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2022/10/31

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「志賀隨應神書」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上四行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附したが、訳の分からぬ怪しげな「隨應神書」については、ほぼそのままとし、文末と思われる箇所の読点のみ、吉川弘文館随筆大成版を参考に、概ね、句点とした。

 本篇の「隨應神書」部分は、一種の偏執病(パラノイア)の日本神話や神仙思想をゴチャまぜにして作り上げた妄想的創作物である印象が拭えず、所々、意味が私には判らぬだけでなく、何となくキビが悪いから、訓読しないし、注も附さない。せめても、電子化しただけでも、「よし」と認められたい。悪しからず。どなたか、訓読や注に挑戦されたら、是非とも、ネットにアップされ、その時は御一報下されば、有難い。

 

   ○志賀隨應神書

吾友、大鄕信齋《おほがうしんさい》云、榊原越中守照祗朝臣は、余が莫逆の友なり。彼《かの》家、舊傳《くでん》の書の内に、隨應が神道傳授の一卷あり。書尾に、「正德四年志賀隨應秀則。駿州府君と見《まみ》ゆ。彼家に師賓たり。」とぞ。

[やぶちゃん注:「志賀隨應」「秀則」加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「曲亭馬琴資料」「文政十年(1827)」のページの「十一月十一日『馬琴日記』第一巻」の条に、『雪麿事田中源治来ル。先達而、英泉より、志賀随翁真跡所持之人有之、同藩雪麿ト申者持参、入御覧度旨、私迄頼候間、罷出候ハヾ、御逢被下候様申上候ニ付、今日逢有之』とあり、加藤氏の注で、『雪麿は戯作名墨川亭雪麿』(ぼくせんていゆきまろ 寛政九(一七九七)年~安政三(一八五六)年:浮世絵師で戯作者。本姓は田中、名は親敬。越後高田藩江戸詰藩士。喜多川月麿の門下で美人錦絵を描き、戯作を柳亭種彦に、狂歌を鹿都部真顔(しかつべのまがお)に学んだ)。『「滝沢家訪問往来人名簿」には』、『丁亥十月十一日初入来英泉紹介 榊原遠江守殿家臣湯嶋七軒町(上)中やしきに在り 雪麿事 田中源治』『とあり、ちょうど一ヶ月前に英泉の紹介で対面したばかりである。雪麿が持参した「志賀随翁真跡」の随翁は、大田南畝の』「一話一言」『巻四十九に』、『春毎に松のみどりの数そひて千代の末葉のかぎりしられず 藤恕軒志賀氏随応行年百有余歳』『と書き留められた長寿で有名な人であった』とある。これ以外には事績などの詳細は見出せなかった。同姓同名に本心刀流(ほんしんとうりゅう)の剣士がいるが、同一人物かどうかは不明。

「大鄕信齋」(明和九(一七七二)年~天保一五(一八四四)年)は儒者で越前鯖江藩士。名は良則。初め、芥川思堂、後に昌平黌で林述斎に学んだ。述斎が麻布に作った学問所城南読書楼の教授となった。文化一〇(一八一三)年、藩が江戸に創設した稽古所(後に「惜陰堂」と称した)でも教えた。著作に「心学臆見論」などがある(講談社「日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「榊原越中守照祗」不詳。「照祗」は「てるただ」と読むか。

「正德四年」一七一四年。

「駿州府君」徳川家康。ここは生前の駿府城の家康に逢い、ゲスト格で優遇されたということらしい。]

かく告られしかば、その神道傳授てふ書を、見まくほしう思ひたりしに、近ごろ越後高田候の家臣田中源治【戲號、「雪麿」。】、てふ人、五、六ひらの寫本を懷にし來《きたり》て、「こは、隨應が神書のうつし卷也。同家臣岡島但馬といふもの、『借《かり》得て寫しとりたれば、翁に見せまゐらせよ。』とて、おこしたり。」といふ。やがて、ひらき見れば、かねて信齋老人の告《つげ》られし件《くだん》の一卷なり。「原本は、大字にて、卷物なるを、借抄、只、一日と限られたれば、模寫するに遑《いとま》なかりき。よりて、印章をのみ、模して、余は絹字に錄したり。」といふ。いと惜むべし。則《すなはち》、季女《すゑむすめ》の舅《しうと》なりける渥見老人の手をかりて、臨寫せしめたるもの、左の如し。

[やぶちゃん注:「季女」瀧澤鍬(くわ)。

 以下、奇体な神話の部分は、底本では全体が一字下げである。]

書中に「先代舊事本紀」を引《ひか》れしなど、すべてうけがたきものなれど、その故鄕・實名などは、この書によりて知らる。とまれかくまれ、珍書なり。

天津兒屋根二十世神祗道宗源長祖種子命道統、二十世藤原大織冠鐮足公宗流神祗一道相續、三十九世九州志賀島遊人藤原隨應秀則。

謹奉尊紀

三社大權現普傳記

 葛城章         後號大諏敎本紀

白於天祖時天祖詔日、理罪不ㇾ可ㇾ逃、卽下天咒

 天人熊命化成幡取之則

大照太神大日孁立(をゝひるめのむち)天門前、

 是冗伏ニ誄心貳其元也。

是食保姬命得五穀、自在心生慢情、故遇此難

 人有慢心則得天障其理元也。

其後此三幡磐余彥(いはれひこ)天皇時、化金色鳶諒滕幡今在山背國怨兒(あたこ)山太神、此神摩爲ㇾ神。

 是天狗神爲ㇾ障爲ㇾ怨、其元也。

又素狹雄尊、猛氣滿胸腹而餘成吐物、化成天狗神姬神而威强、其軀人身頭獸首也。鼻長耳長、牙長形也。

食保媛神尸、即化白野干而化惑國神

 是狐化感人 其元也。

天照大神詔曰、地食保媛神者、吾分ㇾ魂神、非邪天神惡神中返怨其氣爲ㇾ魅。

汝月誦神宜ㇾ祭此神、時月弓尊設供祭ㇾ之。遂成世間大富饒主、是狐主富、其元也。

是後大己貴神、惡其妖國中狐一‘神怒曰、方使ㇾ假示ㇾ汝、追ㇾ吾者亦所ㇾ追、謂了西飛、果大己貴神、爲天孫四飛。

 是御威對凶御德和恩吉其元也。

今在山背國飯成山大神、使天下狐主司驗災害。又伏邪夭至人伏邪同彼還化、其元也。

種子命十八世常盤大連、以神代文字儒字

請誰改平安城洛外封藤森大明神

 唯一神祗道統記

宇加魂神、      宇宙曰、

宇所訓天地上下高太也。宙所謂四方四隅廣大也。

加ㇾ當巽虧盈加二不足故、巽撰而禎益道也。潔齋依ㇾ於ㇾ爰、魂造化萬種之氣、而無休神也。

五世國兩大神宮祭末社地、社隨一神、而尊體三面之宇加神也。

天狐神、空狐神、白狐神、地狐神、阿紫靈、是則土社神也。號五社大明神靈玅、大己貴神追ㇾ之、故渡于白齊國乎。其後大己貴神諸共歸朝、而任國中、且四國地不ㇾ足方百里、不ㇾ好天狐神、不ㇾ定千歲死靈之尊號也。

空狐神歷千歲、化仙狐神、則號空狐神乎。

三千年後、身蛻化天遷、則號飯成空狐神乎。千里通達神也。

白狐神、上九百歲餘、下五百歲餘、號白狐神乎。

地狐神、上五百歲餘、下百歲餘、號地狐神乎。是廼地仙神也。人間之一歲當千五年乎。

阿紫靈、上百歲下一歲迄、號阿紫乎。

阿紫五十歲而移靈山靈地修行、而學修身仙術道凡五十年乎。至百歲鄕府千古鄕乎。[やぶちゃん注:「千」の右にママ注記がある。]

崇神御宇、請混諡改或有ㇾ告。故至正一位類多末世乎。

上古奉封飯繩大權現

[やぶちゃん注:以下、底本では、「天遷」の前までが二字下げとなっているので、ブラウザの不具合を考え、一時下げで途中で改行した。]

 夫飯者萬像性情、本養育有於穀乎。繩者

 心緖而、所謂臍帶氣之繩乎。能結ㇾ之謹、

 則無爲而無疾病、得長生乎。

 或曰、無爲者非無有乃言、何爲之道

 乎。曰、本搖乎爲搖乎、大道一貫、貫

 理之明玅也。

 氣緩而解、則身緩解、而或早死。此繩身

 中十六丈二尺、一晝夜營衞身中、流行

 五十度、都八百十丈、而日出時也。氣筋

 骨行内外乎。故修身長生者、有ㇾ結

 於心緖乎。

天遷同空狐神、平安城飯成山、年歲臨遷之次第、

 正月神年壽十二萬七千五百歲餘

 二月神年壽十二萬五千三百歲餘

 三月神年壽十二萬三千七百歲餘

 四月神年壽十一萬七千五百歲餘

 五月神年壽十一萬五千七百歲餘

 六月神年壽十一萬三千九百歲餘

 七月神年壽十一萬二千八百歲餘

 八月神年壽十一萬一千七百歲餘

 九月神年壽十一萬七百五十歲餘

 十月神年壽十一萬五百七十歲餘

 十一月神年壽十一萬四百九十歲餘

 十二月神年壽十一萬三百七十歲餘

每年初午日、替飯成山而五世國、至兩身海邊、拜禮海回戸鏡、拜兩大神宮社宇加神、終歸社諸國于本社畢。

謹敬奉尊紀五社神禮社、

五社奉向神前五身印衆、  口議、

 終五神冗文曰、

 恩慈御意有今爰、

 用日日奉御意、

  次咒曰、

テソダギニ ギヤベヰ キヤチ ギヤヽ、ニヘヒ ソヮカ。

咒終て五神の尊號申して拜社して、

 五種印にて、  口議、

 東方 南方 西方 北方 中央、

 吐普神身依身多女、

 寒言神尊利根陀見、

日本國中大小乃神祇、別而氏神產守(うぶすなのかみ)名神と念終、

飯成五社祭、供饗、

花一枝、或は白けいとうの花、かけぼし口議、

赤飯、もち五かざり、あまざけ、肴鯛五つ、あらひよね五かざり、皆土器にもりて外に菓子有合。

御幣帛三飾、 口議、

  月次の祭

 洗米五そなへ、もち同、さけ二器、又洗米、

 たうふ、さかな有合、さけ迄なり。

 已上、

正德四年甲午歲正月吉祥日謹記之

               志賀隨應秀則

   駿州府君公

  奉呈上

[やぶちゃん注:以下、馬琴の附記で、字下げなし。]

この他、隨應が、牧野新右衞門【高田候家臣。】に與へし自筆の手簡一通あり。そは、興繼に草字せしめて、返魂餘紙、下卷に貼したり。隨應が、水馬の術に妙を得たる事、幷に門人上野恕信《うえのぢよしん》が事も、その書によりて知らる。祕藏すべし。件の老人の事の考《かう》は、予が「玄同放言」に載《のせ》たれど、なほ、引漏せし事、あり。近ごろ、信齋老人の抄錄して、忠告せられしもの、左の如し。

「月堂見聞集」に、『享保八年卯五月、下條長兵衞、尙齒會《しやうしくわい》の第一、志賀隨應一百七十七。』と記したり。又、見「掃聚雜談」、又、小野齋宮高尙【大御番。】の隨筆に、『百二十四』に作る。

又、正德五年、生島氏の會には、『百六十七』とあり。隨應の年紀諸書に載するもの、等しからざる事、斯の如し。件の翁は年をかくして、人には定かに告《つげ》ざりしならん。この他、なほ、考ふべし。

[やぶちゃん注:「牧野新右衞門【高田候家臣。】」やはり、加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「ゆきまる ぼくせんてい 墨川亭 雪麿」のページの、文政一〇(一八二七)年の条の、「『滝沢家訪問往来人名録』下p117(曲亭馬琴記・文政十年十月十一日)」に、『貼紙・馬琴筆』として、『随翁手帋』(てがみ)『伝来 牧野新左衛門ひまご 當時 牧野新介 同 持主ハ 岡嶋但見』とあり、さらに、下方の天保五(一八三四)年の条に、「『馬琴日記』第四巻 p225(天保五年十月十八日付)」として、『榊原李部家臣田中源治事、雪丸来訪。予、対面。同藩牧野新右衛門、享保十三年七十算賀之時、志賀随応歌かけ物携来て見せらる。右新右衛門孫某書付ニ、随翁年百七十餘と有之。しかれども、随応自筆ニハ、百有餘歳としるす事、例のごとし。同人懇友梅丸、来訪願候よし、紹介致さる』と出る。因みに、その後に加藤氏の注があり、『墨川亭雪丸は文政十年、十一年に志賀随翁の書簡などを持参していたが、今度は古稀の祝の歌の掛け軸を持参した』とある。

「興繼」(おきつぐ)は本「兎園小説」諸本にしばしば登場してきた馬琴の嫡男。医名は宗伯。当時は松前藩医員。馬琴が自身の武家への復活をかけていた子で、大いに期待していたのであるが、病弱のため、後、医業をやめ、父の著述校正を手伝ったりしていた。天保六(一八三五)年五月八日に馬琴に先だって(馬琴は嘉永元年十一月六日(一八四八年十二月一日)死去)急逝してしまった。享年三十九。

「返魂餘紙」(四冊)馬琴手製の貼り交ぜ帖。「別集」(二冊)も文化五(一八〇八)年に編されている。「はんごんよし」と読んでおく。

「上野恕信」医師。以下に示す「玄同放言」の随応の記事中に出る。国立国会図書館の「リサーチ・ナビ」の「日本医家伝記事典 宇津木昆台『日本医譜』」の医師名リストにも出る。

「玄同放言」馬琴の考証随筆。三巻六冊。滝沢琴嶺興継と興継の親友であった渡辺崋山が画を担当している。一集は文政元(一八一八)年、二集は同三(一八二〇)年刊。主として天地・人物。動植物に関し、博引傍証して、著者の主張を述べたもの。題名の「玄同」は「無差別」の意である。同書は吉川弘文館随筆大成版で所持するので、調べたところ、「卷三 人事部二」の「壽算」の第三十二「壽算」の一節である。「国文学研究資料館」のこちらで原本の当該部が視認出来る(左丁四行目の「○」以下から)ので、本体部の訓読や注をしていない分、せめても、これは以下に電子化することとする。読みの一部を外に出した。[ ]は底本では囲み罫。読みは一部に留めた。訓点式の部分はそのままカタカナで書き下し、一部に《 》で字を添えた。異体字は知られた正字に代えた。

   *

○ちかき世の口碑に傳へたるものに、[志賀隨應]より壽なるはなし、しかれどもその事迹定かならず。一説云、隨應ハ、志賀氏、名ハ義則、藤恕軒(トウヂヨケン)ト號ス、天正四丙子ノ年[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七六年。]、豊後國ニ生ル、童名ハ亀之助、少少(ワカキ)ヨリ武器ヲ作ルニ賢ナリ。人ト成ルニ及テ、織田内大臣二仕フト云フ、老後江戶ニ來リテ、新橋ノ上(ホトリ)ニ處(ヲ)レリ、又赤坂ニ居リシトモイヘリ、隨應曽(カツ)テ方伎(クスシ)ヲ業トシ、旁ラ神書ヲ看(ミ)ルコトヲ好ミ、閑暇ノ時ハ、釣(ツリ)ヲ垂レテ樂ミトセリ、竹田侯ヨリ月俸ヲ禀(ウケ)タルヲ、辞シテ江戶ヲ去リテ、上野ノ國ニ赴キヌ、時ニ年一百三十歲、其終焉ノ年ヲ詳カニセズ、或ハ云フ、百七十歲、上野ニ於《イテ》沒ス、又一說ニ、志賀隨應ハ、初名ヲ金五郞トイフ、曽て久能ノ摠關[やぶちゃん注:「そうくわん」統轄責任者。]ニ仕ヘタリ、享年百六十一歲、或ハ云フ百八十歲、後の一説は、麁(そ)にして弥々[やぶちゃん注:「いよいよ」。]疑ひあり、猶よく考て、追てしるすべし。昔(むかし)偶(たまたま)其蜩菴(きてふあん)ガ翁草を閱(けみ)せしに、生島幽軒老人、七十の算賀に、七叟來會せり、志賀隨應も、亦其一人なりしと、いへり、隨應が墨跡は、好事の家に鍾翫(ちやうぐわん)せらるれども、僞筆多かり、その手蹟のよきと、その詞句(しく)に趣キあるとは贋作なり、余が視(め)を歷(へ)たる中に梅龍園主人の所藏、是眞跡なり、影寫して右に出しつ、百有餘歲歳としるしたる、そのこゝろを得ざれども、年を隱すは、老人の情(ぢやう[やぶちゃん注:ママ。])なり、こゝをもて百幾歳と、定かには署せざるならん。又この老人の墓は、江戶愛宕下(あたごした)、天德寺の地中なる、不断院に在リ、墓誌には云云(しかしか)と、豫(かね)て聞しをよすがにて、一日(あるひ)興繼を將(い[やぶちゃん注:ママ。])て、不断院に赴きつ、その墓所をおちもなく、半日あまり索(たづね)しかども、竟(つひ)にその墓あるを見ず、困(かふ[やぶちゃん注:ママ。])じ果(はて)て布施を裹(つゝ)み、寺僧に請(こふ)て、過去帳を披閱(ひゑつ[やぶちゃん注:ママ。])するに、享保十五庚戌ノ年[やぶちゃん注:一七三〇年。]、と題せし條下(くだり)なる、許多(あまた)の戒名の中に、

  真月院諦念隨翁居士     志賀隨翁

    六月十六日      施主 上野恕信

とあり、この墓今なほありやと問フに、寺僧もしらず、今はその施主絕えたればなり。もし總墓(さうばか)の中にもやある、ゆきて見玉へといふにより、寺門を出て總墓所(さうむしよ)【天德寺本堂の左りなる、山の上下にあり。】に攀ぢ登り、興継もろ共に、聞つるほとりはさらなり、彼此(をちこち)を見めぐるに、こゝにも亦あることなし、よりて復(また)、興継を寺に遺はして、案内を乞はせしに、道人(てらをとこ)總墓所に来て、わが寺の諸檀の墓所は、こゝなりとて指(ゆびさ)す筋(ぢ)を、又ひとつひとつに索ねしかども、其処(そこ)にも彼墓あるを見ず、さてはその施主なくなりて、墓石も共に壞(くづ)れしならん、とやうやく思ひ決(さだ)むるに、比は卯月のながき日を、はかなくこゝに消(くら)したり。現(げに)寺の過去帳に、正しくその戒名あれば、ちかき比まで、彼ノ墓はありつらん、墓誌には、戒名の下に、志賀氏、左方に、施主上野恕信、と刻せしと聞つ、年月も寺の過去帳におなじ、但(たゞ)支干(しかん)あらざるのみ、よりて寺僧に、施主上野氏の事、又過去帳には、戒名俗名ともに、隨翁と書キたるよしを敲(たづ)ねしに、懜(もう)[やぶちゃん注:ぼんやりとして暗いこと。]として辨ずることなし、その寺により、在世の名號を、戒名に用ふる事を聽かさゞるもありと聞けり、しからば麻布二本榎、常行寺なる、徘諧師其角が墓誌に、喜覺と勒‘ろく)せし如く、隨應の應を、翁字に換(かえ[やぶちゃん注:ママ。])たるならん、とおもふに、そが俗名も、亦隨翁と書キたれば、疑ひいよいよ釋(とき)がたし。口碑に傳フる如く、隨應は、上野ノ國にて沒したらば、彼ノ墓は、その年忌の折などに、江戶なる親族、或(ある)は由緣(ゆかり)のものゝ立たるならん、しかれども、寺の過去帳によりて推(おし)はかるに、享保十五年六月十六日は、その亡日(きにち)なるべし、彼老人の生れしといふ天正四丙子年より、享保十五庚辰年迄僂(かゞなふ)れば[やぶちゃん注:「指を折って数えてみると」の意であろう。]、一百五十五年なり、これをもて推(お)すに、その享年、百六十一歲、或は百七十歲、或は百八十歲といふものは、皆(みな)信(うけ)がたし、百五十五歲といはゞ、當らずとも據(よりどころ)あり。又按ずるに、墓石の施主、上野恕信は醫師(くすし)なるべし、恕信の恕は、藤恕軒の恕を取リたるやうなり、上野はその氏なるべし、上野氏は、何地(いづち)の人なるをしらざれども、隨應衰邁(すいまい)の後、上野氏の扶助により、その家にて身まかりしを傳へ謬(あやま)りて、上野ノ國にて沒スといふにあらざる歟、こは余が推量の說なれども、姑(しばら)く疑ひを述べて、後ノ考を俟(まつ)のみ。

   *

また、図があり、「志賀隨應百餘歳眞跡」とある「長生」(ちやうせい)の遺墨がある(右下に「梅龍園主事藏」ともある)。左手上には「璽」の字のような落款らしきものがあって、さらに中、白抜き文字で「藤恕軒志賀氏隨應百有餘歲」とあって、その左下方に判読不能の文字とそれにかかった形で□がある。吉川弘文館随筆大成版のものトリミングしたものを以下に掲げておく(底本は画像保存が出来ないようになっているため。なお、底本と吉川弘文館随筆大成版では左部分の配置が異なる)。

 

Tiyausei

 

「月堂見聞集」不詳。

「享保八年」一七二三年。

「下條長兵衞」不詳。同じ姓で通称の旗本下條信隆がいるが、彼は享保元年に亡くなっているので違う。

「尙齒會」江戸後期に蘭学者・儒学者など、幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会の名称。主宰は遠藤泰通(遠藤勝助)。構成員は高野長英・渡辺崋山などで、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や、江戸で蘭学者で蘭方医の吉田長淑(ちょうしゅく)に学んだ者などが中心となって結成された。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。

「掃聚雜談」作者不詳の随筆。

「小野齋宮高尙【大御番。】」(享保五(一七二〇)年~寛政一一(一八〇〇)年)は幕臣で国学者。姓は平。名を直方・高格・高武ともいった。宝暦一三(一七六三)年に四十四歳で家督を嗣ぎ、明和二(一七六五)年に小普請方から大番に進んだ。天明四(一七八四)年に同じく国学者でもあった子の高潔に家督を譲り、隠居した。史学に通じ、「古今類聚名諱伝」や「三才雑録」など、数種の史伝や抄録のほか、「本朝奇跡談」(校閲)のような通俗書にも名をとどめている(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「生島氏」先の引用にも「生島幽軒」の名で出た。旗本。初名は山田市之丞。この長寿の祝賀会(生島は八十一で一番若い)については、随筆「翁草」(おきなぐさ:全二百巻。神沢杜口(とこう)貞幹著。寛政三(一七九一)年成立。全刊行はずっと下って明治三八(一九〇五)年。京都町奉行所与力であった自己の見聞した事実や中古以来の古書から記事を抜き書きして、批評などを加えたもの。なお、天明四(一七八四)年刊の抄出五巻本がある)の巻三十八の「生島幽軒年賀に老人集會の事」(国立国会図書館デジタルコレクションの活字本)で読める。その筆頭に「榊原越中守家來初名金五郞」とし「志賀瑞翁」とあって「百六十七歲」とある。その本文の頭に「此瑞翁は百八十歲の頃迄存命成し由。享保の中頃江府殿中の御沙汰書にも見えたり。正德五年に百六十七歲と有れば後奈良院御宇、武將光源院殿義輝公、天文十八己酉年の生れ成べし、寔に希世の老翁り」とある。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 淫書の効用

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 画像は底本よりトリミング補正して載せた。]

 

 

     淫 書 の 効 用 (明治四十五年七月『此花』凋落號)

 

Insyonokouyou     

 

 『此花』第十八枝に、「大阪の夜發(よたか)」と題せる圖を載せて、『異態の百人一首よりとれり。』とあり。此百人一首は、只今、小生の座右にあり。然るに、これと同筆にて、圖の大きさのみ異なる繪を混入せる異態の『女大學』一册あり。小生、往年、龍動(ろんどん)に在りし日、巴里の故林忠正氏店《みせ》より、購《あがな》へり。今は和歌山に置きあり。「雅俗文庫」には、必ず、これあらん。其『女大學』の中ほどにある「野郞仕立樣の事」の條に、野郞の鼻低きを高くする法あり。圖のごときものを作り、鼻を其間に挾み、夜、臥《ふ》さしむべし、とあり(寸法、忘る)。然るに、一咋年、『大阪每日新聞』を見しに、巴里通信に、新發明の婦女の鼻を高くする器といふあり。全く件(くだん)の野郞の鼻を高くする法と同じきものにて、用法も、夜間、鼻を、これに挾みて、臥する由、記しありたり。日本と佛國とにて、別々に發明したるものとするも、日本の方、はるかに古く、凡そ百年以上も早し。小生、明治十九年、米國に渡り、トランクの盛んに行なわるゝを見て、其便利に呆(あき)れしが、後、寬永頃の日本の繪本を見しに、車長持とて日本に古く既にありしなり。此類の事、多々ならん。春畫などつまらぬものながら、世態風俗の變替(へんたい)より、奇巧の具の曾て存せし事を見るに大効力あること、如此。

[やぶちゃん注:以下、底本では二字下げ。ブラウザの不具合を考え、途中で改行した。「選集」には、この一行はない。恐らくは「選集」は投稿記事に従ったもので、以下は『此花』編集者宮武外骨への添え書きであろう。]

  此事、此文、眠たくて、シツカリ書き得ぬが、
  短く御書き直しの上、『此花』へ御載せ被下度
  候云々。

[やぶちゃん注:本篇は表向き「鼻を高くする器具」について述べていながら、題名の「淫書の効用」及び本文の記載から推すに、この器具、女性の自慰用、或いは、若衆道(男色)用の「張形」=ディルド(Dildo)、或いは、その用法から、男根を伸ばす器具ということを暗に匂わせているものではないかと私には思われたのだが、当たらずとも遠からずであることが判った。後の「女大學」の注を参照。

「明治四十五年」(一九一二年)「七月『此花』凋落號」既出既注

「『此花』第十八枝」「大阪の夜發(よたか)」」同雑誌の全リスト・データがあるサイト「ARTISTIAN」の「此花(大阪版)(雑誌)」に第十八枝(明治四十四年十一月十五日発行:「枝」は「号」を雑誌名に洒落て用いたもの)に「大阪の夜鷹」という表記の記事がある(作者不詳)。「夜發(よたか)」は「夜鷹」の別表記。江戸時代の街娼の一種で、夜になると出てきて、野天、もしくは夜だけの仮小屋で売春した女性たちのこと。京都では「辻君」(つじぎみ)、大坂では「惣嫁」(そうか)と呼ばれた者の江戸版で、名称の由来は、夜間に横行するため、あるいは、夜鷹という鳥がいたのでこれに擬えたものともされている。いずれも安い代価(二十四文ともいわれる)で売春する最下級の「もぐり娼婦」たちで、主たる巣窟は本所吉田町にあり、客は武家・商家の下級奉公人や下層労働者であり、しばしば夜鷹狩りの取締りの対象となった(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「異態の百人一首」まず、しばしば巷間に見られる「百人一首」を淫猥なものに作り替えたそれであろう。

「女大學」まともなものは江戸中期以降、広く普及した女子教訓書群の汎名であるが、如何にもおかしい。調べてみたところ、サイト「ようこの本棚」の「女大楽宝開」(おんなたいらくたからがい:著者「開茎(かいまら)先生」(安永年間(一七七二年~一七八一年)刊)を紹介して、『この「女大楽宝開」は、「女大学」の注釈本「女大学宝箱」をもじって色事本に仕立てたもので、女性の身体の図解、男女の人相図、美人の条件や遊廓の遊び方や価格表や、房中術まで事細かく書かれて』おり、『若衆についても』、十五『枚の画とともに、陰間の育て方などが記されてい』るとあって、以下に「若衆仕立様の事」の原文(新字体)が引かれ、そこに若衆(稚児:男色の女性役)を如何に美しい女に仕立てるかという中に、『鼻筋の低きは十、十一、十二の時分、毎夜ねしなに檜木の二、三寸くらいなるにてこのごとく摘み板を拵え、右の通りに紐をつけ、鼻に綿をまき、その上を右の板にて挟み、左右の紐を後にて、仮面(めん)きたるごとく結びてねさせば、いかほど低き鼻にても鼻筋通り高くなるなり。ただし、十二の暮より仕立てんと思わば、初め横にねさし、一分のりを口中にてよくとき、彼処へすり、少し雁だけ入れてその夜はしまうなり。また二日めにも雁まで入れ、三日めには半分も入れ、四日めより今五日ほど、毎日三、四度ほんまに入るなり。ただし、この間に仕立つる人きをやるは悪し。右のごとくすれば後門沾(うるお)いてよし。また、はじめより荒けなくすれば、内しょうを荒らし煩うこと多し。また十三、四より上は煩うても口ばかりにて深きことなし。これは若衆も色の道覚ゆるゆえ、わが前ができると後門をしめるゆえ、客の方には快く、また客荒く腰を使えば肛門のふちをすらし、上下のとわたりのすじ切るるものなり。これにはすっぽんの頭を黒焼にして、髪の油にてとき付けてよし。右記せし仕様の品は、たとえ町の子供にても、右の伝にて行なうがよし。また新べこには、仕立てたる日より、毎晩棒薬をさしてやるがよし。この棒薬というは、木の端を二寸五ぶ[やぶちゃん注:熊楠が忘れたもの。七センチ六ミリ弱。]ほどにきり、綿をまき、太みを大抵のへのこほどにして、胆礬(たんばん:硫酸鋼)をごまの油にてとき、その棒にぬり、ねしなに腰湯さしてさしこみねな(さ?)せば、煩うこと少なし。ただしねさし様は、たとえは野郎、客に行きて、晩く帰りたる時は、その子供の寝所へ誰にても臥し居て、子ども帰ると、その人はのき、すぐさま人肌のぬくもりの跡へねさすべし。かくのごとくして育つれば無病なり。とかく冷のこもるわざなれば、冬などこたつへあたるは悪し。野郎とても晩く帰るときは、右の通りにしてねさすべし。これだい(一・事?)のことなり』とあって、以下の本図と酷似する道具の画像が載っている(同ページより拝借した画像を以下に示す。因みに画像名は「kgema1」(陰間=江戸時代、宴席に侍って男色を売った者の名)である。

