の旦那、大谷八兵衞(おほたにはちびやうゑ)と云ふ人、死す。

 五輪を立て、第三年の時、

「此五輪の臺、ひくし。切直(きりなほ)さん。」

とて、五輪を取放(とりはな)して見れば、五輪の間に、白き蛇、平(ひらた)く成りて居(ゐ)たり。

 其時の奉行、八兵衞内(うち)の佐右衞門(さゑもん)、是を見て、不思議に思ひ、五輪の切合(きりあは)せを見るに、如何にも、能く切合(きりあは)せたり。穴も、四寸程、深し。「ほぞ」も四寸程、有り。

 彼の蛇、平(ひらた)く成りてありしが、俄(にはか)に大くなりて、怖ろしく、見る中(うち)に、穴、一盃(いつぱい)に成りたり。

 此由、子息の八兵衞に告(つげ)ければ、

「知音(ちいん)に、修行者(しゆぎやうじや)有り。」

とて、此人に語りければ、此人、

「目出度(めでたき)事なり。神に成り給ふ。」

と云ふ。

 子息、悅び、酒など、持來(もちきた)り、福壽院にて祝ひけり。

 其後(そのゝち)、本秀和尙、名古屋へ出で給ふに、子息、此由を語る。

 和尙、聞きて、

「是、能き事に非ず。畜生道(ちくしやうだう)へ落ちたり。」

と云ひ給へば、諸人(しよにん)、大に驚く、となり。

 見出したるは、寬永六年三月十八日なり。

 其石塔、今に彼(かの)寺に有り、となり。

[やぶちゃん注:「尾州萬松寺」愛知県名古屋市中区大須にある織田信長(織田信秀により織田氏菩提寺として那古野城の南側に建立されたのが最初)や徳川家康を始めとする戦国武将との縁が深く、名古屋の歴史的観光名所にもなっている亀岳林万松寺。元は曹洞宗であるが、二〇一六年曹洞宗との被包括関係を廃止し、現在は単立寺院。

「福壽院」同じく大須にある曹洞宗福寿院。万松寺の南直近。

「奉行」ここでは、五輪塔改修の総責任者の意。

「五輪の間」五輪塔は全部を個別に作って積み上げた場合、安定が悪いので、古いものを見ても、一番下の方形の地輪の上に「ほぞ穴」を彫り、そこに上部が球状の水輪の下部に「ほぞ」を残して加工し、それを嵌める方法がとられた可能性が高い(少なくとも、現在の新しい五輪塔ではそうした形で組み合わせることが多いように思われる。その上の下から順に笠形の火輪・風輪・空輪のは、私が鎌倉で実地観察した限りでは、古い時代のものは三つを同一の石で掘り出したもの、或いは、上部の風輪と空輪は一緒の石であるものが殆んどである。蛇が出現する部分としても最初に述べた地輪の上部が、映像的にもスペース的にも相応しい。

「本秀和尙」既出既注

「寬永六年」一六二九年。]

 

〇武州江戶、吉祥寺(きちじやうじ)の下、溜池(ためいけ)大堤(おほづつみ)の際(きは)に、淨土寺あり。水戶樣御屋敷に成り、池を埋め給ふ時、此淨土寺の卵塔、土取場(つちとりば)に成る。

 此時、一つの五輪の中に、白き蛇、二筋(ふたすぢ)、からみ合うて、あり。

 見る中(うち)に、大(おほき)になり、一尺七寸程あり。

 是を放しければ、三度(ど)まで、からみ合(あ)うて、去りけり。

 役(やく)の者ども、皆、是を見る時、住持、此二つの蛇を取り、水船(みづぶね)に入れ置きて、人々に見せ、

「今に生きて居(ゐ)たり。」

とて、悅びけり。

「此住持、吊(とむら)うて、畜生になし、利口(りこう)する事、扨々(さてさて)、淺ましき事なり。」

と、人に云はれて、耻(はぢ)をかきけり。

 其亡者の娘、七、八歲に成りけるが、來り、見て、彼(か)の二つの蛇を、持ちて歸るなり。

 其亡者は、前田何某(なにがし)と云ふ人なり。霜月十三日に熱病を煩ひ、死す。女房は六年後、霜月十三日に死すなり。

[やぶちゃん注:「吉祥寺」これは、以前に出た、東京都文京区本駒込にある太田道灌が創建した曹洞宗諏訪山吉祥寺であろう。現在の東大キャンパスの北西部分から北西にあった水戸藩中屋敷に近い。

「溜池(ためいけ)大堤(おほづつみ)の際(きは)に、淨土寺あり」東京都文京区にある浄土宗願行寺(がんぎょうじ)か。東大キャンパスの直近北西で水戸中屋敷直近である。

「卵塔」ここでは「卵塔場」で広義の「墓場」の意。

「一尺七寸」五十一センチメートル強。

「役」池埋めの人夫。

「水船」飲料水を貯めて置く大きな箱・桶。

「利口」軽口を言うこと。冗談。]

昨日クルーズ 第二海堡到達

昨日は、親友のヨットで、クルーズ、念願の第二海堡に到達、その沖で昼食を摂り、往復、六時間足らずで、無事、ハーバーへ帰った。浦賀水道の巨大タンカーの混雑水域で、行きと帰りに警告の汽笛を受けたが、久し振りに、とても楽しかった。

Google-map
グーグル・マップから私がトリミングした第二海堡
Jps
親友のスマホGPS画像(以下、親友の撮影)
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帰途、安全海域で梶取(右は妻)

2022/10/15

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十八 女の魂蛇と成り夫を守る事 附 餅鮎を守る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。

 なお、この「附」(つけたり)の「餅(もち)鮎(あゆ)を守る事」というのは、後の二条の標題としては、判り難い。稲霊(いなだま)の象徴である餅の霊異ということではあろうものの、今一つ、因果発動の機序と、被害を受ける餅搗きの罪のない女性の災難(額に火傷痕が残るのは深刻だ)の連関性が不明であり、本書中、特異点の「訳の分からぬ話」である。そもそも、標題にマッチしなくてはならない第二話は、「餅」が「鮎」を守っている関係性が話柄の中で明らかになっているようには読めない。寧ろ、これは全国に散在する餅の禁忌(餅を作らず、決して食べない)との連関が強くあるようには私は感ずるが、それはしかし、思うに、仏教とは無関係な、本邦独自の古い民俗信仰が根っこにあると私は考えており、それを因果話に安易に繋げた結果として、話が上手く機能しなくなっているのではないかと疑っている。識者の見解を乞うものである。

 

   十八 女の魂(たましひ)蛇と成り夫を守る事

      餅(もち)鮎(あゆ)を守る事

 江州大津、加賀藏(かがくら)の前(まへ)の、銀冶(かぢ)與兵衞(よひやうゑ)、加賀の城、燒けたる時、釘作(くぎつく)りに行きける處に、蛇、三度(ど)來(きた)りて、與兵衞を守り居(ゐ)る處を、何(なに)となく、燒釘(やけくぎ)を、蛇の頭(かしら)に當てければ、蛇、去りぬ。

 其時節、大津にて、鍛冶の女房、

「わつ。」

と云ふ。

「何事ぞ。」

と問へば、

「何者やらん、額(ひたひ)に燒鐵(やきがね)を當てたり。」

と云ふ。

 額の燒迹(やけあと)、後(のち)まで有り。

 要津(えうしん)和尙、此女を見給ふに、懺悔(ざんげ[やぶちゃん注:ママ。])して語るなり。

 慶安元年の比(ころ)、六十餘りなり。

[やぶちゃん注:「江州大津、加賀藏」加賀藩蔵屋敷跡。何故、加賀藩の蔵屋敷が大津にあり、それがどこかは、公益財団法人「滋賀県文化財保護協会」公式サイト内の「新近江名所圖絵第206回 大津蔵屋敷の面影を訪ねて(その1)」に詳しく記されてある(地図もある)ので、そちらを読まれたい。

「加賀の城、燒けたる時」慶長七(一六〇二)年に天守が落雷によって焼失ことを指すものと思われる。ウィキの「金沢城」によれば、『代わりに三階櫓が建造された。また、この頃から金沢城という名称が定着した』とある。

「要津和尙」滋賀県米原に名庭園で知られる曹洞宗吸湖山(きゅうこさん)青岸寺があるが、そのウィキに、『室町時代の延文年間』(一三五六年~一三八一年)、『近江守護の佐々木道誉が不動山の山号と米泉寺の寺号で開創した』。『その後、戦国時代に焼失したが、慶安』三(一六五〇)年、『彦根藩主井伊直澄の命により』、『彦根大雲寺の要津守三』(ようしんしゅさん:☜)『が入山し、敦賀の伊藤五郎助の寄進により再興された』。明暦二(一六五六)年、『伊藤五郎助が卒したことを悼み、彼の諡(おくりな)である青岸宗天に因んで寺号を青岸寺、山号を吸湖山に改めた。寺は曹洞宗に改宗し、大雲寺の末寺となった。再興時に作られた庭園は彦根の玄宮園・楽々園築庭のために庭石が持ち出され、荒廃していたが、後に彦根藩士の香取氏により』延宝六(一六七八)年に『再築された』とある著名な曹洞僧である。

「慶安元年」一六四八年。]

 

○濃州(ぢようしう)東郡(ひがしぐん)「なれ」と云ふ村、長井圓齋(ながゐゑんさい)、家(いへ)にて、鮎を燒くに、蛇、來(き)て、油を舐(なむ)る。

 火箸を燒きて、頭(かしら)に當てければ、庭にて、物(もの)搗く女(をんな)の額(ひたひ)、燒けたり。寺西權兵衞(ごんひやうゑ)、

「圓齋、口(くち)より、聞きたり。」

と語るなり。

[やぶちゃん注:『濃州東郡「なれ」と云ふ村』「東郡」という郡は美濃国に存在しない。「なれ」という特異な地名は、現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびがわちょう)谷汲名礼(たにぐみなれ)ここかどうかは不明。

「長井圓齋」「寺西權兵衞」孰れも不詳。この短さで二名の人物がフル・ネームというのも珍しい。正三自身、この話を採録するに、因果譚としての意味がよく分かっていなかったのではないか? ともかくも怪異な話であり、そこに人智を越えた因果が働いていると無理矢理こじつけるため、リアルさを出さんがための操作のような気さえするのである。却って、周辺的デーティルを飾ってしまった結果、そうした嘘臭さが露わになっている感さえある(噂話特有の、また聴(ぎ)きだし)。正三自身がそれを感じて――因果の関わりに不明な点はあるが、これは私が創作したのではなく、「寺西權兵衞」が「長井圓齋」からじきに聴いた確かな事実なのである――と必死に弁解しているような感じさえ、おぼえるのである。

「油」鮎を焼く時に滴る脂(あぶら)。

「物」「餅」ととっておくが、次の話柄でもそうだが、何故、「餅」と言わないのか? が気になる。私がこれと次の話が「餅の禁忌」と連関が強くあると感じたポイントは、まさのこの「物」という言い方にあるのである。タブーに於いては、その対象を明確に名指すことを激しく忌避するからである。

 

○上州前橋、太郞左衞門處(ところ)にて、内匠(たくみ)と云ふ人、餅を炙る處へ、小蛇(こへび)、來て、是を舐むる。

 内匠、持ちたる火箸にて、蛇の頭(かしら)を突きければ、下女、庭にて、物(もの)搗きて居(ゐ)ながら、

「あつ。」

と叫ぶ。

「何事ぞ。」

と問へば、

「額に、燒鐵(やきがね)を、當て給ふ。」

と云ふ。

 是を見るに、眞(まこと)に燒鐵の迹(あと)、付きたり。

 元和年中の事なり。

 彼(か)の太郞左衞門、語るを、確(たしか)に聞くなり。

[やぶちゃん注:「元和年中」一六一五年から一六二四年まで。]

2022/10/14

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十七 人の魂、死人を喰らふ事 附 精魂寺ヘ來る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十七 人の魂(たましひ)死人(しにん)を喰(く)ふ事

      精魂(せいこん)寺ヘ來る事

 山城より、丹波へ行く路の、沓掛(くつかけ)と云ふ所に、太郞兵衞(たらうびやうゑ)と云ふ者、京四條の多葉粉刻(たばこきざ)み、喜右衞門と云ふ者、近付(ちかづき)にて、恒々(つねづね)、出入(しゆつにふ)す。

 或時、

「沓掛より、京へ行く。」

とて、桂川(かつらがは)を渡れば、頓(やが)て、廟處(べうしよ)、有り。

 死人(しにん)を捨て置きたり。

 見れば、喜右衞門、日比(ひごろ)、癩病氣(らいびやうけ)なるが、彼(か)の死人(しにん)を、小刀(こがたな)にて、切りて、喰ひ居(ゐ)たり。

『さて。不思議なり。』

と思ひ、行きければ、案の外(ほか)、喜右衞門は、家に伏して居(ゐ)る。

 起こして對面すれば、喜右衞門、

「不思議なる夢を、見たり。」

と云ふ。

「何事ぞ。」

と問へば、

「桂川の渡りにて、死人を喰ふて、口の腥(なまぐさ)き事、限りなし。」

と云ふ。

 太郞兵衞、それにて、有(あり)の儘に語りければ、喜右衞門、聞いて、驚き、

『あさましきこと哉(かな)。』

と思ひ、髮を剃り、家を捨て、發心して後(のち)、癩病も、大方(おほかた)、能く成りて、乞食(こつじき)しけり。

 彼の太郞兵衞も、道心を發(おこ)し、慈悲を專(もつぱ)らとして、不斷念佛せし、となり。

 太郞兵衞、直(ぢき)に語るを聞きて、野尻萬助(のじりまんすけ)と云ふ人、一心(いつしん)と云ふ禪門に成りて、確(たしか)に語るを、寬永十八年の霜月に聞くなり。

[やぶちゃん注:「沓掛」「江戸怪談集(中)」の注に、『京都市西京区大枝沓掛町』(おおえくつかけちょう)、『丹波街道老の坂峠の京都側』とある。こ「老の坂峠」は国土地理院のここに相当し、グーグル・マップ・データ航空写真ではここ。大江山(大枝山)北山腹の峠である。

「多葉粉刻み」葉煙草を刻んで、販売する職人。当時は「賃粉(ちんこ)切り」と呼ばれていた。刻み方の好みも時代によって変わってようで、江戸初期は荒く太いものが好まれたが、中期頃には細く糸のように刻むのが好まれるようになった。

「桂川を渡れば、頓て、廟處、有り。死人を捨て置きたり」現在の桂川を渡った左岸の右京区の西院付近は中古以来、風葬の地として知られていた。

「癩病氣」ハンセン病に罹ったような感じ。「江戸怪談集(中)」の注に、『癩病。人肉食によって治癒すると考えられていた。』とある。ハンセン病については、既にこちらで既出既注であり、これも前に注したが、近代以前には、世界的に諸病(特に難病)の特効薬として人糞や人肉を食べる迷信や習慣が広くあった。ハンセン病に人肉が効くという迷信で、最も知られる事件は「野口男三郎(だんざぶろう)事件」であろう。野口男三郎(明治一三(一八八〇)年~明治四一(一九〇八)年七月二日死刑執行)は、謀殺強殺犯の他、著明な漢学者でハンセン病に罹患していた野口寧斎(妹の曾江子は男三郎の妻であった)、及び、野口に人肉を薬として与えんとして十一歳の少年を殺した犯人としても疑われ、結局、薬局店経営者強殺が認定され、絞首刑に処せられた。簡略なものは、『芥川龍之介「VITA  SEXUALIS」やぶちゃん語注』の「野口男三郞の事件」を見られたいが、事件の詳しい全容はウィキの「臀肉」(でんにく)「事件」(同猟奇的疑惑事件の別称)がよかろう。

「野尻萬助」「一心と云ふ禪門」不詳。

「寬永十八年の霜月」一六四一年十二月。]

 

〇賀州、牢奉行、五郞左衞門と云ふ者、後生願(ごしやうねが)ひにて、每月、親の忌日(きにち)に寺へ參る也。

 或時、融山院(ゆうざんゐん)へ來たつて、

「某(それがし)、煩ひ故、御寺へも參らず。」

と云ふて、茶の間にて、茶二、三服(ぷく)、呑みて、歸る。

 明日(あくるひ)、納所(なつしよ)、行きて、

「御煩(おんわづら)ひを存ぜぬ故、見舞ひ申さず、無沙汰なり。扨(さて)、昨日(きのふ)は、能く御出でそろ。」

と云へば、妻子、云ひけるは、

「五郞左衞門は、以ての外に煩ひて、立居(たちゐ)も叶はず、結句、昨日、今日は、取分(とりわ)け、煩ひ若(くる)しき故、『寺參りも成らず、無念なり。』と申されし。」

と語るなり。

[やぶちゃん注:しばしば見られる生霊の寺参りである。

「賀州」加賀国。

「融山院」現在の石川県金沢市寺町にある曹洞宗円通山融山院。元和九(一六二三)年に丹波国円通寺の住持であった融山泉祝が、加賀藩家老横山長知(ながちか)の請(しょう)を受け、八坂で松山寺を建立したが、その後、彼が隠居して結んだ庵が同寺の発祥。三千坪を有する伽藍となったが、幕末・明治の廃仏毀釈で堂宇は消滅した。後、明治の末に現在地に再建したが、第二次世界大戦の空襲で損壊し、現在も仮本堂の状態である(以上は上記リンク先のグーグル・マップ・データのサイド・パネルの解説版写真に拠った)。]

 

〇尾州名古屋、相見寺(さうけんじ)の小姓(こしやう)を、さる御方(おんかた)へ召仕(めしつか)はれけるが、科(とが)有りて、切腹す。

 彼(か)の小姓、寺へ來(きた)り、緣端(えんばな)に手を掛けて、

「菩提を、助(たす)け給へ。」

と云ふ中(うち)に、消え失せたり。

 其時刻を考ふれば、切腹したるより、少し、前方(まへかた)なり。

 閩山(みんざん)和尙の代なり。

[やぶちゃん注:「相見寺」「江戸怪談集(中)」の注に、『現名古屋市中区大須の』興聖山(こうしょうざん)『総見寺。臨済宗妙心寺派に属した。』とある。ここ同寺の公式サイトのこちらに、『織田信雄(のぶかつ)が父・信長を弔うために伊勢国桑名郡の安国寺を引き取り、忠嶽和尚を開山に迎え天正十一年』(一五八三)『に現在の地に「景陽山総見寺」を建立した。しかし、慶長十五年』(一六一〇)『「清須越し」によって名古屋大須に移る』。『名古屋総見寺の三代住職閩山永吃(みんざんえいきつ)和尚』(☜)『は、尾張初代藩主・徳川義直公と亀姫(徳川家康公長女)の御両人から並々ならぬ帰依を受け、義直公自らが開基大檀那となって正保元年』(一六四四)『「興聖山總見院」を現在の地に創建し、閩山和尚を開山に迎え、信長公の菩提を弔うよう命じたのが始まりである』とある。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十六 死後馬と成る人の事 附 牛と成る人の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十六 死後馬と成る人の事

      牛と成る人の事

 江州大津、車路町(くるまみちまち)に、左兵衞(さひやうゑ)と云ふ者、月毛馬(つきげうま)三寸(ずん[やぶちゃん注:ママ。])程なるを、二、三年、持ちて、腰を折(くじ)かせ、直段(ねだん)下(さが)り、草津の淸兵衞(せいびやうゑ)と云ふ者に賣るなり。

 寬永十六年三月の比(ころ)、人、二人(ふたり)、來つて、此馬を尋(たづ)ぬ。

「何事ぞ。」

と問へば、

「斯樣々々(かやうかやう)の馬、草津に有りと聞けども、尋ね逢はず。是(これ)に久しく有る由、承はる。草津の馬主(うまぬし)へ、案内者(あんないしや)を賴みたき故、尋ね來(きた)る。」

と云ふ。

「さらば。」

とて案内を添へければ、草津の淸兵衞處へ行き、

「馬を、一見、仕(つかまつ)らん。」

と所望す。

 馬主、

「三十日以前に求めたり。賣馬(うりうま)にては、なし。」

と云ふ。

 色合(いろあ)ひを云ひ、所望しければ、馬主、

「人喰馬(ひとくひうま)なれば、金轡(かなぐつは[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])を、はめて置く。引出(ひきいだ)す事、六(むづ)かしき間(あひだ)、其儘、見給へ。」

と云ふ。

 彼(か)の二人、

「若(くる)しからず。」

と云うて、羈(おもづら[やぶちゃん注:ママ。])を放し、引出すに、馬、淚を流し、凋(しほ)れたる有樣(ありさま)なり。

 二人(にん)の者ども、憐みたる氣色(けしき)にて、馬を引廻し、口を明けて、年(とし)を見んとするに、自ら、口をあけて、牙(は)を見せけり。

 馬主、

「斯樣(かやう)に人に隨ふ事、始(はじめ)てなり。」

と云ふ。

 さる程に、二人(にん)の者、

「此馬を所望仕りたき。」

と云ふ。

 馬主、

「叶(かな)ふまじき。」

と云ひけるを、種々(しゆじゆ)、言(ことば)を盡し、無理に所望して、本(もと)の買直(かひね)の如く、金二兩に買取(かひと)りて行くなり。

 馬主、跡(あと)にて、

『餘り、不思議なる有樣(ありさま)なり。仔細を問はばや。』

と思ひ、半里程、行きけるを、追掛(おひか)けて、仔細を問ふ。

 其時、二人(にん)の者、

「耻(はづ)かしながら申すべし。是は、我等、親なり。

『年忌を吊(とむら)ふべし。』

と心當仕(こゝろあてつかま)つる處に、兄弟の者の夢に、父、告(つげ)て、

『我、今、馬と成りて、草津にあり。「強(つよき)馬。」とて、重荷を負(お)ふせて、隙(ひま)なく、江戶、上下(じやうげ)す。此若患(くげん)、限りなくして、人を喰(く)ひ蹈(ふ)みけれれば、「癖馬。」とて、金轡(かなぐつは)を、はめて、彌々(いよいよ)、再々(さいさい)、上下さする間(あひだ)、若患、耐へがたし。願はくは、我を買取つて給へかし。今は、草津にあり。』

と、有々(ありあり)と、兄弟、共に、夢、見たるゆゑ、兄は弟(おとゝ)の處へ行き、弟は兄の處へ行き、途中にて行合(ゆきあ)ひ、互(たがひ)に語るに、同じ夢なり。大津の町、馬主の名、馬の毛、年(とし)の比まで、慥(たしか)に見しより、此(か)く如くなり。」

と云ふ。

 其時、草津の馬主、淚(なんだ)を流し、

「此金(このかね)、皆、返したく思へども、御邊達(ごへんたち)志(こゝろざし)の品なれば。」

とて、二步(ぶ)、返しけり。

 二人(にん)、

「是(これ)は、如何に。結句、本(もと)の直(ね)より、高く買ふべきこそ本意(ほんい)なるに、平更(ひらさら)、御取(おんと)りあれ。」

と言へども、取らず、暇乞(いとまごひ)して歸るなり。

 二人(にん)の者は、尾州中島郡(なかじまぐん)の内、羽根(はね)と云ふ處の者なり。

 佐和山大雲寺(さわやまだいうんじ)、衆寮普請(しゆれうふしん)に、大津の車地(くるまち)に居(ゐ)る、大工理右衞門と云ふ者、來(き)て、委しく語るなり。

 扨、二人(にん)の者ども、數多(あまた)の僧を供養して吊(とふら)ひければ、馬、頓(やが)て死し、それより、二人(にん)の者、京へ上り、發心して、馬の菩提を、とひける、となり。

「其比、京中(きやうちう)に『馬念佛(うまねんぶつ)』と云ふ事あり。」

と。

 又、大坂にて、久譽(きうよ)、能く知つて、語られたり。

[やぶちゃん注:本書の中でも長い話で、しかも、展開するロケーションも、馬主の暗い厩から、後半、晩春の広野のワイドな田園風景の中で語りが、しみじみと、行われ、最後の馬主の台詞と小さくなってゆくその画像まで、画面構成が素晴らしくリアルになされており、私は本「因果物語」中、文学として、最も完成した一篇として称揚するものである。

「江州大津、車路町」現在の滋賀県大津市春日町に「逢坂越えの車道・車石」があり、幾つかの資料を見るに、旧東海道の滋賀大津の方のこの一帯附近にあったものと思われる。

「月毛馬」葦毛(葦の芽生えの時の青白の色に因んだもので、栗毛・青毛・鹿毛・の原毛色に、後天的に白色毛が発生してくる馬)の、やや赤みを帯びて見える馬。

「三寸(ずん)」これは「さんずん」ではなく、「みき」と読まなくてはならない。これは古来、馬の背高さを呼ぶのに用いた特殊単位で、地面から首の根の背までの体高を、標準の高さの基本を「四尺」(一メートル二十一センチ)として、それより一寸(すん)(約三センチ)高い場合を「一寸」(いっき)と呼び、以下、「二寸」(にき)、「三寸」(さんき)、と呼んで区別したものである。「三寸」は一メートル三十センチとなる。身長の高い武士は大きく逞しい八寸(やき)(一メートル四十五センチ)を好む傾向があった。

「草津」滋賀県草津市

「寬永十六年三月」三月一日はグレゴリオ暦一六三九年四月四日。

「人喰馬」すぐに人に噛みつくような暴れ馬であることを言う。

「金轡(かなぐつは)」歴史的仮名遣は「かなぐつわ」でよい。馬の口に取りつけ、手綱(たづな)をつけて馬を御する馬具。日本語の起源は「口輪」(くちわ)からの転訛とする説がある。古くは「くつばみ」と言い、手綱のことを「くつわ」ということもあった。「轡」は「勒」(ろくはみ)・「銜」(くつわはみ)という語を用いることもある。これを、常時、咬ませてあるのは、邪魔になって、大きく人に噛みつくことがし難くなるからである。

「羈(おもづら)」ここは、轡を固定するために馬の頭の上から掛ける組み紐。 同前に理由。

「牙(は)」馬の年齢を即物的に判断するには前歯(切歯)の擦り減り方に拠る。詳しくは、サイト「JODHPURS」(ジョッパーズ)のこちらの記事を読まれたい。但し、素人には判らないとある。

「淚(なんだ)」「なみだ」の音変化。近代までよく使われた。例えば、私の「石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 心の聲 (全七章)」の「落葉の煙」の初出形の第四・六連や、初期によく使った萩原朔太郎の、同じく私の電子化である「竹(「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)」の初出形を見られたい。

を流し、

「此金(このかね)、皆、返したく思へども、御邊達(ごへんたち)志(こゝろざし)の品なれば。」

「二步(ぶ)」小判一両は四分(ぶ=「歩」)。

「平更(ひらさら)」副詞。是非とも。

「尾州中島郡の内、羽根」愛知県の旧中島郡は、現在の稲沢市の大部分・一宮市の一部・清須市の一部からなるが、現地名を調べたが、見当たらない。

「佐和山大雲寺」現在の滋賀県彦根市河原にある曹洞宗青龍山大雲寺。佐和山城のある佐和山町の南西直近ではある。

「衆寮」修行僧の生活する僧堂。

「普請」建築工事。

「大津の車地」先の「車路町」と同義と採る。或いは、より広域の用法かも知れない。

「馬念佛」不詳。単に「馬の耳に念仏」の浄土真宗などへの悪意を含んだ洒落ではあるまいか。

「久譽」不詳。]

 

○江州越川(ゑちかは)の問屋(とひや)、彌右衞門と云ふ者、愚癡慳貪、無類者なるが、死して三年目、正保四年亥の年、栗澤次郞右衞門と云ふ者の、馬の子に產れ出づるなり。

 栗毛(くりげ)に、白き毛の文字(もじ)細々と、「越川彌右衞門」と有り。

 護谷(ごこく)和尙、

「行きて見給ふに、文字、明(あきら)かならず、よくよく見れば、確(たしか)なり。」

と語り給ふなり。

[やぶちゃん注:「江州越川」滋賀県彦根市三津町(みつちょう)に越川城跡があるが、この附近か。

「正保四年」一六四七年。

「栗毛」馬の毛色の名。地肌が赤黒く、鬣(たてがみ)と尾が赤茶色を呈しているもの。品種改良の結果、出現したもの。

「護谷和尙」不詳。]

 

〇東三河一の宮の神主(かんぬし)、二郞太夫(じらうたいふ)内(うち)の左衞門四郞と云ふ者、死して、牛に成りて、步行(ありき)けり。

 皆人(みなひと)。

「牛鬼(うしおに)。」

と云うて、是を怖(おそ)る。

 左衞門四郞が家の近處(きんじよ)、二、三間、逃げて、明屋(あきや)に成りたり。

江州東願寺と云ふ處の、淸寳(せいはう)と云ふ坊主、吊(とむら)ひけれども、叶はず、又、長山(ながやま)の正眼院(しやうげんゐん)長老を賴み、吊ひけれども、治まらず、其後(そのゝち)、土井川(どゑがは)の明嚴寺(みやうごんじ)、牛雪(ぎうせつ)和尙を賴み、治めけり。

 寬永五年の事なり。

[やぶちゃん注:「東三河一の宮」これは、神社名で、現在の三河一之宮砥鹿(とが)神社のことであろう。

「牛鬼」妖怪名としては、本邦で特に西日本で知られる妖獣で、頭が牛で、首から下が鬼の胴体を持ち(または、その逆)、概ね非常に残忍獰猛で、毒を吐き、人を食い殺す。しかし、ここでは、具体なその姿が描かれていないから、実体のない、噂か。しかし、三人目でやっと治まった(消えた)というのだから、何らかの夜間に徘徊する変質者か、夜行性の動物がいたということなのだろうか。どうも、その辺が脱落していて、つまらない。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十五 死後犬と成る僧の事 附 犬と成る男女の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十五 死後犬と成る僧の事

      犬と成る男女の事

 尾州名古屋、膳德寺、順的和尙の弟子に、傳可と云ふ僧あり。關東にて、十年程、徧參するなり。後(のち)に三州牛窪と云ふ村に、寺を持ち居(ゐ)たり。

 順的和尙の師匠、牛窪の花居寺(はなゐじ)と云ふ寺に居給ふ。

 さる年の春、師匠、見舞に來り給へぱ、傳可、順的和尙へ向つて、

「我等、參り、納所、仕(つかまつ)るべし、秋中(ちう)に名古屋へ參るべし。」

と約束す。

 然(しか)るに、傳可、夏中に、煩うて死す。

 或夜(あるよ)、順的和尙の夢に、傳可、來つて云ふは、

「『秋中、參るべし。』と御(おん)約束仕る處に、夏中、相果て、忽ち、犬に生れ申すなり。何國(いづく)にも緣なく、居處(ゐどころ)もなき間、是(これ)の庭に、おき養ひ下されよ。」

と告ぐるなり。

 和尙、

「折角、待ちけるに、扨(さて)は、死にて、犬に成りたるか、不便(ふびん)なり。置くぺし。」

と言ひ給ふと、夢は、醒めけり。

 明朝(めうてう)、大衆(だいしゆ)に、

「不思議の夢を見たり。」

と語り給ふ。

 亦、次の夜(よ)、夢に、右の如く、來りて、云ふ。和尙、

「扨々、くどいこと。」

と宣ひて、夢、さめける。

 明朝、乞食、犬の子を、一疋、連れ來り、

「よい犬の子、進(しん)ぜん。」

と云ふ。

 僧達、見て、

「犬は入(い)らず。持ち去れ。」

と云ふ。

 和尙、聞き給ひ、

「それは。夢に見えたる傳可と云ふ、我弟子なり。」

とて、取り、庫裡(くり)に置き、食(めし)を喰(く)はせ、和尙、茶の間より、

「傳可、傳可。」

と喚び給へば、彼(か)の犬、

「ころころ」

と走り、和尙の側へ徃(ゆ)くなり。

 犬の毛は、うす赤く、手、白々、鼻の先、白しとなり。

 扨、十三年目に、膳德寺に、江湖(かうこ)あり。大衆(だいしゆ)、放參(はうさん)の陀羅尼(だらに)を誦(よ)み給へば、彼(か)の犬も、緣まで上(あが)り、

「わんわん。」

と經を誦みしなり。

 僧達を見て、只(たゞ)、もの淚を流せしとなり。

 江湖は寬永五年の夏なり。

 其江湖に、本秀和尙、居(ゐ)、

「直(ぢじ)に見たり。」

と、語り給ふなり。

[やぶちゃん注:「尾州名古屋、膳德寺」愛知県名古屋市西区に善徳寺があるが、これは浄土真宗であるから、違う。「江湖」(正しい読みは「がうこ」。既出既注)とあるから、禅宗でなくてはならないからで、愛知県名古屋市千種(ちくさ)区城山町(しろやまちょう)にある曹洞宗霊松山善篤寺(れいしょうぜんとくじ)が候補となろう。寺蹟から見ても(「千種区」公式サイトのこちら)問題がない。というより、本篇を勝手に後人が書き変えた「平かな本」「因果物語」の巻三の「十八傳賀(でんが)と云僧死して狗に生れし事」を国立国会図書館デジタルコレクションの京の銭屋板行本で確認してみると、寺の名は正しく「尾州名古屋の善篤寺」となっているのであるから、間違いないと言えるのである。

「順的和尙」不詳。前の平かな本では、「順帰和尚」と表記してある。

「三州牛窪」愛知県豊川市牛久保町。古くは「牛窪」と書いた。一度、出ている

と云ふ村に、寺を持ち居(ゐ)たり。

「牛窪の花居寺」先の平かな本では、「花井寺」と表記してあり、牛久保町の東直近の愛知県豊川市花井町(はないちょう)に曹洞宗花井寺(はないじ)があるので、ここである。

「大衆」ここは「多くの僧」の意。

「放參」「放參」とは、晩に看経(かんきん)すること。禅寺で、夜、経文を黙読すること。「放参勤め」とも言う。

「陀羅尼」サンスクリット語「ダーラニー」漢音写。「総持」「能持」と訳す。梵文(ぼんぶん)を翻訳しない、そのままで唱えるもので、不思議な力をもつものと信じられる比較的長文の呪文を指す。

「僧達を見て、只(たゞ)、もの淚を流せしとなり」このシークエンスは、しみじみとして、いい。「もの淚」何ともいえぬ涙を犬が流しているのである。いかなる因果があるのか判らぬが、この実直な伝可が犬に転生したものか。そこが、憐れであるが、この「淚」は、ある意味、法悦のそれであるととれば、この犬は来世で人となって見事、極楽往生を遂げるものと、考えたい私がいる。

「寬永五年」一六三四年。

「本秀和尙」既出既注。]

 

〇寬永の始め比(ころ)、尾州熱田(あつた)、白鳥(しらとり)の住持、慶呑(けいどん)和尙、濱松普濟寺(ふさいじ)の住(ぢう)に當れり。

 入院、一兩日(いちりやうじつ)過ぎて、町より、うす黑の、「べか」を、一疋、連れ來(きた)る。

 長老、見て、

「珍らしき犬なり。」

とて、留め置き、飼ひ給ふ。

 退院の比、彼の犬を、

「入(い)らぬ、」

と云うて、本(もと)の宿(やど)へ歸し給へば、其夜(そのよ)、長老の夢に、彼(か)の犬、來り、

「我は、其方(そのはう)の親なり。連れて行き、飼ふべし。」

と云ふ。

 明日(あくるひ)、僧衆に向つて、

「扨々(さてさて)、犬と云うても、こすい者かな、『我(わが)親ぢや程に、連れて行け。』と、夢に告ぐるなり。」

と、おどけごとに云ひ給ふ。

 然(しか)るに、次の夜の夢に、犬、來(き)て、

「我、實(じつ)に、其方の親なり。連れて行きめされずんば、命(いのち)を取るべし。」

と云ふ。

 時に、和尙、夢、醒め、驚き、彼(か)の犬を喚びよせ、連れて、熱田へ歸り給ふ。

 白鳥にて、此犬、地(ち)蹈(ふ)まず、座敷にばかり居(ゐ)て、飯(めし)を長老と相伴(しやうばん)に喰(く)ひ、夜(よ)は、和尙の閨(ねや)に臥す。

 寬永十年の比、江湖(かうこ)を置き給ふに、彼(か)の犬、和尙と同じく、一番座(ばんざ)に飯臺(はんだい)に着くなり。

 大衆(だいしゆ)、見て、怒り、

「扨々、畜生と一つに、飯臺に着くこと、あらんや。是を休(や)め給はずんば、江湖を分散せん。」

と云ふ。

 和尙、聞き、大衆に向つて、

「此犬は、我(わが)親なり。宥(ゆる)し給へ。」

と侘言(わびごと)にて、大衆、堪忍す。

 彼の犬、江湖の次の年、死す。

 其の時、龕(がん)・幡(はた)・天蓋(てんがい)を拵へ、懇(ねんごろ)に送り、三日の中(うち)、懴法(せんはふ)を誦(よ)み、吊(とむら)ひ給ふなり。

 本秀和尙、確(たしか)に知つて語り給ふなり。

[やぶちゃん注:「寬永の始め」寛永は元年は一六二四年で、寛永二十一年まで。

「尾州熱田、白鳥の住持」名古屋市熱田区白鳥にある曹洞宗白鳥山法持寺(はくちょうざんほうじじ)。

「慶呑和尙」法持寺八世月峰慶呑。

「濱松普濟寺」既出既注であるが、再掲しておくと、静岡県浜松市中区広沢にある曹洞宗は広沢山普済寺(こうたくさんふさいじ)。信頼出来る論文の史料に、事実、慶呑は寛永七(一六三〇)年に、この普済寺に輪番住持している(いつまでかは、不詳)。

「べか」底本は「へか」であるが、初版板本78コマ目の右丁の後ろから五行目)で訂した。「べか犬」で、「子犬」「小型犬」或いは「犬の子」を指す。一説に「べっかんこうをしたような目の赤い犬」ともいう。「べいか」とも。

「寬永十年」一六三三年。

「江湖(かうこ)」正しい読みは「がうこ」。既出既注

「飯臺」何人かの者が並んで食事をする台。

「龕」遺体を納めた豪華な厨子。

「懴法」経を誦して罪過を懺悔(さんげ)する法要。「法華懺法」・「観音懺法」などの種別がある。

「本秀和尙」既出既注。]

 

○武州江戶麹町(かうぢまち)常泉寺へ、他處(たしよ)より、犬、來りて、子を、三つ、產む。一つの子を惡(にく)みて、乳を飮ませず。

 或時、住持の夢に、犬、告(つげ)て、

「我は前生(せんしやう)、遊女なり。後(のち)、男を持ち、二人(にん)の子を產む。繼子(まゝこ)一人(にん)有り。今、產む、三つの子、一つ、繼子なり。彼(か)の繼子の父、現在(げんざい)に有りけるが、今日(こんにち)、來り、此犬を貰ふべし。早速に、渡し給へ。」

と云ふ。

 明日(あくるひ)、夢の如く、外(ほか)より、男、一人(にん)來り、寺中を一見して、犬の子を見出し、一つ、所望す。

 住持、心得、

「易き事。」

と云へぱ、乳を飮(のま)せざる瘦犬(やせいぬ)を所望して行くなり。

 寬永十五年の事なり。

[やぶちゃん注:「江戶麹町常泉寺」不詳。現行の千代田区麹町周辺には見当たらない。

「寬永十五年」一六三八年。]

2022/10/13

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十四 破戒の坊主死して鯨と成る事 附 姥猫と成る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十四 破戒の坊主死して鯨(くじら)と成る事

      姥(うば)猫と成る事

 羽州最上川のすそ、坂田へ落つる其磯邊(いそべ)に、長さ十二、三間ある、黑き鯨、寄りたり。

 背に「安隆寺(あんりうじ)」と云ふ、大文字(おほもんじ)あり。又、腹中(ふくちう)に、人の兩足に、鞋(わらぢ)着(はき)て、あり、萬(よろづ)、坊主の道具、あり。

 人々、僉議(せんぎ)して、

「何國(いづく)に斯樣(かやう)の寺、有り。」

と尋ねければ、

「坂田に安隆寺と云ふ一向寺(いつかうでら)あり。此の坊主、大欲(だいよく)、人に勝(すぐ)れ、放逸無慚なりしが、三年以前、五十餘りにて、

『越前の敦賀へ船(ふな)わたりする。』

とて、破船して、人、數多(あまた)、死す。」

となり。

 此の鯨、背(せなか)に銘ある上は、疑ひなき、安隆寺坊主なり。故に、此鯨を喰(く)ふ者なく、油も取らず、打ち捨つるなり。

 最上、坂田の僧俗、確(たしか)に知りたる事なり。

[やぶちゃん注:「羽州最上川のすそ、坂田へ落つる其磯邊」山形県酒田市の最上川河口附近。

「十二、三間」二十二~二十三メートル。

「黑き鯨」漂着した場所と色からは、北半球に棲息する深海性の鯨偶蹄目ハクジラ亜目アカボウクジラ科ツチクジラ属ツチクジラ(槌鯨)Berardius bairdii か、或いは、クロツチクジラ Berardius minimus が想定された。後者は、ウィキの「ツチクジラ属」によれば、『北海道沿岸に漂着した試料に基づき』、二〇一九年に『新種として報告された』とあり、『和名のツチ(槌)は、頭部の形状が稲藁を叩く槌に似ているからとされる』とある。但し、ツチクジラ最大体長十三メートルであるから、これは少し大き過ぎる。このサイズで黒いとなると、鯨偶蹄目ナガスクジラ科ザトウクジラ属ザトウクジラ Megaptera novaeangliae であるが、それでも最大二十メートルである。しかし、この場合、死亡個体で体内の腐敗が進んでいるとすれば、納得のいく大きさではある。一方、背中に文字が刻まれているという点からは、背部に引っかき傷が有意に認められるツチクジラ類の方に分があるようにも思われる。

「安隆寺」調べたが、酒田には同名の寺は見当たらない。「江戸怪談集(中)」の注も、『酒田市に現在不伝』とされる。例のズラシである可能性が高いかとも思われるが、創建と宗派を調べる気力にならない。悪しからず。]

 

〇尾州春日部郡(かすかべぐん)、北島村(きたしまむら)に八十餘りの姥(うば)有り。正保元年二月、死す。

 七日も過(すぎ)ざるに、赤き大猫(おほねこ)に成りて、奧の稗俵(ひえだはら)の上に居(ゐ)たり。祖母(ばゝ)の彥(ひこ)、幼少なるが、稗を取りに行きて見れば、俵の上に、獸(けだもの)、有り。

 驚きて、此の由、親に云ふ。

 親、行きて捕(とら)へ出(いだ)し、敲(たゝ)けども、他所(たしよ)へ行かず。

 其の夜(よ)、夢に告(つげ)て、

「我は、此比(このごろ)、死したる姥なり。三年、飼ひ給へ。」

と云ふ。

 不審して、三處(みどころ)にて、占(うらな)はせければ、正(まさ)しく、夢に違(たが)はざるなり。

[やぶちゃん注:「尾州春日部郡、北島村」「春日部郡」愛知県にあった春日井郡(かすがいぐん)であろう。この郡は古代には「春部郡(かすがべぐん)」と称したからである。但し、「北島」は現行、旧郡域にも、複数、それらしいものが認められるので、特定は出来ない。

「正保元年」一六四四年。

「彥」「曾孫(ひこ)」で「曽孫(ひまご)」のこと。

「三處」三箇所の占い師に頼んだのであるが、総てが同じ答えを出したというのである。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十三 第二念を起す僧病者に若を授くる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。なお、既に本書冒頭で注記しているが、「若」は「苦」の代用字である。この代用字は頻繁に本書に出現するので、一々注することは避けるので、悪しからず。OCRなどの誤判読を放置しているなどと、お考えになられるぬように。]

 

   十三 第二念を起(おこ)す僧(そう)病者に若(く)を授くる事

 寛永十七年に、濃州(ぢようしう)加納之城(かなふのしろ)、二(に)の丸殿(まるどの)の内に、「おいちや」と云ふ女の父、大病を受け、既に末期(まつご)に及べり。

 「おいちや」、餘りの悲しさに、關(せき)の龍泰寺(りうたいじ)の全石(ぜんせき)と云ふ僧、全久院へ來(きた)るを、

「幸(さいはひ)なり。」

とて、末期の勸めを賴みけり。

 全石、病人に向つて、經を誦(よ)み、坐禪しければ、病人、云く、

「扨々(さてさて)、此間(このあひだ)、胸中(きやうちう)、色々、禍(わざは)ひ、多くして、遣(や)る方(かた)なき若痛、唯今、俄(にはか)に、胸、凉しくなりて、煩ひ、少しも、なし。」

とて、悅びけり。

 然(しか)るに、三日程、過ぎて、全石、思ふは、

『「全久院の頓寫(とんしや)に逢へ。」と仰せありしが、往くべきやらん、又、止(とどま)るべきやらん。』

と、思案、出來(いでき)たり。

 其時、彼(か)の病人、

「やれやれ、亦、苦しく成りたり。唯今まで、心快(こゝろよ)くありしが、又、本(もと)の如く、悲しさよ。」

と若しむ。

 此由、全石、聞いて、

『扨は。我胸の思ひ、究め難き念の故か。』

と、強く、坐禪し、心を如何にも淸めて、經咒(きやうじゆ)を誦(じゆ)しければ、彼(か)の病人、胸、晴々(はればれ)として、快氣(くわいき)に成りたり。

 此時、全石、

『大事のことなり。』

と思ひ、彌々(いよいよ)坐禪しければ、二日、快(こゝろよ)くなりて、悅び、徃生を遂げたり、と、鐵心和尙の物語なり。

[やぶちゃん注:「寛永十七年」一六四〇年。

「濃州加納之城」当該ウィキによれば、『岐阜県岐阜市加納丸の内にあった城』で、『徳川家康による天下普請によって築かれた平城で、江戸時代には加納藩藩主家の居城となった』とあり、慶長七(一六〇三)年に』『奥平信昌』(のぶまさ)『が入った後、奥平氏の居城となった』が、寛永九(一六三二)年に『奥平忠隆が死去、嫡子がいないために改易されると』、『従兄弟の大久保忠職が入城、一時的に城主となる。その後の』寛永一六(一六三九)年に『戸田』(松平)『光重が入城』し、三代に亙って『城主を務め』たとあるから、時の城主は彼である。ここ

「二の丸殿」本丸東にあった。同前で、本丸に『天守は上げられず、代わりに二ノ丸北東隅に御三階櫓が建てられていた』とあり、その絵図と復元画像が載る。

『「おいちや」と云ふ女の父』二の丸内にいるからには、この父は、戸田光重の重臣と思われる。「おいちや」は城主、或いは、その正室・側室の侍女として勤めていたものか。

「關の龍泰寺」岐阜県関市下有知(しもうち)にある曹洞宗祥雲山龍泰寺

「全久院」加納城の近くの寺はこれらだが、同名の寺はない。「頓寫」は、その全久院の僧の名であろう。龍泰寺の住持から彼に逢うように命ぜられたために、この加納へ下りてきたのであろうから、それが本来、成すべき実務である。

「鐵心和尙」不詳。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十二 愚痴の念佛者錯つて種々の相を見る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十二 愚痴の念佛者(ねんぶつしや)錯(あやま)つて種々(しゆじゆ)の相(さう)を見る事

 相州佐川(さがは)より、一里上(かみ)の在處(ざいしよ)に、さる姥(うば)、常に念佛者にて、苧(お)を紡(う)み、一反(たん)、嫁に織らせ、

「死にたる時の着物にせん。」

とて、曝(さら)しけるが、臼(うす)にて搗きければ、水、濁り、次第々々に、黒くなるなり。

 是を、しぼりて、見れぱ、佛體(ぶつたい)、淺々(あさあさ)と、段々に顯(あらは)れたり。

 皆々、拜みたる人の物語りなり。小田原の年寄衆も取寄(とりよ)せ、見られたるなり。

 寬永十八年の事なり。

[やぶちゃん注:「曝」の字は、底本では、「グリフウィキ」のこの異体字

「相州佐川」恐らく、現在の神奈川県高座郡寒川町(さむかわまち)と思われる。

「苧を紡み」別に「苧を績(う)む」とも書く。「苧」は「そ」とも読む。麻(あさ)や苧(からむし)の繊維を長く縒(よ)り合わせて糸にすることを指す。

「寬永十八年」一六四一年。]

 

〇江戶、或町人の女房、念佛者なり。

 來迎を願ひければ、切々(せつせつ)、來迎にて、後には、手の上へ、來迎、あり。

 其後(そのゝち)は、是を、呑みけり。

 久しく呑む程に、氣(き)、衰へ、煩(わづら)ふなり。

 さる禪師に逢うて、念佛を休(や)め、藥を飮みて、治(ぢ)するなり。

[やぶちゃん注:「切々」「懇ろに」の意でとっておく。]

 

〇江戶にて、青木何某(なにがし)母、勝(すぐ)れたる念佛者なり。

 常に珠数をくりける故に、指に「たこ」あり。「こぶ」に成り、いよいよ、高くなりて後(のち)、佛體(ぶつたい)に成つて落ちけり。

 

〇尾州名古屋に、或女、年(とし)盛んなる時は、大坂に居(ゐ)て、「光り念佛」を申せしが、同行(どうぎやう)八千程ありて、其身(そのみ)、奇特(きどく)、多し。

 同行の中の善惡を、陰(かげ)にて、委しく知り、念佛の回向(ゑかう)も、其時々に陰にて知れり。後に聞合(きゝあは)するに、少しも違(たが)はぬなり。

 又、人の生死(しやうじ)をも、慥(たしか)に知るなり。

 後(のち)に禪の知識に呵(か)せられて、宗旨を替へければ、奇特を失(しつ)するなり。我、確(たしか)に知るなり。

[やぶちゃん注:久しぶりに正三自身の直話である。この女、要するに、惡知恵に堪能で、その人に知られぬように、対象者の日常の善惡に係わる行為や言動、履歴・病歴・人間関係なんどを緻密に調べておき、念仏回向の際の呟きなども、これ、漏らさず、盗聴しておいて、やおら、その人物から相談を受けた際、ピタりと、その悩みを霊的に言い当てたように示すわけだから、たまらない。現代の宗教家や霊能者の中には、こういった似非者が、有象無象、いる。情報入手が電子的に即座に行える今、ハイパーなそういった極悪連中は、ますます蔓延(はびこ)ることであろう。

「光り念佛」「光り」は親鸞の好んだ「正信念仏偈」の「南無不可思議光」の唱え。「不可思議光」は阿弥陀仏の徳号の一つ。人知を超えた如来の悟りの絶対の徳を表し、「光」明(こうみょう)は、その絶対の智慧を示すものである。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十一 惡見に落ちたる僧自他を損ずる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十一 惡見に落ちたる僧自他を損ずる事

 

 甲州に、關悅(くわんえつ)と云ふ洞家の長老あり。

 伊勢と近江の堺なる、「君(きみ)が嶽(たけ)」と云ふ處に、坐禪して、樣々、異相奇特(いさうきどく)を見、是を、

『悟り。』

と思ふて、他人を誹謗して、向上(かうじやう)に成つて、甲州に居(ゐ)けるが、頓(やが)て氣違ひ、狂ひ死(し)にけり。

 廣岩(くわうがん)長老、舊友にて、坐禪供達なる故、委しく知つて語り給ふなり。

 正保元年の事なり。

[やぶちゃん注:「君(きみ)が嶽(たけ)」滋賀県東近江市君ケ畑町(きみがはたちょう)。

「向上」ここは、「思い上って・うぬぽれて」の悪い意味で、特異な用法。

「廣岩長老」江戸初期の曹洞宗の名僧広岩恵学大和尚。珍しく特定出来た。

「正保元年」一六四四年。]

 

〇尾州名古屋、ひさや町(まち)、庄右衞門母に、或長老、勸めて云ふ、

「汝、我(わが)處へ來て、卅日、坐禪せば、悟りを開くべし。」

と。

 母、即ち、行きて坐禪するに、卅日、經て、三尊の來迎ありて、光耀きければ、悅ぶこと限りなし。

 然れども、萬(よろづ)の態(わざ)、晝(ひる)の念慮、前のごとし。

 次の日、何とやらん、口味(くちあぢ)なくして、味を好む氣(き)あり。

『前生(ぜんしやう)、猫にてありつるか。』

と思へば、其夜(そのよ)、猫、來たりて、目の前に有り。

 其後(そのゝち)、每夜、來迎、有り。

 本秀和尙、聞きて、

「皆、以つて、妄想(まうざう)なり。氣、違ひ、煩(わづら)ひ成るべし。」

と敎化(けうげ)して、右の氣、減り、坐禪を止めければ、來迎も、やみ、無爲(ぶゐ)になりたり。

[やぶちゃん注:「尾州名古屋、ひさや町」愛知県名古屋市東区久屋町(ひさやちょう)。現在は錦栄町交差点の南東の一画に八丁目のみが残る。テレビ塔の南直近。

「萬の態」日常生活の様態。

「晝の念慮」覚醒時の思いや悩み。

「口味(くちあぢ)なくして、味を好む氣あり」何となく、口淋しく、美味い物を好む性癖が進んだ。

「本秀和尙」既出既注。本書のスター・システムの一番手。

「來迎」「江戸怪談集(中)」の注で、『仏が現世に姿を見せること』ととしつつ、『ここでは猫のたぶらかし』とあるが、私は、この注に不満がある。次注を見られたい。

「妄想(まうざう)」仏語で、「とらわれの心によって、真実でないものを真実であると、誤って意識すること。また、そのような迷った考え」を言う。私は、前注のような、猫の誑かしなどではなく、ある長老の安易な悟りの慫慂と、彼女の中の全くの自己妄想大系が肥大し、彼女勝手に空想したものであって、それを猫の生まれ変わりと考えたり、化け猫によって幻視させられた来迎であるとは思わないし、本秀もそう断じているものと思う。そもそも禅宗では、そうした民俗社会の妖怪変化の存在なんどを積極的には肯定していないはずであり、何よりも自身の正しい孤独な観想を基本とする。則ち、ここでは極めて近現代的な精神医学的な意味での関係妄想と同一と考える。「氣、違ひ、煩ひ成るべし」の謂いが、それを名指している。

「無爲になりたり」「江戸怪談集(中)」の注で、『平穩になった』とある。正しい本秀ドクターのカウンセリングの結果と言える。]

 

〇濃州(ぢようしう)八屋(はちや)と云ふ處に、快祝(くわいしゆく)と云ふ關山派(くわんざんは)の長老有り。

 多くの人に悟りを授け、神木(しんぼく)を切り、佛像を破却して、

「佛(ぶつ)は我が心に有り。外に、佛、無し。」

と勸めける間(あひだ)、在處(ざいしよ)の者ども、此の長老を貴(たつと)びて、放逸無慘(はういつむざん)なり。

 彼(か)の長老、報い盡きて、頓(やが)て死去す。

 龕(がん)を舁(か)き出(いだ)さんとする處に、俄(にはか)に、天、曇り、雷(いかづち)、鳴り、火車(かしや)、來つて、長老を摑み行き、此處彼處(こゝかしこ)に死骸を捨てたり。

 扨(さて)、彼(か)の法を聞きたる者ども、頓て、疫病(やくびやう)を煩ひ、若痛(くつう)して、大方(おほかた)、死したり。

 其後(そのゝち)、滅却したる堂社(だうしや)を建て、切り折りたる神木を植ゑてより。在處(ざいしよ)、納まる、となり。

 正保年中の事なり。

 其の比(ころ)、「八屋悟(はちやさと)り」と云ひ傳へたり。

[やぶちゃん注:「八屋」美濃加茂市蜂屋町(はちやちょう)。

「關山派」既出既注。「江戸怪談集(中)」の注では、『不詳。ただし、「快祝」は臨済宗妙心寺派竜雲山瑞林寺、通称柿寺の長老か。』とある。瑞林寺は、堂上蜂屋柿の産地である蜂屋町に室町時代に創建されたとされる寺で、室町幕府に蜂屋柿を献上し、「柿寺」の称号を与えられたとされる。寺はここ

「龕」「江戸怪談集(中)」の注に、『遺体を納めた厨子』とする。今までの本書の「龕」は概ね、普通の棺桶を示しているが、ここは確かに、豪華な感じの方が、直後の死体バラバラのカタストロフの対になって、甚だ、効果的である。

「火車」「狗張子卷之六 杉田彥左衞門天狗に殺さる」の私の最後の注及びその中の私の記事リンクを参照されたい。

「正保年中」一六四四年から一六四八年まで。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十 座頭の金を盜む僧盲と成る事 附 死人を爭ふ僧氣違ふ事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されているものの、不思議なことに、完全ではなく、標題を「座頭の金を盗む僧、盲と成る事 付 死人を争ふ僧、気違ふ事」(同抄録本は頭の数字を外してあり、当該章の最後に『(下の十)』と附している)とありながら、第二話の「死人を争ふ僧、気違ふ事」が存在しない。これは恐らく編集上のミスである。他に、一章の中を一部をカットしているものがないからである。なお、第二話の一部には不審箇所があったので、以下の初版板本で確認し、訂した。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

    座頭の金を盜む僧盲と成る事

     死人を爭ふ僧氣違(きちが)ふ事

 越後の府に、五智の如來堂あり。

 奧州より、座頭一人、官(くわん)の爲(ため)に上洛する時、如來堂に通夜(つや)し、如來を拜み奉り、琵琶箱を開き、官金入れたる袋を、先(ま)づ、膝の下に置き、琵琶を取り出だして、「平家」を三句、如何にも靜かに語る。

 斯(かゝ)りける處に、同國林泉寺の僧、江湖頭(かうこがしら)立願(りふぐわん)の爲に、七日、通夜して居(ゐ)けるが、是を見て、悅び、

『御利生(ごりしやう)、忝(かたじけ)なし。』

と念じ、悅びて、竹にて鉤(かぎ)を作り、金袋(かねぶくろ)を引寄(ひきよ)せて取る。

 座頭、夢にも知らず、「平家」を語り納めて、膝の下を搜(さぐ)るに、金袋、なし。

「はつた」

と力を落(おと)し、あきれはてたり。

 暫しありて思ふ樣(やう)、

『是は、如來の御方便(ごはうべん)なるべし。我、官に緣無き故なり。是より、盲目乞食(まうもくこつじき)と成つて、諸國を行脚し、菩提を願(ねがは)ん。』

と思ひ定めて、琵琶箱を隔子(かくし)に括(くゝ)り付け、如來へ献(たてま)つて、歸りける。

 大下(おほげ)の橋の眞中(まんなか)にて、人(ひと)、數多(あまた)、打伴(うちつ)れて來(きた)るに、

「はつた」

と行き逢ひける時、兩眼(りやうがん)、忽ち、明(あ)きけり。

 豫(かね)て思ひ寄らざる事なれば、途方なく、

「是(これ)は、是は、」

と呼(よば)はり、初めて生れたる心地して、悅ぶこと、限りなし。

 不思議に思ひ、

「爰(こゝ)は何方(いづかた)ぞ。」

と問へば、

「大下の橋なり。」

と答ふ。

「扨(さて)、如來堂は何方(いづかた)ぞ。」

と問へば、

「我々、如來へ參る者なり。」

とて、同道しけり。

 扨、如來堂へ參り、如來を拜み奉り、立歸(たちかへ)らんとする處に、坊主一人(にん)、俄(にはか)に盲目と成りて、悲(かなし)み居(ゐ)けり。

 故を問へば、

「座頭の官錢を盜みて、斯樣(かやう)に罷(まか)り成る。」

と云ふ。

 人々、是を聞きて、

「惡因、報う事、忽ちなり。」

と、大(おほき)に驚けり。

 其の證據(しやうこ)に、琵琶箱、今に、如來堂に掛けてありと。

 海岸和尙、物語りなり。

[やぶちゃん注:「越後の府」旧国府跡は不明なものの、十世紀頃までは、現在の新潟県上越市今池附近にあったとする説が有力である。

「五智の如來堂」「江戸怪談集(中)」の注に、『現新潟県上越市五智国分寺の天台宗五智山華蔵院国分寺。通称五智さん。本尊五智如来。』とある。ここ

「官の爲」所謂、「盲官」。視覚障碍者で琵琶・管弦・鍼・按摩などを業とした者に与えられた官名。検校・勾当(こうとう)・座頭・衆分(しゅぶん)などの階級に分かれ、江戸時代には、幕府が彼らに当道座(とうどうざ:中世から発生した男性盲人の自治的職能互助組織)への加入を奨励し、総検校・総録検校がこれらを支配統轄した(階層構造は恐ろしく多く、当道座に入座して検校に至るまでには七十三の位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった)。これらの官位は、この組織の中で伝手を得た上で、金銭で、入手するものであった。それがここに出る「官金」である。

「林泉寺」現在の新潟県上越市中門前(なかもんぜん)にある曹洞宗春日山(かすがさん)林泉寺。米沢藩上杉家の菩提寺であり、同藩士で知られた名将直江兼続の菩提寺でもある。

「江湖頭」「がうこ」が正しい。「江湖會(がうこゑ)」、則ち、既注の夏安居(げあんご)時期の修行に於いて、それを統括する僧を指す。

「隔子」格子戸。]

 

〇東三河、岡村と云ふ處に、長慶寺と云ふ寺あり。

 其寺の檀那、某(なにがし)と云ふ者、寬永十八年に死す。

 内々(ないない)、大洞(おほほら)へ親しく出入(しゆつにふ)しける間、大洞にて吊(とむら)はんとす。

 時に、長慶寺の長老、嗔(いか)りて、

「先祖より、代々、當寺の檀那なり。吊はすべからず。」

とて、村中(むらぢう)の檀那を賴み、棒打(ぼううち)の用意なり。

 此由、大洞へ聞え、

「六(むつ)かしき事なり。」

とて、住持、引導に出で給はず、さまざま、扱(あつか)つて、やうやう、すみけり。

 然(しか)るに、次の年の春、長慶寺の長老、気違ひて、狂ひけり。

 檻(をり)を結びて置くに、人、來れば、糞をつかみ、打ちかけ抔(など)して、終(つひ)に狂ひ死にけり。あさましき次第なり。

[やぶちゃん注:正直、意外にも、この一篇、今までの本書の中で一番、「料簡が狭過ぎ! しょぼい!」と呆れた話である。同じ曹洞宗なんだから、いいじゃないの! って感じ。こんなことで狂気して監禁されるというのも、全く以って救いようのない、サイテー話である。但し、他宗派での弔いは厳に禁ぜられていた。日蓮宗は人気が高く、他宗からの宗旨替えをする者も多かったが、その場合は、旦那寺の許可を得て、当該寺との仏縁を切り、先祖代々の墓も基本は崩し、宗門帳も新たに書き換えて公儀の許可を得ねばならず、居住地と寺・宗門の状況、例えば、本話もそうした雰囲気を感じるが、その村全体が残らず、一つの寺の檀家だった場合などには、人間関係上からも、転居・転出しなければならない場合も、しばしば、あった。

「東三河、岡村」「長慶寺」愛知県豊川市金沢町藤弦(ふじづる)にある曹洞宗長慶禅寺この寺の附近は、古くは広域で「岡」と呼んでいたものと思われる少し古い大正期の地図を「今昔マップ」で見ると、この寺の東に「岡」という地名が示されているのが判る。明治の地図に地名がないのは、なかったからではなくて、そこまで細かに記していない古い現地での呼称だからである。現在でも、この寺の周辺には北西に「岡下」、南西に「岡畑」があることからも、そう断言出来る。

「寬永十八年」一六四一年。

「大洞」静岡県周智(しゅうち)郡森町(もりまち)橘(たちばな)にある曹洞宗橘谷山(きっこくさん)大洞院(だいとういん)。名刹として知られる。国を越えているものの、長慶禅寺直線で四十二キロ地点で、ここにその旦那が親しく通っていたことに違和感は私には感じられない。

「棒打の用意」実際のゲバ棒を持っているのではなく、喧嘩腰になることを言う。そもそも、国違いで、知行も異なるであろうから、実際の暴徒集団が集合したり、そんな連中が寺から先方へ向かって出ただけで大問題で、皆、國境へ行きつく前に捕縛され、処罰を受ける。]

2022/10/12

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「九 怨靈と成る僧の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

    怨靈と成る僧の事

 江州土山(つちやま)半里隔てゝ、一の瀨と云ふ在處あり。

 正保の比(ころ)より八十年以前、丑(うし)の年、百姓の、境(さかひ)、論(ろん)しけるを、德林庵受泉(とくりんあんじゆせん)と云ふ僧、扱(あつか)ひて、無事に濟(すま)しけり。

 飛驒守、聞き給ひて、彼(か)の僧を呼ぴ出(いだ)し、

「能く扱ひた。」[やぶちゃん注:ママ。初版板本でも同じ。「扱ひたり」の欠字か、「扱ふた」の誤記であろう。]

とて、馳走を仰付(おほせつ)け、酒を勸めらる。

「忝(かたじけ)なし。」

と悅びて、ひた呑みに呑むほどに、醉伏(ゑひふ)して、終(つひ)に死にけり。

 故に、寺も斷(た)え、屋敷も畠(はた)と成りて、數年(すねん)すぎければ、在家に作(な)して、又八郞と云ふ者、居(ゐ)たり。

 此又八郞、土山へ行き、酒に醉ひて歸るに、路(みち)にて、

「粟々(ぞくぞく)」

として、煩(わづら)ひ付(つ)き、氣違ひの樣に成り、「受泉坊」と名乘つて、戯言(たはごと)を云ひけるに、家の棟(むなぎ)に、大蛇(おほへび)、來りて居(ゐ)たり。

 子、此蛇を殺し、串(くし)に指(さ)して捨てけれども、明日(あくるひ)は、又、同體(どうたい)なる蛇、居たり。

 又八郞、咽(のど)、乾き、悲しみて、終(つひ)に死す。

 即ち、子を、「又八郞」と云ひけり。

 是も、土山へ行き、酒に醉ひ、歸りに、父の如く、煩ひ付き、家に歸れば、外(ほか)より、禿(かぶろ)、來(きた)る。

 之を、敲(たゝ)き出(いだ)せば、二、三間ばかりなる蛇に成つて、逃行(にげゆ)く。

 度々(たびたび)、此(かく)のごとくしけるが、終(つひ)に、口走り、「受泉」と名乘りて、死にけり。

 其子を淸三郞と云ふ。

 慶安元年卯月初めに、土山より、酒に醉ひて歸るとて、父の如くに煩ひ付き、腹中(ふくちう)、燃ゆる樣にて、咽、乾き、水を呑むこと、限りなし。

 剩(あまつさ)へ、眼(まなこ)潰れ、腰、拔けて、重若悲嘆(ちようくひたん)する間(あひだ)、山伏を賴み、色々、祈禱すれども、叶はず。

 後(のち)には、受泉坊、直(ぢき)に、體(たい)を現はして、家の内へ來(きた)る。

 追出(おひいだ)すに、窓より出でゝ行くを見れば、大蛇なり。

 追つて行けば、卵塔(らんたふ)へ行きて、何も、なし。

 爲方(せんかた)なくして、丑の五月七日、本秀和尙を賴む。

 和尙、卽ち、吊(とむら)ひ給へば、早や、七日の晚より、咽の乾き、止みけり。

 扨(さて)、兩日(りやうにち)吊ひて、血脉(けちみやく)を認(したゝ)め、塔婆を書き、休心(きうしん)と云ふ坊主を遣はし、德林庵に塔婆を立て、供養し、經咒(きやうじゆ)を誦(よ)みければ、其中(そのうち)に、目、明(あ)き、腰も立ちて、すつきと、本復(ほんぶく)す。

「有難し、忝なし、」

と悅ぶ事、限りなし。

[やぶちゃん注:「江州土山」滋賀県甲賀市内の旧土山地区

「一の瀨」現在の地名では見当たらなかったが、「Stanford Digital Repository」の戦前の地図を見たところ、旧土山町の町の中心から北の、まさに「半里」(二・四五キロメートル)ほどの位置の山裾に「市瀨」という集落を発見出来た。現在の滋賀県甲賀市土山町瀬ノ音のこの辺りである。

「正保の比より八十年以前」「正保」は一六四四年から一六四八年までであるから、それより八十年以前の「丑の年」は永禄八年乙丑(きのとうし)で一五六五年で、この年は五月十九日(ユリウス暦一五六五年六月十七日)に三好義継や三好三人衆や松永久通たちが共謀して二条城を襲撃し、室町幕府第十三代将軍足利義輝を殺害した「永禄の変」が起こった年である。本書の中でも、最も古い時制になる。

「境、論しける」百姓の村落単位の土地境(水利も含む)の争い。

「德林庵受泉」不詳。

「飛驒守」かの高山右近の父で、キリシタン大名で、勇猛で教養もあり、領民にも慕われ、誠実な武士の鑑として知られた高山飛騨守(通称)友照(ともあき ?~文禄四(一五九五)年)がいるが、彼の領地は摂津国であるから、違う。この時代のことは、私は冥いので判らぬ。

「二、三間」約三・七から五・五メートル弱。

「慶安元年」一六四八年。

「淸三郞」先の父祖である「又八郞」もそうだが、この三人の直系の連中の喉の渇きを訴える症状は、所謂、「飲水病」で、それも同一の症状であるところから、遺伝する一型糖尿病の可能性が高い。加えて、同じく遺伝的にアルコールに対する耐性が極めて低い体質であったと考えれば、ダブル・パンチで父祖が死に至るというのは、非常に腑に落ちる。私の親族にも二代に亙って酒を全く受けつけない一族がいる。

「卵塔」ここは単なる「卵塔場」、広義の「墓場」の意では、あるまい。卵塔は僧の墓の形式であるから、この蛇が潜り込んで行ったのは、徳林庵受泉の古い卵塔墓だったというのが、如何にも因果が絡んで、効果的だからである。

「丑」翌、慶安二年己丑(つちのとうし)。「丑」の干支を、さりげなく因果の縁としているようである。

「本秀和尙」既出既注。まさに本書一番のゴースト・バスターである。]

 

〇大閤(たいかふ)の御時、南條中書(なんでうちうしよ)、伯耆(はうき)半國(はんごく)を知行して、泰久寺(たいきうじ)の長老を、案内者(あんなんしや)に賴み、知行の境(さかひ)を引く時、惡しく引き給ふに付(つ)いて、山田佐助・海老名源助に、

「此長老を、磔(はりつけ)に掛けよ。」

と云ひ付けて、其身(そのみ)は上洛す。

 源助は、是を勞(いたは)り、少しなりとも、延べたく思へども、佐助、是を惡(にく)み、急いで掛けたり。

 留(とゞ)めを指したる處に、上方(かみがた)より、飛脚、馳せ來つて、

「長老の命(いのち)、助けよ。」

と云ふ。

 死して後(のち)なれば、是非なし。

 長老、頓(やが)て、左助(さすけ)娘(むすめ)に憑きて、口走り、

「左助一門、三年の中(うち)に、惡病(あくびやう)を授(さづ)けて、殘らず、殺すべし。此子は、暫(しば)し、宿を借りたる恩賞に助くるなり。中書は、頓(やが)て死して、大地獄に墮(お)つべし。吊(とむら)ひ、無益なり。源助子孫は、末(すゑ)、繁昌に、守るべし。」

と口走りて、治(をさ)まりけり。

 扨(さて)、言ひたるに違(たが)はず、佐助は癩病(らいびやう)を受け、糞(ふん)を喰(く)ひて、死す。

 子供、殘らず、死に果てたり。

 中書も、惡病を受け、絕え果てたり。

 其子も中書と云ひけるが、「大坂陣」の時、裏反(うらがへ)りたる事、顯(あらは)れ、陣場(ぢんば)に、はりつけにかゝり、

「坊主のはりつけ、子に、報いたり。」

と、知る人、いへり。

[やぶちゃん注:「大閤」太閤豊臣秀吉。

「南條中書」安土桃山時代の武将で大名の南条元続(もとつぐ 天文一八(一五四九)年~天正一九(一五九一)年:病没で享年四十三)。当該ウィキによれば、伯耆国の国人南条宗勝の嫡男で、父の『死によって家督を継ぎ、同年に毛利氏一族の吉川元春から家督および所領を安堵されている』が、後に『織田氏へと気脈を通じるようにな』り、天正八(一五七九)年九月、『福山茲正』(これまさ)『らを殺害した重臣の山田重直の居城・堤城を攻撃、重直・信直父子を鹿野』(しかの)『へ敗走させ、毛利氏と完全に決裂した。豊臣秀吉の鳥取城攻撃の際は、羽衣石城にあって』、『毛利氏の鳥取救援を妨害し、鳥取落城を早める一因を作った』。天正一〇(一五八二)年九月、『毛利氏の猛攻を受け』、『羽衣石城』(うえのしじょう)『は落城するが』、天正一二(一五八四)年の『羽柴氏と毛利氏の和睦により、八橋川以東の伯耆東』三郡六万石(一説に四万石)の『領有が認められ、羽衣石城に復帰した』。『以後は秀吉の傘下に入り、九州征伐にも』『加わ』った。天正一五(一五八七)年七月には、『従五位下・右衛門尉に補任された。後に伯耆守に補任されるも』、『中風を病んで政務を行えなくなり、代わりに』、『弟の小鴨元清が政務を執ったが』、天正十八年の『小田原征伐には』、『自ら出向い』ている。彼にここに出るような地割検地の際のトラブルがあったかどうかは、ネット上では認められない。なお、中書は中務省(なかつかさしょう)の唐名であるが、彼はそうした官位は貰っていないし、自称通称にも見出せない。不審。以下に示す息子の元忠が官位として中務大輔(一説に中務少輔とも)を貰っているので、それと混同したものらしい。

「泰久寺」鳥取県倉吉(くらよし)市関金町(せきがねちょう)泰久寺(たいきゅうじ)にある曹洞宗大久寺(だいきゅうじ)。

「山田佐助・海老名源助」羽衣石城攻略についての信頼出来る資料(ネットで入手)の中に、南条方に、この二人の武士の名を孰れも確認出来た。当該史料を知りたい方は、お教えする。

「癩病」ハンセン病。既に本書に出て、ここで詳細な注をしてある。未読の方は、必ず、読まれたい。

「糞を喰ひ」近代以前には、世界的に諸病(特に難病)の特効薬として人糞や人肉を食べる迷信や習慣があった。

『其子も中書と云ひけるが、「大坂陣」の時、裏反(うらがへ)りたる事、顯(あらは)れ、陣場(ぢんば)に、はりつけにかゝり』事実。元続の子(次男か)で、伯耆羽衣石城主南条元忠(天正七(一五七九)年~慶長一九(一六一五)年)。当該ウィキによれば、天正一九(一五九一)年、『父の死去に伴い』、『家督を継ぐが』、『少年であったため、朝鮮出兵には』、『叔父で後見人の小鴨元清』(おがももときよ)『が参加した』(「羽衣石南条記」などによれば、当時十三歳であったとある)。『治世については』、『あまり多く伝えられていないが、家中では後見人の座を巡る争いが起こるなどの混乱が生じていた』。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では『西軍につき、伏見城・大津城を攻めたが、西軍が敗れたため、浪人とな』った。慶長一九(一六一四)年の「大坂冬の陣」では、『旧臣とともに大坂入城、平野橋口で』三千『人の兵を与えられ』ている。『徳川方の藤堂高虎の誘いを受け、伯耆一国を条件に徳川方に寝返ろうとするも』、豊臣家家臣の渡辺糺(ただす)に『見破られ、城内千畳敷で切腹させられ』ている。享年三十七であった。「裏切りの伯耆侍古疊み南條(なんぜう)もつて役にたたばや」と『落首された。遺骸は小姓の佐々木吉高によって持ち帰られた。なお、従兄の宜政(よしまさ)の子孫は』六百『石を知行する旗本として存続した』とある。]

 

〇大坂高大寺(かうだいじ)、上(あが)り屋敷に成りて、賣りける時、江州こんどう村、救世寺(きうせいじ)と云ふ一向坊主、買取(かひと)りて、堂に作りけり。

 然(しか)るに、天井より、阿彌陀の前へ、倒(さかさま)に、

「ぶらぶら」

と、さがる者、あり。

 神子(みこ)を呼び、口に寄せけれども、口に寄らず。

 七人まで、神子を呼ぴければ、七人目の神子に取り憑きて、

「我は、大坂高大寺なり。何としても、除(の)くべからず。但し、千部の經を誦(よ)まば除くベし。然(さ)なくぱ、此家を、大坂へ返して、本の屋敷に作るべし。」

と口走りけり。

 其後(そのゝち)は、降(さが)りたる者、蛇となりけるを、一向坊主の子(こ)、截(き)つて捨てければ、結句(けつく)、本(もと)より、大(おほき)に成りて来(きた)る。

 彼(か)の住持、終(つひ)に寺を捨て、黑谷(くろだに)へ行きて居(きよ)す。

 故に、明家(あきや)と成りて、兩年、ありけり。

 大坂にて、聞くなり。

[やぶちゃん注:「大坂高大寺」不詳。

「上り屋敷」江戸時代、犯罪などにより、幕府又は藩に没収された屋敷を言う。

「江州こんどう村」これは例の確信犯に表記のズラシで、滋賀県東近江市五個荘金堂町(ごかしょうこんどうちょう)であろう。次注参照。

「救世寺(きうせいじ)」五個荘金堂町内に浄土真宗大谷派の弘誓寺(ぐせいじという寺があるのである。この寺の創建は正応三(1290)年とされ、那須与一の嫡子愚拙が犬上郡石畑に開基したのが始まりとあり、何度かの移転を経て、天正九(一五八一)年に現在地に移ったとある(サイト「甲信寺社宝鑑」の同寺の記載に拠った)。

「黑谷」京都府京都市左京区黒谷町(くろだにちょう)。法然所縁の地で浄土宗大本山金戒光明寺がある。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「八 無道心の僧亡者に責らるゝ事 附 破戒の坊主雷に逢ふ事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

    無道心の僧亡者に責(せめ)らるゝ事

     破戒の坊主雷(らい)に逢ふ事

 武州江戶牛込、妙行院(みやうぎやうゐん)と云ふ日蓮宗の坊主あり。無道心第一にて、亡者を吊(とむら)ふ事、疎(おろそ)かなりけるが、慶安四年の春より、病(やまひ)を受けたり。八月十二日より、强く煩(わづら)ひ、死しては、息を吹返(ふきかへ)し、吹返し、若痛す。

 亡者、數多(あまた)來りて、責(せめ)ける間、

「此若(このく)、除き給へ。」

と、叫び悲しむ事、限りなし。

 即ち、九月九日に、中々恐ろしき有樣にて死するなり。

[やぶちゃん注:「牛込、妙行院と云ふ日蓮宗の坊主あり」僧ではなく、日蓮宗の寺ならば、東京都新宿区若葉に古刹の稲荷山妙行寺があるが、ここは牛込とは言えないので、無関係としたいのだが、これはしかし、それを牛込にずらして、しかも人名に転じて臭わせた確信犯の行為と考え得る(続く二話目でも同じ仕儀がなされているからである)。ともかく、ここまで電子化してきて感じるのは、臨済宗の僧であった正三は禅僧の破戒僧の例を挙げてはいるものの、全体に、惡因果の僧を語る場合、他宗の僧(特に多いのは浄土真宗(一向宗)僧)であることが、甚だ多いことである。特に浄土真宗の僧は、江戸幕府が唯一、女犯(にょぼん:但し、この場合は狭義の妻帯)をしても罰しなかった(教祖が妻帯を認めており、それを教祖自身が実行しているというシンプルな理由による)ことから、他宗の僧からの批判や、冷たい視線・批判が甚だ強かったせいがある(なお、言っておくと、一般に僧の妻帯が行われるようになった明治時代にあっても、浄土真宗以外の仏教僧の妻帯を公然と批判する仏教家は少なくなかった)。因みに、親鸞の師で浄土宗の始祖法然も妻帯を許しているが、法然自身は女戒を守った。さらに言えば、親鸞は独自の宗派を立てるつもりはなかった(そもそもが「歎異抄」を読めば判る通り、親鸞は驚くべきことに教団組織自体を否定しているのである。だから、蓮如は同書を結縁のない者には見せるべきでない秘書とした)。だいたいからして、親鸞の用いた「浄土真宗」という言辞は、本来は、「師法然が開いた浄土宗の真(まこと)の教え」という意味であった。

「慶安四年」一六五一年。]

 

○濃州(ぢようしう)養老が瀧の麓に、露村(つゆむら)と云ふ在處あり。

 此處(このところ)に本慶寺(ほんけいじ)と云ふ、一向坊主、有り。幼少にして、父に離れ、無智にして、人を吊(とむら)ふこと、數多(あまた)なり。剩(あまつさ)へ、徒者(いたづらもの)にて、殺生を好む。

 人々、

「坊主の殺生、勿體(もつたい)なし。」

と云へば、

「我等が宗門には、殺生が慈悲なり。『總じて、畜類は、佛體(ぶつたい)を受けたる人間に、喰はれて、助からん。』と願ふばかりなり。」

と云うて、用ひず。

 十九歲まで殺生す。

 さる程に寬永廿年十月十三日の夜(よ)五つ比(ごろ)に、彼(か)の寺へ、旦那、二、三人、家内(けない)の男女(なんによ)、皆、焚火(たきび)をして居(ゐ)けるに、家の破風(はふ)、

「みりみり」

と鳴りけれぱ、即ち、家の内、光り渡り、大入道(おほにふだう)、二人、來りて、坊主の兩脇に坐(ざ)す。

 人、皆、肝を銷(け)し、逃退(にげしりぞ)く。

 即ち、彼の大入道、坊主の兩手を取り、引立(ひきた)て、破風より出でゝ、町の上を三度(ど)、

「本慶寺坊主、徒者(いたづらもの)を伴(つれ)て行くぞ。再び、娑婆へ返す可(べ)らず。」

と、高聲(たかごゑ)に喚(よば)はり、行くなり。

[やぶちゃん注:「濃州養老が瀧」養老孝子伝説で知られる岐阜県養老郡養老町にある木曽川水系に属する落差三十二メートル、幅四メートルの滝。ここ

「露村」これは次に出る「本慶寺」という名と確信犯の連関がある。ここでは破戒僧の名として出るのだが、この養老の滝の麓の南直近に、岐阜県海津市南濃町(なんのうちょう)津屋(つや)に浄土真宗大谷派の本慶寺(ほんけいじ)があるからである。

「勿體なし」「あるべき道理から完全に外れているではないか! 以ての外のことじゃ!」。

「我等が宗門には、殺生が慈悲なり。『總じて、畜類は、佛體(ぶつたい)を受けたる人間に、喰はれて、助からん。』と願ふばかりなり。」私は本邦の僧では親鸞に最も興味があり、若い時に、少しく彼の著作も読んできているが、言わずもがなだが、こんなことは一言も言っていない。

「寬永廿年十月十三日」一六四三年十一月二十四日。

「夜五つ」定時法でも不定時法でも、この時期なら、午後八時頃。

「家内」旦那たちの家人ら。

「破風」切妻造や入母屋造の屋根の妻の三角形の部分。また、切妻屋根の棟木や軒桁の先端に取付けた合掌型の装飾板(破風板)をも指す。

「家の内、光り渡り」標題にある「雷」がこれであるが、如何にも題名に偽りありの感を拭えないが、これも浄土真宗への批判的ニュアンスが見てとれる。則ち、親鸞はしばしば、阿弥陀如来像を「不可思議光仏」として、雷光の図像をシンボルとして用いていたのを、ここでは、雷神の一撃という風に皮肉に転用している(面白がっている)と考えてよいと思われる。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「七 僧の口より白米を吐く事 附 板挾に逢ふ僧の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

    僧の口より白米を吐く事

     板挾(いたばさみ)に逢ふ僧の事

 東三河に、貴雲寺と云ふ寺あり。其弟子の僧、同行(どうぎやう)五人にて、立山へ參詣す。

 下向の時、俄(にはか)に日暮れける間、

「宿(やど)を借らん。」

とするに、村里、なし。

 傍らに、燈火(ともしび)、幽(かす)かに見ゆる處あり。

 此所へ至つて、見れば、寺なり。

 一人(にん)、「金剛經」を誦(よ)み居(ゐ)られたり。

「是は、立山へ參りたる者なり。宿を借し給へ。」

と云ふ。

 老僧、則ち、

「安き事なり。」

とて、宿を借し給ふ。

「我は、然(さ)る方(かた)へ參るなり。其方達、食(めし)を拵へ、喰ひ給へ。米も味噌も、奧にあり。」

とて、老僧は、出でられたり。

「然(さ)らば、飯(めし)を焚(た)かんか。」

とて、客僧、眠藏(めんざう)へ、米、とりに行きければ、僧、一人(にん)、倒(さかまさ)につるし、下に新しき桶(をけ)をすけて有り。

 彼の坊主の口より、白米。

「ざらざら」

と出づるなり。

 不思議に思ひ能く見れぱ、我師匠の坊主なり。

 此僧、大(おほい)に驚き、

「やれ、地獄なり。」

と云うて、かけ出でければ、本の如く、明るく成りたり。

 それより、此僧、

「出家と成りて、信施(しんせ)をきるは、怖ろしき事なり。」

とて、還俗(げんぞく)し、名古屋にて、足輕に出でゝ、今に居(ゐ)るなり。

 元和年中の事なり。

 本秀和尙、彼(か)の僧に逢ひ給ふなり。

[やぶちゃん注:「東三河」「貴雲寺」不詳。

「信施をきる」「信施」は「しんぜ」とも読み、信者が仏・法・僧の三宝に捧げる布施を指すが、ここは「出家して、信心を絶対無二のものとして、決定(けつじょう)し、修行に専念する」の意味で用いているものと思う。

「元和年中」一六一五年から一六二四年まで。

「本秀和尙」複数回、既出既注。本書で最も多く登場する僧で、正三の最も親しい人物であり、まさに最大の因果話の情報屋と言ってよい人物である。]

 

○伺某(なにがし)、相州小田原御番(ごばん)の時、金田(かねだ)の近所に、正順(しやうじゆん)と云ふ眞言坊主、有りけるを、

「齋日(ときび)に參らるゝ樣(やう)。」

と、約束、有り。

 然(しか)るに、此坊主、來らず、二日過ぎて、來りて云ふ。

「御斎日(おんときび)に參らざるは、存外の儀ありて、筈違(はずたが)へ申すなり。其仔細は、我等、近處の村に、小菴(せうあん)あり。

『此坊主、金(かね)、少し、持ちたる。』

と、人も沙汰せし處に、彼(か)の坊主、頓(やが)て、死するに、金(きん)一步(ぶ)ならでは、なし。一周忌の時分、彼の坊主の旦那庄屋、餘所(よそ)へ往(ゆ)く時、彼の坊主、瘦衰(やせおとろ)へて、

『よろよろ』

と步み來(きた)る。驚き見る處に、長(たけ)一丈程の大男、板を持來(もちきた)つて、坊主を挾(はさ)みて、押し掛け、責めけり。肝を銷(け)し、面(おもて)を伏せて居たるが、心元(こゝろもと)なく思ひ、面を上げて見れぱ、大男は、無し。坊主、殘つて步み來(きた)る。逃げたく思へども、是非なく居(ゐ)る處に、坊主、來(きた)る。卽ち、坊主は、

『何事にて、只今の樣なる責(せめ)には、逢ひ給ふぞ。』

と問へば、坊主、答ヘて、

『我、死して後(のち)、吊(とむら)ふ者なき故に、日夜に、五、六度の責を受くるなり。我、金子、少し待ちたるを、旦那衆(だんなしゆ)の内に、五兩、借(か)し、又、柿の木の下に、壺に入れ、蚫貝(あはびかひ)を蓋(ふた)にして置くなり。願くは、是にて、吊ひて給へかし。若(も)し、旦那衆、「借らぬ」と諍(あらそ)はば、證據(しようこ)を、見すべし。』

と云うて、深く賴みける。庄屋、

『心得たる。』

と肯(うけ)がへば、坊主、消え去りぬ。扨(さて)、庄屋、歸つて、旦那衆を呼び、此由、

「斯(か)く。」

と云ひければ、金子借用の者、急ぎ出(いだ)しける間、今朝(こんてう)まで、經を誦(よ)み、吊ひ申す故、參らぬなり。」

と、確(たしか)に語る由。

 證據、正しき事なり。

[やぶちゃん注:「相州小田原御番」ウィキの「小田原城」によれば、秀吉の「小田原攻め」の『後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世』(ただよ)『を小田原城に置いた。小田原旧城は』、『現在の小田原の市街地を包摂するような巨大な城郭であったが、大久保氏入部時代に規模を縮小させ、以後』、十七『世紀の中断を除いて』、『明治時代まで大久保氏が居城した』とあるので、この「何某」は小田原藩主家の大久保氏の藩士ということになる。

「金田」「Stanford Digital Repository」の戦前の地図を確認したところ、現在の大井地区の北、酒匂川左岸に「金田村」を確認出来た。ここである。そもそも、この「何某」は小田原城番であるのだから、小田原城内以外には、勤番中、出て行けない。この位置ならば、城内と考えてよい。他にも「金田」を冠する現在の施設があるが、旧村名のこれが確実と思う。

「齋日」既出既注であるが、再掲すると、これは、仏教の戒律の規定に従い、月の十五日と三十日に、同一地域の僧が集って、自己反省をする集まりを指している。この「何某」は武士であったが、経も読め、弔いの法要も出来る、仏教に強い関心を持っている者であった故に、この正順という真言僧と日頃より親しくしており、正順は、特に「斎日」の僧衆の話や議論を見学させようとしたものと思われる。

「筈違へ」矢の端の、弓の弦につがえる切り込みのある部分の「矢筈(やはず)」と弓の「弦」とをよく合わせることは弓術の初歩であり、「筈が違(たが/ちが)ふ」というのは、「思った通りにならない」ことを意味する。如何にも武士に相応しい言い方である。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「六 知事の僧鬼に打たるゝ事 附 弟子を取殺す事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

    知事(ちじ)の僧(そう)鬼(おに)に打たるゝ事

     弟子を取殺(とりころ)す事

 武州江戶、永見寺(えいけんじ)、隣悅(りんえつ)と云ふ納所(なつしよ)、夢の如く、覺(うつゝ)の如く、二鬼(き)、尋ね來りて、責惱(せめなや)ますこと、切々(せつせつ)なり。

 隣悅、是を恐れ、近付(ちかづき)の二人(にん)を賴み、一所に臥しけるに、亦、二鬼、來つて、鐵棒にて、散々に打擲(ちやうちやく)す。

 二僧も、目を醒(さま)しければ、二鬼、荒(あら)けなき聲にて、

「傍(そば)の坊主、杖(つゑ)に當るな。」

と云うて、ひた打(うち)に打つ程に、忽ち、腰の骨を打折(うちを)りけり。

 隣悅、是に驚きて、貯へ置きたる金銀を、盡(ことごと)く、住持南宗(なんそう)和尙に献じ、徧參僧を仕立てけり。

 然(しか)るに、此二僧も、のたゝずして、頓(やが)て死にけり。

 一人は、血を吐きて、若痛(くつう)し、一人は痢病(りびやう)に疲極(ひごく)して、何れも、臨終、正念ならず。

 寬永年中の事なり。

[やぶちゃん注:この話、「隣悅」の最期が描かれておらず、不完全である(まず、二僧以上の苦しみを受けて死んだのでなければ、二僧が浮かばれないから、そこは言わずと知れたことではあるのだが)。さらに「仕立てたり」とか、「此二僧ものたゝずして」とか、表現に不審がある。「仕立てたり」というのは、恐らく――自分自身が鬼に責められていることを隠し、この二人の徧参僧(諸国を行脚して修行する僧)を因果な自分の代わりに鬼に責められる対象者に、この寺の僧ではない彼らを体(てい)よく「仕立て」たということか? また、「此二僧も、のたゝずして」であるが、これは最終的には、「伸立たず」で、「立ち上がることが出来ず」の意であろうと考えた。当初は「此二僧、ものたゝずして」で「もの(物)立たず」、則ち――彼を守るどころか、自分たちもさんざんに悩まされて、「全く役に立たず」――の意であるかとも思ったが、饗庭氏の読点を尊重し、以上のような意味で、暫く、採ることとした。識者の御意見を俟つものである。

「知事」はここでは本文に出る通り、「納所」と同義で使っている。禅宗では中世の禅僧の職掌集団に「東班衆」(とうばんしゅう)というのがあり、これは、小学館「日本大百科全書」によれば、『中国』の『宋』『代の寺院制度が移入された禅院内では』、『教学詩文面を西班(せいばん)、経済活動面を東班が』、『分かれて担当した。東班には』、『最上位の都聞(つうぶん)の下に都寺(つうす)、監寺(かんす)、副寺(ふうす)、維那(いのう)、典座(てんぞ)、直歳(しっすい)の六知事』(☜)『が置かれ、これらと』、『配下の禅僧を総称して東班衆とよんだ。現役の東班は、所属寺院に止住(しじゅう)して』、『納所』、『修造司』(しゅぞうす)、『出官、免僧(めんそう)などの職掌を管轄し』、『寺院経理に従事した。納所は米銭の出納をつかさどり、修造司は営繕監督にあたったが、出官と免僧の機能は未詳である。退任後の東班は、塔頭』『の経営や庄主(しょうす)といって寺領の代官に任ぜられる者もあった。なかでも』、『相国(しょうこく)寺』の『都聞のような最有力の東班衆ともなると、大荘(たいしょう)の庄主を歴任して』、『徴税請負人となり、膨大な銭貨を蓄積し』、『個人的な高利貸資本』家『となった者もいた。幕府は彼らから』、『随時』、『献上銭や献物を徴収し、財源不足の補填』『なども行わしめたので、東班衆は室町幕府の財政や将軍家の家産に深くかかわっていた』とある。江戸時代には、どこまでこの細分化された経済実務担当者が生き残っていたかは定かでないが、この標題と本文の「納所」の表記違いから、最も俗世間と接触の多い因果な納所坊主のような経済実務に係わった者も、建前上は「知事」とも呼ばれていたと判断しておく。

「武州江戶、永見寺」いつもお世話になる松長哲聖氏の東京都の寺社案内の強力なサイト「猫の足あと」のこちらにある、現在は台東区寿にある曹洞宗桃雲山永見寺であろう。『吉祥寺五世用山元照大和尚』(慶長三(一五九八)年示寂)『を開山として、桃雲氷見和尚』(慶長一六(一六一一)年示寂)『が開基となり』、慶長一六(一六一一)年に『八丁堀に創建』、後、正徳三(一七一三)年『浅草へ移転したとい』われるとあった。本話は「寬永年中」(一六二四年から一六四四年まで)とあるので、元の八丁堀(現在のそれ)にあった時の話となる。

「荒(あら)けなき」「荒氣なき」で、この「なき」(なし)は、「はなはだしい」の意をもつ強意の接尾語であって、否定の辞ではない。「ひどく荒々しくて粗暴である」の意である。

『「傍(そば)の坊主、杖(つゑ)に當るな。」と云うて、ひた打(うち)に打つ程に、忽ち、腰の骨を打折(うちを)りけり』とあるのだが、ここで、打たれたのが、隣悦だと読んでしまうと、後が続かない。腰を致命的に打ち折られたのであれば、最早、立ち上がることは出来ず、南宗和尚(不詳)のところに貯め込んだ金銀を持って行って捧げ、しかも二僧のデッチアゲの話をして法要を願うなどという流暢なことは到底出来ないからで、私は、「隣悅、是に驚きて」という直後の文からも、腰の骨を折られたのは、「血を吐きて、若痛(くつう)し」て死んだ徧参僧の一人であると考える。

「痢病(りびやう)に疲極(ひごく)して」激しい下痢症状(赤痢辺りか)に襲われ、衰弱して。]

 

〇武州江戶、芝の高雲寺(かううんじ)、呑悅(どんえつ)和尙の代、芳金(はうきん)と云ふ納所、呑芳(どんはう)と云ふ弟子を持つ。

 十二、三年、徧參しける時、芳金、死す。菴室(あんしつ)、諸道具、少しも相違なく、呑芳に渡し給ふ。

 然(しか)るに、彼(か)の呑芳、諸道具を賣り、寺をも開(あ)けて置きたり。

 一周忌の頃より、彼の芳金、每夜、來りて、呑芳が頸(くび)を締めけり。

 然れども、隱して、經など誦(よ)みたるぼかりにて、眞實の吊(とむら)ひ、一度(いちど)もせざりしなり。

 兎(と)や角(かく)やと、打過(うちす)ぎけるに、次第々々に、煩(わづら)ひ重(おも)り、氣色(きしよく)衰(おとろ)ゆるに隨つて、彌々(いよいよ)、芳金、呑芳が目に見えけり。

 或時、芳金、來つて、

「呑芳、呑芳、」

と呼ぶなり。

 呑芳、

「やつ。」

と答へて、即ち、死去す。

 高雲寺の僧達、確(たしか)に見る事なり。

 寬永年中のことなり。

[やぶちゃん注:「武州江戶、芝の高雲寺」調べたが、不詳。

「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「五 僧の魂蛇と成り物を守る事 附 亡僧來たりて金を守る事」

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

    僧の魂(たましひ)蛇と成り物を守る事

     亡僧來りて金を守る事

 最上、傳正寺(でんしやうじ)の住持、江湖頭(かうこかしら)の時、導儀(だうぎ)を助けたる僧、快壽(くわいじゆ)・快應と云ふ兩僧、奧州一見の次(つい)で、傳正寺へ立寄(たちよ)りければ、住持、

「珍しき。」

とて、樣々、馳走(しそう)了(をは)つて、打ち解け、雜談(ざふだん)して云ひけるは、

「此の寺、金銀・米錢(べいせん)、心に任せて、萬事、不足なし。寺中(じちう)、一見せよ。」

と有りければ、二人の僧、そろりそろりと廻り、さて、藏へ入りて見るに、俵物、積重(つみかさ)ねたる上に、大きなる白蛇(しろへび)、

「のたり」

居(ゐ)たり。

 快應、竹を以つて、是を打ち殺さんとす。

 然(しか)るに、方丈に伏(ふ)したる長老、

「わつ。」

と叫んで、殺入(せつじ)しけり。

 寺中の僧衆、

「是は、何事ぞ。」

と云ふて、方丈へ走り、氣付(きつけ)を與へ、樣々、氣を付けければ、長老、彼(か)の客僧を見て、

「唯今、快應、我を打ち殺さんとす。殊の外、痛みたり。」

と云ふて、急ぎ、客僧を追ひ出だすと、兩僧、直(ぢき)に語るなり。

 慶長年中の事なり。

[やぶちゃん注:「傳正寺」「江戸怪談集(中)」の注に、『現山形県東村山郡中山町』(なかやままち)『大字長崎の曹洞宗臥熊山天性寺か。』とある。ここ。山号は「がようざん」と読んでおく。寺名は「てんしょうじ」。

「江湖頭」「江湖」は既出既注。「がうこ」が正しい。これはその夏安居(げあんご)を行うための道場の同修行期間中の実務・指導・管理を職掌とする僧を指す。二名いるので、相当な数の僧が集まったものと思われる。

「殺入(せつじ)」既出既注。「絕入」(ぜつにふ(ぜつにゅう))に同じ。気絶すること。

「慶長年中」一五九六年~一六一五年。]

 

〇名古屋、大光院、護益(ごえき)和尙、四十九院の餅(もち)を、人に喰(く)はせず、柿紙(かきがみ)に干し置きて、客人(きやくじん)にばかり、用ひたり。

 或時、女(をんな)客人、來(きた)る。

 和尙、大益(だいえき)と云ふ納所(なつしよ)を呼び、

「此の餅を芥子餅(けしもち)にして出(いだ)せ。」

と仰せ付けらる。

 一度、取出(とりいだ)し、亦、隱(かく)して、餅、取りに行きて見るに、大きなる白蛇(しろへび)、餠の上に居(ゐ)たり。

 折節、冬のことなるに、不思議に思ひ、納所、此由を云へば、和尙、行きて見て、

「是れ、福なり。」

と云ひたまへば、則ち、蛇は失せけり。

 彼の住持、死去の後(のち)、財寶、爭ひ取りたる弟子ども、多く死したり、となり。

[やぶちゃん注:「大光院」「江戸怪談集(中)」の注に、『現名古屋市中区大須の曹洞宗』興國山(こうこくさん)『大光院』とある。ここ

「四十九院の餅」これは諸信者が亡くなった際に行われる四十九日法要の期間中、仏前に供物として積み上げる餅を指す。その意味は地獄思想と関連する。先行する『中卷「二十七 蘇生の僧四十九の餅の次第を記す事」』の本文及び「四十九の餅」の私の注を見られたい。「江戸怪談集(中)」の注によれば、供えた後は『人に配るのが普通』とある。

「柿紙」柿渋で染めた和紙。水気・湿気を防ぎ、防虫効果もあるから、表面が黴たり、鼠に齧られたり、衛生害虫を避ける意味もあろう。

「芥子餅」小豆の「こし餡」を餅の皮で包み、ケシの実をまぶしたもの。大阪府堺市の名物菓子。

「納所」納所坊主。禅寺で会計・庶務を取り扱う下級僧。

「一度、取出し、亦、隱して」既に皿に渋紙を剝いて出してあり、運べるようにして置いたのであろう。少し時間も経っており、それを芥子餅にするのは失礼と納所坊主は思ったか、しかし、或いは、「隱して」という謂いからは、納所坊主は命ぜられたのを、『これ、幸い。』と、それを見えないところに隠しておいて、客人用は新たに蔵から出し、後でこっそり前のものを食べようとした、のかも知れないな。こっちの方が面白い。

「大きなる白蛇(しろへび)、餠の上に居(ゐ)たり」この怪異は、章題と前の話を合わせれば、仏神の使者・守り神なんどではなく、この「護益和尙」の餅に対する執着の変じたものである。さればこそ、この和尚には、何らの徳もなく、地獄に落ちる妄執の権化であったのである。だからこそ、それに従った同寺の僧たちは、「彼の住持、死去の後、財寶、爭ひ取りたる弟子ども、多く死したり」という禅寺にあるまじき修羅場が展開したのである。]

 

〇濃州(ぢようしう)大井の宿(しゆく)に、小寺(こでら)有り。

 坊主、死して後(のち)、夜な夜な、來て、爐(いろり)に跨(またが)つて立ける間、人、此の寺に居(ゐ)ること、ならず。

 或る時、洞家(どうか)の徧參僧(へんさんそう)、來て、寺を借(か)る。

 所の者、右の次第を語る。

「苦しからず。」

と云ふて、寺に住(ぢう)す。

 案の如く、夜(よ)に入(い)り、坊主、來(き)て、爐(ろ)に立つ。

 此僧、

『如何樣(いかさま)、爐(ろ)に、執心、有り。』

と見て、處(ところ)の者を賴み、爐(ろ)を掘りて見れば、金子(きんす)、十五兩程、有り。

 則ち、此の金子にて、吊(とむら)ひければ、再び、來たらず。

[やぶちゃん注:「大井の宿」中山道の四十六番目の宿場。美濃国恵那郡大井村(現在の岐阜県恵那市)にあった。ここ

「洞家」曹洞宗。

「徧參僧」諸国を行脚して修行する僧。]

 

〇相州に、さる坊主、死して後(のち)、家の棟(むなぎ)に、蛇、居(ゐ)けるを、殺せども、殺せども、來(きた)る。

 或る人、來て、

「此の蛇は、坊主なるべし。家の棟に、金が、あらん。見給へ。」

と云ふ。

「さらば。」

とて、葺萱(ふきかや)を分けて見れば、金子五兩、合掌の組み合はせに、深く、包みて、置きけり。

 則ち、其の金にて吊ひければ、再び來らず、となり。

 此の吊ひに逢(あ)ふたる八郞右衞門、語るなり。

[やぶちゃん注:「合掌」切妻造りの屋根などの部分で、二本の材木を、山形・合掌形に組み合わせた部分を指す建築用語。]

2022/10/11

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「四 生きながら女人と成る僧の事 附 死後女人と成る坊主の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

    生きながら女人と成る僧の事

     死後女人と成る坊主の事

 武州江戶、或山(あるやま)の學徒、實相坊は、無類の學者にして、高慢、甚だしかりけるが、江州坂本、眞淸派(しんせいは)に入つて、法談を演(の)ぶるに、僧俗、是を尊(たつと)ぶ事、限りなし。

 其れより信州へ行きて、或家に一宿す。

 亭主、馳走して留(とゞ)むる處に、傷寒(しやうかん)を煩ひ、七十日程、過ぎ、本復(ほんぶく)して、行水をするに、男根(なんこん)、落ちて、女人と成る。

 其れより、學(がく)したる才智・文字、皆、忘(ばう)して、愚人(ぐにん)と成る。

 力(ちから)なく、酒屋の婦(ふ)と成る。

 其後(そのゝち)、彼(か)の山の衆徒(しうと)、海道を通るに、

「酒を呑まん。」

とて、四、五人立寄(たちよ)る。

 彼(か)の女、淚を流し悲(かなし)む。

 僧衆、不思議に思ひ、故(ゆゑ)を尋ぬるに、有りの儘に語る。

 此の物語りは、牛込泉藏院・三光院、語るを、忠庵、聞きて語るなり。

[やぶちゃん注:「或山」「江戸怪談集(中)」の注に、『「山」は大寺をいう。』とある。

「眞淸派」同前で、『近江坂本の西教寺』(ここ)『を本山とする、天台宗真清派。學僧を優遇した。』とある。

「傷寒」漢方で「体外の環境変化により経絡が冒された状態」を指し、高熱を発する腸チフスの類を指す。

「海道」「街道」に同じ。

「牛込泉藏院、三光院」「江戸怪談集(中)」の注に、『共に天台宗上野寛永寺末寺。新宿の牛込泉蔵院と牛込三光院』(部分)とあった。「東京都公文書館デジタルアーカイブズ」の「御府内備考 五十五(牛込之三)」(文政一二(一八二九)年)の「目錄」に、『牛込之三 肴町 行元寺門前 安養寺門前 三光院門前 養善寺門前 通寺町 松源寺門前 正蔵院門前 末寺町 末寺橫町 長源寺門前 橫手町 泉藏院門前』(表記は記帳のママ)とあった。個人ブログ「てくてく 牛込神楽坂」の「朝日坂|横寺町」に載る江戸切絵図で両院の位置が確認出来るが、ここをグーグル・マップ・データで調べると、孰れも現存しない。「両寺の住職が」、ということであろう。

「忠庵」不詳。]

 

〇上州藤岡より、武州秩父へ、經帷子(きやうかたびら)賣りに行く僧、山家(やまが)の町にて、或る酒屋へ入(い)つて見れば、此の前、伴ひし僧に、似たる女房あり。

 此の僧を見て、隱れぬ。不審に思ふ處に、暫くありて、酒賣りに出でけるが、面(おもて)を隱して、直(ぢき)に見せず。

 此の時、

「其の方(はう)は、我が近付(ちかづき)の僧に似たり。若し、其の姉か、妹かにて有らん。」

と云へば、默(もく)として、淚を流し、奧に入り去る。

 あたりの人に、此の女の來處(らいしよ)を尋ぬるに、

「上野筋(かうづけすぢ)より來(きた)ると云へども、親類、知らず。」

と云へり。

 亦、歸りに立寄り、彼(か)の女を呼び出(いだ)し問へば、

「我は、御僧、舊友の何某(なにがし)なるが、何となく、煩ひ付きてより、不圖、男根(なんこん)、落ちて、女と成る。もはや、子、二人、有り。無念の次第なり。」

と、泣く泣く、語りける。

 寬永年中の事なり。

[やぶちゃん注:「上州藤岡」「武州秩父」現在の群馬県藤岡市と、その南に接する埼玉県秩父市

「經帷子賣りに行く僧」経帷子を売るのを目的に秩父へ行くというこの僧、「酒屋へ入」ってもいるし、まあ、かなり程度の低い僧ではある。

「もはや、子、二人、有り」この場合、両性の生殖器を持って生まれた真正の半陰陽(アンドロギュヌス)である。

「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。]

 

〇江州高野、永源寺の末寺、鮫村(さめむら)に有り。

 此の坊主、あざ、ありて、片目なり。綽名(あだな)に「あざ坊主」と云ふ。

 此の坊主、隱し子、有り。出家に爲(な)して、跡を、ゆづる。

 此の子坊主、還俗(げんぞく)して、即ち、寺を在家(ざいけ)にし、女子(によし)一人(にん)、男子(なんし)一人、持つ。

 親坊主、死して後(のち)、「あざ」有りて片目なる大蛇(おほへび)、出來(いでき)て、屋敷を離れず。

 彼(か)の孫娘も「あざ」有り、片目なるが、十九の歲(とし)、緣に付けるに、其の年の暮(くれ)に、夫に、暇(いとま)を乞ふて、家に歸り、尼と成りて、弟に繫(かゝ)り居(ゐ)たり。

 惣じて此の娘、餘所(よそ)にて、食物(しよくもつ)食う事、叶はず。頭(かしら)、痛む故に、餘所に居(ゐ)る事、成らず。

 さる程に、正保三戌(いぬ)の年、彼の娘、廿九歲の時、本秀和尙に見(まみ)えて云ふ樣(やう)は、

「某(それがし)、『楞嚴咒(れうごんじゆ)』・『觀音經(くわんおんきやう)』・「大悲神咒(だいひじんじゆ)」・施餓鬼など、習はずして、能く誦(よ)み申すなり。我は疑ひなき祖父、『あざ坊主』の生れ替(がは)りなり。親の屋敷に居(ゐ)れば、心快(こゝろよ)し。願はくは、和尙の御弔ひを受けたし。」

と望む也。

 「あざ坊主」を知りたる者ども、此の娘を見て、

「形・姿・聲、其儘、祖父に似たり。」

と云ふ。

 さて又、

「件(くだん)の大蛇も、『あざ坊主』なり。」

と。

 母、同道し來(き)て語ると、本秀和尙、直談なり。

 兎角、「出家は、大略(たいりやく)、女に生まる。」と云へり。尾州折津(をりづ)の正眼寺(しやうげんじ)、用益(ようえき)和尙は、九州の人なりしが、九州にて、五千石(ごく)取る侍の、女子(によし)に生れたり。手の内に書き付け持ちて、出でたる由にて、折津へ尋ね來(きた)る、と云へり。

[やぶちゃん注:「江州高野、永源寺」「江戸怪談集(中)」の注に、『滋賀県神崎郡永源寺町大字高野にある。創建当時は臨済宗永源寺派本山瑞石山永源寺。信長の焼き打ち後、寛永二十年に妙心寺開山派として再興。』とある。現在は滋賀県東近江市永源寺高野町(えいげんじたかのちょう)のここである。

「鮫村」同前で『現多賀町佐目の旧名。』とある。滋賀県犬上郡多賀町(たがちょう)佐目(さめ)。

「正保三」一八四六年。

「正眼寺」愛知県小牧市三ツ渕にある曹洞宗青松山正眼寺。「江戸怪談集(中)」の注に、『元禄二年以前は下津(おりづ)(現一宮市)にあった』とあるが、調べた限りでは、下津は、愛知県一宮市の南方に接する稲沢(いなざわ)市下津町(おりづちょう)である。不審。]

 

〇尾州名古屋、聖德寺(しやうとくじ)、良敎(りやうけう)と云ふ一向坊主、一年、江戶へ下るとき、途中にて、脇指(わきざし)を失ひ、

「伴(つ)れたる門前の馬方(うまかた)、取りたるべし。」

と、疑ひ居(ゐ)たりけるが、死して、三年目に、彼(か)の馬方の、娘に、生れ來(きた)る。

 其の證據(しやうこ)には、臂(ひぢ)の折目(をりめ)に、「聖德寺良敎」と確(たしか)に筋(すぢ)あり。聖德寺弟子坊主、六條に、寺、持ちて居たりけるが、名古屋へ下り、之を見て、馬方より、乞ひ請けて、此の娘を、上方へ連(つれ)て上るなり。

 寬永十五年の事なり。新右衞門と云ふ人、確に語るなり。

[やぶちゃん注:「名古屋、聖德寺」浄土真宗に限定しても、複数(四つは確認)、存在するので、特定不能。「江戸怪談集(中)」の注も、ただ『不詳』である。

『臂(ひぢ)の折目(をりめ)に、「聖德寺良敎」と確(たしか)に筋(すぢ)あり』肱の皺にこの五文字をしっかりと読めるというのは、ちょっと、微苦笑してしまいました。そう読める人は如何なる崩し字も、物ともしないんだろうな、サウイフ人ニ私はナリタイ――

「寬永十五年」一六三八年。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 墨田川の捨子

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、今回は段落も成形した。]

 

   ○墨田川の捨子

 文政十二年己丑の冬十一月二日の夜、赤穗候の家臣大谷義惣次、墨田川に漂流しぬる捨子を拾ひし事、あり。當時、その紀事を見つるに、左の如し。

 ことし、十一月ふつかの日、牛島なる桐原何がしのいほりを、とぶらひて、時のうつるをもしらず、ものがたりしけるを、淺くさ寺の初夜のかねに、おどろき、墨田川のほとりをかへるに、男、ふたり、川岸に、ともし火をてらして、つぶやき、たてり。

 いぶかしく思ひて、

「いかにぞ。」

と、とへば、

「川なかに、をさな子の、なくこゑ、す。」

といふに、はたして、をさなきものゝ聲也。

「とくとく、水に入て、たすけよ。」

と、いへば、ふたり、聲をひそめて、

「さすれば、後のうれひあり。便なくも、見捨ん。」

といふに、おのれ、おもはず、こゑを、あらゝげて、

「後のうれひは、なれたちに、およぼせめや。わが身にこそ、うけめ。」

と、いへば、

『うれし。』

と思ふおもゝちにて、やがて、水に入らんとするに、あやしくも、流れ、はやき川の瀨を、橫さまに、ながれよりたり。

 後におもふに、西風、いたく、ふきたれば、こなたの岸へ、よせし也。

 おのれ、河に、をり立て、刀のさやにて、かきよせんとするに、とゞかず。

 ひとりの男、いちはやく、長き竹をもて來つゝ、やがて、ちかく引よせしを、抱とりて、見るに、男の兒也。

 あはれむべし、玉の緖も、たえだえに見えければ、まづ、ふところに入れて、あたゝむるに、しばしありて、手も足も、動き出けり。

『とせん、かくせん、』

と、思ひたゆたふほどに、いよいよ、よみがへりにき。

 つくづく思ふに、

『前の世に、いかなる罪をなしゝ人の、かゝる子を、うみたるや。さばれ、このちごの命、いきて、わが、いだきあげぬるも、すぐせありての故なるべし。』

と、一たびは、歡び、一たびは、かなしきまゝに、かくなん、思ひつゞけゝる。

 ながれよるこの葉を岸にかきあげて

      袖もしぐれにそむる夜半かな

 わが名はつゝみて、

「かの、はじめ見いだしたる民の、ひらひし。」

と、うつたへ、まうさして、おほやけの沙汰、さわることもなくて、なん。あなかしこ、あなかしこ。

   關老先生         百  作

 百作は、大谷生の別號也。このゝち、すて子は、百作、やしなひとりて、里につかはしけるに、つゝがもなくて、そだちぬるよし。

 おなじ年の十二月八日の朝、關氏【潢南東陽。】より消息して、予が歌さへに求められしかば、その使をまたして、よみて、つかはしける。

 捨らるゝ藪ならなくにくれ竹の

      よ川のちごはながらへにけり 解

「このすて子は、唐の陸羽に似たるよしあり。しかれども、陸鴻漸は水邊に捨られしのみ。水中に子を捨しは、いかなる故ぞ。」

といふに、

「こは、其親のわざにあらず、かの、わたりなる、殘忍のもの、『村に捨子ありては、費用もおほく、いついつまでも、地方のわづらひなれば。』とて、ひそかに、かひさらひて、川へ投捨ること、あり。」

といふ。そを拾ひとりたりし大谷生の陰德は、うらやむべきことにぞ、ありける。

[やぶちゃん注:「文政十二年己丑」(つちのとうし/キチウ)「の冬十一月二日」一八二九年十一月二十七日

「大谷義惣次」不詳。結局、彼がこの子を引き取って、故郷で育てたとあり、非常な義侠心がある人物である。

「後」(のち)「のうれひ」こうした捨て子は、村民・町民が拾い助けた場合、お上からは、まず、それぞれの町村内で協力するか、養育をしてくれそうな子のない者に預けるか、江戸では、辻番所に届け出、町奉行の配下の者、或いは、その番所を置いた藩に、養育してくれる者を探させ、補助費用を添えて渡したりした。

「便」(びん)「なくも」かわいそうで、いたわしいことだけれど。

「玉の緖」命(のち)のこと。

「すぐせ」「宿世」。前世。

「關老先生」「兎園会」会員で「海棠庵」で頻出する三代に亙る書家関思亮(しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の祖父其寧(きねい)であろう。「兎園小説」には時にこの祖父の名が出る。

「關氏【潢南東陽。】」「ひんなんとうやう」は関思亮の号。本書に二年先だつ天保元(一八三〇)年九月に三十六の若さで実は亡くなっている。

「捨らるゝ藪ならなくにくれ竹のよ川のちごはながらへにけり」この瀧澤解(とく:馬琴の本名)の一首の「くれたけの(呉竹の)」は枕詞で、「竹の節(よ:節と節の間)」から同音の「夜」で「夜川」に掛かり、更に「世」を利かせて、「この世を無事に永らえたことよ」と言祝いでいるものであろう。

「陸鴻漸」陸羽(七三三年~八〇四年)は盛唐末から中唐にかけての文筆家。茶の知識を纏めた「茶経」などを著わした。鴻漸(こうぜん)は字(あざな)。岡倉天心はその名著「茶の本」の中で陸羽を「茶道の鼻祖」と評している。当該ウィキによれば、『捨て子として』三『歳くらいの時に浜で』、『竟陵』の『龍蓋寺の智積』(ちしゃく)『禅師に拾われた。容貌はさえず、しゃべり方に吃音があったが、雄弁であったという』。『幼い頃に、智積が仏典を学ばせようとしたが、陸羽は、「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。そのため、智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課した。ひそかに、竹で牛の背中に字を書いていたという』。『逃亡して、役者の一座に入り、諧謔ものを書き上げた。天宝年間』(玄宗の治世後半。七四二年から七五六年)『に、竟陵の長官の李斉物(りせいぶつ)』『の目に止まり、書を教えられ』、『学問を学んだ。孤児であった陸羽が、知的階級の人々と交流するきっかけをつくってくれたのが、李斉物であった。その後、竟陵司馬の崔国輔(さいこくほ)』『とも交わった。友人と宴会中、思うところがあると出ていき、約束は、雨、雪の日、虎狼の出現に構わずに守ったという。また、『精行倹徳の人』を理想とした』七五六年、「安禄山の乱」を『避けようと』、『北方の知識人たちは、江南地方へ逃れた。陸羽も』七六〇年頃『湖州の苕渓』(ちょうけい)『に避難』し、庵を『つくって隠居し、桑苧翁』(そうちょおう)『と号し』、『著書を書き』始めた。『僧の釈皓然と親交を結び、野を一人で歩いて回ったという。隠居中に、朝廷から太子文学や太常寺太祝に任命されたが、辞退した』。十四年の及ぶ『茶の研究を』「茶経」として整理し、十年後の建中元(七八〇)年に補足を附した「茶経」全三巻を著わした。『大暦年間』(七六六年~七七九年)『に、湖州刺史として赴任してきた』書家として著名な『顔真卿』『のもとで』、「韻海鏡源」(いんかいきょうげん:三百六十巻に及ぶ辞典。古今の文献を検証し、佳句を収集、韻別に記録したもので、七七四年完成。但し、現存しない)の『編纂に加わっ』てもいる。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 泊船門

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入した。]

 

   ○泊船門

白石先生、「報安積覺書」に【前文、二、三條あり。そは詩草の事、金史の事等也。こゝに要なければ、略ㇾ之。】、泊船門の事、御たづねに候。江城の景境には、たしかに「泊船軒」とか覺候。門と申事は、ふるき御目付役所の帳簿にも候とて承候。唯今は「櫻田大手御門」と申すを、五、六十年前迄は「泊船門」と申候き。これは開國の初迄は、今のヒヾヤ門のほとりよりして、かの西南の大手迄は、船入りの入江にて、船を、もとの西丸下のやしき邊に泊め申候。故に「ヤヨウスカシ」など申す名も、今に遺り候。西北の方、大路と聞え候。よりて、山王祭、第一、糀町より、渡し初候も、また、赤坂に傳馬町候も、それ故と申候。關原役後より、大名も、漸々、入來られ候よりして、漸々、東南の地の水を、曬ㇾ之地を、築候て、屋敷にも町にもなり候か。櫻田の御殿などは、水の中に候を、陸奧の政宗、つきたてられ候と申候。此時、急れ候て、材木を下にし、土、積み、築たりとぞ。地震の度々に、彼邊は、他所より、地、動きやすく候て、家を損じ候事、すでに、二、三度に及び候が、唯今、虎門の外に、ヒヾヤ町と申すは、ヒヾヤ門のほとりにて候ひし。町の、ひけたるに候。某老父など申候にも、ヤヨウスカシの火消やしきは、キリシタンのヤヨウス寺にて有ㇾ之を覺え候と申候き。當時も、西の丸坂下御門の内に、大きなる榎の木、候。もとの一里塚と申傳候。如ㇾ此に、陵谷、變遷、實に東海揚塵の事に候。御たづね候稿本も出來候へども、亡息存生の日は、そろそろ淨書等仕りくれ候へども、そのゝち、人もなく、稿本のまゝにて、うちすて置候事に候。むかしは、物もよくかき候わかきものども、つねに、二、三人も、手前、仕候故に、書寫等の事も、かまはず候。今は一つになり候て、老衰と申し、これらの事、心ばかりに候。

一、平野へ御狀、早速に屆候。一通到來、印、をし候。いくたびも、やすき事に候。無別條候條、草々申殘候。恐惶謹言。

 十一月十九日    新井筑後守

               君 (花押)

    安積覺兵衞樣

[やぶちゃん注:「泊船門」谷弘氏の論文「江戸の町は船で造られ船で発展した ―徳川三代の江戸湊整備と生活物資の輸送―」(『海事交通研究』第六十八巻(二〇一九年発行)所収。PDF)の「2.2 家康が入府した頃の日比谷入江(湾)の状況」に、新井白石と水戸彰考館総裁であった安積澹泊(あづみたんぱく)の書簡を纏めた「新安手簡」(天明年間(一七八一年~一七八九年)板行)を引かれて(注記号を省略した)、

   《引用開始》

「唯今は桜田大手御門と申を、五六十年前までは泊船門と申き。(中略)かの西南の大手までも 船入の入江にて、船をも今の西丸下の屋敷近邊に泊め申候故」と書かれている。また、『岩淵夜話別集』という書物には、「東ノ方平地ノ分ハ爰モカシコモ汐入ノ芦原ニテ、町屋侍屋敷ヲ十町ト割リ付ベキ様モナク、偖又西南ノ方ハ、平々ト萱原武蔵野ヘツヅキ、ドコヲシマリト云ヘキ様モナシ。」とある。これが、徳川氏の町造り湊造り開始前の状況であり、 原点である。当時は、現在の皇居前広場や日比谷公園の辺りは海で、入江が江戸城の近くまで入りこんでおり、入り江の東側には、当時は江戸前島と呼ばれていた現在の日本橋、京橋、銀座から築地にかけての一帯が海面とすれすれの砂洲となっていた。

 一方、城の背後には波を打ったように台地が並んでおり、当時の江戸は、起伏の多い沼 と萱原の続く荒涼とした地であった。またかつては、大田道灌の居城といっても、それは 地方大名の家老職の城であり、天下をねらう家康に匹敵するものではなかった。

   《引用終了》

とあった。また、サイト「東京とりっぷ」の「桔梗濠」に、慶長一九(一六一四)年に造られた桔梗門(内桜田門)近くにある江戸城の内濠(内堀)。最初に江戸城を築いた太田道灌の時代に、この近くに道灌が築いた「泊船亭」があった地と伝えられ、道灌の家紋の桔梗紋から桔梗門、桔梗濠という名が付いたと推測でき』、『築城当初は』、『まだ』、『日比谷入江(江戸湾)に面していた地なので』あった、とある(描かれた地図あり)。グーグル・マップ・データ航空写真で示すと、ここである。読みであるが、よく判らない。そういう時は音読みして置けば、問題ない。「はくせんけん(てい)」「はくせんもん」と読んでおく。但し、江戸城の門名は訓読みするものも多いので、「とまりぶねもん」もありかとは思うが。

「白石先生」言わずもがな、儒学者で政治家の新井白石(明暦三(一六五七)年~享保一〇(一七二五)年)。名は君美(きんみ)。木下順庵の高弟。第六代将軍徳川家宣に仕えて幕政に参与し、朝鮮通信使の待遇簡素化・貨幣改鋳などに尽力した。

「報安積覺書」「安積が覺えに報(はう)ずるの書」で、恐らく、先に示した後代の往復書簡集に含まれているのであろう。

「金史」元朝のトクト(脱脱)らの撰になる金代の歴史書(一三四四年成立)のことか。

「ヒヾヤ門」日比谷御門の跡はここ(グーグル・マップ・データ。以下指示のないものは同じ)。サイト「大江戸歴史散歩を楽しむ会」の「日比谷御門」に壊される前の写真がある。その解説に、『日比谷門の古くは、土塁を築いた喰違いのみであったが、寛永』四(一六二七)年に浅野長晟(ながあきら)が『石垣を積み』、二年後の寛永六年、『伊達政宗が枡形門を築き』、『日比谷御門を仕上げた。日比谷見附門の特徴は、濠を暗渠にして門前に橋がないこと。枡形の北側の日比谷濠に面した仕切りがない。これは、濠へ追い落とす「武者落し」で、対岸の日比谷櫓から応援射撃を受ける。晴海通り上にあった見附門の石垣は、日比谷公園の有楽門に移設している。園内の心字池と濠の石垣は、内濠から山下橋の外濠につなぐ中濠の跡である』とある。

「山王祭」当該ウィキによれば、『山王祭(さんのうまつり)とは、 東京都千代田区にある日枝神社』(ここ)『の祭りのこと。正式名称は「日枝神社大祭」。神田祭とともに天下祭の一つとされ、これに深川祭を加え』、『江戸三大祭の一つともされている。現在隔年の』六『月中旬を中心に本祭が行われるが、明治以前は旧暦の』六月十五日『に行われていた』。『日枝神社は既に南北朝時代には存在したともいわれているが、太田道灌によって江戸城内に移築され、更に江戸幕府成立後に再び城外に移されたといわれている。とはいえ、同社が江戸城及び徳川将軍家の産土神と考えられるようになり、その祭礼にも保護が加えられるようになった』。元和元(一六一五)年には、『祭の山車や神輿が江戸城内に入る事が許され、将軍の上覧を許されるようになった』(寛永一二(一六三五)年とする異説もある)。また、『祭礼は本来毎年行われていたが』、天和元(一六八一)年『以後には神田明神の神田祭と交互に子・寅・辰・午・申・戌年の隔年で行われる事になった。これは各氏子町が全て自前で祭礼の諸費用を賄わなければならず、また』、『当時』、『日枝神社の氏子町の中には神田明神の氏子を兼ね』、『神田祭にも参加していた町があり、年に二度の出費となったので、各町への費用軽減の意味があったといわれる』。『江戸の町の守護神であった神田明神に対し』、『日枝神社は江戸城そのものの守護を司ったために、幕府の保護が手厚く、祭礼の際には将軍の名代が派遣されたり、祭祀に必要な調度品の費用や人員が幕府から出される(助成金の交付・大名旗本の動員)一方で、行列の集合から経路、解散までの順序が厳しく定められていた。それでも最盛期の文化・文政期には神輿』三『基、山車』六十『本という大行列となった。また』、『後には祇園会と混同され、江戸を代表する夏祭りとしても扱われるようになった』。『そんな山王祭も天保の改革の倹約令の対象となって以後衰微し』、文久二(一八六二)年の『祭を最後に』、『将軍(家茂・慶喜)が上方に滞在し続けたまま』、『江戸幕府は滅亡を迎えたために天下祭としての意義を失った』とある。

「糀町」「かうぢまち」。東京都千代田区麹町。山の手の中で最も繁華な町で、大名・旗本相手の商家が多くあり、甲州街道の初路でもあった。

「曬ㇾ之地を」「之れを曬(さらせる)地(ち)を」。湿地を土盛りして、水気を排して土地を。

「築候て」「つきさふらふて」。

「櫻田の御殿」現存しない。

「急れ候て」「いそがれさふらふて」。

「彼邊は」「かのあたりは」。

「虎門」「とらのもん」。現在の虎ノ門交差点及び、その少し東北にあった城門

「町の、ひけたるに候」移転したことを言う。通りで、現在の行政地名には日比谷周辺には残らなかったわけか。

「某老父」「それがし、らうふ」。白石の父正済(まさなり 慶長二(一五九七)年~延宝六(一六七八)年)は武士であったが、幼くして孤児となり、長じて後、江戸に上った。後、上総久留里(くるり)藩主土屋利直に仕え、目付を務めている。因みに白石は「明暦の大火」の翌日の明暦三(一六五七)年二月十日に、焼け出された避難先で生まれている。

「キリシタンのヤヨウス寺」この「ヤヨウス」はオランダの航海士で朱印船貿易家であったヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van Lodensteyn  一五五六年?~一六二三年)のこと。当該ウィキによれば、日本名は「耶 揚子(や ようす)」で、『現在の東京駅周辺の八重洲の地名の由来になった人物である』。『教科書などで知られている「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」である』。『オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイングランド人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに』慶長五(一六〇〇)年四月十九日に『豊後に漂着した』。『徳川家康に信任され、江戸城の内堀沿いに邸を貰い』(☜:これで異名が納得)、『日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の千代田区にあた』『る。「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる』。『やがて東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後』、『帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが』、『帰国交渉がはかどらず、結局』、『あきらめて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した』とある。

「西の丸坂下御門」現在の宮内庁正門

「もとの一里塚」不詳。

「變選」

「實に」「まことに」と訓じておく。

「御たづね候稿本」以下の「天爵堂寿言」であろう。

「亡息」白石の次男で儒者の新井宣卿(のぶのり 元禄一二(一六九九)年~享保八(一七二三)年)兄で同じく儒者であった新井明卿(あきのり 元禄四(一六九一)年~寛保元(一七四一)年)とともに父の「天爵堂寿言」を編集した。二十五歳の若さで亡くなっている。「天爵堂」は白石の号。

「今は一つになり候て」新井明卿とは一緒に住んでいなかったか。

「平野」不詳。

「君」「白石」は号で、本名が「君美(きみよし/きんみ)」であった。

 以下は、底本では、全体が一字下げ。馬琴の附記。]

因に云、近ごろ、櫻田の御用屋敷を、鍋島家へ御住居の添地に被ㇾ下ける折、仙臺候より申出しは、「件の御用屋敷は先祖政宗拜領の地に候を、其後御用に付、差上候き。しかるを、今さら、他家へわたされ候事、本意にあらず候。」と申されけり。依ㇾ之、御用屋敷の角の所を、聊、のこされて、その形を遺し、その餘を鍋島へ下されし、といふ。右の白石の手簡にて、櫻田の御用屋敷は、元來、政宗の屋敷なりし事、定かにしられて、こたび、仙臺より云々と申出し事も、虛談ならずと、しらるゝよし、中村佛庵の話也。白石の手簡も、佛庵の、寫しとりて、見せられしを、借抄、畢。戊子秋八月十八日。

[やぶちゃん注:「聊」「いささか」。

「中村佛庵」宝暦元(一七五一)年~天保五(一八三四)年)は書家。江戸生れで、幕府畳方の棟梁を務めた。梵字に優れた。馬琴と親しく、「耽奇会」にも参加していた。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「三 生ながら牛と成る僧の事 附 馬の眞似する僧の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

    生(いき)ながら牛と成る僧の事

     馬の眞似する僧の事

 濃州、明知領久保原に、洞家(どうか)の小寺有り。坊主、齋(とき)より歸りに、地藏繩手(ぢざうなはて)と云ふ所の、路(みち)惡(あ)しきを直す。

 折り節、近所、手向村(たむけむら)の八藏と云ふ者、通り懸(かゝ)るに、大(おほき)なる黑牛、角(つの)にて、路をさくる。

 八藏、思ふ樣(やう)は、

「久保村孫右衞門牛は、人撞(ひとつ)きなり。きやつは曲者(くせもの)ぞ。」

と、獨言(ひとりごと)云ふて、廻り道を行けば、田の中に、男二人、居(ゐ)けるに對して、

「孫右衞門(まごゑもんの)、人撞き牛を放し置くを見るに、角にて、路をさくりける間、廻り道して來たる。」

と云ふ。

 彼(か)の男ども、「其の方は、惡口(わるくち)を云ふなり。唯今、我々、賴みたる坊主、地藏繩手の路を、手づから能(よ)く作(な)さんと申されし物を。」

と云ふ。

 それより肝を銷(け)し、沙汰せず。元和(げんわ)年中の事なり。

[やぶちゃん注:「濃州、明知領久保原」岐阜県恵那市山岡町(やまおかちょう)久保原。この「明知」は明知遠山氏(利仁流加藤氏一門の美濃遠山氏の一派)を指す。この明知氏は幕府旗本として六千五百三十一石の交代寄合とされ、明知陣屋を構えて、明治維新を迎えるまで続いている。因みに、ここから南下したところに、恵那市明智町(あけちちょう)があり、ここは明智光秀の出身地説の一つに比定されている。

「洞家」曹洞宗。久保原には曹洞宗林昌寺がある。但し、この寺、寛永二(一六二五)年の創建なので(それ以前に瑠璃光寺があったが天台宗で、戦国時代に廃寺となっている)、文末の年号が悩ましい。

「齋」これは、仏教の戒律の規定に従い、月の十五日と三十日に、同一地域の僧が集って、自己反省をする集まりを指していよう。

「地藏繩手」不詳。

「手向村」久保原地区の南西に接する山岡町上手向(かみとうげ)が現存する。

「さくる」初版板本65コマ目)では、『除(サクル)』とある。凸凹を削り掘ることを言う。

「黑牛」墨染の僧衣を連想させる。にしても「生ながら牛と成る僧の事」という標題はちょっと不快である。これは、無償の行為として、この僧が、道路修復をしているのを、角を以ってすれば、やり安かろうと、仏・菩薩が思し召されて、彼を一時、黒牛に変じさせたととるべきであり、生きながらに畜生にされたといったような言い回しは相応しいと思わないからである。特に続く第三話が、行いの誤りに基づく悪しき例なのであるから、猶更、自ら、区別されるべきものと私は考えるのである。

「元和年中」一六一五年から一六二四年まで。]

 

〇常州宇宿(うじゆく)、金龍寺(きんりうじ)、開山の時の納所(なつしよ)、無道心者(むだうしんじや)にて、生きながら、黑牛と成る。白き毛にて、書きたるが如く、納所の本名(ほんめい)、分明(ぶんみやう)に有り。

 大衆(だいしう)、憐(あはれ)むと雖も、他(た)を濟(すく)ふこと、あたはず。

 不便(ふびん)なるかな、尾を垂れて、前の田に走る。

 和尙、彼(か)の納所を呼び來らしめて、一拶(いつさつ)して、座具を以つて、打(うち)給へば、牛の尾、切れ落ちて、再び、僧の貌(かたち)となる。其の牛の尾、拂子(ほつす)と作(な)して、今に有るなり。

[やぶちゃん注:「常州宇宿、金龍寺」茨城県龍ケ崎市若柴町(わかしばまち)にある曹洞宗太田山(おおたさん)金龍寺。現在は、一都九県に亙って末派寺院百五十有余を有する寺。開基は新田義貞の孫貞氏で、祖父の霊の鎮魂と顕彰のために応永一四(一四〇七)年に上州太田の金山に建立されたが、とある事情から金山城から桐生城に移った際に、寺も一時、桐生に移転された。越えて後の天正一八(一五九〇)年新田家後裔である由良国繋が「小田原攻め」の際の軍功により、常州牛久城主に転封され、この時、寺も牛久(うしく)へ移っている(「江戸怪談集(中)」の注では、天正一八(一五九〇)年から寬文六(一六六六)年の間、牛久にあったとする)。「宇宿」は、則ち、現在の茨城県牛久市のことなのである。後に、寺を現在地に移して安置したものである。以上は概ね、個人サイト「龍ヶ崎・若柴の散歩道」の同寺の記載に拠った。

「納所」納所坊主。禅寺で会計・庶務を取り扱う下級僧。仕事柄、世俗との縁が切れないため、「無道心者」と言われるのは、少し同情する余地があり(大衆が憐れむのも、そこにある)、それが、最後の人へ戻るところで、ほっとさせる。

「大衆」この場合は、同僚の多くの僧たちを指す。

「一拶して」「江戸怪談集(中)」の注に、『さっと近づき』とある。

「座具」曲彔(きょくろく)。法会の際に、禅僧が腰掛ける椅子で、背凭れと肘掛けとを丸く曲げて造り、足は折り畳める交脚式(普通の固定の椅子型もある)が知られる。この時のそれもその交脚式のものであろう。かなり大きなものであり、彩色も朱に金で、けばけばしいものが多い。それが、ここでは映像的にダイナミックに、さらにキラっと光っていい感じに撮れる。

「拂子」獣の毛などを束ね、これに柄(え)をつけた仏具。サンスクリット語の「ビヤジャナ」の漢訳。葬儀などの法事の際、導師を務める僧が所持するが、元来は、インドで蚊などの虫を追い払うために用いたもので、後には修行者を導くときにも利用される。その材料に高価なものを使用することは、他人に盗みの罪を犯させるとの理由から禁止された。中国では禅宗で住持の説法時の威儀具として盛んに用いられ、本邦では鎌倉以後に禅宗で用いられるようになり、真宗以外の各宗で用いられている。]

 

〇最上(もがみ)に有る淨土寺の、春也(しゆんや)と云ふ塔頭坊主(たつちうばうず)、齋(とき)より歸る每(ごと)に、座しても睡り、臥しても睡り、常住、睡りを好みけり。

 旦那、來たりて見るに、牛、衣を著て、臥し居(ゐ)たり。不思議に思ひ、外面(そと)へ出でゝ、呼びけるに、起き來たれば、亦、僧なり。

 切々(せつせつ)、かくの如くしけるが、終(つひ)に、生きながら、牛と成りたり。

 最上にて、隱れなきことなり。

 鳥井左京殿、代なり。

[やぶちゃん注:「最上」最上地方山形県北部地域の広域地名。

「塔頭坊主」寺中の子院の住職。禅宗の塔頭は一つの寺格相当の寺格を持つ。

「齋」これは禅宗で一日に一回と定められた午前中のただ一度の食事を指す。則ち、この僧はろくに座禅もせず、寝てばかりいたのである。恐らくは、病的なもので、重度のナルコレプシー(narcolepsy)或いは特発性過眠症である。

「切々」ここは、「その折り毎(ごと)に」の意。

「鳥井左京」「江戸怪談集(中)」の注に、出羽『山形藩主鳥居左京亮忠恒。寛永十三』(一六三六)『年、三十三歲で死去したが、その家督相続をめぐって、他家へ養子として出した弟定盛を指名し、幕閣の摘発を受けて、所領没収された。』とある。当該ウィキによれば、彼は、『正室との間に嗣子がなく』、『異母弟』の『忠春とは、その生母と仲が悪かった』『ため』、『臨終の際に忠春を養子とせず、新庄藩に養嗣子として入っていた同母弟』の『戸沢定盛に家督を譲るという遺言を残した。しかしこれは、幕府の定めた末期養子の禁令に触れており、さらに病に臨んで後のことを考慮しなかったとして』、『幕府の嫌疑を招いた』。『この事態に関して』、『大政参与の井伊直孝が「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」とした上で「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」としたため、幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」』(「寛政重修諸家譜」)『として、所領没収となった』。『もっとも、忠政と井伊直勝(直孝の兄)の代に正室の処遇をめぐって対立した』自身の『両家の旧怨を知る直孝によって、鳥居家は改易に追い込まれたという説もある』(「徳川実紀」)。但し、『祖父元忠の功績を考慮され、新知として信濃高遠藩』三『万石を与えられた忠春が』、『家名存続を許された』とある。]

 

〇三州、岡(をか)と云ふ村の近邊、江村(えむら)と云ふ處に、聚泉(じゆせん)と云ふ獨庵坊主(どくあんばうず)、伯樂(ばくらう)を業(げふ)として、世を渡りけり。

 寬永十六年の春、不圖(ふと)、煩ひ付(つ)きて、百日程、馬の眞似して、雜水(ざふすゐ[やぶちゃん注:ママ。])を馬桶(うまをけ)に入れて呑ませ、即ち、厩(うまや)に入れ置くに、四つ足に立ちて、足搔きして、狂ひ、力、强く、氣色(けしき)怖しくなり、卅八歲にて死にけり。

[やぶちゃん注:「三州、岡と云ふ村の近邊、江村」思うに、愛知県北名古屋市沖村岡ではあるまいか。ここの北部分が「江村」でそれを「沖村」と誤ったか、地名を隠したものかと思うのである。

「獨庵坊主」「江戸怪談集(中)」の注に、『一人住みで小庵に住む僧を呼ぶ慣用語』とある。但し、彼は「伯樂(ばくらう)」、則ち、博労で、あろうことか、生類である馬を売買をして生計を立てていたのであり、既にして破戒僧である。

「寬永十六年」一六三九年。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「二 亡者引導師により輪回する事 附 引導坊主に憑き行き事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

    亡者引導師により輪回(りんゑ)する事

     引導坊主に憑き行き事

 右の源高長老、東三河ぎやうめいと云ふ村の旦那、死にけるを、吊(とむら)ひ、火葬するに、頭(かしら)、餘所(よそ)へ飛んで、同體[やぶちゃん注:ママ。「胴體」。]ばかり燒けたり。

 三日の灰よせに、見出し、亦、燒くなり。

 然るに、源高長老、死後の後(のち)、三年過ぎて、彼(か)の亡者、我娘に憑いて、口をきく事、怖ろしき有樣なり。

 並(ならび)の村、升岡(ますをか)に、全鏡と云ふ僧あり。施餓鬼を賴み、吊ひけれども、少しも印(しるし)なし。

 其時、處の庄屋、云ひけるは、

「汝は源高と云ふ善知識の引導を受けながら、何とて斯樣(かやう)に迷ふぞ。」

と云へば、娘、聞きて、

「能い善智識や。其(その)源高は、牛鬼(うしおに)と成りて、大きなる火の車を引き、若(くる)しみを受け給ふ。其緣に依(よつ)て、我も若(く)を受くるなり。然(さ)れども、我は、まだ、輕きゆゑ、人にたゝりて、茶をも、呑むなり。」

と云ふ。然(さ)れども、彼(か)の娘、狂氣は、終(つひ)に休(や)む事なきゆゑ、親類共、爲方(せんかた)なく、妙嚴寺(めうごんじ)に、源高の隱居、牛雪和尙再住の時、伴(つれ)て行き、庫裡(くり)に置き、

「此狂氣を救ひ給へ。」

と賴む故、樣々、吊ひて、是を救ひ給ヘり。

 折節、本秀和尙、見舞に至り、彼の娘を見たまふなり。

[やぶちゃん注:本篇の登場人物で、閻魔大王の地獄到来の遅延に関する督促状を改竄し(但し、地獄落ちはそれ以前に決定(けつじょう)していたわけだが)、今、現に、地獄に落ちている高僧源高の話は、前条の第一話に詳しい。続編型を成し、しかもそれが、条として直に並んでいるのは、本編では特異点である。しかも、ダーク・アクターとしてだから、非常に珍しい(他に牛雪和尚と本秀和尚も再登場で、本秀がこの二話を同時に正三に語った結果としてこうした形となったと考えてよい)。なお、前話で源高の逝去したのを「寬永十五年十二月」「廿八日」(一六三九年一月三十一日)としているので、本話の時制は、寛永十七年(数え)か、十八年となる。

「東三河ぎやうめい」不詳。愛知県瀬戸市岩屋町(いわやちょう)に暁明ヶ滝(ぎょうみようがたき)という瀧ならばある。

「升岡」不詳。古い地図も確認したが、岩屋町周辺には認めない。

「能い善智識や」この「や」は反語。「何が、よい善知識なもんかッツ!」と激怒した謂いである。前条の通り、地獄行きが決まっているのに、どういう訳か、地獄へ行くのが遅れていたため、閻魔大王が使者を送って地獄への召喚状を送ったにも拘わらず、その書状の文字を偽造して、地獄行きを千年先まで遁れようとしたトンデモ売僧(まいす)長老だったのであったから、この亡者の怒りは尤もなわけである。

「牛鬼」本邦で特に西日本で知られる妖怪(妖獣)。頭が牛で、首から下が鬼の胴体を持ち(または、その逆)、概ね非常に残忍獰猛で、毒を吐き、人を食い殺す。しかし、ここでは、閻魔が書状改竄に怒った結果か、地獄に落ちただけではなく、そこで火の車を引く牛鬼に変えられ、地獄で使役される畜生に堕しているのである。これは、曹洞宗の善智識と称された長老の末路がこれというのは、なかなか痛快で、胸が透く気分さえする。

「我は、まだ、輕きゆゑ、人にたゝりて、茶をも、呑むなり。」この余裕が、珍しく、微笑ましく感ぜられる。これも特異点である。

「妙嚴寺」前条ほかで、既出既注。

「源高の隱居、牛雪和尙再住の時」ここは、縮約で判り難くなっている。生前の「源高の隱居」が「妙嚴寺」長老となって、前条の通り、急逝してしまったため、急遽、賀茂に隠棲していた「牛雪和尙」が、「妙嚴寺」の住持として「再住」した「時」の意である。]

 

〇尾州遠島村(とほしまむら)の一向坊主、亡者を吊ひけるに、彼(か)の亡者、頸(くび)一尺程、長くなり、眼(まなこ)一つ有つて、彼(か)の坊主に、離れず、憑き步きたるなり。遠島、隣江(りんこう)の者、

「二人、見る。」

と確(たしか)に語るなり。正保四年亥の春の事なり。

[やぶちゃん注:「尾州遠島村」愛知県あま市七宝町(しっぽうちょう)遠島と思われる。しかし御覧の通り、ここは内陸で、海辺ではない。しかし、村の東端を福田川が流れており、遠島に接して東北の福田川右岸に、七宝町沖之島地区があるのである。後の「隣江」というのが、「入り江」ではなく、「同じ川に接した隣り村」の意でとれば、甚だ腑に落ちるのである。

「正保四年」一六四七年。]

2022/10/10

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「一 閻魔王より使ひを受くる僧の事 附 長老魔道に落つる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

因果物語下卷

 