 

Kagema1

 

而して、上記の原文を見ても判る通り、「鼻」は叙述の具合が途中から隠語となって変容していることが判然とする。実は「鼻」は「鼻の大きい男はあそこも大きい」と言うように、転じて「男根」のことを隠語で指すのである。さても、熊楠の「女大學」は、実はこの「淫書」たる「女大樂寶開」であることが判り、この器具は、若衆道の淫靡な性具であることが判るのである。

「林忠正」(嘉永六(一八五三)年~明治三九(一九〇六)年)は美術商。越中国高岡(現在の富山県高岡市)出身。当該ウィキによれば、明治一一(一八七八)年に『渡仏。多くの芸術的天才を生んだ』十九『世紀末のパリに本拠を置き、オランダ、ベルギー、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国、中国(清)などを巡って、日本美術品を売り捌いた。美術品の販売ばかりではなく、日本文化や美術の紹介にも努め、研究者の仕事を助けたり、各国博物館の日本美術品の整理の担当をしたりした』明治三三(一九〇〇)年の『パリ万国博覧会では日本事務局の事務官長を務めた』。『その文化的貢献に対し、フランス政府からはそれ以前の明治二七(一八九四)年に、「教育文化功労章二級」を、一九〇〇年には、「教育文化功労章一級」及び「レジオン・ドヌール三等章」を『贈られた。また、浮世絵からヒントを得て、新しい絵画を創りつつあった印象派の画家たちと親交を結び、日本に初めて印象派の作品を紹介した』。一八八三年に』『没したエドゥアール・マネと親しんだのも、日本人として』は、彼、ただ『一人である』。明治三八(一九〇五)年の『帰国に際し』ては、実に五百『点もの印象派のコレクションを持ち帰り、自分の手で西洋近代美術館を建てようと計画したが、その翌年に果たせぬまま』『東京で』五十二歳で病『没した』とある。

「雅俗文庫」雑誌『此花』を刊行した出版社の名。

「明治十九年」一八八六年。

「寬永」一六二四年から一六四四年まで。

「車長持」(くるまながもち)は移動しやすいように、車輪を下部に取り付けた長持。明暦三(一六五七)年の江戸大火で、車長持が道を塞ぎ、混雑したことから、それ以後、禁止された。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 千人切の話(その4) / 千人切の話~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ三行目。底本も改行されてある)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で「選集」を参考(「選集」は漢文部が編者によって訓読されてある。但し、現代仮名遣という気持ちの悪いもの)に訓読を示した。なお、本篇は、やや長いので、分割した。]

 

 『增一阿含經』卷卅一に、佛、央掘摩の因緣を說く。迦葉佛、在世の後《のち》、大果《たいくわ》王有り。其第一妃、男子を生む。希有の美男たり。大力(だいりき)と名《なづ》く。八歲の時、「娶婦(よめとり)せよ。」と勸むるに、「幼なり。」とて辭す。又、二十年經《たち》て勸めしも、辭す。因《よつ》て、名づけて、淸淨太子と云ふh。父王、國中に令して、「能く、太子をして、五慾を習はしむる者有らば、千金と諸寶を與へん。」と宣ぶ。爾(その)時、婬種(いんしゆ)と名《なづく》る女有り。「六十四變を明(あきら)め盡《つく》せり。我、之を能(よく)せん。」とて、王に請《こひ》て、内宮中に勅して、隨意(まゝに)、出入を遮《さへぎ》るなからしむ。其夜、二時、女、太子の門側《もんぎは》に在《あり》て哭《な》く。太子、唯、一男兒と寢室(ねま)に有《あり》しが、之を聞《きき》て、侍臣をして、往《ゆき》て所由(わけ)を問《とは》しむ。婬女、報(こたへ)て、「夫に棄《すて》られ、此次第。又、盜賊を畏れて哭く。」と云《いふ》。因て、侍臣をして、此女を象厩中(ぞうや《うち》)に置《おか》しむるに、復《また》哭《なき》しかば、堂後に置く。爰(こゝ)でも哭く故、太子、躬《みづか》ら尋ねけるに、女は、「單弱(かよわき)故、極《きはめ》て恐怖(おそろし)くて哭く。」、と答ふ。太子告曰、上吾牀上、可ㇾ得ㇾ無ㇾ畏、是時女人默然不ㇾ語、亦復不ㇾ哭。是時女人卽脫衣裳、前捉太子手、擧著己胸上、卽時驚覺、漸漸起欲想、已以起欲心、便身就ㇾ之。〔太子、告げて曰はく、「吾が牀(とこ)の上に上がらば、畏るること亡きを得べし。」と。是の時、女人、默然として語らず、又、復(ふたた)びは哭かず。是の時、女人、卽ち、衣裳を脫ぎ、前(すす)みて、太子の手を捉(と)りて擧げ、己(おの)が胸の上に著(お)く。卽時に驚覺し、漸漸として、慾想を起こす。已に慾心を起こせば、便(すなは)ち、身、之れに就く。〕。扨《さて》、明旦、太子、父王の所え[やぶちゃん注:ママ。]詣(いた》)る。顏色、常に殊(かは)れるを見、問《とひ》て其故を知り、父王、大《おほい》に悅び、「何の願い有るぞ。」と問ふ。太子言《いは》く、「吾が所願を述《のべ》て、大王、中(なかご)ろ、悔いずんば、啓(まう)すべし。」。王、曰く、「決して、中ろ、悔いじ。」と。太子白ㇾ王、大王今日、統領閻浮提内、皆悉自由、閻浮提里内、諸未ㇾ嫁女者。先適我家、然後使ㇾ嫁。〔太子、王に白(まを)す、「大王は今日(こんにち)、閻浮提(えんぶだい)内を統領し、皆、悉く、自由なり。閻浮提の里内(りない)にて、諸(もろもろ)の未だ嫁がざる女(むすめ)は、先づ、我が家に適(ゆ)き、然る後に嫁がしめよ。」と。〕。是より、國内の處女(をとめ)、總て、先づ、太子に詣(いた)り、然る後、嫁する定制《おきて》となる。須蠻(すまん)と名くる長者女(もちまるむすめ)、年頃に成り、太子に詣るべき筈の處ろ、裸跣(はだかすあし)で衆中を行(ある)きて、耻(はぢ)ず。衆人(みなみな)、「是は。名高き長者(もちまる)の娘、云何(いかん)ぞ裸で人中を行く。驢(うさぎうま)と何ぞ異ならん。」と嘲る。女、曰く、「我、驢たらず、汝等、悉く、驢なり。女が、女を見て、相耻《あひはぢ》る事やは有る、城中の生類《しやうるゐ》、悉く、女(をんな)也、淸淨太子一人が男也、我れ、太子の門に至らば、衣裳を着《きる》べし。諸民、相謂(《あひ》かた)るらく、「此女の說(せつ)通《どほ》り、我等、皆、女にて、淸淨太子のみ男也。我等、今日、男子《なんし》の法を、行なうべし。」とて、兵裝して、父王を見、「太子、國の常法を辱《はづかし》めたれば、王か、太子か、孰れか一人を殺さん。」と願ふ。是時、父王、偈(げ)を說《とき》けるは、「爲ㇾ家忘一人、爲ㇾ村忘一家、爲ㇾ國忘一村、爲ㇾ身忘世間。〔家の爲めに一人を忘れ、村の爲めに一家を忘れ、國の爲めに一村を忘れ、身の爲めに世間を忘る。〕。太子を、汝等、隨意(かつて)にせよ。」と告ぐ。諸人、太子を縛りて、域外に將出《つれいだ》し、殺さんとせる時、太子、誓願して、「我、來世、必ず、此怨《うらみ》を報ずべし。又、眞人(しんじん)に値(あ)ひ、速(すみや)かに解脫を得ん。」と。人民、咸(みな)、共に、瓦石《ぐわせき》もて、太子を打殺《うちころ》す。其時の王は、今の央掘摩の師、婬女は、師の妻、其時の人民は、今、央掘摩に殺されたる八萬人、其太子は、今の央掘摩也、と。

[やぶちゃん注:「『增一阿含經』卷卅一」前回と同じく、「增壹阿含經」で「大蔵経データベース」で同巻を確認出来たので、それで一応、校合したが、前の書き下し文の部分は、かなりの省略がある。漢文部も返り点の一部を変えた。

「長者(もちまる)」「持丸長者」(もちまるちやうじや(もちまるちょうじゃ))は江戸時代、「大金持・富豪」を指した一般名詞である。

「驢(うさぎうま)」言わずもがな、驢馬(ろば)のこと。博物誌は「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 驢(うさぎむま) (ロバ)」を参照されたい。]

 之に類せる話、『根本說一切有部毘奈耶《こんぽんせついつさいうぶびなや》』四七卷に有り。但し、央掘摩に關係無し。云(いは)く、佛、王舍城に在《あり》し時、千人力の壯士、曠野の賊を平《たひら》げ、新城を築き、人、多く、住み、繁盛せる謝意を表せん迚、「住民、娶《めと》る者、必ず、此大將を饗し、次に自分等《ら》、宴すべし。」と定む。一人、妻を娶るに、貧しくて、飮食を辨ずる能はず。便(すなは)ち、新婦をして、將軍の室に入《いら》しめ、竟(をはり)て、始めて、之と婚す。將軍、大《おほき》に歡び、爾來、諸民、此(これ)を恒式《こうしき》とす。後日、新《あらた》に嫁せんとする女(むすめ)有り、念(おも)ふに、『この城民、久しく非法を行ひ、自妻(わがつま)を、先づ、他人に與ふ。何卒、斯俗(このぞく)を斷《たた》ん。』とて、裸で、衆中に、立小便す。衆、之を咎めしに、別嬪、平氣で答ふらく、「是れ、何の耻か有(あら)ん。國民、總て、女人で、將軍、獨り、男子たり。將軍の前でこそ、裸と立小便を耻可(はづべけ)れ、汝ら、女同然の輩《やから》の前で、何の恥か、あるべき。」と。衆、之を「然り。」とし、會飮の後、將軍を燒殺《やきころ》せしに、其靈、鬼神と成り、每日、一人宛《ひとりづつ》、食ひ、大災を成せしを、佛、往《ゆき》て降伏せり、と也。『雜寶藏經』卷七所載(のすところ)も略《ほ》ぼ、之に同じ。誠に有る間敷《まじき》不稽《ふけい》の譚の樣なれど、予が『神社合祀論』にも述《のべ》し如く、世には、全くの啌話(うそばなし)、無く、古傳(ふるきつたへ)は、必ず、多少の事實に基《もとづ》く。

[やぶちゃん注:「『根本說一切有部毘奈耶』四七卷」例によって「大蔵経データベース」で確認出来る。

「予が『神社合祀論』にも述し如く」「青空文庫」にある南方熊楠の「神社合祀に関する意見」の終りの方にある箇所を指すもののように見受けられる。新字新仮名であるが、現行、熊楠が最も力を入れて反対活動をした中で知られるこの論稿を原表記で見ることは容易なことではない(私自身、見たことがない)。そもそもこれは原稿であって、公になったものではない。これと、一部の内容を一にする南方の「神社合倂反對意見」が、雑誌「日本及日本人」に明治四五(一九一二)年に四回に分けて載ったが、それは未完である。例えば、以下の箇所である。所持している「青空文庫」が底本としたものの初版(「南方熊楠コレクション第五巻 森の思想」河出文庫・河出書房新社一九九二年三月十日発行)で校合した。

   *

 また一汎人は史蹟と言えば、えらい人や大合戦や歌や詩で名高き場所のみ保存すべきよう考うるがごときも、実は然らず。近世欧米で民俗学(フォルクスクンテ)大いに起こり、政府も箇人も熱心にこれに従事し、英国では昨年の政事始めに、斯学の大家ゴム氏に特に授爵されたり。例せば一箇人に伝記あると均しく、一国に史籍あり。さて一箇人の幼少の事歴、自分や他人の記憶や控帳に存せざることも、幼少の時用いし玩具や貰った贈り物や育った家の構造や参詣せし寺社や祭典を見れば、多少自分幼少の事歴を明らめ得るごとく、地方ごとに史籍に載らざる固有の風俗、俚謡、児戯、笑譚、祭儀、伝説等あり[やぶちゃん注:☜]。これを精査するに道をもってすれば、記録のみで知り得ざる一国民、一地方民の有史書前の履歴が分明するなり。わが国の『六国史』は帝家の旧記にして、華胄(かちゅう)の旧記、諸記録は主としてその家々のことに係る。広く一国民の生い立ちを明らめんには、必ず民俗学の講究を要す。

 紀州日高郡産湯(うぶゆ)浦という大字の八幡宮に産湯の井あり。土伝(いいつたえ)に、応神帝降誕のみぎり、この井水を沸(わ)かして洗浴し参らせたりという。その時用いたる火を後世まで伝えて消さず。村中近年までこの火を分かち、式事に用いたり。これは『日本紀』と参照して、かの天皇の御史跡たるを知るのみならず、古えわが邦に特に火を重んずる風ありしを知るに足れり。実に有記録前の歴史を視るに大要あり[やぶちゃん注:☜]。しかるに例の一村一社制でこの社を潰さんとせしより、村の小学校長津村孫三郎と檀那寺の和尚浮津真海と、こは国体を害する大事とて大いに怒り、百七、八十人徒党して郡役所に嗷訴し、巨魁八人収監せらるること数月なりしが、無罪放免でその社は合祀を免れたり。その隣村に衣奈(えな)八幡あり。応神帝の胞衣(えな)を埋めたる跡と言い伝え、なかなかの大社にて直立の石段百二段、近村の寺塔よりはるかに高し。社のある山の径三町ばかり全山樹をもって蔽われ、まことに神威灼然たりしに、例の基本財産作るとて大部分の冬青(もちのき)林を伐り尽させ、神池にその木を浸して鳥黐(とりもち)を作らしむ。基本金はどうか知らず、神威すなわち無形の基本財産が損ぜられたることおびただし。これらも研究の仕様によりては、皇家に上古胞衣(えな)をいかに処理せられしかが分かる材料ともなるべきなり[やぶちゃん注:☜]。その辺に三尾川(みおかわ)という所は、旧家十三、四家あり、毎家自家の祖神社あり、いずれも数百年の大樟樹数本をもって社を囲めり。祖先崇拝の古風の残れるなり。しかるに、かかる社十三、四を一所に合集せしめ、その基本財産を作れとて件の老樟をことごとく伐らしむ。さて再びその十数社をことごとく他の大字へ合併せしめたり。

 和歌山市近き岩橋村に、古来大名が高価の釜壺を埋めたりと唄う童謡あり。熊楠ロンドンにありし日、これを考えてかの村に必ず上古の遺物を埋めあるならんと思い[やぶちゃん注:☜]、これを徳川頼倫侯に話せしことあり。侯、熊楠の言によりしか否かは知らず、数年前このことを大学連に話し、大野雲外氏趣き掘りしに、貴重の上古遺品おびただしく発見せり、と雑誌で見たり。英国のリッブル河辺の民、昔より一の丘上に登り一の谷を見れば英国無双の宝物を得べしという古伝あり。啌(うそ)[やぶちゃん注:☜]と思い気に掛くる人なかりしに、七十二年前、果たしてそこよりアルフレッド大王時代およびその少しのちの古銀貨計七千枚、外に宝物無数掘り出せり[やぶちゃん注:☜]。紀州西牟婁郡滝尻王子社は、清和帝熊野詣りの御旧蹟にて、奥州の秀衡建立の七堂伽藍あり。金をもって装飾せしが天正兵火に亡失さる。某の木の某の方角に黄金を埋めたりという歌を伝う。数年前その所を考え出し、夜中大なる金塊を掘り得て逐電せる者ありという。

 かかる有実の伝説は、神社およびその近地にもっとも多し[やぶちゃん注:]。素人には知れぬながら、およそ深き土中より炭一片を得るが考古学上非常の大獲物であるなり。その他にも比類のこと多し。しかるに何の心得なき姦民やエセ神職の私利のため神林は伐られ、社地は勝手に掘られ、古塚は発掘され、取る物さえ取れば跡は全く壊(やぶ)りおわるより、国宝ともなるべく、学者の研究を要する古物珍品不断失われ、たまたまその道の人の手に入るも出所が知れぬゆえ、学術上の研究にさしたる功なきこと多し。合祀のためかかる嘆かわしきこと多く行なわるるは、前日増田于信氏が史蹟保存会で演(の)べたりと承る。大和には武内宿禰の墓を畑とし、大阪府には敏達帝の行宮趾を潰せり、と聞く。かかる名蹟を畑として米の四、五俵得たりとて何の穫利ぞ。木戸銭取って見世物にしても、そんな口銭(こうせん)は上がるなり。また備前国邑久(おく)郡朝日村の飯盛(いいもり)神社は、旧藩主の崇敬厚かりし大なる塚を祭る。中央に頭分(かしらぶん)を埋め、周囲に子分(こぶん)の尸(しかばね)を埋めたる跡あり。俗に平経盛の塚という。経盛の塚のみならば、この人敦盛という美少年の父たりしというばかりで、わが国に何の殊勲ありしとも聞かざれば、潰すもあるいは恕すべし。しかるにこの辺に神軍(かみいくさ)の伝説のこり、また石鏃(いしのやのね)など出る。墓の構造、埋め方からして経盛時代の物にあらず。故に上古の墳墓制、史書に載らざる時代の制を考えうるに、はなはだ有効の材料なり。これも合祀のため荒寥し、早晩畑となりおわるならん。

   *

」の箇所が、ここで熊楠の言っている「世には、全くの啌話(うそばなし)、無く、古傳(ふるきつたへ)は、必ず、多少の事實に基く」のよき証左となろう。]

 印度の婆羅門、原來(ぐわんらい)、師の妻の外、他人、殊に、劣族の妻に通ずるを、重罪とせず。後世迄、新婦(はなよめ)を迎ふる者、重く、婆羅門に贈りて、破素《はそ》し貰ひし事、予ら幼時まで、紀州の一向宗の有難屋連(ありがたやれん)、厚く資(たから)を献じて、門跡の寢室(ねま)近く、妙齡の生娘(きむすめ)を臥《ふせ》させ貰ひしに近し。去れば、王政の世には、諸王が配下の妻女に於る權力、無限にて、西曆紀元頃、「ヴアチヤ」梵士の作、『愛天經(かまでゔあすとら)』七篇二章は、全く、王者、臣民の妻・娘を手に入れる方法を說きたり。其末段に言(いは)く、「アンドラ」民の王は、先づ、臣民の新婦を試《こころむ》る權力有り。「ヴアツアグルマ」民の俗、大臣の妻、夜間(よのま)、王に奉仕す。「ヴァイダルブハ」民は、王に忠誠を表《ひやう》せん迚、其子婦(よめ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を一月間、王の閨《ねや》に納(い)る。「スラシユトラ」民の妻は、王の好みの儘、單獨(ひとり)又、群(むれ)て、その閨房に詣(いた)るを例とすと。歐州には、古羅馬の「オーダスツス」帝、吾國の師直《もろなほ》、秀吉と同じく、每度、臣下の妻を招きて、之を姦し、其後の諸帝、斯《かか》る行ひ有りし人、多し。降《くだつ》て、中世紀に及び、諸國の王侯に、處女權(メツヅン・ライツ)有り。人、新婦を迎《むかふ》れば、初夜、又、初め數夜、その領主の側に臥させた後ならでは、夫の手に入らぬ也。蘇格蘭(すこつとらんど)では、十一世紀に「マルコルム」三世、此制を廢せしが、佛國抔には、股權(キユイサーシ)とて、十七世紀迄、多少、存せり。此名は、君主、長靴穿(はき)きし一脚を、新婦(はなよめ)の牀に入れ、手槍を持《もち》て疲るゝ迄座り込み、君主、去る迄、夫が新婦の寢室(ねま)に入るを得ざりしに出づ。夫、此耻辱を免(のがれ)んとて、稅を拂ひ、或は傭役し、甚しきは、暴動を起し、又、「義經は母をされたと娘をし」と云ふ川柳的の復讐をやつたもあり、佛國「ブリヴ」邑(むら)の若き侍、領主が己れの新婦(はなよめ)を試ると同時に、領主の艷妻を訪ひ、通宵(つうせう)して、之に、領主の體格不相應の大男兒を產ませたる椿事、有り。斯る事より、此弊風、遂に亡びつ。

[やぶちゃん注:「破素」処女を犯すこと。

「有難屋」江戸時代以降の語であるが、神仏を無暗に信仰する人。特に一向宗(浄土真宗)の門徒衆を揶揄して卑称することがある。

『「ヴアチヤ」梵士の作』「愛天經(かまでゔあすとら)」古代インドの性愛論書「カーマ・スートラ」。推定で凡そ四世紀から五世紀にかけて成立した作品とされる。著者はヴァーツヤーヤナで、正式なタイトルは「ヴァーツヤーヤナ・カーマスートラ」。大場正史訳の角川文庫版を所持しているが、書庫の深みに沈んでいて、見出せない。

「アンドラ」紀元前一世紀頃にインドのデカン高原を支配した王朝。アーリア系のマハーラーシュトリー族がアンドラ人を征服して建てたとされる。

「ヴアツアグルマ」ヴァーカータカ朝(古代インドのデカン地方を支配した三~六世紀の王朝)のヴァツァグルマ系列の首都であるヴァツァグルマ。現在のワシム

「ヴァイダルブハ」不詳。

「スラシユトラ」不詳。

『「オーダスツス」帝』ローマ帝国初代皇帝(在位:紀元前二七年~紀元後一四年)アウグストゥス(ラテン語:Augustus)か。

「師直」足利尊氏に側近として仕えた武将高師直(こうのもろなお)。正式な名乗りは「高階(たかしなの)師直」。

「處女權(メツヅン・ライツ)」「ライツ」は“right”(「権利」)だが、「メツヅン」の綴り不明。

『「マルコルム」三世』スコットランド王マルカムⅢ世(Malcolm III 一〇三一年 ~一〇九三年/在位:一〇五八年~没年)。

「股權(キユイサーシ)」“droit de cuissage”(ドロワ・ド・キュサージュ:「股の権利」)。

「義經は母をされたと娘をし」「義経も母をされたで娘をし」とも。Q&Aサイトのこちらに、源義経が、母である常盤御前を平清盛が妾とした仕返しに、「壇ノ浦の戦い」の後、助けた建礼門院を犯したという江戸時代の川柳。回答者「けいすけさん」によれば、『丸谷才一によると、「源平盛衰記」が大元です(『恋と女の日本文学』)』。『「源平盛衰記」巻第四十八(灌頂之巻)で、建礼門院は後白河院に対して、「源氏に追われて同じ船で暮らしていたため、兄の宗盛と共寝したというひどい噂を立てられ、また』、『九郎判官に生け捕られて、心ならずも』『浮いた噂が立ちました。これが畜生道に当たります」と語っているそうです』。『ちなみに丸谷は、義経の色好みぶりや女院の都を慕う心から、「この色事はあり得たでせう」と述べています』とあった。以上の回答者の原文当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの明治三五(一九〇二)年博文館刊の「帝国文庫」全一括版のここ(左ページ七行目以下を参照)。

『「ブリヴ」邑(むら)』ブリーヴ=ラ=ガイヤルド(Brive-la-Gaillarde)。ここ。これは、ウィキの「初夜権」「参考:南方熊楠」の中のこの部分への言及のリンク先に拠って判明した。]

 此風俗の起りは、基督敎の古(いにし)え[やぶちゃん注:ママ。]、初婚の夜、素女點(ゔあーじにちー)を上帝に捧ぐる迚、夫婦同臥を嚴禁し、北亞非利加(きたあふりか)では、上帝の名代に辱(かたじけな)くも僧正(びしよつぷす)が、民の新婦と同褥《どうじゆく》し玉へるより轉じて、其れは善い思ひ付きと、諸國君長が、此制を競ふて實行せるに及べりとの事なれど、歐州のみならず、印度、「クルヂスタン」、「アンダマン」島、眞臘(かんぼぢあ)、占城(ちやんぱ)、滿喇加(まらつか)、「マリヤナ」島、亞非利加(あふりか)、及び、南・北米の或る部にも、古來、斯る風俗有《あり》しを參考すれば、歐州、亦、自(おのづか)ら斯《こ》の舊慣有り。必《かならず》しも耶蘇敎より訛傳せしに非じと思はる(『大英類典(エンサイクロペヂア・ブリタニカ)』十一板、卷一五。「ヂスレリ」『文界奇觀(キユリオシチース・オヴ・リテラチユル)』九板、卷一。「カール・シユミット」『初婚夜論(ジユス・プリマエ・ノクチス)』。「コラン・ド・プランチー」『封建字彙(ヂクシヨナール・フエオダル)』卷一、參取。)。『後漢書』南蠻傳曰《いはく》、交趾之西、有噉ㇾ人國云々。娶ㇾ妻美、則讓兄。今烏滸人是也。〔交趾(かうし)の西に、人を噉(くら)ふ國、有り云々。妻を娶りて美なれば、則ち、其の兄に讓る。今、烏滸(おこ)の人は是れなり。〕。本邦で痴漢(あほう)を烏滸(おこ)の者と云ふは之に基くと云ふ。數十年前迄、紀州勝浦(かつら[やぶちゃん注:ママ。])港で、女子、妙齡に及べば、巧者の老爺(おやぢ)に破素を托し、事、竟《をはり》て、桃紅色(もゝいろ)の褌《ふんどし》と、米と酒を以て、酬禮する習俗なりし。又、『中陵漫錄』卷十一に云く、「羽州米澤の荻村《をぎ》にては、媒《なかうど》する者、女の方に行《ゆき》て、其女を受取《うけとり》て、先づ、媒者(なかうど)の傍(そば)に臥《ふせ》しむること、三夜(みよさ)にして、餅を、圓く作《つくり》て、百八、媒者(なかうど)付負(つきおふ)て、女を連往《つれゆ》き、其禮を調ふ云々」。要は、央掘摩千人切りと、淸淨太子、處女權を過用(やりすご)して、民に殺されし話と、最初、別物なりしを、佛徒が、古く釋尊の金口《こんく》に托し、連接して、一《ひとつ》の因緣談(ばなし)と成(なせ)る也。

[やぶちゃん注:「素女點(ゔあーじにちー)」“virginity”。処女性。

「僧正(びしよつぷす)」ビショップ 。“Bishop”。キリスト教会の高級聖職者。カトリックでは「司教」、プロテスタントでは「主教」又は「監督」、ギリシャ正教会・イギリス国教会では「主教」と訳される。その他、広汎に「僧正」とも訳される。

「クルヂスタン」クルディスタン。中東北部の一地域で、トルコ東部・イラク北部・イラン西部、及び、シリア北部とアルメニアの一部分に跨り、ザグロス山脈とタウルス山脈の東部延長部分を包含する、伝統的に主としてクルド人が居住する地理的領域を指す。チグリス・ユーフラテス川の中・上流域を中心に広がる山岳地帯。面積は約三十九万二千平方キロメートルに及ぶ。参照したウィキの「クルディスタン」にある、こちらの地図を参照されたい。

『「アンダマン」島』アンダマン諸島はインド東部のベンガル湾に浮かぶ、インド・ミャンマーに属する島々。南の方にあるニコバル諸島とともに、インドの連邦直轄地域アンダマン・ニコバル諸島を成している。また数島はミャンマーに属す。参照したウィキの「アンダマン諸島」にある、こちらの地図を参照されたい。

「占城(ちやんぱ)」チャンパ王国。現在のベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在した国家。主要住民の「古チャム人」はベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代半ばまで「林邑」と呼び、その後、「環王」を称したが、唐末以降は「占城」と呼んだ。位置は参照したウィキの「占城」の地図を見られたい。

「滿喇加(まらつか)」マラッカ或いはムラカ(マレー語: Melaka)は、マレーシアの港湾都市。マレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する、ムラカ州(マラッカ州)の州都である。古くはマラッカ王国として栄えた。ここ

『「マリヤナ」島』ミクロネシア北西部の列島であるマリアナ諸島。東の北西太平洋と西のフィリピン海の境界に位置し、北には小笠原諸島、南にはカロリン諸島、東にはマリアナ海溝がある。南北約八百キロメートルに連なる約十五の島から構成される。ここ

「『大英類典(エンサイクロペヂア・ブリタニカ)』十一板、卷一五」「Internet archive」ののこれが当該原本であるが、何を見たのか判らないので、表紙でリンクした。 

『「ヂスレリ」『文界奇觀(キユリオシチース・オヴ・リテラチユル)』九板、卷一』イギリスの作家アイザック・ディズレリー(Isaac D'Israeli 一七六六年~一八四八年)の“Curiosities of Literature” (「文学の好奇心」:一七九一年~一八二四年刊)。同前でリンクした。

『「カール・シユミット」『初婚夜論(ジユス・プリマエ・ノクチス)』』ドイツの法律史家カール・ヨーゼフ・リボリウス・シュミット(Karl Joseph Liborius Schmidt 一八三六 年~ 一八九四 年)の“Jus primae noctis. Eine geschichtliche Untersuchung.” (「初夜権利:その歴史的研究」。一八八一年)。同前でリンクした。

『「コラン・ド・プランチー」『封建字彙(ヂクシヨナール・フエオダル)』卷一』コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。当該書は“Dictionnaire féodal ou Recherches et anecdotes sur les Dimes et les droits féodaux, les fiefs et les bénéfices, les privilèges etc. et sur tout ce qui tient à la Féodalité.”(「十分の一税と封建的権利・領地と受益者・その特権等に関する封建時代の辞書、又は、研究と逸話及び封建主義に関連する総てに就いて」。一八一九年)。同前でリンクした。

「後漢書」後漢(二五年〜二二〇年)の歴史を記した中国の正史の一つ。五世紀の南宋の茫曄(はんよう)の撰になる。

「交趾」ベトナム北部の交趾郡。

「紀州勝浦(かつら)港」現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(なちかつうらちょう)。

「『中陵漫錄』卷十一に云く、「羽州米澤の荻村にては、……」「中陵漫錄」は水戸藩の本草学者佐藤中陵成裕(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)が文政九(一八二六)年に完成させた採薬のための諸国跋渉の中での見聞記録。以下のようにある(底本は国書刊行会昭和五一(一九七六)年刊「日本随筆大成 第三期第3巻」所収のものを用いたが、恣意的に正字化した)。読点を追加し、読みは推定で歴史的仮名遣で附した。

   *

   ○荻村(をぎむら)の婚姻

婚姻の禮、僻邑(へきいう)に至(いたり)ては種々(しゆじゆ)あり。羽州米澤の荻村にては、媒(なかうど)するもの、女の方に行(ゆき)て其女を請受(こひうけ)て、先(まづ)、媒者(なかうどのもの)の傍(かたはら)に臥(ふせ)しむる事、三夜にして、餠を、圓(まる)く作りて、百八、媒者、付負(つきおふ)て、女を連行(つれゆ)き、其禮を調ふ。七日(なぬか)にして蒸飯(むしめし)を添(そへ)て、父母の安(やすき)を問(とひ)に、歸らしむ。此等の送迎は、村中(むらうち)の少年、五、六人にて、往還す。其婚姻の夜も、少年を遣(やり)て、女の道具を負來(おひきたら)しむ。其時に、負來(おひきたり)て、土足にて、上にあがり、出(いで)んとす。是を、其荷繩と共に、忽(たちまち)に、「取らん。」と相爭(あひあらそふ)て、其荷繩を取らんとす。取(とる)を手柄とし、取れざるを[やぶちゃん注:「も」を入れたい。]手柄とす。何れにしても、酒肴を進(すすめ)て、大(おほき)に醉(ゑは)しむ。

   *

「羽州米澤の荻村」現在の米沢市のかなり北に当たるが、山形県南陽市荻があるが、ここか。

「釋尊の金口」釈迦の説法。]c

2022/10/30

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 千人切の話(その3)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(左ページ二行目。底本も改行されてある)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で「選集」を参考(「選集」は漢文部が編者によって訓読されてある。但し、現代仮名遣という気持ちの悪いもの)に訓読を示した。なお、本篇は、やや長いので、分割した。]

 

 指鬘《しまん》、梵語で鴦窶利摩羅(あんぐりまありや)、略して央掘摩《わうくつま》と書く。劉宋の世《よ》、支那え[やぶちゃん注:ママ。]來たりし印度僧、德賢(ぐにやばあどら)所譯『央掘摩羅經《あうくつまらきやう》』によれば、佛、在世に、舍衞城の北、薩那(さつな)村に梵種の貧女(ひんぢよ)賢女(ばあどら)と名《なづ》くる有り。男兒を產み、一切世間現(いつさいせけんげん)と名く。少(せう)にして、父、死す。十二歲にして、人相色力《にんさうしきりき》、具足し、聰明辨才あり。無垢賢(まにばあどら)と云《いへ》る梵師に學ぶ。或日、師王の請《せい》を受け、世間現に、留守、賴み、出で往く。師の妻、年若く、美人なりしが、世間現を見て、染着(せんちやく)し、忽ち、儀軌を忘れ、前(すゝ)んで其衣を執る。世間現、「師の妻はわれの母に齊《ひと》し。如何《いかん》ぞ非法を行はん。」とて、衣を捨てゝ、之を避く。彼《かの》婦、慾心、熾盛(さかん)にて、泣《なき》て念ずらく、『彼れ、意に隨はず。要(かなら)ず、彼を殺し、更に他の女を娶《めと》らざらしめん。』と。卽ち、自攫其體、婬亂彌熾、自燒成病〔自(みづ)から其の體を攫(つか)み、婬亂、彌(いよい)よ、熾(さか)んにして、自ら、燒きて病ひと成る。〕、女人、得意の謟(いつはり)を行ひ、其身を莊嚴(かざり)たて、繩もて、自ら縊《くく》り、足、地を離れず。夫、歸り來り、刀もて、繩を截(た)ち、大《おほい》に叫んで、「誰《た》が所爲(しわざ)ぞ。」と問h。婦、答ふらく、「是れ、世間現、非法を行なはん迚《とて》、吾に强逼(きやうふく)し、斯《かく》行へり。」と。夫、無垢賢、豫(かね)て、世間現、生まれし日、一切王種所有の刀劍、自《おのづか》ら拔け出で、捲屈(まきかがん)で、地に落《おち》たる瑞相より推して、此人、大德力あるを知り、『迚(とて)も自分の手に及ばぬ奴。』と思ひければ、『何とかして、自滅させ遣《やら》ん。』とて、世間現を招き、「汝は惡人也。所尊(めうえ[やぶちゃん注:ママ。])を毀辱(きじよく)せり。千人を殺して罪を除《のぞ》け。」と命ず。世間現、天性、恭順、師の命を重んず。卽ち、師に白(まを)す。「千人を殺す事、我《わが》志に非ず。」と。師、之を强《しひ》しかば、止むを得ず、承諾す。師、又、告ぐ。「一人を殺す每に、其指を取《とり》て鬘《まん》と作し、千人の指を、首に冠《かふぶ》りて還らば、婆羅門となるべし。」と。これより、世間現を指鬘と名く。已に九百九十九人迄殺し、「今一人で事濟(すむ)べし。」と、血眼に成《なり》て暴れ廻る處へ、其母、彼の饑(うえ[やぶちゃん注:ママ。])たるを察し、自ら四種の美食を持ち、送り往く。子、母を見て、『我母を千人の員(かず)に入れ、天上に生まれしむべし。』迚、劍を執《とり》て之を殺さんとす。その時、世尊、一切智もて、此事を知り、忽然、指鬘の前に現ぜしかば、「我れ、母の代りに、この者を殺すべし。」と、斬懸《きりかか》りしも、佛、神足もて、斬られず、反つて偈(げ)を說《とき》て、母恩の大なるを曉(さと)し、指鬘を降伏して、得道し、羅漢と成《なら》しむ。然れども、多く人を殺せし報いに因《より》て、日夜、血の汗、衣を徹《とほ》せりと云ふ。玄奘の『西域記』に、「指鬘が母を殺さんとして、佛に降伏されし故蹟を覩(み)たり。」と記せり。『增一阿含經(ぞういちあごんきやう)』卷三に、釋尊、自ら、諸弟子を品評せる内、我聲聞中第一比丘、體性利根、智慧深淵、所謂央掘魔比丘是也〔我聲聞中(わがこゑぶんちゆう)第一の比丘は、體性(たいしやう)、利根にして、智慧、深遠なり。所謂(いはゆる)、央据魔比丘(わうくつまびく)、是れなり。〕。と見え、卷卅一に、「央据摩千人切」を說く、略《ほぼ》上文に同じく、其得道の後、「我、賢聖に從《したがひ》て生《しやう》じ、以來、殺生せず。」と、至誠の言を持して、難產婦人を安產せしめたり、と見ゆ。罪深かりし丈《だ》け、中々の俊傑と思はる。

[やぶちゃん注:「指鬘」「鴦窶利摩羅(あんぐりまありや)」「央掘摩」既注のアングリマーラ。

「劉宋」南宋(四二〇年~四七九年)のこと。「劉」は帝の姓。

「德賢(ぐにやばあどら)」詳細事績不詳。

「央掘摩羅經」は「大蔵経データベース」では、経典引用はあるが、全経典の電子化が見当たらない。但し、「大方廣佛華嚴經隨疏演義鈔」にいほぼ同一の文字列を確認出来た。他にも複数の中文サイトの当該経のものも参考にして校合した。一九九一年河出書房新社刊の『河出文庫』中沢新一編《南方熊楠コレクションⅢ》「浄のセクソロジー」所収の本篇の注によれば、『四巻。宋の求那跋陀羅訳。仏弟子の一人、央掘魔羅の経歴を大乗的に脚色して述べた経典』とある。

「舍衞城」サンスクリット語「シュラーバスティー」の漢音写。釈迦在世当時、北インドにあった憍薩羅(かまら)国の首都の名。波斯匿(プラセーナジット)王の統治下にあり、後に釈迦族は、その子、毘瑠璃(ヴィルーダカ)王に亡ぼされた。都城南方の祇園精舎は著名。現在のウツタル・プラデシュ州のサヘート・マヘート(グーグル・マップ・データ)一帯に相当する。

「薩那(さつな)村」不詳。

「梵師」バラモン僧。後に「無垢賢」と出るのも彼を指す。

「强逼(きやうふく)」強迫に同じ。

「所尊(めうえ)」目上。

「毀辱(きじよく)」謗(そし)り辱(かづかし)めること。

「鬘」「かづら(かずら)」。髪飾り。ここは殺した人の指を一本斬り取り、蔓草にそれ連ねた飾としたものを指す。「ユニバーサル・ソルジャー」のドルフ・ラングレンが演じた彼が、ベトナム戦争中に殺した人の耳を繋げて首にかけてニヤっとしていたのを思い出す。

「增一阿含經」は「大蔵経データベース」で「增壹阿含經」でヒットし、同一の文字列を確認出来た。同前の「浄のセクソロジー」所収の本篇の注によれば、『四『阿含経』(長・中・雑・増一)の一つ。五一巻。東普の瞿曇僧伽提婆』(くどんそうぎゃだいば)『訳。『阿含経』は原始仏教の経典で実際にブッダが説いたと思われる言葉が含まれている』とある。 ]

 戰國より織・豐二氏の頃、首供養と云ふ事有り。例せば『氏鄕記』に、村瀨又兵衞、首取村瀨と云ふ。首供養、三度迄、せり。無智の者故、氏鄕、五百石與へしを、不足にて、「千石、賜え。」と愁訴す。とかくしてあるうち、毒蕈(どくきのこ)を食《くら》ひ、死せりと云ひ、『常山紀談』に「『別所家《べつしよけ》にて、首供養したる人有り。』と孝隆《よしたか》(黑田)、聞きて、「秦桐若(はだ きりわか)、首、三十一、取りたるに、惜しむべきは、死したりき。吉田六之助正利、供養すべし。」と言《いは》れしに、正利、「首數《くびかず》、二十七、取りて候。』とて、辭したりけり。孝隆、「小氣《せうき》なる男哉《かな》。今、卅一歲也《なり》。此後、首取る間敷《まじき》とや。先づ、供養して、後に、其數を合《あは》せよ。」とて、米百石、與へ、供養して、播州靑山の南に塚を築きたり。後、所々の合戰、朝鮮の軍《いくさ》迄に、取《とり》たる首、五十に及べり」と載す。惟《おも》ふに田代孫右衞門(西鶴は源右衞門、又、如風とし、『繪本合邦辻』には彌左衞門とせり)、若かりし時、戰場で、首、多く取り、又、辻切《つじぎり》抔(など)試みける人の、老後、天王寺内に首供養の塚を築き、碑を立てたるを、千人切りの石塔と略傳せしならん。扨《さて》、後年、上出《じやうしゆつ》佛經諸說を附會して、千疋切りの譚、出で來し物歟。

[やぶちゃん注:「氏鄕記」戦国武将蒲生氏郷の事跡を記した書。似たようなものに「蒲生氏郷記」があるが、別本。国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧」第十四冊で並んで掲載されている。ここからが、「氏鄕記」。二度、探して、やっと見つけた。ここの右ページ最終行から次のページの六行目まで。

「常山紀談」江戸中期の随筆・史書。正編二十五巻・拾遺四巻に付録「雨夜灯」(あまよのともしび)一巻で全三十冊から成る。儒者で備前岡山藩士の湯浅常山の著になる。元文四(一七三九)年の自序があり、原型は其頃に成ったと思われるが、刊行は著者没後三十年程後の文化・文政年間(一八〇四年~一八三〇年)。戦国から江戸初頭の武士の逸話や言行七百余を諸書から任意に抄出して集大成したもの。著者自らが「ここに収めた逸話は大いに教訓に資する故に、事実のみを記す」と述べている通り、内容は極めて興味深いエピソードに富み、それが著者の人柄を反映した謹厳実直な執筆態度や平明簡潔な文章と相俟って多くの読者を集めた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。私も好きな本で、所持する岩波文庫版で読みを添えた。]

「別所家」播磨の戦国大名を輩出した氏族。

「孝隆(黑田)」竹中半兵衛重治とともに秀吉の参謀として知られる黒田如水孝高(よしたか)のこと。「孝隆」は初名「祐隆」から改名した時の名で、後に「孝高」と変えている。

「秦桐若」黒田孝高の家臣秦桐若丸(はた(はだ)のきりわかまる 天文一一(一五四二)年~天正一三(一五八三)年)。当該ウィキによれば、播磨国生まれで、『黒田家中で軍功を挙げ』、『関西から中国地方にかけての習慣となっていた、首を』三十三『個取った者が行う首供養を最初に行った』。「山崎の戦い」(天正一〇(一五八二)年六月二日の「本能寺の変」を受け、同年六月十三日に摂津国と山城国の境の山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町)から勝龍寺城(同前で京都府長岡京市)一帯で、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、明智光秀の軍勢が激突した戦い)での『負傷が元で、翌』『年』『に亡くなった』。一丈(約三メートル)の『旗指し物に唐団扇(とううちわ)を使用していた。これを見た敵は近付けず、近付いてから掲げられれば』、『驚き引き退いたと言われる』。「新書太閤記」では、十『人力の壮士であり、「黒田の十団子」と世に知られ』、「山崎の戦い」にあっては、『踏み止まって』、『寄せ手を持て余させていた明智方に対』した。『左右から切りかかる藤田藤蔵、藤田伝兵衛を切り、そこへ槍で突きかかってきた奥田市助、溝尾五右衛門を』、三『ヶ所の傷を負いながら』、『これも切り倒した。しかし、翌年の正月、湯治していた有馬温泉の湯を飲んで』、『腹痛を起こし、傷が破れて』、四十『歳で亡くなったとされている』とある。毒茸に、有馬の湯と如何にもしょぼ臭い死に様は……何やらん、数多の首の怨念か……

「吉田六之助正利」黒田二十四騎の一人に吉田長利(天文一六(一五四七)年生まれ)がおり、同じ一人に菅(かん)正利(永禄一〇(一五六七)年)がいる。後者は数え十五で小姓として出仕した折り、孝高の命によって吉田長利(六郎太夫)の武運にあやかるように「六之助」を名乗っている。「今、卅一歲」とあること、「播州靑山」(兵庫県姫路市青山)「の南に塚を築」いたこと(吉田は、姫路のすぐ北の八代山に城を構えていた八代道慶の子として生まれている。一方の菅は、父の代に播磨国越部(この附近)に移り住んでいるので、決め手にならない)、「朝鮮の軍」(「文禄・慶長の役」はグレゴリオ暦一五九二年から一五九八年までであるが、二人ともに従軍して活躍しているのでこれもダメ)のに出て活躍したという三つが正しく一致するのは、年齢が決め手となった。それは、先の秦桐若が亡くなった天正一三(一五八三)年の時点で吉田長利は既に数え三十七になってしまっているからで、これは菅六之助正利の誤りであることが判った。]

 多くの動物を殺して、人を呪詛する事、眞言の諸方に屢《しばし》ば、見え、支那にも巫蠱(ふこ)の蠱の字は、皿に蟲を盛れるに象《かたど》る。『康煕字典』に『通志・六書略《りくしよりやく》』を引《ひき》て、造ㇾ蠱之法、以百蟲皿中、俾相啖食、其存者爲ㇾ蠱。〔蠱(こ)を造るの法は、百蟲を以つて皿の中(うち)に置き、相(あひたが)ひに啖-食《くら》はしめ、其の存(そん)する者を蠱と爲(な)す。〕とあり、『焦氏筆乘』續集五に、江南之地多ㇾ蠱、以五月五日、聚百種蟲、大者至ㇾ蛇、小者至ㇾ虱、合置器中、令自相啖、因ㇾ食入人腹内、食其五臟、死則其產、移蠱主之家(下略)。〔江南の地に、蠱、多し。五月五日を以つて、百種の蟲を聚(あつ)む。大(だい)なる者は蛇に至り、小なる者は虱(しらみ)に至る。合はせて器中(きちゆう)に置き、自(みづ)から相ひ啖(く)はしむ。食(しよく)に因りて、人の腹の内に入(い)るれば、五臟を食らひ、死すれば、則ち、其の產は、蠱主の家に移る。(下略)」〕。今も後印度(こういんど)に斯《かか》る法を行ふ者有り。田代が龜を殺さんとせし時、龜、手・足・首を出ださずと云《いへ》るは、『雜阿含經《ざふあごんきやう》』卷四十三に、龜蟲畏野干、藏六於殼内、比丘善攝ㇾ心、密藏諸覺想、不ㇾ依不怖畏、覆ㇾ心勿言說〔龜蟲(かめ)は野干(やかん)を畏れ、六(ろく)を殼(かく)の内(うち)に藏(かく)す。比丘は、善(よ)く心を攝(をさ)め、密(ひそ)かに諸(もろもろ)の覺想(かくさう)を藏す。依らず、彼(かのもの)を怖れず、心を覆《おほ》ひて、言說する勿(なか)れ。〕、比丘(びく)が、能く口を愼むを、龜が首尾手足を藏して、野干に喫(くらは)れざるに比せるに出づ。扨、『本草』に、贔屓《ひき》は大龜の屬、好んで重きを負えば[やぶちゃん注:ママ。]、今、石碑の下の龜趺(かめいし)、其形に象ると云ふ。此風を傳えて[やぶちゃん注:ママ。]、田代氏が建《たて》たる碑にも、龜狀の座石《すへいし》を設けたるを、藏六の譬喩と合せて、彼人(かれ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]龜を殺さんとして、母に妨げられし、と作りしなるべし。『類聚名物考』千人斬りの條の次(あと)に、短く指鬘のことを列せるも、田代氏のことを序《のべ》ず。序(つひで)に言ふ、紀州日高郡、寒川(さむかは)の大迫《おほさこ》某、銃獵の名人で、百年許り前、千疋供養を營めりと、その後胤《こういん》西面欽一郞《にしおきんいちらう》氏より聞く。

[やぶちゃん注:「巫蠱(ふこ)」「蠱毒」「蠱術」「蠱道」などとも呼ぶ、古代中国において用いられた呪術で、一般的にはブラック・マジックに属するネガティヴなものを指す。当該ウィキによれば、『動物を使うもので、中国華南の少数民族の間で受け継がれている』。『犬を使用した呪術である犬神、猫を使用した呪術である猫鬼などと並ぶ、動物を使った呪術の一種である。代表的な術式として』明代の楼英の撰になる「医学綱目」(一五六五年刊)の『巻二十五の記載では「ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いさせ、勝ち残ったものが神霊となるため』、『これを祀る。この毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、思い通りに福を得たり、富貴を図ったりする。人がこの毒に当たると、症状はさまざまであるが「一定期間のうちにその人は大抵死ぬ」と記載されている』。『古代中国において、広く用いられていたとされる。どのくらい昔から用いられていたかは定かではないが、白川静など、古代における呪術の重要性を主張する漢字学者は、殷・周時代の甲骨文字から蠱毒の痕跡を読み取っている』。『「畜蠱」(蠱の作り方)についての最も早い記録は』、「隋書」の「地理志」にある『「五月五日に百種の虫を集め、大きなものは蛇、小さなものは虱と、併せて器の中に置き、互いに喰らわせ、最後の一種に残ったものを留める。蛇であれば蛇蠱、虱であれば虱蠱である。これを行って人を殺す」といったものである』。『中国の法令では、蠱毒を作って人を殺した場合』或いは『殺そうとした場合』、さらに『これらを教唆した場合には死刑にあたる旨の規定があり』、「唐律疏議巻十八では絞首刑、「大明律」巻十九や、「大清律例」巻三十では『斬首刑となっている』。『日本では、厭魅(えんみ)』(「魘魅」とも書く。咒(まじな)いで以って人を呪い殺すこと。或いは、呪法によって死者の体を起こして、これに人を殺させるゾンビ様のものも含まれる)『と並んで「蠱毒厭魅」として恐れられ、養老律令の中の「賊盗律」に記載があるように、厳しく禁止されていた。実際に処罰された例としては』、神護景雲三(七六九)年に、女官の『県犬養姉女』(あがたのいぬかいのあねめ)『らが不破内』(ふわない)『親王の命で』、『蠱毒を行った罪によって流罪となったこと』、宝亀三(七七二)年に『井上内親王が蠱毒の罪によって廃されたこと』『などが』「続日本紀」『に記されている。平安時代以降も、たびたび詔を出して禁止されている』とある。

「通志・六書略」南宋の歴史家鄭樵(ていしょう)が書き、一一六一年に板行された優れた史書。形式は断代史を批判して通史である「史記」に倣い、三皇から隋唐各代までの法令制度を記録する。全書二百巻に、考証三巻を付け加え、紀伝体としての帝紀十八巻・皇后列伝二巻・年譜四巻・二十略五十一巻・列伝百二十五巻を包括しているが、中でも二十略が最も高く評価される。二十略は紀伝体における「書」・「志」といった分野をより拡充したもので、従来の政治史や人物伝に偏りがちな歴史の記述・論評を、様々な学術分野の発展の様子に重きを置いたものにしたいという抱負から生まれたものである。その「六書略」は巻三十一から三十五までで、「漢字の成り立ち」について記されたものである(以上は当該ウィキに拠った)。

「俾」は使役の助字。

「焦氏筆乘」明の儒学者で歴史家の焦竑(しょうこう 一五四〇年~一六二〇年)の随筆。「中國哲學書電子化計劃」の同書の影印本の当該箇所で校合し、熊楠の返り点もおかしいので、勝手に手を加えた。

「死則其產、移蠱主之家」の「產」は、一見、その蠱毒の対象生物が、もともとその蠱を作った主人の家に戻るという意味に見えるが、私は中国の蠱毒が、怨念に加えて、さらに極めて現実的利益に係わることから、蠱毒で死んだ者の全財「産」は蠱を作った者の物になるという意味でとった。中国の志怪小説では、そうしたケースが、結構、多いからである。

「後印度(こういんど)」東南アジアの欧米人による旧称。「後インド」(英語:Further India)。

「雜阿含經」の部分は「大蔵経データベース」で校合し、そこに附帯する別な版本の正字を採用した。

「野干」原仏典のそれはインドに棲息するジャッカルを指すが、ジャッカルがいない中国では、キツネに似た妖獣として認識され、本邦では、専ら、狐の異名となってしまった。「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(5:狼)」の私の『家犬の祖先が狼また「ジヤツカル」より出たるは、學者間既に定論あり』の注で詳しく考察した。

「贔屓《ひき》」読みは「ひいき」ではないの注意(但し、意味は以下に示される通り、これに基づく)。当該ウィキによれば、『中国における伝説上の生物。石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と言う』。『中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ』九『頭の神獣・竜生九子の一つで、その姿は亀に似ている。重きを負うことを好むといわれ、そのため』、『古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。日本の諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺だが、その由来は、柱の土台である贔屓を引っぱると』、『柱が倒れるからに他ならない』。『「贔屓」を古くは「贔屭」と書いた。「贔」は「貝」が三つで、これは財貨が多くあることを表したもの。「屭」はその「贔」を「尸」の下に置いたもので、財貨を多く抱えることを表したものである。「この財貨を多く抱える」が、「大きな荷物を背負う」を経て、「盛んに力を使う」「鼻息を荒くして働く」などの意味をもつようになった』。『また』、『「ひき」の音は、中国語で力んだ時のさまを表す擬音語に由来する』。『明代の李東陽』(一四四七年~一五一六年)『が著した』「懐麓堂集」や、明の文人楊慎(一四八八年~一五五九年)が著した「升庵外集」に『その名が見られる』とある。リンク先に中国の当該物の画像があるが、事実、中国では頻繁に見かけたし、本邦でも、名刹の碑文の台によく認められる。

「田代氏が建たる碑にも、龜狀の座石を設けたる」先に注したが、再掲すると、天王寺の同碑のサイド・パネルにある一枚の塔全景の画像を拡大して、その台部分を見ると、カメの形であることが判る。]

「藏六の譬喩」「亀は六を蔵す」は「法句譬喩経」(ほっけひゆきょう)にも書かれていることを指す。カメが手足四肢と首部と尾部の「六つの体部」を甲の内に蔵し、他物に傷けられぬようにすることを、人が「六根」(外界と直接に接する眼・耳・鼻・舌・身及び意(それらの刺激に連関して発生する内的意識・認識)を守って外界の無常なる何物にも迷わされぬことに譬えたもの。

「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。当該箇所「千人切」は国立国会図書館デジタルコレクションのここにある(「人事部」の一条。左ページ下段)。

「紀州日高郡、寒川」和歌山県日高郡日高川町(ひだかちょう)寒川(そうがわ)

「西面欽一郞氏」(明治七(一八七四)年~昭和三(一九二八)年)は所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九四年講談社刊)によれば、兵生の『富豪』で、熊楠を招かれて、『四十日余り厄介にな』ったとあり、また、「南方熊楠顕彰会のスタッフブログ」の二〇一四年二月八日の記事「本日より開催!! 西面欽一郎・賢輔兄弟展」によれば、『二川村兵生(現田辺市中辺路町)の製材所を南方が植物採集のため訪れてから』(明治四三(一九一〇)年十一月か~十二月頃)『親交が深まり』、欽一郞の『弟の賢輔』ともに、『植物・民俗資料の採集、神社合祀反対運動及び復社運動(上山路村丹生ノ川の丹生神社、龍神村三ツ又の星神社)』(ここが星神社(グーグル・マップ・データ)。そこから南西三キロ弱離れた丹生ノ川(にゅうのがわ)川畔に「丹生神社」が確認出来る)『を通じて南方と文通した』。『欽一郎は、大正年間』には『上山路村長を』十三『年間務め』たとあり、兄弟ともに『日高郡上山路村大字丹生ノ川(現田辺市龍神村)に生まれ』であるとある。既出既注。]

 上述、阿武隈川の源左衞門、知れぬ人に父を討たれ、無念晴しに千人切りを爲せり、と謠曲に有るより、事、相似《あひに》たれば、西鶴、混じて、田代孫右衞門を源右衞門と作(なせ)るか、件《くだん》の謠曲の源左衞門が事と、田代氏の事、頗る、馬來(まれー)人、又「ブギ」人に發生する、「アモク」症に似たり。乃《すなは》ち、彼輩《かのはい》、負債・離別・責罰等で、不平極《きはま》る時、忽ち、發狂して、前後を覺えず、短劍を手にし、出逢ふ男女老幼を刺し盡さんとして息《や》まず、遂に群集に殺さるゝを、衆、之を賞讃の氣味あり。五十六年前、「ワリス」氏、「マカッサー」島で見聞せしは、斯《かか》る事、月に平均、一兩回有り、每囘、五人、十人、又、廿人も、之に遇《あひ》て殺傷されし、となり(氏の『巫來群島記(まれー・あーきぺらご)』十一章)。印度にも、一六三四年、「ジョドプル王(ラジヤ)」の長男、「ジャハン皇(シヤア)」の廷内に「アモク」し、皇(シヤア)を討洩《うちもら》せしが、其臣五人を殺し、十八世紀に「ジョドプル」王の二使、主人と「ハイデラバッド王(ラジヤ)」の爭論に就き、協議すとて、「ハイデラバッド」に往き、突然、起(たつ)て、王(ラジヤ)を刺し、幷(なら)びに、其二十六臣を殺傷して殺されたり(『大英類典(エンサイクロペヂヤ・ブリタニカ)』十一板、卷一)。『武德編年集成』二五に出《いで》たる、平原宮内が、家康の陣營に、突然、闖入して廿七人を殺傷し、自分も殺されたは、隨分、似て居る。

[やぶちゃん注:「アモク」amuck。本来はマレー人に見られる攻撃的な精神錯乱の発作を指す語。マレー語「amog」に由来するが、この語源を遡ると、「決死隊の戦士」を意味する「アムコ」(amuco)から出ているという。この発作が起こると、激しい興奮状態の下(もと)で、破壊的な攻撃性を示し、刀で人に切りかかったりするが、遂には、疲労困憊して倒れ、あとに記憶の欠損が残る。このアモクを、初めて精神医学の立場から記述したのが、ドイツの、かのクレペリンで(一九〇九年)、彼はこれを癲癇・マラリア・脳梅毒・ハシーシュ中毒・熱射病に伴う反応性精神病、或いは躁病の一型などと考えたが,近年では、一種のヒステリー性朦朧状態ととる人が多い(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。しかし、私はこれはマレー人や「ブギ」人(不詳)に限ったものではなく、恐らくは、例えば、未開民族が急激な文明の侵入によって理解不能となること、文字通りの「カルチャー・ショック」の反応性の強い攻撃的なヒステリー症状とみて間違いないと思う。幕末の「ええじゃないか」と、その根っこは共通である。