    閻魔王より使ひを受くる僧の事

     長老魔道に落つる事

 三州土井川(どゐがは)、妙嚴寺(みやうごんじ)、源高(げんかう)長老、師匠と公事(くじ)をして、二、三年、江戶へ詰め、御奉行衆へ、目安を上げ、寺を請取(うけと)りけり。

 其後(そのゝち)、濱松普濟寺(ふさいじ)の輪番(りんばん)に當つて、住す。

 然(しか)るに、寬永十二年の春、

「閻魔王よりの使ひ。」

とて、夢に告(つげ)て、

「十年の約束なり。早々、來れ。」

と書狀を持ち來り、

「是、見給へ。」

と云ふ。

 其狀を披見するに、十年、過ぎたり。驚き、夢ながら、傍らなる硯の筆を取り、「十」の字の頭(かしら)に、一點、打(うち)て、「千」の字にし、

「此狀、僞(いつは)りなり、急度(きつと)、歸り給へ。」

と云ふ。

 彼(か)の使ひ、

「慥(たしか)、十年と、閻魔王、仰せけるが、『千』の字なれば、先づ、歸らん。」

と云ふ。

 住持、緣(えん)まで送り出でられければ、客殿(きやくでん)の前に、怖ろしき鬼神(おにがみ)二人、鐵棒を提げ、繩を持ち居(ゐ)たり。

 住持、これを見て、殺入(せつじ)したり。

 强く呻(うな)る聲、高きを聞いて、僧達、起き來つて、

「何事ぞ。」

と問ひければ、

「扨々(さてさて)、不思議なる怖ろしき夢を見たり。先(ま)づ、汗を拭(ぬぐ)へ。」

と云ふ。

 見れば、誠(まこと)に、水中より出でたる如くなり。

 其後(そのゝち)、退院して、妙嚴寺にて、此報謝に、末寺の僧達を聚(あつ)め、日待(ひまち)をし給ふ。

 長老、方丈に眠り居(ゐ)給ふに、亦、若(くる)しき聲、高し。

 僧逹、走り入りて起し、氣を付けて、聞きければ、

「唯今、鬼神、來つて、既に引立(ひきた)て行かんとするを、漸(やうや)く、もぎり、放したり。」

とて、大汗を流しけり。

 扨、隱居牛雪(ぎうせつ)和尙、賀茂と云ふ處に住し給ふに、態(わざ)と行きて、兩度の夢を、懺悔(さんげ)し給ふ。

 さる程に寬永十五年十二月廿七日に、篠田(しのだ)と云ふ處に、旦那、死して、彼(か)の源高長老、吊(とむら)ひに出で給ふに、旦那の門(もん)の前にて、馬より落ちて、殺入(せつじ)するを、漸く、氣を付けゝれば、

「我に、少しも、虛妄(きよまう)、なし。是、迷惑なることかな。」

と云うて、其後(そのゝち)、物言ふ事なく、性(しやう)を失ひて居(ゐ)たるゆゑ、伴(はん)の僧、亡者を吊ひ、長老は乘物にて寺へ歸り給ふ。

 同(おなじ)く廿八日に、總身、赤くなり、火(ひ)の病(やまひ)を受け、叫ぶ聲、大(おほい)にして、牛の吼(ほゆ)るが如くに、色々、若痛(くつう)して、終(つひ)に死去す。即ち、隱居、再住(さいぢう)し給ふ。時に、本秀和尙、見舞ひ給ふなり。

[やぶちゃん注:「三州土井川、妙嚴寺」日本三大稲荷の一つである「豊川稲荷」の通称で知られる、愛知県豊川市豊川町にある曹洞宗円福山豊川閣妙厳寺(えんぷくざんとよかわかくみょうごんじ)。

「源高長老」不詳。

「公事」訴訟及びその審理。裁判を指す。法灯上或いは本寺末寺間の、檀家或いは別な寺との何らかの争い等を指す。

「目安」訴状。

「濱松普濟寺」静岡県浜松市中区広沢にある曹洞宗は広沢山普済寺(こうたくさんふさいじ)。妙厳寺は普済寺の末寺である。

「輪番」特定の寺の住職を、複数の同宗の寺院で持ち回りでする制度。

「寬永十二年」一六三五年。

「十年の約束なり。早々、來れ。」よく判らないが、「寛永十年に地獄に出頭する約束であるはずだ。早々に、来たれ。」の意か。当初、「今から、十年、地獄にて冥官として務めをすることになっている。」の意かとも思ったが、後で連行のための鬼卒までついて来ているからには、この僧の地獄行きは既に定まっているのでありからして、前者であると思う。

「慥、十年と、閻魔王、仰せけるが、『千』の字なれば、先づ、歸らん。」使いの書状を偽造して、閻魔大王は「十年」と仰せになった、と使いのお前は言っているが、正式な冥官の記した書状には「千年」と書いてある。されば、食い違っておるから、その方、まず、地獄へ帰って、その不審を明らかにせねば、私は行かぬ、とやらかしたのである。

と云ふ。

「殺入(せつじ)」既出既注。「絕入(せつじゆ・せつじ)」に同じ。気絶すること。

「退院して、妙厳寺にて、此報謝」輪番住持であった普濟寺から退院を、何事もなく成し得たことへの、仏縁の「報謝」を妙厳寺で、僧衆を集めて行ったというのである。この前の奇体な夢事件での妙厳寺の僧たちへの「報謝」ではないので注意。

「日待」民間信仰のそれは既出既注であるが、個人サイト「あいのホームページ」の「日待・月待とは?」に、『「仏教においては十五日の月は弥陀の化現とされ、発菩提心や悟境に達するなどのたとえに用いられてきた。その月の姿により、円満無礙(むげ)や西方指向などの譬喩にもつかわれていた。この思想をふまえ、わが国でも平安、鎌倉の時代に十五日の月を礼拝する宗教的儀礼を伴った行事として夜もすがら月にむかい、勤行看経することが行なわれてきた。」他方、「月は勢至菩薩の化現であると説く経典があり、また三十日仏説では勢至の有縁日は二十三日とされている。そこで、月に対する礼拝は二十三夜に行なうのが本筋であるとする考えから、いわゆる二十三夜の月待が室町時代から仏家で盛行するようになった」というのが小花波氏の見解である』とあった。私はこの部分こそが、その見解の有力な一例であるように思われる。

「氣を付けて」魘されているのを、呼び起こし。

「牛雪和尙」既出既注

「賀茂」京都の賀茂であろう。

「態(わざ)と」わざわざ出向いて。

「兩度の夢を、懺悔(さんげ)」(読みは底本は「ざんげ」。かく、清音にしたことは既注済み)「し給ふ」ここは、夢の中で字を書き変えたことを言わなければ、一度目の夢の懺悔には成らないから、牛雪にはそれを告白していたのである。さればこそ、牛雪のみがその冥途の文書改竄の夢中での事実を知っていた、それを、再住した「隱居」牛雪和尚から、本秀和尚(既出既注)が牛雪を見舞った折りに、その事実を、初めて伝え聴いたのである。だからこそ、ここにそれが記されてあるのである。

「寬永十五年十二月廿七日」一六三九年一月三十日。

「篠田」愛知県あま市篠田か。

「馬より落ちて、殺入する」「其後、物言ふ事なく、性を失ひて居たる」重篤な脳卒中辺りが疑われる。

「性を失ひて居たる」ぼんやりとして、ほおけた状態になること。]

 

○下總(しもふさ)の國山梨村、大龍寺(だいりうじ)、祖龍(そりやう)長老、寬永十五年の冬、江湖(こうこ)を置き、少し、法門の上手なるに依(よつ)て、尊(たつと)ばれて、慢心、深かゝりけるが、半夏(はんげ)時分に、老僧衆、二、三人を呼び、向上(こうじやう)の事を談じて、

「我顏(わがおもて)、如何樣(いかやう)なりや。」

と云ふ。皆、

「常の如し。」

と云へば、

「汝等(なんじら)、見知らず、見知らず。」

と云ふを見れば、即ち、鼻八寸程になつて、口、耳の根まで切れたり。

 僧達(そうだち)、驚き見る處に、長老、眼(まなこ)を噴(いか)らかし、口を張りて、

「杉の木の下(した)にて、我を呼ぶ間(あひだ)、唯今、出づる。」

と、跳(おど)り上(あが)り、叫び、狂ひけるを、漸(やうや)く取り留め、組伏(くみふ)せて、大衆(だいしう)、集(あつま)り、取廻(とりまは)して、「般若」をくり、「心經(しんきやう)」を誦(よ)む。

 餘りに口を利(き)くゆゑ、「理趣」分(りしゆぶん)一卷(くわん)、口の中へ、押し入れけるに、易々(やすやす)と入りたり。

 大衆、强く祈りけれぱ、山々の天狗、名乘(なのり)て、退(しりぞ)く。長老は無性(むしやう)と成りぬ。

 扨(さて)、門前近處の者共、

「寺に、火事、有り。」

とて、夥しく馳せ聚(あつま)る。

「何事に來(きた)るぞ。」

と問へば、

「客殿の棟へ、火の手の上りたるを見る故に、急ぎ、參つて見れぱ、然(さ)は、なし。」

と云ふ。

 それより、晝夜(ちうや)の差別なく、七日七夜(や)、祈り責めければ、鼻、直り、口、癒(い)えて、漸く、本復(ほんぶく)して曰く、

「深く寢入りて、何の覺えも、なし。」

と。

 人の委しく語るを聞きて、自ら前非(ぜんぴ)を悔(く)い、三年を經(へ)て、死去す。

 其時の首頂(しゆちやう)辰春(しんしゆん)、多衆を率(ひ)きたる事なれば、關東に隱れ無き事なり。

[やぶちゃん注:「下總の國山梨村、大龍寺」千葉県四街道市山梨の曹洞宗大龍寺

「祖龍長老」不詳。

「寬永十五年」一六三八年十一月から翌年一月に相当。

「江湖」「がうこ」が正しい。「江湖會」で「がうこゑ」と読むのが正しい。禅宗の、特に曹洞宗に於いて、四方の僧侶を集めて行なう夏安居(げあんご:多くは旧暦四月十五日から七月十五日までの九十日をその期間とした)の行を行うための道場を指す。本邦で夏の梅雨時と暑い時期を、行脚ではなく、屋内での座禅行を修する時期に当てたものである。

「半夏」夏安居の結夏(けつげ)と夏解(げげ)との中間、つまり、前注の九十日に亙る安居の四十五日目の称。

「向上」迷いの境涯から悟りの境に入ること。そこで得られた悟りの智見をも指す。

「八寸」二十四センチメートル。

『「般若」をくり』法要である「大般若轉讀」をすることを言っている。大乗仏教の最初期の経典群である大般若経六百巻を短時間に読み上げるもの。例えば、三十人の職衆(しきしゆう)に二十巻ずつを分担させるなどした上で、「転読」という速読法を修する。これは、元は、巻物仕立ての経を転がしながら目を通すことから出た言葉であるが、この法要では折り本に仕立てた経文を用い、表裏の表紙を、両方の手で支え、経巻を、右、又は、左に傾けながら、本文の紙を、ぱらぱらと一方へ落とすようにする。その際、経題だけは毎巻、大声で読み上げるのである。

「心經」「般若波羅蜜多心經」(はんにゃはらみったしんぎょう)。

「理趣」「理趣經」。正式には「般若波羅蜜多理趣百五十頌」(はんにゃはらみったりしゅひゃくごじゅうじゅ)という。密教経典の一つ。

「無性」ぼんやりとして、ほおけた状態になること。

「首頂」その時の大龍寺での夏安居の僧衆を束ねた僧の意であろう。

「辰春」不詳。

「關東に隱れ無き事なり」主格は「祖龍に纏わる奇怪な一件」である。]

ブログ1,830,000アクセス突破記念 梅崎春生 春の月

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二七(一九五二)年三月号『新潮』に掲載され、後の作品集「ボロ家の春秋」(新潮社昭和三〇(一九五五)年刊)に所収された。

 底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年七月沖積舎刊)に拠った。

 傍点「﹅」は太字に代えた。文中に注を添えた。能の詞章の内、不動明王の真言の部分は、読みを句読点を字空けとして、台詞の後に纏めて配し、同じく詞章に用いられている踊り字「〱」は正字化した。私は、電子化された「/\」「/゛\」や「〱」「〲」の、電子化表記に対して、激しい生理的嫌悪感を感じるからである。そもそも私は六十五の今までの生涯で、一度も「〱」「〲」の踊り字を書いたことがないのである。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日未明、1,830,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】]

 

   春  の  月

 

 たとえばある日の夕方です。

 たった今、日が沈んだばかりで、西の方の空はあざやかな夕焼です。赤や黄や青や、それらが微妙に混合し、その色彩も刻々変化して、まるで華やかな空のお祭りのような具合なのです。オムレツ型の雲に鱈(たら)の子色の雲、番傘雲やがんもどき雲、中には幼児の緑便みたいな色あいの雲もあって、なかなかにぎやかな眺めでした。

[やぶちゃん注:「幼児の緑便」時に幼時がする緑便(りょくべん)。黄色い大便が濃くなったように緑色を帯びたもので、これは便が酸性になって、黄色い胆汁が酸化され、緑色に変化したもので、特に母乳での育児の場合、含まれる乳糖が乳酸菌の生成を促し、便が酸性化する傾向があることから、緑色になり易い。同時に甘酸っぱいような臭いがするのを特徴とする。乳酸菌は腸の働きを促すため、大便が程よく酸性なのは健康な証拠である(以上は信頼出来る小児科医による記事を参考にしたが、実際の便の写真が添えてあるので、リンクは張らないことのした)。]

 月が出ていました。

 空はまだ一面に明るいのですから、これはしらじらと透き通って、置き忘れられた鋲(びょう)みたいに、ひっそりとかかっています。その表面のうすぐろい斑点も、何時になくはっきり眺められました。れいの兎(うさぎ)の形に見えるというあれです。兎だと言うから、兎にも見えますが、狸(たぬき)だと言えば、狸に見えないこともありません。つまりこれは、見る人の感じによって、何にだって見えるようなものです。そういう斑点を浮べて、空の一角に、その月はこっそりと貼りついていました。月齢から言えば、十夜か十一夜というところでしょう。白っぽい、いびつな楕円形(だえんけい)でした。

 地上には、坂がありました。

 その日の午前中まで、数日間降りつづいた雨のために、斜面はじとじとと濡れ、ところどころ水溜りさえ出来ていました。それぞれの形に夕焼の色をうつして、赤や黄や紫にかがやいているのです。その水溜りを避け避け、のろのろした足どりで、この狭いだらだら坂を登ってくる一人の男がありました。

「なんだ。ちょっと鶉(うずら)の卵に似てやがるな」

 椎(しい)の木のてっぺんに引っかかったその夕月の形を見て、須貝はそう呟(つぶや)きました。須貝というのは、その男の名前なのです。そして彼は急に憂鬱そうな顔になり、ちぇっと舌打ちをしました。鶉のことを考えるのは、あまり愉快なことではなかったからです。斑点を浮かせた楕円の月の形は、そう言えば、鶉の卵に似ていないこともありませんでした。

「ふん。面白くもない」

 須貝は今年二十七歳になるのですが、背後から見ると、三十五歳か、もっとそれ以上に見えました。それはひとつには、着ている服の関係もあるのです。灰色の生地で、それほど地味な色あいでもありませんが、どこか身体に合っていなくて、変にじじむさい感じがするのでした。

 須貝はこの服を、ついこの間買ったばかりですが、自分ながらあまり好きではありませんでした。でも仕方がなかったのです。都庁に勤めていて、月給もそれほど貰っている訳ではないのですから、服を新調する余裕がどうしても出ない。新調するにはどうしても、一万円ぐらいは確実にかかるのです。そこで須貝は、放出中古服という割安な服の売場で、やっとのことでこれを買い求めたのですが、買ってはみたものの、手を通してみると、寸法は一応合っているようなのに、どこかぴったりしない感じなのです。肩のへんが詰まったような気味で、自然と背が前屈(まえかがみ)みになるらしいのです。同僚たちも老人くさいと批評するし、自分でもそういう感じがする。ことに谷川魚子が、変な服ね、と批評して以来、須貝はひどく後味の悪いような気分になっているのでした。谷川魚子というのは、須貝の近頃の恋人なのです。もすこし吟味して買えばよかった。すこし急ぎ過ぎた。毎朝この服を手にとるたびに、彼はしみじみとそう後悔します。これはきっとアメリカの片田舎の小柄なお爺さんが着ていた服に違いない。年寄りくさく見えるのは、多分そのせいだろう。どうもしまったことをした。

 くたびれたような足どりで、やっと坂を登りつめた頃、夕焼雲の七彩はいくらか色褪(いろあ)せ、周囲の方から光を失い始めていました。しかし須貝はそれに眼もくれず、肩を前に落したような姿勢で、のろのろとそこの路地に曲り込みました。鶉のことが頭にしみついて、顔を上げる気にもならないのでした。板塀のなかから、子供たちの合唱が聞えてきます。須貝が間借りをしている、その家の子供たちの声でした。

 

  夕焼けこやけで日が暮れて

  山のお寺の鐘が鳴る

 

 なにが山のお寺だと思いながら、須貝は急に怒ったような顔になり、くぐり戸を手荒にがらりとあけ、内に入りました。すると子供たちの歌がぴたりとやみ、口々に、

「須貝のおじさんが帰ってきたよう」

「須貝のおじさんが帰ってきたよう」

 そして小さい跫音(あしおと)がばたばた鳴って、台所の方に報告に走って行った様子です。須貝はそのままぶすっと表情をくずさず、口をとがらせ、ひょいひょいと猫のような歩き方で狭い庭を横切り、自然石の沓脱(くつぬぎ)ぎのところに足をとめました。そこは一間幅ぐらいの、廊下とも縁側ともつかぬ、中途半端な板の間になっていました。そこを一目で見渡した時、須貝の眼はぎろぎろっと二倍ほども大きくなり、頰や額にもざっと血が上ってきたようです。そして奥歯のあたりが、かすかにぎりぎりと鳴った模様でした。

[やぶちゃん注:「一間」一メートル八十二センチ弱。]

「まだいやがる」すこし経って、棒立ちになったまま、須貝はうめくように呟きました。「なんという横着な鳥どもだろう」

 その時板の間の片すみで、ギヤッというするどい啼(な)き声がしました。そこには蜜柑箱(みかんばこ)を横にして三段に積み重ね、金網を張り、その中に茶褐色のものがいくつもうごめいているのです。大小十二羽の鶉なのでした。ひしめき合ってむくむく動き、続けてギャッギャッとかしましく啼き立てました。須貝の姿を見て、餌を呉れるものと勘違いしたのでしょう。この鶉たちは、ここに飼われるようになってから、まだ三日しか経たないので、その勘違いも無理はないのです。しかし須貝にとっては、そんなことも忌々(いまいま)しい限りでした。金網を破って引っぱり出して、一羽々々しめ殺してやりたい程なのです。それほどこの啼き声が癪(しゃく)にさわっているのでした。この三日間彼がほとんど不眠の状態にあるのも、この啼き声のせいなのです。鶉という鳥は妙な鳥で、夜中になると、ことにギャッギャッと啼き立てるのです。その声のするどいことと言ったら、まるで耳に針金をさし込まれるような感じがするほどでした。

「何たる横着!」

 須貝は鶉の方をにらみつけながら、そう口に出して言い、乱暴に靴を脱ぎました。板の間の向う、障子ひとつ隔てたところが、すなわち須貝の部屋になっていました。八畳の部屋で、間代は月に千五百円です。彼は一年ほど前から、この部屋を借りて住んでいるのでした。

[やぶちゃん注:「鶉」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を見られたいが、鳴き声は、短いが、YouTubeのstormfish氏の「うずら飼育 うずらの鳴き声(オス) 夜」がよい。これが十二羽いたら、たまったもんじゃないな。]

 この鶉たちのいる板廊下が、その八畳の部屋に付属しているかどうか、それがもっぱら昨日の論争の焦点なのでした。論争の相手はもちろん、この家の女主人です。それは背が低い、頭の小さな、でっぷりと肥満した未亡人でした。その時彼女はきんきん声で、早口でこうまくし立てたのです。

「あたしはね、八畳間は確かにお貸ししましたけれどね、廊下まではお貸ししませんよ。ええ。この廊下はうちのものですよ。鶉を飼おうと牛を飼おうと、あたしの勝手ですよ」

「そんな無茶な」と須貝はひたすら抗弁しました。「廊下は部屋にくっついてるというのは、社会の通念――」

「通念も残念もありませんよ。あたしがお貸ししたのは、部屋だけです。それもたった千五百円ですよ。よそ様では、一畳あたり二千円も取ってるというのに。廊下のことまでに口を出されて、それで引き合った話ですか!」

「でも、眠れないんですよ。啼き声がやかましくて、昨夜なんか、僕は全然眠っていないんです」

「そりゃ啼きますよ、鶉ですもの。啼かない鶉があったら、お眼にかかりたい位だわ」灰色のしみがぽつぽつとある小さな顔をふりふり、女主人は言いつのりました。「あたしだってね、好きで飼ってるんじゃないんですよ。鶉の卵でも売らなければ、暮しては行けないんですよ。部屋代たった千五百円ぽっち貰って、それで母子四人がどうして食べてゆけますか。そうでしょ。ええ。そうじゃないとでもおっしゃるの」

 須貝は昔から言い争いは不得手な方で、ことに女相手のそれは苦手なのでした。何時も一所懸命やっても、だんだん言い負かされてくるのです。しかしここで退いては、神経衰弱になってしまうのは必定(ひつじょう)ですから、彼は最後にほとんどやけくそになって怒鳴りました。

「とにかく明日までに箱を片付けて下さい。そうでなければ、僕には僕の考えがある!」

 今日の昼間、役所で事務を執(と)っている間も、ともすれば鶉のことが頭に浮んできて、須貝はその度に帳簿を書き損じたり、インク壺を引っくりかえしたり、へまばかりやっていました。煙草と間違えてハンコを吸ったりして、給仕に大笑いをされたくらいです。寝不足でいらいらしているので、彼は自分のその失敗を、一緒に笑う気にもなれませんでした。

『あの婆(ばば)あ、いよいよ本式に俺を追い出すつもりなんだな』

 女主人が部屋代を上げたがっていること、しかも一足飛びに一万円にしようとしていることを、この間から須貝はうすうすと知っていました。でも彼はそれにとりあわなかったのです。なにしろ給料が一万円足らずですから、とりあうわけには行かなかったのでした。そこで女主人は、彼を追い出して、新しい人を入れようと考えたに違いありません。遠廻しな皮肉などを言っていやがらせを始めたのは、大体一箇月ほど前、つまり須貝があの服を買った頃からです。女主人にして見れば、部屋代の件にはそっぽむく癖に、洋服などをちゃんと買い込んだ須貝に対して、たいそう腹を立てたのかも知れません。することなすことが陰険になってきて、たとえばある日、須貝があの板廊下にあがったとたんに、すってんと辷(すべ)って転んだこともあるのです。何時の間にかそこには蠟(ろう)がこてこてと塗ってあるのでした。彼が家の中を用心深く猫足で歩く癖がついたのも、それ以来のことでした。靴の中に石ころや木の葉が入っていたり、瓶のインクが突然水に代っていたり、そんな奇怪な現象にもひたすら隠忍自重しているうちに、とうとうある日のことその廊下に、鶉が十二羽も運ばれてきたという訳でした。須貝も内心意地になっていましたから、鶉ぐらいが何だと初めは軽く考えていたのですが、その啼き声を聞くに及んで、これは放って置くわけには行かなくなったのです。それはつまり、女主人の作戦が図にあたったということでした。夜中に聞くとその鶉たちの、残忍な復讐の執念につかれたような啼き声は、その度にぎょっと彼の眠りを脅(おび)やかしてくるのでした。それが今日でもう三日になるのです。

 乱暴に靴を脱ぎ捨てると、須貝は用心深く板廊下に立ち、寝不足の眼をくゎつと見開いて、鶉箱の方をじっとにらみつけていました。母屋の方からは、何の物音も聞えません。子供たちの歌も止んだようです。耳に入ってくる音響と言えば、かしましくにぎやかな鶉たちの啼き声ばかりでした。

『なんと不恰好(ぶかっこう)な、やくざな鳥どもだろう!』

 背が茶褐色のその鳥たちは、頭が小さく尾は短く禿(は)げ、全体にぶよぶよとしまりなくふくらんでいます。腹部は赤色で、灰色の斑点などを点々と浮かせているのです。その不恰好なやつが十二羽も、蜜柑箱の中にひしめき合っているのでした。

「まったくあの婆あにそっくりだ」

 須貝は身体の向きを変え、そっと障子を押しあけ、自分の部屋に足を踏み入れながら、はき出すように呟きました。そう言えば、その灰色の斑点の感じ、顔や頭が小さいのにぼってりと肥満した体つきなど、どことなく女主人に似ているのでした。それから彼は薄暗い部屋を猫足であるき、ぱちんと電燈をつけました。すると部屋の中の貧しい道具や家具類が、しらじらと彼の視野に浮き上ってきました。そして須貝の視線は、すみの机の白い一枚の紙片の上にふと止りました。彼は近づいてそれをひらひらとつまみ上げました。

 それは谷川魚子からのハガキでした。

『おハガキ見ました。今夜七時半いつものところに待っています。魚子』

 その簡単な文面を二度読みかえし、須貝は腕時計をちらとのぞきました。針は今五時半を指しています。須貝はすこしおだやかな表情になって、何かちょっと考え込んでいる風(ふう)でしたが、障子の向うから、とたんにまたギャッという啼き声がしたものですから、眉をびりっと慄わせて、いきなりそちらを振り向きました。

「よし。俺には俺の考えがある」

 しかしその呟きも、急に語尾が弱まってかすれたようです。それは単にむしゃくしゃしているだけで、考えも方針も対策も、何も彼にはなかったからでした。しかし彼は次の瞬間、とつぜん我慢できないような衝動にかられて、仁王立ちになったまま、両腕をでたらめな体操のように、乱暴に振り廻し始めました。そして勢いに乗って、レビュウガールのように脚をぴょんぴょんはね上げ、どしんどしんと畳を踏みならしました。相当はげしい動作だものですから、彼ははあはあと呼吸(いき)をはずませながら、それでもその運動を止めようとはしませんでした。するとすこし静まっていた障子のむこうでも、その音に刺戟されたとみえ、ふたたび啼き声がギャッギャッと上り始めました。そこで須貝はなおのこといきり立って、もうやけくそな勢いで両手両足を振り廻しました。

「廊下で鶉がなきわめく権利があるなら」と顔を充血させてあえぎながら、彼は飛んだりはねたりしました。「おれはおれの部屋であばれる権利がある」

 その騒ぎをよそにして、母屋の方はひっそりかんとしていました。実はこの物音で女主人をおびき寄せ、一文句つけてやろうと彼は思っていたのですが、いくら手足を振り廻しても、誰かがやってくる気配は一向にないようでした。須貝は疲れてきました。しかし行きがかり上、目がくらくらするような感じになりながらも、彼は必死の力をふるって、その体操を続行しないわけには行きませんでした。

 その時分、母屋の一室では、うすぐらい電燈の下で、女主人と子供三人が、ひっそりと貧しい夕食の卓に向っていました。麦混りのぼろぼろの外米飯で、おかずは大根の醬油煮が二切れずつだけです。食卓が小さいものですから、子供たちは雛鳥(ひなどり)みたいに押し合いへし合いして、その貧しい御飯をかっこんでいました。そこらで光がちらちらするのは、どしんどしんと家が振動して、電燈の笠がゆらゆら揺れるからです。みんな妙な顔をして飯をかっこんでいましたが、ついに辛抱できなくなったらしく、いっとう幼ない児が小さな声で母親に訊ねました。

「お母ちゃま。あの音なあに?」

 女主人は返事の代りに、じろっとその児をにらみつけました。それは食事中は黙って食べるというのが、この家のしつけだったからです。しかしその女主人も、先刻から箸はあまり動かさず、眉をびくびく動かしたり、眼をぎろりと光らせたりして、その音や振動の具合をしきりにはかっているふうな様子なのでした。そしてどすんという大きな振動を最後として、音がぴたりと止みました。なんだかそれは人間か何か、そんな大きさのものが、いきなり、畳にぶったおれたような響きでした。幼ない児がかすかな声でおそろしそうに呟きました。

「なんだかが落っこちたようだよ」

 そしてまたじろりとするどく睨まれて、その児はちょっと泣きべそをかきました。

 それから五分ほど経ちました。

 廊下をぴたぴたという用心深げな跫音(あしおと)が近づいてきました。つまりそれは辷(すべ)らないように、垂直に歩を踏んでいるらしいのです。女主人はその音を耳にすると、直ぐに箸をおろして、きっと身構えました。そして次の瞬間障子ががらりと開かれました。顔を突き出したのは須貝です。その須貝の顔は、疲労と睡眠不足で、眼のふちがくろずんでいました。女主人はさっと表情を緊張させ、いきなり片膝を立てました。向うが何か言ったら、すぐさま言い返してやろうと、もう口がむずむず動きかかっているのでした。

 しかし須貝は舌を抜かれたかのように黙ったまま、棒杭(ぼうくい)のようにそこに突立っていました。どこを見ているのか判らないような視線で、そこらをぼんやりと眺めているようでした。子供たち三人も箸を止め、おびえたように身を寄せ合い、まばたきもせず須貝の顔をじっと見上げていました。そこらは一瞬しんとして、へんに呼吸が詰まるような感じだったのです。誰かがごくんと唾を呑みこむ音が、はっきり聞えたくらいです。

 その時、須貝の表情が、急にくしゃくしゃと歪(ゆが)み、突立っていたその身体が、ふらふらと左右に揺れたようでした。それからその手がゆっくり動くと、障子がするするとしめられて、ひたひたと跫音が鳴り、それは鶉の廊下の方に遠ざかって行くらしいのでした。そこで子供たちは、そろって大きな息をふうと吐き、箸を握りしめたまま、一斉に母親の顔に視線をうつしました。母親はやっと片膝をおろして坐り直し、いくらかつっけんどんな、またいくらか力が抜けたような調子で口を開きました。

「さあ。さっさと食べてしまうんだよ。おしゃべりなんかしないでさ」

 うすぐらい鶉の廊下に腰をおろし、須貝は手探りで靴を穿(は)いていました。庭を横切り、静かにくぐり戸を押して表に出ると、夕焼色はあとかたもなく消えていて、あたり一面はもうすっかりねずみ色の夕闇です。楕円の月は煮〆(にし)めたような色を放ち、肋骨みたいな木の枝の間にぽつんとひっかかっていました。須貝は両手を上衣のポケットにつっこみ、肩をすぼめるようにして、だらだら坂をとっとっと降りて行きました。

「あれはたしか――」やがて坂を降り切った頃、須貝は自分に言い聞かせるように呟きました。「大根のお煮〆のようだったな」

 須貝はその時なぜともなく、小学生時代のある日のことを憶い出していました。それはある年の秋季運動会の日のことです。昼食時になって、友達はみんなめいめいの家族たちに囲まれて、校庭のあちこちで楽しげに重箱などを開いているのに、彼ひとりはアルミの弁当箱で、教室の机のかげにかくれるようにして食べたのでした。父は死に、母の手ひとつで育てられ、その母親も忙しくて、運動会を見になんか来れないのでした。さっきあの食卓に並んでいた大根の煮付けの印象から、少年時代の日をまざまざと呼び起したというのも、その頃の彼の弁当のおかずが、ほとんど毎日大根の煮〆ばかりだったからでしょう。おそらく運動会の日のそのおかずも、それだったに違いありません。今憶い出してもそれは、鹹(しお)からくほろ苦く、やるせなくなるほどの忙しい味わいでした。その記憶をふりはらうように、須貝はしきりに首をふりふり、駅の方にひたすら足を進めました。もうそこらはにぎやかな商店街になっていて、自転車のベルやラウドスピーカーの声、パチンコ玉のざらざら流れ出る音などが、かしましく耳のそばで交錯していました。ごちゃごちゃした人混みを縫って歩きながら、須貝は突然何か思い付いたように、垂れていた首をふっと上げました。そしてとある一軒の店の前に足を止めました。

 それは福徳住宅社という看板が出た、しごく小さな住宅案内業の店でした。そこは幅二間ほどのガラス戸に、隙間もなく紙きれが貼りつめてあって、貸間、貸アパート、売家、売店舗などなど、こんなに世間には空室や空家があるのかと思われるほど、貼紙がずらずらと並んでいるのでした。須貝の眼は、先ずその貸間の部に、ひたと吸いつきました。丹念に一枚読んでは次にうつるようにしながら、彼は頭のすみでひそかに思いました。

『鶉は啼きわめくし、子供らは大根の煮付けを食べてるし――』

 そして視線が移動するにつれ、彼はちょっと首をかしげたり、ほっと溜息をついたり、ぼそぼそと何か呟いてみたり、ぐふんと鼻を鳴らしたりしました。条件がいいと思えば権利金がむやみに高いし、値段が手頃だと思うと場所が遠過ぎたり、なかなかぴったりしたのが見当らないのでした。でも須貝はたゆまずに、視線を上段から中段へ、中段から下段へと、じりじりと動かしてゆきました。

『なにしろ俺の条件は、権利金なしの千五百円どまりだからな』

 そして彼の視線は、下段の一番端のところでぴたりと止り、それっきり動かなくなりました。眼がちかちかと光り、頰にもぽっと赤味がさして来たようです。その貼札には、こう書いてありました。

 

  貨室・当駅ヨリ約十分・高台閑静・八畳美室・一間幅

  廊下付・賃月一万・外人向

 

 そして側に小さな字で、

 

  目下居住者アレドモ近日中明渡シノ見込

 

『まさか俺の部屋では――?』

 疑惑の色が面上に色濃くただよい、彼は唇を嚙みながら、無意識のうちにとことこと足踏みしました。それからぷいとその店を離れると、前よりも急ぎ足になって、往来の雑沓(ざっとう)の中にまぎれこみました。

『おれは腹が減っているんだ』

 いらだちをなだめるように、須貝はそう思ってみました。さきほどの運動のため、じっさい腹も。ペこペこになっていたのです。とたんに胃のあたりがグウと鳴ったものですから、ポケットの小銭をちゃらちゃら言わせながら、須貝はたまりかねたように曲り角の外食券食堂に飛び込みました。

『あの婆さんも子供たちも、決して悪い奴じゃないんだ。決して。そしてこの俺も』

 食堂の丼飯もやはり麦混りのぼろぼろ飯でした。それを忙しくかっこみながら、須貝は強いてそんなことを考えました。怒ってばかりいては、消化に悪いと思いついたからです。

『その俺たちの尋常な人間関係を、何かが破壊しようとしているのだ。何かが!』

 そう思ったとたん、ギヤッというような音が近くで聞えたものですから、須貝はぎくりと顔を動かしました。それは食堂の奥でスイッチをひねったラジオの音でした。つづいて何かを解説するアナウンサーの声が、そこからがんがんと流れ始めました。粗悪なラジオらしく、声がしきりに割れて、耳にびんびんとひびいてくるのです。須貝はちょっと顔をしかめ、丼を顎(あご)にくっつけるようにして、ふたたび猛然と箸を動かしました。あの鶉たちの声を思い出したのでした。次の瞬間、ある暗い予感のようなものが、しずかに彼の胸にひろがってきました。

『俺がたまりかねて出て行くまで、あいつらは臆面もなく啼きつづけるのだろうな』

 彼は丼を置き、こんどは皿をとり上げました。皿の中にあるのは、もうあらかた食い尽した焼魚の骨と、あとは煮豆のかたまりだけです。彼はその煮豆を箸でしゃくって、ぐいと口の中に押し込みました。

[やぶちゃん注:「外食券食堂」第二次世界大戦中の昭和一六(一九四一)年から戦後にかけて、主食の米の統制のため、政府が外食者用に食券を発行し(発券に際しては米穀通帳を提示させた)、その券(真鍮製。紙では容易に偽造出来てしまうからであろう)を持つ者に限り、食事を提供した食堂。というより、これ以外の飲食店には主食は原則、一切配給されなかった。私がかつて古本屋で入手した昭和二〇年(一九四五)年十月の戦後最初の『文芸春秋』復刊号の編集後記には、調理人の手洟や蛆が鍋の中で煮えている、という凄絶な外食券食堂の不潔さを具体に訴える内容が記されてあった。小学館の「日本大百科全書」梶龍雄氏担当の「外食券食堂」の項によれば、戦後、外食券は闇値で取引されることも多くなり、昭和二二(一九四七)年入浴料が二円の当時、一食一枚分の闇値が十円もしたという例もある。しかし昭和二五(一九五〇)年ごろより食糧事情が好転、外食券利用者は激減し、飲食店が事実上、主食類を販売するようになってからは、形骸化し、昭和四四(一九六九)年には廃止された、とある。因みに、私は昭和三二(一九五七)年生まれであるが、「券」も「食堂」も記憶には全くない。本篇は昭和二七(一九五二)年発表であるから、その歴史のまさしく黄昏時に入った時期と言え、主人公の窮乏も同時に感じさせるものである。]

 

『このひとの口は、今日は鶉豆のにおいがするわ』

 胸をぎゅっと抱かれ、唇をひたと押しつけられながら、谷川魚子は無感動にそんなことを考えていました。眼は見開いたままです。近頃では、彼と接吻する時にも、眼を閉じるような気分には、どうしてもなれないのでした。上にかぶさる男のもじゃもじゃ髪のすきまから、赤い月がちらちらと見え、彼女の眼はそれをぼんやりと眺めていました。

[やぶちゃん注:「鶉豆」「うずらまめ」は、豆の形が円筒形で、表皮は淡褐色の地に赤紫色の斑紋(斑(ふ))が入った隠元豆(マメ目マメ科インゲンマメ属インゲンマメ Phaseolus vulgaris )で、その名は種皮の模様が鶉の卵によく似ていることに由来する。煮豆や甘納豆の原料として用いられているから、外食券食堂の皿の中の煮豆が、事実、それであったのであろうが、如何にも皮肉と言えば、皮肉である。]

 少し経って、須貝は唇を離しました。眼がいくらか血走っていて、月光のせいか顔全体がほんとに蒼黒く見えました。それから魚子もゆっくり身を起しました。

「僕はすこし疲れているんだ」須貝はさも消耗したような声で、そう言いました。「なにしろこの二晩というものは、さっき話したような事情で、ほとんど眠っていないんだ」

 そこは濠(ほり)に面した土堤の上でした。若草が一面に生えているのですが、それらはしとどに濡れ、露を含んでいるものですから、二人は余儀なくベンチに腰をおろしていました。そのベンチもひえびえと湿って、つめたいのでした。

「ここは冷えるわ」魚子はやがてのろのろと立ち上りました。「すこし歩きましょうよ」

「うん」

 須貝はあまり動きたくないような様子でしたが、それでも不承々々腰を上げました。先程あまりやりつけないあばれ方をしたせいか、腰の筋がぎくりと痛んで、彼は思わず顔をしかめました。その須貝の惨(みじ)めたらしい表情を、魚子はある感じをもってじっと眺めていました。

 土堤に沿って、やがて二人は並んでゆっくりと歩き出しました。お互いに黙ったままです。濠の向うは線路になっていて、そこをごうごうと走る電車の青白いスパークが、暗い水面にうつっては消えました。

「さっきの話ね」

 ほぼ百米も歩いた頃、魚子は低い声で口をきりました。

「あれはやはり駄目よ。だってあたしの部屋は、とても狭いんですもの。無理というものだわ」

「すると僕と一緒に暮すのは厭なのかい?」

 と須貝はやや沈痛な声で問い返しました。

「厭とか厭じゃないとか、そんなことじゃないのよ」そして魚子はいらいらと声を高めました。「あたしたち、一緒になっても、お互いに惨めになるだけだと思うの。それにきまってるわ」

「なぜ?」

「なぜって、あなたも貧乏だし、あたしも貧乏でしょう。貧乏同士が一緒になったって、幸福になれっこないわ」

「愛し合っててもかい?」

 魚子はそれには返事をしませんでした。それから五十米ほども歩くと、土堤が尽き、二人は黙ってそこを右に曲りました。そこから暗い道が始まっていて、夜風が二人の顔にまっすぐに吹きつけました。上衣の襟を立てながら、須貝は思い切ったようにささやきました。

「つまり僕を嫌いになったというわけだね」

「あなたは、いい人よ」と魚子は少しどもりながら、答えにならぬ答え方をしました。「でも、あたし時々、あなたにやりきれなくなる時があるの。ねえ。たとえば、なぜあなたは、もっと胸を張って歩かないの。ぐっと胸を張って元気よくさ」

「洋服の関係なんだよ、これは」と須貝はかなしげに答えました。「自然とこういう恰好になってしまうんだ。前の持主が、セムシか何かじゃなかったのかなと、ときどき思ったりするんだけどね」

 暗い道のずっと彼方に、自動車のヘッドライトがあらわれ、そこらはぼんやりと明るくなりました。そこで魚子の横顔をちらとぬすみ見ながら、須貝はも一度訊ねました。

「どうしても君の部屋は駄目かい?」

「駄目よ」と魚子はそっけなく答えました。

「ああ」と須貝は絶望したようにうめきました。「今晩帰れば、また鶉だ。明晩も鶉。その次の晩もまた鶉。僕はほんとに死んでしまう」

 ヘッドライトの光芒は、ぐんぐんぐんぐん近づいてきました。二人の姿を認めたと見え、警笛がビビーッという響きを立てて鳴りわたりました。地面は泥と水とのべたべた道です。二人抱き合うようにして、急いで道の端に避けたのですが、瞬時にしてタイヤがべたっと水溜りを弾いたものですから、泥水がこまかい飛沫となって二人の全身にパッとおそいかかりました。自動車はそこでちょっと速力をゆるめたようでしたが、直ぐに元のスピードを取戻して、べたべた道をぐんぐんぐんと走って行きました。その自動車の後方席には、頭の半分禿(は)げかけた五十二三の肥った男が、腕組みをして瞼を閉じ、独りひっそりと腰をおろしておりました。眼をつむっているので、二人の姿は見なかったに違いありません。

「おい。田口」やがてその男は眼をつむったまま、運転手の背中に低い声で呼びかけました。「いま何時じゃね」

「はい。八時二十分です」

 運転手はちらと時計をのぞいてそう答えました。男は追っかけるように言葉をつぎました。

「もっとスピードが出せんか」

 車体はがくんと一揺れして、見る見る速力を増してきたようです。やがて男は切なそうに眼を開きました。車はいま濠(ほり)ばたの道を走っていました。そして濠を越えた向うの土堤の真上に、楕円形の月があかあかとかかっていました。肥った男は顔をガラス窓に寄せ、じっとそれを眺めました。

『月が出ている』

 男はなにか祈るような気持でそう思いました。車が走るのと同じ速力で、月も夜空を同方向にはしっているのです。出来そこなったレンズ。暫(しばら)くそれを眺めているうちに、男はちらとそんなものを聯想(れんそう)しました。苦悩と焦慮の色が、ありありと男の面上に浮んできました。

『あの出来そこなった月が、まん丸くなる頃には、もしかするとこの俺も――』

 ヘッドライトの光芒は、その時正面の石垣塀を一舐(ひとな)めして、大きく左へ曲りました。そこで男の視界から、月はもぎとられたように姿を消しました。それからまた男は腕組みをして、座席のクッションに大きくよりかかり、深刻げに眼をつむりました。

 それから自動車はぐんぐんぐんぐん、坂をのぼり坂を降り、橋をわたりガード下をくぐり、あちらこちらに泥や水をはねとばしながらひた走りに走りました。そしてとある大きな門構えの家の前に停りました。車が停ると、男は自分で扉を押しあけ、転がるように降り立って、ぜいぜいと咽喉(のど)をならしながら、急いでその門の中へ入って行きました。

 運転手は大きく背伸びをして、座席の片隅から、裸女の表紙のついた小型雑誌をとり出して、頁をめくって読み始めました。それから三十分ほども経ちました。

 門の中の玄関のところで、がやがやと話し声が聞え、さっきの男が見送られて出てくるらしいのでした。この家の主(あるじ)らしい男のがらがら声で、

「折角来て呉れたのに、役に立たなくて済まなんだなあ。牧山君」

「いやいや、こちらこそ」

 玉砂利をざりざり踏んで、男は自動車に戻ってくると、とたんに両手で頭をかかえるようにしてクッションによりかかり、苦しそうな声で命令しました。

「こんどは渋谷にやって呉れ」

 運転手は雑誌を座席の下に押し込み、無表情な手付きでハンドルを握りました。

 ふたたび自動車は夜風を切って、ぐんぐんぐんぐん走り始めました。黒い車体は月の光に照らし出されて、まるで必死に遁走(とんそう)する巨大なカブト虫でした。渋谷に着くまでにも、男はしきりに身悶えしたり、眼をつむったり開いたり、じっとしては居れないような風(ふう)なのでした。

 渋谷の奥まったある屋敷の中に、やがて自動車を降りたその男は、忙しい足どりで入って行きました。運転手はまたうんと背伸びして、エロ雑誌を読みふけり始めましたが、こんどは十五分も経たないうちに、跫音がせかせかと戻ってきて、車台ががくんと揺れると、男の肥った体がころがりこむようにして入ってきました。運転手がそっとバックミラーをのぞいて見ますと、男はすっかり打ちのめされたような顔付になって、黙ってぐったりと座席にもたれかかっているだけです。もう口をきくことさえ大儀らしい風なのでした。そこで運転手の方が口を開きました。

「お宅の方にお廻ししますか。牧山社長」

 牧山(つまりその肥った紳士ですな)は頰をたるませて、がっかりしたようにうなずきました。ここでも話がうまく行かなかったらしいのです。

 こうして、牧山光機会社社長の牧山英造が、自動車で自宅に戻ってきたのは、もうかれこれ十二時近くでした。玄関を上ると直ぐに、電話がかかって来ました。牧山はいらだたしげに眉をしかめながら、しぶしぶ受話器をとり上げました。神経がくたくたに疲労して、もうどんなものともかかわりを持ちたくないような、やけくそな気分なのでした。

 電話の声は、サカエでした。サカエというのは、一年ほど前から牧山が世話をしている女なのです。そのサカエの声が、怨(えん)ずるように牧山の耳に入って来ました。

「なぜお金持って来て下さらないのよう。あたし困っちまうわ。もう会があさってに迫ってると言うのに。ねえ。どうしたのよう」

「うん。判ったよ。判ってるよ」それどころかと思いながら、しかしなだめるように牧山は言いました。「わしだって、忙しいんだ。な。今が大事な時だから、も少し待って呉れ。な。お願いだ」

「も少しって、もう明後日なのよ。後見の人にも、地謡(じうたい)の人にも、笛や太鼓(たいこ)の連中にも、お礼出さなくちゃいけないのよ。早くしないと、あたし恥をかいちゃうわ」

 明後日、素人能(しろうとのう)の大会があって、サカエはそれに出て舞う予定なのです。そのためには金が必要で、もう一箇月も

前から、牧山はそれをしきりにせびられているのでした。

「判った。判った。とにかく明日」

 牧山はガチャンと受話器を置いて、ふうと大きく呼吸(いき)を吐きました。とにかく明日中にまとまった金を調達しなければ、親爺の代からつづいた光輝ある牧山光機も、ついに潰(つぶ)れてしまう他はない。そうなれば、あのサカエとも手を切らねばならないだろうし、もちろん家屋敷や自動車なども、すっかりこの手を離れるだろう。腹の中がまっくろになるような気持でそう思いながら、牧山はむっと頰をふくらませ、よたよたと二階の寝室に上ってゆきました。

 服を脱ぎ捨てて、彼は芋虫のようにベッドに転がり込みました。妻を喪(うしな)って三年間、彼は自宅ではずっとこの部屋にひとりで眠る習慣なのです。肥満した体軀にころげこまれて、古いベッドはきいきいと悲しげな音を立てました。

 晩方、彼は夢を見ていました。野原一面にもやしのような小さな手がたくさん生えていて、そこをひとりで歩いているような夢でした。その手が一斉にぐにゃぐにゃとなびいて、しきりに彼の足をつかまえようとするのです。びっくりして逃げ出そうとするのですが、それこそ手は何万本となくずらずら生えていますし、走っても走っても脚がから廻りするような具合で、彼は全身にびっしょり汗をかいて、やっとのことで眼が覚めました。見ると夜はすっかり明けているのでした。彼はむくりとはね起きました。

「シュッシュッシュッシュッシュ」

 口の中でそんな音を立てながら、彼は大急ぎで顔を洗い、大急ぎで朝飯をかっこみました。身支度して玄関に出ると、もう自動車がそこに待っているのです。運転手席には、れいの田口が無表情な背中を見せて、ちゃんと腰かけているのでした。

「シュッシュッシュ。丸の内に急いでやって呉れ」

 その日一日その自動車は、丸の内から神田へ、神田から銀座へという具合に、まるで東奔西走というありさまでした。彼は何度となく車を停めては、建物の中に駈けこみ、その度ごとに打ちのめされた顔付で車に戻ってくるのでした。なにしろひどい金詰まりということもあるのですが、まあ普通に考えて、牧山光機という会社は、どうもすべての金融機関や業者からすっかり見限られているらしいのでした。昼過ぎ頃から、牧山のぶよぶよした頰や顎(あご)は、しだいにくろずみ始め、夕方頃になると、身体の皮膚のあちこちがたぶたぶたるんで、一貫目近くも瘦せてきたような感じでした。昼飯も食べずにかけ廻っているのですから、身体はもう紙袋みたいにへとへとなのですが、頭の中はまったく火のように熱くなって、もう眼もはっきり見えないような具合でした。

「もっとスピードを出せ。シュッシュッシュッシュ」

 しかしどんなにスピードを上げても、もう無駄でした。すべては徒労だったのです。その夜の十二時頃自宅に戻ってきた牧山英造は、朝から見るとすっかり面(おも)変りして、眼などはまるでパンチを受けた拳闘選手みたいになっていました。よろよろよろとベッドに腰をおろして、両手で禿頭をむちゃくちゃにかきむしりました。

「もう駄目だ」と彼は大きな声を出してうなりました。

「もう駄目だ。おれの生涯は終った!」

 彼はそれから、自分を打ちのめした同業者の顔や、会社の組合員たちの怒った顔などをつぎつぎに思い浮べました。そしてひとしきり呻き声を張り上げました。しかし泣いても呻いても、仕方のない話でした。技術において古く、資本や手腕において貧しい牧山光機にとって、こうなるより他にどんな道があり得たでしょう。

 やがて、うなるだけうなり尽し、禿頭をむしるだけむしり尽すと、牧山はほとんど虚脱したようなとろんとした眼付になって、ぼんやりと窓を見上げていました。あたりはしんと鎮(しず)もって、物音ひとつ聞えません。

「月が出ている」

 やがて彼はぼんやりと呟きました。そして昨夜も自動車の中から、この月を仰いだことを思い出しました。あれから一日しか経っていないにも拘(かかわ)らず、もうそれは一箇月か二箇月か前の出来事のような気がしてならないのでした。つまり今日一日で、彼は平常の一二箇月分ぐらい生きたということなのでしょう。つづいて彼はその月の輸郭から、ふとサカエの顔立ちを思い出していました。

 『明日だと言ったな。どうにかして金をつくってやりたい』

 彼はしみじみとそう思いました。今自分をあたたかく迎えて呉れるのは、あの女だけじゃないか。そんな感傷がちらと牧山の胸をよぎったのです。自分だけをたよりにして生きているサカエに、いよいよ手切れの話を持ち出さねばならぬ。それは彼にとって、限りなく辛(つら)い話でした。牧山光機会社の浮沈よりも、そのことの方がよほど辛いと感じられたのも、窓から射し入る束(つか)の間(ま)の月光の魔術だったのかも知れません。

 三十分後、この肥ったレンズ会社の社長さんは、ごうごうと大いびきをかいて眠っておりました。そのいびきも、時々ひっかかったりかすれたりして、仲々なだらかには行かない風でした。

 

 牧山社長が自動車を乗り捨てて、能楽堂の楽屋にかけ込んだのは、サカエが舞台に出る直前のことでした。

 サカエはすっかり装束を着け終り、あとは面をつけるばかりになって、鏡の前に腰かけていました。牧山の声を聞くと、眼だけをじろりと横に動かしました。着付けの関係上、身体を動かすわけには行かないらしいのでした。それはなんだか怒ったような、邪慳(じゃけん)そうな眼付でした。

「お金を持って来たよ」

 と牧山は済まなそうな小さな声で言いました。

「そう」

 サカエはそっけなく返事して、手をそっと動かして、紙包みを受取りました。サカエは頭に面下の紫色の鉢巻をしめています。豪華な衣裳を着けているものですから、頭や顔がことのほか小さく見え、その顔も光線の具合か、砥粉(とのこ)でも塗ったように赤黒く見えました。表情も緊張して動かないので、まるでアメリカインデアンの顔にそっくりでした。

 楽屋には、着付けの人や四拍子の人たちがうろうろして、がやがやがやと落着かない空気なのです。牧山は気押(けお)されたように暫(しばら)く黙っていましたが、やがて思い切ってサカエの耳もとに顔を近づけて、ささやきました。

「とうとうお前とも、別れねばならないことになってしまった」

 衣裳の中で、サカエがぎくりと身体を動かすのが判りました。しかし表情はそのままで、唇もきっと結んだままです。牧山は急に切なさが胸にあふれ、早口の慄え声で一切を説明し始めました。しかしその説明が半分も済まないうちに、後見の人がずかずかと寄ってきて、牧山を肱(ひじ)で押しのけ、サカエの顔に能面をかぶせようとしました。瞬間サカエはその面を避け、牧山の方を見ようとしたらしいのですが、次の瞬間能面はぴたりと顔に貼りついてしまったのです。その一瞬の瞳の色は、暗くめらめらと燃えていて、牧山の胸をきりきりと突き刺しました。

「わしは表から見ている。もうこれきりで逢えないかも知れない」

 後見が聞いているのもかまわず、牧山は早口でそう言い足しました。そして背をひるがえして、ころがるような急ぎ足で、せかせかと楽屋を出て行きました。

 見物席は老若男女で満員の盛況でした。素人能会なので、見物たちもいろいろ雑多で、子供の多いのも目立ちました。舞台をよそにして、通路で鬼ごっこしている子供などもいます。空席がないものですから、牧山は道路の一隅に窮屈そうにしゃがみこんで、舞台が始まるのを待っていました。やがて地謡の連中がぞろぞろと並んで坐り、四拍子もきちんと所定の位置につきました。[やぶちゃん注:「道路」はママ。後の表記の「通路」が正しい。]

『とうとうこれが手切れ金になってしまった』

 と牧山は思いました。年甲斐もなくふっと涙が流れ出そうな気分でした。先ほど手渡したのは、今朝来やっとのことでかき集めた、最後の五万円なのでした。

 その時、見物席が水を打ったように、しんと静かになりました。いよいよこれから『葵上』が始まるのです。舞台の前面で、ワキツレがきっと身構えて、荘重な声で謡い出しました。

 

  〽これは朱雀院(すざくゐん)に仕へ奉る臣下なり。

 

 牧山は体を凝(こ)ったように固くして、橋懸(はしがか)りの方にばかり気をとられていました。六条御息所(みやすんどころ)の生霊(いきりょう)に扮したサカエが出て来るのを、祈るような気持で待っているのでした。そしていよいよその姿が揚幕をはねてあらわれ出た時、牧山はなんだか全身の皮膚が、じんと泡立つような感じにおそわれたほどだったのです。

 

  〽三つの車に法(のり)の道。火宅(くわたく)の門(かど)をや出でぬらん。

 

 ぎゅっと膝を抱き、人々の頭ごしに、牧山の視線はひたとそこに吸いとられていました。サカエの動作は、どこか不安定で、声もくぐもってひどく慄えているようです。何かするどい危惧(きぐ)が、牧山の胸を矢のように走り抜けました。六条御息所の生霊は、しずしずと舞台に進みながら、時折り面をやや傾けて、見物席の方をしきりに見渡すらしいのでした。

『わしの姿を探しているのではないか?』

 牧山は両方の拳(こぶし)をかたく握りしめて、胸をわくわくさせました。よっぽど立ち上ろうかと考えたのですが、舞姿が乱れてはいけないと思って、やっと辛抱したのです。

 さて、それから舞いはずんずん進んで、前半は終り、サカエの姿は橋懸りから一旦楽屋へひっこんで行きました。牧山は大きく溜息をつきました。その引込み方もしどろもどろで、サカエの心の乱れがそっくり出ているような感じだったからです。

『後半はうまく行くように。どうぞどうぞ』

 間狂言(あいきょうげん)がちょっと中にはさまり、それが済むと、被衣(かつぎ)を顔からもろにひっかぶったシテが、橋懸りから舞台の中央に、再びするすると出て参りました。ぐいと衣裳をはね上げると、そこにあらわれたのは、目も恐ろしげな般若(はんにゃ)の面です。しかもその般若面は、牧山の方をぐいと正面からにらみつけているのでした。彼はぎょっとして身体をちぢめました。サカエの怨霊(おんりょう)は牧山を見据(す)えたまま、するどく突き刺すような声を上げました。

 

  〽いかに行者(ぎやうじや)。はや帰り給へ。帰らで不覚し給ふなよ。

 

 そこで牧山は思わず腰を浮かして、ごそごそと後退(あとしざ)りしました。まるで自分に言われているような気がしたからです。それから舞台の上では、怨霊と行者(ぎょうじゃ)の火をふくような対決となり、行者は大きな数珠(じゅず)を両掌で揉みに揉んで、怨霊を折伏(しゃくぶく)しようとするのです。うしろにうち並んだ地謡の連中が、ここぞとばかり大声を張り上げて、お経の文句を謡(うた)い出しました。見物衆はみんな固唾(かたず)をのんで、成行きを見守っています。

 

  〽 不動明王。曩莫三曼多縛日羅赦。戦拏摩訶路灑拏。(ふどうみやうわう なまくさまんだばさらだ せんだまかろしやな)

 

「危い」

 と牧山は思わず叫び声を上げました。行者に押されて、打杖を振り上げ振り上げ後しざりするサカエの体勢が、ひどく乱れて、ほとんどよろめくようなのです。そのとたんに、サカエは何を思ったのか般若面をぐいと牧山の方に振り向けました。足は勿論ずんずん後しざりをしながらです。

「あっ」

 声にならない叫びのようなものが、見物席全体から一斉にあがりました。とんとんとんと後しざりするサカエの怨霊は、面をかぶっているので、距離の測定をつい誤ったのでしょう。いきなり舞台を踏み外して、その身体は横ざまにぐらりと宙を泳ぎ、舞台下にすってんころりんと落っこちてしまったのです。見物席はわっとざわめいて、みんな総立ちとなってしまいました。サカエが落っこちたその見物席では、とたんに火のつくような子供の泣き声があがりました。

「怖いよう。怖いよう。鬼がおっこちてきたよう」

 サカエが持っていた赤い打杖がはね飛んで、その子の頭にぶっつかったらしいのです。サカエは痛みをこらえて夢中ではね起きると、泣き絞るような声で続きを謡いながら、必死の努力で舞台にはい上ろうとしました。

 

  〽あらあら恐ろしの般若声や、これまでぞ怨霊この後(のち)又も……

 

「怖いよう。怖いよう。あたいは怖いよう」

 けたたましく位きわめきつづけるその男の児は、母親らしい女に横抱きにされて、いきなり通路の方に連れ出されました。その母親は、四十がらみのお内儀(かみ)さんらしい風体(ふうてい)の女でした。

「何で泣くんだよっ。折角のところをさ」

 そう叱りつけながら、子供を通路に立たせると、こんどは手をぐいぐい引っぱって、外の方に連れ出そうとしました。ところが子供の方は、眼が涙でふさがって何も見えないものですから、丁度そこの通路にうずくまっていた牧山と、ゴツンとおでこをぶっつけ合って、なおのことわっと泣き声を張り上げました。これは牧山の方も悪いのです。サカエの必死の姿が正視出来なくて、眼をかたく閉じていたのでした。

「まだ泣いている。早く来るんだよっ」

 女はいよいよ腹を立てたと見え、手が抜けるほど邪慳(じゃけん)にぐいぐい引っぱり、とうとう玄関まで子供を引きずり出してしまいました。それでも子供が泣き止まないものですから、すっかり気分をこわしてとうとう帰る気になったらしく、下足をそこにそろえ、子供にも無理矢理に穿(は)かせ、自分もそそくさとつっかけました。そして表に出ました。

[やぶちゃん注:能の「葵上」は解説は「能楽協会」のこちらが判り易く、詞章原文(但し、新字)は現代語訳附きのこちらがよい。全曲映像はYouTubeのMinakata Kunio氏のこちらで視認出来る。]

 母親に手をとられて道を歩きながらも、子供は泣き止んでみたり、また思い出したように泣き声を立てたりしていました。それは五つか六つぐらいの、青白い皮膚と大きな眼を持った、見るからに神経質らしい男の児でした。古ぼけた毛糸のジャケツ、青いコールテンのズボン、そして足には足袋を穿き、いくらか大きめの下駄をつっかけているのです。ぐいぐい手を引っぱられて急(せ)かされるものですから、ともすればその下駄が脱げそうになったり、転びそうになったりするのでした。

[やぶちゃん注:「ジャケツ」“jacket”の和製音写。袖の長い毛糸編みの上着の古称。

「コールテン」コーデュロイ“corduroy”の「天鵞絨」の和製英語の合成語「コール天」。平織又は綾織の地に、別の緯(よこいと)でタオル様の輪を浮かせ、輪の中央を切断して添毛とし、ブラシ掛けをして畝(うね)を整えて仕上げたもの。経(たていと)方向に畝が走る。添毛のために摩擦に強く、耐久性があり、ジャンパー・ズボン・作業服・足袋表・鼻緒・椅子の張地などに用いられる。「綿天鵞絨(わたビロード)」とも呼ぶ。]

 やっとのことで駅に着き、電車に乗り込んでも、その児は時々脅(おび)えたようにぎくりと身を慄わせ、鼻を鳴らしてしゃくり上げました。そしてその度に、母親からぐいと頭を小突かれました。土曜日の夕方なので電車はぎっしり満員で、それで母親はなおいらいらするらしいのでした。

「いつまで泣いてんだよっ」

 新宿駅で私鉄に乗り換え、やっと母子の家近くの駅で下車した時は、子供はもうすっかり泣き止んでいましたが、その代り、青白い顔がいっそう青味を帯び、大きな眼は熱っぽくうるんで、歩き方もふらふらするような恰好(かっこう)で、ヘんに放心したような元気のない様子でした。母子は改札を通り抜け、外に出ました。踏切りをわたると、そこからちょいとした一筋道の盛り場になっているのです。盛り場と言っても、八百屋や魚屋や菓子屋などが、一町ほどずらずらと並んでいるだけですが、さすがに夕方のことですから、勤め帰りの男たちや買物の女たちが、狭い街筋に充満して、まっすぐにあるけないほどでした。[やぶちゃん注:「一町」約百九メートル。]

『街にはこんなにたくさん人々が歩いているが』と子供はふらふらと手を引かれながら、ぼんやりとそんなことを考えていました。『夜になると、みんな居なくなっちゃうんだ。皆どこかへ行ってしまうんだ』

 母子はそれから魚屋の前に立ち、母親は並べられた魚をあれこれと見くらべた揚句、イカの山を指さして、それを三匹買い求めました。どこかの海でイカが大量に獲れたらしく、魚屋の店先にも山と積んであって、値段も比較的やすいのでした。魚屋がそのイカを包んでいる間、子供は母親によりかかるようにして、力ない視線で店の板台(はんだい)をあちこち眺めていました。

『こんなに魚の死骸がならんでいる』と子供は思いました。『魚というものは、こんなに死骸になっても、誰も泣いて呉れないし、お墓も建ててくれない。煮たり焼いたりされて、人間に食べられてしまう。頭や骨やはらわたは、猫にすっかり食べられてしまう』

 そこまで考えた時、ぐいと手を引っぱられたものですから、子供はまた足をもつらせるようにして、ふらふらと歩き出しました。

 それからその一筋道をしばらく歩き、小さな薬屋のある曲り角から、二人はせまい路地に入りこみました。そこらはよほど淋しいところで、店と言えば、その薬屋だけぐらいのものでした。軒には多胡薬房などとひとかどの看板がかけてあるのですが、店の中をのぞいて見ると、薬棚やガラス台などが、うっすらと埃(ほこり)をかぶっているような感じで、壁にかけたポスター類も、破れたりすすけたりして、あまりぱっとした店構えではありませんでした。

 さて、街中ががやがやとざわめいているうちに、空の青色はしだいに淡くなり、太陽はきりきりと回転しながら、やっと家並のかなたに沈んで行ったらしいのです。今日も西の空はあかあかと焼けて、絵の具皿をひっくりかえしたような有様でした。そしてその残照も、十分間ほどで消えて、あたりからひたひたと夕闇が立ちこめて来ました。街燈に燈(ひ)がともり、あちこちの家の中にも燈がついて、やがてその燈の下で人々はシャンシャンと箸を鳴らし、御飯を食べたりうどんを啜(すす)ったり、また帳簿を出して銭勘定をしたりしていました。

 多胡薬房の奥の間では、ラジオが鳴っていました。家具もあまり見えないし、畳もすり切れたような貧しい六畳間ですが、ラジオだけは五球スーパーの堂々たる機械なのでした。しかもそれは、床の間のまんなかに赤いが友禅(ゆうぜん)布団をしいて、その上に大切な家宝みたいに安置されているのです。

[やぶちゃん注:「五球スーパー」真空管を五本も使った当時の高性能ラジオ。サイト「日本ラジオ博物館」のこちらで、本篇発表当時の、多くのそれらの現物写真が見られる。]

 そのラジオの前に、破れて綿の出た座布団をしいて、小さな男があぐらをかいて坐っていました。多胡薬房の主(あるじ)なのです。四十をちょっと出たほどの年頃で、薬屋らしく白い上っ張りをつけ、勿体ぶった顔をしていますが、なにしろ身体が小さくて、身の丈も四尺六寸ぐらいしかないのでした。その小さな薬屋は、ごほんとせきをすると、台所ヘむかって声をかけました。

「おい。今夜のおかずは何だ?」

おでんですよ」と台所から細君の声が返ってきました。「今煮込んだばかりだから、もすこししないと、汁がしみこまないの」

「どれどれ」

 薬屋はぴょこんと立ち上って、ちょこちょこと台所に入って行きました。台所のコンロに鍋がのっていて、その中には、大根だのコンニャクだの豆腐だのイカだのが、ごちゃごちゃに入れられて、ごとごと煮え始めていました。薬屋はしばらくのぞき込んでいましたが、やがて勿体(もったい)ぶった声で言いました。

「なんだ。安物のたねばかりではないか。フクロとかサツマアゲはないのか」

「お金がないんですよ」と細君はしゃもじで大根をひっくり返しながら答えました。「この頃すっかりお客が減ったわねえ」

「それは俺の責任じゃない」イカの脚をちょっとつまんで口に入れながら、薬屋が言いました。「うん。それはきっと、駅前にカラス薬房が出来たためだ」

「どうしてもきれいな店に行くわねえ」

 と細君は嘆息しました。細君は主とちがって、背丈も五尺二三寸はあり、よく肥って血色のいい女でした。

「あなたもラジオばっかり聞いていなくて、すこし店をきれいにすることを、考えたらどう?」

「掃除はお前の役目だ」と薬屋はきめつけるように言いました。「ラジオは俺の趣味だから、これは仕方がない」

「でも、あんまりラジオにばかりしがみついているんですもの。すこし度が過ぎるわ」細君も、コンニャクをつまんで、ぺろりと口にほうり込みました。「こないだ雑誌を読んでたら、ラジオの害が出ていましたよ。つまりラジオは愚民政策だって」

ぐみん?」

「愚かな民ということですよ」

「なに。愚かだと。じゃこの俺が、愚かだと言うのか。つまり莫迦者(ばかもの)――」

 薬屋が怒ってそこまで言いかけた時、床の間のラジオが一段声を張り上げて、つづいてパチパチパチという拍手の音が聞えてきました。そこで薬屋は、

「それっ。二十の扉だっ」

 と叫んで、大急ぎで六畳間に戻り、座布団の上にちょこんと胡坐(あぐら)をかいて、耳を澄ますような顔になりました。一言半句聞き洩(も)らすまいというようなしんけんな表情です。よほど好きでないと、こういう顔付はできません。

[やぶちゃん注:「二十の扉」当該ウィキによれば、昭和二二(一九四七)年十一月一日から昭和三五(一九六〇)年四月二日まで、毎週土曜日の午後七時三十分から三十分間、NHKラジオ第一放送で『放送された日本のクイズ番組で』、『敗戦の』二『年後から』十三年十二年余り続いた、『NHKラジオの看板番組であり』、『人気番組であった』とある(私は一九五七年生まれで記憶にはない。そこに載る解答者の中では、推理小説家の大下宇陀児(うだる)ぐらいしか知らない。サイト「NHKアーカイブズ」の「NHK放送史」の当該番組の解説に、『アメリカで放送されていたクイズ番組『Twenty Questions』(二十の質問)をモデルにした番組。動物、植物、鉱物の』三『つのテーマから出題。解答者は司会者に』二十『まで質問ができ、その間に正解を出す。質問を扉とみなして』二十『の扉を開けていく、テーマ曲を使わないで』、『扉をノックしてから開ける音で番組を始めるなど、日本独自の工夫がされた。問題はすべて聴取者から寄せられた』とあり、録音風景画像と当時の放送を聴くことが出来る。]

 台所では細君が、

「ほんとに仕様がないよ」

 とひとりごちながら、よいとこしょと腰を上げ、流し台でざくざくと米をとぎ始めました。

 その時店先の方で、

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 と呼ぶ女の声がしたのです。お客の声らしいのでした。薬屋は顔をしかめて舌打ちをしましたが、それでもしぶしぶ立ち上りました。細君には薬の知識が全然ないので、どうしても薬屋自身が店に出なくてはならないのでした。そして薬屋は上っ張りの具合をちょいと直し、いらいらした足どりで店の方に出て来ました。

「いらっしゃいませ。何を差し上げますか」

 お客ですから、つっけんどんに応対するわけには行きません。薬屋としては、これがせいいっぱいの愛想のいい声でした。そこに立っているのは、薬屋も顔だけは知っている、この近所のお内儀(かみ)さんなのでした。お内儀さんはあわてているらしく、おろおろ声で言いました。

「ええ。その、お薬をひとつ下さい」

「何の薬ですか?」

「子供がねえ、どうしたもんか、急に熱を出したんですよ。それがねえ、鬼が来たとか何とか」

「鬼?」

「そうなんですよ。うわごとなんですよ。あたしゃ辛くて辛くて」

「鬼は鬼として――」と薬屋はいらいらして言いました。ラジオからしきりに笑声や拍手が聞えてくるものですから、気が気じゃないのでした。「それで、風邪でもひいたんですか」

「風邪じゃないんですよ。つまり鬼なんですよ。あの子はもとから神経が弱くってねえ。知合いから招待券を貰ったんで、今日あの子を連れて出かけたんですよ。あの子をおいて、あたしだけで行きゃよかったんだけどねえ」

「つまり、何ですか、それは?」

「ええ、それが能てんで――」

「ああ、脳天ですか」と薬屋は面倒くさくなって、すこし語気あらくさえぎりました。「脳天なら、これが利(き)くでしょう。はい。五十円いただきます」

 薬をわたして五十円受取ると、薬屋は宙を飛ぶような勢い。で、ラジオの前にとって返し、ぺたりと坐り込みました。どうも一問題か二問題ぐらいを聞き洩らしたらしいのです。薬屋は耳の穴を平常より二倍ほど大きくして、改めてラジオに聞き入り始めました。台所ではおでんがごとごと煮えています。それから十分ほど経ちました。

 店のガラス戸ががらりとあく音がして、

「今晩は。今晩は」

 こんどは大きな男の声でした。薬屋は不快げにびくりと眉を動かしましたが、それでも思い切ったように立ち上って、急いで店に出てゆきました。

 店に立っているのは、もじゃもじゃ髪の、眼のぎょろりとした、若い男でした。顔が赤くなっているのは、きっと酔っぱらっているのでしょう。はたしてその声も舌たるくもつれているのでした。

「近頃はどうも眠れないんだ。何か眠り薬を呉れえ」

「はい。これがよろしいでしょう」

 薬屋は大急ぎで棚から取出して渡しました。男はそれを受取ると、ろくに調べもせずポケットに入れ、今度はガラス台に片肱(ひじ)をつき、薬屋の顔をじろじろと眺めながら、酔っぱらい特有ののろのろした口調で言いました。

「おやじさん。ひとつ相談があるんだがねえ」

「はい。何でございましょう」

「実はねえ、鼠を殺す薬があるだろう、僕が欲しいのは、そんなんじゃないんだ。欲しいのは鳥を殺す薬だ」

「鳥、と申しますと?」

「鶉(うづら)だよう。ギャギャッと啼く鳥があるだろう。餌にこっそり混ぜて、そいつらに食べさせたら、コロコロコロと死ぬ。愉快だね。そんな薬はないか?」

「そんな薬はありません!」と薬屋は半分怒って叫びました。「そんなのは、よその店で聞いて下さい。はい。睡眠薬の代は、八十円です」

 男は気を呑まれたようにポケットから紙幣を取出しましたが、その動作も極度にのろのろしているものですから、薬屋の頭からすこし湯気が立ってきたほどです。そして男が出て行くのも見届けず、小走りでラジオの前に戻って参りました。するとパチパチ拍手と共に、丁度二十の扉が終ってしまったらしいのです。薬屋はすっかり立腹して、大声で怒鳴りました。

「なんだ。暇な時にはお客は来ないのに、面白い番組となると、ぞろぞろやって来る。なんというロクデナシの客ばっかりだ!」

「どうなさったの?」

 と細君が台所から顔を出しました。

「酒を買ってこい。むしゃくしゃする!」

「そりゃ買って来ますけどね、お金は?」

「ここにある」と薬屋は二人の客からとった売上げをほうり出しました。「早く買ってこい」

「あなた怒ってらっしゃるの?」

「ああ、怒ってる!」

「そりゃ丁度(ちょうど)良かったわ」と細君は棚から何かごそごそ取出して、薬屋の方にやって来ました。その手に持っているのは、小さな湯呑みです。それを差し出しながら、「その勢いで辛子(からし)をかいて下さらない。怒ってかくと、よく利(き)くという話だから」

 薬屋はいきなりそれを引ったくり、歯を食いしばるようにして、湯呑みの辛子を割箸できりきりとかき廻し始めました。細君はそれを横眼で見ながら、そそのかすように低声で言いました。[やぶちゃん注:「低声」「ひきごえ」と読んでおく。]

「買って来るのは、鮭(さけ)なのね」

「鮭じゃない。酒だっ」と薬屋は目をつり上げ、手の動きをいっそう猛烈にしました。その勢いと言ったら、まるで道路工事に使用するドリルみたいでした。「腹が立っているのに、鮭なんか食べて、どうなるというんだっ!」

「もういいわ」

 と細君は薬屋の肩をやさしくたたき、それをやめさせました。そして湯呑みをとって、一寸においを嗅ぎ、ちゃぶ台の上に逆さに伏せました。

「おお、ずいぶん辛そうだ。よくできたわ」

 ところが薬屋の方は、一念こめて手を動かしたものですから、怒りがみんな辛子の中に入ってしまって、すこしぽかんとしていました。少し経って、気の抜けたような声で言いました。

「早く酒を買ってこい。それにお腹(なか)もすいた」

 細君が瓶をぶら下げて裏口から出て行くと、薬屋はしばらく貧乏ゆすりをしながら、ラジオに耳を傾けていました。番組が変って、今は歌や音楽でした。つまり彼は、そのメロディに合わせて、貧乏ゆすりをしていたのです。

 細君が戻って来て、ちゃぶ台におでん鍋や皿が並び、やっと酒の𤏐(かん)がつき始めた頃、またその番組が変りました。こんどは『トンチ教室』という莫迦(ばか)げた問答です。薬屋は、お酒は飲めるし、それは聞けるしというわけで、もう頰をゆるめてにこにこしていました。

[やぶちゃん注:「トンチ教室」「とんち教室」が正しい。当該ウィキによれば、昭和二四(一九四九)年一月三日から昭和四三(一九六八)年三月二十八日に『かけて放送されたNHKラジオのバラエティ番組である』。十九『年間にわたって放送された長寿番組であった。テーマ曲は「むすんでひらいて」であった』とある。これは流石に記憶にある。同前の「NHK放送史」の当該番組の解説に、『「尻とり川柳」「やりとり都々逸」など奇抜な題材による言葉遊びの番組。司会の青木一雄アナウンサーが先生、各界の個性豊かな著名人が生徒となって授業の形で進行。意表をつく答えやひょうきんな答えをして、先生とユーモアたっぷりにやり取りした。年度末の終業式では』、『生徒は毎年留年』で、『番組は』十九『年間』、実に九百五十八『回続き、先生も生徒も』十九『年かかって』、『ようやく卒業式を迎えた』とある。同じく音声と動画の公開録音風景が視聴出来る。]

 そこで夫婦は向い合って、やっとのことでおそい晩餐(ばんさん)が始まりました。細君も酒はいけるらしく、盃が二人の間を行ったり来たりしました。おでんもなかなか旨(うま)く煮えていました。それに薬屋がかいた辛子のからいことと言ったら、耳かき一杯ほどつけても、涙がぽろぽろ流れ出るほどでした。薬屋はたのしそうに盃を煩けたり、ラジオの問答に大笑いをしたり、辛子をなめて鼻をつまんで涙ぐんだり、そんなことで十五分も経ったと思うと、また店の方でガラス戸ががたがたと鳴り、

「ごめんください。ごかんください」

 という声が聞えてきました。低い男の声です。

「またまたお客だ」

 薬屋はとたんに先刻の怒りを取戻したかのように、頰をぶっとふくらませ、こめかみをびくびくと動かしました。ラジオからは、誰かが滑稽な答えをしたと見え、わあわあと笑う声が流れ出てきました。

「ごめんください」

 表の声はすこし大きくなりました。

「ほんとに仕様がないな。も少しあとで来ればいいのに」

「そういう訳にも行かないわよ」

 薬屋は癪(しゃく)に障ったように舌打ちをして、ぴょこんと立ち上りながら、未練たらしくラジオの方をちらと振り返りました。出来ることなら耳だけをここに置いて行きたい、そういったような表情でした。そして憤然たる恰好で店の方に出て行き、お客の顔も見ないうちに、早口で言いました。

「いらっしゃいませ。何を差し上げますか」

 お客は、髪をぼさぼささせ、無精鬚をうっすらと生やした、眠そうな眼をした三十歳ぐらいの男でした。瘦せてあまり血色もよくないようです。しゃがれたような声で口を開きました。

「ええと、何か元気のつくような薬はありませんか」

 今日は妙なお客ばかりがやって来る、そう思いながら、薬屋は切口上になって言いました。

「元気たって、いろいろあります。いったい身体のどこが、どんな具合に悪いんです?」

「身体はどこも、とり立てて悪くはないんだけれど」と垂れ下った髪をかき上げながら、男はぼそぼそと答えました。「なんだかすっかり消耗したような具合で、いっこう元気が出ないんです。いい薬はないもんでしょうかねえ」

 奥の間のラジオがまたワアッと笑い声を立てました。早くしないとあの番組も済んじまうと思うと、薬屋はもう泣きたいような気持になって、薬棚をがらりとあけ、奥の方に手をつっこんで、たまたま手に触れた箱をいきなり引っぱり出しました。それはまことにすすけたような紙箱で、見ると表に『猿髄丸(えんずいがん)』と書いてあるのです。その字を見て薬屋は思い出しました。これは二年ほど前に仕入れたのですが、全然売れないものですから、そのまま棚の奥につっこんであった漢方薬なのでした。

「これがいいでしょう」直ぐ帰って呉れるように、と胸に念じながら、薬屋は客の前にそれをぐいと突き出しました。「あなたのような症状にはうってつけです」

「猿髄丸?」と男は受取って、その表の字をたどたどしく読みました。「妙な薬ですね。利くんですか?」

「利きますとも」薬屋は断ち切るような勢いで言いました。「これは猿の脳髄からとった薬で、動物性ホルモンを多量に含んでいますからな。利かないわけがありません」

 男は疑わしい表情で箱の裏を引っくりかえし、その効能書のところをのろのろと読み始めました。そこには、体力消耗、全身倦怠、疲労虚脱、心身不条理、そんなのに特効があると書いてあるのです。ラジオが相変らずわあわあ笑っているものですから、薬屋はじりじりとしてきて、とうとう身体が自然に小刻みに慄え出しました。するとその振動が床から薬棚に伝わり、ガラスまでがかたこととかすかに鳴り始めたのです。それに気付いたらしく、男は顔を上げ、けげんそうに薬屋を眺めて言いました。

おしっこにでも行きたいんじゃないのですか。それだったら、どうぞお構いなく」

おしっこなんか、したいもんですか」歯をかみ鳴らすようにして、薬屋は口早に言い返しました。「買うんですか。買わないんですか。一体どちらです?」

「買いましょう」何で薬屋がつんけんしているのか判らないものですから、男は気押されたように、おそるおそる口を開きました。「ここでのみたいから、水を一杯下さいませんか」

 その言葉を聞くと、薬屋はましらの如く身をひるがえし、素早く台所にかけて行き、二十秒後には、水の入ったコップをちゃんと持って、風を切って戻って来ました。その迅速さには、男もほとほと感服したらしい模様でした。

「お早いですなあ」と男はコップを受取りながら嘆息して言いました。「まるで猿飛佐助を思わせますなあ」

 薬屋はそれに何か返事しようとしたらしいのですが、もうたまらなくなったのでしょう。又ぷいと背を向けて、奥の方に小走りで姿を消してしまいました。

 男はぽかんとした顔付でそれを見送っていましたが、やがて我にかえったらしく、もそもそと紙箱の封を切りました。

「ええと。大人一回五粒ずつと」

 そんなことを呟(つぶや)きながら、紙箱を傾けますと、青黒いような丸薬がぞろぞろと掌にころがり出て来ました。男は気味悪そうにそれを眺めていましたが、やっと五粒だけ掌に残してあとは箱に戻し、その五粒をぽいと口の中に投げ入れました。そしてコップを急いで唇に持って行き、一口含むと、目を白黒させながら、一気にそれを嚥(の)み下しました。ほろにがいような、また何だかなまぐさいような味だったものですから、男はつづけて残りの水をぐいぐいと飲みほしました。そしてコップを台の上に置き、妙な顔をしてじっと立っていました。

 奥の方からは相変らず、ラジオのにぎやかな音が流れてくるだけで、誰も出てくるような気配はありませんでした。男はなおも暫(しばら)く突っ立っていましたが、ついに諦(あきら)めたように、そっとガラス戸を押し、表に出ました。

「妙な薬屋さんだな」道を歩きながら男は呟きました。

「薬は呉れたのに、代金は取ろうともしない。奇特な薬屋もあったものだ」

[やぶちゃん注:「猿髄丸」不詳。ネット検索でも見当たらない。作者の想起した架空のものであろう。

「ましら」猿の古称。]

 空には月が出ていました。もう相当にふくらんでいて、月齢十二夜か十三夜というところでしょう。その光に照らされた青白い夜道を、自分の黒い影を引きずりながら、男はことさら肩をそびやかすようにして、とことことことこ歩いて行きました。薬が只だったことも嬉しかったのですが、しかもその薬が、なんとなく利くような気がして、ほのぼのと前途に希望が持てるのでした。

『猿なんか実に素早い動物だし、精力的な動物だから』男はすこし浮き浮きした気持で思いました。『その脳髄のエッセンスだったら、これは利かないわけがない』

 男が自分のこんな消耗状態に気づき始めたのは、もう三箇月ばかり前からでした。何に対しても興味が持てなくなり、また実際何をやってもうまく行かないのです。真面目な事がらに対してだけではなく、たとえば食慾や性慾などに関しても、そんな風(ふう)なのです。つまり情熱というものが、身体の中でじりじりすり減って、揚句の果てすっかり死んでしまったような具合でした。

『しかしこの分だと、いいシナリオが書けるかも知れないな』この男はシナリオ作家志望者なのでした。だからそんなことを考えたのです。『よし。もしこの薬が利いたら、お礼心に、〈奇特な薬屋〉というシナリオを書くことにしよう』

 さて、男は黒い自分の影をずるずる引きずり、道を曲ったり路地を折れたりして、やがて小さな二階家の前に足をとめ、玄関をがらりとあけました。ここの二階に彼は間借りをしているのでした。

「ただいま」

 そして玄関にあがって階段をのぼろうとすると、その直ぐ横の部屋から、この家の主人の低い声がしました。

「牛尾さんかい。おかえり。どうだね、お茶でも一杯飲んで行かないかね」

「うん、じゃ、よばれようか」

 牛尾が襖(ふすま)あけて入って行きますと、三十五六のその主人は、長火鉢の猫板に両肱(ひじ)をついて、お茶をのんでおりました。何だか浮かないような、妙に曇った顔色でした。そこで牛尾は襖をしめて、長火鉢をはさんで主人の反対側に、ゆっくりと坐りこみながら訊ねました。

[やぶちゃん注:「猫板」「ねこいた」は長火鉢の端の引き出し部分に載せる板。暖かいので、そこに、よく、猫が蹲(うずくま)るところからの呼称。]

「どうしたの。ばかに元気がないようだね」

「うん」と主人は憂鬱そうに首筋をとんとんと叩きました。「面白くないんだよ」

「何が面白くないんだね?」

「今日は月給日だろう。それだのに、月給が現金では出ないんだ」

 そう言いながら、主人は急須を傾けて、牛尾にお茶を注いでやりました。色は濃いが味も香りもない安物の番茶です。それを飲みながら牛尾はふたたび訊ねました。

「どうして出ないんだね?」

「どうもうちの会社は、もう潰れかかってるんじゃないかと思うんだ。様子がおかしいんだよ。今日も月給の代りに、現物の製品を支給すると言ってね、これを呉れたんだよ。これじゃどうしようもない」

 主人が憂鬱そうに茶簞笥(ちゃだんす)の方を顎でさしたので、牛尾が視線をうつすと、そこには平ったいレンズが五枚、ずらずらと一列に並べてあるのでした。なんだか眼玉が並んでいるようで、すこし気味が悪かったものですから、牛尾はあわてて視線を戻しました。すると主人が言いました。

「あんた、このレンズを一枚でいいから、買って貰えないかね」

「いや、僕は結構だよ。買ったって使い途がない」

「そうかい」と主人はがっかりしたように言いました。

「実はね、今朝坊やに、お土産を買って来ると約束したんだ。ところが月給が出ないんだろ。仕方がないから安物で間に合わせようと思って、玩具屋に行って、こんなものを買って来たのさ。すると坊やは、こんなのつまんないと言って、泣いたりわめいたりしてさ、うんざりしたよ」

 そして主人は長火鉢のかげから、四角な紙箱を取出しました。見るとそれは表に行軍(こうぐん)将棋と書いてあるのでした。

「へえ。妙なものを買って来たもんだね。一丁やろうか」

 主人はびっくりしたように顔を上げ、牛尾の方を見ました。

「おや、珍らしいね。あんたがこんなのに興味を持つなんて」

「いや、実は先刻ね、いい薬を飲んだんだ。元気が出る貴重薬らしいんだよ。そのせいか、何かやりたくて、身体がむずむずする」

「そう言えば、あんたはこの頃、ちょっと消耗してたようだね」

 それから二人は箱をあけ、紙の盤をひろげて、行軍将棋をやり始めました。二人とも勝手がよく判らないらしく、時々駒の手を止めては、規則書きをのぞいたりするのでした。

「どうも僕の子供時分のやつと少し違うようだね」

「そうだね。この原爆というのが、つまり昔の地雷なのかな」

「いや。地雷は動かなかったけれど、この原爆というやつは、どこにでも動けるよ」

「あっ、そうか。イヤな駒だね。そしてこのスパイというのが、昔の間者(かんじゃ)か」

「そうらしいね。代将なんていう駒もあるよ。ふざけてるね」

 それから駒がずんずん動いて、牛尾の原爆が敵の本陣に乗りこんで、かんたんに牛尾の勝となりました。主人は口惜しがって言いました。

「もう一丁やろう。今度は負けないぞ」

 そこで再び駒を並べて開始しましたが、勢いよく乗り込んできた主人の原爆を、牛尾のスパイが首尾よく仕止めたものですから、主人の方は決め手がなくなり、又もや牛尾軍の一方的な勝利に終りました。主人はすっかり絶望して、駒をざらざらとしまい込みながら嘆息しました。

[やぶちゃん注:「行軍将棋」軍人将棋のこと。私も小学生の頃にやった。解説は当該ウィキに譲るが、私は、すぐ「スパイ」を使って、負け込んだものだった。私はこの手の勝負遊びは全く興味がなく、将棋でさえ、「金」と「銀」の駒の動かし方さえ知らず、麻雀に至っては、全く判らないど素人である。私がやったものには「原爆」はなかったように記憶する。ウィキには、『製品によっては代将、MP、砲兵、ジェット機などの駒がある』とあった。「代将」(だいしょう)は当該ウィキによれば、『海軍の階級又は職位の一つ』で、『本来は将官の階級にない艦長』或いは『大佐』『が艦隊・戦隊等の司令官の任に当たる場合に、その期間のみ与えられる職位を指したが、国によっては階級となっている』とあった。]

「あああ。月給は出ないし、レンズは売れないし、将棋には負けるし、なんて面白くない日だろう」

 一方牛尾の方は勝負に勝ってにこにこ顔です。そしてなぐさめるように言いました。

「七転び八起き。まあ元気を出すんだね。何ならひとつ僕の薬を上げようか」

「そうだね。そう願おうか」

 そこで牛尾はポケットから取出して、猿髄丸を五粒やりました。主人はろくに調べもせず口にほうりこみ、冷えた番茶でごくりと嚥(の)み下しました。

「そいじゃ、おやすみ」

 牛尾はあいさつして部屋を出、階段をはずみのついた足どりでとんとんとんと登りました。そして自分の机の前にでんと坐り、頰杖をついて、しばらく何か黙考にふけっていました。それは将棋に勝った勢いで、シナリオの構想を立てるつもりだったのです。三十分ほどそのままの姿勢でいましたが、やがて立ち上って、布団をばたんばたんとしきながら、がっかりしたように呟きました。

「まだ薬が足りないらしい」

 そしてまた猿髄丸の箱をとり出して、それを五粒服用すると、いきなり布団を引っかぶって、ぐうぐう眠ってしまいました。

 翌朝になりました。

 牛尾は朝はやばやと起き出し、ちゃんと顔を洗って鬚(ひげ)を剃(そ)り、きちんと机の前に坐っていました。机上には原稿用紙がひろげられ、傍にはインクとペンも用意してあるのです。ところが牛尾は、いつまで経ってもそのペンを取上げる気配はなく、煙草を吸ったり、鼻毛を抜いてみたり、いらだたしげに貧乏ゆすりをしたり、そんなことばかりしていました。そしてやっと昼近くになって、しょげたような顔付になって立ち上り、乱暴な動作で着物を脱ぎ捨て、押入れから洋服をとり出しました。

『すこし街でも歩いて、題材を集めて来よう』

 ネクタイを結び終えると、牛尾はちょっと考えて机の引出しから猿髄丸を出し、五粒だけ口にほうりこんで、あとは上衣のポケットにしまいました。それから階段を降りて玄関に出ると、主人は今起き出したばかりらしく、寝呆けたような顔をして、狭い庭に立って歯ブラシをごしごし使っておりました。

「お早う。ごゆっくりだね。今日は会社は?」

「今日は日曜だよ」

「ああ、そうか。日曜だったねえ。それはそうと、昨夜の薬は利(き)いたかい?」

「そうだねえ。よく眠れたよ。まだ眠いぐらいだよ。飯食ったらまた寝ようと思ってるんだ」

「そりゃおかしいな。量が足りなかったのかな」

「そうかも知れないね。まだあるなら少し呉れないか」

「いいとも。そら」

 と牛尾はポケットから箱を取出して、十粒かぞえて主人に渡してやりました。主人は大急ぎで口をゆすぎ、それから残りのうがい水といっしょに、その十粒をごくりといっぺんに嚥(の)んでしまいました。そしてけろりとした顔で言いました。

「じゃ、行ってらっしゃい」

「行って参ります」

 牛尾はぴょこんと頭を下げて、とことこ歩き出しました。昨夜戻って来た道順を逆に歩き、あの多胡薬房の前まで来たとき、時間は丁度(ちょうど)十二時半になっていました。牛尾はそこを通る時、ちょっと薬房の中をのぞいて見たのですが、店先にはあの小男の主人の姿は見当らないようでした。それはその筈です。奥の間のラジオが丁度『素人のど自慢』を放送していたのですから。

[やぶちゃん注:「素人のど自慢」本篇発表当時は「のど自慢素人演芸会」が正しい。現在の長寿番組である「NHKのど自慢」の前身のラジオ番組。歴史的経緯の詳細はウィキの「NHKのど自慢」を見られたいが、昭和二一(一九四六)年一月十九日土曜日に『ラジオ番組「のど自慢素人音楽会」として、東京都千代田区内幸町のNHK東京放送会館(現在の日比谷シティの場所)から午後』六『時』から一時間三〇分、『公開放送されたことが始まり』で、『翌』『年に「のど自慢素人演芸会」と改称』し、『このタイトルで』昭和四五(一九七〇)年三月二十二日日曜日まで放送)された。昭和二四(一九四九)年十月頃『から、宮田輝アナウンサーが』十七『年あまりにわたって』、『毎週』、『司会を務めていた。テレビ放送は』昭和二八(一九五三)年三月十五日午後二時から二『時間放送したことが始まりで(ラジオと同時公開放送)、当初はスタジオのあった東京での公開のみ放送された。なお』、『この第一回目の放送をラジオで募集したところ』、『最終的に応募者数は』九百『名を超えたという』とある。私の家では、父母が毎日曜、これを見るのが、定番であったが、私は何んとなく、上手くない人の鐘一つが、心に響いて、内心、見ていて恥ずかしくなる番組として感じていた。なお、同じく「NHK放送史」で一九四六年の「テスト風景」と、「のど自慢素人音楽会」の動画が視聴出来る。]

 駅まで来て、牛尾は折からやって来た電車に、押し合いへし合いしながら乗り込みました。日曜ですから、昼間でも混み合うのでした。窓際に押しつけられて揺られながら、牛尾は眼をパチパチさせて思いました。

『どうも俺も眠いような気がするな。おかしいな。早起きしたせいかな』

 頭にぼんやり膜がかかったようで、何かはっきりしないのでした。やがて電車は終点に着きました。扉が一斉に開くと、お客がぞろぞろとホームにあふれ出ました。

『この感じは何かに似ているな』

 ころがるように押し出されながら、牛尾はちらっとそんなことを考えました。そして階段をのぼってブリッジを渡る時、丁度その真下のホームに別の電車が着いたところで、上から見ていると、扉がぱっと開いたと思うとたちまち、お客がぞろぞろぞろっとあふれ出て来るのが眺められました。

『そうだ。パチンコだ』

 と牛尾は思い当りました。それは穴に入るとザラザラッと出てくる、あのパチンコ玉の感じにそっくりなのでした。牛尾はちょっと可笑(おか)しくなって、にやにや笑いました。

『久しぶりにパチンコでもやってみるか』

 日曜の昼の盛り場は、もう人間で満員です。その雑沓を縫って、牛尾はふらふらと歩きながら、ポケットから例の丸薬をつまみ出して、八粒ほど口にほうりこみました。もう少しは慣れたので、水がなくてもらくに嚥み下せるのです。それから横町に曲り、一軒の大きなパチンコ店に入り、玉を十箇買い求めました。

 パチンコ屋もあふれるほどの満員でした。

 広い店にパチンコ台が四列縦隊にずらずらと立ち並び、それぞれの台にお客がとりついて玉を弾いているのです。玉を弾く音、チリンジャラジャラジャラッと玉が流れ出る音、ガラス板をたたく音、それに、

「十三番、玉が出ないよおっ」

「三十八番、足りないよっ」

 そんな叫びも交錯して、まるで地獄のようなにぎやかさでした。

 牛尾もやっとのことで空いた台にとりついて、玉を弾き始めました。最初の五箇はむなしく底穴に吸いこまれましたが、六箇目あたりから奇妙に同じコースをたどって十点の穴に入り始め、二十分も経たないうちに、左掌も底皿も、パチンコ玉でいっぱいになってしまいました。これは牛尾が上手だというのではなく、彼の指の力がへんに弱まっていて、精いっぱい弾いてもヒョロヒョロ玉になり、そして同じコースをたどるというわけでした。ヒョロヒョロ玉ですから、釘に弾かれても、あまりこたえないのです。こんなに調子がいいのは生れて初めてなので、牛尾はもちろん大喜びで、なおも玉を入れようとした時、パチンコ台の上から声がして、

「お客さん。この台は今日はこれでおしまいです」

 びっくりして見上げると、平べったい女の顔がのぞいていて、それが牛尾に声をかけているのでした。そして『打止め』という紙を、牛尾の眼の前のガラス板にべたりと貼りつけたのです。 牛尾は急に面白くなくなって、玉を全部かき集めて、そこを離れました。そして別の台でも少しやろうとも思ったのですが、どこも空いていないものですから、余儀なく景品引換所で玉を煙草と交換しました。煙草は日本専売公社製品の『光』が六箇と、それに玉が四箇残ったのです。彼はそれを分散して各ポケットに押し込み、再びふらふらと表に出ました。眠いようなうつらうつらとした感じでした。

[やぶちゃん注:「光」個人ブログ「アリタリアfujiのブログ」の「両切り煙草 ”光”の数奇な運命:日本専売公社」に発売から表記変更や値段まで、非常に詳しい。現物パッケージの画像もある。ウィキなどの記載では戦後の発売とされているが、それは誤りで、昭和一一(一九三六)年十一月二十四日に販売が開始され、昭和四〇(一九六五)年二月に製造中止となっている。]

『将棋だのパチンコだのには、運がついているな』大通りの方にとって返しながら、牛尾は考えました。『これもやはりあの丸薬のおかげかな』

 午後の大通りは、この間[やぶちゃん注:「あいだ」。読点が欲しい。]露店が撤廃されたのに、それでも歩道は狭すぎると見え、人混みは車道にまであふれていました。牛尾もその中にまぎれ込み、のろのろと自動的に動いているうちに、だんだん店側の方に押され、肩ががたりと何かにぶつかりました。びっくりして振り向くと、そこは大きな豪華な衣裳店の店先で、彼がぶつかったのは、柔かそうな春の衣裳をまとったマネキン人形なのでした。白磁(はくじ)のようにすべすべしたその顔が、つめたく牛尾の顔を見おろしているのです。なにか磁気みたいなものが、その瞬間、牛尾の身体をズンと走り抜けたようでした。

『きれいだな』口をぽかんとあけて牛尾は思いました。

『妖(あや)しいほどの美しさだな』

 ふと眼をうつすと、奥行き深い衣裳店の壁際の台に、同じようなマネキン人形がそれぞれの衣裳をまとって、ずらりと並んでいるのです。そこで牛尾は思わずふらふらと店の中に入りこみました。店の中は女客ばかりですから、牛尾の姿は目立つと見え、売子たちもへんな顔で彼を眺めています。そんな視線にも気付かず、人形の顔や衣裳をひとつひとつ眺めながら、牛尾はのろのろと奥の方に進んで行きました。

 店の突当りまで来た時、牛尾の頰は何かショックを受けたみたいに、びりりと慄えました。一番終りの場所のそのマネキン人形は、どういうわけか靴下だけ穿(は)いて、あとは何も着けない真裸だったのです。

 それはややうつむき加減の、乙女らしいはじらいを見せたポーズの人形なのでした。もちろん等身大です。磨き上げたようなその肌、ふくよかな乳房の形、なだらかな腰の線、ナイロンのストッキングにおおわれたすらりとした脚。台の上に立っているのですから、うつむき加減のその顔は、丁度(ちょうど)牛尾を眺めているようで、その単純な眼の色は、ひとしきり彼を誘いかけてくるようでした。突然牛尾は妖しく血が湧き立って、思わず脚ががくがくと慄えたのです。やがて彼はごくんと唾をのみこむと、我にかえったように左右を見廻し、店内の女客たちの視線の中を、まぶしげに表に飛び出しました。そしてふたたびこそこそと雑沓の中にまぎれこみました。

「すごかったなあ、あれは」

 店から離れて半町ほども動いた頃、牛尾は大きな溜息と共に、口の中で呟(つぶや)きました。自分の体内の欲望を自覚したのは、ほとんど三箇月ぶりだったのです。そのことを今彼は考えているのでした。ここ暫(しばら)く美女にも美食にも全然興味が動かなかったのに、あのマネキンの姿体に身内が騒いだというのも、猿髄丸の利(き)き目がようやくあらわれてきたのではないだろうか。きっとそれに違いない。

『よし』と彼はうなずきました。彼の眼は行人の頭ごしに、車道を越えたむこうの通りの劇場の、貼りビラを眺めているのでした。それは裸女が身をくねらして踊っている図柄でした。牛尾は自らの欲望を、も一度ためしてみる気になったのです。『よし。ストリップを見てやろう』

 シナリオの題材探しという最初の目的も、すっかり忘れてしまって、牛尾は大急ぎで車道を横切り、札売場の前に立ちました。

 階段をのぼり廊下を通り、横扉から暗い客席に入ったとたん、ショウが丁度(ちょうど)終ったらしく、幕がするすると下り、電燈がぱっとつきました。そしてばらばらと椅子客が立つもようです。そこで牛尾は大あわてして肱(ひじ)を張り、人を押したり突いたりして脚を動かしました。彼の掌に突き飛ばされて通路にころがった青年もあったくらいです。牛尾はそれを踏み越えて突進し、まことに好運にも、最前列の席のひとつを確保することが出来ました。夢中でそこにころがりこんで、さて調べてみると、無茶苦茶に押し合いへし合いしたせいか、さきほど獲得したばかりのポケットの煙草は、みんな平たく潰れたり歪んだりしていました。それでも彼は、良い席がとれたことに満足して、すっかりにこにこしながら、ポケットの中から猿髄丸をとり出して、また五粒か六粒ほど食べました。

 一方、牛尾から通路に突き転がされた青年は、やっとのことで起き上り、鼻を押えながらあたりを見廻しましたが、もうどの席もふさがってしまったものですから、やむなく元の立見席に戻ってきました。そしてざらざら壁によりかかり、憂鬱そうに鼻の頭を撫でていました。ころがった拍子に、コンクリの床で鼻をすりむいたらしいのです。青年は手巾(ハンカチ)をとり出してそこを押え、かすかに呟きました。

「運が悪かったなあ」

 やがてボックスに楽士たちが出てきて、ペルが高らかに鳴りひびき、幕がしずしずと上り始めました。

 牛尾は大きく眼を見開き、身体を半分椅子から乗り出していました。その直ぐ鼻の前で音楽がジャカジャカジャンと始まったのです。この度はジャカジャカショウという一幕なのでした。

 さて、音楽は高く低く鳴りわたり、赤や青の照明は右や左に飛び交い、舞台では申し訳程度の小布をつけた裸女たちが、しきりに踊ったりはねたりしました。それがさあっと両袖に引込むと、こんどは別の女たちが出てきて、白黒だんだらの裾をすっかり捲(まく)り上げ、黒絹靴下の脚を上げ下げして、目もあやなカンカン踊りです。

 牛尾は眼をむくようにして舞台を眺めているのですが、どうも身内に応えるものがないらしく、ぶつぶつと呟きました。

「こりゃおかしいな。何も感じないぞ。どうしたのかな」

 舞台は次々に変転し、黒いドレスを着た女が頽廃(たいはい)的な歌をうたったり、突出し花道に三人の裸女が出てきて、音楽に合わせて腰を振ったり、色んな場面がありました。客席からは掛声がかかったり口笛の声援が飛んだりして、なかなかにぎやかです。どんな連中がそんな声授をしているのかと、牛尾がふり返って見ますと、薄暗い客席は立見席までぎっしり満員になっているのでした。

『こんなショウのどこが面白くて――』と牛尾は視線を戻しながら思いました。『みんな百八十円も出して見に来るのかなあ』

 さっきから裸の肉体をたくさん見せつけられているのですが、あのマネキン人形に感じたような情念が、いっこうに湧いてこないのです。湧いて来ないだけでなく、たとえば今眼の前でやっているアクロバットストリップなど、牛尾にとってはぜんぜん無意味な感じで、

『あの女はなんで一所懸命に、曲ったりそりくりかえったり、折れ畳んだりしているのだろう。まるで関節の抜けたカニかシャコみたいじゃないか。またチューインガムの嚙み滓(かす)にも似ているな』

 などと考えたりして眺めていたのです。

 そのアクロバット女が、体自体がひとつの輪になって、床を回転しながら舞台を引っこんで行きますと、一応音楽がはたと止み、こんどはヴァイオリンが嫋々(じょうじょう)たる音を立てて鳴り出しました。観客席もしんとなって、次に舞台にあらわれ出るものをじっと待っている様子です。牛尾がプログラムを拡げてしらべて見ますと、次の場は『ハリー・猫山』の踊りとなっていました。その活字の具合からして、ハリー・猫山というのは、この館随一の人気ストリッパーらしいのでした。

 舞台の正面のカーテンがさっと両方に開くと、そこに円い壇がしつらえてあって、照明がパッとそこに降りそそぎました。バタフライひとつのしなやかな裸身が、両手を上に伸ばして、気取ったポーズをつくっているのです。客席のあちこちから口笛がひゅうひゅう鳴り、

「ハリー・猫山あ」

 という声が三つも四つも上りました。これは、猫のような魅惑的な眼と、猫のように柔軟な姿体をもって、斯界(しかい)の人気をあつめている女優なのでした。

 やがてハリー・猫山は上方に差し伸べていた双手(もろて)を、勿体をつけて腰のあたりまでゆるゆる引きおろすと、猫のように身軽に壇から飛び降り、縦横に踊り始めました。両手をそろえて空を引っかいたり、脇腹を意味ありげにこすってみたり、両腕を海藻のようにゆらゆらさせたり、それは千変万化の動き方です。しかもその顔は終始にこやかに笑みを含み、眼は魅惑的にきらきら輝いているのです。あまたの視線をひとつに集めて、悠々せまらず、まことに自信ありげな舞台姿でした。ところがそういうこの世のものならぬ美しい裸身も、牛尾の鈍磨した情念の琴線(きんせん)には、ほとんど触れてこないような感じだったのです。

『なんだか意味がないな。あんなに無意味に動くエネルギーでもって、うどんでもこねたら、これは旨(うま)い手打うどんが出来るだろう』

 しかし次の瞬間、牛尾は急に不安な感じにおそわれました。そういう感じ方をする自分自身に対してです。

『おかしいな。あの薬をのんで以来、将棋やパチンコはうまく行ったが、シナリオはぜんぜん駄目だし、マネキン人形には情慾を感じたが、本物の女には何も感じない。これは少しばかりおかしいぞ』

 そして牛尾は手をポケットにつっこみ、無意識裡(り)に丸いものをつまんで、ポイと口にほうり入れましたが、これは固いパチンコ玉だったので、彼はあわててそれを吐き出しました。玉は床にコチンと鳴って、ころころと椅子の下に転がりこみました。つづいて彼は再びポケットを探り、こんどは間違いなく薬箱をつまみ出しました。すると箱からすこし食(は)み出ている紙片があって、引きずり出すと、それはどうも効能書らしいのでした。彼はそれを読み返してみる気になって、紙をがさがさとひろげ、ボックスの光に透かしながら、一行一句を目で拾い始めました。

 ハリー・猫山は舞台で悠々と踊っておりましたが、ふと見ると、最前席にかけている変な男が、こちらの方は見ずに、何か紙きれを読んでいる様子ですから、それが妙に神経に障ってきたのです。彼女はしなやかに踊りをつづけながらも、ちらっちらっと牛尾の方に視線をそそいでいました。

『この劇場に来て、あたしの踊りを見ないなんて、何という妙な男だろう』

 つまり彼女は自尊心を傷つけられたのです。ハリー・猫山というのは、自分の肉体にひきつけられないような男はこの世に一人もいない、そういう風(ふう)に思い込んでいるようなタイプの女なのでした。そこで彼女はすこし怒って、踊りのコースを変え、牛尾の前面の舞台に身体を移動してきました。これはちかぢかに肉体を見せつけて、牛尾の顔を上げさせようという魂胆なのでした。

 一方牛尾の方は、丹念に文言(もんごん)を拾って読んでみたのですが、やはり自分の症状に適しているようで、別に疑わしい字句も見当りません。こんどは欄外に眼をうつすと、そこには薄れて消えかけた赤色文字で『注意』とあり、その下に小さな字で、ごちゃごちゃと何か書いてあるようです。彼は眼を近づけてそこを読みました。

『注意・如上ノ症状ニ本剤ハ神効卓能アレドモ、万一古温シテ青黴(アオカビ)ヲ生ゼル場合ニハ、服用者ニ逆ノ作用ヲ及ボスモノナルニ仍(ヨ)ツテ、特ニ注意セラレタシ。猿髄丸本舗主人識』

 驚愕(きょうがく)が胸をぐんと衝きあげてきて、牛尾は椅子の上で五寸ばかり飛び上りました。彼の記憶では、まさしくあの丸薬には、青黒い黴が一面に生えていたからです。

 同時にハリー・猫山の裸身が微妙に痙攣(けいれん)して、咽喉(のど)の奥がヒクッと鳴りました。牛尾が飛び上ったのを見て、とたんにしゃっくりを起したのです。彼女はやや狼狽(ろうばい)しました。踊りの動きを控え、呼吸をととのえて鎮めようとしても、意地が悪いものでそれはますますひどくなる一方です。ヒクッ。ヒクッ。その度に総身が痙攣する。しかし観客席の方からは、むしろそれは新型のなまめかしい技巧に見えるらしく、口笛や掛声が盛んに上っているのですが、当人はなかなか苦しいのです。なるだけ背中の方を見せて、踊るようにしていました。正面ばかりを向いていると、しゃっくりだと見破られるおそれがあるからです。

 すると、横の立見席の一隅で、その背中の動きに感応したように、ヒックという音が鳴りました。さっき突き転がされて鼻の頭をすりむいたあの青年の咽喉です。青年はおどろいてハンカチで口を押えましたが、もう間に合いません。横隔膜の痙攣は、正確な間隔をおいて、しだいに強まってくるようです。青年はあたりに気がねして、しきりに息を止めたりうつむいたりしていましたが、どうしてもとまらないものですから、ついに堪(たま)りかねたように人混みをかきわけ、廊下に飛び出してしまいました。そして窓ぎわに立って、大きく深呼吸をしたのです。それでもとまる気配はありませんでした。

「ヒック。どうも僕は他人の影響を受けやすいようだが」

と青年はかなしそうに呟きました。『それも僕が偽物だという証拠かな』

 ハリー・猫山のしゃっくりを見破った少数の観客の一人が、この青年なのでした。何故すぐ判ったかと言うと、青年はこの一箇月ほどしょっちゅうこの劇場に通っていて、ハリー・猫山の踊りをすっかり知っていたからです。つまり青年は彼女の舞台姿を憧憬(どうけい)し熱愛しているのでした。毎日通ってくるというのも、ただただ彼女の猫のような瞳を眺めたい一心だったのです。そういう彼が、ハリー・猫山の肉体の突然の異変を、見破らない筈がありません。恋する者の敏感さをもって、青年は彼女のしゃっくりを感知し、しかもそれに感染してしまったという訳でした。

 青年は残り惜しそうに客席の扉をふり返りましたが、なおも咽喉がヒックと鳴るので、とうとう諦(あきら)めたらしく、背をひるがえして出口に向い、表の通りに出ました。しゃっくりは直らないし、鼻の頭はひりひりするし、しごく憂鬱な気分でした。

 巷(ちまた)はもう黄昏(たそがれ)でした。しかし大きな盛り場ですから、眩(まば)ゆいまでの燈の行列で、相変らず歩道にはぞろぞろと人が通っています。青年はハンカチで鼻と口をおおい、まっすぐに駅の裏手をさして歩いて行きました。それから曲って坂をのぼり、陸橋の上までやってきた時、西の空が赤く焼け、その七彩が遠くの森の樹々の形を黒く浮び上らせていました。風は電線を鳴らせて吹いています。

『こんなふうに風が吹くと――』と黒い森の樹立を遠望しながら、青年は何となく思いました。『横柄に揺れる樹もあるし、やさしく揺れる樹もある。不承々々揺れる樹もあれば、よろこんでそよぐ樹もある』

 陸橋を渡り終えると、そこから始まるごみごみした一郭に、青年の姿は入って行きました。そして彼は立ち止り、角から三軒目の、歪んだような小さな飲屋の油障子を、そっと押しあけながら言いました。

「今晩は」

「あら。犬丸さん。マダムはまだよ」

 店の中でモツを串にさしていた小女が、振りむいて弾んだ声で答えました。犬丸というのは、その青年の名なのです。

「またストリップ見てきたのね」

「どうして?」

「眼を見れば直ぐに判るわ。悩ましそうな色をしてんだもの。またハリー・猫山でしょう」

 犬丸はヒックと咽喉を鳴らしました。

「あら、しゃっくりなんかしてるよ、この人。おや、鼻の頭はどうしたの」

「駅の階段でころんじゃったんだ」と犬丸はむっとした表情で嘘(うそ)をつきました。

「危いわね。用心しなくちゃあ。どら、よく見せて」

 小女は愛情のこもった眼ざしで、しげしげと犬丸をのぞき込みました。犬丸は女みたいに形のいい眉をかすかに曇らせ、いくらか邪慳(じゃけん)な口調で言いました。

「それよか早くヴァイオリンを出して呉れよ。お香代さん」

「でも、ほっとくとバイキンが入るわ。待ってらっしゃい。バンソウコウを貼ったげるから」

「そんなもの、鼻の頭に貼って、街を流せるかい」と犬丸はつっけんどんに言いました。早く「ヴァイオリン。ヒック」

 香代はちょっとしょげたような顔になり、よごれた手を布巾でふいて、棚の上から黒いケースをおろしました。犬丸はそれを受取って、中からヴィオリンをとり出し、糸をピンと撥(はじ)きました。眉根を寄せているのは、この小女の愛情が小うるさくもあったのですが、いろんな事情で全体的に憂鬱な気分だったからでした。

「じゃ、行って来るよ」

 犬丸はそっけなく言い捨てて、楽器をいきなり小脇にかかえ、すっと表に出ました。外はもうよほど暗くなっています。彼はごみごみした一郭を抜け、また陸橋の方に戻り、そしてさっきの坂をゆるゆると降りて行きました。

『もう本当に、流しヴァイオリンなんか止めたいな』

 うなだれて歩きながら、犬丸は今まで何度となく考えたことをまた考えました。この界隈で毎晩酔客相手にヴァイオリンを弾くのが、彼の一年前からの職業でした。何の感激もなくヴァイオリンを弾いている、それが彼には面白くないのでした。しかしそうでもしなければ、彼は食べて行けないのです。家からヴァイオリンを持って出るのは厭なので、そこでさっきの飲屋にケースぐるみ預け、夕方に寄ってそれを受取り、夜遅くまた預けにゆく、そんな方法を彼はとっているのでした。それは彼の虚栄心でもあったわけです。

『憂鬱だな。やはり僕は偽物かな』

 犬丸を憂鬱にしている最大のことは、実は昨夜の出来事なのでした。昨夜、彼がヴァイオリンをぶら下げて、あるバーに入って行くと、そこに酔っぱらった客がいて、

「これ、犬丸」

 と大声で彼の名を呼んだのです。びっくりして振り向くと、その卓にかけているのは、彼の昔のヴァイオリンの先生なのでした。彼はぎょっとしました。先生といっても、少年時代に五年間ばかりついただけで、今は何も関係はないのですが、やはり先生は先生ですから、つい身がすくむような感じがしたのでした。勿論先生は、一目で彼の今の職業を悟ったらしく、すこし怒ったような顔で言いました。

「これ。犬丸青年。ここに立て!」

 犬丸は先生の前に立ちました。

 先生はちょっと首をかしげて、何か考えていましたが、やがて厳然と言いました。

「フュネラルマーチをやってみろ」

 犬丸は楽器を顎にはさみ、弓をきっと構え、そしてしずかに弾き出しました。曲が三分の一も行かないのに、先生は卓を叩いて、大声で怒鳴りました。昔通りの口調です。

「肱(ひじ)が直線を画(えが)いてない!」

 犬丸は肱の形を直し、つづいて先をつづけました。すると次の一小節も行かないうちに、また先生が怒鳴りました。

「小指の形が悪い。なっとらん」

 犬丸があわてて小指の形をととのえようとすると、先生は手をひらひらと振りました。

「もういい。止めろ、そんな具合では、もう君は偽物だ。それ、これが弾き賃だ」

 見ると一枚の百円札が卓の端に乗っかっているのでした。犬丸はそれを見ると、急に悲しくなってきて、とりすがるように言いました。

「先生。それは無理です。僕は兵隊にとられていたもんで、それで指がかたくなってしまったんです」

「戦争とヴァイオリンとは、関係ない!」と先生はきめつけました。「君の心は張りがなくなっている。ゆるんでるだけじゃなく、乱れとる。その乱れがヴァイオリンにそっくり出ているんだ。もう君は駄目だ。失格だ」

 復員してみると何もかも焼けてしまって、すっかり貧乏になっていて、新しく先生について習うことも出来ない。それどころかこれを生活の糧(かて)としなければならぬ今の事情を、訴えて話そうかと思ったのですが、先生はすっかり酔っているらしいし、聞く耳持たぬといったそぶりだったので、彼は泣き出したいような気持で頭をぺこりと下げ、いきなりそのバーを飛び出しました。すると先生は卓上の百円札をとり上げ、何か叫んで呼びとめる様子でしたが、犬丸はあとも見ず小走りに走って逃げたのです。そしてその夜は、もうどこにも寄らず、楽器を預けてまっすぐに家に帰ったのでした。

[やぶちゃん注:「フュネラルマーチ」“funeral march”。葬送行進曲。ショパンの知られたそれ。]

 そして今朝起きてからも憂鬱で、よっぽど当分休もうかとも思ったのですが、家に籠(こも)るのは淋しくもあるし、ハリー・猫山の姿も見たいという訳で、ついふらふらと出て来た恰好なのです。それに昨夜は土曜日で、いい稼ぎ日を逃して残念だという気持も、すこしは動いているのでした。ところがいざ出てきてみると、鼻はすりむくし、しゃっくりには感染するし、その上黄昏(たそがれ)時にもなると昨夜の先生の言葉がしみじみと身に応えてきて、気分がしだいに鉛のように沈んでくるのでした。

『心の乱れというのは、ハリー・猫山のことかな』

 盛り場の裏街の方へ曲り込みながら、犬丸はそんなことを考えました。昨夜のバー付近にはとても行く気がしないので、表通りをはさんで反対側の飲食街を、今夜は廻って見るつもりでした。

 『伝手(つて)を求めて、あの劇場の楽士に雇って貰おうかな。そうすればハリー・猫山の顔は、何時でも只で見られるしな。しかし僕程度の技倆で雇って呉れるかな?』

 とたんにヒックと咽喉(のど)が鳴り、それをきっかけのようにして、犬丸はそこにあった大衆酒場に飛び込みました。そして元気を出して呼び歩きました。

「ええ、一曲。一曲いかがですか。歌謡曲にシャンソン」

 お客たちはがやがやしゃべったり笑い合ったりしているばかりで、誰一人として彼の方を、振り向いてさえ呉れません。犬丸にとってもここは初めての場所で、調子もうまく出ないのですが、それにしてもひどすぎました。そして彼は手持無沙汰な気持になり、又腹立たしくもなって、ぷいとその店をとび出しました。夜風が鼻の頭にしみて、またヒックとしゃっくりが出ました。

『日曜日の客はダメだな』

 ふつう盛り場では、日曜日の客はばちがいだとされていますが、酔客においても同様でした。土地に働く者にとっては、妙に馴染(なじ)めない客が多いのです。それから三軒ほど廻ってみましたが、いずれもそんな感じの客ばかりで、ヴァイオリンなど聞こうというのは、一人としていないらしいのでした。犬丸はそろそろ嫌気がさしてきましたが、我慢して四軒目に飛び込みました。そこは小さな腰掛け式のおでん屋でした。

「ええ。ヴァイオリンを一丁。一丁いかがですか。トンコ節にラブソング。映画の主題歌に、懐かしのメロディ。ええ。ヴァイオリン一丁」

「そのヴァイオリン、売るのか」

 隅の方でそんな声がしました。それは相当酔っぱらった中年男です。

「いえ。弾くだけです」

「じゃ弾け」

「何をお弾き致しましょう」

「なにい。曲目か」タコの脚を横ぐわえにしながら、その客は呂律(ろれつ)の乱れた声で言いました。「じゃ、とんでも八ベえネ、というやつをやって呉れ」

「さあ。どんなんでございましょう」

「へえ。知らないのか。じゃ、博多おけさをやれ」

 あまり聞いたことのないような曲目ばかりですから、犬丸が黙っていますと、そのお客はすこし怒ったらしい様子でした。

「なんだ。これも知らねえのか。だらしがねえな。じゃ、証城寺の狸ばやしをやれ」

 そこで犬丸は弓をとり直して、調子よく弾き始めましたが、ツソツン月夜のところでヒックとしゃっくりが出たものですから、とたんに調子が乱れて狂ってしまいました。犬丸は恐縮して言いました。

「もう一度やり直します」

 ところが今度も、皆出て来い来い来い、という箇所で、しゃっくりが飛び出し、曲は尻切れとんぼになってしまいました。息を詰めて我慢していたのですが、我慢し切れなくなってヒックと飛び出したのです。お客は怒って言いました。

「お前は駄目だ。偽物だ」

 昨夜の先生の言葉と同じだったものですから、犬丸はぎくりとして、のれんを分けて横っ飛びに飛び出ました。

[やぶちゃん注:「トンコ節」は昭和二四(一九四九)年一月に久保幸江と楠木繁夫のデュエットとして日本コロムビアから発売された曲、また、昭和二六(一九五一)年三月に同じく久保幸江が新人歌手であった加藤雅夫と共に吹き込んだ新版の曲で、作詞は西條八十、作曲は古賀政男である。所謂、「お座敷ソング」の一つ。参照した当該ウィキによれば、『新版を発売するにあたりコロムビアは、引き続きの作詞者である西條八十に対して「宴会でトラになった連中向きの唄を」と依頼しており、それに応える形で八十は当時としてはエロ味たっぷりの文句に書き直した。評論家の大宅壮一はこれを「声のストリップ」として批判している』とあった。初版の歌詞はこちらで、再版の歌詞はこちらと思われる。初版の音源はYouTube の「昭和保存会」のこちらで聴ける。

「とんでも八ベえネ」不詳。

「博多おけさ」不詳。「おけさ節」は新潟県の民謡で、特に「佐渡おけさ」が知られるが、これが日本各地に伝播して行ったから、「博多おけさ」もあっても不思議ではない。

「証城寺の狸ばやし」知られた童謡「証城寺の狸囃子(しょうじょうじのたぬきばやし)」。作詞は野口雨情、作曲は中山晋平。千葉県木更津市の證誠寺に伝わる「狸囃子伝説」に想を得たもので、曲は大正一四(一九二五)年に発表されている。]

『これは困ったぞ。今夜は商売にならないぞ』

 重ね重ねの不運に滅入ってしまうような気分でしたが、それでも彼は気をとり直してすたすたと歩き、やがて淋しい路地の曲り角のごみ捨て場の前に立ち止りました。月の光に照らされて、そこにはだしがらの煮干がたくさん捨ててありました。それを眺めながら、彼は楽器を顎(あご)にはさみ、弓をはすに構えたのです。

『さっきのタコは旨そうだったな』犬丸は少々おなかが空いているので、そんなことを思いました。『タコだって魚だし、煮干だって魚だしと。何が本物か偽物か、誰にだって判るもんか』

 やがて彼は音を押えて、しずかに練習曲を弾き始めました。人気(ひとけ)のないところで、ちょっと試してみるつもりだったのです。しかし三十秒も経たないうちに、例のヒックが飛び出してきたものですから、がっかりしたように楽器をおろしながら、彼は呟(つぶや)きました。「よし。今夜は商売は中止だ。どこかでおでんでも食べてまっすぐ帰ろう」

 それから彼は再び、すたすたと賑かな方にとって返し、あちこちのぞいて、お客が入っていない店をやっと探し当て、ずいと中に入りました。楽器を持っているので、他の客と同席したくなかったのです。丸椅子に腰をおろしながら言いました。

「おでんを下さい。あ、それから、お酒を一本」

 空腹なので、そのお酒は腸にしみ渡りました。一本あけると、いくらか憂鬱と自己嫌悪がうすらいだようなので、犬丸はちょっと考えて、二本目を注文しました。彼はふだんは酒は全然やらないのですが、今夜はむしょうに飲んでみたいのでした。彼はタコの脚を食べながら、やがて二本目も飲んでしまいました。すると何が何でもいいような感じとなり、しゃっくりもそれほど気にならなくなってきました。むしろこう考えて楽しい気持にさえなって来たのです。

『このしゃっくりでもって、僕はハリー・猫山とつながっている』

 それからふと思い付いて、彼は立ち上り、ヴァイオリンを持ちました。そして勢いよくさっきの『証城寺』を弾き始めました。店の小女がびっくりしたような顔で眺めています。ヒックとしゃっくりが出ました。しかしこの度はほとんど音は乱れず、すっすっと進んで行きました。酔って大胆になったせいでしょう。

『こういう具合なんだな』

 またヒックと痙攣(けいれん)がきました。でもメロディはなだらかに流れて行きます。彼はすこし楽しくなって手を休め、小女に注文しました。

「酒もう一本と、タコ一皿」

 それから二十分後、彼は相当にいい気持になって、その店を出ました。そして左右の店を物色しながら、ふらふらと歩き出しました。しゃっくりも邪魔にならなくなったし、今の店で相当に散財もしたものですから、すこし稼いで行く気になったのでした。

 時間的に言うと、今頃がいちばん酔客が盛る時刻で、どの店にも相当の人影が動いていました。わっわっと騒ぐ声も聞えます。しかし犬丸はさっきの経験でこりたので、気前よくヴァイオリンを聞きそうな客をえらんで、店々をじろじろのぞいて歩きました。それは彼の経験から言うと、三人か四人の組で、愉快そうに議論などしているようなのが、彼の一番いいおとくいなのです。独り客だとか学生客などは、割に駄目でした。

 そうやって歩いているうちに、彼もそろそろ酔いが廻って来たようです。足もとがすこし危くなり、時にはよろよろとよろめいたりして、頰もすっかり赤くなっているのです。

「ええ、一曲。ええ、一丁。ええ、一曲」

 そんなことを呟きながら、彼は店先から店先へわたって歩きました。

 最初に彼をつかまえたのは、予想通り、しきりに議論している一組でした。それはこの世の中で何が一番旨(うま)いかという議論なのでした。一人は河豚(ふぐ)の刺身(さしみ)だというし、次の一人は松阪の霜降(しもふり)牛肉だというし、残りの一人は、酔いざめの水が一等旨いという主張なのでした。

「酔いざめの水は旨いよ。この世にこんな旨いものはない。俺はその為に毎晩酒を飲んでいるんだ」

 犬丸を呼びとめたのは、この男です。そして犬丸は『かっぽれ』其の他を弾き、百円札を一枚貰いました。

[やぶちゃん注:「かっぽれ」「カッポレカッポレ甘茶でカッポレ」という囃子言葉のある俗謡に合わせて踊る滑稽な踊り、或は、その歌を指す。幕末に起こり、明治中期頃、全盛を極めた。元は「豊年踊り」或いは「住吉踊り」(大阪の住吉大社の御田植(おたうえ)神事で行われる住吉の御田植の踊りで、戦国頃から、住吉神宮寺の僧が、京阪の各町村を廻って勧進したことから有名になり、江戸時代には乞食坊主の願人坊主らが大道芸として全国に流布させた)から出たものという。大道芸であったが、歌舞伎の所作事になり、寄席演芸にもなった。例えば、YouTube の「日本大衆文化倉庫」の「端唄 かっぽれ 藤本二三吉」を聴かれたい(歌詞字幕も出る)。]

 また別の店では、愛情とは何かという議論が始まっていました。この一座はあまり容貌風采もぱっとしない、男女間の愛情などにもっとも関係のなさそうな連中でした。しかし世の中では、えてしてそういうのが、とかく愛情について議論したがるようですな。その中の一人がいきり立って言いました。

「好きだってことは、一方的なことだ。こちらが好きになったって、相手がこちらを好くとは限らないぞ」

「いや、愛情とは、両方からもたれ合ってるようなものだ」

「ちがう、ちがう。そんなもんじゃない。たとえばこの俺が、マグロを好きだと言ってみろ。マグロにとっちゃ、俺から好かれて、大迷惑な話だろ。な、そうだろ。切身にされて食べられちゃうんだからな。人間同士だって同じさ。人間同士だって、国同士だって――」

 そこへ犬丸がヴァイオリンを提(さ)げて、ふらふらと姿を現わしたものですから、この他愛ない議論はたちまち終りを告げ、愛にあふれた名曲を聞こうということになり、『愛のタンゴ』其の他が演奏されました。犬丸はもう相当に手付きもあやしく、音階も少しずつずれているようなのですが、聴者の耳も少しずつずれているので、なかなか名演奏に聞えたらしいのでした。一座は腕を組み合わせて、楽器に合わせて一緒に唄ったりしたほどです。演奏が終ると、その中の一人などは、自分の名刺を犬丸に渡し、某交響楽団に推薦するから何時でも訪ねてこいと、肩をたたいて激励したりしました。

[やぶちゃん注:「愛のタンゴ」ディック・ミネのジャズ・ソングで、昭和一一(一九三六)年十一月新譜。YouTube の「Hiro Studio」のこちらで蓄音機版で聴ける。]

 夜もだんだん更(ふ)けて参りました。

 駅の正面出入口では、もうそこから出てくる人はほとんどなくて、ぞろぞろと吸いこまれて行く人影ばかりです。その駅近くのある一杯屋では、五六人の男がかんかんがくがくと、平和についてしゃべり合っておりました。みんなそれぞれひとかどの平和信奉者らしいのでした。平和には二種類あるんだとか、お前のはコップの中の平和だとか、きめつけたりきめつけられたりして、議論はいつまでも果てしがありません。妙にとげとげした空気もただよってきて、他の客もよりつかず、一杯屋のお内儀(かみ)も持て余し気味になってきた頃、

「ええ、一曲。ええ、一丁。ヴァイオリンはいかがですか」

 と、ふらふら腰の犬丸がのぞきこんだものですから、お内儀はいい汐どきだとばかり、口をそえました。

「お客さんたち、ヴァイオリン、お聞きになりません? この人、とてもいい腕を持っているんですよ」

「なにい。良い腕だ?」と一人がぎろりと眼を上げました。「じゃあ、やれえ。シューペルト」

「シューベルトの何にしましょう」

「そら、あれだ。タッタカタッタ、タッタカタッタア。軍隊行進曲」

 何だかうるさそうな連中なので、犬丸も気を引きしめて弓を持ち、そして弾き始めました。緊張して弾いたせいか、それほど音も狂わず、どうにか最後まで弾き終りました。

[やぶちゃん注:「シューベルトの」「軍隊行進曲」YouTube で幾つか聴き比べてみたが、取り敢えず「ピティナ ピアノチャンネル PTNA」の「シューベルト(松原幸広編曲)/ 軍隊行進曲(デュオ)」(ピアノとヴァイオリンのデュオ)をリンクさせておく。]

「うまい」

 とその男が大声で賞めました。そこで犬丸もにこにこして、ちょっとは気がゆるんだらしいのです。すると別の男がいきなり、

「勝って来るぞと勇ましく。あれをやって呉れえ」

 と怒鳴ったものですから、犬丸はあわてて弓をとり直しました。犬丸は兵隊の辛い体験から、軍歌は全然好きではないのですが、商売だから仕方がないのでした。そして眼をつむって、さっと弾き出すと、やがてヒックと大きなしゃっくりがやって来て、とたんにメロディがずれたらしく、他の歌になってしまいました。

「そりゃストトン節じゃないかあ」

 その声ではっと気が付くと、それはまさしくストトン節になっていたのです。どうも軍歌の節が、しゃっくりの瞬間に、『厭なら厭だとさいしょから』という部分につながってしまったらしいのでした。犬丸が狼狽して弓をとり直しかけると、また別の声が、

「さらばラバウル」

 と叫んだので、ろくに調子もしらべず、彼は弓をいきなり動かし始めました。注文した男はうっとりと眼を閉じて、それに合わせて口吟(くちずさ)んでいる風(ふう)でしたが、再びヒックと横隔膜がひきつれた瞬間、犬丸の手元が又もや狂ったらしいのです。ラバウルのメロディが何時の間にか『枯すすき』に変っていて、犬丸の弓は自然と『――花も咲かない枯すすき』という風(ふう)に動いていたのでした。

 重ね重ねの失態に、この平和信奉者たちはすっかり呆れたり気分をこわしたりして、五六人もで聞いたのに、犬丸が貰ったのは、たった三十円ぼっちでした。

 かれこれしているうちに、しんしんと夜が更(ふ)けて、終電の時間がようやく近づいてきたようです。さすがの盛り場もだんだん人影がまばらとなり、あちこちの店ががらがらと戸を立て始めました。人気(ひとけ)のない広い車道を風が吹き抜けて、紙くずやごみなどがちりちりに走って行きます。駅の横手では、浮浪者たちが木片や新聞紙をあつめて、焚火を始めた模様です。

 あの陸橋の上を、犬丸青年がヴァイオリンを小脇にかかえて、小走りに走っています。そしてごみごみした一郭に姿を消すと、二分間ぐらい経って、又その姿は小走りに現われてきました。それから道を大急ぎで横切り、駅の裏口の方にかけて行き、やがてそれは建物の中にかくれて見えなくなってしまいました。

 それを最後として、陸橋にも坂にも道にも、人影はすっかり絶え果てたようです。黒い家並、遠くの森、傾いた地平。

 空には大きな春の月が出ています。盛り場の塵埃(じんあい)を通すせいか、赤黒く濁って、汚れた血のような色です。まだすこし欠けているようですが、もう満月になるのも、明日か明後日のことでしょう。

 あとはただ、夜風が吹いているだけです。

[やぶちゃん注:「勝って来るぞと勇ましく」が歌い出しの「露営の歌」は、古関裕而の作曲で、籔内喜一郎の作詞(これは新聞社による公募作品)。昭和一二(一九三七)年九月発売の戦時歌謡。YouTube 東海林太郎氏の「オリジナルSP復刻」の「露営の歌 中野忠晴・霧島昇・伊藤久男・松平晃・佐々木章」をリンクさせておく。

「ストトン節」大正一三(一九二四)年頃に流行した俗謡で、歌詞は複数あるが、例えばこれYouTube ロデタロ氏の「ストトン節 豆千代」をリンクさせておく。

「さらばラバウル」戦時歌謡「ラバウル小唄」。当該ウィキによれば、作詞は若杉雄三郎、作曲は島口駒夫。昭和二〇(一九四五)年発売だが、この歌は、実は、もともとは昭和一五(一九四〇)年にビクターより発売された「南洋航路」(作詞作曲は同前で、歌・新田八郎)が元歌である。『歌詞に太平洋戦争の日本海軍の拠点であったラバウルの地名が入っていたこともあり、南方から撤退する兵士たちによって好んで歌われ、復員後に広められた。このため、戦争末期の日本で、レコードとしてでなく、先に俗謡として流行した』とある。元歌であるYouTube wagamasurao800氏の「南洋航路」と、同じくYouTube 「日本大衆文化倉庫」の『軍歌 「ラバウル小唄」』をリンクさせておく。

「枯すすき」「船頭小唄」。これは歌謡曲の題名であり、大正一〇(一九二一)年三月三十日に民謡「枯れすすき」として野口雨情が作詞したものに、中山晋平がメロディをつけたもの。翌大正十一年に神田春盛堂から詩集「新作小唄」の中で「枯れすすき」を改題して「船頭小唄」として掲載された。YouTube ロデ夏目氏の「歴史的音源 大正演歌 船頭小唄 鳥取春陽」をリンクさせておく。

   *

 さて、本篇は、ややブラッキーな《大人の童話集》という体裁である。語り口が敬体であるのも、また、登場人物の名が、皆、動物に関係する形で命名されている点(「山」「サカエ」、薬屋の「多胡」は「たご」だろうが、ルビを敢えて振らないのは「たこ」を臭わせるためである。唯一人、小女の「香代」だけが免れている)など、そうしたニュアンスを梅崎春生は初めから確信犯として使用していることが判る。また、本篇は優れたオムニバス形式で、それぞれのパート主人公を写していたカメラが、非常に自然に、何気なく次の話のロケーションに自然に繋がって、抵抗なく次の新たな主人公へとパンしてゆく。これは、明かに、当時の映画的手法を応用していることがよく判る。特に私は最後の五段落の、映像は特に物語のコーダとしての作為が全く感じられない点で、優れてリアルなシークエンスとなっていることに、改めて(最初に読んでから四十年余りになる)、これは戦後に齎されたイタリア映画のネオレアリズモを真似た優れた映像となっていることに、甚だ感心した。]

 

2022/10/09

投稿中断

ブログ・アクセス1,830,000が近づいたので、記念テクスト作成のため、「因果物語」電子化注は中断する。

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三十六 精靈棚崩れて亡者寺に來る事」・附「助緣」一覧「中卷」刊記 / 「因果物語」中卷~了

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇以下の中巻の「二十九」から最後の「三十六」及び附記までは全く収録されていない

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。

 本篇の最後の部分には、この巻のみの特異点であるが、「助緣」者(ここまでの採話を助けてくれた関係者)の一覧(但し、地域と僧俗の区別のみ)と「中卷」刊記記載がある。それを後に附けた。

 

   三十六 精靈棚(しやうりやうだな)崩れて亡者寺に來(きた)る事

 尾州智多郡(ちたぐん)、大野(おほの)と云ふ處に、後家あり、一人の娘を持つ。

 宗十郞と云ふ者を、入聟(いりむこ)に取り、子、三人、有りし時、宗十郞、死す。

 七月十四日に、母と、娘と、いさかひて、佛棚(ほとけだな)を打崩(うちくづ)し、備へたる供物を、皆、取り捨てけり。

 旦那寺の泉藏主(せんざうず)、棚經(たなぎやう)誦(よみ)に來り、見れば、棚、打ちくづして有り。

 故に經をも誦まず、寺へ歸り居(ゐ)る處に、死したる宗十郞、白き帷子(かたびら)を着、笠を、かぶり、寺へ來り、佛を拜む。

 庫裡姥(くりうば)、是を見て、

「宗十郞、來(きた)る。」

といへば、泉藏主、聞き、

「それは不思議なり。」

とて、出でゝ見れば、施餓鬼棚(せがきだな)へ登りて、消え失せたり。

 是は、泉藏主、弟子、物語りなり。

 寬永年中のことなり。

[やぶちゃん注:「精靈棚」盂蘭盆に先祖の霊を迎えるための供物を飾る棚。盆棚とも言う。古くは、仏壇を利用せず、庭先や座敷に別に飾り、祖霊を迎えるための特別の祭壇を作った(近年では仏壇の前に設けるのが一般的)。十日から十三日の朝まで作るのが普通だが、新盆の家では、早く、一日から七日までに作るところが多い。仏壇の前の小机の上に真菰(まこも)や茣蓙(ござ)を敷いて、位牌を安置し、祖霊の往復に用いて貰うための、茄子の牛や胡瓜の馬などを作って飾る。その他、果物・菓子・故人の好物などを供える。地方によって違いがある。グーグル画像検索「精霊棚」をリンクしておく。

「尾州智多郡、大野」嘗つての愛知県知多郡大野町(おおのまち)で、現在は同県の常滑市大野町となっている。

「庫裡姥」寺内の厨房方を賄っている老婆であろう。

「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。]

 

 

   助 緣

 武州江戶  緇素若干人

 江州澤山  僧俗若干人

 尾州    緇素若干人

 賀州    僧俗若干人

 越前    僧俗若干人

 肥前    緇素若干人

 肥後    僧俗若干人

 城州・京  緇素若干人

   寬文元辛丑

       臘月上旬日助緣開刊

 

 

因果物語中卷

 

[やぶちゃん注:以上は、謂わば、ここまでの各話の提供者を、形式上、列挙することで、本書を通しての仏教の結縁(けちえん)を施す意味で、ここに記録したものと思われる。これを見て、最後の下巻で、正三に助力しようという者も出てくるであろうことをも予測した、話柄が足らなくならないようにするための用心(ここまでで恐らくは残りの話柄数が、下巻を埋めるに充分ではなかったのかも知れぬ)もあったように思われる。

「緇素若干人」と「僧俗若干人」は全く同じ意味である。「緇」は「黒衣」を指し、「僧衣」のこと、「素」は「白衣」で、「俗人の着る一般の衣服」の意から、僧侶と俗人となる。

「寬文元辛丑」(かのとうし/しんちゆう)「臘月」「臘月上旬」(ろうげつ)は十二月の異名。十二月なので、グレゴリオ暦では既に一六六二年で、一月二十日から二十八日の間ということになる。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三十五 幽靈刀(かたな)を借りて人を切る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇以下の中巻の「二十九」から最後の「三十六」及び附記までは全く収録されていない

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   三十五 幽靈刀(かたな)を借りて人を切る事

 攝州大坂上寺町(うへてらまち)に、淨土寺(じやうどでら)あり。

 旦那、

「日侍(ひまち)をする。」

とて、寺へ集(あつま)りたり。日待の施主、

「用、有り。」

とて、宿(やど)へ行く處に、寺の門外に、女(をんな)一人(にん)立ちて居(ゐ)たり。

「有者ぞ。」

と問へば、

「我は此寺の長老の隱し女なり。我、煩(わづら)ひの中(うち)、長老、申されしは、

『其方、死せば、別の女房、持つまじく。』

と約束ある處に、頓(やが)て、女房を求めらる。其方の脇差、少しの間(ま)、借りたし。」

と云ふ。

「易き事なれども、用、有りて、宿へ行く間(あひだ)、成るまじき。」

と云へば、

「いや。唯今、返すべし。」

と云ふ。

「去らば、借さん。」

とて、さやながら借しけれぱ、十間程、行く内に、早や、來り、脇差を返し、

「其方(そのはう)故に、日比(ひごろ)の遺恨、遂げたり。」

とて、消え失せぬ。

 旦那、宿へ行かず、寺へ歸りて、長老を呼び立て、件(くだん)の由を云ひければ、長老、肝を銷(け)し、方丈へ入りて見れば、女房の首、落ちて有りと聞く。

 寺號も確(たしか)に聞けども、態(わざ)と書かぬなり。

[やぶちゃん注:「攝州大坂上寺町」不詳。寺が判ってしまうとまずいので、町名も変えたか。

「日待」決った夜に行う忌籠(いみごも)りの一つ。「月待」(つきまち)に対するもので、正月・五月・九月の中旬に行われることが多く、その夜は、町人・村人たちが、当番に当てた家(ここでは寺)に寄合って忌籠りし、翌朝、日の出を拝して解散する集まりを言う。「マチ」は、もとは「マツリ」の意と考えられており、人々が集(つど)って、共同飲食する「マツリ」が、次第に「日を待つ」意へと変じたものと思われている。「夜籠り」は、本来は、厳しい斎戒を伴うものであって、その夜は、家の火を清め、当番の主人は、女を避け、総て、男性の手で行う決まりであったが、他の講などの集まり同様、次第に遊興の口実へと変質していった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」を主文として私が手を加えた)。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三十四 乞食を切りて報いを受くる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇以下の中巻の「二十九」から最後の「三十六」及び附記までは全く収録されていない

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   三十四 乞食(こつじき)を切りて報いを受くる事

 江州にて、さる侍の子供、十五歲、十八歲の人、常々、等閑(とうかん)なく咄(はな)しけるが、或時、兩人、町へ出で、乞食(こつじき)居(ゐ)けるに向つて、

「其樣(そやう)にて居たるより、死(しに)たくはないか。」

と問ひければ、

「尤もなり。死(しに)たし。」

と云ふ。

「然(さ)あらば。」

とて、既に切らんとす。

 時に、

「いやいや、死(しに)たくもなし。無埋に殺し給はゞ、祟るべし。」

と云へども、聞かず、終(つひ)に切りたり。

 扨(さて)、十日も過(すぎ)ざるに、兩人、少しの遺恨にて、討果(うちはた)しけり。

 後に聞けば、文(ふみ)の返事せざりし遺恨と、知れたり。

 諸人(しょにん)、

「乞食(こつじき)の報いなり。」

と、云ひあへり、となり。

[やぶちゃん注:「等閑(とうかん)なく」日頃より非常に親しくして、心安い関係の者同士で。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三十三 馬の報いの事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇以下の中巻の「二十九」から最後の「三十六」及び附記までは全く収録されていない

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   三十三 馬の報いの事

 三州野田の中村と云ふ處に、太郞助と云ふ者、若き時、馬の喰ひ合ふを、

「鎌にて、敲(たゝ)き放す。」

とて、鎌を馬の背に打込(うちこ)み、馬を殺しけり。

 彼の者、四十四、五の時、馬に憑かれ、煩(わづら)ひ、馬屋(うまや)に入りて、馬の如くに嗚き、かべなど、かぶり、雜水(ざふすゐ)ばかりを呑み、狂ひ死にけり。

[やぶちゃん注:「三州野田の中村」愛知県名古屋市中村区野田町(のだちょう)か。

「かぶり」「かぶりつく」で、「噛みつき」の意であろう。

「雜水(ざふすゐ)」「すゐ」はママ。実際には近代になって、中国語の音韻研究が進んで後に、「水」の音「スイ」は「スヰ」ではなく、そのままでよいことが判ったのであって、江戸時代以前のものには、「すゐ」の表記は有意に多い。「雜水」は「ざふづ」或いは「ざふみづ」と読むのが正しく、牛や馬などの家畜の飲料や飼料を指す。]

 

○同く野田の町、次兵衞(じひやうゑ)と云ふ伯樂(ばくらう)、寬永五年八月より、馬の眞似して、眼(まなこ)を見出(みいだ)し、怖ろしく鳴き、桶(をけ)ながら、雜水を呑み、五十餘歲にて死にけり。

[やぶちゃん注:「伯樂(ばくらう)」村々を回って農家から牛馬を買い集め、各地の牛馬市などで、これを売り捌く「博勞」の読みを当てたもの。

「寬永五年」一六三四年。]