「月に平均、一兩回」月平均で、必ず一回、或いは、二回。

『「ワリス」氏』「巫來群島記(まれー・あーきぺらご)」インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線「ウォレス線」で知られるイギリスの博物学者・進化論者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)の‘The Malay Archipelago’(「マレー諸島」・一八六九年刊)。

『「マカッサー」島』恐らくは、インドネシアのスラウェシ島のことであろう。同島の東南端近くに、現在のスラウェシ州の州都であるマカッサル(Makassar)がある。

「『大英類典(エンサイクロペヂヤ・ブリタニカ)』十一板、卷一」「Internet archive」の同書のズバリ! “AMUCK, RUNNING”の項である。人物の綴りはそちらで確認されたい。それらの人物に就いては面倒なので、注はしない。悪しからず。

「武德編年集成」江戸中期に編纂された徳川家康の伝記。当該ウィキによれば、『成立は元文』五(一七四〇)年で、『著者は幕臣』『木村高敦。偽書の説、諸家の由緒、軍功の誤りなどの訂正が行われて』、『寛保元』(一七四一)年に『徳川吉宗に献上され』たとある。以下の、「二五に出たる、平原宮内が、家康の陣營に、突然、闖入して廿七人を殺傷し、自分も殺された」というのは、これはなかなか、とんでもない乱入で家康危うしという大事件なのだが、ネット上の記事で言及しているものを見出せなかった。但し、三田村鳶魚の「公方様の話」(中公文庫・鳶魚江戸文庫・一九九七年)の改題再刊本がグーグル・ブックスにあり、その視認可能部分におおまかな梗概が少し、紹介されている。ここである。しかし、これ、実際の話をちゃんと読みたいと思うのは、私ばかりではあるまい。幸いにして、「国文研データセット」のこちらに「武徳編年集成」が総てが画像化されているので、当該画像をダウン・ロードし、視認して電子化することとした。同書の二十五巻を含む表紙は、左二番目のやや半分より手前に、二十四巻と併置カップリンッグしてあるので、そこを目を凝らして探して戴き、その表紙画像の左上外にある「部分URL」(但し、残念なことにこのタグは機能していないので示せない)の末尾の「.jpg」の前の数字「00632」を「00655」まで「<」ボタンで進めると、それが冒頭となる(右丁四行目以下)。この事件、頭に「○頃日」(けいじつ:近頃)とあるだけで、日時がクレジットされていないのが恨みなのだが、前丁の巻頭の記載、及び、直前の記事から、天正十二年十二月十一日(グレゴリオ暦ではこの旧暦の十二月一日が既に一五八五年一月一日である)よりも以前に発生したものと思われる(最後の附記には一説として、同年九月のこととするが、それを最後には否定している。なお、本記事の後の記事は十二月十九日となっている)。本話は長く、「00657」の右丁後ろから三行目まである。カタカナはひらがなとし、漢字はそのまま再現してある(迷った場合は正字としたが、表記出来ない異体字は通用字で示した)。句読点・濁点を追加、一部難読と思われる部分には推定で歴史的仮名遣で読みを添えた(本部には読みは一切ない)。二行割注は【 】で示した。約物は正字で示した。臨場感を出すために、段落を成形し、記号も用いた。敬意の字空けは私には、却って違和感があるので、改行一字下げで示した。

   *

○頃日、甲信の先方の士を、甲陽古府に召(めし)て拜謁を遂(とげ)させ、忠の輕重を糺され、或は、全く本領を賜ひ、或(あるいは)、舊地を減(へら)せらる。

 平原宮内(ひらはらきゆうない)【依田一族。】、本給安堵すべき所に、往日(わうじつ)、「笛吹川一戰」の時、一揆の長(をさ)、大村三右衞門が徒黨たる旨、保坂金右衞門、并に、田村の郷民、是を訴ふ故、兩國の士、拜謁を遂(とぐ)る序(ついで)、

 御前に於て、訴人と對决を命ぜらる。

 平原、

「通意なき。」

由、陳謝して退出する所、其(その)甲乙、

「未判の事、有(あり)て、再び糺問(きうもん)せらるべし。」

とて、是を呼返(よびかへ)さる。

 平原に限らず、羣參(ぐんさん)の先方の士、長袴(ながばかま)を着(ちやく)し、短刀を帶(たい)し、太刀をば、僕從に持(もた)せ置(おき)しが、平原、元來、野心を含める故、其事、露見するかと疑(うたがひ)を生ぜしにや、奥山新八郞が童(どう)、主人の刀を携へ、蹲踞しける處、平原、忽(たちまち)、刀を奪取(うばひとり)て、其僕童を斬殺(きりころ)し、眞驀(まつしぐら)に、

 御前に馳入(はせい)る時、甲陽の小幡藤五郞昌忠、辻彌兵衛(やひやうゑ)盛昌、臺子(だいす)の間(ま)に誥合せしが、兩人、平原に向ひ、藤五郞、短刀を拔(ぬき)ながら、平原が切附(きりつく)る刀を受留(うけとめ)、左の手の指、四つ、擊落(うちおと)さる。續(つづき)て、彌兵衞、短刀を鞘ともに翳(かく)し、飛入(とびいら)んとして、額に疵を蒙る。其血、目に入(いり)て、途方を失ふ。

 時に甲信の士、長袴を着し、進退、輙(たやす)からず。

[やぶちゃん注:「臺子」点茶に用いる諸道具をのせる棚の一種。]

「誥合せしが」「つげあはせしが」(制止の声をかけたが)か。或いは「詰合」で「つめあはせしが」の誤記と考えた方がすんなり読める。]

 手負(ておひ)・死人、廿七人に及べり。

 宮内、既に、

 午前に近付(ちかづく)處、土屋右衛門昌爲、急に、雨戸を引(ひき)て、是れを隔(へだて)る。

 參州衆、永見芯右衞門重頼、傍(かたはら)なる槍を執(とり)けるが、平原、透間(すきま)なく進み來(きた)る故、永見も、槍を取𥄂(とりなを)す。

 隙なく、鐏(やさき)を以て、宮内を突倒(つきたふ)せば、榊原康政が部下、伊藤雁助(がんすけ)、平原を組留(くみとめ)る。

「鐏」本来は、石突(いしづき)の一種で槍の柄の端に被せる筒形で先が細まっているキャップ状のものを指すが、ここはそんなことはしていられない。抜き身の槍の先の意であろう。そこで「やさき」と読んでおいた。]

 時に、脇より、宮内を斬(きらん)とて、誤(あやまり)て、其刀、雁助に中(あた)る【疵、癰(よう)に成(なり)て、後日、雁助、死亡す。】

[やぶちゃん注:「癰」悪性の腫れ物を指す。]

 辻彌兵衞、漸(やうや)く、眼を開き、平原が刀を押(おさ)へ取(とり)、遂に、宮内、誅せらる。

 神君、永見・土屋が働(はたらき)を感ぜられ、小幡が深疵を憐み、丸山萬太郞、山本大琳、兩醫を附置(つけおか)れ、療養を遂(すすめ)らる。

 且、佐藤甚五郞を御使(おつかひ)として、度〻(たびたび)、小幡が陣營に赴く。

 藤五郞、時に二十九歳、日を經て、疵、平癒し、後、又兵衛と改む。

 且、彌兵衛、心は剛也と雖(いへども)、白刄(しらは)を揮ふ敵に空手(からて)に等しき體(てい)にて、卒爾に馳向(はせむ)ひ、創(きず)を蒙る事、

 御旨(おんむね)に應(わう)ぜず、當三月、

 神君へは、八百貫の約を成し仕へ奉る事も、義に叛(そむけ)り。其上、織田信忠へも、勝頼を討(うち)て出(いだ)すべき由にて、三百貫の約をなせし巷說(かうせつ)も有(あり)しかば、僅(わづか)に、綿衣一襲(わたぎぬひとかさね)、黃金一枚、辻に賜はり、御賞愛、甚(はなはだ)、薄(うすし)と云〻。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで、全体が一字下げ。]

 或曰、「平原が狼藉は、當九月、新府に假屋(かりや)を設け、甲信、先方の士、拜謁を許されし時なり。」とも云へり。又、此時、彌兵衛、改易せらると云(いふ)。皆、非也。

   *]

2022/10/29

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 千人切の話(その2)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ七行目の半ばやや下。底本では続いているが、「選集」では改行されてある)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で「選集」を参考(「選集」は漢文部が編者によって訓読されてある。但し、現代仮名遣という気持ちの悪いもの)に訓読を示した。なお、本篇は、やや長いので、分割した。]

 

 是等は小說なれど、古《いにしへ》より諸邦に、淫蕩の人、情事(いろごと)の數多きに誇りし例、少なからず。『三楚新錄』卷一、馬希範淫而無禮、至於先王(馬殷)妾媵無ㇾ不烝通、又使尼潛搜士庶家女有容色上者、皆强取ㇾ之、前後約及數百、然猶有不足之色、乃曰、吾聞軒轅御五百女以昇天、吾其庶幾乎、未ㇾ幾死、大爲識者所ㇾ笑〔馬希範(ばきはん)は、婬にして、禮、無し。先王(馬殷(ばいん:十国の楚の初代の王))の妾媵(せふよう)、烝通(じようつう)せざるは、無し。又、尼(あま)をして士庶(ししよ)の家の女の容色ある者を搜さしめ、皆、强ひて、之れを取る。前後、約(およ)そ、及ぶこと、數百たり。然(しか)も、猶ほ、不足の色、有り。乃(すなは)ち曰はく、「吾(われ)聞く、『軒轅(けんえん)は五百の女を御(ぎよ)して、以つて、天に昇る。』と。吾、其れ、庶-幾(ちか)きか。」と。未だ幾(いく)ばくもなくして死す。大いに識者に笑はらるることと爲(な)れり。〕。支那の黃帝、亜喇伯(あらびあ)の馬哈默德(まほめつと)、希臘の「ヘラクレス」、何《いづ》れも御女《ぎよじよ》の數、莫大なりしを、「盛德」として喧稱され、三世紀の末、「ガウル」の勇將「プロクルス」の自賛に、「サルマチヤ」を征して素女(きむすめ)百人を獲《とり》、一夜に十人を御《ぎよ》し、半月ならぬに、百人を擧げて、既婚婦《しんぞう》に化《くわ》し遣《つか》はせり、と有る。其剛强無雙、恐縮の至りと、「ギボン」先生も『羅馬衰亡史』拾貳章に感嘆せり。古今、實際、かかる俊傑、多ければ、故「ハーバート・スペンセル」が、一夫多妻(ポリガミー)の起りは、繼嗣(あとつぎ)を望むとか、經濟の爲とかよりも、主として、婦女を自意(わがこゝろ)に任せうる事、多きに、誇れるにありと、論ぜしは、最もな言(こと)也。本邦には『長祿記』に、業平の契り玉ひし女、三千三百三十三人、とあり。後世、業平大明神とて、漁色家が專ら仰ぎし事、浮世册子類にしばしば見えたり。六月一日の『日本及日本人』九四頁に、「文化九年云々。『甲子(かつし)夜話』に、ある公卿、もと、院傳勤めし人の、家も富有なるが、何等の好色にや、一千人の女と交わるべき發願して、年若き時より、壯若貴賤を撰ばず、力の及ぶだけ、漁色したり。此兩三年前、願の數に盈(みち)ちたりとて、其祝《いはひ》せられけると云《いへ》るは、高倉太宰大貳永孚(えいふ)(卅九)の事なるべし。」と見ゆ。是等より推して、情事の千人供養も絕無の事ならざるを知るべし。

[やぶちゃん注:「三楚新錄」宋の周羽翀(うちゅう)撰になる十国時代の楚史かと思われる。「中國哲學書電子化計劃」の同書の影印本画像の当該部を調べたところ(影印本の四行目下方から。なお、右の電子化版は機械判読と思われ、誤りが多いので、参考にしてはいけない)、熊楠の引用にはやや問題があることが判ったので、それを参考に手を加えた。返り点なども推定で加えた。

「馬希範」十国時代の楚の第三代の文昭王(八九九年~九四七年/在位:九三二年~九四七年)の本名。武穆(ぶぼく)王馬殷の四男。当該ウィキによれば、『異母兄の衡陽王馬希声の薨去に際し、武穆王馬殷の兄弟相続の遺命により、鎮南軍節度使であった馬希範がその地位を継承した。まもなく』、中国北部を広範に支配していた後唐(こうとう)から『武安武平両軍節度使兼中書令に任じられ、更に』九三四年『には楚王に封』ぜられた。『馬希範は学問を好み』、『漢詩に長じて』は『いたが』、浪費癖や好色癖が『著しく、特に正妻である彭夫人(唐の吉州刺史の彭玕の娘)が死去した後は』姦淫に『走り』、『宴席を数多く設けたとされる。また』、『天策府を建築した際には』、『その門戸檻桿を金や玉で装飾し、壁を丹砂数十万斤を以って塗ったと史書に記録される』。『楚は金銀を産し、また茶葉販売の利益が大きく』、『財政的には豊かであったが、これらの相次ぐ奢侈により国家財政が逼迫、住民への課税が強化されると共に、売官行為や贖罪刑が横行』、『国内は乱れた』。死後は『弟の馬希広が継承し』ているとあった。

「妾媵」「妾」は側室、「媵」(よう)は周代の婚姻形態に始まるとされる側室の一種。当時の天子や貴族が正室を娶る際には、正室の女性とともに、同族の姉妹や従妹が「媵」としてつき従った。そして、正室となった女性が子供を産めなかった場合、その代理として「媵」が子供を産む役目を負った。側室の一種であるが、「妾」とは異なり、媵が産んだ子供は正室の子として扱われた(「媵」の部分は当該ウィキに拠った)。

「烝通」「烝」には「目上或いは身分の高い女性と姦通する」の意がある。

「士庶」「士」は「道を修め、人の長たる身分の者」を、「庶」は「農工商に従う者」の意から転じて、身分の高い人に対して、「一般の人々」の意となった。

「軒轅」中国の伝説上の皇帝である「黄帝」の名。

「庶-幾(ちか)き」この場合は、「庶」・「幾」ともに「近い」の意で、「極めて似ていること」を言う。か。」と。未だ幾ばくもなくして死す。大いに識者に笑はらるることと爲(な)れり。

『「ガウル」の勇將「プロクルス」の……』以下はイギリスの歴史家エドワード・ギボン(Edward Gibbon  一七三七年~一七九四年)の「羅馬衰亡史」(The History of the Decline and Fall of the Roman Empire :一七七六年~一七八八年刊)の「拾貳章」(十二章)を読めば判るだろうと、「The Project Gutenberg」の英文の当該章をざっと見たが、どうも判らない。私は訳本を持たないので、それを購入して調べるまで、以下の部分の注はペンディングする。悪しからず。

「ハーバート・スペンセル」イギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。

「一夫多妻(ポリガミー)」polygamy

「長祿記」室町時代に成立した、「応仁の乱」の元凶といわれる畠山義就(よしなり)の軍記物。「国文学研究資料館」の写本を見ると(始まりはここの右丁の三行目から以下で、熊楠の引用する箇所はここの右丁の後ろから二行目である)、「交野業平事」(かたののなりひらのこと)と目録して、義就が河内国に転戦した際、交野ヶ原を通った折りに、昔、業平がここに鷹狩に来て、俄に大雪に見舞われ、宿を貸してくれた女を見染め、京へ連れ帰ったものの、日に日に女は衰えを見せ、遂に姿を消してしまう。彼女は雪の精であったのであったという話を記したものである。

「日本及日本人」月刊評論雑誌。明治二一(一八八八)年四月、三宅雪嶺・井上円了・杉浦重剛ら政教社同人により創刊された『日本人』を、明治四〇(一九〇七)年に改題したもの。当初から西欧主義に反発した国粋主義を主張し、後、雪嶺の個人雑誌的色彩を濃くした(但し、大正一二(一九二三)年の大震災罹災直後に運営方針から内部で対立し、同年秋に雪嶺は去った)。昭和二〇(一九四五)年二月、終刊。戦後の昭和四一(一九六六)年一月に復刊したものの、時勢に合わず、四年後には廃刊となった。

「文化九年」一八一二年。

「『甲子(かつし)夜話』に、ある公卿、……」私は東洋文庫版で全巻を所持するが、巻数も標題もない中で、調べるのは面倒である。発見したら、電子化して追記する。悪しからず。

「高倉太宰大貳永孚(えいふ)(卅九)」不詳。

 以下の段落は底本でも改行している。]

 上に引《ひき》たる『繪本合邦辻』に、田代の母、百萬遍を催すに先だち、檀寺の僧、仔細を聞《きき》て、「昔し、班足王(はんぞくわう)、『千人の命を絕(たつ)べし。』と大願を發し、九百九十九人を殺し、今一人になって、老母を以て員(かづ[やぶちゃん注:ママ。])に充《あて》んとす。已に害せんとせし時、忽然と、大地、裂けて、班足を陷《おちいれ》る。老母、驚き悲《かなし》み、其髮を摑んで引上《ひきあげ》んとすれど、體、既に地中に落入《おちい》り、髮のみ、老母の手に遺《のこ》りしと、經文に說けり。彌左衞門も、同樣の罪によって、「目前、阿毘《あび》・焦熱《しやうねつ》の苦を受くると覺ゆ。」と言《いへ》りと有り。是れ、其僧、又、著者が記憶の失《しつ》にて、諸經說を混淆せり。乃《すなは》ち、班足王が百王の肉を食らわん迚《とて》、九十九王を囚《とら》え[やぶちゃん注:ママ。]、最後に善宿(ぜんしゆく)王を擒《とら》えしに[やぶちゃん注:ママ。]、「梵志に食を施《ほどこ》さん。」と約して、與へぬ内に死するを悲しむを見、時を期して放還せしに、藏を開き、施し畢《をは》りて、約の通り、還り來たりしに感心して、九十九王と共に縱《ゆる》し歸せし譚(ものがたり)は、『出曜經(しゆつえうきやう)』卷十六に出で、地に陷《おちい》る子の、髮のみ母の手に留まりし話は、『雜寶藏經』卷七に、子が、母の美貌に着(ちやく)し、病と成り、母に推問《おしとは》れて、其由を告《つげ》しに、母、子の死せん事を怕《おそ》れ、卽便喚ㇾ兒、欲ㇾ從其意、兒將ㇾ上ㇾ牀、地卽擘裂、我子卽時、生身陷入地獄、我卽驚怖、以ㇾ手挽ㇾ兒、捉得兒髮、而我兒髮、今日猶故在我懷中、感切是事、是故出家。〔卽ち、兒(こ)を喚び、其の意に從はんと欲す。兒、將に牀(とこ)に上がらんとするや、地、卽ち、擘-裂(つんざけ)て、我が子、卽時に生身(しやうしん)陷入(かんにふ)す。我、卽ち、驚怖し、手を以つて、兒を挽(ひ)かんとするに、兒の髮を捉へ得たるのみ。而して、我が兒の髮、今日、猶ほ、我が懷中に在り。是の事を感切し、是の故に出家せり。〕。是より轉じて、古く『日本靈異記《にほんりやういき》』中卷と、『今昔物語』卷廿、既に、武藏人吉志火麿(きしのほまろ)、母を殺《ころさ》んとして、地に陷沒し、髮のみ、母の手に殘りし誕(ものがたり)を載せ、今も中山寺《なかやまでら》の鱷口(わに《ぐち》)の綱に、罪《つみ》重かりし巡禮女の長髮(かみ)[やぶちゃん注:二字變へのルビ。]、纏ひ着《つけ》りと傳ふ。其の老母を以て、百人の數に充《あて》んとせしと云ふは、指鬘比丘《しまんびく》の傳に基《もとづ》けるなり。

[やぶちゃん注:「『繪本合邦辻』に、田代の母、百萬遍を催すに先だち、檀寺の僧、仔細を聞《きき》て、……」「(その1)」を参照されたいが、以下の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「帝國文庫」版のここの右ページの後ろから六行目の「僧(そう)橫手(よこて)を打ち……」以下の部分である。

「班足王」「斑足太子」(はんぞくたいし)とも呼ぶ。釈迦の本生譚(ほんしょうたん:前世話)中に説かれる人物。その父が、王山を巡っているうちに、牝獅子に出逢い、この牝獅子と交わり、生まれたという太子。その足に「斑点」があったところから名ぐけられた。太子は王位を継いだ後、邪教を信じ、「神を祀るために、千王の頭を得よう。」と誓い、九百九十九王までを得て、一人を欠いていたが、その後、最後に捕えた普明王によって、解悟し、出家して、無生法忍を得たという。日本に渡来した妖狐「玉藻前」はその塚の神だったともされる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「阿毘」阿鼻地獄。無間地獄に同じ。八大地獄の一つで、現世で五逆(母を殺すこと・父を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・仏身を傷つけて血を出させること。僧団の和合を破壊すること)などの最悪の大罪を犯した者が落ちる。地獄の中で最も苦しみの激しい所とされる。

「焦熱」焦熱地獄。同じく八大地獄の一つ。殺生・偸盗・邪婬・妄語・飲酒・邪見の者が堕ち、罪人は熱した鉄板・鉄棒の上に置かれたり、鉄の沸騰した釜の中に入れられるとされる。但し、地獄思想は中国の偽経が元となったものである。釈迦は私の信ずるところでは、地獄とは永遠の闇の世界とのみ表現しているはずである。

「出曜經」美文体の詩集。倫理的教理を説く「法句経」の系統に属する文献で、竺仏念が中国語訳した(五胡十六国時代の三九八年から翌年にかけて) 。 全三十四章で約 九百三十編から成る。詩の詠じられた背景の物語や解説をも併記してある。詩だけの集成である「法集要頌経」(ほうじゅうようじゅきょう)も、恐らくは同一の原典によるものと考えられている(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「雜寶藏經」の経文部は「大蔵経データベース」の「諸經要集」の中の「雜寶藏經」からの当該部の引用と校合して変えてある。後注参照。

「『日本靈異記』中卷と、『今昔物語』卷廿、既に、武藏人吉志火麿(きしのほまろ)、母を殺《ころさ》んとして、……」まず、「日本靈異記」のそれを所持する角川文庫の板橋倫行校注(昭和五二(一九七七)年十五版)を底本としたが、読点・記号を追加し、段落を成形した。一部で私の判断で歴史的仮名遣で読みを推定で入れてある。それは《 》を使った。上付き文字は板橋先生の注記。

   *

 

   惡逆の子、妻を愛(め)で、母を殺さむ
   として謀り、現に惡死を被る緣第三

 

 吉志(きし)の火麻呂(ほまろ)は、武藏の國多麻《たま》の郡《こほり》鴨《かも》の里[やぶちゃん注:当該地不明。]の人なり。火麻呂の母は、日下部(くさかべ)の眞刀自(まとじ)なり。聖武天皇の御世、火麻呂、大伴(おほとも)名姓、分部分明ならず。筑紫の前守(さきもり)に點(さ)さる。

 三年を經(ふ)べし。母は、子に隨ひて、往きて相《あひ》節(か)ひ養ふ[やぶちゃん注:一緒に暮らした。]。其の婦(め)は、國に留まりて、家を守る。

 時に火麻呂、己が妻を離(か)れて去(ゆ)き、妻の愛(め)でに昇(あ)へずして、逆謀《ぎやくぼう》を發(おこ)し、

『我が母を殺し、其の喪服《さうぶく》に遭ひ、役《やく》を免れて、還り、妻と俱《とも》に居《ゐ》む。』

と思ふ。

 母の自性(ひととなり)、善を行ふを、心とす。

 子、母に語りて言はく、

「東の方《かた》の山の中に、七日(なぬか)、「法花經」を說き奉る大會(だいゑ)あり。母を率(いざな)ひて、聞かむ。」

といふ。

 母、欺かれて、

『經を聞かむ。』

と念(おも)ひ、心を發(おこ)し、湯もちて洗ひ、身を淨め、俱に、山の中に至る。

 子、牛なす目もちて、母を眦(にら)みて、言はく、

「汝、地に長跪(ひざまづ)け。」

といふ。

 母、子の面(おもて)を瞻(まは)りて[やぶちゃん注:目を瞠(みは)って見守って。]、答へて、曰はく、

「何の故に、しか言(い)ふ。もし、汝、鬼に託(くる)へるや[やぶちゃん注:鬼が憑いて気が狂ってしまったのか?]。」

といふ。

 子、橫-刀(たち)を拔きて、母を殺らむとす。

 母、卽ち、子の前に長跪きて言はく、

「木を殖うる志(こころ)は、彼の菓《このみ》を得、竝びに、其の影に隱れむが爲《ため》。子を養ふ志は、子の力を得て、幷《あは》せて、子に養はれむが爲なり。恃(たの)みし樹に、雨、漏《もる》るが如く、何ぞ、吾が子、思ひに違《たが》ひて、今、異(け)しき心、在る。」

と。

 子、遂に聽かず。

 時に、母、わびて、身に著(き)たる衣を脫ぎて、三處《みところ》に置く。

 子の前に長跪き、遺言(ゆゐごん)して言はく、

「我が爲に詠ひ被《おほ》ひ裹(つつ)め。一つの衣をもちて、我が兄の男、汝、得よ。一つの衣は、我が中の男[やぶちゃん注:次男。]に贈りたまふ。一つの衣は、我が弟(おと)の男[やぶちゃん注:三男の末っ子の男子。]に贈りたまふ。」

といふ。

 逆子《ぎやくし》、[やぶちゃん注:不孝なる息子の意。]步み前(すす)みて、母の頸(くび)を殺(き)らむとするに、地、裂けて、陷(おちい)る。

 母、卽ち、起ちて前み、陷る子の髮を把(と)り、天を仰ぎて哭き願はく、

「吾が子は、物に託(くる)ひて、事を爲す。實(まこと)の現(うつし)し心に、非ず。願はくは罪を免(ゆる)したまへ。」

といふ。

 なほ、髮を取りて、子を留《と》むれども、子、終《つひ》に陷る。

 慈母、髮を持ちて、家に歸り、子の爲に法事を修し、其の髮を筥(はこ)に入れて、佛像の前に置き、謹みて諷誦(ふじゆ)を請(う)く[やぶちゃん注:僧に読経を依頼したのである。]。

 母の慈は、深し。

 深きが故に、惡逆の子に哀愍《あいみん》の心を垂れ、其の爲に、善を修す。

   *

 思うに、本話は以下の「今昔物語集」を始めとして、後続の因果譚の一つのパターンの手本の濫觴となるのだが、恐らくは、仏典が、この話の原話であろうとは思う。以下の小学館「日本古典文学全集」(昭和五四(一九七九)年第五版)の解説に「雑宝蔵経」第九巻の「婦女厭欲出家縁」や、「法苑珠林」巻二十二の「入道篇引証部」が酷似するとあるが、「大蔵経データベース」で両方とも確認したが、前者はまさに熊楠が引いているそれであり、後者は恐らくは「引證部第四」と思われるが、やはり、内容は母に淫欲を抱いた結果というシノプシスであって、母殺しの動機部分は、或いは本邦で形成されたものかも知れない。或いは、中国の志怪小説にありそうな気もする。

 次に、「今昔物語集」巻第二十の「吉志火麿擬殺母得現報語第三十三」(吉志火麿(きしのひまろ)母を擬-殺(ころ)さむとして現報を得る語(こと)第三十三)を示す。小学館「日本古典文学全集」のテクストを参考に、恣意的に漢字を正字化して示した。その外も同前の仕儀を施してある。特に読みを送り仮名として出した箇所が多い。□は原本の欠字。

   *

 

   吉志火麿、母を擬殺さむとして
   現報を得る語第三十三

 

 今は昔、武藏の國、多摩の郡(こほり)鴨の里に、吉志火丸と云ふ者、有けり。

 其の母は、日下部(くさかべ)の眞刀自(まとじ)也。

 聖武天皇の御代に、火丸、筑前の守□□□□□□と云ふ人に付きて、其の國に行きて、三年(さむねん)を經(ふ)るに、其の母、火丸に隨ひて行きぬれば、其の國にして、母を養なふ。

 火丸が妻、本國に留(とど)まりて、家を守るに、火丸、妻を戀ひて思はく、

『我れ、妻を離れて、久しく相ひ見ず。然(さ)れども、許されざるに依りて、行く事、能はず。而るに、我れ、此の母、殺して、其の喪服(さうぶく)の間(あひだ)、許されて本國に行き、妻と共に居《ゐ》む。』

と思ふ。

 母は、心に慈悲有りて、常に善を修(しゆ)しぬ。

 而る間、火丸、母に語りて云はく、

「此の東(ひむがし)の方(かた)の山の中(なか)に、七日(なぬか)の間(あひだ)、『法花經』を講ずる所、有り。行きて、聽聞(ちやうもん)し給へ。」

と率(いざな)ふ。

 母、此れを聞きて、

「此れ、我が願ふ所也。速かに詣づべし。」

と云ひて、心を發(おこ)し、湯を浴身(みにあ)みし、身を淨めて、子と共に行く。

 遙かに山の中に至りて見るに、佛事を修(しゆ)すべき山寺、見えず。

 而る間、遙かに人離れたる所にして、火丸、母を眦(にら)みて、嗔(いか)れる氣色(けしき)有り。

 母、此れを見て云はく、

「汝(なむ)ぢ、何(なに)の故に嗔れるぞ。若(も)し、鬼の託(つ)きたるか。」

と。

 其の時に、火丸、刀を拔きて、母が頸(くび)を切らむと爲(す)るに、母、子の前に跪(ひざまづ)きて云はく、

「樹(うゑき)を植うる事は、菓(このみ)を得、其の影に隱れむが爲也。子を養ふ志(こころざし)は、子の力を得て、養ひを蒙(かうぶ)らむが爲也。而(しか)るに、何ぞ我が子、思ひに違(たが)ひて、今、我を殺すぞ。」