 

○慶安四年三月、要津(えうしん)長老、京四條の鹽風呂(しほふろ)に入り給ふ處に、宿の向ひの亭主、馬の鳴く眞似す。

 連(つれ)の人、見て、

「是は、只事(たゞごと)ならず。長老、利益(りやく)に吊(とむら)ひ給へ。」

と云ふ。

「尤もなれども、願(ねがは)くは、彼(か)の者、我(われ)を賴めかし。」

とあれば、是を聞き、彼(か)の者、長老を賴む。

「さらば。」

とて、逗留中、七日程、吊ひ給へば、則ち、本復(ほんぶく)す。

「汝、何者ぞ。」

と問ひ給へば、

「本(もと)、馬使(うまつか)ひなり。」

と、いへりとなり。

[やぶちゃん注:「慶安四年」一六五一年。

「要津長老」不詳。

「鹽風呂」「蒸し風呂」の一種。山城国八瀬(やせ)の里に古くからあったものが、江戸に移り、諸病に効くと言われた。土で釜を築き、松の枝を燃やして、灰を取り去ってから、塩水で濡らした草莚(くさむしろ)を敷き、その蒸気で、身体を蒸すもの。小学館「日本国語大辞典」を参照したが、その使用例に本篇が引かれてあるので、最初期の使用例であろう。

「馬使ひ」或いは「驛馬使(はゆまづかひ)」のことか。駅馬を利用する公用の使いを専門とした業者である。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三十二 殺生の報いの事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇以下の中巻の「二十九」から最後の「三十六」及び附記までは全く収録されていない

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   三十二 殺生の報いの事

 三河下山(しもやま)、大森村、次郞左衛門と云ふ者、一代、殺生して世を送りけるが、足助(あすけ)の香積寺(かうしやくじ)へ、血脉(けつみやく)所望の爲めに、卅四歲になる子を遣はす。

 住持、對面して、

「殺生を止めずは、血脉、出(いだ)すまじく。」

と仰せける。

 子、かへりて、父に告ぐ。

 父、

「止め申すべし。」

と、請人(うけにん)を立て、血脉を授かりけり。

 其後(そのゝち)、一月(ひとつき)過ぎて、又、雉係蹄(きじわな)を掛くる。

 子、以ての外、制しければ、

「向後(きやうかう)、必ず、止めん。」

と云ふ處に、一兩日中に、煩(わづら)ひ付き、舌、すくみ、或は、臥し、或は、仰(あふの)きに成り、手足、ひりめかし、咽(のど)、

「ぎりぎり」

と云ひて、雉のわなに掛りたる如くに、十日程、難病を受け、終(つひ)に無言にて、死しけり。

 七日目に、總領の子、父の如くに、煩ひて死す。

 十八歲の娘と、婦(よめ)と、十二の孫と、同じ煩ひにて、死す。

 右、五人の者、卅日の中(うち)に死に果てけり。

 姥(うば)、一人、殘り、乞食(こつじき)して、苦しみ居けり。

 寬永十四年のことなり。

[やぶちゃん注:強力なヒトからヒトへ容易に感染する感染症であろうが、十日ばかりで死に至るもので、上記のような病態は、ちょっと、疾患名を同定し得ない。

「三河下山、大森村」愛知県名古屋市守山区大森か。

「足助の香積寺」複数回既出既注だが、再掲しておくと、愛知県豊田市足助町(あすけちょう)飯盛(いいもり)にある曹洞宗飯盛山(はんせいざん)香積寺(こうじゃくじ)。]

 

〇三州下伊保(しもいぼ)の淸藏と云ふ者、名を得たる殺生の上手なり。

 夜晝共に殺生しけるが、或夜(あるよ)、不圖(ふと)起きて、三つに成る我子の頸(くび)をしめ、

「雉(きじ)の鳥を、つきたり。」

とて、放さず。

 母、目覺(めざ)めて、起き上り、

「是は。氣(き)違(ちが)へるか。」

とて、とり放ちければ、子は、死にけり。

 慶長六年のことなり。

[やぶちゃん注:愛知県豊田市伊保町。「今昔マップ」の戦前の地図で現在の中心部が「下伊保」であることが確認出来る

「慶長六年」一六〇一年。]

 

 ○越中立山の入口に祖母堂(うばだう)と云ふ堂あり。三途川(さんづがは)の姥(うば)を六十六體(たい)、造り置きたり。殺生禁制の地なり。

 或餌差(えさし[やぶちゃん注:ママ。初版板本55コマ目)も同じ。])、彼(か)の祖母(うば)の目(め)に、鳥黐(とりもち)を塗り、

「眠り給へ。鳥、差すぺし。」

と云うて、鳥、多く差し取り、立去(たちさ)らんとすれば、兩眼(りやうがん)、忽ち、つぶれたり。

 此盲(めくら)に、伊藤久彌(ひさや)は、

「切々(せつせつ)、逢うたり。」

と語るなり。

 慶安年中の事なり。

[やぶちゃん注:「祖母堂」富山県中新川郡立山町(たてやまちょう)芦峅寺(あしくらじ)にあった「𪦮(うば)堂」。現存しない。「富山県」公式サイト内のこちらに、『𪦮堂は閻魔堂とともに、芦峅寺にあった中宮寺の中心となる堂舎でした。その中には、うば尊(芦峅寺ではおんばさまと呼ぶ)が本尊として』三『体、脇立として』六十六『体祀られていました。本尊については異説もみられますが、概ね大日如来・阿弥陀如来・釈迦如来の三尊とされています』。『古文書には「姥堂」、「祖母堂」と書かれたものもありますが、うば堂が正しい名称です。「うば」と女に田を三つ重ねた字は辞典にも見当たらず、立山信仰の中で生まれた独特の作字(国字)といえます』。『資料にうば堂がでてくるのは、文正元年』(一四六六年)六『月の日付がある越中守護代の神保長誠(じんぼながのぶ)の寄進状に「祖母堂」とあるのが、最初です。しかし、享徳』二年(一四五三年)『の椎名淳成の寄進状にも「三ケ所」(祖母堂、地蔵堂、炎魔堂か)とあるので、建立はもっと古くに遡ると考えられます』。『江戸時代の頃の堂舎は、「建築の様式は唐様で、屋根は入母屋造りに唐破風(からはふう)の向拝屋根で、堂の周囲には、縁側がめぐらされていた。柿屋根葺(こけらぶき)』六間、梁五間、奥の間二間通し四、各間下表内二間にて『半垂木等」と伝えられています』。『明治初期の廃仏毀釈に伴い』、『堂舎は破却されてしまい、以後再建されることはありませんでした』。『うば堂のあった付近に、昭和』四七(一九七二)『年に基壇が整備され』、天保一五(一八四四)年の『銘の入った手水鉢があります』とある。

「三途川の姥」奪衣婆(だつえば)のこと。冥府の葬頭河 (そうずか:三途の川) のほとりに立っており、亡者の衣類を剝ぎ取るのを仕事とする鬼婆。「脱衣婆 (鬼)」「 葬頭河婆」とも呼ぶ。懸衣翁が、その衣をやはり畔りにある衣領樹(えりょうず)という木に掛けて、その枝の高低によって、罪の軽重を定めるとも言われる。「地蔵十王経」などにある。

「伊藤久彌」不詳。

「慶安年中」一六四八年から一六五二年まで。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三十一 犬生れて僧と成る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇以下の中巻の「二十九」から最後の「三十六」及び附記までは全く収録されていない

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   三十一 犬生れて僧と成る事

 或處にて、關山派(くわんざんは)の長老、久しく白犬(しろいぬ)を飼はれけるが、さる夜(よ)の夢に、犬、告(つげ)て云ふ、

「我、頓(やが)て門前の者の子に生れ出でそろ間(あひだ)、弟子に成され給へ。」

と云ふ。

 其如(そのごと)く、頓(やが)て死す。

 斯(かく)て、門前の女、懷胎して、滿ずる月に產(うま)る。貧女なれば、

「捨つべし。」

と云ふを、住待、聞き給ひて、

「七歲まで、扶持(ふち)を出(いだ)すべし。」

と云うて、助けらる。

 成人するに、如何にも正直者なるが、經を讀むこと、つやつやならず、と。

 此物語、京泉涌寺(せんゆうじ)にて、彼(か)の犬の生れ代(がは)りの僧に、同床(どうしやう)したる眞藏主(しんざうず)、語るなり。

[やぶちゃん注:「關山派」鎌倉末期から南北朝期の臨済僧で、花園上皇に招かれて妙心寺開山となった関山慧玄(かんざんえげん 建治三(一二七七)年~正平一五/延文五(一三六一)年)の禅を受け継ぐ一派。当該ウィキによれば、彼の『法嗣は授翁宗弼(じゅおうそうひつ)ただ一人であ』ったが、『南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本』の『臨済宗は』、『みな』、『この法系に属する。関山の禅は、後に系統に白隠慧鶴』(はくいんえかく:江戸中期の臨済宗中興の祖と称される)『が出て』、『大いに繁栄し、他の臨済宗諸派が絶法したのに対し、その法灯を今日に伝えている』とある。

「そろ」「候(そろ)」。「そうろう」の音変化。「ある」の丁寧語で、多くはこのように補助動詞として用いる。活用形は、未然形は「そろは」と「そろ」、連用・終止・連体形は「そろ」、已然・命令形は「そろへ」である。

「つやつやならず」流暢ではなかった。

「泉涌寺」現行の読みは「せんにゅうじ」。京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派総本山。ここ

「同床」言わずもがなだが、修学・修行のために寝泊まりを一緒にしたことを言う。

「眞藏主」不詳。「藏主」は元は経蔵を管理する僧の意であるが、しばしば出家後の僧名に附された。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三十 畜生人の恩を報ずる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇以下の中巻の「二十九」から最後の「三十六」及び附記までは全く収録されていない

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。なお、この標題の「夙因」の「夙」は、ここでは「昔」の意で、前世からの因縁である「宿因」と同義である。]

 

   三十 畜生人の恩を報ずる事

 信州上田村に、守珍(しゆちん)と云ふ僧あり。

 近所の姥(うば)、彼(か)の僧を養子にして、小庵を建て置き、姥は山中に入りて、七、八年送る。

 然(しか)るに、山中の事なれば、狼、常に來(きた)るを、飼ひ置きける。

 姥、年よりて、後(のち)、里へ下り、死にけり。

 處の者、則ち、火葬しければ、彼(か)の狼ども、卅疋程、來りて、守り居(ゐ)けるが、三日の灰寄(はいよせ)まで、詰(つめ)て居たり。

 寬永十二年の事なり。

[やぶちゃん注:「灰寄」荼毘(だび)の灰を掻き寄せて、遺骨を拾うこと。火葬の後、骨を拾い集めること。「骨上げ」「骨拾い」。

「寬永十二年」一六三五年。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十九 夙因に依て經を覺えざる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇以下の中巻の「二十九」から最後の「三十六」及び附記までは全く収録されていない

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。なお、この標題の「夙因」の「夙」は、ここでは「昔」の意で、前世からの因縁である「宿因」と同義である。]

 

   二十九 夙因(しゆくいん)に依(よつ)て經を覺えざる事

 河内の國、古久保(こくぼ)と云ふ處に、願興寺(ぐわんきやうじ)と云ふ寺の小僧、利根(りこん)にして、能く經を讀めども、其内、一卷(くわん)、何(なん)と習つても、覺えず。

 此を不思議に思ひ、佛神(ぶつじん)に祈りを掛ければ、夢想に、告あり、

「汝は、播州志總合(しそうがふ)に、寺、有り、彼(か)の寺の小僧なり。火のはたにて、經を誦(よ)みけるに、居眠りして、取り落(おと)し、經を火に入れて、燒き失ふ。此科(とが)に依て、彼(か)の經一卷、覺えず。」

となり。

 小僧、則ち、播州へ行きて、尋ねければ、

「彼(か)の經、一卷、燒失(やけう)せたる。」

と云ふ。

 過去の父母(ふぼ)、今に存命にて、彼の小僧を見、

「昔の我子に、違はず、聲、形も、能く似たり。」

とて、愛せしとなり。

[やぶちゃん注:前世の小僧の死を描いていない。播州の寺の一件で燃えたのは、当該の経一巻だけで、小僧が焼け死んだ訳ではない。しかし、既に亡くなって、今の小僧に転生している。前世の小僧の父母に謂いから見て、若くして亡くなったと思われ、その小僧が亡くなった様子と、その理由(因縁)を語ってこそ、真の因果話として完成するのに、と残念に思う。私はその辺に不満を持つ。

 なお、この場合は、他の経は暗記出来るのに、前世で焼いた経一巻だけが暗記出来ない(読むことは出来る)という不思議であるわけだが、以上の前世からの因縁を感得したからには、覚えられ、彼は、この後。すぐれた名僧になったのであろう。

 とすれば、一見、いい話に見える。しかし、不審がある。

 それは、この一篇の最後が前世の父母の愛執で終わっている点である。何か暖かいエンディングだと思っている方も多かろうが、因果話としては、すこぶるよろしくないこと、明白である。「徒然草」の「あだしの野の露」を引くまでもなく、親の子に対する愛の執着は、最も忌避されるべき因業の妄執とされるからである。特に正三の支持する禅宗では、その禁忌が甚だ強い(諸禅師の伝記に老いて逢いに来た母と一切面会しなかったという話はごろごろある)。されば、私はこの話に、情では惹かれるところはあるものの、因果物語と名打つ以上、非常な違和感を持つのである。

 なお、経の一定箇所が読めない、覚えられないといった前生夢(ぜんしょうむ)を含む因果譚は、特に「法華経」に纏わるものとして、さわにある。「今昔物語集」のそれらが知られるが(巻第十四中に計十三話が載る)、その出典は総てが、先行する「大日本国法華経験記」を原拠としている。中でも私が好きな話は、前世で蟋蟀(こおろぎ)であったという因果譚で、「越中國僧海蓮持法花經知前世報語第十五」(越中の國の僧海蓮、「法花經」を持して前世の報(むくい)を知る語(こと)第十五)で、幸い、「小泉八雲 蠅のはなし  (大谷正信訳) 附・原拠」の私の注で電子化してあるので、未見の方は、是非、読まれたい。

「河内の國、古久保」「願興寺(ぐわんきやうじ)」不詳。中川区牛立町に浄土真宗大谷派尾頭山願興寺(がんこうじ)があり、近くの東北の金山駅の南西の中区正木に浄土宗国豊山元興寺(がんこうじ)があるが(両寺を入れたグーグル・マップ・データ)、「古久保」の古地名との一致を見出せない。ただ、この二つの寺院のある旧広域地名は「渡」(ふるわたり)であり、東南には「澤村」(ふるさはむら)という名も見出せる(「今昔マップ」参照)。参考まで。

「利根」生まれつき、賢いこと。 利発。

「其内、一卷(くわん)」ここで経の名を示せなかったのは痛い。

「播州志總合」不詳だが、「志總」は現在の宍粟(しそう)市と推定する。]

2022/10/08

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十八 卒塔婆化して人に食物を與ふる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   二十八 卒塔婆(そとば)化(け)して人に食物を與ふる事

 上州鹿久保村(しかくぼむら)に、内匠(たくみ)と云ふ人、碓氷合戰(うすひがつせん)に、數箇處(すかしよ)、手を負ひて、臥したるを、

『討ち死にしたり。』

と思ふて、捨て置き、宿(やど)へ歸り、忌日々々(きにちきにち)の弔ひをなす。

 一周忌に當たつて供養をなす處に、伺處(いづく)とも知らず、若き僧、來たり。

「内匠と云ふ人、『山中の木のうつろに、活(いき)て有り。迎ひを遣り給へ。』と、慥(たしか)に傳言なり。」

と、固く云ひ屆けて、去りぬ。

 子息、聞いて、不思議に思ひ、彼(か)の僧に對面して、委しく問はんと、走り出で、尋ねけれども、行方(ゆきがた)なし。

 さる程に、山中に行きて、此彼(こゝかしこ)を尋ねければ、木のうつろに、身は不具(かたは)と成りて、命、永らへて、有り。

 子(こ)、嬉しさ、限りなく、さて、

「如何に。」

と子細を尋ぬるに、寒き時分なれば、凍(こゞ)えて、本性(ほんしやう)、なし。

 急ぎ、火に當(あ)て、暖めければ、漸(やうや)く本性に成つて、語りければ、

「今迄、坊主、七人にて、一日替(にちがは)りに、食物・湯水を與へけるが、其中(そのうち)、一僧、鼻(はな)欠(か)け、有りし。」

と語る。

 子息、稀代(きたい)に思ひ、虛荼毘(からだび)の跡を見れば、七本卒塔婆の中に、一本、闕目(かけめ)、有り。

「七人の僧は、定めて、是なるべし。」

と當(あた)り、追善の儀、疑ひなき事と信ぜしなり、と。

 彼(か)の人の孫、三河吉田に有りけるが、三澤(たく)に語ること、確(たし)かなり。

 誠(まこと)に卒塔婆など、能く拵(こしら)へて、立つべき事なり。

 殊に、靈供(りやうぐ)は、能く能く、念比(ねんごろ)に備ふべきなり。

[やぶちゃん注:「碓氷合戰」「江戸怪談集(中)」の注に、『碓氷峠での、天文十五』(一五四六年)『年の合戦。翌年六月、上杉が甲州の武田に敗れた。』とある。この一篇、本書の中では、かなり過去に遡った話柄の一つである。但し、冒頭の部分が不全である。「『討ち死にしたり。』と思ふて、捨て置き、宿(やど)へ歸り、忌日々々(きにちきにち)の弔ひをな」したのは、続きから考えて、匠の縁者か、当の子息でないとおかしいのだが、誰と書いていないのが不満である。子息は勿論、一族の誰かであっても、捨て置かざる状況を語らないはずはない。それがないというのは、実は、この話、話者或いは、聴いた「三澤」(不詳)の創作を疑わせるのである。そこが長いので、カットしたとなら、これは、あるべき因果話として甚だ質の低いものと言える。正三は、これを採録すべきではなかったという気が私はしている。

「虛荼毘の跡」ここでは、匠と子息は故郷へ帰って、遺体がないままに子息が供養した匠自分の塚を二人して参ったのである。

「七本卒都婆」既出既注

「三河吉田」吉田城のある愛知県豊橋市今橋町。江戸時代は吉田藩の藩庁が置かれた。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十七 蘇生の僧四十九の餅の次第を記す事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   二十七 蘇生の僧四十九の餅の次第を記す事

 日光山寂光寺、寛永の比(ころ)より、百五十年以前の住持は、佐野何某(なにがし)兄弟なり。此坊、行證(ぎやうしやう)、欠(か)くる事なく、勤學(きんがく)、聞え有りて、殊勝第一の人なり。

 或時、頓死して、冥途の事を記(しる)して、普(あまね)く愚蒙(ぐまう)を驚かす。

 彼(か)の記錄の中(うち)に四十九の餅を備へ、四十九院を供養する因緣(いんえん)、並(ならび)に四十九の餅の次第を載せらる。

「八寸釘十六本、一尺六寸釘六本、六寸釘十二本、殘りは、皆、五寸釘なり。四十九日の間(あひだ)、念佛四十九万返(ぺん)唱(とな)へば、此釘に當らず。」

と書き付けて有り。

 日光山參詣の者は、所望して拜見するとなり。

[やぶちゃん注:「日光山寂光寺」現存しない。「日光山輪王寺」公式サイトのこちらによれば、この寺は(コンマを読点に代えた)、『日光山内の西、寂光の滝の傍らにあった寺院です。弘仁』一一(八二〇)年『に弘法大師空海が瀧尾に次いで開いたといわれ、室町時代から江戸時代にかけて広く信仰を集め』たが、『神仏分離後の』明治一〇(一八七七)年『に火災に遭い、寂光権現の本社をはじめとする伽藍』『は烏有』『に帰してしま』った。『今は若子神社』(じゃっこじんじゃ:ここ)『として往時の姿をわずかに忍ばせ』るのみである。『寂光寺は様々な伝説で彩られて』おり、『弘法大師は寂光の滝で修行をした後、自ら不動明王をつくり、不動堂に祀』り、『天台宗三祖で唐から密教を伝えた慈覚大師は求聞持堂(ぐもんじどう)に自作の虚空蔵菩薩を祀』り、『比叡山の僧侶で「往生要集」の著者たる恵心僧都源信は』、『これまた』、『自ら作った阿弥陀三尊像を常念仏堂(じょうねんぶつどう)に祀った』という。『こうした伝承は、真言宗に限らず、天台宗や浄土教の影響も大きかったことを伺わせ』る。『一方で』、『日光三山のひとつ女峰山』(にょほうさん:ここ)『の登山口として修験者の拠点でもあり、いわば日光山の縮図のような寺院だった』という。『室町時代、覚源上人による地獄巡りの様子や、地獄での責め苦からの救済を説く』、「寂光寺釘念仏縁起」を)『中心として、寂光寺から輪王寺に伝わった什宝』は、現在の輪王寺に伝えられて守られている、とある。「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「釘念仏」によれば、『栃木県日光市・旧寂光寺に伝わる念仏。先亡追善と念仏者自身の往生のために行われる。旧寂光寺に伝わり、今は日光山輪王寺が所持している』「寂光寺釘念仏縁起」に『よると、覚源が仮死した際にみた地獄の様子についての伝説が、この念仏が始められた要因とされる。この伝説では、地獄に落ちた亡者は四十九日の間に』四十九『本の釘を身体に打ち込まれ、その釘は現世における罪悪の軽重によって長さが違う。そのため現世に生きている間に、仏に対する信心を持ち』、『功徳を積んで』、四十九『万遍の念仏を称えることによって、釘を打ち込まれる苦しみから逃れられる、と言い伝えられている。この念仏の始まった由来などはよくわかっていないが、室町時代から寂光寺を中心に釘念仏が行われていたと言われている。江戸時代以降は、釘念仏は全国に広がったとされる。たとえば新潟県佐渡市には釘念仏の石塔が現存し、高知県長岡郡大豊町では今では行われていないが、釘念仏を再開する試みが行われている。伝承のもととなった寂光寺は廃仏毀釈の際に廃寺になり、現在では若子(じゃっこ)神社として社が現存するのみである。釘念仏に関するお札と誓紙は、現在でも日光山三仏堂および常行堂において授与している』とある。私は神仏分離令・廃仏毀釈令は日本の近代史と言わず、本邦の永い文化史の中で、最大最悪の蛮行であったと考えている。関口靜雄氏・岡本夏奈氏・阿部美香氏の共同資料論考「一枚摺の世界――その小釈の試み(6)」(『学苑』第九〇五号・二〇一六年三月発行・ネット上でダウン・ロード可能。同論文には、印行された「釘念佛札」の画像も載っている)によれば、

   《引用開始》

延宝四年(一六七六)三月二十七日、寂光寺に詣した増上寺の僧恵中は『日光山寂光寺釘念仏縁起聞書』(内閣文庫蔵)に、寂光寺上人覚源の坊号が龍泉坊であること、その龍泉坊が頓死したのは文明七年乙未十月二十日であり、閻魔王から授与された釘念仏札を左手に握って蘇生したこと、龍泉坊はみずから縁起を執筆し、それが二百余年後の今も寂光寺に所蔵されていることを伝え、覚源上人梓行という寂光寺の釘念仏札は「黒キ五輪ニ白キ釘キ穴四十九アリ」と記しているから、龍泉坊覚源上人は釘念仏札を梓行するに際して五輪塔を墨一色にし、四十九の圈点を白抜きにしたのである。

   《引用終了》

とあった。文明七年乙未は室町後期の、ユリウス暦一四七五年である。本篇に「寛永の比より、百五十年以前」とあるが、寛永は一六二四年から一六四四年までであるから、寛永元(一六二四)年から百五十年前は一四七四年で、ぴったりと一致することが判る。

「佐野何某兄弟」正三はあたかも、この佐野氏の兄弟の一人が覚源であるかのような書き方をしているが、何を根拠にしているかは不明である。

「行證」修行と悟りへの行程。

「四十九の餅」これについては、サイト「紅葉山葬儀社」の「傘餅について」の解説が、ヴィジュアルも含めて、非常に判り易いので、是非、一見されたい。一説としてはあるが、『死者が地獄』『に行ったとき、手足など』、『身体のあちこちに釘を打ち込まれるので、この四十九日餅を作って地獄の冥衆(鬼類)に捧げることによって、釘が餅に当り、死者が苦痛を受けずにすむともいわれている』とある。則ち、四十九個の餅は人体の骨肉の代替シンボルなのである。

「八寸」約二十四センチメートル。

「一尺六寸」四十八・五センチ。

「六寸」十八センチ。

「五寸」十五センチ。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十六 幽靈と問答する僧の事 附 幽靈と組む僧の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。最後の話は特に注の必要を感じない。]

 

   二十六 幽靈と問答する僧の事

       幽靈と組む僧の事

 奧州會津、松澤(まつざは)と云ふ處に、禪宗、有り、即ち、松澤寺(しようたくじ)と號す。

 住持、女人の塔婆を建て置くに、文字一字、書き違(ちが)へけるを、秀可(しうか)と云ふ長老、改め、書き直ほしければ、旦那ども、

「無智の僧なり。」

とて、前の住持を追ひ出(いだ)し、則ち、秀可和尙を住持に爲(な)す。

 或夜(あるよ)、幽靈、來りて、秀可和尙に對面し、問うて云く、

「我、獄中に入つて、種々(しゆじゆ)の若(く)を受く。和尙、濟(すく)ひ給へ。」

 答へて云ふ、

「圓通(ゑんつう)より出でゝ、圓通に入(い)る、何(いず)れの處(ところ)にか、獄中、有らん。」

 靈(れい)、云く、

「獄中を論ずること、なかれ。此躰(このてい)を見よ。」

 和尙、云ふ、

「其躰(そのてい)、即ち、佛性(ぶつしやう)に、隔(へだ)て、無し。」

 靈、云く、

「名を付けて給へ。」

 和尙、云ふ、

「本空禪定尼(ほんくうぜんぢやうに)。」

 靈、即ち、消え失せぬ。

 秀可長老、直談(ぢきだん)を聞くなり。

[やぶちゃん注:見事な禅問答である。

「奧州會津、松澤」福島県大沼郡会津美里町(みさとまち)松沢

「松澤寺」「江戸怪談集(中)」の注には、『現福島県会津高田町松沢の曹洞宗松沢寺。寺内に幽霊の掛軸があるので有名。』とあるが、地名は変更されて会津美里町(あいづみさとまち)となっており、「曹洞禅ナビ」に会津美里町松沢字寺内に確かに曹洞宗松澤寺(しょうたくじ)があるが、寺は、現在、普段は無住のようであるが、同寺近くの山中に本寺の墓地らしきものがある(ストリート・ビュー定点画像。二〇二二年六月撮影)。奥に見られる多くは卵塔であるから、住僧の墓と見られる。或いは、「秀可」(事績不詳)の墓もこの中にあるのかも知れない。もしかすると、「本空禪定尼」の墓もここにあったか、あるのかも、知れぬ。また、医療法人社団平成会の美里事業部(医療介護老人保健施設グリーンケアハイツ・グループホームかりん)のブログ「平成会 美里事業部」の「幽霊の掛け軸」(二〇一三年八月十六日)の記事に年に一回の幽霊の掛軸の供養のことが載っており、掛軸の写真もある。必見。また、Kazuyosi W氏のサイト「会津への夢街道」内の「名刹と神社(会津美里町)」のページに同寺の記載があり、同寺の事績が記されてある。そこに、現在は近くの会津美里町永井野中町にある曹洞宗『長福寺が管轄』しているとあり(ここ)、幽霊譚については、『昔々、松沢寺の末寺であった猿沢寺に、全良という若い僧がいた。夫の墓参りきた若い後家「おしゅん」と好い仲になり、懐妊させてしまう』。『発覚を恐れ』、『毒殺』して『しまうが』、『幽霊に悩まされ、供養碑を建てて悔悛したという』とあった。但し、この「おしゅん」が本篇の霊であるかどうかは、判らない。

「圓通」仏・菩薩の悟りは円遍融通して、作用自在であること。円満無碍(むげ)の悟りを言う。

「獄中を論ずること、なかれ。此躰(このてい)を見よ。」「地獄の存在の有無を、今さらに、論じる必要は、御座らぬ! その証拠に、我らのこの為体(ていたらく)を見らるるがよい!」。]

 

〇下總(しもふさ)の國、東金(とうがね)妙福寺(めうふくじ)に、敎住坊(けうぢうばう)と云ふ、强力僧(がうりきそう)、有り。

 曉(あかつき)、御堂(みだう)の勤めに行きけるに、怖しき大入道(おほにふだう)、立ちて居(ゐ)たり。

 寄りて、

「ひし」

と組合(くみあ)ひ、良(やゝ)久しくして、組勝(くみかち)ければ、何か、腕に喰(くら)ひ付きたり。

 即ち、目をまはし、氣を失ひ居(ゐ)たるを、人々、寄つて見れば、腕に、しやり頭(かうべ)、喰(く)ひ着きてあり。

 住持、珠數を持ちて、敲(たゝ)き落(おと)したり。

 其後(そのゝち)、百日ばかり、煩(わづら)ひて、本復(ほんぶく)す。天正の末(すゑ)のことなり。

[やぶちゃん注:「東金妙福寺」既出既注

「敎住坊」不詳。

「天正の末」天正は二十年までで、ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九二年まで。]

 

〇會津長沼、永光寺の欣察(きんさつ)と云ふ僧、或夜、小用に出づれば、其跡に、人一人(にん)、立ちて居(ゐ)たり。

 歸りて、言(ことば)を懸くれども、返答、なし。

『さては。』

と思ひ、組(くみ)けるに、彼(か)の人、力(ちから)、强くして、倒るゝこと、なし。

 衆寮坊主(しうれうばうず)、聞き付けて走り出で、是を見、即ち、一喝すれば、倒れけり。

 火を燃(とも)して見れば、卒塔婆(そとば)なり。

 文字(もんじ)は

「十方佛土中 唯有一乘法 無二亦無三 除佛方便說」

と書いてあり。

 十三年忌の供養の塔婆也。

 秀可和尙、語り給ふなり。

[やぶちゃん注:「會津長沼」福島県の旧岩瀬郡長沼町で、現在の須賀川(すかがわ)市江花(えばな)。

「永光寺」不詳。「江戸怪談集(中)」の注も『不詳』とする。因みに、江花地区の東直近の須賀川市長沼字寺前に曹洞宗永泉寺ならば、ある。

「衆寮坊主」修行僧の住まう堂の統括僧。

「十方佛土中 唯有一乘法 無二亦無三 除佛方便說」読みは(「一」の読みのみないので、推定で《 》で補った)、「十方佛土中(じつぱうぶつどちう) 唯有一乘法(ゆゐう《いち》じようはふ) 無二亦無三(むにやくむさん) 除佛方便說(ぢよぶつはふべんせつ)」。「十方の仏土の内には、ただ、一つの法だけがあるのであって、二も、三もない。 例外的に方便を以って、仏法を説くことがあっても、ただ、一つの法へ導くためである。」の意で、「法華経」の「方便品第二」が出典。

「秀可和尙」本章第一話に出る。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十五 常に惡願を起す女人の事 附 母子互ひに相憎む事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   二十五 常に惡願(あくぐわん)を起(おこ)す女人の事

       母子互ひに相憎(あひにく)む事

 三州大平河(おほひらがは)より、二里程上(かみ)、鍛冶屋村と云ふ處に、さる百姓の女房、日比(ひごろ)、惡願を發(おこ)して、子供を喰殺(くひころ)し、

「どうが淵(ふち)へ行くべし。」

と云ひけるが、四十の比、病(やまひ)を受け、煩(わづら)ひ、重く成るに付けて、以ての外、大食(たいしよく)にて、樣子、惡(あ)しきゆゑ、座敷を拵(こしら)へ、立籠(たちこめ)て置きけるに、子供を内へ入れ、

「飯(めし)を喰(く)はせよ。」

と言ふを、危(あやふ)く思ひ、男、食物(しよくもつ)を籠(ろう)の内へ入れければ、

「ひし」

と、腕を取り引き入れんとする間(あひだ)、

「入れじ。」

と、外へ引く。

 互ひに引合ふ處に、腕に喰(く)ひ付きて、放さず。

 驚きて、人を呼(よば)はり、大勢にて縛らんとするに、女房の腕、ぬめりて、取留(とりとゞ)むること、叶はず。

 終(つひ)には、敲(たゝ)き伏せ、六間の家内(いへうち)の柱每(はしらごと)に、縛り付けて置くに、家をゆるがすこと、地震のごとし。

 親類・兄弟、是を見て、

「打殺(うちころ)し給へ。」

とて、忽ち、打殺す。

 急ぎ、棺に入れて野邊(のべ)へ舁出(かきいだ)す。

 導師は阿曾村(あそむら)の阿彌陀寺なり。

 野邊にて、棺より、起き上り、ゆるぎ出づるを、又、敲き殺し、押し入れ、火を掛けて燒きけり。遠近(ゑんきん)、隱れなきことなり。

 寬永年中のことなり。

[やぶちゃん注:鬼婆系カニバリズムだが、なかなかに手強く、リアルに気持ちが悪いところは、最早、真正の妖怪を遙かに凌駕している。一読、不快感が残る怪奇談で、事実であったと考えるほどに、気味の悪くなる点では、特異点と言えよう。しかし、どうもこういうタイプの怪奇談は、私の好みではない。

「三州大平河より、二里程上、鍛冶屋」条件を満たす場所が全く発見出来ず、最後の「阿曾村の阿彌陀寺」も判らない。お手上げ。鬼のような女だけでなく、殴打し、棺桶から飛び出しても、致命的にたたき殺した(或いは、半死半生の彼女を生きながら焼き殺した)村というのは、見つけない方が、無難だろうな。

「どうが淵」不詳。このシリアル・キラーの女の台詞自体が、意味不明。年少の児童はそれだけで地獄行きが決まっているので、「童が淵」で三途の川の賽の河原の近くにでもそんな淵があるというようなことを考えたものか。

「六間の家内(いへうち)の柱每(はしらごと)に、縛り付けて置くに、家をゆるがすこと、地震のごとし」「六間」は十メートル九十一センチであるから、この屋敷、かなり大きい。「柱每にというのは、一つの柱に縛り付けておいても、その柱が、彼女が激しく逃れようと暴れるために、じきにがたついてくるので、定期的に縛る柱を変えなければならなかったということであろう。

「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。]

 

〇江州大塜村(おほつかむら)、三榮(さんえい)和尙、語つて云ふ、

「地下人、息女を持ちけるが、此母、娘を愛する事、限りなし。然るに、似合はしき聟(むこ)を取り、近處(きんじよ)ヘ遣はす。

 それより、母、彌々(いよいよ)、悲(かなし)み、胸、若(くる)しめり。

 終(つひ)に、母の思ふ念、娘に憑きて、煩(わづら)ひ惱ます。

 娘、母の憑けるを覺えて、心底、母に語る。母、是を聞いて駭(おどろ)き、思ひ切らんとすれども、思ひ休(や)まず、彌々、深くなる。

 是より、娘、母を見れぱ、恐ろしき事、限りなし。

 頓(やが)て、亦、娘の念、母に憑きて、惱ます。

 恩愛は、忽ちに變じて、互(たがひ)に敵(てき)となりて、惡(あし)く狂ふゆゑに、母の方へ、娘を呼寄(よびよ)せて、座敬牢を拵(こしら)へ、間(ま)を隔(へだ)て、入れ置くに、口をきゝ、互(たがひ)に罵詈誹謗す。

 頓て、母、死にけるを聞いて、娘、限りなく悅びけるが、三日の中(うち)に死にけり。

[やぶちゃん注:これは最も悲劇的な拘禁性精神病(恐らくは統合失調症)の感応性感染の事実譚であると考えてよい。そういう事実譚として、この二本からなるこの章は、とりわけ、後味の悪いパートと言える。

「江州大塜村」滋賀県東近江市大塚町(おおつかちょう)。

「三榮和尙」既出既注の「本秀」と同一人物。本書では最も登場する回数が多い。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十四 生れ子田地を沙汰する事 附 生れ子親に祟る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   二十四 生(うま)れ子(こ)田地を沙汰する事

       生れ子親に祟る事

 濃州別不(じようしうべつふ)の近處(きんじよ)、仁井村(にいむら)と云ふ處の六太夫と云ふ者、寬永十七年三月の比(ころ)、女房、孖子(ふたご)を產む。

 同六月、或夜(あるよ)、男の聲にて、

「我は別不の宗兵衞(そうびやうゑ)なり。」

と、高らかに名乘る。

 六太夫、目醒(めざ)めて、是を聞いて、

『如何樣(いかさま)、我に怨(あだ)を爲(な)さんとて來(きた)るか。』

と思ひ、帶を締め、刀を取つて、之を聞くに、女房の寢所(ねどころ)なり。

 夫、

『女房の寢語(ねごと)か。』

と思ひ、起して見るに、寢入りて、起きず。

 頻りに、名渠る聲、女房の懷(ふところ)なり。

 餘りに不審に思ひ、二人(にん)の子の口に、手を當てゝ見れぱ、此内、一人(にん)、息を吹懸(ふきか)けて、名乘るなり。

 さる程に、

「汝は、何を言ふぞ。」

と問へば、

「我は別不一向宗の毛坊主(けばうず)宗兵衞(そうびやうゑ)なり。」

と云ふ。

「何とて、來(きた)るぞ。」

と問ヘぱ、我、此世(このよ)に在りし時、子供に家を渡すに、田地内(ない)、稔(みのり)多き處を、子に渡す事、惜(をし)く思ふ。此心、强き故に、生れ來りたり。」

と言ふ。

「其(その)田地は、何と云ふ處ぞ。」

と問へば、

「年貢四斗納めて、九俵取る處と、亦、八、九斗納めて、十五、六俵、取る處、三箇所(がしよ)、有り。此外、何程々々。」

と云ふ。

 六太夫、委しく覺えて、十七に成る市十郞と云ふ甥(おひ)を呼びて、一々に書付(かきつ)けさせ、夜明けて、別不へ行き、此由、尋ね聞くに、子息宗兵衞、

「少しも違(たが)はず。親、三年以前に相果(あひは)てられたり。田地の樣子、少しも違はず。」

と云ふ。

 則ち、六太夫處(ところ)へ、子の宗兵衞、來りて、物言ひたる子を見、歎きて、歸る。

 六太夫、卅七歲の者なり。予、彼(かれ)が處へ行き、直(ぢき)に語るを、確(たしか)に聞くなり。

[やぶちゃん注:正三が当該怪奇現象を体験した当事者自身から聴いたという、貴重な一篇である。

「濃州別不の近處、仁井村」岐阜県瑞穂市別府なら、ここ。「仁井村」は「今昔マップ」で戦前の地図も調べたが、不詳。

「毛坊主」小学館「日本大百科全書」より引く。『剃髪』『して生涯独身を通すのが僧侶』『の通例と考えられた時代での、半僧半俗の有髪(うはつ)の人たちをいう。中世から近世にかけて、主として北陸から近畿にわたる地帯の、浄土真宗の農村に多かった。当時は寺院をもたない村も多かったが、これらの地帯では』、『村ごとに道場をもち、寺院の出張所と集会所のような役目を果たしていた』。概ね、『自宅を道場として、日常は農業を営み、わずかな田畑を耕作していた。それでも、家の入口などに小さな釣鐘をかけ、村内に死者があると、導師となって正規の僧侶と同じような役割を果たし、年忌などがあると』、『出かけて行ってお経を唱えた。当時としては学問があって、長百姓(おさびゃくしょう)や庄屋』の次男や三男などが、『毛坊主になったのであろう。そのほか、定職をもたない人や寺男なども、経文を覚えて道場に住み着くことがあった』。明治五(一八七二)年の『道場廃止令によって、寺院に昇格したものもあり、一般の農家になったものもある。北陸地方では』、『いまも道場は存続しており、他の地方でも地名に残るものが多い。毛坊主は下級の僧侶とみられてきたが、寺をもたない小集落において、道場の制度とともに浄土真宗の民間布教に果たした役割は大きい』とある。

「子の宗兵衞、來りて、物言ひたる子を見、歎きて、歸る」の部分では、ちょっと首を傾げざるを得ない。何故、彼は、当然、継ぐべき田地を奪還出来ずに、歎いて帰るのか? 子息に継がせなかった田地は、一体、誰が続けて耕作しているのか? 彼が以上のような毛坊主として、その仁井村で絶大な信頼が置かれていたとなら、その一向宗徒の農民に分け与えられたものか? そうでなかったとすれば、以下に上田であったとしても、その農地は死後に休耕田となり、田地としては、劣化してだめになっているかも知れない。そもそも、百歩譲って、この生まれ変わりの双子の一人が宗兵衛のそれだとしても、この子がその田地を受け継ぐことを、当時の村社会や藩や知行地の代官が、転生を認め、許可するなどということは、逆立ちしても考えられないことだ。何だか、この話、阿呆臭くて、まともに考えるのも馬鹿々々しい感じがするのである。

「寬永十七年」一六四〇年。]

 

〇東三河賀茂河原に、孖子(ふたご)を產む者あり。

 夫に隱して、一人(にん)の子を、立臼(たてうす)の下へ入れ、殺しけり。

 其子、頓(やが)て、父母(ちゝはゝ)に取付(とりつ)きて、臼の下にて苦患(くげん)したる如く、手足、むぐめき、無言にて死にけり。

 兄弟一人以上、三人、取り殺す。

 今、殘り一人の子を資(たす)けん爲めに、伯父與次衞門(よじゑもん)と云ふ者、牛雪和尙を賴み入り、吊(とむら)ひければ、是より、祟る事、なし。

[やぶちゃん注:「東三河賀茂河原」愛知県豊橋市賀茂町(かもちょう)川原(かはら)であろう。

「一人の子を、立臼の下へ入れ、殺しけり」「立臼」は普通に土に据えて餅を搗く臼のことである。これは貧困から間引きしたものであり、赤子を臼で圧殺するというのは極めて常套的な手段であった。

「牛雪和尙」既出既注。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十三 幽靈來りて子を產む事 附 亡母子を憐む事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。最後の話は特に注の必要を感じない。]

 

   二十三 幽靈來たりて子を產む事

       亡母(ばうぼ)子を憐(あはれ)む事

 

Migaminoyamagata

 

[やぶちゃん注:冒頭注で示した一九八九年岩波文庫刊の高田衛編「江戸怪談集(中)」の挿絵(底本は東洋文庫岩崎文庫本)。キャプションは「もがみの山がた」。]

 

 羽州最上(うしうもがみ)の山方(やまかた)に、「靈童(れいどう)」と名付く者あり。

 彼の謂(いは)れを聞くに、最上の商人(あきびと)、京へ上り、女房を持ちけるが、捨て置き、最上へ下る處に、京の女房、尋ね來(きた)る。

 此の時、山方の女房を去り、京の女房を、家に置き、子、一人(にん)、儲(まう)く。

 其後(そのゝち)、亦、京へ上り、本(もと)の宿(やど)へ行きければ、亭主、見、「其の方(はう)の女房、死して、三年になる。」

由を語る。

 男、聞いて、

「さてさて。不思議の事かな。彼(か)の女、最上へ下り、剩(あまつさ)へ、子、一人、有り。」

と云ふ。

 父、聞いて悅ぶこと、限り無し。

 急ぎ、最上へ下り、彼(か)の家へ行けば、女房、部屋へ入りて、逢はず。

 父、餘りに堪え兼ね、部屋へ入りて見れば、京にて、立てたる、卒塔婆(そとば)なり。

 戒名、年號、疑ひなし。

 之に依つて、其子を「靈童」と云へり。

[やぶちゃん注:本篇は後発の「宿直草卷三 第一 卒都婆の子産む事」がインスパイアしている。

「山方」山形県山形市。

「本の宿」先に男が逗留していた宿。以下、それを女の父が聴いて宿まで来たか、或いは、この山形の男が義父の家を訪ねたか、そうしたシークエンスの省略がなされているように私は感じる。「江戸怪談集(中)」の注では、『京の女房が居た家』とするが、私はちょっと従えない。]

 

〇攝州、大坂の近所に、死したる本(もと)の女房、來りて、子の髮を結ふ事、三年なり。

 或時、來りて、今の女房の舌を貫(ぬ)きける間(あひだ)、さまざま、養生して能く成り、離別して、他處(たしよ)へ行くとなり。

[やぶちゃん注:本書中の最短の一篇。]

 

〇紀州にて、或る人の内儀、難產にて死去す。然(しか)れども、子は生まれて、息災なり。

 彼(か)の母の亡靈、來つて、子をいだき、乳を呑ませ、三歲に成るまで、そだてけり。

 女房、十七歲の年、死にけるが、三年過ぎても、十七歲の形に見えたり。

 其の子、十七、八の比(ころ)、見る人、確(たしか)に語る。

「色、少し惡しき男なり。」

といへり。

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十二 亡者錢を取返す事 附 鐵を返す事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   二十二 亡者錢(ぜに)を取返(とりかへ)す事

       鐵(くろがね)を返す事

 尾州愛智郡(あいちぐん)星崎村(ほしざきむら)に、彥十郞と云ふ者、信者にて、後話(ごせ)、ことに精を入れけり。

 四十の比(ころ)、女房を去りけるに、舅(しうと)には不足なき故、本の如く、出入(しゆつにふ)す。

 女房、頓(やが)て死にけり。

 然(しか)る間、亦、女房を求めけり。

 彥十郞四十二、三の比、白山立山へ參詣しけるに、立山にて、本(もと)の死したる女房、出でゝ、彥十郞に向つて、

「其方(そのはう)は、我等、父の方より貰ふまじき錢を取るなり。返し給へ。」

と云ふ。

 彥十郞、聞きて、

「然樣(さやう)の事、有り。」

とて、舅より請(うけ)たる、錢五十文、速(すみや)かに返しけり。

 其後(そのゝち)、笠寺の鐘撞(かねつき)と成りて居(ゐ)たり。

 慶安五年の事なり。

 南野(みなみの)十左衞門、語るを聞くなり。

[やぶちゃん注:「尾州愛智郡星崎村」愛知県名古屋市南区星崎。歴史的に諸史料でも愛「智郡」と「愛知郡」は両用されている。

「笠寺」愛知県名古屋市南区笠寺町(かさでらちょう)上新町(かみしんまち)にある真言宗智山派の天林山笠覆寺(りゅうふくじ)。十一面観音を本尊とし、一般に「笠寺観音」名で親しまれている。

「慶安五年」一六五二年。

「南野十左衞門」不詳。]

 

○越中に、「宇(う)の津(つ)」と云ふ鍛冶(かぢ)あり。

 人、打物(うちもの)、誂へる時、古鐵(ふるがね)、多く遣りければ、打物、打ち餘りたる鐵(てつ)を取りけるに、彼(か)の「宇の津」、立山參詣の時、地獄の中(うち)より、高聲(たかごゑ)に、

「打物の時、餘りたる鐵を、只今、返せ。」

と呼(よば)はる。

 是を聞きて、大に驚き、腰に持たる錢(ぜに)、三百文、地獄へ抛入(なげい)れければ、

「是は、多し。」

とて、半分、返しけるに、此錢、燒けて、滿ち合ひけり。

 是を持ち、家に歸り、ほどの上へ、彼(か)の錢を掛け置きて、出入の人々に見せ、懺悔(さんげ)して、此(この)謂(いは)れを語るとなり。

 今井四郞左衞門、語るなり。

[やぶちゃん注:『「宇の津」と云ふ鍛冶』不詳。

「燒けて、滿ち合ひけり」熱で溶けて、銭同士が癒合しえしまったのである。

「ほど」「火床(ほど)」。鍛造用の小さな炉のこと。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十一 亡母來りて娘に養生を敎うる事 附 夫の幽靈女房に藥を與ふる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   二十一 亡母(ばうぼ)來りて娘に養生を敎うる事

       夫の幽靈女房に藥を與ふる事

 尾州名古屋、朝倉市兵衞(あさくらいちびやうゑ)内儀、恒(つね)に病者なり。

 或夜(あるよ)、夢に、亡母、來りて、

「汝が病(やまひ)は禁物(きんもつ)をしたらば、治(ぢ)すべし。」

と告げたり。

 娘、

「聲は、慥(たしか)、母の聲なるが、形の見え給はず。如何に。」

と云ふ。

 母、云く、

「生死(しやうじ)を離れて、形、なし。」

 娘、云く、

「扨(さて)は、何を禁物に爲(せ)んや。」

 母、云く、

「七色(なゝいろ)、有り。第一、米を三年、絕つべし。其外、六は、一生の内、絕つべきなり。五辛(ごしん)の類ひ、鷄・鰶(このしろ)・葡萄・酒・菌(くさびら)の類ひ也。必ず、必ず、疑ひあるベからず。此證據(しやうこ)を知らすべし。明日(みやうにち)、晝時分、『南無地藏大菩薩』と、三返(べん)、唱へて、起きて見よ。必ず、立つ事、叶ふべがらず。」

と、懇(ねんごろ)に告げ、了(をは)れり。

 娘、夢、覺(さ)めて、之を怪しみ、疑ふ。

 さる間、告(つげ)に任せて、明日(あくるひ)、晝程、

「南無地藏大菩薩。」

と、三返、唱へて、立たんとすれぱ、總身(そうみ)、すくみ、提燈(てうちん)を疊むが如くに覺え、立つ事、中々、叶はず。

 是より、疑ふ心なく、信心を發(おこ)して、絕ち物をすれぱ、早速に、無病に成りたり。

 母、又、夢に告げて云ふ。

「汝に米を絕(たゝ)するは、過去に米を惡(あし)くしたる科(とが)の故なり。何(いづ)れも報いの理(ことわり)有り。」

と委しく敎へけり。

 前方(まへかた)、煩(わづら)ひの中(うち)に食(しよく)に向へば、腰、痛み、若(くる)しむゆゑ、腰を打(うた)せて、少し宛(づゝ)飯(めし)を喰ひけり。

 扨、敎への後(のち)、粥を少し喰(く)ひければ、即ち、煩ひ、發(おこ)りて苦しかりけり。急ぎ、持佛堂に向つて、侘言(わびごと)して、經咒(きやうじゆ)を誦(じゆ)しければ、頓て、本復(ほんぶく)するなり。

[やぶちゃん注:「七色」七種類。

「五辛」当該ウィキによれば、『五つの辛味ある野菜のこと。五葷』(ごくん)『ともいう。酒と肉にならんで、仏教徒では禁食されている食べ物である。具体的には韮 (にら)、葱 (ねぎ)、蒜 (にんにく)、薤 (らっきょう)、薑 (しょうが) のことである』「楞厳経」(りょうごんきょう)の『巻八に、この五種の辛味を熟して食すと』、『淫がめばえ、生』(なま)『で食すと』、『怒りが増し、十方の天仙は』、『この臭みを嫌い、離れてゆく』(此五种之辛、熟食者发淫、生啖者增恚、十方天仙嫌其臭秽、咸皆远离)『とある』。『もともとはインドのバラモンで禁忌とされていた。道教でも同様に』、『心が落ち着かず』、『修行の邪魔になるとされ、食べないほうが良いとされている』とある。

「鰶」条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus。一般に関東の寿司屋で新子(しんこ)・小鰭(こはだ)と呼ばれる。本種を焼く臭いは人の死骸を焼く臭いと同じとされ、古来、忌避されている。私は大いにこれには異議があるあるが、それは「大和本草卷之十三 魚之下 鱅(コノシロ)」の私の注を参照されたい。

「菌」茸(きのこ)全般を指す。

「腰を打せて、少し宛飯を喰ひけり」この「打たせる」というのは、恐らく、「ちゃんと座らずに、腰を伸ばして中腰にさせて」の意であろう。]

 

○武州神田、吉祥寺(きちじやうじ)の會下(ゑか)に、呑養(どんやう)と云ふ僧あり。

 七歲にて、父に離れたり。

 九歲の時、母、大熱を煩ひ、既に末期(まつご)に及ぷ。

 時に、亡父、夜半の頃、木履(ぼくり)を穿きて、

「かたかた。」

として、來り、戶、細目に開きたるに、内へ入りて、呑養に言(ことば)を掛(かけ)て、

「昨日(きのう)も來れども、其方に逢はず。」

と云うて、女房の額(ひたひ)を押(おさ)へて、

「大事の煩ひなり。死病に究まる。二人の子供、何(なに)と成るべし。」

と、悲(かなし)みて、

「藥を與ふべし。」

と云ふ。

 女房、

「作庵(さくあん)の藥を用ふるゆゑ、餘人(よじん)の藥は、いや。」

と云へば、夫、

「先々(まづまづ)、飮め。」

と云うて、印籠(いんろう)より、練藥(ねりぐすり)を取出(とりいだ)し、口に塗りて、

「湯を呑(のま)せよ。」

と云ふ。

 十二に成る姉娘、

「湯は、ぬるし。」

と云へば、

「ぬるくとも、飮ませよ。」

と云うて、呑養に暇乞(いとまごひ)して、

「さらば。」

と云うて、出づるに、戶は、立てゝ有り。

 此時、呑養、

「扨は。今のは、父なり。」

と知る。

 藥を取出す時、右の手の小指、少し曲りたるを見て、

「慥(たしか)に、父なり。」

と知るなり。

 扨、又、二階に寢たる助市(すけいち)と云ふ者、

「今のは、父彌兵衞の聲なり。」

と云へり。

 母は彼(かの)藥を飮むと、口、凉々(すゞすゞ)と覺えて、氣色(きしよく)よき樣(やう)なれども、一頻り、煩ひて、汗出でて、八つ過(すぎ)に、すきと、本復して、子供、

「寢(ね)よ。」

と云うて、衣物(きもの)着せて、寢(ね)せけり。

 明日(あくるひ)は、早朝より、起きて、茶を煎じ、近邊(きんぺん)の人を呼ぴ、飮(のま)せけり。

 人々、

「稀代(きたい)なり。」

と悅び、江戶鐵砲町(てつぱうちやう)にて、隱れ無き事なり。

 母は四十七歲の時なり。

 牛込天德院にて、呑養、直(ぢき)に語るを、聞くなり。

[やぶちゃん注:「吉祥寺」これは東京都文京区本駒込にある太田道灌が創建した曹洞宗諏訪山吉祥寺であろう。神田との位置関係も近い。

「會下」「会座」(えざ)に集まる「門下」の意で、特に禅宗・浄土宗などに於いて師の僧の下(もと)で修行する僧を指す。「ゑげ(えげ)」とも読む。

「木履」下駄。

「二階に寢たる助市」名前からして座頭である。目が見えない分、音声に敏感であるから、弥兵衛の声を二階に居ながらにして、聴き判じることが出来たのである。恐らくは、父弥兵衛の生前から、この家の二階に間借りして親しく接していた座頭だったのであろう。弥兵衛は「二人の子供、何と成るべし」と心配しているが、姉娘と呑養で二人であるから、助市は子ではないことは明白である。助市の「父彌兵衞の聲なり。」の「父」は面倒を見て貰った「親父さん」の「父」である。この助市の何気ない登場シーンは、父の姿が見えており、会話もしている、子の二人と病床の母の共同妄想であることを否定し、声で弥兵衛の例の確かな出現の決定的事実を支える、極めて優れた場面であることを見逃してはならない。

「江戶鐵砲町」何時もお世話になっているサイト「江戸町巡り」のこちらによれば、現在の中央区日本橋本町三・四丁目に相当する。『江戸初期までは「千代田村」といったらしい。町名は幕府の御用鉄砲師・胝(あかがり)宗八郎がこの地を拝領し屋敷を設けたのに因む。子孫は町名主を世襲した』とある。ここは神田の南東直近であるから、冒頭のそれとの齟齬はない。

「牛込天德院」中野区上高田にある曹洞宗乾龍山天徳院。この寺は先の諏訪山吉祥寺の五世用山元照和尚を勧請開山として一山智乗和尚が慶長七(一六〇二)年に創建したものである(以上は、やはりいつもお世話になっている、東京都寺社案内の強力なサイト「猫の足あと」の同寺の記載に拠った。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十 幽靈來りて算用する事 附 布施配る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   二十 幽靈來りて算用する事

      布施配る事

 紀州、勇士某(ゆうしなにがし)と云ふ人の祖父、賄(まかなひ)爲(し)ける時、算用を遂げず、病死す。

 相役の者、引負(ひきおひ)、多く有りけるを、手形など盜みて、彼(か)の死人(しにん)に負はす。

 故に勇士、跡(あと)、立たず、剩(あまつさ)へ、子供、死罪に定まりぬ。

 然(しか)るに、勇士下部(しもべ)の鶴(つる)と云ふ女、俄(にはか)に煩(わづら)ひ、一夜(いちや)、臥し、早朝に起き、手水(てうづ)を遣ひ、面色(めんしよく)、易(かは)りて、口走りけり。

「扨々(さてさて)、憎き奴原(やつばら)哉(かな)。余(よ)に無實を云ひ掛け、跡、滅亡に及ぶこと、無念なり。先づ御公儀へ申し、御目付を乞ひ、相役は云ふに及ばず、手代どもを喚(よ)ぶべし。急度(きつと)、算用を遂げん。」

と云ふ。

 即ち、此の由、公儀へ申しければ、頓(やが)て、目付・相役人・手代共、來(きた)る。

 扨、彼(か)の下女、出で合ひ、一言(ごん)云ひ出(いだ)すと、其の儘、主人の音聲(おんしやう)なり。

 相役に向つて、

「其の方、卑怯なり。我、越度なし。只今、御目付の前にて、算用を遂ぐべし。」

と云ふて、硯・筆、取寄(とりよ)せ、日記を付(つけ)けるに、無筆の下女、筆を取りて書くに、主人手蹟(しゆせき)に、少しも、違(たが)はず。

「扨。如伺程(いかほど)の手形、其方(そのはう)に在り。只今、出(いだ)すべし。」

と云ふ。

 相役、陳(ちん)ぜんとしければ、

「其の爲にこそ、御目付を申請(まをしう)けたり。少しも掠(かす)むべからず。其れ、其れ。」と云ふ間(あひだ)、力、及ばず、巾着(きんちやく)より、手形を出(いだ)す。

 卽ち、一々(いちいち)に算用を合はせけり。

 此の時、人々、

「後世(ごせ)は、有るか、無きか。」

と問へば、

「我は、算用に來りたり。後世の沙汰、無益なり。」

と云ふて、算用を究め、名判(なはん)して、

「最早、埒(らち)明きたり。」

と云ふて、退(しrぞ)き、又、打臥(うちふ)し、暫(しば)し、煩(わづら)ひて、本復(ほんぶく)せり。

 人々、

「希代(きだい)なり。」

と云ひあへり。

 内藤八衞門、聞いて、確(たしか)に語るなり。卯の春の事なり。

[やぶちゃん注:この話、昔から好きだった。どこがいいかって、やおら、周りの重臣どもが『「後世(ごせ)は、有るか、無きか。」と問へば、「我は、算用に來りたり。後世の沙汰、無益なり。」』と答えるシークエンスだ。これが、挟まることで、寧ろ、ある種の強いリアルな意志が画面を引き締め、この奇談の眼目となるからである。それを語って「きっ」と見るのは、下女の鶴の顔ですから、ご注意あれ!

「紀州、勇士何某」この「勇士」は「立派な武士」で一般名詞。紀州和歌山藩藩士何某。

「賄」藩の勘定方。

「相方」勘定方の同僚。

「引負」業務の引き継ぎをし。

「負はす」公金橫領の罪を亡き勘定方藩士に擦り付けた。

「跡、立たず」藩の公金横領は極罪であるから、当然、子は家督を継げず、お家断絶となり、しかも子は死罪を命ぜられたのである。但し、その死罪決行以前の時制が以下ととるべきであろう。

「公儀」ここは藩主及び重臣。

「御目付」藩の御目付役。馬廻(うままわり)役格の藩士から有能な人物が登用され、大目付や家老の統括に置かれることが多かった。配下に徒目付(かちめつけ)・横目(よこめ)などといった、足軽や徒士の勤務を監察する役職を置くのが一般的で、藩の諸役人の査察・検分を行った。

「手代」勘定方の下役。

「名判して」姓名の名を書き記して。或いは、加えて、印を押すこともある。

「本復せり」言わずもがなであるが、下女の鶴が、である。]

 

〇上總東金(かづさとうがね)下門屋村(しもかどやむら)、左吉と云ふ者、母の年忌を吊(とむら)ふ時、大眞(だいしん)と云ふ、廿歲ばかりの僧、亡者の取立子(とりたてご)なれば、

「我が爲には親なり。布施は、取るまじき。」

と云ふて、返しけり。

 吊ひ過ぎて、皆々、家に歸れば、城宅(じいやうたく)と云ふ座頭の姉、召使(めしつか)ひの、六十餘りの下女、

「わつ。」

と呼ぶ。

「何事ぞ。」

とて、氣を付ければ、口走りて、

「子坊主に、會ひたし。」

と云ふ。

 城宅、

「定めて、大眞のことなるべし。」

と云ふて、則ち、呼びければ、大眞、「法華經」八の卷を持ち來たりて、誦むなり。

 彼(か)の女(おんな)、

「あら、なつかし。」

と抱(いだ)き付きければ、大眞、逃げんとす。

 城宅、叱りて、

「逃げば、出家の恥なり。言語道斷。」

と云ひければ、大眞、留(とゞ)まりて、經を誦むに、

「彌々(いよいよ)、懷し。」

と叫び居(ゐ)たり。

 城宅、

「さては。女は、後生(ごしやう)、惡(あし)し。如何樣(いかやう)なる若患(くげん)ぞ。」

と問へば、

「佛事の内(うち)、一人(にん)の僧、布施を取らず。五升の米に、二百の代物(だいもつ)、かますの内へ入れ、寺へ遣(や)らず、其の儘、置く故に、是、我が苦しみと成る。」

と云ふ。

「さては。米・代物、何方(いづかた)へ遣(つか)はすべし。」

と問へば、

「齋坊主(ときばうず)へ遣し給へ。」

と云ふ。

 則ち、米・代物、寺へ遣りければ、

「是(こ)の二つの理(ことわり)申(まを)したき故に、一兩日、逗留したり。今は歸る。」

とて、走り出で、

「行く。」

と云ふて、則ち、庭にて、倒れ臥す。

 良(やゝ)あつて、起こして、問へば、

「能く寢入りて、何事も覺えず。去りながら、何やらん、上に覆ひ懸(かゝ)るばかりにてありたり。」と云ふ。

 寺は高野村(たかのむら)妙福寺なり。寬永十八年の事なり。

[やぶちゃん注:「上總東金下門屋村」東金市の諸資料も見たが、この村の名前は見当たらない。一つ可能性を考えたのは、「今昔マップ」の戦前の地図のここに、「御」(みかど:これは東金市内の地名として現存する)があり、その南東直近に「村(シタムラ)」とあることである。これが「御」村のお敷のあるところの「」の「」の意味であったとしたなら、それらを組み合わせれば、「下門屋村」となる。以下の妙福寺に夜に出向としても、距離的にも実測で片道七キロで、私は問題ない位置であると思う。

「取立子」当初は、出産の際に産婆役をした子の意かと思ったが、「江戸怪談集(中)」の注には、彼女に生前、『世話を受けた子』とある。

「高野村妙福寺」東金駅に近い千葉県東金市台方(だいかた)にある日蓮宗羽黒山妙福寺である。

「代物」香奠の銭(ぜに)。或いは、それに代わる物品。

「かます」「叺」。叺俵(かますだわら)。藁莚を二つ折りにし、両端を「コデ縄」などと呼ぶ細い縄で縫って袋にし、容器として用いるもの。所謂、我々が想起する米俵を平たくしたもので、穀物・塩・肥料・石炭などを入れ、保存や輸送に利用する。材料には稲藁を使い、嘗つては農家が冬の農閑期に作っていたが、後には専門業者が作るようになった。現在は紙袋が普及し、その利用が急速に減っている。しかし、例えば、神奈川県相模原市(旧津久井郡)では正月に歳神様(としがみさま)を祀るのに、この「かます」を使ったり、千葉県印旛郡では家の交際仲間を「叺つきあい」と呼ぶなど、民俗社会では重要な意味を持っている(主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「寬永十八年」一六四一年。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「十九 產れ子の死にたるに註を爲して再來を知る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    十九 產(うま)れ子(こ)の死にたるに註(しるし)を爲(な)して再來を知る事

 濃州(ぢようしう)池田の鄕(がう)に、又右衞門(またゑもん)と云ふ者あり。

 其女房、面(おもて)半分、薄墨色(うすゞみいろ)なり。彼(か)の謂(いは)れを聞くに、彼(か)の女房の親、子供を、多く、ころしけり。

 或時、子(こ)、死にければ、彼(か)の女房の母、

「子、數多(あまた)死しけり。」

とて、其(その)子守、鍋墨(なべずみ)を手に塗り、死したる子の片面(かたつら)に塗り付け、

「頓(やが)て生(うま)れ給へ。」

と云うて、捨てけり。

 其子、頓(やが)て生れ來て、後(のち)まで、そだちけり。

 此女房、五十ばかりの比、見たる人、語るなり。

[やぶちゃん注:中央に展開部の書き方が不全であり、使用している言葉もよく選んで書いたものとは思われない。上手く書けば、それなりに、いい話になったろうに。

「濃州池田の鄕」岐阜県揖斐(いび)郡池田町(いけだちょう)

「彼の女房の親、子供を、多く、ころしけり」貧困であったから仕方なく間引きしたか、或いは、中には、そうした過去の経験から、育てることに注意が払われずに、結果、その後の子らも、皆、死なしてしまったということか(但し、続く第二話の足軽のケースは、同年齢で「三人まで子をころし」たが、それを「餘り不思議に思」って、と続くことから、そちらには、男親として子を育てる意志がない確信犯の故意の子殺しのニュアンスがあるようには読める)。当初、『「其子守、鍋墨を手に塗り、死したる子の片面に塗り付け、」はせめて母が命じて「塗り付けさせ、」とし、「すべきところだろう。』などと感想を持ったのだが、初版板本でもそんな痕跡はなく、とすれば、これは、母の思わず口を出た後悔とも言える述懐である「子、數多(あまた)死しけり。」を耳にした子守が、あまりに感に堪えなかったから、かく半面に墨塗りをし、哀れな死んだ子に「頓て生れ給へ」という台詞呼びかけたのだと考えるべきであろう。「何だ、子守を雇う金はあったから、極貧じゃ、ないじゃないか。」というのは、当たらない。子守を条件に飯を食わせてくれるならば、幾らも子守の成り手はあった。寧ろ、この母が、子をちゃんと育てたいと思えばこそ、子守を雇っているのであるから、やはり育児の完全放棄、無慈悲の子捨て・確信犯の子殺しなどではないことは明らかである。

「捨てけり」嬰児・幼児の遺体を野辺に捨てるのは、古くから普通に行われていたことで、特に惨酷な行為とは考えられていなかった。鎌倉の武家屋敷跡の発掘時、当時の排水溝から、嬰児の死体が多量のゴミと一緒に出土している。因みに、よく言う「三歳(或いは七歳)までは神の子」という言い方には、大切な存在というポジティブな印象の影に、古い民俗社会ではブラッキーなニュアンスも潜んでいると私は考えている。その年になるまでは、まだ、人間ではない、だから、人間扱いして葬儀などせずに野辺に遺棄してよいという、本来は、都合のいい大人側の合点が含まれていたのではなかろうか? 

○江州佐和の足輕に、二歲づゝにて、三人まで、子をころしたる者有り。餘り不思議に思ひ、小刀にて、腕をつき、捨てけり。

 然るに、四人目の子、產れけるに、確かに其疵有りけると、さる人、語るなり。

[やぶちゃん注:これは前注で示した通り、数え二歳で三人も子を殺したというのは、前のような慈悲や事故・過失とは解釈出来ない。育てる意志がないから、確信犯で子殺しをしているニュアンスである。しかし、三度目の仕儀の時、殺した後に、この繰り返しを何らかの因果と感じ、何気なく、遺体の腕に印をつけて捨てた。そうして四人目の腕にそれを見出し、自分が殺した最初の子は、殺した後も三度も私の子として再び転生し続けたのだと悟って、因果の不思議を感じ、四人目の子は大事に育てたという予定調和の物語としてとるべきであろう。]

2022/10/07

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「十八 實盛、或僧に錢甕を告ぐる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。なお、標題の読点使用はママ。特異点。]

 

   十八 實盛(さねもり)、或僧に錢甕(ぜにがめ)を告ぐる事

 播州にて或僧の夢に、

「我は、實盛なり。我屋敷に錢を埋み置きたり。朽(くち)くさらん事、悲し。」

と告げたり。

 此事、語り廣めて、越前へ聞(きこ)え、國主の耳に立(た)ち、

「怪(おか[やぶちゃん注:ママ。])しき事なれども、自然(しぜん)、有りもやすらん。屋敷を堀(ほ)[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]らせて見よ。」

と仰せけり。

 花輪何某(はなわなにがし)と云ふ人、奉行にて、堀らせけるに、蓋(ふた)もなき甕(かめ)一つ、堀出(ほりいだ)したり。

 錢は、くさりて、土の如し。

 鑄物師(ゐものし)に下(くだ)され、

「鐘(かね)の中(うち)に入れよ。」

と仰せ付けられたり。

 實盛屋敷は、こんこく、七箇村(かむら)の内に、乙坂村(おとさかむら)と云ふ處なり。樋口村(ひぐちむら)の雙(なら)び、平山(ひらやま)の上(かみ)なり。

 元和(げんわ)の末(すゑ)の事なり。

 花輪何某、物語を、兼田(かねた)三郞左衞門、聞きて、語るなり。

[やぶちゃん注:「實盛」好きの私は、この話、甚だ不快である。かの名将実盛がこんな執着を持とうはずもない。馬鹿々々しいのみの、いっとう、厭な話である。彼については、いろいろ書いているが、『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 66 小松 あなむざんやな甲の下のきりぎりす』を参照されたい。

「こんこく」「今國」。今の越前国の。

「乙坂村」福井県丹生郡(にゅうぐん)越前町(えちぜんちょう)乙坂(おつさか)

「樋口村」「平山」「Stanford Digital Repository」の戦前の地図でも確認したが、乙坂地区の周辺に、これらの地名及び読み間違えそうなそれは、確認出来なかった。

「元和(げんわ)の末(すゑ)」一般的には「げんな」と表記する。元和は十年までで、一六二四年。

「兼田三郞左衞門」不詳。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「十七 雪石夢物語の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。なお、本篇の標題の「雪石」部分には「せつしう」とルビするが、本文内の「せせき」に従った。初版板本47コマ目)は正しく「セツセキ」とある。]

 

   十七 雪石(せつせき)夢物語の事

 尾州名古屋に久野雪石(くのせつせき)と云ふ人、或夜(あるよ)の夢に、去年死したる近處(きんじよ)の、平岩彌五助(ひらいはやごすけ)と云ふ仁(じん)來つて、

「我は高麗(かうらい)へ生(うま)れ行くなり。」

と告げたり。

 雪石、聞きて、

「御身、無道心にて、畜生に似たる人なり。高麗は畜生國なり。然(さ)も有るべし。」

がと言へば、彌五助、腹立ち氣色(きしょく)にて、

「亦、徒(いたづ)ら事(ごと)を云ふ。」

とて、雪石、股(もゝ)を、つねりければ、夢、覺(さ)めたり。

「明(あく)る日一日は、股、痛みたり。」

と、雪石、直談(ぢきだん)の由、平入(へいにふ)、物語りなり。

 寬永の末の事なり。

[やぶちゃん注:「久野雪石」「平岩彌五助」「平入」総て人物不詳。「また聴き」でも、かく実在していそうな人名がしっかりと附されれば、嘘臭い話ではなくなるのが、都市伝説の真実性を高める必須条件であるのは言うまでもない。現在の幽霊話やネットの心霊動画の胡散臭さは、どれもこれも、匿名であったり、話者の声に変換器を用いていたり、目に目隠しが入ったりしてしているから、全然、ダメなのである。本気で心霊現象が実際にあると信じて止まないのであれば、堂々と姓名を名乗り、顔出しして、自分で、「その現象は真実としてあった」と語ることこそが、唯一最善の実話怪談になることは、今時、幼稚園児だって知ってるぜ。

「寬永の末」末年は寛永二一(一六四四)年。

「高麗は畜生國なり」これは。今時、全く、まずいね。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「十六 大河を覺えず走る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   十六 大河を覺えず走る事

 奧州會津吉村淸兵衞(よしむらせいびやうゑ)と云ふ仁(じん)、松平下野殿(まあつだいらしもつけどの)、遠行(ゑんぎやう)の時、驚きて、會津の城下の河を、覺えず、走り通りけり。歸りに、舟にて越しける時、川を見出したり。又左衞門(またざゑもん)と云ふ者、語るなり。

[やぶちゃん注:「吉村淸兵衞」不詳。

「松平下野殿」松平下野守忠吉(天正八(一五八〇)年~慶長一二(一六〇七)年)か。第二代将軍徳川秀忠の同母弟で、徳川四天王の一人である井伊直政の娘婿に当たる。当該ウィキによれば、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では、『会津征伐ために関東を北上して小山に到着後、家康に先んじて』、『東海道駿河国に進んだことが秀忠書状で確認でき』、『旅程を考慮すれば』七月二十五日の『小山軍議以前に西進した』とあるので、若い時のお忍びでの話か(と言っても、彼は享年二十八の若死にである)。後半生は殆んど関西にあって病気がちであったので、可能性はゼロに近い。

「會津の城下の河」大河は鶴ヶ城の西方を南北に貫流する阿賀川(あががわ)であるが、これは少し川幅があり過ぎるので、鶴ヶ城南直下の同川の北右岸で合流する湯川(ゆがわ)か、鶴ヶ城の南西で湯川に合流する支流の、さらに細い古川であろうかなどと考えたが、後の二者は現在の画像を見る限りでは「走り抜けた」と言っても、奇談にはならない感じだ。帰りは舟で越したというのだから、やっぱり、暴虎馮河で阿賀川なのであろう。]

 

〇酒井何某(さかゐなにがし)殿、鷹匠秘藏の鷹を、のらす時、

「あつ。」

と思ひ見れば、向ひの森に、鷹、あり。

 是を見て翔付(かけつ)けて、鷹を据(す)ゑ上げたり。

 歸らんとするに、大河有りて、越されず、二里廻りて、舟に乘りて歸るなり。

 傍輩衆(はうばいしゆ)、皆々、知りたる事なり。

 川は、とね川なり。

[やぶちゃん注:「のらす時」鷹狩りをする際に腕に載せるので、ここでは、「鷹狩りをした際」の謂いであろう。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「十五 蛇に呑まれて蘇生する者の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十五 蛇に呑まれて蘇生する者の事

 江州にて、さる者、木を切りに行く。九つになる子、鎌を持ちて行く。

 此の子を、蝮(うはばみ)、呑みて、腹、ふとく成りて行くを見て、父、追付(おひつ)け、鉞斧(まさかり)を蝮の胴體へ打込(うちこ)みければ、其儘、吐き出(いだ)しけり。其砌(そのみぎり)は、頭(かしら)の毛、拔けたりと云へども、頓(やが)て、本(もと)の如く、生(お)ひたりとなり。

 其の子廿七の時、受三(じゆさん)、見て語るなり。

[やぶちゃん注:「受三」不詳。]

 

〇濃州(じようしう)岩村(いはむら)にて、さる者、蝮(うはばみ)に呑まれたり。小脇指(こわきざし)にて、腹を切り破り、出(いだ)したり。

 此の男を、鈴木權兵衞(ごんびやうゑ)、

「見たり。」

と語るなり。

[やぶちゃん注:「濃州岩村」岐阜県恵那市岩村町(いわむらちょう)。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「十四 蛇人に遺恨を作す事 附 犬猫の遺恨の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   十四 蛇(へび)人に遺恨を作(な)す事

      犬猫の遺恨の事

 上總(かづさ)の國、東士川(とうじがは)の江南方村(えなみかたむら)に、左衞門四郞(さゑもんしらう)と云ふ者の舅(しうと)、作場(さくば)へ出でゝ、雉の羽敲(はたゝ)きするを見付(みつけ)て、取上(とりあ)げければ、蛇に纏(まか)れて居(ゐ)たり。

 彼(か)の蛇を取放(とりはな)ちて、鳥を持來(もちきた)つて、

「汁に煮て、隣(となり)の人にも、振舞(ふるま)はん。」

とて、鍋に入れ、鑰(かぎ)に掛けたる時、彼(か)の蛇、繩に傳(つた)はり、下(お)りけるを見て、皆、迯(に)げ去る。

 彼(か)の亭主、此蛇を打殺(うちころ)して、鳥汁を喰(く)ひけり。

 其後(そのゝち)、彼(か)の者の腹をまきけるを、鎌にて截捨(きりす)てけれども、又は、腹をまきまきする程に、後(のち)には、蛇をも、汁に煮て喰ひけれども、終(つひ)には、まき殺しけり。

 彼の者の塜(つか)に、蛇、多く聚(あつま)りける由、婿の左衞門、語るを確(たしか)に聞くなり。

[やぶちゃん注:「上總の國、東士川の江南方村」かなり苦労したが、千葉県郷土探究士ミツネ氏のブログ「未知の駅 總フサ」の「九十九里町クジュウクリの地名由来」のこちらの記事の『●宿しゅく』の項に、宿という地名は明治二二(一八八九)年に起立したものだが、『もとは宿村(現東金市宿)』の『飛地』で、『江戸期は宿村。元禄の頃』(一六八八年~一七〇四年)『宿村新田があったが』、『合併』したと書かれた後に、『地名は往古「東士川宿(とうしかわじゅく)」と称されていたようで、東士川とは土気』(とけ)『城主・酒井氏の定めた軍事集団・衆のひとつに名前がある。「たうし(倒し)・かわ(川)」で』、『崩壊する危険のある川という意味』であるとあった。本地である宿村は、千葉県東金市宿(しゅく)で、ミツネ氏の言っておられるのは、その南東近くの飛地である千葉県山武(さんぶ)郡九十九里町(まち)の宿である。両者は二キロ弱しか離れていない。因みに、土気城跡はここである(千葉県千葉市緑区土気町(とけちょう))。孰れにせよ、この両「宿」或いはその周辺がロケーションと考えてよい。

「作場」農耕地。]

 

○菅沼何某(すがぬまなにがし)内(うち)に、犬殺(いぬころし)の役(やく)に出でたる庄助と云ふ者、或時、犬を殺しに行くに、犬、繫(つなが)れながら、走り掛(かゝ)り、庄助の足の脛(こむら)に喰ひ付きければ、次第々々に、腐り入り、痛み煩(わづら)ふに、氣違ひて、犬のことばかり云つて、死す。

「忽ち、報いを受けたり。」

と、彼の家中衆(いちうしゆ)、語られたり。

[やぶちゃん注:咬傷部が壊死したのは、別な化膿性細菌によるものであろうが、死に至る狂騒状態から死に至るそれは、典型的な狂犬病の症状である。繋がれた状態の犬が噛みついたという辺りも、狂犬病に罹患した犬の行動として、甚だ腑に落ちる。]

 

〇三州足久志村(あしくしむら)、甚五郞處(ところ)の猫、子を、三つ、產みたるを、着物(きるもの)きせ置く處に、母猫、來りて、子を尋ねけるを、

「汝が子は、三つながら、是(これ)の白犬(しろいぬ)、喰うたり。」

と云へば、即ち、厩(うあまや)の入口(いりくち)の糠俵(ぬかだはら)の上に上(のぼ)り、だまり居(ゐ)て、彼(か)の犬、食(めし)喰(くら)ふ處を、向ひに廻り、

「ひよつ」

と飛び付き、兩手にて、眼玉(まなこだま)を搔拔(かきぬ)き、逃行(にげゆ)きてより、二た度(たび)歸らず、となり。

[やぶちゃん注:「三州足久志村」愛知県知多郡阿久比町(あぐいちょう)か。「足久志」を「あぐし」「あくし」とも読め、「し」に「比」と誤って「此」を当てたとすれば、発音上・漢字表記上の近似性が認められるからである。中心部に阿久比町阿久比がある。地域全体を指して、古くは「英比(あぐい)谷」と呼ばれた。]

 

〇相州戶塜の近處(きんじよ)にて、鷹の餌(ゑ)に犬を、一步(ぶ)宛(づゝ)に二度(ど)まで賣りければ、二度ながら、迯(に)げて來(きた)る。

 亦、三度目に賣る時、彼の犬、男の咽(のど)ぶえに飛び付き、喰(く)ひ殺しけりとなり。

[やぶちゃん注:「相州戶塜」神奈川県横浜市戸塚区。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「十三 馬の物言ふ事 附 犬の物言ふ事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、本篇は所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」にも収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   十三 馬の物言ふ事

      犬の物言ふ事

 

Kanagawanosyuku

 

[やぶちゃん注:前掲「江戸怪談集(中)」から読み込んだ。右上のキャプションは、「かな川の宿」。]

 

武州神奈川に、旅人、宿(やど)を取りて、雨降りける故、亭主の羽織を盜み、着て行かんとするに、何者やらん、

「其(それ)は、亭主の羽織なり。何とて、着て行くぞ。」

と云ふほどに、傍らを見れども、人は、なし。

 聞かぬ由(よし)にて、出でんとすれば、又、右の如く言ふを聞くに、馬なり。

 此時、馬に向つて、

「何事ぞ。」

と問へば、

「我は、亭主の甥(をひ)なり。伯父の造作(ざうさ)を受けたり。此の恩を報ぜんために、馬と爲(な)り來(きた)る。今、少し、債(おひめ)あり。錢七十五文出(いだ)せば、暇(ひま)、明(あく)なり。」

と言ふ。

 餘り怖しく覺えて、亭主に、委しく語る。

 亭主、聞いて、

「扨も、不思議のことかな。此馬、能く使はるゝ事、類(たぐ)ひなし。唯(たゞ)、人の如くに覺えたり。」

と語る。

 其後(そのゝち)、人、來たりて、彼の馬を借り、七十五文、取りければ、則ち、死す。

 寬永年中のことなり。内藤六衞門、確(たし)かに語るなり。

[やぶちゃん注:

「神奈川」神奈川宿。現在の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町(かながわほんちょう)附近にあった。

「造作を受けたり」「生前、世話になった。」。

「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。]

 

〇江州にて、ある家に、盜人(ぬすびと)入りて、物を取らんとするに、彼(か)の家の馬、狂ひて、怖しき體(てい)なり。

 暫し、靜まつて、又、出でんとするに、馬、追掛(おひか)けて、

「其の取り物、遣(や)るまじ。速かに、置け。」

と云ふ。

 駭(おどろ)いて、子細を問ひければ、

「我、先きの世に、此の亭主の米を、一斗、盜みたる科(とが)に依つて、今、馬と爲(な)つて、四年、此に有り。九升、相濟(あひす)まして、今、一升、すまず。是を押さへて、償(つぐな)ふべし。」

と云ふ。

 盜人、聞いて、贓物(ざうもつ)、捨て、去りけり。

 盜人、餘りに怖しく覺えて、其後(そのゝち)、彼(か)の家に往(ゆ)きて、

「馬を、借らん。」

と云ふ。

 亭主、

「此の程、間(ま)もなく使ふ故、馬、草臥(くたびれ)たり。借すまじき。」

と云ふ。

「駄賃錢(だちんせん)、過分に出(いだ)さん。」

と云ひて、强(しひ)て借りけり。

 彼(か)の馬の債(おひめ)を償(つぐの)のはしめん爲めなり。

 其れより、返つて、馬、即ち、死す。

 盜人、後(のち)に來りて、懺悔(さんげ)しけり。

 人々、知つて、隱れなき事なり。

[やぶちゃん注:「贓物」盗品。

「懺悔(さんげ)」底本は「ざんげ」と振る。既注の通り

「駄賃錢」馬の使用料。]

 

〇秀賴樣の餌指(えさし[やぶちゃん注:ママ。「ゑさし」が正しい。])の處へ、犬の生き肝(ぎも)を買(かひ)に來たる。

 銀(ぎん)三枚に直(ね)を究(きは)め、女房、犬を引きて、裏へ行くに、彼(か)の犬、迹(あと)を見返りて、

「怖しき女哉(かな)。」

と云ふ。

 是を聞いて、買ふ人、逃げ去りたり。

 男、外より、歸りければ、女房、悔(く)いて、「今日、銀子(ぎんす)を取迯(とりはづ)したり。」

と云ふ。

 男、仔細を問へば、女房、

「しかじか。」

と語る。

 男、聞いて、

「さても、怖しき女かな。」

と云ふて、行方知(ゆきがたし)らずに、出で行きたりとなり。

[やぶちゃん注:「秀賴」豊臣秀吉の三男・庶子で家督を継いだ豊臣秀頼(文禄二(一五九三)年~慶長二十年五月八日(一六一五年六月四日)。「大坂夏の陣」で自害した。享年二十三(満二十一歳)。

「餌指」「江戸怪談集(中)」に注に、『「餌差し」のこと。鷹匠の部下に属し、職務のため、猟犬を飼っている。』とある。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「十二 鯰人の夢に告て命を乞ふ事 附 牛夢中に命の禮を云ふ事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    十二 鯰(なまづ)人の夢に告(つげ)て命を乞ふ事

       牛夢中に命の禮を云ふ事

 江州佐和に、鵜(う)の何某(なにがし)と云ふ人、或夜の夢に、大(おほき)なる鯰、匍(は)ひ來て、

「我々、明朝、是(これ)へ參るべし。必ず、放ちて給へ。」

と云ふ。一庵と云ふ醫者の方(かた)より、來るべき、との夢なり。

 夜明けて、何某、母に向つて、

「今夜(こよひ)、怪しき夢を見たり。」

と語る處に、一庵より、桶に入れて鯰を持來(もちきた)れり。

 見れば、眞(まこと)に夢に少しも違(たが)はず、眼(まなこ)、

「ぼちぼち」

として、居(ゐ)たり。

 則ち、生(いか)しけり。

 是より、彼人(かのひと)、善者に成りけるとなり。

[やぶちゃん注:「江州佐和」滋賀県彦根市佐和町(さわちょう)。彦根城の南東直近。]

 

○賀州八幡(はちまん)にて、市右衞門(いちゑもん)と云ふ者、牛を賣るに、友達、

「此牛は、殺して喰はんとて、買ふ。」

と云ふ。

 市右衞門、是を聞き、急ぎ、買手の方ヘ行き、樣々(さまざま)佗言(わびごと)して、牛を取返(とりかへ)す。

 其夜(そのよ)、枕元に、人、來りて、市右衞門を起(おこ)して、

「今日、命を助け給ふこと、忝(かたじけ)なし。」

と云ふ。

 起て見れば、牛なり。是は、四郞右衞門内(うち)、又市、物語りなり。

[やぶちゃん注:「賀州八幡(はちまん)」三重県伊賀市八幡町やはたちょう)。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「十一 鷄寺入する事」

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「十一 鷄寺入する事」

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    十一 鷄(にはとり)寺入(てらいり)する事

 濃州(ぢようしう)加納(かなふ)、久雲寺(きうゝんじ)に、何ともなく、鷄、二つ來(きた)る。

 十日程、過ぎ、兒島平太夫(こじまへいだいふ)、來つて、是を見て、住寺に、

「此鷄は何方(いづかた)より參りたるや。」

と問ふ。

 住待、

「知らず。」

と仰せければ、

「扨(さて)は、我等(われら)鷄なり。十日以前に、『夕(ゆふ)さりの、料理にすべし。』と云へば、其儘、逃(にげ)たり。」

と云ふ。

 住持、之を聞きて、

「扨は。許し給へ。」

と仰せけるを、

「尤もなり。」

と請合(うけあひ)ければ、其儘、平太夫より先に、鷄、二つ共に、家に歸るなり。

[やぶちゃん注:「濃州加納、久雲寺」諸資料に、この寺名でも認めるが、最も信頼出来ると判断した岐阜市の編集になる「ぎふ魅力づくり推進部 文化財保護課」の「歴史遺産を活かしたぎふ魅力づくり 岐阜市文化財保存活用地域計画」(令和二年七月発行・PDF)により(「表 743 調査で把握された岐阜市の伝承・伝説2」のナンバー9)、旧美濃国厚見郡加納、現在の岐阜駅直近の岐阜県岐阜市加納天神町にある曹洞宗久運寺である。現在の住職自身の、こちらのブログの記事にある「三尺坊御旧跡 曹洞宗 久運寺」の引用記載で確実である。本篇も新字体で活字化されてある。

「夕さり」「夕去り」。夕刻。ここでは夕食の意。

「許し給へ」という住持の台詞は、「絞めて料理するのは、お許しになられ、生かしてこのまま、飼うて下され。」の意。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「十 母鳥子の命に替る事 附 猿寺へ來り子の吊ひを賴ひ事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    母鳥(はゝどり)子の命に替(かは)る事

     猿(さる)寺へ來り子の吊(とむら)ひを賴む事

 九州衣(ころも)と云ふ處に、鈴木作兵衞(さくびやうゑ)と云ふ町人、鷹數奇(たかずき)にて、或時、子雲雀(こひばり)に鷹を合(あは)せけるに、鳥間(とりま)近き處に、母鳥、居(ゐ)けるが、子と鷹との合(あひ)を隔てゝ、取られけり。

 作兵衞、これを見て、則ち、鷹を止めけり。

 正保年中の事なり。

[やぶちゃん注:「九州衣」不詳。福岡県北九州市八幡東区に羽衣町(はごろもまち)ならある。

「鷹數奇」鷹狩りを好むこと。「鷹」の博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)」を参照されたいが、鷹狩には、新顎上目Neognathaeのタカ目タカ科 Accipitridae及び同じ新顎上目ハヤブサ目ハヤブサ科 Falconidae の複数種が用いられるが、優秀な鷹狩の主な担い手であるのは、タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis である。

「鳥間」鷹と狙っている対象動物の距離や位置関係を指す。

「雲雀」博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり) (ヒバリ)」を参照。ヒバリは繁殖期にはつがいで生活し、非繁殖期でも、小さな群れで生活する。

「正保年中」一六四四年から一六四八年まで。]

 

○越前さばやの町に猿曳(さるひき)あり。

 彼(か)の猿、子を產む。

 主に向つて、手の指を、三つ擧(あ)げたり。

 猿曳、心得て、

「己(おのれ)に三日の暇(ひま)を出して、我々は飢死(うゑじに)すべきか。」

と云うて、一日も許さず、引廻(ひきまは)る間(あひだ)、子猿、頓(やが)て死す。

 母猿、泣悲(なきかなし)みて、頭(かしら)の髮(かみ)を剃る眞似したり。

 さる程に、母猿を許しければ、子猿を抱(いだ)き、寺に行きて、手を合せ、坊主を拜みて、子猿の頭を剃る眞似しける間(あひだ)、坊主、心得て、剃刀(かみそり)を頂(いたゞ)かせ、髮を剃り、人の如く、能く吊(とむら)ひて、塚を築(つか)せたり。

 それより、母猿、歎(なげ)きて、腰、拔(ぬけ)て、用(よう)に立たず。

 猿曳、無道心者にて、敲(たゝ)き殺しけり。

 猿曳、頓て、腰拔けたるを、人々、惡(にく)みて、路傍(みちばた)に捨て殺しけり。

[やぶちゃん注:私は、この話より、根岸鎭衞の「耳嚢 巻之二 畜類又恩愛深き事」の方が忘れ難い。リンク先は私の古い電子化訳注である。また、民俗学的によくディグしている、私の電子化注「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(29) 「猿舞由緖」(1)」、及び、「柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(30) 「猿舞由緖」(2)」も必読である。本篇の猿曳の因業の果ての最期は無惨であるが、そこで我々は、当時の猿曳が社会的に差別された下層芸能民であったことも念頭に置かねばならない。腰の抜けた猿曳を路傍に捨て殺しにした人々は、報いを受けていないし、受けるとも考えていなかったのだ。それは、大多数の当時の人々が、獣である猿を生業のために使役していた彼らを、同じ「人間」としては、どこかで、認めていなかった証しなのである。だからこそ、平気でいられるのだ。そこに差別の持つ、都合のいい自分側の不合理な倫理が透けて見えるのである。そういう意味でも、私はこの因果物一篇を不快に思うのである。それは「譚海 卷之二 江戸非人・穢多公事に及たる事」の私の注の引用を見られれたい。

「越前さばやの町」これはまず、現在の福井県鯖江(さばえ)市である。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「九 鳩の愛執の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    鳩の愛執の事

 寬永十年の比(ころ)、さる家中、伴(ばん)の市右衞門(いちゑもん)と云ふ人の庭に、鳩來(きた)るを、則ち、鐵砲にて打殺(うちころ)す。頸(くび)に當りて、頭、なし。

 其後(そのゝち)、又、鳩來る。是をも前の如く打ち、毛をむしらするに、脇の下に鳩の頭(かしら)を挾みて有り。

 日數(ひかず)を計(はか)るに、今日は、先月、鳩を打ちたる日なり。

 是より、驚きて、殺生を休(や)めけり。

 市右衞門傍輩衆、確(たしか)に語るなり。

[やぶちゃん注:この話、短いが、後発の怪奇談集に類話がさわにある。例えば、先般、電子化した『西原未達「新御伽婢子」 雁塚昔』が、その一つで、明かに本篇を始動素材として、大きく話を膨らましたものと考えられる。

「寬永十年」一六三三年。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「八 石塔人に化る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、この「三」は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    石塔人(ひと)に化(ばけ)る事

 出羽の國米澤に、先源寺(せんげんじ)と云ふ寺あり。慶長の始め比(ごろ)、此寺の大(おほき)なる五輪、人となつて、路へ跳り出づる處を、修里内(しゆりうち)の五兵衞(ごひやうゑ)と云ふ者、袈裟掛(けさがけ)に切離したり。彼(か)の五輪、見たる鐵存(てつぞん)と云ふ長老、語り給ふを、防州山田東觀寺にて聞くなり。

[やぶちゃん注:「出羽の國米澤」「先源寺」不詳。現在、米沢にこの名の寺はない。知られた近似する名の寺では、山形県米沢市中央にある曹洞宗萬用山東源寺があり、この寺は上杉氏の家臣となった尾崎氏とともに信州(現在の長野県飯山市)から米沢に移ってきた寺である。因みに、ここは現在、寺中の「羅漢堂」にある幕末に制作された五百羅漢像で知られる。

「慶長の始め」慶長は二十年までで、一五九六年から一六一五年まで。

「修里内(しゆりうち)の五兵衞(ごひやうゑ)」思うに、「修理内五兵衞」(しゅりのうちごひょうえ)で武士の通称であろう。所謂、受領名(ずりょうめい:戦国大名等が武功や功績ある家臣に対して授けた非公式な官名)を先祖が受けたものを代々継いでいるのであろう。

「鐵存」不詳。

「防州山田東觀寺」不詳。山越県内の寺院リストを見たが、この名の寺院は現存しない。話を聴いただけの寺であるから、変名にする必要はないので、廃寺となったものかも知れない。]

2022/10/06

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「七 鳩來り御剱を守り居る事 附 神前の刀にて化物を切る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、本篇は、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」の抜粋版には収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    鳩(はと)來り御剱(ぎよけん)を守り居(ゐ)る事

     神前の刀(かたな)にて化物を切る事

 大坂の住(ぢう)、大和守古道(やまとのかみふるみち)と云ふ鍛冶(かぢ)、寬永十九年正月十五日より、禁中樣(きんちうさま)の御剱を作りければ、鼠色(ねずみいろ)の鳩、來つて、吹箱(ふきばこ)の上に居(ゐ)たり。

 追へども立たず、大豆(まめ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])を蒔(まき)て見れども、喰(く)はず。

 不審して、神の折敷(をしき)に入れて、喰(くは)せけり。

 日々(にちにち)來りけるが、御剱、出來(しゆつらい)すれば、出で行くなり。亦、内裏(だいり)にて、銘を截(き)る時も、彼(か)の鳩、來りて守り居(ゐ)たるとなり。

[やぶちゃん注:「大和守古道」不詳だが、酷似した名の摂津国の刀工に「大和守吉道」(やまとのかみよしみち)がいるサイト「刀剣ワールド」のこちらによれば、『初代』『大坂丹波守吉道』『の次男で、関西における』「丁子乱(ちょうじみだれ)の三名人」の『ひとりに数えられた名工で』、『生年は不詳で』ある『が、延宝年間』(一六七三年~一六八一年)『まで生き』、八十『余歳で没し』たとあり、『大和守吉道が得意とした丁子乱とは、丁字の実が連なった形にみえる刃文のこと』で、『後代になると、「薬焼刃」(くすりやきば)と呼ばれる技法によって、菊水や富士山、桜花などを交えた』、『華やかな文様を描き、人気を博し』、『切れ味も良く、江戸時代の刀剣格付書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)において、「良業物」(よきわざもの)の評価を得てい』るとある。朝廷御用達であれば、この人物である可能性が高いように思われる。]

 

○香丸淸兵衞(かうまるせいびやうゑ)と云ふ人は、下野(しもつけ)の國蜷川(にながは)の生れの人なり。十歲の比(ころ)、下女一人、付け、伯母(をば)の處に、あづけ置(お)かる。然(しか)るに、彼(か)の女伯母の、氣に違(たが)ひて、父の方へ歸る。敎訓して、亦、伯母の方へ返す事、四、五度(ど)なり。其後(そのゝち)、亦、走り出でゝ、行末(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。] )なし。

 或時、伯母、煩(わづら)ひ付(つ)きて、

「あやしき者、切々(せつせつ)來(きた)る。」

と云へば、

「煩ひの、たわ目(め)なるべし。」

とて居(ゐ)たるに、伯母は、

「今は、庭に來りて居(ゐ)る。さりとては、たわ目に、あらず。」

と云ふ。

「扨(さて)は。」

とて、庭を見れども、何も、なし。

 伯母、亦、靑き物を着て來(きた)る間(あひだ)、よくよく、見よ。」

と云ふ。

 其時、庭の物を、取りのけて見るに、庭の角に、長持(ながもち)あり。

 其下より靑(あを)きつぎ、見えけるが、俄かに、長持の下へ、引くなり。

 不思議に思ひ、長持を取除(とりの)け見れば、彼(か)の下女、板の樣(やう)に成りて居(ゐ)たり。彼の女、

「居處(ゐどころ)無くして、裏(うら)の木に、うつろあり、是(これ)に籠り居(ゐ)て、三年、送るなり。」

と云ふ。

「扨も、惡いやつかな。」

と云うて、切るにきれず、彌々(いよいよ)腹立ち、何(なに)と、切れども、切れず。

 せんかたなき處に、

「斯樣(かやう)の化者(ばけもの)をば、神社へ籠めたる刀にて、切る。」

と云ふ人あり。

「然(さ)れば。」

とて、八幡へ籠めたる刀にて、切りければ、即ち、首(くび)、落ちけり。

 此化者、靈(りやう)と成つて、皆々、取殺しけり。

 今に、神に祝(いは)ひて、蜷川に有るなり。

[やぶちゃん注:この冒頭の「香丸淸兵衞」なる不詳の人物の話は、結局、最後は伯母のところから飛び出して、行方不明になって、話が切れてしまっており、本題の怪異の話との連関性が、よく判らない。この彼に従って来た下女が、後半では蛇っぽい化け物となっているようだが、「香丸淸兵衞」の失踪は、実は、その蛇化した下女に誑かされ、殺されたものか、或いは、その下女の邪性を知って、伯母からではなく、この下女から逃げたというのが、真相なのか? 後半の伯母以外の人物たちが何者なのかも明らかになっていない。恐らくは、伯母の家の下人たちらしいが、その辺りも、明かでなく、不審である。そもそも、この話、どこで、誰から聴いたのかが、本書の他の話と異なり、明かになっていないのも、甚だ気になるのである。神剣譚に収束させるためだけに書かれた完全な失敗作と言わざるを得ないと思うのだが、読者の方々は、いかが思われるか?

「下野の國蜷川」不詳。栃木県皆川の誤りか。

「つぎ」「繼(つぎ)」で衣服の破れ目を綴った「つぎ」のことか。

「神社へ籠めたる刀」神社に神剣として奉納した刀。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「六 食踈にして家亡びし事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、本篇は、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」の抜粋版には収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    食踈(おろそか)にして家亡びし事

 尾州名古屋に、岩瀨權左衞門と云ふ人あり。

 下女、心なき者にて、食(めし)の喰殘(くひのこ)し、多く有りけるを、盡(ことごと)く、棚(たな)の下に捨てけり。

 每日、此のごとくにして、四、五年を歷(へ)けるが、棚下の邊(ほと)り、皆、蛇と成る。主人、是に肝を銷(け)し、旦那坊主、金剛寺を請(しやう)じ、

「如何(いかゞ)せん。」

と賴む。

 坊主、

「是、身上破滅(しんしやうはめつ)の相なり。さりながら、我(わが)云ふ如くせられば、よからんか。」

と云うて、蛇共(ども)を一つも殘さず拾ひ聚めて、常の飯鍋(めしなべ)に入れて蓋(ふた)を覆(おほ)ひ、經咒(きやうじゆ)を讀誦(どくじゆ)して燒(た)かせければ、如何にも奇麗なる食(めし)となる。

 長老曰く、

「是を夫婦して、皆、悉く、喰(くら)ひ盡(つく)されば、無事なるべし。若(も)し喰餘(くひあま)しなば、家、亡(ほろ)ぶべし。」

と。

「さらば。」

とて、喰(く)ひけれども、大分(だいぶん)の事なれば、喰(くら)ひ餘(あま)しけり。

「兎角、身上滅亡なり。」

と云うて、坊主は歸られけり。

 頓(やが)て、食燒(めしたき)の下女、兩眼(りやうがん)、ひしと、禿(つぶ)れたり。

 扨(さて)、言ふに違はず、四、五年の内、權左衞門孫子(まごゝ)、四、五人、女房、ともに死に果て、六年過ぎて、權左衞門、終(つひ)に死にけり。

 食燒女は小林村の名主の娘なり。

 寬永五年の事なり。

 若原道久(わかはらだうきう)、確(たしか)に知つて語るなり。

[やぶちゃん注:捨てた張本人は失明でしつつも、命は無事で、何故、一族は滅亡するのか、因果が不平等である。因果物語としては、甚だ不満が残る。

「棚の下」恐らくは台所に作り付けになっている膳棚の下方が土間の床下に繋がっており、その土間続きの地面に隙間から投げ込んで捨てていたということであろう。

「金剛寺」現在の愛知県名古屋市には二つある。中区栄の臨済宗金剛禅寺と、緑区鳴海町平部の曹洞宗金剛寺である。

「寬永五年」一六三四年。

「若原道久」不詳。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「五 二升を用ふる者雷に摑まるゝ事 附 地獄に落つる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、本篇は、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に収録されているので、OCRで読み込み、加工データとした。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    二升(ふたます)を用ふる者(もの)雷(らい)に摑(つか)まるゝ事

     地獄に落つる事

 江州松原と云ふ處に後家あり。表家(おもてや)を人に借して、奧に居(ゐ)たり。

 寬永廿年の六月、表の庭に、雷(かみなり)、落ちて、表屋(おもてや)の中(うち)を通り、六歲に成る子を摑んで、三間ほど、なげければ、持佛堂の戶に打ち當てけり。

 母、是に駭(おどろ)きて、奧の後家(ごけ)に行きて、

「唯今の雷に、子を抛(な)げられたり。」

と云ふて、見れば、音もせず、臥し居(ゐ)たり。

「何とし給ふぞ。」

と云ふて、引き起こしければ、死してけり。

 驚きて、是を見れば、肩、黑く成りたる所ばかりあつて、疵(きず)もなし。

 不思議に思ひ、

「頓死なり。」

とて、其の日は、其の儘、置きけり。

 明日(あくるひ)、磯山(いそやま)と云ふ廟所(べうしよ)へ、舟にて、行く處に、俄(にはか)に、大雨、降りて、車軸を流し、雷電、轟きて、四方、黑暗(くらやみ)と成り、東西を失(しつ)す。

 各々(おのおの)、

『叶はぬこと。』

と思ひ、

「先づ、内へ歸らん。」

と議す。

 其の時、水主(かこ)ども、

「是程(これほど)のことに、臆病なり。」

と、互ひに、精を出(いだ)し、櫓(ろ)を押す。

 漕ぎ行く舟に添ひて、雷聲(らいせい)、頭(つむり)の上に落ち掛(かゝ)るやうに鳴り渡りければ、八人の者、

「此度(このたび)仕損(しそん)じては癖氣(しけ)なり。」

とて、命(いのち)を捨てゝ、聲を掛けて、押しければ、漸々(やうやう)、天も晴(はれ)て、廟所へ着きけり。

 扨(さて)、棺(くわん)を彼處(かしこ)にすゑ、薪をつみ、火を掛(かけ)て、歸りけり。

 明日(あくるひ)、行きて見れば、死骸を取り出(いだ)し、十間程、遠くに、捨て置きたり。

 宗庵、確(たしか)に見たるなり。

 此の後家、飽くまで、慾、深く、二升を用ひて、一生を送りたる科(とが)なり。

「天罰、違(たが)はず。」

と、人々、云ひあへり。

[やぶちゃん注:「江州松原」彥根市松原町(まつばらちょう)。

「寬永廿年の六月」一六四三年七月十六日から八月十四日。

「六歲に成る子を摑んで、三間」(五・四五メートル)「ほど、なげければ、持佛堂の戶に打ち當てけり」幸いにも、この子は大きな怪我もなかったのである。持仏堂の仏が、戸をクッションにしたものであろう。

「磯山と云ふ廟所」不詳。但し、松原町の北に川を挟んで、米原市磯という地があるので、この琵琶湖畔に共同墓地があったものかとも思われる。同地の湖岸の、この附近には、寺や地蔵尊などが、有意に認められるからである。

「癖氣(しけ)」小学館「日本国語大辞典」にも載らないが、「江戸怪談集(中)」の注に、『「退け」のこと。敗北。不首尾。』とある。

「死骸を取り出(いだ)し、十間」(約十八メートル)「程、遠くに、捨て置きたり」「死骸が焼き場から、何者かに、取り出されて、離れたところに投げ捨てられていたのである。

「宗庵」不詳だが、一度、前に登場している。

「二桝を用ひて」穀物の売買の際に、見かけ上では判らない大・小の桝を後ろ手に用い、量を誤魔化し、暴利を得ていたのである。]

 

○遠州市野村に、惣衞門(そうゑもん)と云ふ者、高野聖(かうやひじり)の宿(やど)なり。

 此の聖、北國(ほくこく)立山へ參詣しけるに、惣衞門女房、立山にて、地獄に入(い)る。

 彼の聖、飛び掛(かゝ)りて、帶を引き留めければ、帶は切れて、終(つひ)に、女房、地獄に入りぬ。

 不憫に思ひ、下向して、惣右衞門處(ところ)へ至りて見れば、女房、何事なく、居(ゐ)たり。

 然(さ)れば、不思議に思ひ、

「夏中(なつちう)に、何(なに)にても、不思議なること、なしや。」

と問ふ。

 女房、答へて云ふ、

「夏の末(すゑ)に藏の内へ入(い)るに、口元(くちもと)にて何者か、我等が帶を取りて、後ろより引けども、もちひず、藏の内へ入りければ、帶は、切れて、なし。」

と云ふ。

 聖、其日を考ふれば、立山にて、帶を引き取りたる時に違(たが)はず。

 是に依(よつ)て、委しく子細を語つて、帶を取出(とりいだ)し、見せければ、肝を銷(け)し、驚き入りたり。

 聖、曰く、

「日比(ひごろ)、何にても、惡しき事をば、仕給(したま)はぬか。若(も)し、心に思ひ當つること有らば、懺悔(さんげ)して科(とが)を亡(ほろぼ)すべし。人に隱す科ならば、佛神天道(ぶつじんてんだう)に懺悔めさるべし。然(さ)なくんば、必ず、大地獄に落ち、萬劫(まんごう)を歷(ふ)るとも、閣魔の責(せめ)、遁(のが)るべからず。今より以後、慈悲心深く、正直を專(もつぱ)らとせば、先世罪業(せんせざいごふ)、即ち、消滅すべし。只(たゞ)一心不亂に、念佛信心、有るべし。」

と。

 其の時、女房云ふやう、

「思ひ當(あた)ること、有り。日比(ひごろ)、商賣利潤を本(ほん)として、升(ます)に大小を拵らへ、人をぬきたる科なりと、胸に當(あた)れり。」

と。

 其處(そのところ)の代官、松下淨慶、物語りなり。

[やぶちゃん注:「遠州市野村」静岡県浜松市東区市野町(いちのちょう)。

「高野聖(かうやひじり)の宿(やど)なり」「高野聖」は平安末から増えた諸国行脚を旨とする聖の中で、高野山を本拠とする集団で、厳しい念仏修行をする一方で、妻帯したり、一定の箇所で期を決めて生産業を行うなど、半僧半俗の生活を営み、特に鎌倉時代以後は、諸国を回国し、弘法大師信仰と高野山への納骨を勧め、霊験譚を広めた。また、橋や道路を造り、造塔造仏の勧進も勤め、各地の「別所」と呼ばれる所に住んだりもした。高野山中では「小田原聖」・「萱堂(かやどう)聖」・「千手院聖」などが、南北朝期に時宗化した。中世末に至って、高野聖の勧進活動は行き詰まり、中には商いを生業とする者も出現し、笈(おい)に呉服を入れて売り歩く「呉服聖」、「行商聖」や、最早、行乞を業とする乞食と変わらぬ聖など、俗悪化が進み、本来の姿を失ったまま、江戸末期まで続いた(ここまでは、平凡社「百科事典マイペディア」を概ね主文とした)。また、当該ウィキには、彼らは、『高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられ、一般に行商人を兼ねていた。時代が下ると』、『学侶方や行人方とともに高野山の一勢力となり、諸国に高野信仰を広める一方、連歌会を催したりして』、『文芸活動も行ったため』、『民衆に親しまれた。しかし一部においては俗悪化し、村の街道などで「今宵の宿を借ろう、宿を借ろう」と声をかけたため「夜道怪」』(やどうかい:これは高野聖を妖怪としたもので、子供を誘拐するそれとして恐れられた)『(宿借)とも呼ばれた集団もあった。また「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」と俗謡に唄われているのはこのためである』。『織田信長は天正』六(一五七八)年、『畿内の高野聖』千三百八十三『人を捕え』、『殺害している。高野山が信長に敵対する荒木村重の残党を匿ったり』、『足利義昭と通じたりした動きへの報復だったというが、当時は高野聖に成り済まし密偵活動を行う間者』(かんじゃ)『もおり、これに手を焼いた末の対処だったともいわれている。江戸時代になって幕府が統治政策の一環として檀家制度を推進したこともあり、さしもの高野聖も活動が制限され、やがて衰えていった』ともある。なお、この本文部分は、「とある高野聖の定宿(ぢやうやど)なり」とあるべきところであろうと思う。

「口元」蔵の入り口のところ。

「懺悔(さんげ)」底本では、「ざんげ」(直後の箇所も同じ)と振っているが、初版板本及び岩波文庫版で訂した。「懺悔」は江戸以前は一貫して「さんげ」と読まれた。明治になってキリスト教の流入によって「ざんげ」の読みが一般化してしまったため、饗庭はうっかり、かく振ってしまったものと思われる。或いは、原稿は「さんげ」であったが、勝手に校正係或いは活字工が、かく組んでしまった可能性もある。

「人をぬきたる」人を欺(あざむ)き騙(だま)した。

「松下淨慶」これは、遠江国浜松で活動した武将で修験者の松下常慶(永禄元(一五五八)年~寛永元(一六二四)年)本人か、或いは、その直系縁者で同名を名乗った者であろう。彼は後に「淨慶」と改名している。当該ウィキによれば、『兄松下清景と共に徳川家康に仕えた』。「徳川実紀」では『「二諦坊」の主と述べられているが、これは、あくまでも後世の伝聞で、実際は家康に近侍した奥勤めであり、身辺警護を任された家康直近の武将である。名は安綱(やすつな)。徳川家康が遠州に進攻する前に、飯尾連龍なきあとの曳馬(浜松)城の開城工作に活躍するなど諜報活動に従事した』(「井伊家伝記」)『という伝承もあるが、松下家系譜によれば』、『三河岡崎城にて、徳川家康に初めて御目見、遠州浜松城部屋住みより始めて、小姓に取り立てられ、勘定頭と奥勤を兼ねた。若い頃は修験者として三河・遠江・駿河の白山先達職を任じられた者として記録されている。三河・遠江に徳川氏の支配が確立するまでは、秋葉山の御師に変装して三河・遠江・駿河など各地を巡歴し、情報を徳川家康や井伊氏に報告した。井伊(松下)直政(虎松)の、徳川家康への初お目見にも活躍したとみられる』。『子に重綱、仙誉、昌俊、貞綱(養子)、房利、氏秀』『らがいる』。天正一八(一五九〇)年、『家康が関東に入国した後、武蔵国都筑郡・多摩郡・常陸国鹿島郡の三郡で』七百四十『石を与えられた。寛永元年』(一六二四年)に六十七歳で亡くなったとされるが、この『没年・没歳には疑問が残る。なぜなら』、六十七『歳没とするのならば、徳川家康の遠州入場前夜、家康の命で曳馬城』(ひきまじょう・浜松城の前身とされる城)『の調略を行った時はわずか』十『歳に過ぎない』ことになってしまうからである。『法名は松林院殿仙壽笑安大居士。墓所は高野山聖無動院』。『直系の子孫は、治安維持の役職を踏襲し、火付け盗賊改め方や駿府町奉行』(☜「代官」ではないが、代官と言い換えそうな職ではある)『を務めた者もいる。静岡市内にはかつて常慶町という町名があった。駿府城の東門は常慶門とも呼ばれる』とある。但し、生年が正しいとすれば、正三より二十一年上であり、没年が正しいとすれば、当時の正三は四十五歳で、出逢って話を聴いたとしても、おかしくはない。もし、正しく彼ならば、本篇までの中で、超弩級に有名な実在人物の直談ということになる。

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「四 親不孝の者罰を蒙る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、本篇は、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に収録されているので、OCRで読み込み、加工データとした。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    親不孝の者(もの)罰を蒙る事

 攝州天王寺、石の鳥居の前より、一町半程、北西の南稜(みなみかど)の家主(いへぬし)九兵衞と云ふ者、母を蹴る。當座に、足、萎(な)へて、起きず、其後(そのゝち)、母の頭(かしら)を押さへければ、當座に、手なへに成りけり。

 手足、叶はぬに依(よつ)て、母を睨(にら)みければ、忽ち、眼(まなこ)、引(ひき)がだかり、面(つら)の樣子(やうす)、替(かは)り、終(つひ)に※癩(かつらい)に成り、手足、腐れて、相果(あひは)つること、亥(ゐ)の七月十日なり。

 母を蹴ることは戌の年也。

 吾も本秀和尙と同道にて、彼(か)の家を見るなり。

[やぶちゃん注:「※」は「疒」に「歇」の異体字のこれ(「グリフウィキ」)を入れたもの。「※癩」は多様な外見上の病変を示すハンセン病(前の私の注を参照)の一つの様態を示すものと思われる。

「當座に」その場で即座に。

「引(ひき)はだかり」「はだかる」は「開(はだ)かる」で、「目・口・指などが大きく開く」の意であるから、「目尻が避けて、大きく剝き出しになる」の謂いであろう。

「亥(ゐ)の七月十日なり。母を蹴ることは戌の年也」即時、発病し、僅か一年のうちに、重体化して手足が壊死し、死去したことになる。ハンセン病では、こんな急変は生じない。

「本秀長老」既出既注。恐らく、本書の中で最も頻繁に登場する正三と親しい曹洞宗の僧である。]

 

○同じ州(くに)榎並(えなみ)、けまと云ふ村に、賤しき女あり。一人の娘を持つ。此の娘を中村の者、養子にして、身代(しんだい)能く成りければ、再々(さいさい)、母を蹈(ふ)み付け、

「己(おのれ)が子に生れて、無念なり。」

と嗔(いか)ること、度々(たびたび)なり。

 彼の娘、子を產むとて、死にけるを、吊(とむら)ひ、火葬するに、何としても燒けず。

「餘り、見若(みぐる)し。」

とて、淀河(よどがは)へ流しければ、本(もと)の處に揚(あが)り居(ゐ)て、再々、流せども、流れず、又、本の處に有々(ありあり)するなり。

[やぶちゃん注:「榎並(えなみ)、けま」孰れも淀川の沿岸近くの地名。現行では大阪府大阪市都島区毛馬町(けまちょう)が現在の淀川の左岸にあり、その毛馬地区の南東後背で毛馬の北端で淀川から分流する大川の左岸に榎並の名を冠する史跡。施設が、複数、点在する。ここでは、恐らく「榎並」が広域地名で彼らは「毛馬」の住人であったと考えてよく、淀川へ水葬するというのも、毛馬がベスト・ロケーションとなる。]

 

○濃州(ぢやうしう)多藝郡(たきぐん)、さる村の者、川向ひに、田を作りけり。

 其の祖父(おほぢ)、幼少なる孫を伴れて、田打(たうち)に行けば、傍らに遊びて居(ゐ)けるが。見えし。

『さては、早(はや)、歸りたるか。』

と思ひ、祖父も家に歸る。

「彼の孫、あとより歸る。」

とて、河にて、死にけり。

 息子、腹立ち、

「父は我が子の敵(てき)なり。打殺(うちころ)さん。」

と云ふを、人々、扱(あつか)うて、宥(ゆる)しけり。

 然(しか)れども、愚痴深き故に、憤(いきどほり)を止(や)むること能はず。

「兎角、我(わが)子の敵なり。打殺して、胸を晴(はら)さん。」

と云ふ。

 父、聞いて、

「其れならば、晝は人目も惡(あし)し。夜に入りて、我を殺せ。」

と云ふ。

 終(つひ)に、近所の宮(みや)へ父を伴ひ行き、拜殿にて鉞(まさかり)を振り上げ、父の眞向(まつかう)を打たんとするに、打(うち)はづして柱に打込(うちこ)む。

 忽ち、手、すくみ、鉞、拔けず、作り付けたるが如くにして居(ゐ)けり。

 里人(さとびと)、聞き付け、大勢、走り來て、鉞を拔くに、拔けず。鋸(のこぎり)にて、柄(え)を摺切(すりき)れば、柄を握りたる手、離れず。

「何と、もぎ取らん。」

と、すれども、執(と)られず。

 後(のち)まで、柄を握りて有りしとなり。

 寬永十五年のことなり。

[やぶちゃん注:「濃州多藝郡」旧「多藝郡」は「たぎぐん/たぎのこほり」と読むのが正しい。近代の郡域は大垣市の一部・海津(かいづ)市の一部・養老郡養老町(ようろうちょう)の大部分に相当する。この附近

「彼の孫、あとより歸る。」「先に帰ったが、どこかで道草して遊んでいるのであろう。後から帰るよ。」のニュアンス。

「人々、扱(あつか)うて」他の親族や村人らが、仲裁して。

「寬永十五年」一六三八年。]

 

○江州日野の町に、何某(なにがし)と云ふ者、有り。

 母、早く死して、父、獨り、在り。

 或時、彼(か)の父、十死一生の痢病(りびやう)をやむなり。

 婦(よめ)、情けある者にて、能(よ)くいたはり、しめしを洗ひ替え、洗ひ替えて、看病す。

 父、娘を餘所(よそ)へ在り付け置きけるが、見舞(みまひ)の爲(ため)に來(きた)る。

 兄、云ふやう、

「親のしめしなるに、せめて、一度(いちど)、洗ひて見よ。」

と、しめしを差出(さしいだ)しければ、娘、見て、鼻をしかめ、つばきを吐き掛け、「あら、むさや。」

と云ふ。

 然(しか)るに、彼の娘、頓(やが)て鼻の下に、物、出來(いでき)、唇(くちびる)上下(うえした)、共(とも)に腐り、おとがひまで腐り落ちて、終(つひ)に死にけり。

 本秀和尙、能く知つて、語り給ふなり。

[やぶちゃん注:「江州日野の町」滋賀県蒲生郡日野町

「痢病」激しい下痢を伴う疾患であるから、赤痢あたりか。

「しめし」おしめ。]

2022/10/05

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三 起請文の罰の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、この「三」は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    起請文(きしやうもん)の罰の事

 江州かばた村は、松平何某(なにがし)の知行なり。

 庄屋寺村庄右衞門(てらむらしやうゑもん)、起請文を書き、前々の物成帳(ものなりちやう)二つ、取り隱しけるが、頓(やが)て田蟲(たむし)の如くの瘡(かさ)出來(でき)て、總身(そうみ)を喰(く)ひ廻し、咽(のど)ぶえ、少し、明(あ)きけり。

 咽ぶえを喰ひつめると、其儘、死して、跡、絕えたり。

 彼(か)の明屋敷(あきやしき)の畦(くね)に、長さ二間程周(まは)りに、二尺ばかりの大蛇(おほへび)出でたり。

 人々、肝を銷(け)し、見る處に、此蛇、

「木に登る。」

とて、蛭(ひる)を落(おと)す。

 跡より、血の出づるを見れば、皆、蛭なり。

 斯(か)くのごとく、三十日程、見えたり。

「未(ひつじ)の年、卯月中ごろのことなり。」

と、池内次左衞門、見て、たしかに語るなり。

[やぶちゃん注:「江州かばた村」いろいろ調べて見たが、不詳。郷土史研究家の方の御教授を乞う。

「物成帳」当該の村の田畑から出す年貢の項目と各量を記したものであろう。それは知行者である松平氏が閲し、花押が記されるもので、ここは、それが「起請文」の具体的対象であったのであり、「前々の物成帳二つ」を「取り隱しける」とあることから、それを安く少なく書き変えて偽造し、その誤魔化した分を寺村は自分のものにして私腹を肥やしていたという筋書きであろうか。にしても、書き込みが浅過ぎて、よく判らない。

「田蟲(たむし)の如くの瘡(かさ)出來(でき)て、總身(そうみ)を喰(く)ひ廻し、咽(のど)ぶえ、少し、明(あ)きけり。咽ぶえを喰ひつめると、其儘、死して、跡、絕えたり」この病態はかなり激しいもので、実際の疾患としては、同定し難い。当初は、特徴的な発疹と、皮膚の壊死、喉頭部の穿孔などから、梅毒の末期を考えたが、急激に進行しているようなので、そうなると、最近、「人食いバクテリア」などと呼ばれている劇症型溶血性レンサ球菌感染症辺りが相当するか。

「二間」三メートル六十四センチ。

「跡より、血の出づるを見れば、皆、蛭なり」この辺り、描写が不十分で判り難い。大きな蛇の登って行った木の下で、それを見上げている村人らに、蛭(ヤマビル)がボタボタと落ちて、彼らが気がつくと、既に血を吸われており、皆、体から血を垂らしていたというシークエンスか。それにしても、後半の異様なスプラッター怪異が、グロテスクな前半との因果を持っているようには示されておらず(その猟奇性を楽しんで書いていると言っては失礼か)、如何にも拙速の怪奇談の失敗作にしか見えない。気づいているのだが、ここのところの各篇は、日時は明らかにしているものの、正確な年をぼかしていて(何より、日時の十二支や月を出すぐらいなら、年の正確な干支を出せ! と正三に言いたい気が、このところ、ひどくしているのである。それを気にしたものか、次は年が明らかに出る)、真実性が著しく低下しているように思われる。

 

○同州信樂木(しがらき)の中(うち)、杉山村と山城の内(うち)、湯舟村(ゆぶねむら)と山堺(やまざかひ)の論あり。

 代官より、檢使(けんし)を立てゝ堺を見るに、杉山の分に見立てたり。

 又、前々よりの申し分は、湯舟村の申し分、理(り)なり。

 此時、杉山村の者共、

「兎角(とかく)、起請(きしやう)にて、申し分(わ)くべし。」

とて、一村、殘らず、起請文を書きて、山を取るなり。

 尤も「白癩黑癩(びやくらいこくらい)」の文(もん)を書入れたり。

 正保三年の事なるに、漸(やうや)く、一年過ぎて、慶安二年丑の春、起請文の如く、村中、殘らず癩病を受け、五、六百間(けん)の村、一時に荒れ果つるなり。

「天罰、明(あきら)かなり。」

と、人々、云へり。

 其村の樣子、慥(たしか)に見たる、山口市之丞内(うち)の者、語るなり。

[やぶちゃん注:「同州信樂木」「信楽焼」で知られる滋賀県甲賀市信楽町長野を中心とした信楽地区

「杉山村」信楽町杉山

「山城」不詳。杉山地区の北西少し離れてある信楽町下朝宮(しもあさみや)の「朝宮城山城跡」を広域地名に用いたものか。

「湯舟村」上記二地区の間に、貫入するように、京都府相楽郡和束町(わづかちょう)湯船(ゆぶね)がここにある。こりゃ、山境の問題が起こるわけだわ!

『「白癩黑癩(びやくらいこくらい)」の文(もん)を書入れたり』「白癩黑癩」はハンセン病の皮膚病変の様態の違いで言われたものに過ぎない。「癩」は現在は「ハンセン病」と呼称せねばならない。抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法らい予防法が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。ハンセン病への正しい理解を以って以下の話柄を批判的に読まれることを望む。寺島良安の「和漢三才図会卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇」(マムシ)の項ではこの病について『此の疾ひは、天地肅殺の氣を感じて成る惡疾なり。』と書いている。これは「この病気は、四季の廻りの中で、秋に草木が急速に枯死する(=「粛殺」という)のと同じ原理で、何らかの天地自然の摂理たるものに深く抵触してしまい、その衰退の凡ての「気」を受けて、生きながらにしてその急激な身体の衰退枯死現象を受けることによって発病した『悪しき病』である。」という意味である。ハンセン病が西洋に於いても天刑病と呼ばれ、生きながらに地獄の業火に焼かれるといった無理解と同一の地平であり、これが当時の医師(良安は医師である)の普通の見解であったのである。因みに、マムシはこの病気の特効薬だと説くのであるが、さても対するところこの「蝮蛇というのは、太陽の火気だけを受けて成った牙、そこから生じた『粛殺』するところの毒、どちらも万物の天地の摂理たる陰陽の現象の、偏った双方の邪まな激しい毒『気』を受けて生じた『惡しき生物』である。」――毒を以て毒を制す、の論理なのである――これ自体、如何にも貧弱で底の浅い類感的でステロタイプな発想で、私には実は不愉快な記載でさえある。――いや――実はしかし、こうした似非「論理」似非「科学」は今現在にさえ、私は潜み、いや逆に、蔓延ってさえいる、とも思うのである……。因みに、私の亡き母聖子テレジア(筋萎縮性側索硬化症(ALS)による急性期呼吸不全により二〇一一年三月十九日午前五時二十一分に天国に召された)は独身の頃、修道女になろうと決心していた。イタリア人神父の洗礼を受けて笠井テレジア聖子となった。彼女は生涯を長島のハンセン病患者への奉仕で生きることまで予定していたことを言い添えておく。さて。ハンセン病は永く、その皮膚病変のさまから、「生きながらにして地獄の業火に焼かれている罪深い病い」として、民俗社会に於いて強く忌避されていたのであった。そのために、本朝中世の十二世紀の起請文の罰文に、「白癩・黒癩」の文言が出現しているのである。これは神に誓って違うことはないという決まった文言の一つとして、もし、誓約に背いた場合には、「現世ニハ受白癩黑癩之病」と記したのである。

「正保三年」一六四七年。

「一年過ぎて、慶安二年」(一六四九年)「丑の春」春なので、この年を数えに入れず、実質的な計算から「一年過ぎて」としたものである。

「五、六百間の村」九百九メートルから約一キロに広がってあった村。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二 佛像を破り報ひを受くる事 附 堂宇塔廟を破り報ひを受くる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、この「二」は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    佛像を破り報いを受くる事

     堂宇塔廟を破り報いを受くる事

 九州肥前の國島原に、良可(りやうか)と云ふ座頭(ざとう)有り。彼(か)の祖父、朝鮮の軍(いくさ)に、佛像の玉眼(ぎよくがん)を、多く、拔き取るなり。

 其の報ひにや、孫(まご)了可(りやうか)[やぶちゃん注:ママ。]、同じく弟妹(おとゝいもと)三人まで、生まれながら、盲目に生(しやう)を得たりとなり。

 正保年中に、此(この)座頭を慥(たしか)に見たる僧、來たつて、語るなり。

[やぶちゃん注:えらい短い話である。

「朝鮮の軍」豊臣秀吉の朝鮮出兵。天正二〇(一五九二)年に始まって翌文禄二(一五九三)年に休戦した「文禄の役」、及び、慶長二(一五九七)年の講和交渉決裂によって再開され、慶長三(一五九八)年の秀吉の死を以って日本軍撤退で終結した「慶長の役」を指す。二度のそれでは、略奪の限りを尽くした。

「玉眼」仏像の目の部分に水晶製の曲面加工をした板を嵌め込む技法。通常は、眼に当たる部分を刳り抜いて貫通させた後(のち)、瞳を描いた水晶製の薄いレンズ状のものを、面部内側から嵌め込んで、和紙や綿を白眼として当てて押さえ、それに当て木をして、漆や木釘などで固定する技法である。より本物らしい生々しさを与え、時に、これに光が当たると、時として眼球が動いたり、こちらへ目を向けたかのように見えることもある。私も鎌倉の仏像で何度も経験したことがある。特に僧侶の頂相像の場合は、一種、不気味でさえある。制作年代の判明している最古の例は、仁平元(一一五一)年作の奈良長岳寺の阿弥陀三尊像であるが、寄せ木造りの木造技法が発達し、頭部内面を刳り抜くことが可能となった鎌倉時代に大いに一般化し、後の多くの仏像に用いられるようになった。

「正保年中」一六四四年から一六四八年まで。]

 

○三州足助(あすけ)に、小三郞と云ふ者あり。一向宗なり。

 女房、懷胎の内に、觀音堂の古道具を取りて、薪(たゝぎ)にしけり。

 其の子、產まれ出で、程歷(へ)て、次第に成人(せいじん)しけるに、形は人に違(たが)はざれども、業(わざ)は犬の如し。

 座敷を匐(は)ひ廻り、犬の土をほる如くにして、つくばひ、火に當(あた)る時も、犬の如くに、つくばひ、着る物、きすれども、帶(おび)すること、能はず。

 人を見ては、走り出でて、

「くわつ、くわつ。」

と、犬の如く、ほえ、糞(ふん)を食(しよく)して、かけありき、犬の如くに、屎(くそ)、尿(いばり)、す。

 都(すべ)て、物云ふこと、叶はず。

 母、是を悲(かなし)みて、樣々にすれども、詮なく、廿五、六歲にて、死しけり。

 人々、

「堂の具を燒きたる報ひなり。」

と云ひあへり。

[やぶちゃん注:「三州足助」愛知県豊田市足助町(あすけちょう)。尾張・三河から信州を結ぶ「伊那街道」(中馬街道)の重要な中継地に当たり、物資運搬や庶民通行の要所として栄えた商家町。また、重要な交易物であった塩は、ここで詰め替えられ、「足助塩」「足助直し」と呼ばれた。一度出た、足助町飯盛(いいもり)にある曹洞宗の名刹飯盛山(はんせいざん)香積寺(こうじゃくじ)が著名。]

 

○伯州(はくしう)に、江口殿(えぐちどの)と云ふ人、十六代目に、高麗陣(かうらいじん)にて討ち死にし、十七代目に、家、亡ぶ。

 十五代目の塚、泊(とまり)と云ふ所に有り。

 元和年中、新太郞殿代(しんたらうどのだい)に、泊の代官、次郞兵衞(びやうゑ)と云ふ者、屋敷の上に、塜(つか)有るを、嫌うて、堀崩(ほりくづ)し[やぶちゃん注:ママ。]、土(つち)一丈、底まで、取り捨てたり。

 其の儘、煩(わづら)ひ付き、無言(むごん)に成りたり。

 一門、おどろき、是を詮議して、

「定めて掘り崩したる塜のぬしの、祟りならん。」

と云ふて、所の年老(としより)たる者に、此の塜の主(ぬし)を聞く。

 年老ども、病者の面振(おもてふ)るを見て、

「此の面色(おもていろ)、眼指(まなざし)の體(てい)、疑ひなき、殿樣なり。然(しか)れば、我等如きの者に、直(ぢき)に、物(もの)、御申(おんまを)し成(な)されまじ。只、御菩提所(ごぼだいしよ)の坊主を、賴み入れよ。」

と云ふ。

 即ち、呼びければ、對面(たいめん)成(な)され、

「貴僧、御越しの間(あひだ)あらまし申すベし。此の者の、我が塜を掘崩(ほりくづ)し、地を穢(けが)すこと、口惜(くちをし)し。一門、殘らず、取り殺すべし。」

と、憤(いか)り給ふ。

 終日(ひねもす)、樣々、佗び言(ごと)し給へども、叶はず。

 漸く、一門ばかりを、ゆるし給ふ。

 次郞兵衞儀、

「片時も延ばさじ。」

とて、即ち、取り殺し給ふなり。

[やぶちゃん注:「江口殿」「江戸怪談集(中)」の注に、『不詳。若狹から來た井口氏か?』とあるのみ。

「高麗陣」同前で『文祿の役をさす。』とある。

「泊」鳥取県東伯(とうはく)郡にあった旧泊村(とまりそん)。当該ウィキによれば、『日本にある「泊村」の中で唯一「とまりそん」という読み方だった。他の「泊村」は「とまりむら」である』とある。現在は東伯郡湯梨浜町(ゆりはまちょう)泊

「元和年中」一六一五年から一六二四年まで。

「無言に成りたり」「聲も出なくなってしまった」の意。後で菩提寺の住職と語っているのは、次郎兵衛の体を借りて、言葉を発している、塜の主である十五代目江口殿の霊の声である。老人の言う「殿樣」も、その十五代目江口殿のことである。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「一 神明利生之事 附 御罰之事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、この「一」は収録していない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

因果物語中卷

 

    神明利生之(しんめいりしやうの)事

     御罰之(ごばつの)事

 木曾の福島に、伊勢の御利生を蒙(かうむ)りたる者あり。

 委しく所謂(いはれ[やぶちゃん注:二字への読み、])を聞くに、奧州より伊勢參(いせまゐり)の者、宿(やど)を借(か)る。

 亭主、俄(にはか)に、信心、發(おこ)りて思ふやう、

『奧州の果(はて)よりさへ、參宮申す人あるに、我等、近國に居(ゐ)て參らざる事、無道心なり。』

とて、頓(やが)て參宮す。

 歸つて、程なく、総領の子、死す。

 人皆(ひとみな)、

「伊勢の御罰。」

と云ひあへり。

 彼(か)の者、

『さりとては、信心堅固にて、參宮申すなり。此子(このこ)、時節(じせつ)たるべし。』

と思ひ、少しも、氣に掛けず。

 次の年、參宮すれば、二番子(ばんこ)、死す。

 人々、猶、

「必定(ひつぢやう)、御罰なり。」

と云ふ。

 彼の者、

「何と有りとも、御罰を得べからず。信心、慥(たしか)なり。」

とて、三年、參宮するに、下向(げかう)して、廿日程過(すぎ)て、三番子、死す。

三人持(もち)たる子(こ)、皆、死して、力(ちから)なく居(ゐ)ける處に、一兩日(りやうじつ)過(すぎ)て、

「三人の子、盜人(ぬすびと)なり。二人は死して、弟(おとゝ)、一人、あり。」

と、訴人(そにん)、出で、召取(めしと)りに來(きた)るに、一兩日(りやうにち)以前に死して、一人も、なし。」

とて、父も大難(だいなん)を遁(のが)れたり、となり。

 寬永年中の事なり。

[やぶちゃん注:「木曾の福島」長野県木曽郡木曽町福島。奥州とあるから、靑森・山形・秋田の御仁で、中山道を途中から南下したものか。

「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。]

 

○卯の三月、江戶新石町(しんこくちやう)に、或人の子守の女(をんな)、伊勢へぬけ參りを企てたり。

 主人、いかり、

「子を捨てゝ、參る事、あらんや。」

とて、縛りける。

 然れども、

「兎角、立(たて)たる願(ねがひ)あり。一度(ど)は參るべし。」

と云うて、さわぐ氣色、なし。

 さる程に、繩を解(と)きければ、頓(やが)て、ぬけて、參宮するなり。

 然(しか)るに、三日目に、彼(か)の子、火(ひ)のはたに居(ゐ)たるを、兄、

「ひし。」

と、つき倒しけるに、則ち、火に入りて、死にけり。

 諸人(しよにん)、

「伊勢の御罰(おんばつ)を蒙(かうむ)りたり。」

と云へりと、其近所の、有閑(うかん)、物語なり。

[やぶちゃん注:「ぬけ參り」「拔け參り」は、親・主人・村役人の許可なしに伊勢参りに行くことを言い、「お陰(かげ)参り」と関連して記されることが多い。「お陰参り」は、「天から、伊勢神宮のお祓いが下った。」ということが各地に噂され、突如、大群衆が伊勢参りに押しかけた現象を指す。宝永(一七〇四年~一七一一年)、明和(一七六四年~一七七二年)、文政(一八一八年~一八三〇年)など、概ね六十年ごとに、この騒ぎがあったという(但し、本書は寛文元(一六六一)年刊であるから、この「お陰参り」の流行より、はるか以前である)。これらの「お陰参り」を「抜け参り」と呼ぶこともあり、参加者の中には「抜け参り」の者も混じっていたが、全体の数からみれば、少数であった。「抜け参り」の者には、道中、どこでも、金を貸してくれた。「後で、借りた金を返済しなければ、お参りした効果がなくなる」とも言われていた。若者組の行事となった所もあり、三河国西加茂郡挙母(ころも)町(愛知県豊田市)の例をあげると、毎年十二、三歳から十五、六歳の青年男女が、後見人を頼んで「伊勢参り」をした。皆、家には告げずに出かけ、費用は、後見人が、その一切を立て替えておく。子供たちは普段着のまま出かけたという。やがて、家々でも「抜け参り」とわかるので、帰郷の際迎えに出て、神社で解散した。後見人の立て替えは、その後で清算したという(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「新石町」千代田区鍛冶町二丁目・内神田三丁目。この神田駅を中心とした南北部分既注の「石町」はこの町が出来たため、「本石町」(ほんこおくちょう)と改称し、「石町」の独立町名は消滅した。

「伊勢の御罰を蒙」ったと名指すのは、言わずもがな、その子守女の伊勢参りを阻んだ亭主のことである。

「有閑」働くことも必要がない、小金持ちの暇人。]

 

○大和國に、五百石取(こくどり)の代官衆(だいかんしゆ)、門を並べて、兩人(りやうにん)あり。一人(にん)の代官衆、或時、

「百姓を成敗(せいばい)せん。」

と云うて、引き出(いだ)す處に、門口(かどぐち)にて、伊勢の御師(おし)、來合(きあ)ひ、

「是(これ)、大神宮へ進(しん)ぜらるべし。」

と、しきりに貰ふ間、力(ちから)およばず、

「太神宮へ奉る。」

と云うて助け置き、御師、歸りて後、終(つひ)に、成放す。

 然るに、次の日より、彼(か)の代官、食(めし)を喰(く)はんとするに、汁(しる)にも、食(めし)にも、皆、糞(ふん)、有り。

 物を呑(のま)んとすれば、茶にも、水にも、皆、糞、有るゆゑ、終に飮喰(のみくら)ふこと、ならずして、餓死せられけり。

 是(これ)に依(よつ)て、隣(となり)の代官の子息、是を見、恐れて、父の家を續(つ)がず、出家するなり。

 先年、三州、石の平(たひら)へ來り、右の樣子、物語りなり。

 後には、律僧になり、不順坊(ふじゆんばう)と云ふ。又、後、禪門に入りて、江州高野(たかの)永源寺に住せられたりと云ふなり。

[やぶちゃん注:「御師(おし)」当初は、平安末期以降、特定の信者と師檀関係を結んで、それらの人々のために、巻数(かんじゅ/かんず:僧が願主の依頼で読誦(どくじゅ)した経文・陀羅尼などの題目・巻数・度数などを記した文書又は目録。木の枝などにつけて願主に送る。神道にも採り入れられ、祈禱師は中臣祓(なかとみのはらえ)を読んだ度数を記し、願主に送った)・守札等を配付するなどし、また自らも祈禱をなして、その代償として米銭の寄進を得た神官或いは社僧を指した。中世では、石清水八幡宮・熊野社・賀茂社等のものが著名で、熊野御師としては、先達山伏や時宗僧侶がこれにあたった。そして、次第に、神職や役僧の下で働く半俗の者たちが、遠隔地からの信者のために宿泊施設を兼業したり、先達を介しながら、地方の信者を組織的に吸収するような宗教集団的斡旋職へと転じ、特に神社信仰の普及を促した。近世では、伊勢大神宮の信仰が広く盛んであった(ここまでは小学館「日本大百科全書」の主文を参考に、一部をオリジナルに書き換えてある)。特に、伊勢神宮の場合は「御師(おし)」と、他の御師(おんし)と区別して呼称された

「三州、石の平」愛知県豊田市綾渡町石ノ平(あやどちょういしのたいら)。かなりの山間部であるが、ここにある平勝寺は、曹洞宗の古刹で、かっては天台宗の寺院として栄えた。

「不順坊」不詳。しかし、以下の永源寺の住持となったとすれば、相応の名僧とは思われる。

「江州高野永源寺」滋賀県東近江市永源寺高野町(えいげんじたかのちょう)にある臨済宗永源寺派大本山である瑞石山(ずいせきざん)永源寺。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「二十 臨終能き人之事」 / 「因果物語 上卷」~了

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、この「十七」から上巻の最後の「二十」までは収録していない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   二十 臨終能(よ)き人(ひと)之(の)事

 三州岡崎、龍海院の門前に、四郞右衞門と云ふ者、有り。

 正直者なれば、近邊の人、「佛(ほとけ)四郞右衞門」云ひけり。

 然(しか)るに、寬永六年の極月、俄(にはか)に煩(わづら)ひ付き、以ての外なる時、

「我、死すゐ命は、惜(をし)からざれども、今、節季(せつき)つまり、惡(あ)しき時分なり。先々(まづまづ)、死する事、春まで延(の)ぶべし。何(いづ)れも、宿(やど)へ歸り、皆、節季の仕度(したく)し給へ。」

と云へば、煩ひも、快くなる。

 人々、

『眞(まこと)、しからぬ。』

と思へども、

「然らば、彌々(いよいよ)養生し給へ。明日(みやうにち)、見舞ひに參るべし。」

と云へば、

「いやいや、明日も、見舞、無用なり。正月も死するに惡しき時分なれば、二月二日に死すベし。朔日(ついたち)の晚か、二日の朝、皆、來り給へ。其前には、必ず、氣遣ひ、するな。」

と云ふ。

 其如(そのごと)く、二月朔日に、少し、煩ひ付き、二日の晝時分、死すと。

 善鏡長老の物語りなり。

[やぶちゃん注:「三州岡崎、龍海院」愛知県岡崎市明大寺町(みょうだいじちょう)にある曹洞宗満珠山龍海院。]

 

○武州江戶、石町(こくちやう)に、田上玄賀(たがみげんか)と云ふ儒者の母、六十六の歲(とし)、煩ひ付きてより、一日に三度宛(どづゝ)、行水をし、病中に、歸依寺(きえでら)、五番町(ごばんちやう)、松久寺(しようきうじ)より、祖龍(そりう)と云ふ僧を呼び、髮を剃り、長老を請待(せうだい)して血脉(けちみやく)を戴き、法名を付け、彌々(いよいよ)右の如く、行水して、

「六月十四日申の刻に、必ず、死すべし。」

と言ひ觸(ふ)れて、其日になれぱ、人々に、暇乞(いとまご)ひして、

「今日(こんにち)は、行水、七度(ど)すべし。」

と云ふを、漸(やうや)く云ひ止(とゞ)めて、六度し了(をは)つて、餠世の歌を詠み、皆々へ盃(さかづき)して、座禪の形體(ぎやうたい)にて、即ち、徃生(わうじやう)す。

[やぶちゃん注:「江戶、石町」中央区日本橋本石町三・四丁目、及び、日本橋室町三・四丁目、及び、日本橋本町三・四丁目附近。江戸初期にここに米穀商が集住していたことに由来する。この中央附近

「田上玄賀」不詳。

「五番町」千代田区一番町

「松久寺」不詳。「江戸名所図会」で調べたが、この名の寺は禅林としてあるものの、場所は高輪辺りで一致しない。

「祖龍云ふ僧」不詳。

「申の刻」午後三時から五時。]

 

○下野(しもつけ)の國、佐野に道哲(だうてつ)と云ふ人あり。

 卯歲(うどし)八月十五日より、一食(じき)精進して、萬事(ばんじ)に拘(かゝ)はらず、一筋に菩提に思ひ入り、小座敷(こざしき)に籠居(ろうきよ)して、内より鑰(かぎがね)を掛けて、人にも會はず、工夫(くふう)純一(じゆんにち)にして居(ゐ)けるが、十一月廿一日の朝、四つ比(ごろ)に出でて、又、内へ入り、終(つひ)に返事、なし。

 戶を打放(うちはな)して見れば、結跏趺坐(けつかふざ)して、笑ひ顏にて、死し居(ゐ)たり。

[やぶちゃん注:「下野の國、佐野」栃木県佐野市

「道哲」不詳。

「四つ比」定時法なら、御前十時前後。不定時法なら、御前十時前頃。

「結跏趺坐」坐禅法の一つで、両脚を組んで座る方法。「跏」は「足を組み合わせる」の意で、「趺」は「足の甲」を指す。両脚を組み、左右の足の甲を、反対側の腿の上に載せて安坐する。「全跏」(ぜんか)「本跏坐」(ほんかざ)とも呼ぶ。「吉祥坐」と「降魔(ごうま)坐」の二種があり、「吉祥坐」は、先に左足を右の腿の上に置き、次に右足を左の腿の上に置く坐法で、仏の説法時の座り方とされる。「降魔坐」は、その逆で、右足を左の腿の上に置き、左足を右の腿の上に置く坐法であり、天台や禅は、この坐法による。顕教の仏・菩薩像の坐相は「降魔坐」であり、「吉祥坐」は密教の法儀とされる。片足だけを腿の上に置くのを、「半跏趺坐」(半跏坐・賢坐)と呼ぶ(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

○駿州大宮(おほみや)と云ふ處に、林齋(りんさい)と云ふ道心者あり。

 六月より、方々(はうばう)へ行きて、

「八月十二日に死すべし。」

と、暇乞ひしけるを、人々、

『眞(まこと)しからず。』

思ふ處に、八月十一日に、大宮の淸正寺(せいしやうじ)へ行きて、

「明日(みやうにち)、必ず死する間(あひだ)、龕(がん)を拵へて給(たま)へ。」

と云ふ。

「易き事なり。」

とて、龕を拵ひ、與(あた)へければ、十二日巳の刻に、自ら龕へ入りて、人々に暇乞して、即ち、死すと。

 虛無僧(こむそう)殘夢(ざんむ)、來り語るなり。

 

 

因果物語上卷

[やぶちゃん注:「駿州大宮」静岡県富士宮市。同大宮町ならば、ここ

「林齋」不詳。

「淸正寺」こんな感じで、ピンとくるものがない。

「龕」棺桶。

「巳の刻」午前九時から十一時。

「殘夢」不詳。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十九 善根に因つて富貴の家に生るゝ事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、この「十七」から上巻の最後の「二十」までは収録していない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   十九 善根に因つて富貴(ふうき)の家に生(うま)るゝ事

 濃州(ぢようしう)土岐(とき)の郡(ぐん)、開元院と云ふ禪寺に、佛都(ぶついち)と云ふ座頭(ざとう)あり。

 善者(ぜんしや)なる故、勸進(くわんじん)して、鎭守堂(ちんじゆだう)と門を建てけり。

 彼の佛都、死して後(のち)、信州伊那郡(いなぐん)にて、福人(ふくにん)の家に生れ出でたり。彼(か)の父より開元院へ使(つかひ)を以て、

「御寺に佛都と申せし座頭、有りつるや。一人の子、生れて、手を握り、七日過ぎて、手を開くを見れぱ、手の中(うち)に「開元院の佛都」と云ふ名、有り。希代(きだい)不思議に候へぱ、問(とひ)に遺(つかはす)。」

となり。

 正保元年のことなり。

[やぶちゃん注:「濃州土岐の郡、開元院」岐阜県瑞浪(みずなみ)市日吉町(ひよしちょう)にある曹洞宗鷹巣山(ようそうざん)開元院。土岐氏所縁の寺であると同時に、東濃地方に於ける曹洞宗の本寺として栄えた。

「伊那郡」現在の長野県の南部の広域で、かつての面積は信濃国内の郡で最大であった。旧郡域は当該ウィキの地図を見られたい。

「正保元年」一六四四年。]

 

○肥後の國、熊本古町(ふるまち)に、長六(ちやうろく)と云ふ者、居(ゐ)けり。元來、唐人(たうじん)なりしが、肥後へ來て居(きよ)す。

 信心深き者にて、白河(しらかは)と云ふ大河(たいが)に橋を掛け、往來の通路を安んず。故に橋をも「長六橋」と云ふ。町をも「長六町(まち)」と云ふ。

 彼の者、死して、明年(あくるとし)、同國の庄屋、福者(ふくしや)の子に生れて、出づるなり。

 則ち、頸(くび)に「長六」と云ふ文字(もんじ)、顯(あらは)れたり。

 橋をかくる事は、加藤淸正の代なり。

[やぶちゃん注:「熊本古町」この中央附近

「長六」不詳。但し、次注を参照のこと。

「長六橋」熊本県中央を貫流する白川に架かる、国道三号線の橋の一つ。当該ウィキによれば、『最初に作られたのは』慶長六(一六〇一)年(年)に『加藤清正が熊本藩中部を流れる白川に唯一架けた橋で、この名がある』。『当時は城下町南方面の防備の必要から、白川に架かる橋はこの橋しかなかった』とある。別な記事では、熊本城築城に際して資材運搬のために架けたともあった。但し、注に『長六という人が作ったという説もあるという』ともあった

「長六町」この町名は現在は確認出来ない。]

 

○加藤淸正、恒々(つねづね)、仰せけるは、

「菩提所本妙寺の上、二町程、上(あが)り、少し平(たひら)かなる處あり。彼所(かしこ)に位牌堂(ゐはいだう)を立てよ。」

と遺言し給ふ故、死後に其地を平(たいら)げける處に、竪橫(たてよこ)一間三尺程なる石の唐櫃(からびつ)、有り。

 其蓋(ふた)に「淸正坊(せいしやうばう)」と書き付け、内(うち)には朱(しゆ)を詰めて有り。

 即ち、其朱にて靈屋(れいをく)を塗る、となり。

[やぶちゃん注:前話と清正繋がりで配された点、特異点と言える。加藤清正は永禄五年六月二十四日(一五六二年七月二十五日)生まれで、慶長十六年六月二十四日(一六一一年八月二日)に享年五十(満四十九)で亡くなっている。死因は脳溢血とされる。

「本妙寺」ここ。清正の廟所も含めて拡大した。

「一間三尺」九十二・七センチメートル。

「朱」赤色硫化水銀。古くより、中国などで遺体の防腐剤として用いられた。事実、当該ウィキによれば、『遺骸は甲冑の武装のまま』、『石棺に朱詰め』(☜)『にされ、現在の廟所内の清正公像の真下にあたるところに埋葬された』とある。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十八 幽靈來り藏を守る事 附 亡父子に告て山を返す事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、この「十七」から上巻の最後の「二十」までは収録していない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   十八 幽靈來り藏(くら)を守る事

      亡父(ばうふ)子(こ)に告(つげ)て山を返す事

 尾州名古屋、はゞ下(した)榎木町(えのきまち)にて、さる者、病中に藏を作りけるが、明暮(あけくれ)、藏の方(かた)ばかり、詠(なが)め入りて居(ゐ)たり。煩(わづら)ひ重なるに隨つて、彌々(いよいよ)、

「藏を見たし。」

と云ふに依つて、半切(はんぎり)に入れて、舁出(かきいだ)し、藏へ入れ、又、回りをも、二、三度(ど)、舁行きて見せしなり。其如(そのごと)く、七日程して、死しけり。

 頓(やが)て、幽靈と成り、藏のことばかり云つて、かなぎりたる聲にて、呼(よば)はり、夜々(やゝ)に藏の脇に居たるとなり。

[やぶちゃん注:蔵へ執着から往生出来ないのは、何か哀れを感じる。

「尾州名古屋、はゞ下榎木町」愛知県名古屋市西区幅下はあるが、地区内に榎木町はない。但し、ここの南西部には、榎白山神社・市立榎小学校・榎公園などがあるので、この附近の幅下も含めた旧広域の町名であったか。

「半切」底の浅い盥状の桶。]

 

○江州東、上坂村(かみさかむら)、左近右門(さこんゑもん)と云ふ者、緊(きび)しく煩ひ、俄(にはか)に口走つて、

「我は、父の左近なり。他人と山の境(さかひひ)を立つる時、人の山を、三間(げん)程、取りたり。其科(とが)によつて、若(く)を受ける事、限りなし。願くは、此の境を返し給へ。」

と云ふ。

「然(さ)らば。」

とて、返しければ、相手の者、

「今は互(たがひ)に子の代なり。昔、定(さだま)りたる處を、今、取り返しては、此方(このはう)の科になりもや、せん。」

とて、請取(うけと)らず。

 故に此病人、次第に惡しくなりたり。

[やぶちゃん注:以上の相手の言い分を僧に伝えて、供養すべきだったのではないか?