と。

 火丸、此れを聞くと云へども、許さずして、猶ほ、殺さむと爲る時に、母の云はく、

「汝、暫く、待て。我れ、云ひ置くべき事有り。」

と云ひて、著(き)たる衣(きぬ)を脫ぎて、三所(みところ)に置きて、火丸に云はく、「此の一の衣をば、我が嫡男(ちやくなむ)也(なる)汝に與ふ。」

と。

「一(ひとつ)の衣をば、我が中男(《ちゆう》なむ)也(なる)汝が弟(おとうと)に與へよ。一の衣をば、我が弟男(ていなむ)也(なる)弟子《をとこ》に與へよ。」

と遺言するに、火丸、刀を以つて母が頸を切らむとす。

 而る間、忽(たちまち)に、地(ぢ)、裂けて、火丸、其の穴に落ち入る。

 母、此れを見、火丸が髮を捕(とら)へて、天に仰(あふ)ぎて、泣々(なくな)く云はく、

「我が子は鬼の託(つき)たる也。此れ、實(まこと)の心(こころ)に非(あら)ず。願(ねがはく)は、天道(てんたう)、此の罪(つみ)を免(ゆる)し給へ。」

と叫ぶと云へども、落ち入り畢(はて)ぬ。

 母と[やぶちゃん注:「と」の誤記か。]捕りたる髮は、拔けて、手に拳(にぎ)り乍(なが)ら留(とどまり)ぬ。

 母、其の髮を持ちて、泣々く家に返りて、子の爲に法事(はふじ)を修(しゆ)して、其の髮を筥(はこ)に入れて、佛(ほとけ)の御前(おほむまへ)に置きて、謹(つつしむ)で、諷誦(ふじゆ)を請(う)く[やぶちゃん注:原話と同じく、僧を招いて、経文や陀羅尼を誦して、読経して貰ったことを指す。]。

 母の心、哀れび深き故に、我れを殺さむと爲(す)る子を哀れびて、其の子の爲に、善根を(ぜんごん)を修(しゆ)しけり。

 實(まこと)に知りぬ、不孝の罪(つみ)を、天道、新たに惡(にく)み給ふ事を。世の人、此れを知りて、

「殺さむまでの事は、有難(ありがた)し。只、懃(ねむごろ)に父母(ぶも)に孝養(けうやう)して、努々(ゆめゆめ)、不孝(ふけう)を成すべからず。」

となむ、語り傳へたるとや。

   *

「今も中山寺の鱷口(わに)の綱に、罪重かりし巡禮女の長髮(かみ)、纏ひ着りと傳ふ」「中山寺」は兵庫県宝塚市中山寺にある真言宗中山寺派大本山紫雲山中山寺。本尊は十一面観世音菩薩。当該ウィキによれば、『インドの勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の姿を写した三国伝来の尊像と伝えられる』とある。以上の因縁譚は「宝塚市」公式サイト内の「宝塚の民話・第2集の11」の「鐘の緒(かねのお)」がよい。

「指鬘比丘」仏弟子の一人アングリマーラ(Aṅgulimāla)のこと。「央掘摩羅」などと音写し、「指鬘外道」(しまんげどう)と漢訳される。彼は釈尊の弟子となる以前、あるバラモンに師事していたが,ある事件によって怒ったそのバラモンが、彼を陥れようとして誤った教えを与えた。彼は師の教えに従って、次々と、人を殺し、その「指」(aṅguli)を切って、それを「髪飾り」(māla)とした。 千人の指を集めようとして、千人目に、自分の母を殺そうとした時、釈尊が教化したので、バラモンの教えを捨て、弟子となった。その後、市民の迫害を受けたにも拘わらず、過ちを、ひたすら、懺悔(さんげ)し、行を重ね、遂に悟りを得たとされる。]

2022/10/27

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 千人切の話(その1)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で「選集」を参考(「選集」は漢文部が編者によって訓読されてある。但し、現代仮名遣という気持ちの悪いもの)に訓読を示した。なお、本篇は、やや長いので、分割した。]

 

     千人切の話 (明治四十五年七月此花凋落號) 

 『此花』第四枝最終頁に、寬政十二年板『浪花(なには)の梅』を引《ひき》て、『天王寺境内に、供養塔とて、長き塚、有り。慶安三年庚辰《かのえたつ》、十二月十四日、九州肥後國益城(ますき)郡中島(なかじま)住人、田代孫右衞門造立。世俗に「千人切り」の罪を謝する供養の石碑也。」と云《いへ》り。一說に、田代氏は國元に住居の時、何某《なにがし》の娘と契りて後《のち》、他國へ稼ぎに行き、月日を經て歸國せし所、契りし娘、他家へ緣組せしと聞《きき》て、心外に思い、

「深き契約も今は仇となりし。」

迚《とて》、それより、

「魚鳥獸蟲に至る迄、千の數(かず)、命(いのち)を取り、娘の一命を失はしめん。」

と一心を究め、狂氣の如く、每日、生物の命を取るを、老母は憂(うた)てく思ひ、度々《たびたび》意見をすれども、聞き入れず。さて、九百九十九の命を取り、今、一命に、龜を捕《とらへ》ければ、手・足・首を出《いだ》さず。母、之を見て、さまざま止めければ、

「最早、是《この》一命にて、滿願成就なれば。」

とて、止まらず。母は詮方無く、

「龜を助けて、代りに此母を殺せ。」

と云《いへ》ば、孫右衞門、心得、母に取懸《とりかか》ると思ひしが、其儘、正氣を失ふ。老母も歎き入《いり》しが、忽ち、本性《ほんしやう》と成《なり》て母に向ひ、始終を物語る。

「かりにも、母に手向《てむか》ひし罪を免《ゆる》し給へかし。」

とて、髮を剃り、母に暇《いとま》を乞ひ、廻國に出で、津の國天王寺西門《さいもん》の邊《ほとり》にて、病死せりとぞ。龜の上に碑石を立つ。是れ、此因緣なるべし。』と出ず。

[やぶちゃん注:「『此花』第凋落號」宮武外骨が明治四三(一九一〇)年一月に発刊した浮世絵研究雑誌。大阪で発行されたが、赤字が嵩んで廃刊となったが、同雑誌に寄稿していた朝倉無声(朝倉亀三)の手によって「東京版」として新たに継続発行されることとなった。終刊号である「凋落號」は明治四十四年七月十五日発行。参照したサイト「ARTISTIAN」の「此花(大阪版)(雑誌)」に全リスト・データがある。最終巻を「凋落號」とするのは、これまた、お洒落。明治四三(一三一〇)年四月一日発行である。「最終頁」とあるから、外骨の編集後記内か。当該記事はネット上では読めないので、確認不能。

「寬政十二年」一八〇〇年。

「浪花(なには)の梅」本屋で、狂歌師にして文才もあった白縁斎梅好(はくえんさいばいこう 元文二(一七三七)年~文化二(一八〇五)年:縁斎一好の子で、大坂今橋の本屋金西館の主人。姓は陰山。通称は塩屋三郎兵衛。父に狂歌を学び、画にも長じた。編著に絵を主体にした「狂歌浪花丸」や、さらに説明文をくわえた大坂地誌「浪花のなかめ」などがある)この年に刊行した「狂歌絵本浪花のむめ」(全五巻)陰山白緑斎(別号)・撰で陰山玉岳画とするが、この絵師も本人であろう。国立国会図書館のこちらの書誌に拠った。

「龜」千人切りの動機からこの最後の対象がカメであるのは、フロイトを出すまでもなく、類感呪術的意味があると考えるべきである。バイ・プレイヤーながら、結果して出家遁世のスプリング・ボードとなる点でも、反転的に皮肉な象徴であり、この千人切り誓請を成就するまで、当然乍ら、田代孫右衛門は「女断ち」をしていたに違いなく、たまたまカメではなく、必然的にカメであったことは言うまでもないのである。

「天王寺境内に、供養塔とて、長き塚、有り」出身地繋がりでサイト「くまもと文化の風ドットコム」の高部道子氏の連載「Ms.高部の大阪からこんにちは」の「Vol.44 ある碑[2008.12.24]」に本碑の記事が載る。但し、そこでは「千人斬りの碑」とする。ネタ元として示されてある『南谷恵敬さんが綴る連載「四天王寺奇観」の「千人斬りの碑」』がネットには見当たらないのだが、高部氏の続編「Vol.47 ある碑(2)[2009.4.1]」に現地取材編があり、塔が現存し、その写真も掲載なさっていた。まっこと、「長き」、塔型の非常に高いものである。私の経験からすると、江戸時代の個人の供養塔としては、かなり高いものと思う。ここである。サイド・パネルに一枚だけ塔全景の画像があった。地図上でも「千人斬り碑」とあるので、これが正しい。]

「慶安三年庚辰、十二月十四日」グレゴリオ暦一六五一年二月四日。

「九州肥後國益城(ますき)郡中島(なかじま)」現在の熊本県上益城(ましき)郡山都町(さんとちょう)北中島きたなかしま)附近(グーグル・マップ・データ。以下、本篇で無指示のものは以下同じ)か。

「田代孫右衞門」不詳。次段参照。但し、以下の事績が正確かどうかは、読本の内容であるからして、私の保証する限りではない。

「仇」「あだ」或いは「かたき」。

「本性」物理的には「正気となって」であるが、ここは「殺生の悪を知り、正しく仏性(ぶっしょう)を得て」の意が強い。]

 「帝國文庫」四十九編に收めたる俗書『繪本合邦辻《ゑほんがつぽがつじ》』にも、田代の傳、有り。その名を彌左衞門とす。その略に云く、この處士(らうにん)、若くして父を失ひ、佛敎の信念厚き母と共に棲み、溫順の聞え有りしが、同じ中島村の貧醫藤田養拙の娘、見代女(みよ《ぢよ》)に通ぜり。偶《たまた》ま親戚の用事を受《うけ》て長崎へ行くに臨み、秘藏の小柄《こづか》を、女の護身刀(まもりがたな)と取替《とりかは》して、信(まこと)を表(あらは)し發足しぬ。長崎に二年許り留《とどま》り、還(へつ)て藤田家を訪ふに、彼女は國主の老臣へ奉公に出《いで》しと聞き、其邸に出入《でい》る者を憑(たの)み、書を贈る。見代女の主人の侍臣(ようにん)富田(とんだ)幸次郞、兼て、彼女を慕ひ、口說けども、聽入れず。偶ま出入の者、富田に件《くだん》の田代の書を見代女に傳へんことを賴む。富田、怪しみ、披見して、

「これ。乘ずべきなり。」

となし、女の返簡を僞造して、使者に付く。田代、得て、之を讀むに、

「既に主人の寵幸《ちやうかう》に預り 安樂なれば 卿(おんみ)と永く絕(たた)ん 嘗て取替したる紀念(かたみ)を相戾さん」

となり。田代、大いに怒り、自ら、城下に赴き、見代女が、主人の妻と花見に往(ゆき)し歸路、之を襲ひて、就(な)らず、衞士に縛られんとす。時に、傍らの庵より、老隱士、出來《いできた》り、

「これ、醉狂人なり。」

と辨じ、救助し、庵に伴(つれ)歸り、仔細を聽き、諫め喩(さと)せども、田代、聞き入れず。仍《よつ》て之に、彼女不慮に自ら禍《わざはひ》を受《うく》べき一法を授く。田代、

「之を行《おこなは》ん。」

とて、彼女の護身刀もて、一晝夜に百の生命を絕《たた》んと。既に九十九の動物(いきもの)を害し、最後に自家に飼《かへ》る龜を殺さんとして、母に遮られ、瞋恚《しんい》の餘り、母を斬らんとして、氣絕しければ、母、僧俗を請じ、百萬遍を催す。念佛、終るに臨み、田代、蘇(いきかへ)り、自ら、地獄に往《ゆき》て閻王に誡《いまし》められし次第を語り、出家、廻國して、天王寺邊に歿しぬ。是より前、富田、姦計、顯はれて、追放され、見代女は情人《いろおとこ》田代の成行きを悲《かなし》み、誓ふて、他に嫁がず、一生、主家の扶持にて、終わる、と。

[やぶちゃん注:『「帝國文庫」四十九編に收めたる俗書『繪本合邦辻』にも、田代の傳、有り』「帝国文庫」の第四十九編は渡邊乙羽校訂「續仇討小說集」で、「繪本合邦辻」は全十巻。京の浮世絵師で読本作者でもあった速水春暁斎(明和四(一七六七)年~文政六(一八二三)年の作・画である。文化二(一八〇五)年の序がある。国立国会図書館デジタルコレクションの同「帝國文庫」原本(活字本)のここの巻七の終りにある「肥州の處士田代か(=が)來歷の話」が始まりで、次の「田代私婦の薄情を怒る話」で同巻は終わるが、驚くべきことに、次の第八巻(同前)全部が、これ、まるまるこの話の続きになっているのである。なお、「繪本合邦辻」の原本は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあり、このPDF・同巻一括版)の13コマ目から視認出来、巻八はこちら。正直、驚くべき作話物であり、この事績も私には、到底、信用出来ない。

 『嬉遊笑覽』卷四に云《いは》く、

「千人切りと云事《いふこと》云々、是も往昔(そのかみ)專ら言《いひ》し事と見えて、謠曲外百番《そとひやくばん》に「千人伐」有《あり》て、詞に云《いふ》、「阿武隈川の源左衞門殿と申す人、行衞も知《しれ》ぬ人に父を伐れて、其無念さに千人切をさせられ候云々。又、『秋の夜長物語』山門三井寺合戰の處、「千人切りの荒讃岐《あらさぬき》」云々抔も云《いへ》り。『續五元集』(中)、「心《しん》をつむ迚《とて》消し提燈《ぢやうちん》 出會へと千人切りを呼(よば)ふ覽《らん》」(晉子(しんし))。天野信景云《いふ》、「鵜丸(うのまる)」の太刀は、濃州久々利(くくり)の人、土岐惡五郞が太刀也。惡五郞は、天文頃の人也。土俗にいう、「惡五郞、京五條橋にて千人切りしたりし時、この太刀、川へ落としけるを、鵜二羽、喫(くは)へて上がりし。鵜の嘴(はし)の跡、殘りしゆえ、「鵜丸」と名づくると云り云々」(以上『笑覽』)。

[やぶちゃん注:「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。私は岩波文庫版で所持するが、巻四冒頭の「武事」パートの終りの方にある。国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の上巻(正字)の右ページ四行目から(熊楠の所持しているものは恐らくこちらが、その親本)。それも、私の岩波版(底本が異なる)も、孰れも「千人ぎり」である。

「謠曲外百番」書名ではなく、「百番のほかの百番」の意で、江戸初期以来、謡曲の内百番(うちひゃくばん:江戸初期に謡曲本を刊行する際に、広く世に行なわれているものの中から選ばれた百番の曲を指す)から漏れた選外百番を集め合わせ、二百番の謡本が作られたが、その選外となった百番を外百番と呼ぶ。但し、この選外の百番の曲には出入りがあり、完全に決定した百曲ではない。

「千人伐」サイト「義経伝説」の中の『島津久基著「義経伝説と文学」』の「(七) 橋弁慶伝説」の章の中に謡曲「千人伐」の章詞の一部が引用されてある。

「秋の夜長物語」南北朝時代に成立した代表的な稚児を素材とした物語。作者不詳だが、「太平記」作者の一人とされ、漢詩文に長じた天台密教の僧玄恵との関係が想定されている。三井寺の稚児で、花園左大臣の子息梅若丸と、比叡山の律師桂海との愛、それに関連して勃発する両寺の争いを描いたもの。梅若丸は入水し、それを儚んだ桂海は、離山して東山に籠り、瞻西(せんさい)上人と称した。梅若丸は、実は石山観音の化身であったという形をとる。この瞻西は、平安後期に実在した説教僧・歌僧で、洛東の地に雲居寺(うんごじ)を開いた人物である。物語は瞻西の「新古今和歌集」所収の歌を採り入れるなどして、事実譚化を図っている。梅若丸の名はかの名謡曲「隅田川」に引き継がれ、また、木母寺(もくぼじ)の縁起の形でも伝えられ、近松門左衛門の「双生隅田川」(ふたごすみだがわ)など、浄瑠璃・歌舞伎のいわゆる「隅田川」物の濫觴となった(以上は概ね、平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。ネット上では、原本が二ヶ所で視認出来るが、かな本の崩しで当該箇所を探す気にならない。悪しからず。

「千人切りの荒讃岐」日本刀買取専門店「つるぎの屋」公式サイト内の「千人切」に、『刀 (切付銘)天保八年十二月於千住山田吉利試之 太々土壇払 (号:千人切)』で、長さ二尺三寸五分(七十一・二センチメートル)とあり、『千人切は、千人の人を斬ること、または斬った刀をいう。千人は多数を意味することもある。なお、願をかけて千人斬りする場合もあった。阿武隈川の源左衛門は、父を行方も知れぬ人に討たれた仕返しに、千人斬りをした。三井寺の悪僧に千人斬りの荒讃岐とよばれるものがいた。鵜丸の太刀は、濃州久々利の土岐悪五郎が、京の五条橋で千人斬りしていて、河に取り落としたものを、鵜がくわえてきたものという』。『寛永六年』(一六二九年)、『江戸では白昼に千人斬りが行われた。千人刎ねともいう。織田信長の従弟』『津田信任は、千人刎ねの棟梁といわれているのを、豊臣秀吉がきき、その所領を没収した。千人殺しともいった。天正十四年』(一五八六年)、『大坂で大谷紀之助は癩病』(ハンセン病)『にかかっていて、千人の血をのめば治癒する、という俗説を信じてやったことだった』。幕府代々の首切り役人として知られる『首斬り浅右衛門の家に「千人切」とよばれる刀があった。刃長二尺三寸五分』の『無銘であったが、「天保八年』(一八三七年)『十二月於千住山田吉利試之 太々土壇払」と切りつけてあった。これで吉田松陰らの志士や、高橋お伝の首を落としたと言われていた』とあった。注記があり、『(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)』とある。

「續五元集」榎本其角(「晉子」は彼の号)自選で小栗旨原(しげん)編になる俳諧集。延享四(一七四七)年刊の「五元集」の続編で、宝暦二(一七五二)年刊。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原刊本の「中」巻の(PDF「中」一括版)の27から28コマ目にある。

「天野信景云、……」確証はないが、恐らくは、尾張藩士国学者天野信景(さだかげ)が元禄一〇(一六九七)年頃に起筆し、没年(享保一八(一七三三)年)まで書き続けた随筆「塩尻」からの引用か。私は所持しないし、国立国会図書館デジタルコレクションにあるものの、調べるのは、時間がかかり過ぎるので、やらない。悪しからず。

『「鵜丸(うのまる)」の太刀は……』先の刀剣サイトにも出たが、サイト「名刀幻想辞典」の「鵜丸」によれば、この名の名剣は少なくとも異なる刀が五種が挙げられてある。その内、最もこの話に比較的よく適合するのは、「土岐家伝来の鵜丸」である。但し、持ち主である「土岐惡五郞」(「惡」は「強い」の意)を建武(元年は一三三四年)頃の人物としており、本篇の「天文頃の人也」(一五三二年から一五五五年まで)とは齟齬が甚だしい。引用元が書かれていないが、以下の古文が載る(漢字を概ね恣意的に正字化した)。

   *

三河守先祖ヲ尋ルニ、土岐大膳大夫ト申人在。其弟ニ土岐惡五郞ト云者。(略)[やぶちゃん注:サイト主による注記。]或時惡五郞五條ノ橋ニテ、武藏坊辨慶カ跡ヲ追。千人切リヲ思立。往來ノ人ヲ切ル事二三百人。或時太刀ヲ川中ニ落ス。尋之不見。惡五郞深ク祈氏神。心中ニ求。然時鵜一羽飛來、彼太刀ヲクワエ水上浮ヲ。惡五郞希異ノ思ヒヲ成。此太刀鵜ノ嘴ノ跡在、卽太刀ノ名鵜ノ丸ト號シテ。土岐家永代ノ重寶也。

   *

とあって、以下、その後の経緯が細かく記されてあり、なんと、この太刀、もともとは、仁平三(一一五三)年に、かの源三位頼政が鵺(ぬえ)を射落とした功により、拝領した太刀とあり、この悪五郎から土岐家、森家を経て、伊勢神宮に奉納されたとある(別説・異説・附説も記されてある)。残念ながら、寛文一一(一六七一)年十一月の『大火災で消失したという』とある。一言い添えておくと、この寛文十一年というのは、前年の誤りではないかと思われる。寛文一〇(一六七〇)年十一月に伊勢は大きな回禄に襲われているからである。この大火は「鉈屋(なたや)火事」と呼ばれ、伊勢神宮では月夜見宮(つきよみのみや)が炎上しており、死者四十九人・山田惣中の約六割に当たる五千七百四十三軒・土蔵千百七十七棟・寺院百八十九が焼失するという未曽有の大火であった。

「濃州久々利(くくり)」岐阜県可児市久々利。]

 『兼山記』には、之を南北朝時代の人とし、云く、「和田五郞に討たれし土岐惡五郞、打物取《とつ》て、早業《はやわざ》、太刀の剛の者なり。生得(うまれつき)惡逆無道也。或時、五條の橋にて、武藏坊辨慶が跡を追ひ、「千人切り」を思ひ立ち、往來の人を切る事、二、三百人下略」。

[やぶちゃん注:「兼山記」戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で大名の森長可(ながよし 永禄元(一五五八)年~天正一二(一五八四)年:本姓は源氏)の一代記。先のサイト「名刀幻想辞典」の「鵜丸」によれば、彼は可児郡兼山(金山)城主であったが、「本能寺の変」の後、久々利城主土岐三河守(久々利頼興)を計略にかけ、滅ぼしており、その時に「鵜丸」を得ているのである。国立国会図書館デジタルコレクションの「續群書類從」「第二十一輯ノ下 合戰部」で当該部が視認出来る。「土岐三河守由來之事」の右ページの上段から下段にかけてである。長可が「鵜丸」を伊勢神宮へ奉納したことも記されてある。]

 『續群書類從』の『織田系圖』に、信長の從弟津田信任(のぶたふ)、從五位下左近將監たり。仕秀吉公、於伏見醍醐山科間、爲千人刎之棟梁旨、達上聽、可ㇾ被ㇾ處死流刑處、亡父(隼人正信勝)多年之昵近、所優奉公異ㇾ他、沒收所領(三萬五千石也)、仍落飾號長意、依中納言利光卿芳情、幽居加州金澤〔[やぶちゃん注:底本には返り点や文字位置におかしな箇所があるので、私が勝手に変更した。原本に当たれないので推定である。]秀吉公に仕ふ。伏見・醍醐・山科の間に於いて、千人刎《ぎり》の棟梁となりし旨、上聽に達し、死・流刑に處せらるべき處、亡父(隼人正(はやとのしやう)信勝なり)は、多年の昵近にて、優《あつ》く奉公せし所なれば、他に異(かは)り、所領(三萬五千石なり)を沒收するのみ。仍つて、落飾して「長意」と號し、中納言利光卿の芳情に依りて、加州金澤に幽居す。〕。又、『宇野主水記(うのもんどき)』に云く、「天正十四年二月廿一日頃、「千人切(ごろし)」と號して、大坂の町人にて人夫風情の者、數多《あまた》打ち殺す由、種々《しゆじゆ》、風聞あり。大谷紀之助と云ふ小姓衆、惡瘡氣(かさけ)[やぶちゃん注:三文字へのルビ。]に付《つき》て、千人殺して、その血を與《あた》ふれば、かの病《やまひ》、平癒の由、その義、申し付くと、云々。世上風說也。今、廿一日、關白殿御耳へ入り、如此《かくのごとき》の儀、今迄、申上《まをしあげ》ぬ曲事《くせごと》の間《あひ》だ、町奉行を生害《しやうがい》せらるべきことなれども、命を御免被成《ごめんなさる》る迚、町奉行、三人、被追籠也《おひこめらるるなり》云々。右の千人切の族《やから》、顯はれ、數多、相籠《あひこ》めらる云々。三月三日、四日頃、五人、生害、宇喜多次郞九郞、生害の内《うち》也。大谷紀之助所行《しよぎやう》の由、風聞、一圓、雜談也。」。

[やぶちゃん注:「津田信任」(生没年未詳:「のぶたか」とも読み、信秋(のぶあき)とも)は津田信勝(盛月)の長男。当該ウィキによれば、津田氏は勝幡織田氏庶流で、一説に『織田信長の従甥にあたると云う』。『羽柴秀吉(豊臣秀吉)に家臣として長浜城主時代から仕え』、天正元(一五七三)年には「黄母衣衆」(きぼろしゅう:秀吉が馬廻から選抜した武者で、武者揃えの際に名誉となる黄色の母衣指物(ほろさしもの)の着用が許されたことからの軍団名)に任ぜられた。文禄二(一五九三)年、『父の死去により家督を継いだが、山城国三牧城主として』三万五千石を領した。『しかし』、『同年または翌年、伏見醍醐』や『山科における洛外千人斬り事件の犯人として逮捕された。死罪になるところであったが、父の多年の功績に免じて死一等を減じ、所領(御牧藩の前身)を没収、改易された』。『剃髪出家して長意と号して』、『前田利家(または利光)に身柄を預けられて加賀国金沢に幽室蟄居となった』。『結局、家督は弟・信成が』一万三千石に『減封された上で相続した』とある。

「宇野主水記(うのもんどき)」「宇野主水日記」。宇野主水(生没年不詳)は十六世紀後期の本願寺門主顕如に仕えた右筆。室町・戦国時代の享禄三(一五三〇)年から一五五〇年代(一五五〇年は天文十九年)の本願寺教団や一向一揆及び畿内政情を知る上での第一級史料である「石山本願寺日記」(「天文(てんぶん)日記」とも)の下巻に所収されている。「史籍集覽」のこちらで当該箇所が読める(右ページ後ろから三行目)。

「天正十四年」グレゴリオ暦一五八七年。

「大谷紀之助」豊臣秀吉家臣で越前敦賀城主の知られた大谷吉継(永禄八(一五六五)年(永禄二(一五五九)年説もある)~慶長五(一六〇〇)年)の通称は紀之介で、彼はハンセン病(ここで言う「惡瘡氣(かさけ)」)に罹患していたとする説があり、彼は天正始め頃に秀吉の小姓となっており、彼をこの人物に当てる説もあるようである。既につい最近も述べたが(『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十七 人の魂、死人を喰らふ事 附 精魂寺ヘ來る事」』の私の注)、ハンセン病などの難病の場合、人肉や人の生き血を特効薬とした迷信が近代まで、あった。なお、Wikiwandの「豊臣秀次」の記載には、かの豊臣秀次は『鉄砲御稽古と称して北野辺りに出て行っては』、『見かけた農民を鉄砲で撃ち殺し、あるいは御弓御稽古と称して射貫遊びをするからと言って往来の人を捕まえさせてこれを射ち、また力自慢と称しては試し斬りをするから斬る相手を探してこいと言い、往来の人に因縁をつけさせて辻斬りを行った。数百名は斬ったが、これを「関白千人斬り」だとして吹聴し、小姓ら若輩の者がこれを真似て辻斬りを行ったが咎めなかったという』記載があり、『千人斬りに関しては』天正一四(一五八六)年に秀吉の馬廻衆であった『宇喜多次郎九郎が大坂で』、文禄二(一五九三)年には『津田信任が山科で、それぞれ』、『多数の人間を殺害した容疑で逮捕されており、前者は自害、後者は改易させられたという。特に津田信任は秀吉の城持ち家臣であり、他者の犯罪が秀次の話としてすり替わった可能性はあり、太田牛一が「よその科をも関白殿におわせられ」と書いたこともこれらを指していたと考えられる』という記載もあった。

「追籠」罪科ある者を家などに閉じ籠め、謹慎させること。]

 是等は武士跋扈の世に、武勇を誇るの餘り、成るべく多《おほく》人を殺せるなれば、千人切りとも言うべけれ。田代某が行なひしてふ所は、人ならで、蟲(むし)・畜(けもの)を多く殺せしなれば、千疋切・百疋切と云《いは》ん戶杜(こそ)適當ならめ。併(しかしなが)ら、田代氏が碑を建《たて》たる當時、千人切りの名高かりしは、貞享四年板『男色大鑑《なんしよくおほかがみ》』卷八に、「田代如風《たしろじよふう》は、千人切《せんにんぎり》して、津の國の大寺《おほでら》に石塔を立て、供養を成《なし》ぬ。我、又、衆道《しゆだう》に基《もとづ》き、廿七年、其色《そのいろ》を替へ、品《しな》を好《す》き、心覺えに書留《かきとめ》しに、既に千人に及べり。之を思ふに、義理を詰め、意氣づくなるは、僅か也。皆な、勤子《つとめこ》の、いやながら、身を任せし。一人一人の所存のほども慘(むご)し。『責(せめ)ては、若道(にやくどだう)供養の爲。』と思ひ立ち、延紙《のべかみ》にて、若衆《わかしゆ》千體、張貫《はりぬき》に拵へ、嵯峨の遊び寺《てら》に納め置《おき》ぬ。是れ、男好開山(なんかうかいさん)の御作《ごさく》也。末世《すゑのよ》には、この道《みち》、弘まりて、開帳あるべき物ぞかし。」。貞享元年板『好色二代男』卷八、女郞どもに作らせし「血書《ちがき》は、千枚、重ね、土中《どちゆう》に突込《つつこ》み、「誓紙塚《せいしづか》」と名《なづ》け、田代源右衞門と同じ供養をする。」抔(など)見えたるにて知るべし。