「江州東、上坂村」滋賀県長浜市東上坂町(ひがしこうざかちょう)・西上坂町であろう。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十七 幽靈來つて禮を云ふ事 附 不吉を告ぐる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、この「十七」から上巻の最後の「二十」までは収録していない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   十七 幽靈來つて禮を云ふ事

      不吉を告ぐる事

 攝州大坂、折屋町(をりやまち)に、長右衞門(ちやうゑもん)と云ふ者あり。

 久しく煩(わづら)ひ、瘦せ衰へて、終(つひ)に死す。

 一町、東、呉服町(ごふくちやう)の、三節(せつ)と云ふ醫者、永々(ながなが)、藥を與(あた)へけれども、子供、貧人(ひんじん)なれば、少しの禮をも、云はず。

 然(しか)るに、其年、三節、御城(おんしろ)より出でらる處に、御門(ごもん)の前にて、彼の長右衞門、待ち迎へて云ひけるは、

「三節樣、永々、御藥下されけれども、子供、終に御禮をも申さず、誠に御恩忘れ難し。」

と云つて、謹んで、禮す。

 三節、見て、

「くるしからず。再び此念を起(おこ)すな。」

と云ひて、二足(ふたあし)三足(みあし)過(す)ぎる中(うち)に、形、なし。

 寬永十八年の事なり。三節の直談なり。

[やぶちゃん注:「攝州大坂、折屋町」現在の大阪市中央区大手筋二丁目附近。そこから「一町」(約百九メートル)「東」に行ったところに「呉服町」はあったということになる。孰れも、大坂城の西側直近である。

「御城」大坂城。大坂城代や、その配下の大坂定番・京橋口定番・玉造口定番らが務めていたので、医師が出入りするのは、不審ではない。大手門はここで、ロケーションの折屋町・呉服町とここが、東直線上に綺麗に並ぶ。

「くるしからず。再び此念を起すな。」いい台詞やなぁ!

「寬永十八年」一六四一年。]

 

○賀州にて、今井何某(いまゐなにがし)、草履取、吉三郞(きちさぶらう)と云ふ者を、戶田某(とだなにがし)所望して、小性(こしやう)に取り上げ、知行百石、出(いだ)したるに依(よつ)て、恒々(つねづね)、云ひけるは、

「我等先祖、賤しき者なるに、御取立(おんとりたて)、成され、殊に、知行迄、下さるゝ儀、誠に以て忝(かたじけ)なし。此恩には伺時(なんどき)にても、後世(ごせ)の御供(おんとも)仕(つかさまつ)るぺし。」

と云ふ。

 三年過ぎて、戶田何某、死去す。

 吉三郞、豫(かね)てより云ひける事なれぱ、

「御供せん。」

と云ふ。今井某、聞いて、

「尤もなり。」

とて、次の日、寺へ同道して、執持(とりもち)、かいしやくして、切腹させけり。

 今井、宅に歸れば、吉三郞、頓(やが)て來りて、

「今日は御執持、忝なし。」

と云ふ。今井、

「何の禮かあるべき、再び來(きた)るべからず。」

と云ヘども、五、六度(ど)、來る間、

「不便(ふびん)なり。」

とて、流灌頂(ながれくわんちやう)して、能く吊(とむら)ひければ、來らざるなり。

[やぶちゃん注:「賀州」伊賀国。]

 

○播州立野(たちの)領、廣山(ひろやま)と云ふ處に、六郞兵衞(ろくらうびやうゑ)と云ふ者、死して後(のち)、幽靈となつて、末蒔村(すゑまきむら)源太夫と云ふ者に逢うて、物語りしけり。

「我子、頓(やが)て死すべし。先(ま)づ、馬、死して後(のち)、火事、出來(いでき)、其後(そのゝち)、子(こ)、死ぬべし。是を歎くに依つて、其方(そのはう)に對面す。此由、語り給へ。」

と云ひけるが、其如く、死に果てけり。

 寬永十二年の事なり。

 彼の源太夫、近藤五郞左衞門に、慥(たし)かに語るなり。

[やぶちゃん注:「播州立野領、廣山」兵庫県たつの市誉田町(ほんだちょう)広山(ひろやま)であろう。

「末蒔村源太夫」変わった姓だが、確認出来ない。

「寬永十二年」一六三五年。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十六 難產にて死したる女幽靈と成る事 附 鬼子を產む事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、既に述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、既に述べたように、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   十六 難產にて死したる女(をんな)幽靈と成る事

      鬼子(おにご)を產む事

 東三河、吉田の近所、關村(せきむら)と云ふ處の庄屋に、彌次右衞門と云ふ者あり。

 女房十九歲の時、難產にて死しけるが、頓(やが)て、幽靈に成りて、迷ひ、あるきけり。

 爲方無(せんかたな)くして、親類ども、妙嚴寺を賴みければ、牛雪和尙、吊(とむら)ひて、治め給ふ也。

[やぶちゃん注:「東三河、吉田の近所、關村」「江戸怪談集(中)」に『現愛知県豊川市瀬木』とある。愛知県豊川市瀬木町(せぎちょう)。「吉田」というのは、豊川市の南東直近の豊橋にあった、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)藩の藩庁吉田城を指していよう。

「女房十九歲の時、難產にて死しけるが、頓(やが)て、幽靈に成りて、迷ひ、あるきけり。」本邦の民俗社会では、このままでは、彼女は「産女(うぶめ)」に変じてしまうのである。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)』や、「宿直草卷五 第一 うぶめの事」を参照されたい。

「妙巖寺」既出既注。滋賀県東近江市大塚町に現存する。曹洞宗。

「牛雪和尙」既出既注。]

 

○河内(かはち)の國、茨田郡(うばらだぐん)に、小兵衞(こひやうゑ)と云ふ者、あり。母、如何にも正直者なり。婦(よめ)は、飽くまで心怖(こゝろおそろ)しき者にて、時々、鬼面(おにめん)をかけて、母を劫(おびや)かす。

 母、此(この)事を聞きて、

「思ひの外(ほか)のことなり。」

とて、婦(よめ)を敎訓し、云ふ、

「必ず、何事も我に報(むく)ふ者なり。却(かへ)つて、其方(そのはう)の爲(ため)、惡(あ)しかるべし。」

と云ふ。

 母、程なく、煩(わづら)ひ付(つき)て、正念に徃生(わうじやう)す。其後(のち)、婦(よめ)、子を產みければ、牙(きば)八寸程生えたる女子(によし)なり。夫(をつと)に隱しけれども、終(つひ)にあらはれたり。

 正保二年の事なり。那江(なえ)作衞門、語るなり。

[やぶちゃん注:「茨田郡」「茨田」は正しくは「まつた」「まつだ」で近代には「まった」。逆に非常に古くは「まんだ」「まむた」(の郡(こほり))とも呼ばれた。現在の大阪府の内陸東北部に相当する。位置は当該ウィキの地図を見られたい。「江戸怪談集(中)」の注に『岸和田市のあたり』とするのは誤りである。

「正念に徃生す」「徃」の字はママ。「安らかな死を迎えた」の意。

「八寸」約二十四センチメートル。

「正保二年」一六四五年。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十五 先祖を吊はざるに因て子に生れ來て責る事 附 孫を喰ふ事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、既に述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、既に述べたように、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

 

   十五 先祖を吊(とむら)はざるに因(よつ)て子に生(うま)れ來て責(せむ)る事

      孫を喰(くら)ふ事

 尾州名古屋、長者町に、次郞八と云ふ者、一人の子を持つ。六歲まで、腰、立たず。

 祖父の次郞八を見知りたる本秀和尙、見給ひて、

「是の子は慥(たし)か祖父(おほぢ)なるべし。咲(わら)ひ顏、成り振り、常に手枕(てまくら)してありし癖まで、殘る處も無く、能く似たり。如何樣(いかさま)、因果なるべし。」

と云はれて、次郞八云ふ、

「皆人(みなひと)も左樣に申せしが、思ひ當ること、有り。『我父の佛事、そも能く吊はず。』とて、元は一向宗なれども、即ち、禪宗に成りたり。其の母、今に存命にて、此の子を預り置くに、六歲まで、物言ふこと、叶はず。剩(あまつさ)へ、親をも、見知らず。目は『うるうる』として、酒に醉ひたる者の如し。父の次郞八、洒に醉ひて死しけり。」

 『先祖を吊はざれば、子となつて責むる。』と、古今、云ひ習はせること、是なり。

[やぶちゃん注:段落構成は「江戸怪談集(中)」のものとは、異なった構成とした。

「名古屋、長者町」名古屋市中区のここの、地下鉄「丸の内駅」と「伏見駅」を南北に結び、そこからそれぞれ、桜通と錦通を東に伸ばし、本町通りでカットした、ややいびつな正方形相当の地域が、旧長者町に相当する。]

 

○越後衆(ゑちごしう)に、何某と云ふ者有り。關が原陣にて、討ち死にす。

 其の比(ころ)、かた子(こ)有り。成人して、九左衞門と云ふ。廿二、三歲にて女房を求む。男子二人を產む。一人、腰拔け也。引き立つれば、足有り。骨は、なし。

 九左衞門。是を悲しみ、此の子を叱りければ、夢に告げて云ふ、

「吾は汝が父なり。終(つひ)に弔ふこと無き故、修羅の若患(くげん)悲しきの儘、汝が子に成りたり。」

と。

 夢、醒めて、母に問へば、

「尤も。夢の告げのごとしなり。」

と云へり。

[やぶちゃん注:「關が原陣」「關が原の戰ひ」。慶長五(一六〇〇)年。

「かた子」「片子」。一歳に満たない赤子(あかご)。]

 

○奧州會津に、何の九郞左衞門と云ふ浪人あり。細工などして、世を渡りけり。本國は上方なり。

 此の人、六歲の時、父に後(おく)れ、母の養育によつて、成人す。

 越後にて、女房を求め、會津へ來たり。

 子一人、持ちたり。此の子、

「通り神に逢ひたり。」

とて、腰立たず、十三にて、死したり。

 夫婦、愁歎限り無し。

 七日の弔ひに、宵より、僧を供養するに、其の夜の夢に、子、告げて、

「我は、汝が父なり。我(われ)死して後(のち)、終(つひ)に供養すること無き故に、汝が子に生まれ來て、十三年の養育を受けたり。明日(みやうにち)は廿七年に相當(あひあた)れり。」

と、慥かに云ふて、夢、醒めたり。

 不思議さの儘、年月(ねんげつ)を算(かぞ)ふれば、誠に廿七年に當たりたる也。

[やぶちゃん注:「細工」「江戸怪談集(中)」の注に『竹細工、箒などを作ること。当時は賤職とされた。』とある。

「通り神」同前で、『妖怪の一種。主として悪霊のしわざを言う。』とあった。]

 

○東三河、西原(にしはら)村庄屋、勘左衞門と云ふ者、寬永十九年に死す。其の子、不孝にして、長山の眞源院を賴みて送りたるばかりにて、其の後は、吊ふ事、無し。

 三年目の六月、勘左衞門子息の内の者、兩人(りやうにん)、畠(はた)の稗(ひえ)を刈り居(ゐ)たる處へ、死したる勘左衞門、來たりて、

「汝等に、云ひ傳へんとて、來(きた)るなり。」

と云ふ。

 一入、譜代(ふだい)の者にて、能く見知りて、

「祖父樣が、何事にて候。」

と問ふ。

「誠に、久しくて、逢(あ)ふたり。我(われ)、食物、無くして、佛(ほとけ)に窺(うかゞ)ひ申せば、

『何にても、與(あた)ゆる物、なし。汝が子を、食(しよく)せよ。』

と、仰(おほせ)有り。此の由を云ひ傳へよ。」

と云ふて、歸るを見れば、塚の上へ上(のぼ)り、穴の中へ入(い)る樣(やう)に足を踏み込みけり。

 頓(やが)て五、六歲の子、死するなり。

[やぶちゃん注:「西原(にしはら)村」愛知県宝飯(ほい)郡の旧西原村で、その後、吸収合併が繰り返し行われ、現在は愛知県豊川市上長山町(かみながやまちょう)西原(さいばら)が相当地と思われる。

「寬永十九年」一六四二年。

「眞源院」愛知県豊川市上長山町南宝地にある曹洞宗松源院の子院。「江戸怪談集(中)」の注の一部を参考にしたが、前回もそうだったが、この寺を『一宮市』とするのは、誤りと思われる。なお、ここだが、現在、真源院という子院は認められない。

「勘左衞門子息の内の者、兩人」勘左衛門の子の使役している下男の内の二人。

「譜代の者」代々、その家に仕えてきた古株の使用人。

「頓て五、六歲の子、死するなり」「江戸怪談集(中)」の注に、『父勘左衛門の霊が孫の幼児を食べたのである。』とあるのだが、この部分、何かしっくりこない。供養しないから餓えて苦しいという左衛門の懇請に対して、仏・菩薩は何故に『何にても、與ゆる物、なし。汝が子を、食せよ。』と冷酷な言葉を発し得るのか? 彼が供養をしない我が子を食わずに、孫を食ったのは、我が子を食うことによって生活困難となる、妻・孫・下男らのことを考えてのことであろうけれども、そんなことは、現世上の下らぬ屁理屈に過ぎない。孫のあるべき人生とそれに繋がるであったろう総ての人々の総体的精神エネルギを無化した仏の指令は納得し難い。少なくとも、正三はその正当性を、ここで解くべきであった。私は、彼がそれをどう解くかという一点にこそ、興味がある。]

2022/10/04

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十四 弟の幽靈兄に怨を成す事 附 兄婦に憑く事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、既に述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、既に述べたように、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。本篇は生憎、そこではカットされている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   十四 弟(おとゝ)の幽靈兄に怨(あだ)を成す事

      兄(あに)婦(よめ)に憑く事

 三州苅屋(かりや)にて、常木何某(つねきなにがし)と云ふ人の弟、不覺悟人(ふかくごじん)なるに依(よつ)て、兄(あに)、殺して、隱しけり。

 一周忌過(すぎ)てより、彼(か)の弟、血刀(ちがたな)を振り來り、兄に向つて、雜言(ざふごん)す。

 兄、刀を拔きて、追拂(おひはらひ)、追拂(おひはらひ)しけるが、積虫(しやくむし)の持病(ぢびやう)と成りて、次第々々に、氣力(きりよく)盡きて、爲方(せんかた)なく、本光寺、善德和尙を賴み、吊(とむら)ひてより、再び、來らざるなり。

 正保三年五月の事なり。

[やぶちゃん注:「三州苅屋」愛知県の西三河地方西端に位置する現在の刈谷市であろう。

「不覺悟人」不心得者。卑怯者。

「殺して、隱しけり」と言っている限りは、彼は弟の遺体を隠して、殺害も露見していななかったということになる。

「積虫」重い胃痙攣などによって、腹部や胸部に発作的に起こる激痛を、近世以前、体内に潜む寄生虫・病原虫と考えて言ったもの。「さしこみ」「癪(しゃく)」「疝癪(せんしゃく)」。重篤なケースでは胃癌などの場合もあった。

「本光寺」不詳だが、刈谷市に遠くなく、同じ国で、建立年に問題なく、曹洞宗である、愛知県額田郡幸田町にある曹洞宗瑞雲山本光寺を一つの候補に挙げておく。

「善德和尙」この場合、しかし、兄は弟殺しを、少なくとも、この和尚には懺悔(さんげ)しなくては供養は成立しない。]

 

○大坂城中に、松衞門(まつゑもん)と云ふ者あり。

 落城の後、紀州有田(うだ)の内(うち)、かぶら坂、畑村(はたむら)と云ふ處に、市右衞門と云ふ兄あり。

 此處(このところ)へ來りて住(すみ)けるが、程なく煩(わづら)ひ付(つ)き、已に、死期(しご)に及ぶ時、

「我、死せば、金柄(かねづか)の小刀(こがたな)と、六道錢(ろくだうせん)六文、龕(がん)の内(うち)へ入れよ。別に言ふ事、なし。」

て死す。

 然(しか)るに、女房、市右衞門に云うて、小刀をも入れず、惡錢(あくせん)六文、入れたり。

 未だ七日も過ぎざるに、松衞門、來り、女房の目に見えたり。

 女房、驚く事、限りなし。

 女房の弟、此の由を聞き、

「不審なり。」

とて、馬に騎(の)つて來(きた)るを、彼(か)の松衞門、路(みち)にて、

「遁(のが)すまじ。」

と云うて、取つて抛(なげ)ければ、忽ち、殺入(せつじ)したるを、往來の人、見て、引起(ひきおこ)し、

「是は、何事ぞ。」

と問へば、

「松衞門に抛られたり。」

と云ふ。

 其後(のち)、松衞門、來りて、女房を引立(ひきた)てゝ行く。

 女房、肝を消し、叫び、悲(かなし)むを、市右衞門、抱(いだ)き留(とゞ)めけれども、用ひず、引立てゝ行くほどに、女房、柱(はしら)に懷(いだ)きつき、添ひければ、柱の石口(いしぐち)、三寸(ずん)ほど、上(あが)るなり。

 此由、慶瑞(きやうずゐ)和尙の弟子、圓滿寺に、語りければ、仔細を聞き、

「是は、遺言(ゆゐごん)の如くせざりし故なり。」

とて、即ち、彼の小刀と上錢(じやうせん)六文と、彼が墓(つか)へ埋(うづ)ませければ、其より、再び來らざるなり。

[やぶちゃん注:この話、明かに大坂城の落人の生前の剛腕を髣髴させるシーンを後半に二、三箇所もアクロバティックなピークとして作り入れているが、そのテンコ盛りが却って禍いし、それぞれのシークエンスがバラバラになってしまい、妻の弟は馬上で摑まれ投げられて、そのまんま退場? 妻が無惨に引きづられるのを、兄きはどうして追わないの? 柱にしがみついた妻は、どこで、どうして、松衛門から命拾いしたんだよ?……って、そこで、ブツリときれて、やおら――御大和尚登場――馬鹿でも判る切り口上――急速鎮静――ハイ、サヨウナラ――なんだか、低予算のB級ホラー画を見せられている感じで、私は「何だかな~」って呟くしかない。

「大坂」「落城」「大坂夏の陣」で事実上の炎上落城は慶長二〇(一六一五)年五月八日。

「紀州有田の内、かぶら坂、畑村」和歌山県海南市下津町小畑蕪坂。熊野古道の難所として知られる。

「龕」この場合は棺桶の意。

「殺入(せつじ)」「せつじゆ(せつじゅ)」「ぜつじゆ(ぜつじゅ)」とも。「じゅ」は「入」の慣用音。「絶入」に同じ。「気絶すること・一時的に息の絶えること」指す。

「柱の石口」礎石の上面で、柱の根元に接している部分を言う語。土台石の上端。根石上端(ねいしうわば)。

「慶瑞和尙」不詳。

「圓滿寺」ロケーションの近場では和歌山県有田市宮原町東に鎌倉中期に創建された臨済宗妙心寺派円満寺がある。

 

○江州大塜(おほつか)に、白山の山伏、還俗(げんぞく)して善左衞門と云ひけり。

 兄の子を養子にして、寬永九年の比(ころ)、死去せり。

 兄は江戶に奉公して居(ゐ)けるが、是も、歸りて、程なく、死す。

 養子、家を繼(つぎ)ながら、善左衞門を吊(とむら)ふことなく、無道心なりけるが、いつとなく、瘦(やせ)衰へ、病者となつて、用に立たず。

 去程(さるほど)に、正保二年霜月七日に、善左衞門兄婦(あによめ)、俄(にはか)に口走つて云ひけるは、

「我(われ)ゆづりける家財・農具(のうぐ)、みなみな、返すべし。養子。瘦(やす)ることも、我を吊はざる故に、餓鬼の業(ごふ)を授くるなり。鋤・鍬・小桶・衣類・紙子何々(なになに)。」

と一々(いちいち)に數へ立てゝ、

「返せ、返せ、」

と責むるなり。

 是(これ)に驚き、本秀和尙を賴み、吊ふなり。

 然(しか)るに、寺にて、日中(につちう)の經を誦(よ)む時分、口走りて、云ひけるは、

「茶(ちや)の子(こ)を拵へて、寺へ行くベし。我も跡より、寺へ行くなり。」

と云ふ。

 それより、治まりて、病者、本復(ほんぶく)するなり。

[やぶちゃん注:「江州大塜」滋賀県東近江市大塚町か。

「寬永九年」一六三二年。

「正保二年霜月七日」一六四五年十二月二十四日。

「農具(のうぐ)」底本のルビは「だうぐ」。初版板本で訂した。

「本秀和尙」既出既注

「茶の子」法事に用いる茶菓子。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十三 生きながら地獄に落つる事 附 精魂、地獄に入る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、既に述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、既に述べたように、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   十三 生きながら地獄に落つる事

      精魂(せいこん)、地獄に入る事

 

Unzenjigoku

 

[やぶちゃん注:冒頭注で示した一九八九年岩波文庫刊の高田衛編「江戸怪談集(中)」の挿絵(底本は東洋文庫岩崎文庫本)。キャプションは「ひぜん国うんせんかだけ」。]

 

 肥前の國、温泉山(うんせんさん)へ、同行(どうぎやう)三人、參詣す。一人は豐後の町人(まちびと)、一人は出家、肥前の人、一人は浪人。彼(か)の出家の寺に、宿を借りて居(ゐ)たり。

 彼の坊主、地獄、涌き出づる所へ、指を、少し、揷(さ)し入れて、

「さのみ、熱くなし。」

と云ふて、指を引き出だしければ、彼の指、熱くして、叶はず。

 又、指を入れければ、熱さ、止(や)む。

「今は、快(こゝろよし)。」

とて、指を引きければ、彌々(いよいよ)、熱さ增して、堪へ兼(かね)、又、指を入れ、兎角、引出(ひきいだ)されず、次第々々に、深く、入れて、腕、皆、入(い)る。

 又、引きて見れば、彌々、熱くして、堪へず。

 後(のち)には、總身(そうみ)、皆、入りて、頭(かしら)ばかり、出(いだ)し、

「一段と、心好し(こゝろよ)し。去(さ)りながら、下へ引くこと、つよし。」

と云うて、後には、目を見出(みいだ)して、

「中々、怖しき。」

と、悲(かなし)む事、限りなし。

 二人の同行、あきれて、泣く泣く、下向(げかう)したり、と語るを、慥(たしか)に聞くなり。

 寬永年中の事なり。

[やぶちゃん注:「肥前の國、温泉山」現在の雲仙岳(うんぜんだけ)及びその周辺。そもそも雲仙岳の峰の一つである普賢岳一帯は近代に至るまで、「溫泉岳(うんぜんだけ)」と呼んでいた事実があるからである。「今昔マップ」の戦前の地図を見られたいが、更に、その地図を少し南西に移動させると、「温泉(うんぜん)」の地名が確認されるのである。

「目を見出(みいだ)して」「江戸怪談集(中)」の注に『目を大きく見開いて』とある。

「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。]

 

○下野(しもつけ)の國、那須の湯涯(ゆぎは)、三町隔てゝ、地獄あり。那須の敎傳(けうでん)と云ふ者、山へ薪(たきゞ)を取りに行きけるが、

「朝食(あさめし)遲くして、伴(とも)にはぐるゝ。」

とて、母を蹈倒(ふみたふ)す。

 扨(さて)、山へ行くに、地獄の涯(きは)を通る時、俄(にはか)に大地獄の出來(いでき)て、敎傳、其の儘、落ち入る。友達、走り寄つて、頭(つむり)を取れども、留(とゞ)まらず、終(つひ)に、にえ入りけり。

 今に至つて、「敎傳地獄」と云ひ傳へてあり、

「敎傳、甲斐なし。」

と云へば、俄に涌出(わきい)づるなり。

[やぶちゃん注:「下野の國、那須の湯涯、三町隔てゝ、地獄あり」栃木県那須郡那須町湯本の茶臼山山腹に「無間地獄」はあるが、ここで言っているのは、那須温泉神社の脇、殺生石の前にある「教伝地獄」である。サイト「とちのいち」のこちらによれば、『その昔、もとより素行が悪く、母の好意を無下にして』、『この殺生石の地に訪れた教傅という住職が突如として』、『その場から噴き出した火炎熱湯によって、その下半身を焼かれながら”おれは地獄に墜ちていく”という言葉を残し亡くな』っ『たという言い伝えがあります』。『その後、供養の為に地蔵を建立』し、『この場所は教伝地獄と呼ばれることとなり”親不孝の戒め”として参拝する者が後を絶たなかったと言い伝えられています』とある。]

 

○三州牛窪(うしくぼ)村に、市兵衞(いちびやうゑ)と云ふ、鑄物師(ゐものし)、石卷山(いしまきやま)の鐘(かね)を盜みけり。

 寬永の始め比(ころ)、白山(はくさん)へ參詣す。

 山八分目にて、彼(か)の市兵衞、俄(にわか)に立(たち)すくみ、周邊(あたり)より、熖(ほのほ)、燒揚(やけあが)りたり。

 同行(どうぎやう)見て、

「彼(か)の者、死せば、穢(けが)れあらん。」

と云ふて、急ぎ、山へ登る。

 下向(げかう)に見れば、體(たい)は其の儘(まゝ)有つて、あたりより、熖、出でけり。

 皆、肝を消し、下(くだ)る。

 又、次年(つぐとし)、東三河より、白山へ參詣する者あり。

 見るに、彼の市兵衞、去年(きよねん)の如くして有り。

 下向に見れば、早(はや)、消えて、なし。

 今に其處(そのところ)より、烟(けむり)り立(たつ)なり。

 其の涯(きは)に、五、六尺の石あり、其の石、熱くして、手、付けられず。

 道雲寺の守的(しゆてき)野田の意庵、

「慥かに見たり。」

と語るなり。

[やぶちゃん注:「三州牛窪村」愛知県豊川市牛久保町。古くは「牛窪」と書いた。

「石卷山」愛知県豊橋市石巻町南山(みなみやま)にある山。麓と山頂に石巻神社があり、江戸時代には別当寺があったであろうから、鐘があってもおかしくない。

「寬永の始め」寛永は元年は一六二四年で、寛永二十一年まで。

「道雲寺」「江戸怪談集(中)」の注に『豊橋市、臨済宗妙心寺派陽光山東雲寺。』とする。豊橋市野依町中瀬古(のよりちょうなかぜこ)のここ

「守的」堂守(どうもり)のこと。

「野田」「意庵」不詳。]

 

○尾州山崎(やまざき)より、寬永十六年の夏、同行十人、立山へ參詣す。

 室(むろ)と云ふ處にて、同じ村の、理衞門、又六と云ふ、二人の者に逢ひたり。

「何故(なぜ)、來たりたぞ。」

と問へば、

「用、有りて、來たり。」

と云ふ。

 不審に思ふ處に、急いで登る間(あひだ)、

「在所には何事も無きか。」

と問へば、

「何事もなし。」

と云ひ捨て、行くなり。

 彌々(いよいよ)心もとなく思ひながら、下向(げかう)してみれば、彼(か)の二人、何事もなし。

 同行、皆、隱して居(ゐ)けるに、其の霜月、二人共に、熱病に煩(わづら)ひ、一兩日(りやうにち)づゝ隔(へだて)て死しけり。

 其時、立山にて、逢うたる事を委しく語るなり

 南野(みなみの)村の休庵、物語りなり。

 正保四年に聞くなり。

[やぶちゃん注:「尾州山崎」愛知県安城市山崎町か。

「寬永十六年」一六三九年。

「室」室堂。私の「三州奇談 / 卷之一 白山の靈妙」など、参照されたい。立山の怪奇談はかなりある。「諸國里人談卷之三 立山」を一つ挙げておく。

「下向」ここの下向は今までの狭義の下山ではなく、山崎まで戻ることを言っている。帰ってみると、理衛門と又六は、普通に村におり、凡そ立山に登ってきた様子もない。言わずもがなであるが、立山で遇った二人は、生霊であったのであり、それが、彼らは何んとなく、何かある、よくない予兆と感じたればこそ、二人にさえ、それを語らなかった。而して、それは悲しいことにじきに彼らの相次ぐ死で証明されたのであった。

「南野村」愛知県名古屋市南区南野(みなみの)であろう。

「休庵」不詳。

「正保四年」一六四七年。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十二 塜燒くる事 附 塜より火出づる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、既に述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、今回から、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   十二 塜燒くる事

      塜より火出づる事

 東三河(ひがしみかは)、一の宮の近所、上野村(うへのむら)、兵右衞五郞(ひやうゑごらう)と云ふ鍛冶(かぢ)の女房、死して七日目より、塜に、天目(てんもく)程なる穴、出來(いでき)て、鍛冶のほどの火の如く、燒けゝり。

 七月盆過ぎに、我(わが)處の全才(ぜんさい)、行きて見るに、火、强く出づる間(あひだ)、若竹(わかたけ)を指し入れて置くに、

「ぷちぷち」

と燒けて、燃え來(きた)るなり。

 引導師は、長山(ながやま)の正眼院(しやうげんゐん)なり。後に牛雪和尙、治め給ふなり。兵右衞五郞も、三年忌に死しけり。

 寬永五年の事なり。

[やぶちゃん注:「東三河、一の宮の近所、上野村(うへのむら)」愛知県江南市松竹町上野(かみの)であろう。一宮市の東北直近である。

「天目」天目茶碗。一般に口径は十二センチメートル前後。

「鍛冶のほど」鍛冶屋が用いる鞴(ふいご)から噴き出すところの、それ程の。天然ガスの噴出に酷似してはいる。

「全才」「江戸怪談集(中)」に『人名。著者に弟子。』とある。

「長山の正眼院」愛知県豊川市上長山町南宝地にある曹洞宗本宮山松源院。「江戸怪談集(中)」注では『一宮市』とするが、誤りであろう。

「牛雪和尙」既出既注

「寬永五年」一六三四年。]

 

○大坂の北、野江(のえ)村と云ふに、仁兵衞(にひやうゑ)と云ふ者、寬永十一年七月廿三日に、五十歲にて死す。一向宗なり。

 彼が塜より、蹴鞠(けまり)の如くなる火の、丸(まる)がし出で、二、三度、上がり、其の後(のち)、細路(ほそみち)あるを、二、三尺程、高く、

「つるつる」

と上(あが)り、我(わが)宿の方(かた)へ來(きた)る。

 路次(ろじ)の田畠(たはた)を、殘さず廻(まは)りて、田畠の上にては、大(おほ)きになつて、細々(ほそぼそ)と散りて、落ちけり。

 其落つる有り樣は、血の如し。

 亦、本(もと)の火になつては、田畠を廻り窮めて、我(わが)家の棟を、

「ころころ」

と、ころびて、又、塜へ返る。

 卅日ばかり、每夜、四つ時に來たるなり。

 野江中(ちう)の者、皆々、見たり。

 庄屋作兵衞子供・兄弟、共に見るなり。兄は十七、八なるが、是を見、四、五日、煩(わづら)ふなり。

[やぶちゃん注:「野江村」大阪府大阪市城東区野江附近。

「寬永十一年」一六三四年。

「丸(まる)がし出で」丸くなって飛び出だし。

「我(わが)宿」故仁兵衞の家。

「四つ時」定時法で午後十時頃。不定時法だと、命日直後ならば十時過ぎ。]

 

○江州みのうらと云ふ處に、本願寺門徒、死す。彼(かれ)が塜より、火の丸(まる)がせ、鞠(まり)の程に成り、飛(とび)出づる事、夜々(よゝ)なり。

 或る夜、人、數多(あまた)居(ゐ)たる處へ、飛び來(きた)る。

 是を、

「取らん。」

と追廻(おひまは)れども、取留(おりと)められず。

 又、餘(よ)の家に飛び入りければ、家の中、燒ける如くなり。家主も、妻子を伴れて、二、三町、遠き寺へ、逃行(にげゆ)くなり。

 旦那、坊主、用ひずして、是を弔ふ事、なし。

 後には、親類中(ちう)の家へ飛び行くなり。

 宗庵(そうあん)、慥(たしか)に見て、語るなり。

[やぶちゃん注:「江州みのうら」滋賀県米原市箕浦

「火の丸(まる)がせ」名詞化しているようである。火を丸くした(ようなもの)で。

「旦那、坊主、用ひずして」この亡くなった本願寺門徒の主家の総領の主人は、浄土真宗を信じないばかりか、押しなべて、仏僧を信用していなかったのである。神道のファンダメンタリストであったか。にしても、旦那には、その火の玉は姿を現わさなかったらしいな。その辺が、嘘っぽいぜ。

「宗庵」不詳。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十一 女生靈、夫に怨を作す事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、既に述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、今回から、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   十一 女(をんな)生靈、夫に怨(あだ)を作(な)す事

 細川殿、國替(くにがへ)の時、高橋甚太夫と云ふ、弓の足輕、女房を伴れて、豐前より肥後の國へ行き、一兩年過ぎて、

「女房を去るべき。」

と云ふ。

 女房、聞きて、

「其儀ならば、小倉(こくら)へ送り給へ。」

と云ふ。

「尤もなり。」

とて、一日、路(ぢ)伴れ行き、途中に捨てゝ、男は、夜逃げにして、歸る。

 女房、悲(かなし)むを、亭主、憐れみ、其處(そのところ)にて、似合(にあひ)の男に仕付(しつ)けたり。

 其の後(のち)、甚太夫、別の女房を呼びければ、前の女房、來りて、首をしめ痛めけるゆゑ、女房、置く事、叶はず。

 終(つひ)に、昔の女房の處へ行きて、樣々、佗言(わびごと)しければ、

「我、今、思ふ樣(やう)なる家に在り付く事、其の方(はう)、手間(てま)をくれたる故、能(よ)き仕合せと成る間、更に遺恨なし。」

と云ふ。

 悅び歸つて、女房を呼べば、本(もと)の女房の頭(かしら)、窓より入りて、棟(むなぎ)に乘つて、首をしめける故に、女房を持つ事、叶はず。

 終に獨り居(ゐ)るなり。

 甚太夫、自ら語るを、聞きたる僧、來たりて語る也。

 寬永年中の事なり。

[やぶちゃん注:「細川殿」細川忠利(天正一四(一五八六)年~寛永一八(一六四一)年)で豊前国小倉藩二代藩主・肥後国熊本藩初代藩主。母は明智光秀の娘細川ガラシャ。彼の熊本藩への「國替」は寛永九(一六三二)年であるから、本話柄内時制は、その直後のこととなる。「江戸怪談集(中)」に移封を『元和九年』(一六二三年)とするのは、誤りである。

「高橋甚太夫」不詳だが、忠利は寛永一四(一六三七)年の「島原の乱」にも参陣して武功を挙げており、正三も出家乍ら、反切支丹の立場から「島原の乱」に参戦しており、そこに接点があると言える。

「亭主」甚太夫が夜逃げして夜に泊った宿の亭主。

「仕付けたり」仲人として娶(めあ)わせた。

「首をしめ」次の次の場合も同じだが、絞められたのは、甚太夫自身とするのが、因果譚としては、効果的である。「江戸怪談集(中)」でも、後の方に注して『夫の首を。』と注されてある。

「手間」「いとま・ひま」で、ここは「縁切り」を指す。]

 

○九左衞門と云ふ浪人、筑後の國に女房を置き、

「三年、待ち給へ。若(も)し三年過(す)ぎば、何方(いづかた)へも有り付くべし。」

と云ふて、肥後の國へ來り。

 身上(しんしやう)有り付き兼(かね)、爲方無(せんかたな)く、醫者に成り、玄淸(げんせい)と名を付けて、別の女房を求めけり。

 或時、故鄕(こきやう)の女房の事を思ひ出(いだ)し、

『何とかあらん、此方(このはう)にて女房持ちたると聞かば、定めて恨むべし。』

と思ひ、折節、夏の事なるに、竹連子(たけれんじ)に足を蹈上(ふみあ)げて、凉(すゞ)み、表を見れば、故鄕の女房、來りて、立居(たちゐ)たり。

 玄淸、思ふ樣(やう)、

『是は。我(わが)思ひ出(いだ)したる心なるべし。』

と、起きて見れば、何も、なし。

『又は、狐狸(きつねたぬき)の態(わざ)なるべきか。』

と思ひ、脇差(わきざし)を取りて持ちける處に、本(もと)の女房、

「つるつる」

と來(きた)ると見えて、拔打(ぬきうち)に切りければ、窓竹(まどだけ)を切り折る。

 彼(か)の女房、玄淸が足の大指(おほゆび)に喰付(くひつき)て、齒跡(はあと)二つあり。

 今の女房、内より、太刀音(たちおと)を聞きて走り出で、

「何事ぞ。」

と問へば、玄淸、

「たわめにて、切りたり。」

と云ふ。

 さて、二つの瘡(きず)、何と療治すれども、癒えず。

 三年、苦痛して、終に死にけり。

 玄淸を引廻(ひきまは)したる平野角太夫、語るなり。

 肥後の守、身體(しんたい)果てゝ後(のち)の事なり。

[やぶちゃん注:「竹連子」竹で作った窓の格子。

「たわめ」「江戸怪談集(中)」では、『「妖女(たわめ)」。』と注する。小学館「日本国語大辞典」を引くと、「たわめのこ」(歴史的仮名遣「たはめのこ」)として見出しし、『女をののしっていう語』として、「日本書紀」を引く。「変な女」の意としても、「切りたり」は尋常ではなく、まさに漢語表記の人間の女にあらざる「妖女」を言上げしてしまった結果として、玄清は命を落としてしまったのではないか、と私は思う。

「引廻したる」医師として贔屓にし、面倒を見てやった。

「平野角太夫」サイト「肥後細川藩拾遺」の「新・肥後細川藩侍帳【ほ】の部」の、本庄太兵衛(多十郎・彦右衛門)の条に、『四天流・剣術、居合師範』で、『平野角太夫門弟』とあるので、この師の先祖かと思われる。

「肥後の守」前条注に出した細川忠利(天正一四(一五八六)年~寛永一八(一六四一)。「江戸怪談集(中)」では、ここも没年を『元和十八年』と元号を誤っている。]

 

○江州多賀の町の、さる女人(によにん)、物洗ふ次(つい)で、不動院の小姓を見て、戲(たはむ)れ言(ごと)を云ふ。

 小姓、耻(はづ)かしく思ひ、迯去(にげさ)ること、度々なり。

 或時、彼(か)の女、小姓を見て、追ひければ、小姓、迯行くに、屋敷迄追ひ付け、髮を切り、印籠・巾着(きんちやく)迄、切(きり)て行く。

 是を見て、寺より、女房の夫の方(かた)へ使(つかひ)を立(た)て、取りたる品々を云うて遣(つか)はすに、彼の女は、煩(わづら)ひ伏して居(ゐ)たり。

 男、女房に尋(たづ)ねければ、

「夢の如く、覺えたり。印籠は、雪隱(せついん)の垣(かき)に掛け、髮は部屋の棚に置くと、覺えたり。」

と云ふ。

 即ち、尋ね見れば、皆、有り。

 彼(か)の女房、頓(やが)て死す、となり。

[やぶちゃん注:「江州多賀の町」滋賀県犬上(いぬかみ)郡多賀町(たがちょう)

「不動院」高野山真言宗清涼山不動院(敏満寺)。本尊の不動明王は千四百年前の飛鳥時代の造立とされる。何だか皮肉だが、同寺公式サイトを見ると、同寺は愛染明王が四体祀られてあり、『愛染明王というと恋愛の仏さまで、弓と矢を持たれており、特に若い女性には圧倒的な人気があります』とある。この女人は夫がいたから、その罰が下ったということか。

「小姓」ここでは稚児(ちご)に同じ。寺院で住職に仕える役。多くは少年であった。

「或時、彼(か)の女、小姓を見て、追ひければ、……」以下は、生霊現象である。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十 罪無くして殺さるゝ者、怨靈と成る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、既に述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、今回から、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    罪無くして殺さるゝ者、怨靈と成る事

 江州蒲生郡(がまふぐん)、市子村(いちこむら)に、安部(あんべ)淸左衞門と云ふ者の祖父、下人を無理に成敗(せいばい)す。

 然(しか)るに、淸左衞門親(おや)の代に、此靈(りやう)、出で、大蛇(おほへび)になりて、子供を取り殺す。

 然る間、淸左衞門親子、共に屋敷を捨てゝ迯(にげ)て、別屋敷へ越す。

 然るに、彼(か)の靈、隣(となり)なる、いとこの彌左衞門親の處へ入り、子を取り殺し、種々(しゆじゆ)に惡事をなす。

 此の親、迷惑し、京へ上(のぼ)り、内裏樣(だいりさま)へ、種々、訴請(そせう)仕(つかまつ)り、神に祝(いは)ひ、其靈の屋敷に宮を立て、時々に祭りをなし、燈明(とうみやう)を立て、敬(うやま)へば、彼(か)の靈、彌(いよいよ)、腹を立て、

「我に鈴の音を聞かする故に、彌(いよいよ)、若(くるしみ)、增(まさ)るなり。」

と云うて、人に、たより、殊の外、しやべり、彌左衞門内(うち)にも、祟りをなし、大きなる蛇の形を現はして、彌左衞門子供を、多く、取り殺すなり。

 或年の正月六日(むいか)、大雪降(おほゆきふ)りに、長さ三間(げん)ばかりなる蛇、身内(みうち)三處(さんところ)より、うみ出でけるを、彌左衞門親、打ち殺し、山の雪の中へ捨てけれぱ、又は、次の日、來りて、右の體(てい)にて居(ゐ)たり。

 其の三月、姨(をば)、背に、腫物(はれもの)、出來(いでき)、三處(みところ)より、うみ垂り、くさりて、死す。

 是(これ)に付(つき)て、迷惑し、十四日に、本秀和尙へ、弔(とむら)ひを賴み來(きた)る。

 本秀和尙、次の日十五日に、彼(か)の處へ至り、先づ、宮を打崩(うちくづ)し、木を切り、塔婆を立て、血脉(けちみやく)を收(をさ)め、七日、弔ひ給へば、ひしと收まり、其後(そのゝち)、終に出でず。

 彼の彌左衞門夫婦・子供、少しも、食を喰(く)ふ事、ならず、大豆(まめ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])と豆腐ばかりを食しけるが、其靈、收まりてより、皆、食を喰ひ、子供、息災に成るなり。

 正保三年雪月(せつげつ)の事なり。休心(きうしん)、慥かに語るなり。

[やぶちゃん注:「江州蒲生郡、市子村」「江戸怪談集(中)」の注に、『現滋賀県蒲生町周辺を中世から近世にかけて市子村といった』とあるが、現行では蒲生町は存在しない。現在の東近江市のこの附近に「市子」の地名・施設名が残る。而して、「今昔マップ」のこちらを見ると、昭和三〇(一九五五)年四月に蒲生郡朝日野村・桜川村が合併して生まれた蒲生郡蒲生町は、旧市子村の他、南部の半分以上は旧市子地区ではない地域が広汎に含まれているおり、旧蒲生町周辺総てが市子村であったのではなく、旧蒲生町の内、江戸時代の旗本領であった南部の一画が市子村であったとするのが妥当であるように思われる。ウィキの「蒲生郡」によれば、この狭義の「市子村」は近世は総て旗本領であった。

「内裏樣」朝廷。ここで、彼らがここに直訴しているのは、ここに朝廷の旧荘園でもあったものか、としても、現行、旗本であるから、彼らが知行の旗本を通さずに朝廷に直訴するのは、幕府をないがしろにする違法行為ではないのか? 識者の御教授を乞う。或いは、これは、中世の出来事だと言いたいのか? しかし、そこまで遡ることを言っていないし、お馴染みの本秀和尚が片付けるのだから、今まで同様、江戸前期の現在時制である。因みに、ここで本文は「訴請(そせう)」と表記しているが、これは饗庭の書き換えと思われ、初版板本では『祈詔(キセウ)』であり、「江戸怪談集(中)」もそちらと同じである。後者は注で、『「訴訟」のこと。訴え願い出て』とあるのだが、どうも、本当の公事方扱いの訴訟ではないのではないか? と私は疑っている。則ち、そもそもが、怨霊が相手なのであるから、公式な公事に取り上げられることはあり得ないわけで、ここは、朝廷に付属する神祇官(但し、室町時代には卜部(うらべ)の子孫吉田氏が京都の吉田神社を神祇官代(だい)として朝廷祭祀一般を牛耳った)に祈請をどうすればいいかと願い出たというだけことではないのか? 以下の「神に祝(いは)ひ、其の靈の屋敷に、宮を立て、時々に、祭りをなし、燈明(とうみやう)を立て、敬(うやま)へば」というのは、そ奴が、「まあ、かくすれば、よかろうぞ。」てなことをいい加減に言ったのであろう。そんな薄っぺらい仕儀に怨霊の怒るのは、これ、当然といえば、当然であろう。

「人に、たより、殊の外、しやべり」これは、その怨霊が、家内の下女か、子どもなどの誰かに憑依して、その憤懣をぶちまけたのである。

「三間」五・四五メートル。

「姨(をば)」妻の妹か。同居していたのであろう。前の大蛇の共感呪術的現象である。

「正保三年」以下で十二月のこととあり、同年十二月一日は既にして一六四七年一月六日である。

「雪月」十二月の異称。

「休心」本秀和尚の弟子であったことが確認されているようである。]

 

○一柳何某(ひとつやなぎなにがし)、人の讒(ざん)に依(よつ)て、科(とが)なき代官を、手討ちにす。

 機嫌惡(あ)しき時分、五歲になる子、奧より出づるを、抱(いだ)いて愛しけるが、此子、親と、狂ひながら、椽(えん)より落ちて、死す。

 爲方無(せんかたな)く、乘物(のりもの)に入れて、寺へ遣り、佛(ほとけ)の前に置き、侍一人(にん)付け置くに、佛殿の上、ことごとしく、鳴る。

 人々、驚き、

「急(きつ)」

度(と)見る處に、番の侍、

「無念なり。」

と云つて、其の儘、絕入(ぜつにふ)す。

 皆々、走り寄り、藥を與へ、呼び返しけり。

 三日過ぎて云ふ樣は、

「日も、早や、暮方(くれがた)に成り、彌々(いよいよ)御痛(おんいた)ましく思ひ居(ゐ)る處に、俄(にわか)に、天井、崩るるが如く鳴りて、光り物、來り。又、乘物より、光り物、出で行くを、切り留めんとするに、叶はず。其時、『無念なり。』と云ふと、夢の如くに覺えたり。」

と語り、終(つひ)に、氣色(きしよく)惡しくして、三日過ぎて、死す。

 扨(さて)、其の光り物の時分、主(しう)の前へ、彼(か)の成敗に逢ふたる者、右の子を抱(いだ)き、

「我、此の御子(おこ)を請(う)け取りて、美(いつく)しく御成り候。」

と云ふて、夫婦、來たりければ、主人、見て、

「憎いやつかな。」

と云ふて、脇差(わきざし)の柄(つか)に手を掛け、椽まで出で給へば、身(み)、すくみ、氣を失ひ給ふ。

 小姓(こしやう)共、抱起(だきおこ)し、藥を參らせければ、漸々(やうやう)氣付きたり。

 是は、醫者玄也(げんや)の兄、道流と云ふ人、右近殿(うこんどの)へ語るを聞く人、慥(たしか)に語るなり。

[やぶちゃん注:「讒」は底本では「談」(ルビは「ざん」)であるが、初版板本及び編「江戸怪談集(中)」を校合し、訂した。同様に「絕入(ぜつにふ)」(「気絶」の意)も底本では「殺入」(ルビは「せつじ」)で初版板本も同じで、実はこれでよいのだが、ここは、誰も躓かない「江戸怪談集(中)」の表記とルビに従うこととした。後に、この語、本書に中で、再び使用されるので、そこで解説する予定である。

「一柳何某(ひとつやなぎなにがし)」江戸初期には大名に三家(二家のみが幕末まで残る)、旗本に複数ある。当該ウィキを参照。但し、以下に「代官」(旗本・天領の現地支配担当)を持っているから、旗本である。

「機嫌惡しき時分」理由は判らぬが(そこに魔の介入がある)、なんとなく気分が優れない感じの折り。前掲の事件とは時制上は無縁。その意識がすっきりしない、注意力が散漫になっている状態で、何やらん、急に眩暈がして、「狂」ったように、足元を踏み外して、「椽」=縁側から、子どももろとも転げ落ち、子は敷石に頭でも打つけて即死したのである。これ自体、無論、偶然ではなく、不当に殺された代官の怨霊による復讐の起動を意味することは言うまでもない。

「ことごとしく、鳴る」ものものしい感じで、何とも判らぬ音が響いた。

「光り物、出で行く」この怪異の興味深い点は、この寺での「光り物」の出現と同時刻に屋敷にいる主人の眼前に、代官の亡霊が妻とともに出現し(妻は夫の死後に自害したか)、あろうことか、代官の手には、主人の死んだ御子(おこ)が抱かれおり、代官が、「我らが、今、丁度、この御子を請け取りまして、さあて、さて、ほれ、こんなに、可愛らしく、お成り遊ばしたぞ。」と語ったという共時シークエンスである。これは、怪奇談としては、非常に効果的な重層映像で、まず、ここまでの中では、出色に出来と言えよう。

「玄也」「道流」「右近殿」三名とも不詳。]

 

○武州瀧山(たきやま)、某(なにがし)、代官の時、火事、出來(しゆつらい)す。

 下代(げだい)某、下女を捉へ、是を科人(とがにん)と爲(な)して、村中(むらぢう)を引廻(ひきまは)して後(のち)、火炙(ひあぶり)にす。

「餘り、口をきく。」

と云ふて、口を破(わつ)て、物を言はせず。

 然(しか)るに、火の中より、大(おほき)なる黑蛇(くろへび)、火の上へ、四尺程、高く、頭を上げて見えけるが、頓(やが)て、家の中(うち)へ來り、先づ、下代を、妻子共に、取り殺す。

 次に、家老をも、先づ、子供を取り殺して後、夫婦、殘り無く、取り殺す。

 扨(さて)、主人は癩病(らいびやう)を受け、久しく乞食して、死せり。

 慶長十年の比(ころ)なり。

[やぶちゃん注:「武州瀧山」現在の東京都八王子市滝山町(たきやままち)附近。

「下代」下級の役人。下役(したやく)。

「口をきく」「江戸怪談集(中)」の注に、『無実をうったえて絶叫する声が大きいと。』とある。

「口を破つて、物を言はせず」左右に裂いたのでは、発生は可能であるから、下顎を砕いたのであろう。

「癩病」ハンセン病。

「慶長十年」一六〇五年。]

 

○濃州(ぢようしう)池田村に、次左衞門と云ふ、庄屋、あり。地頭へ、少し慮外(りよがい)ありし故、甥と共に牢舍(らうしや)せり。

 次左衞門、牢の中(うち)にて、甥を小刀にて差殺(さしころ)し、其死骸の上に乘りて、言ひけるは、

「さりとては。非義の曲事(きよくじ)に逢(あ)ふて、死する事、無念なり。此遺恨には、年忌々々(ねんきねんき)、村中を燒拂(やきはら)ふべし。地頭一家(いつけ)をば、取り殺すべし。」

と、憤つて、自害しけり。

 其如く、地頭子供三人を取殺(とりころ)し、其の身、盲目と爲(な)る。

 老男(をぢ)勘衞門子供、俱(とも)に取殺し、年忌每(ごと)に、村中(むらぢう)へ火を付け、燒き拂ふ。

 百姓、餘りに迷惑して、地頭へ訴訟を申し、寺を建て、高七石、寺領を付け、名古屋より、周吞(しうどん)と云ふ僧を呼び、住持に居(す)ゑ、次左衞門位牌を立て、吊(とむら)はせければ、火事、收(をさ)まり、村中、無事になるなり。

 周吞は、本秀の弟子なり。

[やぶちゃん注:「濃州池田村」現在の岐阜県内にあった池田郡。広域なので、当該ウィキの地図を見られたい。

「慮外」思いもよらない不法・不当な態度や行為を言う。

「非義の曲事」普通、「きょくじ」で読むと、法に背いたことを指すが、ここは「非義の」(道理に反した)とあることから、とんでもない道理に反した扱いを(地頭から)受けてことを言う。

「其の身、盲目と爲る」主語は地頭。]

2022/10/03

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「九 夫死して妻を取り殺す事 附 頸をしむる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、既に述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   九 夫死して妻を取り殺す事

     頸をしむる事

 攝州榎並村(えなみむら)・友淵村(ともぶちむら)、善兵衞(ぜんびやうゑ)婦(よめ)は、中村の源兵衞(げんびやうゑ)娘なり。善兵衞子息、卅歲にて死す。婦は十六歲なり。

 夫、死して後(のち)、女を親の源兵衞處(ところ)へ、呼び返す。

 さる程に、夫の精魂(せいこん)、火と成り、蹴鞠(けまり)の如くにして、地涯(ぢぎは)一尺程、高く揚がり、每夜、來たりて、村際(むらぎは)にて、消ゆ。

 源兵衞家内(いへうち)、噪(さはが)しくなり、娘の目に見えて、魘(おそろ)しき物來りて、髮を拔くこと、折々なり。

 娘、父母(ちゝはゝ)に向かつて、

「おそろしき物、來(きた)る。」

と云(いふ)て、恐れ伏す。

 終(つひ)に、髮の毛を、皆、拔き盡(つく)して、卅日が中(うち)に取殺(とりころ)したり。

 寬永十年の事なり。

[やぶちゃん注:「攝州榎並村」旧大阪府東成(ひがしなり)郡榎並町(えなみちょう)は、現在の大阪市城東区と都島(みやこじま)区の各一部に相当する。この中心付近に「榎並」を名に含む施設が認められる。当該ウィキによれば、『村名は中世の荘園名「榎並荘」に由来する。茨田堤』(まむたのつつみ/まんだの―/まぶたの―)は仁徳天皇が淀川沿いに築かせたとされる堤防)『の築造によって』、『河内湖』(かわちこ:現存しない)『と淀川の間に形成された干拓地で、淀川の南を意味する「江南」に「榎並」の字を当てたとする説がある』とある。

「友淵村」大阪市都島区友渕(ともぶちちょう)。旧榎並町の北西に接している。善兵衞は恐らく富農で、この両村の庄屋を兼ねていたものと思われる。因みに、初版板本21コマ目)では正しく「友渕村」の表記になっている。饗庭は略字と判断して、かく書き変えてしまったものであろう。

「中村」大阪府堺町北区の中村町か、或いは、大阪府南河内郡現在の河南町の南西端に相当するところにあった旧中村か。この地図に両方とも含まれる。

「寬永十年」一六三三年。]

 

○江戶、鷹師町(たかしやうまち)にて、ある侍、不圖(ふと)、煩(わづら)ひ付き、死に窮(きはま)る時、妻に向つて、

「我、死せば、不請(ふしやう)ながら、髮を剃り、菩提を弔(とむら)ふて給へかし。」

と云ふ。

 女房、

「尤もなり。」

と請合(うけあ)へば、頓(やが)て死しけり。

 然るに、女房、髮を剃らず、剃るべき志(こゝろざし)も、なし。

 故に、次の日、夫、來りて、目に見えけれども、驚かず。

 猶々(なほなほ)、來りて、

「ちらちら」

と見え、六日目には、女房の頸をしめける間(あひだ)、

「くつ、くつ。」

と云ふて、目をまはし、死に入りけり。

 女房の兄、刀を拔きて、切拂(きりはら)ひ、

「卑怯者、侍に似合(にあは)ず。」

と耻(はぢ)しめけれども、用ひず、苦しめける程に、女房、次第々々に、弱るなり。

 女房の弟(おとゝ)、

「心得たり。」

とて、鋏(はさみ)を取り出(いだ)し、姉の髮を、すきと、鋏(はさ)み捨てければ、則ち、本復(ほんぶく)す。

 後(のち)まで、髮を剃りて居(ゐ)るなり。

 其の朋輩衆(はうばいしゆ)の内方(うちかた)、委しく知つて語る。

 慶安三年八月の事なり。

[やぶちゃん注:「鷹師町」「鷹匠町」。現在の東京都千代田区神田小川町・神田神保町・神田錦町・神田淡路町・神田猿楽町・神田三崎町・西神田・一ツ橋二丁目に当たる。皇居の東北外。いつもお世話になっている「江戸町巡り」の「元鷹師町」の解説によれば、元禄六(一六九三)年九月十一日に「小川町」と改称された、とある。改称理由の一説に『五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため』、『改称されたという話もある』とあった。

「死に入りけり」気絶してしまったという。

「すきと」すっきりと。さっぱりと。残らず。

「慶安三年」一六五〇年。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「八 愛執深き女人忽ち蛇體と成る事 附 夫婦蛇の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、既に述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にするが、本話は生憎、選ばれていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    愛執深き女人忽ち蛇體と成る事

     夫婦蛇の事

 備中の國、松山の近處(きんじよ)、竹の庄と云ふ村の、庄屋の女房、山伏を陰(かく)し男に持つ。

 山伏、死して後(のち)、幽靈と成り、彼(か)の女と出合(いであ)ふこと、數年(すねん)なり。

 夫、怪しみ、終(つひ)に見出(みいだ)し、女房を耻(はぢ)しめければ、其儘、氣違ひて、怖ろしく狂ひけるを、牢舍(らうしや)させ置くに、次第に形(かたち)、替(かはり)、髮筋(かみすぢ)、針金の如くになり、眼(まなこ)光り、口は、耳まで切れ、即ち、角(つの)出でて、蛇(じや)と成る。

 其處に大なる池あるに、

「此池に入(い)るべし。是(これ)へ、鐘(かね)・大鼓(たいこ)にて、囃し送るべし。然(さ)なくば、此鄕(このさと)を、殘さず、取殺(とりころ)し、池と爲すべし。好(このみ)の如くせば、障(さは)るべからず。」

と云ふ。

 處の者共、畏怖(おぢおそ)れて、

「池に送るべし。」

と、談合(だんがふ)究(きは)めて、正保二年酉の六月廿八日に送りける由。

 備中笠岡、東雲寺の、江湖(こうこ[やぶちゃん注:ママ。])に在りし僧、佐和山大雲寺の春甫(しゆんぽ)、雜談(ざふだん)なり。

「海德寺の住持嶺的(れいてき)、六月廿七日に東雲寺へ來り、明日(みやうにち)廿八日に、池に送り入る由にて、

『我等、あたりの鄕中(がうちう)の者共、見物に行くなり。同じは、此の寺の僧達も、末代の物語りに行(ゆ)いて見給へ。』

と云ひけれども、九里(くり)の路なれば、行くこと、不叶(かなはず)。」

と、慥(たしか)に語られけるが、果して、廿八日に、大雨降ること、一時ばかり、噪(さは)がしかりしとなり。

[やぶちゃん注:最後の事実性の提示部分が、無駄に長い上に、意味がとり難くなってしまい、怪異の印象を有意に阻害してしまっている。真実性を高めようとした結果が、飽きさせるという怪談の失敗例である。

「松山の近處、竹の庄と云ふ村」不詳。愛媛県松山市竹原町なら、ここ

「正保二年」一六四五年。

「備中笠岡」岡山県笠岡市

「東雲寺」現在の笠岡市には、この名の寺はない。東雲院(真言宗)なら、東隣りの倉敷市にあるが、この寺の寺歴を見ても、笠岡にあった痕跡はない。

「江湖(こうこ)」「がうこ」が正しい。「江湖會」で「がうこゑ」と読むのが正しい。禅宗の、特に曹洞宗に於いて、四方の僧侶を集めて行なう夏安居(げあんご:多くは旧暦四月十五日から七月十五日までの九十日をその期間とした)の行を行うための道場を指す。本邦で夏の蒸し暑い時期を、行脚ではなく、屋内での座禅行を修する時期に当てたものである。

「佐和山大雲寺」現在の滋賀県彦根市河原にある曹洞宗青龍山大雲寺。佐和山城のある佐和山町の南西直近ではある。

「春甫」不詳。

「海德寺」この寺が頼みの綱であったが、愛媛県内には、この名の寺はない。

「嶺的」不詳。]

 

○勢州桑名の町に、向合(むかひあは)せに、十五歲の男の子と、十四歲の女子(をなご)とありけるに、女子、何となく、うろうろと、煩(わづら)ふ事、あり。

「其の容體(ようだい)、不思議なり。」

とて、委しく聞けば、

「向ひなる十五歲の男子を思ふ故なり。」

と云ふ。

 さる程に、向ひなる男子の親に語りければ、

「然(しか)らば、我子に此の由、知らせよ。」

とて、親しき友達に問はせければ、子も請合(うけあひ)ける間、迎へ取りて、寢屋(ねや)に入れけるに、日、高くなるまで起きず。

 不思議に思ひ、戶を明けて見れば、女子(によし)、男子(をとこゞ)の、頭(かしら)より肩まで、呑入(のみい)れて、女(をんな)の手にて、男の肩を押(おさ)へて、共に、死し居(ゐ)り。

「寬永十年のことなり。」

と、或人、語るなり。

[やぶちゃん注:「うろうろと、煩(わづら)ふ事」所謂、「ぶらぶら病」で、重篤な統合失調症辺りか。本篇、因果話としての構成がなされておらず、寧ろ、明かに、猟奇的で奇体なカニバリズム譚として楽しもうとする語り手の作為と、創作能力の非常な低さが露呈している、本書の中では、特異的に厭な感じのする一篇である。

「寬永十年」一六三三年。]

 

○江州大塜
村に、六左衞門と云ふ者、あり。常々、云ふは、

「我々夫婦は、たとひ死しても、此屋敷に、一所に居(ゐ[やぶちゃん注:ママ。])べし。死したりとも、塜をも、一つに、築(つ)くべし。」

と云うて、生(いき)て居(ゐ)る中(うち)に、石塔をも、きらせ、夫婦の形を、一つに切付(きりつ)けて、我(わが)屋敷の角(すみ)に立置(たてお)きけるが、程なく、六左衞門、死す。女房も三年の中(うち)に死にけり。

 然るに、まむし、二筋(ふたすぢ)、此塜
の上に、常住なはに成りて居(ゐ)ける間(あひだ)、村の者共、殺せども、殺せども、盡(つき)ず。

 正保年中、本秀和尙、其村、妙巖寺に住(ぢう)有つて、吊(とむら)ひ給へば、蛇(へび)、失せるなり。其石塔、妙嚴寺(みやうごんじ)の卵塔に堀込(ほりこ)[やぶちゃん注:「堀」はママ。初版板本も同じ。]み給ふ。塔(たふ)の頭(かしら)ばかり、少し、出で居(ゐ)るなり。

[やぶちゃん注:「江州大塜村」滋賀県東近江市大塚町(おおつかちょう)。

「常住なはに居(ゐ)ける間(あひだ)」意味不明。初版板本21コマ目)では、『常住ナワニ成(ナリ)テ居(イ)ケル間(アヒダ)』である。校訂した饗庭篁村は思うに、「繩」のつもりで、かく、変えたのであろうが、蛇が縄になったら、「居(ゐ)る」とは言わぬし、縄だったら、そのままにしておけば、或いは、蛇はやってこないのではないか? 捨てなければ、墓は、大した年月を経ずに、縄で埋もれてしまうであろう。今一つ考えたのは、「繩張り」の脱字を考えた。孰れにせよ、どうも座りが悪い。

「正保年中」一六四四年から一六四八年まで。

「本秀和尙」既出既注

「妙巖寺」大塚町内に現存する。曹洞宗。

「卵塔」これは「卵塔場」で、広義の墓地の意であろう。狭義の「卵塔」は、通常、僧の墓として建てるものであり、また、そもそも「掘り込む」という表現からも「墓場」の意である。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「七 下女死して本妻を取り殺す事 附 主人の子を取り殺す事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、前回述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    下女死して本妻を取り殺す事

     主人の子を取り殺す事

 或浪人(らうにん)何某(なにがし)と云ふ者、美濃の國より、尾州名古屋(なごや)へ行きて、日暮(ひくれ)に歸る。在處(ざいしよ)の近所に、くり舟あり。其處(そのところ)にて、彼(か)の浪人を呼ぶ事、頻りなり。

 驚きて、名古屋の方(かた)へ立歸(たちかへ)らんとしけれども、

『若(も)し、以後、臆病者と云はれては。』

と、思ひ、彼(か)の聲に付きて、そろそろ、行きて見れば、倒立(さかだち)したる人、あり。

 怖しく思へども、

「何者ぞ。」

と詞(ことば)をかくれば、

「御歸りを、待居(まちゐ)たり。我は庄屋内(しやうやうち)、御存知の女にてあり。不慮の仕合(しあはせ)に依りて、非分(ひぶん)の死を仕(つまかつ)る。敵(かたき)を取りに參りたく存ずる間(あひだ)、此舟を越して給へかし。」

と云ふ。

 

Sakadati

 

[やぶちゃん注:冒頭注で示した一九八九年岩波文庫刊の高田衛編「江戸怪談集(中)」の挿絵(底本は東洋文庫岩崎文庫本)。キャプションは「みのゝ國」。]

 

『是は。僻者(くせもの)哉(かな)。若し、「いや。」と云はゞ、祟(たゝり)やせん。』

と思ひ、

「易き事なり。」

とて、舟を寄すれば、倒立ちながら、乘り、亦、倒(さかさま)に下(お)りたり。

 見捨てゝ、宿へ歸る處に、暫しあつて、窓に來りて云ふ、

「是まで參りけれども、家の口々に、札(ふだ)、多く有りて、内へ入ること、叶はず。とてものことに、札共(ども)を剝取(はぎと)りて給へ。」

と云ふ。

『是、猶、いやな事。』

と思へども、

『かやうの者に祟られては。』

と思ひ、

「易き事。」

とて、札を取りければ、庄屋内には、女共、木綿車(もめんくるま)ひきて、六、七人、居(ゐ)けるに、家主(いへぬし)の女房、

「わつ。」

と云うて、死に入りけり。

 女共、肝を銷(け)し、あわて躁(さは)いで、彼(か)の浪人の家に至りて、

「早々(はやはや)、御越(おんこ)し侯ひて給はれ。」

と云ふ。

「何事ぞ。」

と云うて、起きやすらふて居(ゐ)けるに、三度(ど)まで呼(よび)に來(きた)るゆゑ、行きて見れば、彼(か)の家の女房、早(はや)、脉(みやく)も斷えて死しけり。

『扨は。女の敵(かたき)、是ぞ。』

と思ひ、

「笑止千萬なり。然(しか)れども、力、無し。」

と云ふて、歸る處に、彼の靈女(れいをんな)、眞樣(まさま)に成りて云ふ、

「敵を取り、今こそ、眞樣に成りたり。偏(ひとへ)に、御恩、有難し。」

とて、拜み、

「隨分、御身(おんみ)を守り、御恩を報ずべし。」

と云うて、失せけり。

 扨、不審に思ひ、其故(そのゆゑ)を聞くに、この女、庄屋、妾(めかけ)なり。女房、此女を惡(にく)み、夫(をつと)、有馬へ湯治(たうぢ)しける留守に、内(うち)の下男(しもをとこ)に賴み、河(かは)の向ひに狹き井(ゐ)あり、彼の女を、たるめて、井の端(はた)へ遊び出で、