[やぶちゃん注:引用の読みは以下に示した原本を参考に、歴史的仮名遣を正し、一部を濁音にして入れてある。なお、言わずもがなだが、この二篇の「千人切り」は、これ、自ずと今一つの、それである。

「男色大鑑」井原西鶴の浮世草子。貞享四(一六八七)年四月刊。全八巻。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原版本のこちら(最終巻一括PDF版)の12コマ目で視認出来る。

「好色二代男」井原西鶴作。貞享元(一六八四)年刊。副題が「好色二代男」。首章及び最終章では「好色一代男」の遺児世伝を登場させ、続編の体裁をとっているが、他の三十八章は独立した短編である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原版本のこちらの掉尾「大徃生(だいわうじやう)は女色(ぢよしき)の臺(うてな)」(最終巻一括PDF版)の19コマ目の左丁の後ろから四・五行目。]

2022/10/26

ブログ1,840,000アクセス突破記念 梅崎春生 青春

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和四〇(一九六五)年八月号『小説新潮』に掲載された。但し、この年の七月十九日に梅崎春生は逝去しているので遺作の一つと言える。以下の底本の沖積舎全集で初めて収録された。因みに、梅崎春生には先行する同名の別な小説「青春」があるが(昭和二三(一九四八)年五月号『小説新潮』発表)、それは既にこちらで公開してある。

 底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年十二月沖積舎刊)に拠った。

 文中に注を添えた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、昨日夜初更、1,840,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二二年十月二十六日 藪野直史】]

 

   青  春

 

 西東と尾山フサコと、いつそんな関係になったのか、久住は知らない。そんなことにいちいち眼を光らせるほどの好奇心を持っていなかったし、またそれほど彼は人間関係に熟していなかった。

[やぶちゃん注:「西東」「さいとう」と読んでおく。]

 西東は彼の級友であった。二年か三年か浪人して入って来たので、年齢も彼よりは多い。色の浅黒い、ほりの深い顔を持っていたから、実際以上に老成して見えた。あの頃の(十七、八歳から二十歳ぐらいの)二、三歳違いというのは、たいへんなへだたりがあるものだ。同級生というより、小父さんとかおっさんという感じがする。西東もそれを知っていて、意識的にそれを利用していた。議論などしていて旗色が悪くなると、いつも舌打ちをして言った。

 「お前たち子供は、何も判っとらんようだな」

 いくら年長とはいえ、二十歳の知恵や経験など、今思えばたかが知れている。しかし当時はそう行かなかったのだ。子供といわれても、それを反駁(はんばく)する材料は、何もなかった。背伸びして対等に話そうという気持にもならない。

 しかし西東から子供あつかいにされた男が、面と向ってこう言ったことがある。

「そんなに経験豊富なおっさんでも、おれたちと机を並べて、同じ講義を聞いているじゃないか」

 わるいことには、西東はあまり学校の出来がよくなかった。年度末の及落会議にかかって、やっと二年生になることが出来たくらいで、年長の故をもって級友の尊敬をあつめるわけには行かなかったのだ。その頃の高等学校(旧制)は、立身出世の色合いが濃く、成績の悪いのは教師からも級友からもかろんじられる傾向があった。もちろん逆の方向、勉強ばかりして席次に一喜一憂している男への軽蔑、それも併立してあったけれども。

 彼は西東を、その学業成績の点では、かろんじなかった。第一に久住は立身出世を望まなかった。第二に出来の悪い点では西東と同じようなものであった。その二つの理由で彼は西東にいくらかの親近を感じていた。寮の自分の机の前に、

『我が望み低きにあらず。東京帝国大学法学部』

 などと貼紙をして勉強ばかりしている級友を、軽蔑することにおいて、人後に落ちなかった。しかし人生経験の浅い若者の軽蔑なんて、何ごとだろう。彼は軽蔑しているつもりでいで、出世に執(しゅう)する世間知に、むしろ畏怖を感じていたのかも知れない。要するに、西東が言うように、久住はまだ子供だったのだろう。

[やぶちゃん注:「久住」「くづみ」と読む。梅崎春生の遺作となってしまった本篇と並行して書かれたと推定される名篇「幻化」(昭和四〇(一九六五)年六月号及び八月号『新潮』に掲載されたが、春生はその間の、七月十九日午後四時五分に東大病院上田内科にて肝硬変のために急逝している。同作のブログ分割版はこちらPDF縦書一括版はこちら。私のマニアックな注附きである)の主人公の名は「久住五郎」である。これは、既にして確信犯である。それは「幻化」を読まれた方ならば、以下、読み進めてゆけば、随所でお感じ戴けることであろう。

「その頃の高等学校(旧制)」この設定は著者の経歴と合致する。梅崎春生は熊本五高(現在の熊本大学)を昭和一一(一九三六)年三月に二十一歳で卒業(二年時に落第したため。卒業時も試験の成績が悪く、卒業認定で教授会は三十分近く揉めた)し、四月に東京帝大文学部国文科に入学した。

 尾山フサコというのは、当時二十七、八の独身女である。一度軍人と結婚したが、家風に合わぬと追い出され、白川のほとりに家を新築して、下宿屋を始めた。初対面の時はそう美しいと思わなかった。眼が大きくまつ毛が長く、いつも濡れているように見える。つまり眼だけが独立して、あとの鼻や口や耳などと均衡を保っていない。もっとも彼はまだ破調の美を知らなかった。泰西(たいせい)名画に出て来る女のようなのにしか、美しさを感じなかった。しかしその点で自分は幼いと思っていたので、友達に話さなかったし、まして西東などとの会話には、一度も女の美について口を出したことはない。

[やぶちゃん注:「白川」(しらかわ)は熊本県中北部のここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示のものは同じ)を流れる一級河川。旧五高はこの川の右岸直近にあった。

「泰西」当該ウィキによれば、『中国および日本で用いられる、ヨーロッパ』。『大義には西洋世界全体を指す語。英語ではFar Westと訳され、いわゆる極東の対義語とみなされている。もともとこの語は内陸アジアやインドを指すものだったが、マテオ・リッチが中国から見た西洋の外名としても使い始めた。彼はヨーロッパ中心主義的な極東という概念に対し、西洋を泰西と呼ぶことで』、『中国と西洋を対等な地域圏とみる視点を編み出したのである。泰西という語は江戸時代の日本でも』、たびたび『用いられたが、現在では単に欧州またはヨーロッパと呼ぶのが一般的で、この語はあまりみられない』とある。私自身、書いた文章の中で、この熟語を用いたことは、六十五になるこの年まで、一度も、ない。]

 一度フサコに訊(たず)ねてみたことがある。

「どうして小母さんは――」

 齢が十も違っていた。それに相手は曲りなりにも下宿の女将であり、こちらは止宿人なので、小母さん呼ばわりをしても不自然でない。

「前の旦那さんと別れたんだね?」

「あんな生活、とてもたまらなかったのよ。姑はいるし、小姑はいるし――」

「姑や小姑は問題じゃないだろ。小母さんは旦那さんと結婚したんだから」

 彼は言った。彼は世の家庭というもの、その仕組みや構造について、ほとんど知識がなかった。

「旦那さんさえよけりゃ、充分だと思うがなあ」

「主人は悪い人じゃなかったのよ。でも、こちこちの軍人でね、いざこざが起った時、あたしの味方にゃならなかった」

 フサコはこの土地の出身ではない。よその土地で結婚して、主人が第六師団司令部に配属されて来たのである。久住はそのこちこちの軍人、うるおいのない家庭を想像して見た。すると何となく、フサコはその家庭に似合わないだろう、という感じを持った。大尉夫人や少佐夫人という顔ではない。顔として、すこし派手過ぎるのである。

「だから下宿屋稼業の方がたのしいんですよ。あんたたち若い人たちの世話をして、しばられない生活をしてる方が、生甲斐を感じるわ」

[やぶちゃん注:「第六師団」大日本帝国陸軍のそれ。明治五(一八七二)年に設置された「熊本鎮台」を母体に明治二一(一八八八)年五月に師団として編成された。熊本・大分・宮崎・鹿児島の九州南部出身の兵隊で編成され、衛戍地(えいじゅち)を熊本とした。]

 彼はフサコを美しいとは思わなかった。しかしその不均衡な容貌に、いつかはひかれるだろうという漠然たる予感があった。

「だって女の幸福というのは、よき家庭の主婦になることじゃないのかなあ」

 彼はいっぱしの口をきいた。そうそう子供ではないことを示したかったのだ。

「そう思うの? 久住さん」

 フサコは笑いを含んで答えた。

「あんたの家は、どうだったの?」

「そうだな」

 彼は多少の狼狽を感じながら答えた。

「おふくろは、うまくやっているよ。いるように思うよ。ぼくにはよく判らないけれどね」

「世の中には、いろんな生き方があるんですよ。自分を犠牲にして生きて行くか、自分を開放して気ままに過すか、その中間にいろいろね。男にもあるんじゃない? わき目もふらず勉強ばかりする、たとえば江田さんのような人や、その逆のたとえば――」

 フサコは言いよどみ、口をつぐんだ。彼は言った。

「たとえば、ぼくのようにかね?」

「あんたじゃありませんよ。久住さんは中途半端なだけですよ」

 たとえば西東さんのように、と言いたかったらしいた気がついたのは、ずっと後のことである。

「あんたはまだ子供なんだから、無理をしないで生きて行くこと。それが大切よ」

 

 彼をこの下宿に紹介したのは、小城という男だ。小城は中学四年修了で入って来たので彼より年少であり、頰のふっくらとした美少年であった。中学は西東と同じで、大分県である。小城は同郷の故で西東をけむたがっていた。

「中学の時、こいつはおれの稚児(ちご)だったんじゃ」

 西東はなかば揶揄(やゆ)するように、時々放言する。それもけむたい理由のひとつだったのだろう。

[やぶちゃん注:「小城」「こじろ」と読んでおく。]

 寮にいた時、四、五人が一部屋に集まり、こたつに入って、南京豆など食べながら、雑談をしていた。二・二六事件が起きた冬で、たいへん寒かった。その中の誰かが、怪談を始めた。次のような月並みな怪談だ。

[やぶちゃん注:「二・二六事件が起きた冬」昭和一一(一九三六)年。]

 一部屋二人制の寄宿舎で、その一人が時々夜中にいなくなる。不審に思った同室人が、どこに行くのか確かめてやろうと思う。狸寝入りをしていると、真夜中その男が起き上って、同室人の眠りを確かめ、そっと部屋を出て行く。同室人はすぐはね起きて、マントをかぶり、あとをつける。

 つけられているとも知らぬ男は、寮を抜け出し、学校の寮にある山に登り始める。しばらく登ると、墓地があるのだ。そこに這入り、男は墓を掘り始める。

 同室者はがたがたと慄えながら、それを見守っている。慄えるから、マントが笹や木の枝に触れ合って、がさごそと音を立てる。男はきっと振り返る。そして絶望的な声で言う。

「見たな!」

 男の手には、土葬された死体の腕がある。それが血まみれになっている。――

 かんたんな怪談だが、話し方がうまかったので、雰囲気が出て、かなり恐かった。その怪談の途中に、こたつのやぐらに乗せていた久住の手に、濡れてあたたかい掌が、突然かぶさった。ぎゅっとにぎりしめて来た。彼はおどろくというより、あっけに取られた感じで、級友たちの顔を見廻した。皆語り手の顔を見、話にひき入れられていた。話が佳境に入ると、掌の力がさらに強まった。彼も語り手から眼を放さずに思った。

〈小城だな〉

 掌の位置や方向から判る。振りはらう気持は別になかった。秘密を共有しているという隠微な愉しささえある。彼は視線をちらと小城の方に動かした。小城は聞くことに夢中になっているようだ。無意識なのか、頭と掌を意識的に使い分けをしているのか、とっさに彼は判じかねた。

〈すぐ判断をしなくてもいい。しばらく様子を見ていよう〉

 と久住は思った。それは彼の性格であり、生きて来て身につけた唯一の処世術でもあった。その夜は、それで終った。

 

 この学校の寮は、一年生だけで、二年目になると要員だけ残り、あとは校外に出て下宿する。そんなシステムになっていた。そのための素人下宿があちこちにあり、選ぶのに不自由はしない。供給が需要を上廻っていた。娘との交際を欲するものは娘付き下宿へ、遊び好きは街近くへ、勉強好きは静かな下宿へと、好みのまま選択が出来る。

  年の学期末試験が近づいていたが、久住はまだ迷っていた。

 ある夜、彼は試験勉強をしていた。同室者は外出していたので、彼はひとりであった。扉をたたく音がするので、応答すると、小城が入って来た。彼はノートブックを伏せ、小城に向き直った。ただ遊びに来たのでないことは、その様子で判ったからだ。小城は言った。

「もう下宿は、きめたの?」

 まだきめていない、と彼は答えた。

「じゃ一昨日話した通り、尾山荘にして呉れないか」

「なぜそんなにおれを誘うんだね?」

「やはり親しく知り合った同士で住みたいからさ。あそこは川に向いていて、静かだし、学校にも近いし――」

 彼は黙っていた。すると突然、小城は彼の体にしなだれかかって来た。

「もう尾山さんに話をつけてあるんだ」

「おれが下宿することをか?」

 彼はすこし驚いて言った。

「そんなむちゃな。おれはまだその尾山荘なるものを、見たこともないんだよ」

「だから、明日いっしょに行ってー――」

 小城は彼の右手に唇をつけた。不潔だとか、うとましいとは別に感じなかったが、こころよいとも感じなかった。しばらく相手のなすままに任せていた。それから三十分後に、彼はとうとう尾山荘行きを承知させられてしまった。

 翌目の課業がすむと、二人は連れ立って、尾山荘を訪れた。それは白川に面して建っている。新築というのも、うそでなかった。女将の尾山フサコに会う。

〈ふしぎな顔をした小母さんだな〉

 そう思っただけである。それから部屋々々を見て廻った。

  山荘、などと言うと、アパートメントみたいなものを想像するが、この下宿屋はふつうの住宅で、貸す部屋は二階の三部屋だけである。玄関のとっつきに洋風の応接間があったが、それはまだ貸す気はないようなフサコの目ぶりであった。二階に廊下があり、四畳半が二つ、突当りに六畳があった。新築のくせに、二階を歩くと、何か不安定な感じがした。

「ずいぶん大工が手を抜いたらしいな」

 寮に戻りながら、彼は言った。

「未亡人と思って、大工がばかにしたんだろう」

「未亡人じゃないんだよ。離婚したんだ」

 そのあらましを小城は説明した。

「ふん。そんなことかね」

 彼は気のない返事をした。

「それで君は奥の六畳間を約束したのか?」

「そう」

「するとおれは四畳半というわけか」

 小城は黙っていた。彼は追いかぶせるように言った。

「あの六畳をおれにゆずるなら、下宿してもいいな。おれは広い部屋の方が好きなんだ」

 小城は彼の顔を見た。怨(えん)ずるような表情になった。

「どうしても奥の間を――」

「そうだ」

 彼はつっぱねるように答えた。

「でなければ、他の宿をさがす」

 寮に着くまで、あとは口をきかなかった。

 その夜、また小城が訪ねて来た。

「六畳は君にゆずるよ。その代りに――」

 秘密を打ちあけるような、低声であった。

「ぼくにお客が来た時だけ、君の部屋を使わせて呉れないか」

「お客? どんな客だね?」

「身、身内のものなんだけれどね」

 と小城はどもった。何だかあやふやな口ぶりである。彼は単純に考えた。

〈肉親が訪ねて来た時、こんないい部屋で勉強している、ということを見せたいのかな〉

 そして彼は、小城のそのような稚(おさな)い見栄に、かすかな嘲笑がのぼって来るのを感じた。あとになって判ったが、嘲笑さるべきは彼の方であった。

「それなら下宿してもいい」

 彼は答えた。

 学期試験がすむと、彼は小城といっしょに、尾山荘に荷物を運んだ。二階のとっつきの部屋は、江田という理科の男が入っていた。その次が小城。奥の六畳は、この間見た時から、気に入っていた。小さいながらも床の間がついていたし、南の窓をあけると、白川の流れが見える。畳は新しいし、壁もきれいだ。久住は自分だけの部屋を今まで持ったことがない。そのことの満足もあった。

 尾山荘の背後にも素人下宿屋があり、西東はそこに入っていた。その下宿は尾山荘より格が落ちた。尾山荘があるので、展望がきかないのである。その点久住の部屋は『眺望絶佳』と言ってよかった。

 いいことずくめのようだが、ひとつ見込み違いをしたことに彼が気付いたのは、ニヵ月あとのことである。それは蚊であった。五月末になると、蚊が出始めた。河原のところどころに水たまりがあり、そこで発生するのだ。だから寝る時には蚊帳をつらねばならない。寝る時だけでなく、勉強する時も蚊帳が必要なのである。

 六月の末、隣家の西東の部屋に碁を打ちに行ったことがある。蚊はいなかった。一局打ち終って、彼は質問した。

「蚊は出ないのか」

「時々出て来るよ。寝る時は蚊取線香を立てる」

「蚊取線香ですむのか。うらやましいな」

「君んとこには、よく出て来るね」

「いるのなんのって、夜窓をあけると、わんわん入って来る」

 彼は首筋をかきながら言った。

「すごく大きな蚊でね、刺されるとひどく痒い。河原から発生するんだ」

「そりゃ気の毒だね。河原の蚊は尾山荘だけで満足して、うちには廻って来ないんだ」

 西東は笑いながら言った。

「蚊というやつは、人跡未踏の場所にもいる。ということは、人間の血を吸わないでも生きて行けるんだ。だから蚊が人血を吸うのは、趣味か道楽なんだよ」

「道楽でおれは刺されているのか?」

 久住は苦笑いをした。

「尾山荘に入る時、蚊のことだけは、計算に入れなかった」

「そんなに蚊が多いとは、おれも気付かなかったな。初めおれは尾山荘に入る予定だったんだ」

「なぜ入らなかったのかね?」

「入ろうと思ったら、満員だった。小城が無理に君を引っぱり込んだ。そうだね?」

 久住はうなずいた。

「小城がなぜ君を引っぱり込んだか。その意味が判るかい?」

「意味なんて、あるのかね」

「あるさ。君が入らなきゃ、おれが入る。すると小城は困るんだ」

「なぜ困る?」

 西東は立って窓をしめ、元の座に戻って来た。

「小城にこの間女の客が来たね」

「ああ。来たよ」

 彼は答えた。

 西東は家が隣のせいもあって、しょっちゅう尾山荘に遊びに来ていた。久住や小城の部屋にはほとんど入らなかったが、附下の応接室で久住と碁を打ったり、フサコをまじえて花札を引いたりした。フサコも勝負ごとは好きだったようである。独り身の佗(わび)しさを勝負ごとに託するのか、それとも生来のものなのか、ことに花札は強かった。

「花札の強い女なんて、軍人の家庭に似つかわしくないな」

 負けて口惜しいので、久住はそんな冗談を言ったことがある。するとフサコはむきになって答えた。

「あら。あたしは花札を、主人から習ったのよ」

 小城は勝負ごとに無関心らしく、応接間の仲開には入らなかった。西東がけむたかったのかも知れない。

 久住は質問した。

「あの女、一休何ものだね?」

 

 五月なかばの土曜日であった。お客が来るから、二日間部屋を交換して呉れ、と小城が申し込んで来た。

「二日間って、その客は泊るのか?」

「そうなんだよ」

 媚(こ)びるような眼で、小城は彼を見た。

「頼む」

 部屋交換は初めからの約束なので、彼は寝具を小城の部屋に運んだ。客が到着したのは、夕方である。女であった。

 その日の夕食は、小城はとらなかった。女客と町に出て、食事をしたり、映画などを見たのだろう。戻って来たのは、十二時近くである。

[やぶちゃん注:ここから尾山荘は下宿人にそれぞれ玄関の合鍵を持たせている方式らしいことが判る。]

 久住は布団の中に、横になっていた。電燈を消したが、部屋がかわったせいか、なかなか寝つかれない。しばらくして廊下を忍び歩く二人の足音を聞いた。足音は奥の六畳問に入り、襖(ふすま)がぴたりとしめられた。

 久住は聞こうとはしなかったが、隣室の物音が自然に耳に入って来る。新築だけれど、安普請(やすぶしん)なので壁が薄い。寝巻に着かえる気配がする。会話も聞える。彼は眼を閉じたまま考えた。

〈小城は寝具をひとつしか持ってない筈だが、一緒に寝るつもりか〉

 しゃべっていることは判るが、その内容は聞きとれない。すこしずつ声が高くなる。調子が戯語めいて来る。電燈を消す音がつづいた。彼は観念した。

 〈これじゃ眠れそうにないな〉

 音や声はしばらく続き、そして突然やんだ。久住は音のしないように起き上り、催眠薬をのみ、薬罐(やかん)に口をつけて、水とともに飲み下した。

[やぶちゃん注:「戯語」「じょうだん」(冗談)と当て訓しておく。漢語として「ぎご」「けご」ともあるが、凡そここに相応しくはない。但し、春生はルビを振るべきであったと思う。]

 朝眼が覚めたのは、午前七時。その部屋の廊下に面した障子は、上と下は紙で、中間にはガラスがはめこまれている。六畳聞の襖が開かれる音で、眼が覚めたのだ。彼は首だけを寝床から立てた。ガラスの幅だけ、女の姿が見えた。紫色が見える。袴(はかま)のようだと思った時、姿はガラスを横切って消えた。顔や手は見えない。つづいて小城が出て来る。

 それまで見届けて、頭を枕に伏せた。催眠薬がまだ頭に始残っていて、眼がちかちかする。彼はふたたび眠りに入った。十二時頃、本式に目覚めた。寝床にあぐらをかき、煙始草に火をつけた。さっきの紫色を思い出した。先ほどは寝ぼけ眼で見たが、はっきり覚めた今、その色はかなり妖しい情念を彼にもたらした。

 煙草をもみ消すと、彼は階下に降りて行った。昼食の用意がととのえられている。彼はチャブ台の前に坐り、フサコに話しかけた。

「小城んとこに来たお客、あれは何だね?」

「あたしも知りませんよ」

 フサコは不機嫌な答え方をした。

「一昨日電報が来ました。故郷(くに)の人じゃないかしら」

「いくつぐらいの女? たしか袴をはいでいたね」

「顔は見なかったの?」

「見なかったね。寝ていたから」

「小城さんよりずっと年上よ」

「じゃやはり身内の女かな。ひどく親しげだったから」

「のぞいたの?」

 フサコは大きな眼をさらに大きくしで、彼を見た。

「のぞきゃしないよ。ぼくにそんな好奇心はない。部屋を交換しただけだ」

「部屋を交換した?」

 フサコはいぶかしげな顔になった。

「じゃあんたは小城さんの部屋に寝たの?」

「そうさ。いけないかね」

「いけないとは言わないけれど、するとあんたも共犯者ね」

「共犯? 冗談じゃないよ。あれ、犯罪か?」

「ここの風儀を乱したのは、よくないことよ」

 フサコは強い調子で言った。

「うちは逢引(あいびき)宿じゃないの!」

「そ、それは判っているが、初めからの約束だった」

 彼は弁解した。

「しかし逢引きかどうか、ぼくは知らない。小母さんにも判らないんだろ」

 フサコは返事をしなかった。彼に茶を注ぐと、立ち上って二階へ登って行った。彼は茶をすすりながら考えていた。共犯者という言葉に、しばらくこだわっていた。

 

「あれは小学校の先生なんだ」

 西東は碁石を片付けながら言った。

「恰好(かっこう)見れば判りそうなもんだ。つまり小城のやつは、その中田先生から習ったんだよ」

「先生?」

 ガラス越しに見た袴の紫色を、彼は思い出した。

「受持の先生なのか?」

「そうだ。小城が六年生の時、女子師範から赴任して来た。もちろんその時は何もなかった。中学に入ってから、

火がついたんだ」

「どうして君はそれを知っている?」

「おれと小城は同郷だ。小さな町でね、おれもその小学校を卒業したんだ。女教師の顔もよく知っている」

「すると――」

 ちょっと久住は言い淀んだ。

「やはりぼくの部屋で、逢引きをしたんだな」

「君の部屋?」

「うん」

 そして久住は交換の一部始終を説明した。西東は腕組みをして聞いていた。

「お前は利用されたんだよ」

「そうか」

「お前がおとなしいかと思って、尾山荘に引き入れたんだ。お前は口が堅いからな」

 口が堅いのではない。この件に関してしゃべる材料がないだけだと、彼は思ったが、口には出さなかった。

「お前は人が好いんだ」

「そう思うか」

 尾山荘に引き入れられた事情やいきさつについて、彼は、西東に話さなかった。

「しかし、自分が教わった教師と関係を持つというのは、どんな気持のものかなあ」

 久仕がそこに興味を持っているのは、事実であった。彼にはもちろんその経験はない。小学生の時、彼も女教師に教わったことがある。紫色の袴は母性と威厳をたたえていた。だからガラス越しに見た紫色が、強いショックを彼に与えたのだ。久住は言った。

「西東。なぜ君は小城のことを、そんなに気にするんだね?」

「気にはしないさ。しないけれども――」

 西東はそのまま口をつぐんだ。碁盤をたたいた。

「もういっちょやろうや」

 西東の声や態度は、もう元に戻っていた。大したことはないんだな、と彼は思った。

 

 それと同じ申込みが、七月上旬にも小城からあった。やはり土曜日で、久住は放課後寝具を小城の部屋に移し、そのまま外出して、級友の三田村の下宿に遊びに行った。三田村の宿は坪井にあった。

[やぶちゃん注:「坪井」熊本県熊本市中央区坪井。]

 彼のクラスは碁好きが多い。皆入学して始めたので、腕前もほぼ同じである。三田村とも西東とも、彼は互先で打っていたが、どうも三田村が一番上達が早い感じがする。三度やると、二番は負けた。数局打つと、彼はすこし疲れた。その彼に三田村は言った。

「どうだ。ビールを飲みに行かないか」

 生ビールの季節になっていた。否も応もなく、久住はついて行く気になった。今日だけは下宿に戻って、飯を食う気にはなれなかった。

[やぶちゃん注:「互先」(たがいせん)と読む。私は勝負事に、一切、興味がなく、全く知らないので(特に碁は「五目並べ」以外で幼少期に遊んだ以外には全く知らない)、当該ウィキを引く。『囲碁の手合割の一つ』で、『ハンデキャップのない対局を指し、棋力が近い場合に採用される』もの。『囲碁は単純に目数で勝敗を決するとすると先手が有利であるため、一局で勝敗を決する場合、コミを用いて先手(黒)と後手(白)の均衡を図る。日本では』二〇〇〇『年代以降、後手に』六『目半のコミを与える(先手が』七『目以上リードしていないと勝ちとしない)のが一般的となっている。先手・後手はニギリ』(当該ウィキ参照)『によって決められる』。『互先の用語はもともとコミの無い時代に、互いに先(交互に白黒)を持つところからきている』。『棋力に差がある場合には定先』(じょうせん:当該ウィキ参照)や『置き碁』(当該ウィキ参照)『を採用する』。]

 街に出て、生ビールをジョッキで二杯飲んだ。それから行きつけのそば屋に座を移し、酒を飲んだ。そば屋と言っても、門構えのある屋敷風の建物で、部屋々々は独立している。宴会用の広間もある。そばを看板にしているが、むしろ料亭に近かった。二、三の料理を取り寄せ、盃(さかずき)を傾けながら、三田村は言った。

「君の下宿はどうだい。エッセン(食事のこと)はいいか?」

「普通だろうね。ただ蚊が多くて困る」

[やぶちゃん注:「エッセン」ドイツ語“Essen”。食事・料理・食い物。]

 しばらく下宿の話をした。寮の賄(まかない)との比較や環境のことなど。一般論から急に三田村は具体的な話に入った。

「君はあの下宿を出た方がいいよ」

「蚊がいるからか」

「いや。そうじゃない」

 三田村は手を振った。

「あの方向の下宿には、何か毒気があるよ。蛾の粉のようなものが散らばっとる」

「そうかね」

 久住も盃をなめた。三田村がどの程度まで事情を知っているか、興味があった。

「しかしおれはもともと、毒気に当てられないたちだよ」

「あそこに君を引き入れたのは、小城だろう」

 また追加した酒で、三田村は額が赤くなっていた。

「どんな風(ふう)にあいつは持ちかけて来た?」

 久住は返事をしなかった。

「君のためを思って言っているんだぞ。あんな女の腐ったような男と、つき合うな!」

「女の腐った男じゃない。あいつは相当なしたたか者だ」

「したたか者?」

 三田村は反問した。

「具休的には、どういうことだ?」

「どうだっていいよ。ぼくにも君にも関係ないことだ」

「あそこの女将は、未亡人だそうだね」

「それも関係ないよ」

 彼はわらいながら答えた。

「おれは眺めているだけさ」

「しかし醜悪だな。よく眺めるだけでいられるな」

 小城が女将と関係している。三田村がそう解釈しているらしいことが、やがて言葉の端々(はしばし)で判って来た。それを否定する証拠は、久住は持たなかった。

「でも女将は、小城のことを、小城のやり方を、心配しでいるようだよ」

 と久住は言った。

「関係があるなんて、誰からそんなことを聞いた?」

「西東だよ。いつか集会所で碁を打っていたら、そんなことをほのめかした」

「はっきり言ったのか」

「はっきりじゃない。謎をかけるような調子でだ」

「そりゃ君の聞き違いじゃないのか」

 と彼は言った。

「もっともおれは世間知らずだからね。わけも判らないことに、首をつっ込むのはいやなんだ」

 いい加減に飲み、かつ食べて、外に出た。夜の街を歩きながら、久住は言った。

「今晩君んとこに泊めて呉れないか」

「いいよ」

 三田村の宿では、客用の布団を出して呉れた。蚊帳も必要でなかった。三田村の実家は北九州の造酒屋である。押入れから一本出し、蚊取線香のにおいの中で、冷やの茶碗酒を何杯か飲んだ。三田村は言った。

「寝るところがきまったら、酔いつぶれてもいいんだ。家か出る時、おやじにそう言い聞かせられた。酔っても道ばたに寝るのはよせとね」

 部屋の隅に、一週間ほど前に出た校友会雑誌が出ていた。久住は手に取って、ばらばらめくった。西東が短歌を発表しでいた。十首ばかりで、題は『若い日の恋。別離』

『吾が胸にひしとすがりて別れうらむ君いぢらしき若き日の恋い』

 に始まり、

『何時か会はむと吾が手握りし面影の君を抱きて吾旅立ちぬ』

 で終っていた。久住には短歌に趣味はなかったが、すこしばかばかしい気がして、丸めて放り出した。

「いい加減なおっさんだな。西東は」

「いい気なもんだ」

 三田村も相槌(あいづち)を打った。

[やぶちゃん注:「校友会雑誌」『龍南』は明治二四(一八九一)年十一月二十六日の創刊(初期は『龍南會雜誌』か)の熊本第五高等学校の交友会誌。五高の英語教授であった夏目漱石を始めとして、厨川白村・下村湖人・犬養孝・大川周明・上林暁・木下順二などの後の錚々たる文学者が寄稿した。梅崎春生も昭和九(一九三四)年度には編集委員に名を連ねており、同誌に春生は多くの詩作品も投稿している。私は既に当該詩篇群を原雑誌を底本として、その全十六篇を、ブログ単発ではブログ・カテゴリ「梅崎春生」で公開しており(頭が「梅崎春生 詩」とあるのがそれら)、別にサイトの「心朽窩旧館」の「梅崎春生」の頭に『藪野直史編「梅崎春生全詩集」(ワード縦書版)』(ここをクリックしてもよい)がダウン・ロード出来るようにしてある。その内、後者はPDF版にする。]

 翌朝眼がさめると、いい天気であった。朝飯を食べながら、三田村が提案した。

「どうだ。今から阿蘇に登らないか」

 彼は別に異存はなかった。夏の阿蘇なので、別に支度する必要もない。豊肥線に乗り、坊中で下車、あとはバスで頂上近くまで登れる。しかし、バスには乗らなかった。足を使って、えいえいと登った。あと一息で頂上に達するところで、突然地鳴りがして、小さな爆発が起きた。火口にいた何百の登山客が、あばかれた蟻(あり)の巣のように、方向も定めずに急坂をころがり降りた。二人の周囲にも、小さな火山弾が落下した。

「動かない方がいいよ」

 三田村はしずかに言った。

「動くと落石に当る可能性が多くなる」

「そうかな」

 久住は空を見上げながら、そう言った。しかし三田村の言に、瞬間疑いを持った。たとえば俄(にわ)か雨の時、じっとしているのと、走るのとでは、どちらが余計に濡れるのか。一分間ほどで、爆発はやんだ。しかし頂上の火口に行く気持はなかった。方針を変えて山を降り、夕方栃ノ木温泉に泊った。翌日昼間はそこらをぶらぶらして、夕暮れに熊本に戻って来る。そのまま別れるのに忍びず、また街でビールを飲み、夜更(ふ)けて尾山荘に戻って来た。玄関がしまっているので、ベルを押した。フサコが出て来た。

「今までどこに行ってたの?」

「阿蘇山に登った」

 彼は正直に答えた。

「そして栃ノ木温泉に泊ったんだよ」

 そう言い捨てて、彼は二階に上った。見ると彼の寝具は元の六畳に戻され、蚊帳もつられていた。部屋には香水のにおいが残っていた。勉強机の上には見慣れぬ花瓶があり、花が挿してある。彼は酔眼を見開いて、しばらく考えた。

〈一体誰が、どんなつもりで、これを置いたんだろう〉

 気持が激するのを感じながら、彼はその花束を引き抜き、南の窓から力まかせに投げた。ついでに花瓶も投げ捨てた。自分の区切った生活の中に、異質なものが入って来るのが、不愉快だったのだ。

 翌朝の朝食の時、花瓶のことについて、誰も触れなかった。もちろん久住も黙っていた。久住から口に出すべき問題ではなかったからである。

[やぶちゃん注:「豊肥線」(ほうひせん)大分県大分市の大分駅から熊本県熊本市西区の熊本駅に至る当時の国鉄の豊肥本線。路線名の「豊」は現在の大分県に当たる豊後国、「肥」は同前式の肥後国に由来する。当初、大分駅と玉来(たまらい)駅の間は「犬飼軽便線(いぬかいけいべんせん:後に犬飼線に改称)、宮地(みやじ)駅と熊本駅の間は「宮地軽便線(みやじけいべんせん:後に宮地線に改称)と称したが、最後の区間であった玉来駅と宮地駅の間が開業し、大分駅 から熊本駅の間が全通したのは、昭和三(一九二八)年で、宮地・犬飼両線を合わせて「豊肥本線」となった。

「坊中」坊中駅。現在の阿蘇駅

「栃ノ木温泉」栃木(とちのき)温泉。阿蘇山南西麓のこの附近。]

 

 夏体みが過ぎて、二学期が始まった。各地方からぞろぞろと、学生たちが下宿に戻って来る。皆日焼けして、黒くなっていた。

 同級の五、六人と、学校の裏にある立田山に登った。酉東もいっしょであった。彼は西東をからかった。

「何時か会わんと吾が手握りし君と、また別れを告げて来たのかい?」

「あれはフィクションだよ」

 西東は冴えない声で答えた。

「君に話があるんだが、連中をまこう」

[やぶちゃん注:「立田山」(たつだやま/たつたやま)は熊本市のほぼ中央に位置する標高百五十一・七メートルの山。現在の熊本大学の東北後背に当たる。]

 先に登って行く級友たちと、別のコースをたどり、静かな場所に出た。巨(おお)きな杉の根っこに腰をおろし、西東はゲルベソルテに火をつけた。

[やぶちゃん注:「ゲルベソルテ」“GELBE SORTE”。ドイツ製の煙草の銘柄。私も若い頃、パッケージが箱型上開きで渋いので、両切りであったが、吸っていた。空き箱がどこかにあるはずなのだが、見出せない。グーグル画像検索「GELBE SORTE」をリンクさせておく。]

「実はおれは尾山のばばあに相談を受けたんだ」

 ばばあ呼ばわりをするところに、西東の偽悪趣味がおこった。

「何の相談だね?」

「小城のことについてだ」

「いつ?」

「そら。小城の女が来た時、君は阿蘇に行っただろ。あれから二、三日してからだ」

 西東は苦笑いをした。

「よく聞いてみると、小城はおれを、よっぽどの悪人に仕立てているんだな。驚いたよ」

「どんな悪人だね?」

「つまりぐうたらで、女たらしということだね。おれの短歌まで利用してさ。言うまでもなく、あれは架空の乙女なんだ」

「そうだろうね。あれは想像だ」

 彼は相槌を打った。

「経験者なら、あんな甘っちょろい歌をつくる筈がない」

「おい。それはおれをほめてるのか、けなしているのか?」

「ほめているんだよ」

 西東からその外国煙草を一本もらいながら、久住は答えた。西東の家は旧家で、大地主だと聞いたことがある。だからこそ外国煙草が買えるのだ。

「で、相談とは何だい?」

「小城のことだよ。女教師と密会している――」

「何で君に相談を持ちかけたんだろう。ぐうたらな君にさ」

 久住は首をひねった。

「どうしでおれに相談を――」

「君ではだめたんだ」

「子供だからか?」

「いや。お前は子供じゃない」

「子供じゃなくなったのか?」

「君は尾山のばばあの花瓶を、河原に投げ捨てただろう」

 西東は煙草を踏み消しながら言った。

「あの花瓶、安物じゃなかったそうだよ。しかし、お前のために、割れて使えなくなってしまった」

「あれ、尾山のばあさんのものなのか?」

 彼はびっくりして、反問した。

「何で花瓶を、おれの部屋に置いたんだろう?」

「君をなぐさめるためにさ」

「何でおれをなぐさめる必要がある?」

 彼は言葉を強めた。

「おれは同情されるのは御免だ」

「まあ、まあ、そう怒るなよ」

 西東は空気を手で押さえつけるようにした。

「ばあさんは小城のことで、いらいらしているんだ」

「嫉妬でかね?」

「嫉妬? それはどんな意味だい?」

「ばあさんと小城と肉体的に関係しているということさ」

 彼はゆっくりした口調で言った。

「君はそのことを、ある男にしゃべっただろう」

「うそだ。誰にもしゃべりはしない」

「しゃべらないにしても、ほのめかすぐらいのことはしただろう」

 西東は顎(あご)に手を当て、しばらく考えていた。顔を上げた。

「関係があるかどうか、おれは知らない。現場を見たわけじゃないからな」

「では、相談というのは、嫉妬からじゃないのかい?」

 西東はまた黙った。少し経って、重そうに口を開いた。

「言葉の上じゃそうでなかった。うちの部屋であんなことをされては困ると言うんだね」

「それはおれも言われたよ。しかも、おれが共犯だってさ」

 彼は煙草の火を杉の根にすりつけながら答えた。

「部屋を貸したばかりに共犯あつかいさ。でもばあさんは、何故そんなことにこだわるのだろう?」

「実を言うと、ばあさんはね、元の亭主のところに戻りたいんだ」

「あの軍人にかい?」

「そうだよ。迎えに来て呉れはしまいかという期待を、まだ捨て切れないでいるんだ。それで逢引宿という噂が立つのを、ひどくおそれてんだ」

「なるほど」

 彼は思わす嘆息した。

「姑(しゅうと)や小姑は悪いやつだが、亭主はいい人間だと、いつかばあさんは言ってたな。そんなことか」

「で、女教師をうちに来させないか、あるいは小城に出て行ってもらうかだ。それが相談の内容だよ。おれにやって呉れと言うんだ」

 西東は立ち上って、背伸びをした。

「おれは小城の中学の先輩だし、同郷だろ」

「うん。おれは共犯者で、花瓶をこわしてしまった」

 彼も立ち上った。どちらからともなく歩き出した。

「しかし、話がちょっと変だな。小城が君を悪者あつかいにしているのを、ばあさんはそれまで隠していたのかね?」

「そうらしい」

「相手が女教師だということを、ばあさんはいつ知ったんだろう?」

「一回目のすぐあとさ、おれが教えてやったんだ」

 西東はややうつむき気味に歩きながら言った。

「女教師を来させない方法は、いくつかある。女教師に手紙を書くとか、小城に忠告するとか、いろいろね。しかしあのばあさんは、自分を悪人にしたくないんだ」

「それで君に委嘱(いしょく)したわけだね」

「まあそういうことだ」

「で、断ったのかい?」

「いや。引受けたよ」

「ばかだね」

 と、久住はわらった。

「他人の情事に頭をつっこむなんて、引合わない話だよ。成功しても怨まれるし、不成功でも憎まれるしね」

「では、相談に乗って呉れないと言うんだね」

「そうだよ」

 彼はつっぱねた。

「君だけでやればいい。おれは君を援助もしないし、邪魔もしないよ」

「そうか。案外つめたい男だな」

 西東は落着いた口調で言った。

「船が沈没して、お前がボートに乗っている時、泳いでいるやつが舷(ふなばた)にしがみついたとする。その指を引剝がして海につっぱねるか、ボートに引揚げてやるか、お前はどちらもやらないだろう」

「そうだね。その場にならないと判らない」

「まったく悪人だよ。君という男は!」

「悪人?」

 一方につめたくすれば、片方をあたたかくすることになる。それを言おうとしたが、何か面倒で、口には出さなかった。

「悪人かねえ、このおれが」

 

 九月の末、尾山荘に異変が起きた。西東が尾山荘の応接間に引越して来ることになった。久住はフサコに訊(たず)ねた。

「応接間は人に貸さないことになってたんだろ。ぼくの思い違いかしら?」

「初めはそうだったのよ」

 フサコは困った顔で答えた。

「しかし今は物価も上るし、四人いなきゃ家計が立たないの。下宿代を上げるか、食事の質を落すか、どちらもあんたたちは困るでしょう」

 たくみな言逃れだと、その時彼は考えた。しかし西東が移って来ることに、別に異存はなかった。西東が来たって、別に困りはしない。そこで彼は西東の荷物運びを、手伝ってやった。

 それから一週間後、今度は小城がよその下宿に引越して行った。この引越しぶりは電光石火で、土曜日の昼食をとりに尾山荘に戻ったら、小城の姿はなく、部屋もからっぽになっていた。学校を欠席して、引越しをしたのである。西東が玄関番みたいに頑張っているから、出て行く気持は判るけれども、

〈おれに相談もしないで!〉

 という気持が、久住の中に瞬間動いた。もともと懇願しておれを尾山荘に引入れたくせに、当人はすぽっといなくなる。そんなことがあってもいいものか。小城の出て行った部屋に、人見という男が入って来た。なぜ西東を二階に移さなかったのかと聞くと、フサコは、

「小城さんが自分の友人を入れて呉れ、ということでしたから」

 とあっさり答えた。彼女にとっては、小城の問題が片付けばいいのだ、と久住は解釈したが、その解釈は幾分見当外れであった。

 釈然としない気持で、彼は小城と学校で会っても、口をきかなかった。十日ほどその状態がつづき、小城の方から妥協を申込んで来た。

「黙って尾山荘を出て、君には悪かったと思っている。許して呉れ」

「あやまられる理由はないね、おれには」

 久住は答えた。

「それはお前の自由なんだから」

「そう思って呉れるとありがたい」

 小城は頭をかいた。

「なにしろあそこは蚊が多くてね、ぼくには向かないんだ」

「そりゃ誰にも向かないよ。向かないことを知っていて、人見を紹介したのか?」

 小城は困ったような顔をした。少し経って言った。

「十月だからね、もう蚊もいなくなるし、と思ってさ」

 ではお前がとどまればいいじゃないか、と言おうと思ったけれども、やめにした。原因が判っているので、これ以上追求しても無駄である。黙っていると、小城は別の弁解を持ち出して来た。

「あの小母さんと西東が関係してることを、知ってるかい?」

「知らないね」

「それでぼくは、あそこを出て行く気になったんだ」

「しかしそれは、君と関係ないことだよ」

 彼はつめたい声で言った。自分のことは棚上げにして、他を批難する。それがいやであった。

「関係ないけれど、何か不潔――」

 言いかけて、すぐ言い直した。

「何となくいやなんだ」

 不潔という言葉が、両刃の剣のように、自分にはね返って来ると思ったんだろう。そしてあわててつけ加えた。

「これは内緒だよ。西東にも小母さんにも、言っちゃいけないよ」

 

 第三の異変は、尾山フサコに結婚式の招待状が来たことから始まる。差出人は、元亭主の軍人で、つまり再婚の通知であった。

 西東は二日続きの休みを利用して、天草に遊びに行っていた。

 久住が夜夕刊を読みに階下に降りて行くと、フサコは長火鉢の前に坐って、じっと宙をにらんでいた。

「夕刊を見せて下さい」

 彼の姿を見ると、フサコは夢からさめたような顔になった。彼が夕刊を読んでいる間に、お茶をいれる。まだ夕刊を読み終らない中に、フサコは話しかけた。

「ねえ。こんなことってあるものかしら?」

 角封筒に入った書状を、彼に差出した。

「中を見てもいいのかい」

 彼は中身を引っぱり出して読んだ。

「あたしの元主人よ」

「そうか。では結婚式に出席して、祝福して上げなさいよ」

「あんた、本気で言ってるの!」

 語調の激しさに、久住は一瞬たじろいだ。

「おめおめと出られると思ってるの。これ、いやがらせよ。あくどいいやがらせよ」

「そう言えば、そんな気もするね。すると元主人という人は――」

「いえ主人じゃないの。この筆跡は、姑のものよ」

 ああためて眺めると、封筒の字は女の手のようである。西東からあらかじめ聞いていただけに、フサコの怒りと絶望の深さが判るようであった。書状を封筒に収め、帰ろうとすると、その手をフサコの両掌が、長火鉢の上ではさみ込んだ。フサコの掌はつめたかった。

「あたし、とてもつらいのよ」

 彼は黙っていた。黙ってするままに任せていた。フサコは彼の指が一本々々剝ぎ取る。手紙は彼の掌から離れ、角火鉢の角にあたり、ぽとんと畳の上に落ちた。

「あたし、今夜、眠れそうにない」

 フサコは眼を閉じて、訴えるように言った。彼は自分の掌がじわじわと、フサコの方に引寄せられるのを感じた。

「催眠薬を少し分けて上げようか」

 フサコはうなずいた。

「では二階から取って来る」

 フサコの掌を巧みに振り放し、彼は自分の部屋から催眠薬の普通量を紙に包み、階下に降りて来た。フサコの姿はその部屋から消えていた。次の間の襖(ふすま)がすこしあいている。のぞくと布団の上に、フサコの体はくの字形に伏していた。内に足を踏み入れていいものかどうか、彼は迷った。フサコがやがて顔だけ上げた。

「入っておいで」

「ちゃんと寝床に入りなさい。でなきゃ、ぼくは入らない」

 フサコはだるそうに立ち上り、長柳絆姿になり、布団の中に入った。彼は薬とコップの水を持ち、その枕もとに坐った。フサコは薄目をあけて、コップを見た。

「それは、水?」

「そう」

「お酒にしてちょうだい。冷やでいいのよ。お酒は戸棚の中に入ってるわ」

 彼は素直に立ち上り、水を捨て、酒瓶を提げて戻って来た。フサコは腹這いになっていた。空のコップに酒をどくどくと、彼は注いでやった。フサコは錠剤を含み、一息にコップ酒をあおったが、腹這いの姿勢のため、いくらかの酒が敷布の上にこぼれ落ちる。フサコはそのまま頭を枕に乗せた。

「お酒、もう一杯ちょうだい」

「だめです。それだけで完全に眠れるよ」

「じゃ眠るまで、そこにいて呉れる?」

「いて上げるよ」

 フサコは眼をつむった。五分ぐらい経った。フサコが突然小声で何か言った。聞き取れなかったので、耳を近づけた。寝ごとだと思ったら、今度はやっと聞き取れた。

「だめですよ」

 彼は元の姿勢になって答えた。

「小母さん。あんたはいつかぼくのことを、中途半端な男と言っただろう。また無理をしないで生きて行け、とも言った。お説の通り、ぼくは無理をしたくないんだ」

 フサコは返事をしなかった。布団を額まで引きずり上げた。しばらくして、彼はそっと立ち上った。酒瓶を提げて静かに歩き、襖をしめて、二階の部屋に戻った。蚊帳の中で、茶碗に酒を注いでは飲み、注いでは飲んだ。

「据(す)え膳食わぬは男の恥、か」

 その言葉は前から知っていたが、現実に遭遇したのは、これが初めてである。酔いが急速に手足まで廻って来た。彼は眼を据えて考えていた。

〈フサコは屈辱を感じただろうな。しかしそれは、おれの責任じゃない〉

 無理をしたくない、と拒絶したが、拒絶そのものが無理だったのかも知れない。近頃彼はフサコに、すこしずつ魅力を感じ始めていた。頽(くず)れたようなものに対する魅力を。――今夜長儒絆からこぼれた白い肩の丸みや、掌の感触や、なまめいた声などに、感覚的にひかれながら、やっと抵抗した。何のために?

「よし!」

 彼は片膝を立てた。まだ機会はある。フサコが階段かを登って来る可能性もある。その時彼は自分の情感に抵抗し切れないだろう。こちらから降りて行く手もある。酔いが彼をけしかけた。

 彼は蚊帳を出て、階下に降りた。足がもつれて、音を立てそうだ。フサコの寝室の襖をそっとあける。電燈がつけ放しになっている。その光の下で、フサコは眠っていた。彼は枕もとにしゃがみ、指でフサコの頰や肩に触れて見た。反応はない。彼女は熟睡におちている。そう確かめて、彼は今のコースを逆に戻り、蚊帳の中に入った。そして残り酒を全部飲み干し、窓から外に放尿し、泥のような眠りに入った。

 

 翌朝の食事時に、フサコと顔を合わせた。フサコは昨夜のことは忘れたように、不断(ふだん)通りに、むしろ濶達にふるまった。それが本体なのか擬態なのか、よく判らない。彼は宿酔のため、梅干を舐(な)め、濃い茶をがぶがぶ飲んだだけで、二階に引上げた。

 西東が天草旅行から戻って来たのは、夕方である。

 その翌日の放課後、街に出ないかと、彼は西東に誘われた。小さなおでん屋で、時間が早かったので、客の姿はない。錫𤏐で二、三杯飲んだところで、西東は切出した。

[やぶちゃん注:「錫𤏐」私は「ちろり」と読みたい。知らない方のために平凡社「百科事典マイペディ」を参考に記すと、酒を温めるための金属製の器で、「銚釐」と書き、「直接に地炉の灰中で温める」の意から「地炉裏」とも書く。多くは錫(すず)・銅・銀・真鍮製で、一般に筒形で、下方がすぼまっており、上部に注ぎ口と取手が付いていて、取っ手をへりに引っ掛けて、湯の中に入れて酒を温めるものである。]

「昨夜、お前はおれの酒を飲んだな」

「あれ、君の酒かい?」

「そうだよ。買って頂けてあったんだ」

 別に詰問する口調ではなかった。

「どうしてあり場所を探り出したんだね。ばあさんが教えたのかい?」

「まあそういうもんだ」

 彼は昨夜のいきさつを簡単に説明した。ただし手をはさまれたことや、そのあとで誘われたことは、話さなかった。

「それだけかね?」

「それから酒瓶を持って二階に上り、飲んでしまったよ。何となく飲みたかったんだ」

 ふたたび二階から降り、フサコの頰や唇に指を触れたことは言えない。

「じゃここは、おれのおごりにしよう」

「いや。それはおれが連れ出したんだから――」

 そう言いかけて、西東は黙った。中途半端な酔い方をして店を出て、表で別れた。

〈あいつはおれに何か相談したかったのかも知れない〉

 三田村の下宿の方に歩きながら、久住は考えた。これ以上尾山荘にとどまると、ろくでないことになるだろう。そんな予感があった。難破を予知して船艙(せんそう)から逃げ出す鼠。自分をそういうものに感じながら、彼は足を早めた。三田村に会って、適当な下宿を頼んだ。

 三田村は笑って承知した。

「そうとう毒気に当てられたな。しかしお前のためには、その方がいいよ」

 

 結局尾山荘を出るのは、二学期の末になった。理由は、川に面しているのでひどく寒いこと、遊びの惰性がつづいて勉強が出来ないこと、などをあげた。実際一学期の成績が悪く、二学期のそれも自信がなかった。勉強しなければ、落第の可能性があった。西東は言った。

「その点はおれも同じだよ。せっせと勉強しなきゃあ、おれも落第だな」

 荷物を引越先に運び出した夜、西東とフサコは長火鉢のある部屋で、彼の送別会をして呉れた。西東は半纏(はんてん)を着ていた。その半纒がフサコの手作りであることを、彼は知っていた。縫っているのを見たことがあるから。

 すこし酔って来ると、西東はフサコに命令したりした。

「フサコ。この間のカラスミの残りがあるだろ。あれを持って来い」

 夫婦気取りである。西東は呼捨てすることによって、彼に宣言したのではない。すべては暗黙裡(り)に、了解が成立していたのだ。はっきりしないことはたくさんある。たとえば西東とフサコがいつ結びついたか、小城がその間でどんな位置を占めているのか、フサコが彼を誘惑したことを西東は知っているのか、その他いろいろが久住には判らない。はっきりしているのは、今眼前の現象だけである。その暗黙の了解を、久住は不潔なものだとは思わない。ただ別の世界だと考えたかった。だから彼は盃をこころよく受けた。

「小母さんは結局――」

 彼はフサコに言った。

「下宿屋の女将という柄じゃなかったね」

「あら。どうして?」

「止宿人と同じ次元で、じたばたしたじゃないか。もっと威厳を保たなきゃ」

「それを言うなよ」

 西東が彼をたしなめた。

「お前はとうとう悪人で通したな。見事なもんだ」

 悪人ではない。臆病なだけだ、と答えようとして、彼はやめた。

 

 引越した下宿で、久住は割に落着いて勉強出来た。学期試験が始まり、そして終った。発表があって、彼はかろうじて進級し、西東は落ちた。自分の進級を見届けたあと、誰にも会わず、彼は故郷に戻った。

 新学期になって、授業が始まっても、西東は姿を見せなかった。人見の話では、荷物はそのまま残してあるという。人見の提案で、寄書を書いて、出て来ることをうながそう、ということになった。で、書状が廻された。

 久住は迷ったが、最後には拒否した。出て来ないのは彼の意志だから、おれはとやかく書く気持はない。その旨(むね)を人見に告げた。旧級友の有志だけで、発送されたようである。そのかわりに彼は尾山荘を訪問し、フサコに会った。元気そうで、以前よりはいくらか肥って見えた。

「あら。あの人、盲腸炎で人院してるのよ」

 フサコはびっくりした声を出した。

「担任の先生に、その届けは出してある筈よ」

「そうか」

 落第したから、担任が変っている。そこに盲点があった。

「しかし――」

 と彼は言った。同郷なのに、小城はそのことを知らなかったのだろうか。そこに不審があった。あるいはあの件で、交際を絶ってしまったのか。

「しかし、何よ」

「いや。何でもない」

 彼は笑って言った。

「西東もいさぎよく落第したもんだな。感服するよ。がっかりしてなかったかい」

「いえ。全然」

 フサコも笑って答えた。

「ゆっくり高校生活をたのしむんだと言ってたわ」

「金のあるやつは、のんきでいいね。うらやましいよ」

 彼は言った。

「出で来たら、歓迎会をやってやろう」

 部屋に上らずに、玄関先の会話だけで、彼は戻って来た。まおあれはあれでいいだろうと思った。教室がいっしょでないので、いつか西東のことは、彼の脳裡から離れていた。

 西東の兄が故郷からやって来て、西東の退学届を出したという話を聞いたのは、ずっと後のことである。何故退学をする気になったのか、彼には理解出来なかった。尾山フサコなら知っているだろうと思ったが、他のことに紛れて、つい訪ねなかった。七月になって行って見ると『尾山』の表札は外(はず)され、他の表札がぶら下っていた。

 彼は白川の河原に降り、しばらく流れを眺めていた。彼は去年の蚊の季節の頃を思い出した。佇(たたず)んでいる間も、大きな蚊が何匹も飛んで来て、彼の顔や手足にまつわった。

 河原から上り、新しい表札の玄関で、事情を聞いた。フサコはこの家を売却し、東京に行ったことが判った。新住人から聞き得たのはそれだけで、他の事情は何も判らない。新しい主人は言った。

「いさぎゅう蚊の多かとこですなあ。知らんもんだけん、高う買い過ぎたごたる」

[やぶちゃん注:「いさぎゅう」熊本弁で、「ひどく」「たいそう」の意。]

 

 西東とフサコの関係が、西東家に知られてしまった。そこで親族会議か何かがあったのだろう。西東を学校から引かせ、東京に追いやった。東京で私大の予科にでも入れるつもりである。当人もそれを希望した。

 尾山フサコに手切金が与えられた。もう西東に会わないとの約束で、フサコは一応承諾した。

 田舎の旧家らしい解決法だったが、事はそれで済まなかった。フサコが持ち家を捨てて上京したからである。よりが戻った。

 それも短い期間であった。徴兵猶予の手続きを忘れたために、彼に召集令状が来た。徴集されて二週間後、西東は大陸に渡り、すぐに戦死した。戦死のことは、久住は小城から聞いた。聞いたとたんに、彼はふっと涙が出そうになった。

[やぶちゃん注:「徴兵猶予」旧兵役法では在学者及び国外在住者に対して、定期的に申し出を出すことで、徴兵時期の延期が適用された。]

「ばかだな。手続きを忘れるなんて」

 久住は横を向いて言った。

「好いやつほど、早く死にやがる」

「それは逆だよ。死んだからこそ、いいやつなんだ」

 小城は感情のない声で言った。

「あの春休み、盲腸で入院する前、西東はぼくのお客に――」

「女先生のことか?」

「そうだ」

 小城はちょっと顔をあからめた。

「会っていやがらせを言ったんだよ。どうせ長くはつづかないから、交際はもうやめろってね」

「いやがらせじゃなく、忠告じゃないのかい?」

「うん。まあ忠告かも知れないが、彼に忠告する資格があるのかね?」

 フサコのことをさしていることは判った。そして小城は語気を強めた。

「西東はおせっかい屋なんだ。おせっかいをやき過ぎる。自分のことは棚に上げて、他人の邪魔ばかりしているんだ。そう思わないか?」

「思わないね」

 出かかった涙は、もう引込んでいた。久住は突放すように言った。

「おれはあいつから、おせっかいをされた覚えはないな。それほどべたべたした交際じゃなかったよ」

 