「是は、何(なに)井戶ぞ。」

と、のぞく。

 彼の下女も、のぞく處を、倒さに、つき入れて、殺しけり。

 其夜(そのよ)より、

「彼(か)の刳舟(くりふね)の渡りに、化けもの、あり。」

と云ひけり。

 人々、逃げて、慥(たしか)に見たる者、なし。

 彼の浪人、後(のち)の取り沙汰を思ひ、心を定めて、見屆けり。

 彼の庄屋、有馬に居(ゐ)けるゆゑ、人を遣はせば、庄屋方(かた)へは、彼(か)の靈(れい)、疾(と)く告げて、知らせける間(あひだ)、心得て、驚く事、なし。

「女房、己(おのれ)が心の科(とが)なり。」

とて、三七日、湯治して、歸りけり。

 寬永廿年八月の事なり。彼の浪人の口を聞く人、慥に語るなり。

[やぶちゃん注:標題は「下女」とあるが、本文を読むに、下女とは出ない。嘗つて下女であったのに庄屋が手をつけ、外に囲ったものととっておく。

「尾州名古屋」現在の愛知県名古屋市。

「くり舟」「刳り船」。一本の木の幹をくりぬいて造った古形の丸木舟。

「倒立(さかだち)したる人」参考に添えた挿絵を参照。幽霊が逆立ちして出現する話は枚挙に遑がないほどに多いが、江戸時代の怪奇談集では、本話はその嚆矢と言える。本篇の場合は、井戸に逆さに突き落とされたという物理的な由来を想起してしまうが、亡者が現世と異なる「反」世界の存在であることから、我々とは反対の体位で出現するとも言え、対象を逆にすることで、道理を反転させた「怨」の感情性を表現しているとも言える。或いは、地獄に一度、落ちるところの亡者は、地獄に向って逆さ様に堕ちるであろうという民俗社会の想像に基づくとも言える。これについては、歌舞伎の舞台上の「お岩」が時に逆立ちすることからも納得される。これを特に取り上げて検証論考した服部幸雄著「さかさまの幽霊 〈視〉の江戸文化論」(平凡社一九八九年刊)が優れている。本篇を完全に剽窃したものとしては、本書の十六年後の延宝五(一六七七)年四月に刊行された「諸國百物語卷之四 一 端井彌三郎幽靈を舟渡しせし事」(リンク先は同書の単独カテゴリの私の電子化注)があり、挿絵までそっくりである。そこで「逆さま」についての詳細な私の分析も施してあるので、是非、読まれたい。また、最近のものでは、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「幽靈の手足印」(2)』も参考になるはずである。

「非分の死」道理にはずれた不当な死。具体的には以下にある通り、非道に殺されたことを指す。

「此舟を越して給へかし」「どうか、是非とも、この舟で(庄屋の家のある)川の向こう岸にお渡し下され。」。亡者が川を渡れないというのは、一見、奇異に見えるが、三途の川に見るように、民俗社会では、川は異界との絶対的結界(断絶する境界)であり、亡者にとっては渡り得ないものだと考えれば納得がゆく。

「僻者」通常は「ひがもの」と読み、「素直でなく心持のねじけた人・ひねくれて一癖ある人・変わり者」の意であるが、謂わば、言上げの禁忌として、「人間でない異類・妖怪」の代用語として用いている。

「札」社寺から受けた護符。

「木綿車」「綿繰車」(わたくりぐるま)。植物の木綿から、綿糸を繰るための装置。木製でローラー状の隙間に綿花をかませ、綿繊維だけを引き出し、種子を取り除くもの。

「笑止千萬なり」「たいそう気の毒なことではある。」。

「眞樣(まさま)」逆立ちではなく、正立していること。怨みが晴れたことで、転じたのであり、この場合は、不当な殺人に対する復讐を果たしたのであって、彼女は正当に往生出来たわけであり、さればこそ、向後、自分に助勢して呉れた彼を守ることも可能となったのである。

「たるめて」「弛めて」。不審を抱かせないように、懐柔して。

「三七日」「みなぬか」と読むことが多い。亡くなった日から二十一日目。三七日の法要を行う。地獄思想の十王信仰では、宋帝王によって故人の生前の性に係わる罪の審理を行うとされる。妻というより、庄屋にとってこそ皮肉とも言える。

「寬永廿年八月」一六四三年。

「彼の浪人の口を聞く人、慥に語るなり」本人の直談を聴いた人からの聴き伝えで、噂話・怪談話の常套的構成。]

 

○駿河の國、何某内方(うちかた)、人使(ひとづか)ひ、惡(あし)くして、下女一人(にん)、頸を括(くゝ)りけり。

 夫、此を見て、敎訓しければ、女房、彌々(いよいよ)腹立(ふくりふ)して、竹を以つて、首をくくりたる女を敲(たゝ)きければ、死人の口より、蛇、出で、飛掛(とびかゝ)り、女房の頸に、まき付き、即時に、しめ殺しけり。

 其人を隱して言はず、友野文右衞門、慥に知つて語るなり。

[やぶちゃん注:「噂話」としては人名を語っておらず、噂話としては作話性が高い。坊主の正三に話せば、因果譚として信じるであろうという安易な雰囲気が濃厚である。

「内方」女房。]

 

○江戶、或侍、大坂落城の時、女落人(をんなおちうど)を取り、甲州の知行(ちぎやう)に置きけるを、彼の仁(じん)、駿河番の跡にて、内方、彼(か)の女を呼び寄せて、折檻せり。

 或時、十二に成る息女、死す。算(さん)を置かせければ、

「彼の女の祟りなり。」

と占ふ。

 それより、息女の守(もり)を始めて、皆々、彼の女を折檻すること、限りなし。

 女、堪へ兼(かね)て、身を認(したゝ)め、茶磨(ちやうす)を頸に結(ゆ)ひ付け、深き井(ゐ)に入りて死す。

 驚きて、取出(とりいだ)す。

 死骸より、一尺四、五寸の、尾切蛇(をきれへび)、出でたり。

 是を殺せば、身(み)の中(うち)より、同樣(おなじやう)なる蛇、八筋(やすぢ)出でたり。

 殺せども、殺せども、八(や)つの蛇、盡きず。

 頓(やが)て緣端(えんばた)へ上(あが)り、しき居(ゐ)に頭(かしら)を持(もた)せて、彼の女房の方(かた)を、見付け、凝逼(まもりつ)めて居(ゐ)るなり。

 眞言坊主、道切(みちきり)しければ、蛇、失せて、來らず。

 然(しか)れども、子息、數多(あまた)、取り殺すなり。

 寬永十五年のことなり。

[やぶちゃん注:「大坂落城の時」「大坂夏の陣」で事実上の炎上落城は慶長二〇(一六一五)年五月八日午前十二時頃。

「女落人」「江戸怪談集(中)」の注に、『戦いに負けて、敵方の女性。ここでは大坂方武士の娘あたりであろう』とある。

「彼の仁」その侍のこと。

「駿河番」これは江戸初期にあった家康の駿河城の警護に派遣された大番役、或いは、その下に配された駿府加番役。但し、後に、駿府在番は書院番が務めることとなって、廃止された。

「算を置かせければ」「易占いをさせたところ」。「算」は算木(さんぎ)。易占に於いて卦(け)を示すために用いる道具。長さ約十センチメートルの方柱状の六本の木で、おのおのに陰陽を示す四面があり、それによって陽爻(ようこう)或いは陰爻を表わすようになっている。

「身を認め」身なりを整え。

「一尺四、五寸」四十三~四十五センチ半。

「尾切蛇」尾が切れているというところが、まがまがしさを増す。

「道切」「江戸怪談集(中)」の注に、『疫病、魔物などの侵入を防ぐまじない。道断(みちき)り』とある。これは、一般庶民の民俗社会でも、生命共同体である村落の辺縁や複数の気が流入する辻、及び、川・峠などで、よく行われる。それに用いられる具体な呪物などについては当該ウィキを見られたい。

「寬永十五年」一六三八年。]

2022/10/02

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「六 嫉み深き女死して後の女房を取殺す事 附 下女を取殺す事」

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「六 嫉み深き女死して後の女房を取殺す事 附 下女を取殺す事」

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、前回述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    嫉(ねた)み深き女死して後(のち)の女房を取殺(とりころ)す事

     下女を取殺す事

 江戶淺草、海雲寺に、全春と云ふ僧あり。七歲の時。母に離れ、頓(やが)て繼母(まゝはゝ)あり。

 彼(か)の繼母、紙帳(しちやう)の中(うち)に臥しけるを、亡母(ばうぼ)、來たつて、髮を取り、紙帳の外へ引出(ひきい)だす。

 繼母、起き上がり、暫し、組合(くみあひ)ければ、亡靈は失せけり。

 其後(そのゝち)、繼母、煩ふに、枕もとに、亡母、來りて、頸をしめ、終(つひ)に取り殺したり。

 其後も、

「親類中(ちう)の家に、來(きた)る。」

と云へり。

 慶安五年の比(ころ)、此の僧、廿一歲にて、直(ぢき)に語るを、牛込天德院にて聞くなり。

[やぶちゃん注:「江戶淺草、海雲寺」慶長一六(一六一一)年、天徳寛隆によって開山された肥後細川家の一族「谿谷院殿月山窓雲大童子」の供養のために江戸八丁堀(現在の東京都中央区八丁堀)に創建された曹洞宗江月山海雲寺(かいうんじ)か。同寺は寛永一二(一六三五)年に浅草八軒寺町(現在の台東区寿。ここは浅草寺の真ん前で広義の浅草である)に移転している。現在は東京都杉並区にある。但し、「江戸怪談集(中)」の注では、『淺草ではなく品川にあった曹洞宗龍吟院海雲寺か』とされる。浅草を誤りとする根拠が高田先生には、おありにあるのかも知れない。暫らく、併置しておく。

「慶安五年」一六五二年。

「牛込天德院」中野区上高田にある曹洞宗乾龍山天徳院。一山智乗が慶長七(一六〇二)年創建したとされる。牛込は古くからの広域地名で、現行で残る牛込よりも遙かに東の方も含まれていた。]

 

○奧州にて、さる女人(によにん)の死(しゝ)けるを、沐浴(もくよく)して、棺に入れて置きければ、棺の中より手を出(いだ)しけり。

 人々、肝を銷(け)す處に、内(うち)の下女、

「わつ。」

と云ふ聲、あり。

 見れば、頸を引き拔きて、あたりに、なし。

 不審して棺を披(ひら)いて見れば、死人、彼の女の頸を抱き、喰(くら)ひ付きて居(ゐ)たり。

 是、日比(ひごろ)、妬(ねた)みし念力の爲(な)す所なり。愚道和尙、

「若き時、見たる。」

と語り給ふなり。

[やぶちゃん注:「愚道和尙」不詳。]

 

○江戶麹町(かうじまち)に、有る者の女房、煩(わづら)ひ死する時、男に、

「あの下女を、女房にして置くならば、祟(たゝ)るべし。」

と云ふを、用ひず、終(つひ)に女房にしける處に、死(しゝ)たる女房、來りて、下女の髮を、むしる。

 下女、悲(かなし)むを聞きて、人々、寄りて見るに、何も、なし。

 人の、隙(すき)なれば、來りて、髮を、むしる。

 後(のち)には、一筋も殘さず、むしり拔(ぬき)て、終に取り殺す。

 慥(たしか)に見たる人、多し。

 寬永十四年のことなり。

[やぶちゃん注:「麹町」東京都千代田麹町

「寬永十四年」一六三七年。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「五 妬み深き女死して男を取殺す事 附 女死して蛇と成り男を卷く事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村(あえばこうそん)校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。

 なお、今回は、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に載る本作(同書は全篇ではなく、抜粋版)の挿絵(底本は東洋文庫岩崎文庫本。挿絵本らしい。この当該話部分には二枚ある。二枚とも掲げた)を適当と思われる箇所に参考挿入した。この本は、私が最初に満足出来た江戸の怪奇談集である。これが抜粋乍ら、これを読んだのは、三十三年前のことで、ここに部分的に載っていることを、すっかり失念していたが、本篇の第二話を読んで、「あれ? これ読んだぞ!」っと気がついたのであった。而して、次回からは、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。これで電子化注のスピードは各段に速くなる。

 

    妬み深き女死して男を取殺す事

     女死して蛇と成り男を卷く事

 越後の國、大沼郡(おほぬまぐん)の代官、吉田作兵衞と云ふ者、信濃善光寺の者にて、妻子を善光寺に置きけり。

 或時、妻、召(めし)使ひし下女、失去(うせさ)りぬ。是は、作兵衞、内通(ないつう)にて、走らせ、大沼へ呼寄(よびよ)せ置く由。

 本妻、後(のち)に聞き付け、大に腹立ち、

「大沼へ行き、此恨み、申すべし。」

と、狂ひ走り出でけるを、近所の者共、宥(なだ)めて押(おさ)へければ、力無く止(とゞま)り、朝夕、是を恨みけるが、身心、日々に衰へ、重病(おもきやまひ)と成り、今を限りの時、作兵衞手代、武兵衞(ぶひやうゑ)と云ふ者、幼少より、作兵衞夫婦に、養育せられけるゆゑ、件の樣子を聞きて、驚き、早速に參り、

「御氣色(おんきしよく)、如何(いかゞ)。」

と問ふ。

 妻女、答へて云ふ、

「自(みづか)らが煩(わづら)ひ、別の仔細にあらず。作兵衞に斯樣(かやう)々々の恨みあるに付(つい)て、今、斯(かゝ)る體(てい)と成りたるぞ。」

と語る。

 武兵衞、

「扨々(さてさて)、是非なき御事(おんこと)かな、思召(おぼしめし)置かるゝ事、なきや。」

と申しけれぱ、妻女、云ふ、

「願はくは、大沼の妾(てかけ)を殺して、首ぞ持來(もちきた)り、自(みづか)ら存命の内に、一目見せて給へかし。然(さ)なくんぱ、相果てゝ、後世(ごぜ)の障(さはり)なり。」

と、打嘆(うちなげ)きて深く賴みけるゆゑ、了簡に及ばず、大沼へ行き、作兵衞留守に、彼の妾を賺(すか)し出(いだ)して、指殺(さしころ)し、首を執りて、善光寺へ參り、

「斯(かく)。」

と申しければ、女房、

「瓦破(がば)」

と起き上り、居長高(ゐながだか)に成りて、大に悦び、

「につこ」

と笑ひて、

「扨々、嬉しや、有難や、我等、日頃、如何ばかりか嗔恚(しんい)を燃(もや)し、遣(や)る瀬なく、若(く)に沈みしに、其方の影(かげ)にて、今、この妄執、解けて、心、晴やかになりたり。」

 

Kubikurahi

 

[やぶちゃん注:右上のキャプションは、「ゑちごのこふ」だが、「こふ」が判らぬ。「功」か「國府」か。]

 

と云うて、手を合せ拜み、彼(かの)首(くび)を引寄(ひきよ)せ、氣色、替(かは)り、其儘、喰ひ付き、髪の毛を、拽(ひき)かなぐる有さま、中々、怖ろしき體(てい)なり。

 武兵衞、是を見て、

「それは。餘りに淺ましき御事なり。」

と云うて、首を奪ひ、取り捨て、宿處(しゆくしよ)へ歸りぬ。

 其後(そのゝち)、女房、氣色、次第に衰へ、終(つひ)に死す。

 然(しか)れども、其妄念、形を顯はして、

「大沼へ行く。」

と云うて、馬に乘り、作兵衞門(かど)まで乘掛(にりか)けて行きければ、下人、一目見て、肝を消し、

「善光寺の上樣(かみさま)、御越しなされたるよ。」

と、驚きけれぱ、其まゝ、消失(きえう)せしなり。

 其時、馬に乘せたる者、其後(そのゝち)、右の通り、慥かに語る。

 扨、作兵衞、臥せりたる處を、彼の女房、來りて、首を締(し)む。

 作兵衞、驚き、起き上りければ、其儘、清えて、なし。

 度々(たびたび)、首を締めけるに依つて、樣々に、吊(とむら)ひ祈りけれども、叶はず。

 晝夜(ちうや)共に、家に居(ゐ)て、人の目にも見ゆるなり。

 作兵衞、畏恐(おぢおそ)れて、此所彼所(こゝかしこ)に宿(やど)を替へけるに、結句、作兵衞より、先に行きて、顕はれ居(ゐ)るなり。何ともせん方なく、作兵衞、煩ひ付き、終に死去するなり。

 其子、今、越前にあり。越後にて隠れなきことなり。

[やぶちゃん注:「越後の國、大沼郡」魚沼郡であろう。新潟南部最内陸の山間部である。当該ウィキ地図を見られたい。代官を扱っているので差し障りがあるため、確信犯で、かく、したのかも知れぬ。

「代官、吉田作兵衞」不詳。

「善光寺」かの寺院ではなく、地名。現在の善光寺の門前町として発展した長野市。

「内通にて、走らせ」善光寺にあった時から密通していたのを、出奔させて招いたのである。

「手代」江戸時代、郡代・代官に属し、その指揮を受けて、年貢徴収・普請・警察・裁判などの民政一般の実務を担当した小吏。同じ郡代・代官の下僚の「手付(てつき)」と職務内容は異ならないが、手付が幕臣であったのに対し、農民から採用された。吉田作兵衛は越後には手付を同道して、恐らくは現地出身の手代であった彼は善光寺に残したのであろう。

「居長高」「居丈高」。立ち上がって背を反らして、いきり立つさま。

「作兵衞門(かど)」作兵衛の代官屋敷の門前。

「其時、馬に乘せたる者、其後(そのゝち)、右の通り、慥かに語る」毎回、繰り返される話柄の事実確認部を中に挟んだもの。]

 

○寬永年中、大原に如應(によおう)と云ふ、道心者あり。

 彼の發心の所謂(いはれ)を聞くに、

「大工にて、京に居(ゐ)ける時、女房、果てゝ後(のち)、本(もと)の女房の姪(めい)を妻と爲(な)しけり。

 或時、晝寢して居(ゐ)けるに、空(そら)より、蛇、さがり、舌を出(いだ)してあり。是を取り捨てければ、亦、來り。

 後(のち)には、頸に卷き付きて、離れず。

 爲方無(せんかたな)くして、發心し、髮を剃り、托鉢しけれども、蛇、更に去らず。

 後(のち)に高野山へ登る所に、不動坂にて、蛇、失せけり。

 悅び、三年居(ゐ)て下(くだ)るに、本(もと)の坂にて、蛇、又、頸に卷き付きたり。

 人々、怖れをなす故に、手拭(てぬぐひ)を卷きて居(ゐ)けり。

 數年(すねん)經て後(のち)、上京(かみきやう)相國寺(しやうこくじ)の門前、報土寺(はうどじ)權譽(ごんよ)上人、を拜し、一々、懺悔(さんげ)して、十念を授かりて、久しく念佛しければ、いつとなく、蛇、失せたり。」

となり。

[やぶちゃん注:特異点の実体験者の直話である。しかも、これは以下に述べる通り、事実として別の書に具体的に書かれてあり、その所縁の寺も現存するのである。まさに超弩級の事実譚なのである。

「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。

「大原」「おはら」とも呼ぶ。京都市左京区の一地区。旧村名。市街地の北東方にあり、鴨川支流の高野川に沿う独立した小盆地を形成している。若狭街道が南北に貫く。かつては静かな農山村で、京都へ薪などを売りに行く大原女で知られた。三千院や寂光院がある。この附近。高田衛編「江戸怪談集(中)」の注には、『近世では出家の隠栖所が多かった』とある。

「如應」堤邦彦氏の論文「『因果物語』蛇(くちなわ)道心説話をめぐって―唱導と文芸の間―」(『近世文藝』第四十三巻一九八五年発行所収・「J-Stage」のこちらからダウン・ロード可能)で、詳細な考証がなされ、『大原摂取院の縁起にその詳細を看取し得た』とされて、「山州名跡志」(正徳五(一七一五)年刊)の巻五が引用されており、そこに、この寺は「蛇道心道心の寺」と別号するとして、「淨往(ジヤウワウ)法師」の発心譚が記されてあるのだが、それはまさに、以上の話と一致している。堤氏は『「如応」と「浄住」と表記の違いはあるが、多分それは聞書故の誤記であつて、むしろ片仮名本』(正三の本書のこと)『の口承性をあらわすものとみてよかろう』と述べておられる。しかも、同寺は現存し、『寺宝に浄往脱蛇の図一幅が伝存し、過去帳には』、『摂取院称誉浄往大德』(以下は二行割注【『寛永十八年七月廿八日』】『道心蛇也』と、しっかりと戒名と入滅の年月日まで記されているのである。こんな怪奇談をテツテ的に証明する事実を持った怪奇談は、私は他に知らない。凄い!!! 是非、読まれたい。なお、この寺は京都市左京区大原大長瀬町(おおながせちょう)にある浄土宗龍女山摂取院である。

「不動坂」ここ地図のそのすぐ北に「女人堂」があることで判る通り、この坂の登りきった先から奥は――女人禁制――なのである。

「相國寺」京都市上京区相国寺門前町にある臨済宗相国寺派大本山の萬年山相国寺

「報土寺」浄土宗知恩院派八幡山(はちまんさん)報土寺。この頃は、相国寺門前にあって念仏道場として栄えていた。寛文三(一六六三)年頃、現在の仁和寺街道六軒町西入四番町に移転した。ここ

「權譽上人」堤氏の論文によって、これは摂取院中興の祖とされる「近譽(ごんよ)上人」であるとされ、続く一章を、この上人に当てておられる。]

 

○大坂陣(おほさかのぢん)の、二、三年前、駿河府中、いんれい町(まち)、狐崎(きつねざき)の近所、原田次郞左衞門宿(やど)、四、五間(けん)近所の者、信州へ行きて、女房を求めて居(ゐ)けるが、暫くありて、駿河に歸りけり。

 信州の女房、來(きた)る。

 其有樣(そのありさま)、怖ろしゝ。

 駿河の女房、是を見て、逃げ行き、夫に、

「かく。」

と云ふ。

 夫、彼(か)の女を賺(すか)し、彼(か)の女を三保の松原へ伴(つ)れて行き、舟遊(ふなあそ)びして、海へ入れて、殺しけり。

 

Hebinokosimaki

 

[やぶちゃん注:右上のキャプションは、「みほの松はら舟あそび」。]

 

 頓(やが)て、蛇となりて、腰を卷く。

 何程(なにほど)切りても、亦、卷くに依りて、爲方無(せんかたな)くして、高野へ行きて居(ゐ)たるとなり。

[やぶちゃん注:「十念」浄土宗・時宗に於いて、僧から「南無阿彌陀佛」の六字の名号を十遍唱えて信者に授け、仏との結縁(けちえん)を結ぶことを言う。

「大坂陣(おほさかのぢん)の、二、三年前」「大坂陣」は底本は「坂」が「阪」であるが、初版板本で訂した。こういった場合、慶長一九(一六一四)年十一月の「大坂冬の陣」を指すのか、慶長二〇(一六一五)年五月の「大坂夏の陣」のかよく判らない。ただ、同前後の戦さは七ヶ月のスパンは実質半年ほどしかないから、前者起点でよかろう。

「駿河府中」德川家康の居城駿府城の御府内。東海道五十三次でも府中宿と称した。現在の静岡市の中心部。

「いんれい町」不詳。高田衛編「江戸怪談集(中)」も同前。しかし、以下の「狐崎」と規定の府中宿)「原田次郞左衞門宿」とは原田が旅館業をしており、そこが作者正三の定宿であったと私はとる)との相関関係から、この中央附近に相当すると考える。

「狐崎」静岡市葵区柚木(ゆのき)と駿河区曲金(まがりかね)の間の道沿いにある地域の俗称。幕府を追われた梶原景時が一族とともに戦死した地と伝えられる。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「四 人を咀ふ僧忽ち報いを受くる事 附 火炎の報いの事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村(あえばこうそん)校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    人を咀(のろ)ふ僧忽ち報いを受くる事

     火炎(ひあぶり)の報いの事

 寬永十八年十月、本秀長老、三州より、濃州(ぢようしう)池田の近處(きんじよ)、「中の鄕」と云ふ處へ行き給ふ。彼處(かのところ)に文秀と云ふ僧、十二、三年、徧參して、後(のち)、引寵居(ひきこみゐ)たり。

 彼(かの)文秀、大作(おほづく)りなぞし、利錢賣買(りせんばいばい)のわざを爲し、世を渡るなり。去程(さるほど)に、庄屋の女の爲に、女難を受けたり。

 是を知りたる者、一人あり。

 此者の方へ、女の方より金子二兩、亦、坊主の方より、金子二兩、出(いだ)して、

「是を、能々(よくよく)隱してくれよ。」

と賴むなり。

 彼(か)の者、

「尤も。」

と云うて金子を取り、頓(やが)て人に語るなり。

 此時、文秀、腹を立ち、人形を作り、ふしぶしに、刀を作りさして、彼(かの)者を强(つよ)く咀ふ程に、やがて、のろひ殺すなり。

 然(しか)るに、彼(か)の文秀、七日を過ぎざるに、狂氣して、赤裸になりて、かけ回ること、鳥獸(とりけだもの)の如し。

 少しも立留(たちど)まれば、地より釼(つるぎ)出でゝ、足をつらぬくと云うて、走るなり。

 取り付く草木(くさき)も、皆、釼なり。

「あら、おそろし、あら、おそろし。」

と云うて、飛びありくこと、二日三夜(ふつかみよ)なり。

 處の代官、是を聞いて、

「捨て置くことも、いかゞ。」

と云うて、追ひ回し、たゝき伏せて、とらへ、馬に乘せて鄕中(がうちう)へ來(きた)る。

 馬の上にても、

「釼に貫拔(つらぬか)る。」

とて、悲(かなし)むなり。

「牢を入れて、處の者に番をさせ置きたるを見たり。」

と、本秀、慥(たしか)に語り給ふ。

 「剱樹刀山」と云ふこと、明かなることなり。

[やぶちゃん注:「寬永十八年」一六四一年。

「本秀長老」既出既注

「濃州池田の近處」「中の鄕」旧池田郡中郷村であろう。現在の安八(あんぱち)郡輪之内町(わのうちちょう)中郷(なかごう)。

「徧參」底本は「偏參」だが、初版板本15コマ目)で訂した。「遍参」とも書き、「へんざん」とも読む。「遍(あまね)く参学する」の意で、禅僧が諸国を歩きまわり、各地の優れた高僧から、広く教えを受けることを言う。

「大作(おほづく)り」多くの土地を手に入れ、耕作をすること。但し、晴耕雨読というのではなく、「利錢賣買のわざを爲し、世を渡るなり」と言っているから、小作人に労役させていたものであろう。

『此者の方へ、女の方より金子二兩、亦、坊主の方より、金子二兩、出(いだ)して、「是を、能々(よくよく)隱してくれよ。」と賴むなり。彼(か)の者、「尤も。」と云うて金子を取り、頓(やが)て人に語るなり』これは、思うに、持っていることがまずい不当利益を双方が交換して、隠し持ったということであろう。仮に発見された時のためには、女は「寺修繕のための布施」、男は「処方の信者の義援金」とでも表書きを記して封を打っておけばよい。しかし、どうも、そんなことは自分ですればよいことであり、ここには、その交換という奇妙な行為の中に、女と僧が肉体関係を持っていたことを暗示させていると考えるのが妥当だろう(それこそが前の「女難」の真意である)。さればこそ、女犯(にょぼん)に手を染めた僧は、ダメ押しで女を呪い殺すという大罪によって、生きながらにして「剱樹刀山」――刀剣を山や樹のように逆さに立て、その上を歩かせる地獄――に落ちるという風に考えると、私は腑に落ちるのである。最後にどうなったかまで書かないのは、まかりなりにも「徧參の僧」であったことを汲んだものか。]

 

○江州佐和山にて、さる人、下女を炬火(たいまつ)を以て、炙殺(あぶりごろし)しけり。

 然(しか)るに、彼(か)の人、火(ひ)の病(やまひ)を受けて、總身、燃るなり。

「早く、水を、くれよ。」

と云ふ間、いそぎ、水を持來(もちきた)れば、

「是れ、更に、水にて、なし。」

と云うて、呑むこと、不ㇾ叶、

「然(さ)あらば。」

とて、大半切(おほはんぎり)に水を入れ、篠(さゝ)の葉などにて、露を掛(かけ)て見けるに、滴り、身に落つるを、其れも火なり。

「やれ、あつや、堪難(たへがた)や、いかにも、皆、知らず、總身(そうみ)、火に燃る、」

とて、悲(かなし)むほどに、祈念に名を得たる眞言坊主を賴み、大法・秘法を行ひ、樣々(さまざま)、加持しけれども、水、呑むこと、不能(あたはず)、只、

「水、水、」[やぶちゃん注:後者は底本では「々」。]

と云ふばかりにて、七日に燒死(やけし)にけり。

 慥かに知る人、語るなり。寛永十七年のことなり。

[やぶちゃん注:症状としては「平家物語」の清盛の死でお馴染みの、最も重篤な、最後には「脳が解ける」とも表現される熱性マラリアであろう。

「江州佐和山」滋賀県彦根市佐和山町(さわやまちょう)。

「大半切」底の浅い盥状の桶の大きなもの。

「寛永十七年」一六四〇年。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「三 幽靈夢中に人に告げて僧を請ずる事 附 血脉を乞ふ事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村(あえばこうそん)校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    幽靈夢中(むちう)に人に告げて僧を請(しやう)ずる事

      血脉(けちみやく)を乞ふ事

 小田原、氏直(うぢなほ)の老臣某(なにがし)、或時、主君氏直公の、三十三年忌を吊(とむら)はんと欲(す)る時、夢中に、氏直、來り、彼(か)の老臣に向つて、

「汝が心(こゝろ)、替(かは)るゆゑ、我、亡びたり。汝、逆心の恨(うらみ)は、云ふばかりなし。乍去(さりながら)、今、我忌日(きにち)を吊はんと思ふこと、祝着(しうちやく)なり。然(しか)らば、只、塔の澤の山居(さんきよ)、僧を供養すべし。其仔細は、彼(か)の和尙、每朝、念比(ねんごろ)に、法界を憐(あはれ)み、生飯(さば)を取り給ふ。それが屆き、每朝(まいあさ)、食するゆゑに、終(つひ)に餓鬼の若(く)を免(まぬか)れて居(ゐ)るなり。是に何とも御禮申すべき樣(やう)なし。然る間、此和尙を、念比に馳走してくれよ。」

となり。

 老臣、夢、覺め、則ち、彼の忌日に、山居の和尙を慇懃(いんぎん)に供養せしとなり。

 是、久しき物語なれども、慥(たしか)なることなり。爰を以て思ふに、出家などは、生飯(さば)を取らず、牛馬(うしうま)の物喰(ものく)ふ樣(やう)に、めたと、喰ふ筈(はず)にあらず。眞實に、生飯をも取り、眞實に、法界に回向(ゑかう)すべきことなり。

[やぶちゃん注:「氏直」後北条氏第五代当主北条氏直(永禄五(一五六二)年~天正一九(一五九一)年)。彼は天正八(一五八〇)年八月十九日に、父氏政の隠居によって家督を継いでいる。天正一八(一五九〇)年の秀吉による「小田原攻め」で敗北、氏直自身が切腹するという条件で将兵の助命を請うて、降伏した。父氏政及び叔父氏照は切腹となったが、秀吉は氏直の申し出を神妙とし、家康の婿(正室督姫(とくひめ)は家康の娘)でもあったことから助命され、高野山にて謹慎した。翌天正十九年の二月には、秀吉から家康に赦免が通知され、同年五月上旬には大坂の旧織田信雄邸を与えられ、八月十九日に秀吉と対面して正式な赦免と、河内及び関東に一万石を与えられて豊臣大名として復活したが、同年十一月四日、享年三十で大坂で病死した(「多聞院日記」によれば、死因は疱瘡とされる)。なお、この北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続している(以上はウィキの「北条氏直」に拠った)。

「三十三年忌」氏直の祥月命日は十一月四日で、寛永元(一六二四)年。

「祝着(しうちやく)」底本は「祝者」であるが、初版板本(一括PDF)の13コマ目を視認したところ、正しく「祝着」となっていたので、かく、した。

「塔の澤」現在の塔ノ沢温泉。戦国時代、既に温泉があり、後北条氏が支配していた。そこに旧北条氏の山荘もあったのであろう。江戸時代は江戸幕府が管理した。

「生飯(さば)」「生飯」の唐音「さんぱん」からとされる。「散飯」「三把」「三飯」などとも書き、食事の際、自分の食物から取り分けた飯粒。屋根などに置いて、鬼神・餓鬼に供え、鳥獣に施すもの。「さんば」(初版板本ではそれで振られてある)「さんばん」とも。]

 

○上野(かうつけ)新田(につた)、玉眼院(ぎよくがんゐん)、守作(しゆさく)長老、門前の老婆、日比(ひごろ)、血脉(けちみやく)を望めども、何彼(なにか)と延引す。

 老婆、程なく死す。

 長老、終(つひ)に血脉を授けず、引導し給ふ。

 五日過ぎて、日暮(ひくれ)に、彼(かの)老婆、來つて、茶堂(さだう)に居(きよ)す。

 長老云(いは)く、

「汝は死したるが、何とて來(きた)るや。」

 答へて云ふ、

「日比、望み申す御(おん)血脉を授け給へ。」

 長老、

「實(げ)に、尤もなり。」

とて、室間(しつのま)に入りて、認(したゝ)め、授け給へば、

「御利益に預かること、忝(かたじけな)し。」

と悅ぴて、頂戴して云ふ、

「貧女なれば、何にても、布施物(ふせもの)、なし。持ち合(あは)せける。」

とて、錢(ぜに)三文、献ずるを、請け取り給へば、即ち、失せて、影もなし。

「不思議なり。」

とて、塜
を見せ給へば、血脉、塜の上にあり。

 守誾(しゆぎん)と云ふ庫裡坊主(くりばうず)は、長老、血脉を認め給ふ中(うち)、老婆と向居(むきゐ)たり。

 長老、後(のち)に守誾を呼出(よびい)だし、愚國和尙に語り給ふ、

 我、愚國和尙より、聞くなり。寬永六年のことなり。

[やぶちゃん注:「上野新田、玉眼院」群馬県太田市大字東金井町にある曹洞宗玉巖寺であろう。

「守作長老」不詳。

「血脉」在家の受戒者に仏法相承の証拠として与える系譜。「けつみやく」とも読む。

「守誾」不詳。「誾」は「穏やかに是非を論じるさま」を言う。

「庫裡坊主」禅寺では、学僧を中心として住僧以下の僧侶や仏前に供える食事を調理する場所を「庫裏」(「裡」は俗字)と称し、僧堂も兼ねるので、そうした食膳担当や下働きをする僧であろう。

「愚國和尙」不詳。

「寬永六年」一六二九年。]

 

○三州賀茂郡(かもぐん)、九牛平(くぎうだいら)の内、「梅がたわ」と云ふ村に、何某(なにがし)と云ふ者の女房、膈(かく)の病(やまひ)を受け、七十日が間(あひだ)、食すること、叶はず。

 種々(しゆじゆ)、養生祈念などすれども、治(ぢ)せず。

 此時、岡崎より、「朝日」と云ふ「みこ」を喚(よ)び、よりを立(た)て、祈らせければ、より、口走りて、

「我は、百五十年前に、此屋敷を取立(とりた)てたる主(ぬし)なり。死してより此方(このかた)、世界に居所(ゐどころ)なく、餓鬼の若(く)を受くるなり。便(たよ)る處なきゆゑに、此屋敷を便りて、此女に憑きたり。命(いのち)の義は、取るまじ。我を吊(ともら)うてくれよ。」

と云ふ。

 時に、

「望(のぞみ)を叶へん間(あひだ)、何(なに)にて吊ふべきか、望め。」

と云ヘば、

「足助(あすけ)に香積寺(かうしやうじ)と云ふ寺あり。彼(かの)寺の住持、本秀和尙の血脉を申し請け、施餓鬼を賴みくれよ。」

と云ふ。

 則ち、香積寺に使(つかひ)を立て、賴む。

 和尙、即ち、血脉を授け、下火(あこ)を爲(な)し、使の者に向ひて、

「其方にて、火をきよめ、食を炊(かし)ぎ、新らしき天目(てんもく)三つに盛り、一盃は血脉、一盃は萬靈(ばんれい)、一盃は病人に備へ、一門共、盡(ことごと)くより、念佛申すべし。晚の五(いつ)つ時分より、爰元(こゝもと)にて吊ふ間、左樣に心得べし。若(も)し、病者、食を好むことあらば、其病者に備へたる、食を、くはすべし。」と云ひ付けて、返し給ふ。

 其夜、施餓鬼をよみ、眞實(しんじつ)に吊ひ給ふ。

 然(しか)るに、彼(かの)病者、其夜、四(よ)つ時分、食を乞ふ。

 則ち、彼の一盃の食を與(あた)ゆれば、皆、喰(く)ひ、

「まだ、喰はん。」

と云ふに、血脉の食(めし)を、半分、くはすれば、病者、

「ころころ」

と眠り入(い)る。

 明くる日、四つ時分まで、いね、起きて、本復し、行水す。

 餘り、能く治(をさ)まりけるゆゑ、親類共、「朝日」をよび、口を寄せければ、口走りて、

「我、百五十年、流轉せしに、御吊(おんとふら)ひ故に若患(くげん)を離れたり。能く御禮申してくれよ。」

と云ふ。

 彼(か)の親類共、禮の爲め、香積寺へ來(きた)る。

 其後(そのゝち)、山中にて、本秀和尙、具(つぶさ)に語り給ふ。

 折節、我弟(おとゝ)、大坂より來合(きあ)ひて、肝を銷(け)し、便(すなは)ち、本秀和尙の血脉を授かりて歸る。則ち、夫婦の血脉、二本、申請(まをしうけ)たり。

 寬永の末(すゑ)の事なり。

[やぶちゃん注:最後の正三の弟の絡み部分によって、事実性が強力に補強されている

『三州賀茂郡、九牛平(くぎうだいら)の内、「梅がたわ」と云ふ村』愛知県豊田市九久平町(くぎゅうだいらちょう)の、恐らくは梅ノ入(うめのいり)地区附近ではないかと思う。但し、航空写真に変えてみても、現在は全くの山間で、人家があるようには見えない。

「膈」胃が物を受けつけず、吐き戻す症状を指す。

「岡崎」現在の愛知県岡崎市。九久平町は北の直近ではある。

「よりを立て」依代に霊を憑依させて。この場合は、巫女自身がそれである。

「足助(あすけ)」「香積寺(かうしやうじ)」愛知県豊田市足助町(あすけちょう)飯盛(いいもり)にある曹洞宗飯盛山(はんせいざん)香積寺(こうじゃくじ)。

「本秀和尙」複数のサイトで香積寺の寛永年間頃の第十一世住職に参栄本秀(三栄と表記する場合もあり)の名を見出せる。

「晚の五つ時」暮五ツは午後八時前後。

「夜、四つ時」暮四ツは午後十時前後。

「明くる日、四つ時分」明四ツは午前十時前後。

「百五十年」最後の「寬永の末」を末年とすれば、寛永二一(一六四四)年で、機械換算すると、明応三(一四九四)年で戦国最初期。]

2022/10/01

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「二 幽靈夢中に僧に告げて塔婆を書直す事 附 書寫を請ふ事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村(あえばこうそん)校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

   二 幽靈夢中に僧に告げて塔婆を書直す事

     書寫を請ふ事

 尾州知多郡(ちたぐん)、天外長老、相識(さうしき)の弟子、七本卒都婆(しちほんそとば)を麁相(そさう)に書きければ、住持の夢に、彼の者、告げて、

「家、弱くして、雨風にたへず。願くは、强く成して給へかし。」

と云うて、起しけり。

 夜明けて、七本卒塔婆を見給へぱ、文字、麁相に走り書きなり。即ち、書直し、立てけり。

 それより、彼(かの)弟子、驚きて、塔婆を眞(しん)に書きけり、と。

 天外和尙の物語り、直(ぢき)に聞くなり。

 總じて、佛行(ぶつぎやう)は、眞實の志(こゝろざし)を以て勤むべきなり。眞實の志、無くんば、何の功德もなく、剩(あまつさ)へ、惡業(あくごふ)の因となるべし。

[やぶちゃん注:「天外長老」不詳。

「相識」互いによく知っていること。昵懇。

「七本卒都婆」死後七日目毎に一本ずつ、四十九日まで立てる、七本の卒塔婆。卒塔婆は本来は供養の五輪塔の代わりであるからして、それは廟(みたまや)=塔堂と同義である。「地水火風空」の字はそれぞれの堅固な結界を示すのであれば、「家、弱くして、雨風にたへず。願くは、强く成して給へかし。」という懇請は極めて腑に落ちるのである。]

 

○周防(すはう)の國府中(ちう)、河原(かはら)と云ふ處に、幽靈、多し、と云へり。

 彼の村の庄屋、彥左衞門と云ふ者の處へ、泰村(たいそん)と云ふ僧、一宿す。

 夢に、若き女(をんな)の、裳(もすそ)を血に染め成したるが、來りて、

「經を書きて吊(とむら)ひ、御結緣(ごけちえん)あれ。」

と云ふ。

 不思議に覺えて、夢、醒めたり。

 暫くあつて、現(うつゝ)に、彼(かの)女、來(きた)る。

「何ごとぞ。」

と云へば、必ず、經を書き、吊ひ給へ。」

と云ふ。

 魘(おそろ)しくして、物言ふこと不叶(かなはず)、守り居(ゐ)たるに、椽(えん)より、飛び出でゝ行く。

 夜明けて、亭主に語れば、

「それは、我娘なり。難產にて果てたり。幸ひ、今日(こんにち)、忌日(きにち)なり。年比(としごろ)も違(たが)はず。」

と云うて、歎くなり。

 泰村も俄かに經を書くこと、叶はず、「法華脛」五の卷を讀み吊ひたり、と語りけり。

 正保四年に聞く。寬永の始めの事なり。

[やぶちゃん注:「周防の國府中」「河原」山口県防府市上右田上河原(かみみぎたかみがはら)附近か。

「裳(もすそ)を血に染め成したる」民俗社会では、このままでは、彼女は「産女(うぶめ)」に変じてしまうのである。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)』や、「宿直草卷五 第一 うぶめの事」を参照されたい。

「居(ゐ)たる」ここで言っておくと、本書では「居」を「をり」「をる」と訓ずるものは一つもない。これは特異点である。

「正保四年」一六四七年。寛永の後。寛永は二十一年までで、一六二四年から一六四四年まで。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版)始動 / 饗庭篁村序・雲歩和南序・上卷「一 亡者人に便りて吊を賴む 附 夢中に吊を賴む事」

 

[やぶちゃん注:著者鈴木正三(しょうさん 天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年)は元は三河武士で、臨済僧にして仮名草子作者。通称は九太夫。名は重三。「正三」は法号(これが本名で「しょうぞう」であったとする説もある)。徳川家康・秀忠に仕え、「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」に参加したが、元和五(一六一九)年の大坂城番勤務の際、同僚であった儒学者から、「仏教は、聖人の教えに反する考えで、信じるべきではない。」との意見に激しく反発し、その論難書「盲安杖」(もうあんじょ)を書くと、翌年、四十二歳で出家してしまった。旗本の出家は禁止されていたが、主君の秀忠の温情で罰せられることもなく済み、正三の家督も、秀忠の命で、養子を迎え、存続が許されている。その後、越前大安寺の大愚宗築、京の妙心寺の愚堂東寔(とうしょく)、江戸では起雲寺の万安に師事し、諸国を遍歴修行した後、三河の石平山恩真寺(せきへいざんおんしんじ)に住んだ。寛永一四(一六三七)年の「島原の乱」では、僧として切支丹を排撃していたことから、志願して従軍している。後、江戸の牛込天徳寺境内の了心庵に移り、庶民に仁王坐禅を説いた。著書に「万民徳用」「驢鞍橋」(ろあんきょう:弟子の編した彼の語録)、キリシタン駁論書「破(は)吉利支丹」・「でうす物語」、また本書の他、仮名草子では蘇東坡の「九相詩」を翻案して導入、仏理を説いた「二人(ににん)比丘尼」や「念仏草紙」などがある(以上は諸百科事典を複数元にした)。

 本「因果物語」は、当該ウィキによれば、『鈴木正三が生前に書き留めていた怪異譚の聞き書きを』、『弟子たちが』没後六年後に寛文元(一六六一)年に『出版した』ものであるが、刊本経緯には諸事情がある。以下に電子化する片仮名本「因果物語」(全三巻)はその『年に刊行されたが、これは、それ以前に』、『正三の戒めに反して』、『勝手に平仮名本が刊行され』、『その内容には』、『偽作されたものなどが含まれていたため、弟子たちが正本として発表したものであり』、『片仮名本の序文を書いた』正三の弟子『雲歩和尚』(「和南」の誤読。後注参照)『は、先行して世に出ていた平仮名本を「邪本」と呼んで非難している』。『鈴木正三は』寛永四(一六二七)年から、怪異譚の聞き書きを始めたとされているが、その目的は集成、出版ではなく、仏教的な内容の講話のための素材の収集にあったと考えられて』おり、各説話は正三自身が見聞した諸国の怪異譚の聴書であり、総てが怪異趣味が目的ではなく、あくまで仏教的因果応報の事実として、時・場所・名などを掲げて、言い添えで、「確かに語られた事実である」「実見した人も多い」と語って、真実性を強調している(これは、本篇の冒頭の五話を見ても、よく判る。これは所謂、創作としての怪奇談集としてではなく、確かな本当に起った仏教説話、実話怪奇教訓談、として正三は書いているのである)。少なくとも、その内容は『鈴木が文学的潤色を加えずに、民衆の間の伝説類を書き記したものと』信じられるものである。『しかし、こうした仏教説話としての性格をもっていた』「因果物語」ではあったが、その後の太平の世にあっては、『娯楽としての草子の』怪異談の格好の『題材となることで性格を変化させることとなった』。『挿画も入り、浅井了意などが関わって膨らまされたと見られる平仮名本は、片仮名本以上に普及し』、『版を重ね、後世に大きな影響を残し』、正三の意思に反して、怪奇談集の嚆矢としてもて囃されることとなった。なお、平仮名本は私の好きな浄土真宗僧であった浅井了意が改変作者の一人と目されている。

 底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村(あえばこうそん)校訂になる「因果物語」(片仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記に変更されており、助動詞などの一部の漢字もひらがな化されてあって、非常に読み易い)を使用した。この古本は思い出深いもので、十二年ほど前、磯子の老女主人の忘れられたような時間の止まった感のある古本屋で見つけたもので、「ぼろぼろだから二十円でいいよ。」と言われ、ぐっと目頭が熱くなって、「百円で買います。」と応じたものだ。そうしたものだから、以下に表紙・背・裏表紙、及び、扉の画像のみを添えておく(電子化はしない)。扉の後ろにある「名著文庫」の「冨山房編輯局」の辞は無縁なのでカットする。本文の手前に「目次」があるが、これは総てが終わってから、電子化する。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。漢字は、原本に可能な限り、忠実に再現し、同一の字がフォントとして再現出来ない場合は、最も近い異体字或いは「※」として、後に字体を注で説明した。例せば、「塚」は多くが「塜」であり、「苦」は総てが代用異体字「若」である。但し、底本のその字体は「若」とは若干異なり、第五画の払いの端が「口」より先には出ていないのだが、「苦」とは明らかに違うので、「若」と示した。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は漢字表記・読みなどの不審箇所を校合するのに用いた。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののにみ限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

Ingamonogatari1

 

Ingamonogatari2

 

[やぶちゃん注:以下、校訂者で小説家・劇評家の饗庭篁村(安政二(一八五五)年~大正一一(一九二二)年)の解題。彼は江戸生れで、本名は与三郎。。明治七(一八七四)年、読売新聞社に入社し、明治十九年に小説「当世商人気質(とうせいあきゅうどかたぎ)」や「人の噂」を連載して認められた。同二二(一八八九)年には東京朝日新聞社に移り、劇評や江戸文学研究に力を注いだ。

 太字は底本では傍点「﹅」。なお、この解題は囲み罫線とノンブルも含め、全部が明るい紫色で印刷されてある。]

 

   解   題

 

此書の作者鈴木正三は三河の人にして、德川旗下の士なり。其先は熊野八庄司より出で、世々武名あり。關ケ原および大坂兩度の陣に功ありしが、若きより佛法を信じ、生死の理に疑を抱きたりしを、戰場の有樣に於て悟るところあり、生死を出離するは只管勇猛精進の修行によりて得べしとて、四十二歲にて遁世し、千難萬苦をものともせず諸國を遍歷して、師を訪ひ道を尋ね、奮鬪的捨身の行をなして、寒暑饑渴の苦、身心を冐さゞる[やぶちゃん注:底本では、「冐」の上部は「回」であるが、表記出来ないので、「冒」(をかさざる)の異体変字と断じて、かく示した。]に至り、三河國石平山に入りて、座禪觀法す。こゝに至りて其德四方に傳はり、僧俗したがひて其法話を聞く者多し。(此の書も其信徒が出費して開板したるものなりちものなり)正三一處にとどまらず、山を出で、また諸國に巡錫して僧俗を化度し、後に江戶に出で、神田鈴木町(即ち正三入道の家を繼ぎし舍弟鈴木兵衞左衞門の賜邸地なるゆゑ、其名を町名に呼びしなり)の舍弟邸宅内の一小室に於て寂す。ときに明曆元年六月二十五日、行年七十七歲、著はすところ、此書の外「盲安杖」「驢鞍橋」「二人比丘尼」等あり。其の說くところ、出隱生死の一大事にありて、勇猛精進を說きて、孤弱懈怠をゆるさず。盲安杖に曰く「石火電光目の前なれども、無常幻化なることを知らず。まことに衣鉢を首にかけ、出離の道に入て、諸法空なることを修行する人も、つひに常住の機はなれがたし。されば此身をまつたく思ふが故に、日夜のくるしみやときなし。まことに身をおもふ人ならば、すみやかに身をわすれよ若患[やぶちゃん注:「若」は「苦」の代用字で、二字で「くげん」と読む。この代用字は頻繁に本書に出現するので、一々注することは避けるので、悪しからず。]いづれのところより出るや、唯これ身を愛する心にあり、とりわけ武士の生涯は、生死を知らすば有るべからず、生死を知る時はおのづから道あり云々」まことに例法の奧儀を說くが如し。勇武の士、一たび首を廻らして佛門に入り、剛氣熾盛、煩惱をも焚き盡すべく、死生の難關も踏破るべし。德川初世の幕下の士、風塵の外に脫出したる者、詩に石川丈山、佛門に正三入道ありと併稱せらる。正三俗稱は九太夫、石平道人と號す。

              篁  村

[やぶちゃん注:「石川丈山」(いしかわじょうざん 天正一一(一五八三)年~寛文一二(一六七二)年)は漢詩人・書家。本名は重之。徳川家の家臣であったが、「大坂夏の陣」で、軍規を犯したことから、辞して剃髪、後に藤原惺窩(せいか)に儒学を学び、比叡山麓に詩仙堂を建て、文筆生活に専念した。著に「詩仙詩」・「詩法正義」などがある。

 以下、正三の門人であった雲歩和南の序。序文本文活字は有意に大きいが、本文と同ポイントとした。]

 

 

佛祖世に出で種々(しゆじゆ)方便を垂れ、譬喩言詞(ひゆごんし)を以て苦(ねんごろ)に因果の道理を設示(せつじ)し給ふといへども、年代深遠にして信ずる者少也(すくなし)。故(かるがゆゑ)にや正三老人因果歷然の道理(ことわり)面前の事ども記し認(とゞ)めて、以て諸人(しよにん)發心の便りと爲さんと誓ふ。師昔日(そのかみ)、人の來り左(さ)の如きの事を語る每(ごと)に、箇樣(かやう)のことを聞捨(きゞずて)にするは無道心(むだうしん)の至り也、末世の者如ㇾ是(かくのごとき)の事を以て不ㇾ救して何を以か救はんやと云うて、是を集む。誠(まこと)なる哉、一念の業(ごふ)に因(よつ)て苦樂順逆忽ちに相酬(あひむく)う、一念の用に因て成佛墮獄有り、一念の執(しふ)に因て怨靈鬼神(をんりやうきじん)と成り、一念の迷ひに因て永劫の輪廻と成る事眼前に書記(かきしる)せり。殊に此物語は元亨釋書(げんかうしやくしよ)、砂石集(しやせきしふ)に、載る所よりも證據(しようこ)正しくして、初心の人の爲に大幸(たいかう)ありといへども只今現在する人の假名(けみやう)有之(きれある)を以ての故に、門人堅く秘して世に不ㇾ出(いださず)也。然るに頃(このご)ろ犯す者あり、竊(ひそか)に寫し取(とり)て猥(みだ)りに板行(はんかう)す。剩(あまつさ)へ私(わたくし)に序文を作(な)し、恣(ほしいまゝ)に他の物語を雜入(ざふにふ)して人を瞞(まん)する事不ㇾ少(すくなからず)、斯(こゝ)に於て弟子等(ら)止(やむ)ことを不ㇾ得(えず)、師の正本(しやうほん)を以て梓(し)に鏤(ちりば)め、邪本(じやほん)の惑(まどひ)を破らんと欲す。若し人(ひと)邪(じや)を捨て正(しやう)に皈(き)せぱ菩提の勝緣(しようえん)此(こゝ)に在也(あり[やぶちゃん注:二字への読み。])。

  寬文辛丑仲秋日

    豐陽久住山下に庵す 雲步和南題

[やぶちゃん注:「和南」が「和尙」でないことは、初版板本8コマ目を見られたい。

 先に述べた通り、この後に続く「目錄」は全電子化注を終えた最後に回す。

 なお、以下本文では、段落を設け、読点・記号等も変更・追加し、読み易くした。一群の話柄の中の、条が変わる箇所は、一行空けた。なお、標題中の「附」は「つけたり」と読む。この注は以降では略す。

 

 

因果物語上卷

       義雲  雲步  同撰

 

     亡者人に便(たよ)りて吊(とむらひ)を賴む事

      夢中に吊を賴む事

 東三河千兩(ちぎり)と云ふ村に、茂右衞門(もゑもん)と云ふ者あり。

 子供三人、靈(りやう)に取殺(とりころ)され、四人目の子に取憑き、口走りて、

「我は此屋敷の主(ぬし)なり。信玄、野田の城を攻め給ふ時、雨山村(あめやまむら)に落ち行くを、「そま坂(ざか)」にて、追詰(おひつ)めて、討たれたるが、今に修羅の若患(くげん)、堪へかたきゆゑに、此屋敷に祟(たゝ)るなり。吊うて助けば、此子を活(いか)さん。」

と云ふ。茂右衞門、聞いて、

「何(なに)と吊ひ申すべし。好み給へ。」

と云へば、

「唯今、死(しゝ)たる如く、禪宗の智識を賴み、棺・旗・天蓋を作り、鈸(ばち)・皷(つゞみ)にて野送りし、下火念誦(あこねんじゆ)にて結緣(けちえん)て、懴法(せんばふ)興行し給へ。」

と云ふ。

 茂右衞門、急ぎ妙嚴寺(めうごんじ)に行きて、牛雪(ぎうせつ)和尙へ、此由を賴む。

 和尙、則ち、正保(しやうほう)二年七月三日に、茂右衞門處(ところ)へ御出(おんい)でありて、好みの如く、吊ひ給ふ。

 一兩日過ぎて、又、茂右衛門、廿(はたち)ばかりなる子に憑いて、口走り、

「吊ひゆゑ、最早、助かりたり。我(わが)名は、『鵜(う)の彥藏(ひこざう)』と云ふ者なり。願(ねがは)くは、屋敷堺(さかひ)に、古塜(ふるづか)あり。注(しるし)の石、取除(とりのけ)てあり。其石を以て本(もと)の如く、塜を築(つ)き給へ。」

と云ふ。

 和尙、指圖して、塜を築かせ給へば、其より、よく、をさまりたり。牛雲和尙より直談(ぢきだん)に聞くなり。

[やぶちゃん注:「東三河千兩(ちぎり)と云ふ村」現在の愛知県豊川市千両町(ちぎりちょう:グーグル・マップ・データ。以下、本書の注では特にこの注記のないものは総て同じとし、注さない)。

「信玄、野田の城を攻め給ふ時」愛知県新城市豊島本城(とよしまほんじょう)に野田城跡がある。信玄がこの城を直接に攻めたのは、信玄最後の戦いとされる、元亀四(一五七三)年一月から二月にかけて、信玄率いる武田軍と徳川家の間で行われた「野田城の戦い」である。武田軍に水を断たれ、城主菅沼定盈(さだみつ)は開城・降伏している。

「雨山村」愛知県岡崎市雨山町(あめやままち)。

「そま坂」愛知県豊川市千両町杣坂(そまざか)。

「下火念誦(あこねんじゆ)」「あこ」は「下火」の仏語に多く用いられる唐音で、禅宗で火葬の際、松明(たいまつ)で棺に火をつけながら、引導を渡す儀式及びその火付け役。後には松明に火をつけずに、偈を唱えて、点火の仕草をするだけになった。

「懴法(せんばふ)」経を誦して罪過を懺悔(さんげ)する法要。「法華懺法」・「観音懺法」などの種別がある。

「妙嚴寺(めうごんじ)」通称の「豊川稲荷」で知られる、愛知県豊川市豊川町にある曹洞宗円福山豊川閣妙厳寺(えんぷくざんとよかわかくみょうごんじ)。

「牛雪(ぎうせつ)和尙」サイト「神殿大観」の同寺のページに、第十二代住持月岑(げっしん)牛雪の名がある。

「正保二年七月三日」一六四五年八月二十四日。]

 

○西三河阿彌陀堂村に、善兵衞(ぜびやうゑ)と云ふ者の門屋(かどや)に貧女あり、娘を一人(いちにん)持つ。

 死して後(のち)、娘に憑き、酒を願ひて飮(のみ)けり。

 娘も、程なく死す。

 二七日目に、善兵衞婦(よめ)、屋敷の茄子、出來(でき)たるを見て、下女に、

「あの茄子を、一つ、喰(くひ)たく思ふ。」

と云ふ。

 下女、

「易き事なり。」

とて、二つ、切(きり)て、與へければ、是を喰て、口走りて云ふ。

「我(わが)死骸に土を被(か)くこと、踈(おろ)かなり。死して二七目になれども、火を燃し、香華(かうはな)を手向くる者、無し。故に闇(くら)さは暗し、飢渴の苦は忍び難し。茄子を喰ひたく思へども、人、與へねば、喰はれず。下女に言はんも、『叱(しかり)やせん。』と思ひて、いはず。唯今、下女、切りて與ゆるゆゑ、望(のぞみ)を叶へたり。只、依草附木(えさうふぼく)の精靈(せいれい)となるばかりなり。あら、うらめしの、一向坊主(いつかうばうず)や。如何樣(いかやう)にもして、淸僧に吊(とむら)はせて給へかし。然(さ)あれば、何寺(なにでら)へなりとも行當(ゆきあた)り次第に、手向(たむけ)の水を受くべしきなり。」

と、さめざめと泣き侘びて賴みけるゆゑ、處(ところ)に無智の僧有るを呼び、施餓鬼を誦(よ)ませ、火を燃(とも)し、水を手向け吊ひければ、早速に、婦(よめ)、本復(ほんぶく)し、重ねて祟ること、なし。

「地下中(ぢげぢう)に男女(なんによ)、集(あつま)り、此若患(くげん)を語るを聞く。」

と、其座に在りし者、かたるなり。

[やぶちゃん注:「阿彌陀堂村」旧愛知県碧海(へきかい)郡阿弥陀堂村であろう。後に愛知県碧海郡畝部村(うねべむら)となり、現在は豊田市南部のこの附近に相当する。

「門屋(かどや)」江戸時代の長屋門の端部屋。また、そこに住んだ隷属農民の呼称でもある。地方によって、「分付(ぶんづけ)」「家抱(けほう)「庭子(にわこ)」「釜子(かまこ)」「鍬子(くわこ)」「名子(なご)」「被官」などとも呼ばれたが、主家への隷属の程度は多様である。一般には、主家から耕地を分与され、独立経営を行いながらも、年貢・諸役は主家を通じて上納し、主家に労役を提供する場合もあった。初期の検地帳には、分付記載され、宗門帳でも、主家の宗門の末尾に付記されるのが普通である。高持(たかもち)百姓ではあるが、村落共同体の成員たる本百姓とは見做されず、墓所なども区別されていた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「依草附木の精靈となるばかりなり」「往生どころか、その辺りの雑草や樹木にとり憑いて魑魅(すだま)となるしかない。」という意か。以上の雰囲気からは、転生したものの、餓鬼道に落ち、しかも現世にパラレルに存在している餓鬼に近い状態でいるものと感ぜられる。

「一向坊主」ただ念仏を唱えれば、極楽往生出来ると信ずる一向宗(浄土真宗)徒。]

 

○江戶、北(きた)七太夫(だいふ)、三十三年忌に、三日、能を爲(し)て、是を佛事とす。然(しか)る處に、父、目前(もくぜん)に來りて云ふ、

「能佛事の功は大切なれども、是にては、佛果を得難し。願くは、禪宗を賴み、懴法を讀み、吊ひ給はゞ、速(すみやか)に佛果を成(じやう)ずべし。」

と。

 即ち、好みの如く、佛行(ぶつぎやう)を成す處に、父、亦た、夢に告げて、懴法の功徳(くどく)にて、成佛を遂げたり。」

と云うて、禮謝す。

 それより、子七太夫も、禪宗に成りたり。

 七太夫子息を、堺の何某(なにがし)と云ふ禪門、養子にして置きける、權七と云ふ者、慥(たし)かに語るを、德首座(とくしゆそ)、聞いて、語るなり。

[やぶちゃん注:「北七太夫」喜多七太夫長能(きたしちだゆうちょうのう/おさよし 天正一四(一五八六)年~承応二(一六五三)年)は能楽シテ方喜多流の流祖。当時は「北七太夫」と名乗り、二代十太夫当能より「喜多」を名乗った。後世、古七大夫(こしちたゆう)とも呼ばれた。詳しくは当該ウィキを見られたいが、そこに、この初代は、『堺の目医者・内堀某の子とされるが、はっきりしない』とあり、最後の記載と親和性がある。『徳川家康に冷遇されたこともあって』、「大坂の陣」では『豊臣方に加わ』ったため、『浪人』し、その間は『京都で遊女に舞を教えるなど、能』からは『一時』、『退いていた』。しかし、元和五(一六一九)年の『徳川秀忠の上洛に際し』、『金剛七大夫を名乗って復帰、以後』、『その愛顧を受けて芸界の首位を獲得する。当時』、『各座の大夫格がいずれも若年であったことも幸いしたと考えられ』、『特に大御所となった後』の『秀忠の七大夫への寵愛は著しく、これに追随する形で黒田長政、伊達政宗、藤堂高虎といった大名たちも七大夫を賞翫した』。寛永四(一六二七)年『頃からは北七大夫を称し』、『一代にして喜多流を創立し、記録に残っているだけでも』一千『番を超える能を舞った七大夫は、秀吉時代から江戸初期を代表する能役者であり、以後』、『彼に並ぶ業績を残した能役者はいないと評価されている』とある名手である。

「三十三年忌」本書の著者鈴木正三と北七太夫は完全な同時代人であるから、初代北七太夫の父親のそれである。]

 

○蒲生飛驒守内衆(うちしゆ)、北河監物(きたがはけんもつ)と云ふ人、浪人の時、女房、奧州にて死す。三歲になる娘を伴れて、肥後の國へ下り、加藤殿へ有り付き、頓(やが)て女房を求めけり。

 此女房、彼の娘を憐むこと、淺からず。

 然るに本(もと)の女房、子の守(もり)に取憑きて、

「唯今の内儀、我娘を愛し給ふこと、忝(かたじ)けなし。」

と禮を云ふこと、度々(たびたび)なり。

 然(しか)る間(あひだ)、子守の祈禱に、「般若」をくり、又、山伏を以て加持すること、切々なり。

 然るに、十五日、廿日程ありて、又は、取付き、口走りける間(あひだ)、後(のち)には禪宗洞家(とうか)の去る寺にて施餓鬼を行ふ。

 然れども、未だ、治まらず。監物、女房の兄弟、中島嘉内、行きて、

「汝は、狐か、狸なるべし。我兄弟にてはあるまじ。にくい奴めかな。」

と云ひけれぱ、

「全く僞(いつは)りなし。我、物、かきて、證據を見せん。」

と云ふ。

「さらば。」

とて、硯・筆・料紙を與へければ、子守は無筆なるに、筆を取りて書ぐに、其儘、姉の手跡なり。

「扨は。疑ひなし。其時、其方は奧州にて死(しゝ)たる者が、子の守に憑いて煩(わづら)はすること、以ての外の僻(ひが)ごとなり。隨分の侍の娘なるに、何(なに)とて斯樣(かやう)に、愚痴、强きぞ。」

と云うて、耻(はぢ)しめければ、

「我、死する時、あかぬ別れの悲(かなし)み、少しの妄念、今に殘りて、如此(かくのごとく)なり。」

と云ふ。

「扨。吊ひたる品々の功德、報いたるや。」

と問へば、

「皆々、存知たり。それは、行者(ぎやうじや)ども、我等を畏(おど)して行ふゆゑに、功德、なし。流長院(りゅうちやうゐん)の施餓鬼ばかり、淸淨(しやうじやう)にて、水も請けたり。然(しか)れども、長老、眞實に憐(あはれ)む志(こゝろざし)なきゆゑ、佛經の功德ばかり中途に受けたり。」

と云ふ。

「長老、請込(うけこみ)よくば、成佛すべしや。」

と問へば、

「尤もなり。」

と云ふ。

 即ち、寺へ行き、長老に、此由(このよし)、具(つぶ)さに語り賴み入れけり。

 長老、合點して、死(しゝ)たる時の如く、龕(がん)を拵へ、野邊送りし、下火念誦、作法に、急度(きつと)、吊ひ給ふ。

 其後、(そののち)、また、腰元使(こしもとつか)ひの女に取り憑き、口走り、

「唯今、妄執の若患を離れて浮ぶなり。」

と云ふなり。

[やぶちゃん注:「蒲生飛驒守」蒲生秀行(天正一一(一五八三)年~慶長一七(一六一二)年)は蒲生氏郷の嫡男で陸奥会津藩主。従四位下飛騨守。

「北河監物」不詳。

「肥後の國」「加藤殿」肥後熊本藩初代藩主加藤清正(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)か。

『「般若」をくり』「くり」は「繰る」で「めくる」。ここは「般若波羅蜜多心經」(はんにゃはらみったしんぎょう)を何度も唱え、の意。

「切々なり」心を込めてする様子を言う。

「禪宗洞家」曹洞宗。

「流長院」現在の熊本県熊本市中央区壺川(こせん)に曹洞宗広徳山流長院があり、創建は慶長五 (一六〇〇) 年とする。

「長老」禅宗では一寺の住持、又は、それ以上の高徳の僧を指す。

「龕」この場合は棺桶の意。]

 

○攝州富田町(とんだまち)に、喜右衞門(きゑもん)と云ふ者あり。弟(おとゝ)は雲居(うんこ)和尙の敎化(きやうげ)を受け、菩提心、發(おこ)る故に、父の讓り、銀廿貫目ありけるを、兄の喜右衞門に渡す。喜右樹門、

「我々も、卅貫目、讓銀(ゆづりぎん)、請取(うけと)る故に、商ひ、本手(もとで)あり。其方(そのはう)、菩提の爲(ため)に使へかし。」

と云ふ。

「いや、親の讓(ゆづり)を、むざと使ふこと、不義なり。若(も)し、用所(ようじよ)あらば、使ふべし。先々(まづまづ)。」

と云うて、渡す。

 故に、兄、請け取り、商ひして、豐かに世を送りけり。

 かくて、寬永二十一年三月、喜右衞門、煩ひ付き、末期に及ぶ時、弟、來りて、臨終を勸め、往生を遂させけり。

 近き村の者、江戶へ商ひに行きけるが、箱根山にて、彼(かの)喜右衞門、出で向ひ、

「我(わが)宿(やど)へ、傳言(ことづて)せん。」

云ふ。

「何事ぞ。」

と問へば、我(わが)遣財(ゐざい)を以て、能々(よくよく)吊ひをなし給へ。飢渴寒熱(きかつかんねつ)の若患、限りなし。日々(にちにち)、靈供(りやうぐ)・茶湯(ちやたう)を手向け、僧を供養すべし。」

と云ふ。

「印(しるし)なくんば、叶ふべからず。」

と云へば、着物(きるもの)の左の袖を渡す。

 彼(かの)者、是を持ち歸つて、一門中に見せて、言傳(ことづて)の趣き、委(くわ)しく語りければ、驚き、手を拍(う)ちて、即ち、導師に告げ、樣々(さまざま)吊ひけり。隱れなきことなり。

[やぶちゃん注:

[やぶちゃん注:「富田町」現在の大阪府高槻市富田町(とんだちょう)か。

「雲居(うんご)和尙」底本は「うんこ」であるが、初版板本11コマ目)で訂した。「松島町」公式サイトの 「松島博物館探訪 」の「第五巻」の「雲居(うんご)禅師筆額」に、『雲居希膺(きよう)は天正』一〇(一五八二)年『に伊予国(現愛媛県)で生まれ、その後京都の妙心寺』『に入り、一宙和尚』『について修行しました』。『雲居の高名が政宗に伝わり、瑞巌寺の住持に懇請しましたが、雲居は固辞しました。政宗は雲居が考えを変えないのを敬慕し、洞水東初(どうすいとうしょ)を遣わしました』。『雲居は洞水の説得を受け入れ、政宗は到着を待ちましたが、亡くなりました』。『二代忠宗は政宗の遺志を重んじて、使者に途中まで出迎えさせ、雲居は寛永』一三(一六三六)年、『瑞巌寺九十九世の住持になりました』。『雲居は瑞巌寺の臨済宗妙心寺派としての基礎を築き、陽徳院や大梅寺(現仙台市太白区)の基礎も形成しました』とあり、額の画像と筆額文の訓読も電子化されてある。

「寬永二十一年」一六四四年。]

「新御伽婢子」目録 / 「新御伽婢子」電子化注~完遂

 

[やぶちゃん注:ここでは、底本の早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの冒頭(本巻一括(巻一・二・三のカップリング)PDF版の4コマ目から7コマ目まで)の「目録」を、ここでは、歴史的仮名遣他の補正を一切せずに、そのままの読みを掲げておく。]

 

新御伽婢子巻一

    目録

  男自慢(をとこじまん)

  化女髻(けぢよのもとゞり)

  蟇㚑(ひきのれう)

  髑髏言(どくろものいふ)

  死後血脉(しごのけつみやく)

  火車櫻(くわしやのさくら)

  亡者廽向誂(もうじやゑかうあつらふ)

  遊女猫分食(ゆふぢよねこのわけ)

 巻二

  生恨(いきてのうらみ)

  古蛛恠異(こちうのけい)

  古屋剛(こをくのかう)

  女生頸(おんなのいきくび)

  人喰姥(ひとくいうば)

  後世美童(こうせいのびどう)

  水難毒蛇(すいなんのとくじや)

  髮切虫(かみきりむし)

  雁塚昔(がんづかのむかし)

  樹神罸(じゆじんのばつ)

 巻三

  則身毒蛇(そくしんのどくじや)

  夢害妻(ゆめにさいをがいす)

  死後嫉妬(しごのしつと)

  雨小坊主(あめのこぼうす)

  兩妻割ㇾ夫(りやうさいをつとをさく)

  夜陰入道(やいんのにうだう)

  旅人救ㇾ龜(りよにんかめをすくふ)

  野叢火(やさうのひ)

  血滴成小蛇(ちのしたゞりしやうじやとなる)

 巻四

  仙境界(せんきやうかい)

  禿狐(かぶろきつね)

  金峯祟(きんぶのとがめ)

  三頸移ㇾ鏡(さんきやうかゞみにうつる)

  茸毒(くさびらのどく)

  梭尾螺(ほらのかい)

  憍慢失(きやうまんのしつ)

  名釼退ㇾ蛇(めいけんしやをしりぞく)

 巻五

  幽㚑討敵(ゆうれいかたきをうつ)

  人魚評(にんぎよのひやう)

  沈香合(ぢんのかうばこ)

  一夢過一生(いちむいつしやうをあやまつ)

  聖㚑會(しやうれうゑ)

  一念闇夜行(いちねんあんやにゆく)

  依ㇾ聲光物(こゑによるひかりもの)

 巻六

  太神宮擁護(だいじんぐうのおうご)

  自業自得果(じごうじとくくは))

  蛇身往生(じやしんわうじやう)

  鶏恠(にはとりのあやしみ)

  魂廽ㇾ家(たましひいゑをめぐる)

  明忍傳(めうにんでん)

     目録

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