 その年の秋ごろから、久住の気持はやや荒れ始めた。西東の死の影響ではない。このままでいいのかという気分があって、学校を休んだり、酒に溺れたりした。彼はドイツ語がにが手で、その教授の一人から憎まれているという妄想みたいなものがあり、とうとう落第した。

[やぶちゃん注:「彼はドイツ語がにが手で、その教授の一人から憎まれているという妄想みたいなものがあり」恐らくは相似した事実や精神状態が梅崎春生にはあったと考えてよい。遺作『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (13)』にも優れて映像として印象的なシークエンスとして描かれてある。

 四年間かかって卒業し、東京に出た。中野のあるバーに尾山フサコがいて、彼に会いたがっていると友人が知らせて呉れたのは、学校に入ってすぐである。会いに行こうか行くまいかと、久住はしばらく迷った。会ってどうなるものでなし、と思ったが、結局出かけることにした。バーは中野駅のすぐ近くにあった。重々しげな扉の上に三角燈をつけ、壁には蔦をあしらった、あまり趣味のいいバーではなかった。

 フサコはずいぶん変っていた。顔は化粧でごまかしているが、首筋のあたりの皮膚はざらざらに荒れている。四年前の白いすべすべした肩を彼は思い出した。あれから四年間、こちらは四つ歳をとったのに、彼女は八年ぐらい老けたらしい。

 なつかしい。昔のことを思い出す。そんな月並みなあいさつから始まって、フサコはぐいぐい飲み始めた。

「おねえさん。そんなに飲んじゃ、休に毒よ」

 同僚の女から注意されるほど、がぶ飲みをした。看板近くになって、まだ話したいことがあるからアパートまで送って来て呉れ、と言い張って聞かなかった。彼がためらっていると、フサコはこんなことを言い出して来た。

「西東が学校をやめたのも、あんたのおかげよ」

「なに。ぼくの?」

「そう。寄書きをよこしたでしょう。西東が盲腸炎になって入院した時にさ」

「ああ。寄書を書いて送ったらしいな。おれは書かなかったけれど」

「ウソ! 書いたでしょう。あたしたちの仲のことを!」

 フサコはじれたがって、彼の胸をとんとんと拳でたたいた。

「書きゃしないよ。誓ってもいい。何て書いてあった」

「それを今もあたしは持っている。アパートにしまっているんだよ」

 酔うとあおくなるたちらしい。フサコは眼を据(す)えた。

「今はもう別に、久住さんを恨む気持もなくなったけどね。あんたは虫も殺さないような顔をして、実はほんとに悪人だったのねえ」

「おいおい。何もしないのに、悪人呼ばわりされちゃ、やり切れないなあ」

「何もしない?」

 フサコはけたたましく笑った。

「よくそんなことが言えたもんね。じゃあたしのアパートに来てごらんなさい。証拠を見せるから」

 行って見よう、と彼は決心した。フサコの足どりが怪しいので、彼は抱きかかえるようにしてバーを出た。学生がバーの女に肩をかして歩く。そんなことがもう許されぬ時節になっていたが、仕方がない。幸いアパートまで一町ほどしかなかったので、警官などに見とがめられずに済んだ。

[やぶちゃん注:「一町」百九メートル。]

 フサコの部屋は二階で、廊下の両側に部屋があり、廊下には七厘やバケッが置かれている。実はバーにいると聞いて、そこのマダムになっていると思っていた。しかしただの女給に過ぎない。それが彼の感慨をそそった。部屋には寝床がしき放しで、見覚えのある長火鉢が置いてあった。上京する時も手放さずに持って来たのだろう。部屋はしめ切りなので、空気が濁っていた。

「上んなさいよう」

 フサコは押入れをあけ、行李をごそごそと探し、古ぼけた封筒を持ち出して来た。彼は坐って、内容を取出す。ゆっくりと拡げて見た。

『元気を出して出て来い』

『一度の落第に気を落すな。人生は長く青春は短し』

 その中で、

『尾山フサコさんが待っとるよ』

 という文句に始まる、かなり長い、猥雑な文章があった。それはあきらかに、西東とフサコの関係を、第三者が読んでも理解出来る文である。その文の最後にはという署名があった。彼は二度読み返した。

[やぶちゃん注:「底本では、太字のが丸印の中にある。ブログでは表記出来ないので注した。]

「これを誰か身内の人が読んだんだね?」

「そうよ」

 彼の眼の動きを見ながら、フサコは答えた。

「西東の兄が読んだのよ」

 西東の兄が退学届を出しに来た事情が、初めてすらすらと彼には判った。彼は顔を上げて、フサコを見た。

「これはおれが書いたんじゃない」

 彼ははっきり言った。

「おれの文字に似せてはあるが、おれんじゃない。絶対に違うよ。西東は犯人はおれだと信じて、出征したのか?」

「いえ。迷ってたわ。するとやっぱり――」

 言いさしてフサコは口をつぐんだ。沈黙が来た。

「久住はこんな卑劣なことをやる男じゃない、と西東は言ってたわ。あんたじゃなかったのね」

「そうだよ」

 しかしそうだとしても、あたしはあんたが憎いと、フサコは言った。

「なぜ?」

「あんたは何も傷つかず、無事に大学生になった。西東だって、あんなことがなければ、大学生になれた筈よ」

 その理窟は通らない、と彼は思ったが、口には出さなかった。過ぎたことは、何を言ってもむなしいのである。フサコも重ねては詰め寄らなかった。彼女もそのむなしさを知っていたのだろう。久住は立ち上ろうとした。

「ねえ。今夜泊って行かない?」

「いや」

 事件に巻込まれるのもイヤだったが、今その感傷につき合うのも御免だという気持があった。そこで本式に立ち上った。

[やぶちゃん注:本篇はここで終わっている。こうした断ち切るような終局シーンは梅崎春生特有のもので、一種、映画的な、芝居の見え透いたクライマックスを作らない手法で、私は好きである。]

2022/10/25

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「肥前大村領にて擊獲たりといふ虎皮の縮圖」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段五行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 図は底本のものをトリミング補正した。標題の「擊獲たり」は「うちとりたり」であろう。]

 

   ○肥前大村領にて擊獲たりといふ虎皮の縮圖

文政五年午十一月廿日の夜、肥前國彼杵《そのぎ》郡大村上總介領分、尾和谷村《をわたにむら》山奧にて、獵師、鐵炮にて打捕《うちとり》候獸《けもの》の皮。「是、虎なり。」といふ、未詳《いまだつまびらかならず》。毛の色、虎より、些《すこ》し赤く、斑《まだら》は、すこし薄し。

[やぶちゃん注:「文政五年午十一月廿日」一八二三年一月一日。

「肥前國彼杵郡大村上總介領分、尾和谷村」長崎県諫早市上大渡野町(かみおおわたのまち)の北部であろう。ここに南で接する下大渡野町には、戦国時代には既にあった「尾和谷城」(おわたにじょう)が存在した。「大村上總介」は当時の肥前国大村藩第十代藩主大村純昌(すみよし)のこと。

 以下、図の右下にあるポイント落ちのキャプションと、図左方にあるそれを、後に順に同ポイントで添えた。図に近く添えてあるキャプションは、右上方が、『此辺《このへん》二ヶ所、白シ。』、中央上に転倒して、『鼻ノ形、見ユ。』、左上に転倒して、『目ノ穴。』とあり、右手の皮の抉れた部分思われる皮膚部分に、『白。』と記載されてある。]

 

Yamainunokawa

 

    此處、鐵炮疵《てうぱうきず》と見ゆ。

[やぶちゃん注:右手の抉れて「白」と書かれている位置の脇に縦に一行で記されてある。]

 

縱三尺五寸許《ばかり》、橫二尺餘《あまり》、文政十一年七月廿四日、戸田勘助より借觀《しやくくわん》。

[やぶちゃん注:図の左側に二行で記されてある。吉川弘文館随筆大成版では、図の下方に配されてある。

「三尺五寸」一メートル五センチ。

「二尺」六十・六センチ。

「文政十一年」一八二八年。最後の「戊子」(つちのえね)も同年。

「戶田勘助」伊予国大洲藩士に同姓同名がいるが(直心影流剣術家戸田一心斎の父親)、同一人物かどうかは不明。]

 

右、海棠庵より借抄之《これを、かりて、しやうす》。按ずるに、この獸皮、豺(やまいぬ)なるべし。狼は、毛色、皆、同樣なるも、「山いぬ」は、犬狗《いぬ》のごとく、種々の雜色あるよし、眞葛が「奧州ばなし」にも、いへり。犬にも、虎毛《とらげ》なるもの、あり。そのたぐひなるベし。

  戊子九月         著作堂老逸《らういつ》

[やぶちゃん注:「海棠庵」「兎園会」会員でお馴染みの、三代に亙る書家関思亮(せき しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の号。本書に先立つ天保元(一八三〇)年九月に三十六の若さで亡くなっている。

「豺(やまいぬ)」近世以前には、所謂、「野良犬」「野犬」(やけん)を「やまいぬ」と呼称して、通常の「犬」とは区別していた。無論、そのような別種がいたわけではない。未だに、どうどうと「ノイヌ」とカタカナ書きしてイヌ類と区別して和名の種名(雑種)のように書く輩がいるのは、甚だ虫唾が走る。我々が滅ぼしてしまったニホンオオカミ(「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ) (ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」を参照されたい)に係わって、私の記事にはこの「豺」に関してはかなり言及したものがあるが、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豺(やまいぬ) (ドール(アカオオカミ))」、及び、「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗(ゑぬ いぬ) (イヌ)」を示すに留める。

『眞葛が「奧州ばなし」にも、いへり』只野真葛の「奥州ばなし」は私のブログ・カテゴリ「只野真葛」で既に全電子化注を終っている。馬琴が言っているそれは、「奥州ばなし 狼打」を読まれたい。この名文家の才媛については、前記カテゴリの第一記事である「新春事始電子テクスト注 只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注」を見られたい。また、馬琴自身が、真葛の死後に書いた『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 眞葛の老女』を未読の方は、優れた彼女へのオマージュであるからして、是非、読まれたい。

「老逸」「老いて世間から隠逸した者」の意。馬琴の号ではない。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「伊豆州田方郡年川村の山、同郡田代村へ遷りたる圖說」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段中央から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 なお、「伊豆州田方郡《たがたぐん/たがたのこほり》」は、現在は函南町のみであるが、近世の郡域は非常な広範囲である。当該ウィキを見られたいが、そこの「近代以降の沿革」に江戸時代の知行一覧が表で載り、そこの「旗本領」に標題以下の「年川村」と「田代村」が確認出来る。調べたところ、現在の静岡県の伊豆地方で「年川」と「田代」が接して現存するのは、伊豆市の修善寺の東方の山間部の伊豆市年川(としがは)、及び、その南の大見川を境として接する伊豆市田代(たしろ)である(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。グーグル・マップ・データ航空写真で見ると、現在の年川の南端は「白鳥山」(読み不詳。取り敢えず「しらとりやま」と読んでおく。因みに、この北西で比較的に近い静岡県伊豆の国市神島に柱状節理の異様で知られる同名の「白鳥山(しらとりやま)」があるが、全く別なので注意されたい)というピークが田代に最も近いことは判る。この年川の白鳥山の東には、集落が確認出来る。村落名等は現行の読みを参考にした。]

 

   ○伊豆州田方郡年川村の山、同郡田代村へ

    遷りたる圖說

 文政十一年戊子五月

  堀田攝津守殿え、御屆覺。

私《わたくし》、知行所、豆州田方郡田代村《たしろむら》。隣村、寄合《よりあひ》小堀織部《こぼりおりべ》知行所、同郡、年川村《としがはむら》地内。當三月廿八日、山崩仕《つかまつり》、山下《さんかの》田へ崩落《くずれおち》、岩土《いはつち》を推出《おしいだ》し、村境《むらざかひ》、大見川《おほみがは》より、田代村地内へ動き出、高さ廿五間程の新山《しんざん》、湧出《わきいだし》候上に、田代村、田畑・高木《かうぼく》等、其儘に御座候。依ㇾ之、流水を堰留《せきとめ》候に付、田代村田畑、川瀨に相成《あひなり》、深さ一丈四、五尺、或、八、九尺の場所御座候由。尤《もつとも》、追々、田畑、崩落、川瀨に相成候由。屆出候間、家來、差遣《さしつかは》し見分の上、猶、又、追々、可申上候得共、先《まづ》、此段御屆申上候。以上。

 五月六日        本 多 修 理

[やぶちゃん注:「文政十一年戊子」(つちのえね)「五月」グレゴリオ暦では、五月一日は一八二八年六月十二日。梅雨時である。崩落理由には以上の三通に地震などの記載もないから、降雨による原因が最も有力であろう。

「堀田攝津守」若年寄堀田正敦(ほったまさあつ)。彼は寛政二(一七九〇)年に当時の老中松平定信の引き立てによって若年寄になり、天保一四(一八四三)年まで、実に四十二年もの長期に亙り、在任した。優れた文化人として「寛政の改革」で文教新興策をとり、博物学者(特に鳥類)としても名高い。

「寄合」「旗本寄合席」の正式名称。江戸幕府の三千石以上の上級旗本の無役者及び布衣(ほい)以上(御目見得以上)の退職者(役寄合)の家格をいう。

「小堀織部」不詳。

「廿五間」四十五・五メートル。因みに、グーグル・マップの「白鳥山」ポイント地点は国土地理院図で測定したところ、標高は百三十メートル強であるが、大見川自体が凡そ標高が七十メートルであるから、見かけ上の高さは六十メートル程度である。現行では、白鳥山北側はグーグル・マップ・データ航空写真を見ると、後半に人為的に平たく切り崩され、整地されてしまっているので、本来の「白鳥山」のピークがどこであったかを認めにくいが、「今昔マップ」の戦前の地図のここを見ると、確かに、グーグル・マップのポイントがここから東北に連なる尾根の最初の確かなピークであることが判る。恐らくは、崩落の起こったのは、この東北方百七十一・二メートルのピーク(「今昔マップ」の右の現在の国土地理院図を参照されたい)から南西方向に旧尾根間で発生し、現在の白鳥山が形成されたものと私は推定するものである。

「田代村、田畑・高木等、其儘に御座候。依ㇾ之、流水を堰留候に付、田代村田畑、川瀨に相成、深さ一丈四、五尺」(約四・二四~五・五五メートル)「或、八、九尺」(約二・四二~二・七三メートル)「の場所御座候由。尤《もつとも》、追々、田畑、崩落、川瀨に相成候由」言い方が、何となく、同じことを繰り返していて、意味がよく判らないのは、書いた人物も突発的な想像だにしなかった土地の大きな変容に慌てているためか。この山崩れで、一旦、大見川の流れが堰き止められ、その後、現在の田代地区の北端の大見川が蛇行する箇所が新たに形成されたということかとも思う。]

    同御屆

私、知行所、豆州八ケ村の内、田方郡年川村地内の山、字《あざ》「おそろ」と申《まをす》場所、同郡天城山、大見川より、伊東へ往來の道筋に御座候處、去《いんぬる》亥六月中、右道上《みちうえへ》へ、二百間程、崩掛《くづれかけ》候處、當子三月廿八日晝八時《ひるやつどき》頃、右場所、俄《にはか》に崩出《くづれいだ》し、高さ一町程、奧行二町程、長さ六町程の所、山下《さんか》の田、一面に崩落候。右、道の上より、山下の田畑、幷に、松・杉林等は亡所《ばうしよ》に相成り、右崩落候山土《やまつち》、大見川を堰留、水、湛《たたへ》、村中、麥作《むぎさく》・苗代共、水腐《みづぐされ》仕《つかまつり》候。右、川向《かはむかひ》、本多修理、知行所、同州同郡田代村田面《たおもて》、川瀨に相成申候。右、山中道筋、往來、留《とめ》に相成候に付、最寄《もより》御代官江川太郞左衞門方《かた》へ相屆候上、不取敢一、右往來、相附《あひつけ》罷在候由。尤、人馬、怪我等は無御座候。委細の儀は、家來、差出し、見分吟味の上、可申上候得共、先、此段、御屆申上候。以上。

             小 堀 織 部

[やぶちゃん注:『字《あざ》「おそろ」』現地名や戦前の地図でも見当たらない。

「天城山、大見川より、伊東へ往來の道筋」天城峠天城山自体はそこからもっと東北で、当時、そこから伊東への道筋は踏み分け道しかなかったと思われる)山現在の県道五十九号と同十二号相当。伊東方向は大見川に合流する冷川(ひえがわ)沿いとなり、大見川年川方向には十二号が相当する。

「二百間」三百六十三・六メートル。現在の田代地区北端の大見川蛇行の部分の下流側が、丁度、その長さと一致する。

「晝八時」定時法・不定時法孰れも午後二時頃。

「高さ一町程、奧行二町程、長さ六町程」高さ約百九メートル、奥行き約二百十八メートル、長さ六百五十四メートル半。

「亡所」土地一面が消失したことをいう。

「右、山中道筋、往來、留《とめ》に相成候」戦前の地図を見ても、以上の往還路は、田代側にはなく、大見川右岸の年川側を通っている。

「不取敢、右往來、相附《あひつけ》罷在候由」「聞くところによると、年川村の方で取り敢えずは、仮りの往還路を、急遽、復旧はした、とのことで御座る。」の意であろう。何より幸いだったのは、年川村も田代村も、人馬の損害はなかったという点である。]

伊豆國田方郡田代村において、當三月廿八日【文政十一戊子。】夜、小堀織部【寄合席。】知行所に有ㇾ之候山、同郡本多修理【火消役。】知行所へうつり候略繪圖【圖、省略。】。

右、子七月二日、御用番林肥後守殿へ御屆之寫、但《ただし》、當四月、堀田攝津守殿、御用番に付、相屆候處、猶、又、調之上可申出旨、被仰渡候間、此節、再度及御屆候。

           定火消役

             本 多 修 理

[やぶちゃん注:「本多修理」不詳。

「御用番」幕府の老中・若年寄が、毎月一人ずつ、順番で執務責任に当たることを指す。「月番」とも。

「林肥後守」将軍徳川家斉の寵臣で若年寄であった林肥後守忠英(ただふさ 明和二(一七六五)年~弘化二(一八四五)年)。]

2022/10/24

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「京師大佛領阿彌陀が峰南の方地藏山を穿掘して古墳の祟ありし奇談」

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「京師大佛領阿彌陀が峰南の方地藏山を穿掘して古墳の祟ありし奇談」

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段三行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。やや長いので、今回は段落を成形した。

 標題は「京師」(けいし)「大佛領阿彌陀が峰南の方」(かた)「地藏山を穿掘」(せんくつ)「して古墳の祟」(たたり)「ありし奇談」と読んでおく。これは、この「阿彌陀が峰」(現在の京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町に山頂がある阿弥陀ヶ峰(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ))「京」の「大佛」が嘗てあった方広寺の寺領であることを言っているようである。「地藏山」は不詳。現在、「地蔵山墓地」があるが、ここか。「今昔マップ」の戦前図のこの左の地図の中央がそこを見ると、既に墓地があるが、ややそこは高くなっているようには見える。但し、ここは西南西で、南というには、ちょっと問題がある。或いは、ここから東の方へずれた尾根のピークを指しているか。なお、以下の本文で、そこの旧広域地名を、かの風葬の地「鳥部野」(とりべの)の名を出しているが、旧鳥部野の範囲は、この地図の南北の阿弥陀ヶ峰と地蔵山墓地を包含する南北中央部に相当し、謂いは頗る正しい。また、文中に頻出する宮家については、私自身、その殆んど総てに興味が湧かないし、話の展開とも大きな関係を持たないと思われるので、注を附さなかった。悪しからず。]

 

   ○京師大佛領阿彌陀が峰南の方地藏山を穿掘して古墳の祟ありし奇談

 當所、大佛領の山、阿彌陀が峯の山添《やまぞひ》、南の方《かた》、地藏山《ぢざうやま》【この山は、昔、總名を「鳥部野」と申候内也。】と號《なづけ》候。

 此山は、大佛妙法院宮の諸大夫松井大隅守、御先代の宮、獅子吼院《ししくゐん》宮樣より、致拜領候山にて御座候由。

[やぶちゃん注:「大佛妙法院宮」京都市東山区妙法院前側町にある天台宗南叡山妙法院。阿弥陀ヶ峰の西北西一キロ圏内。「地蔵山墓地」はもっと近く四百メートル圏内。当該ウィキによれば、『近世には方広寺(京の大仏)』(☜☞)『や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も妙法院所管の仏堂となっている』とある。

「諸大夫松井大隅守」妙法院諸大夫であった松井永貞。「ADEAC」の「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の「三十三間堂矢場之図」の解説に、「地下家伝」のデータとして宝暦一一(一七六一)年三月に大隅守に任ぜられた、とある。

「御先代の宮獅子吼院宮」不詳。堯恕(ぎょうじょ)親王の院号として知られるが、彼は元禄八(一六九五)年没なので違う。]

 此、松井大隅守と申者、至《いたつ》て舊家にて、後白河院、三十三間堂、御建立《ごこんりふ》有ㇾ之候時、右、松井氏を堂守に被成置《なしおかれ》、其後、今、以、連綿と相續仕《つかまつり》、追々、分家、仕候《つかまつりさふらふ》て、當時、三軒に相成《あひなり》、大隅守を本家と致し、無祿にて、三十三間堂の賽錢、又は、矢數《やかず》等、有ㇾ之時、諸候樣方之御付屆・收納物等を以、相續罷在候處、近來《ちかごろ》、勝手向《かつてむき》、必至《ひつし》と不如意に相成候に付、出入之者共、種々《しゆじゆ》相談の上、此度《このたび》【文政十一年戊子《つちのえね》夏六月初旬の事也。】、東本願寺再建普請に付、地ならしの土《つち》、入用の儀、承り候間、右、地藏山の土を、年限《としかぎり》にて、賣渡《うりわたし》候はゞ、相應の德分も可ㇾ有ㇾ之、且、諸木、伐出《きりいだ》し候得者《さふらえば》、旁《かたがた》、以、宜《よろしく》候に付、大隅守へ右之趣、申聞《まをしきかせ》候處、

「難澁の族《うから》の儀に御座候へば、右體《みぎてい》之儀、出來候者《いできさふらへば》、可ㇾ然《しかるべき》談合いたし吳候樣《くれさふらうやう》。」

申《まをす》に付、則《すなはち》、大佛前に罷在候、鍵屋彌兵衞、丁子屋《ちやうじや》善七、申合《まをしあはせ》、本願寺へ掛合候處、幸《さひはひ》、土、入用の儀に有ㇾ之候得者、右、山を買取《かひとり》候對談、相整《あひととのひ》、拾ケ年・五十金計《ばかり》の定《さだめ》にて、本願寺より、役人、相詰《あひつめ》、當六月頃より【文政十一年丁亥六月。】、日々、人足を以、土を掘取罷在候。

[やぶちゃん注:「矢數」三十三間堂の「通し矢」の「大矢数(おほやかず)」の行事の収入。ウィキの「通し矢」を参照されたい。

「東本願寺再建普請」この五年前の文政六(一八二三)年十一月十五日、浄土真宗大谷派の東本願寺境内からの失火で、阿弥陀堂と御影堂(ごえいどう:宗祖親鸞の御真影を納める)の両堂が焼失していた。同寺から「地蔵山墓地」は直線で二キロ圏内である。

「年限」一定の年数を限って、土取りや木材伐採を許可すること。

「文政十一年戊子」一八二八年。

「文政十一年丁亥」吉川弘文館随筆大成版も同じだが、干支がおかしい。「丁亥」は文政十年。流れから、「文政十年」の誤り。

 然處《しかるところ》、

「右山に、松の木、三本計《ばかり》、有ㇾ之候所を、昔より『山の神』と申傳、有ㇾ之。此山の神の四方四十間は、土掘出し候儀、除《のぞき》吳候樣。」

兼《かね》て、致議定置、段々、掘出《ほりいだし》候て、最早、境目近く相成候に隨ひ、至《いたつ》て能《よき》土、出、境目に至り候得ば、吹革《ふいご》に用ひ候、土、出《いで》候。フイゴに用ひ候土は、容易に得がたき物の由にて、境目より、少しづゝ、穴となし、掘入候《ほりいれさふらふ》にしたがひ、彌《いよいよ》、よき土、出、中々、敷土《しきつち》抔に用ひ候土にては無ㇾ之故、穴にワクを入《いれ》、三丈計《ばかり》、掘入候處、當八月初旬、大き成《なる》壺に掘當《ほりあたり》、

「怪敷《あやしき》。」

と存候《ぞんじさふら》へ共《ども》、追々、右之土、出候に付、壺之廻り、幷に、底之方へ、掘入候得者、俄《にはか》に、土中、致鳴動候て、右之壺、すり落《おち》候音に驚き、人足、兩人、卽死仕候《そくしつかまつりさふらふ》。

[やぶちゃん注:「吹革に用ひ候、土」不詳。金属を溶かす過程で、温度を調節するために鞴(ふいご)で吹き入れる土ででもあるか。識者の御教授を乞う。

「四十間」七十二・七二メートル。]

 然所《しかるところ》、世話仕候、鍵屋彌兵衞、幷に彌兵衞忰某、丁子屋善七、松井大隅守、本願寺掛り役人兩人、其始末、聞付《ききつけ》候より、俄に、大熱病《だいねつびやう》、相發《あひはつし》、色々、祈禱等、仕候得ども、無其驗、兩三日の内に、追々、病死仕候。

[やぶちゃん注:いくら何でも、以上の全員が即死したわけでもあるまいにと思うだろうがのぅ、これ、「ツタンカーメン王の呪い」の江戸版じゃて!]

 依ㇾ之、大隅守親類共、打寄《うちより》、

「右山の神の祟にて可ㇾ有ㇾ之候。昔より、山神とは承り候へども、何と申《まをす》事、聢《しかと》と相分り候儀も無ㇾ之候へば、何卒、祈禱者に相賴《あひたのみ》、『神おろし』を致し、相詫《あひわび》候樣に可ㇾ致。」

とて、若黨一人、此節、流行《はやり》仕候、當處《たうしよ》、繩手通り三條下る三軒寺と申《まをす》内《うち》、「猿寺」と申《まをす》寺へ罷越、相賴、右寺にて、經文を致讀誦候時、老尼、出候て、寄りをかけ候趣《おもむき》にて、段々、修法《しゆはふ》の内、右、老尼、絕入《ぜつじゆ》候樣の形に相成候時、幣《ぬさ》を爲ㇾ持《もちなほし》候へば、

「とく」

と居直り、右。松井氏より參候者を、

「きつ」

と、にらみ付、

「寬太《くわんたい》也。下《さが》れ。」

と申聞候。

[やぶちゃん注:「繩手通り三條下る三軒寺」「内」「猿寺」現在の京都府京都市下京区東塩小路町にある正行院は通称を「猿寺」と呼ぶが、三条通ではない。「三軒寺」という地名もない。三条縄手なら、この辺りか。というより、この「尼」と言っているが、所謂、胡散臭い「巫女」系の感じが強い。

「絕入」気絶。

「寬太」神霊の名らしい。]

 然處《しかるところ》、右參り候者の云《いはく》、

「『寬太(くわんたい)なり』と申候は、何者に有ㇾ之哉《や》、名を名乘《なのり》可ㇾ申。」

と問《とひ》かけ候へば、尼、答《こたへ》て、

「我は、明智《あけち》の一類の者也。」

と答《こたふ》。

 又、問《とふ》、

「明智の一類と計《ばかり》にては、不相分一《あひわからず》。何と申、名の人ぞ。」

 尼、云、

「左馬介也。人の情《なさけ》によりて、彼《かの》山に葬《ほふり》を受《うけ》、被ㇾ稱「山の神」《やまのかみと、しやうせられ》てありしを、理不盡の振舞、此《この》欝憤、やむ事、なし。一々に、思ひしらして可ㇾ晴欝憤也。此旨を、立歸りて可ㇾ申。」

と也。

[やぶちゃん注:「明智」「左馬介」明智光秀の重臣、或いは、彼の女婿であるとか、異説に従弟(明智光安の子)ともされるが、真偽のほどは定かではない、明智秀満(天文五(一五三六)年?~天正一〇(一五八二)年)のこと。通常は「左馬助」と書く。当該ウィキによれば、天正一〇(一五八二)年六月の「本能寺の変」では、『先鋒となって』『本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き』、十三『日の夜、羽柴秀吉との山崎の戦いで光秀が敗れたことを知る』。『そこで』、十四『日未明、安土を発して坂本に向かった』。『大津で秀吉方の堀秀政と遭遇するが、戦闘は回避したらしく』、『坂本城に入った』(ここ)。この日、『堀秀政は坂本城を包囲し、秀満はしばらくは防戦したが、天主に篭り、国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの名物が無くなる事を恐れて、これを荷造りし、目録を添えて』、『堀秀政の一族の堀直政のところへ贈った。このとき』、『直政は目録の通り請取ったことを返事したが、光秀が秘蔵していた郷義弘の脇指が目録に見えないが』、『これはどうしたのかと問うた。すると秀満は、「この脇差は光秀秘蔵のものであるから、死出の山で光秀に渡すため秀満自ら腰に差す」と答えたとされる』。十四『日の夜、秀満は光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺した後、腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる』、『その振る舞いは戦国武将の美学を具現化したようなもので、敵方も称賛している』とある。先の「寬太」の名乗りの由縁は不明。]

 又、問、

「左馬介は、江州坂本にて滅亡と申事は傳聞候へ共、其後、彼《かの》山に墳墓有ㇾ之事は、思ひもよらず。山の神より四方四十間は相除《あひのぞ》き、土を掘出候樣、申付置候得ども、人足共、慾心にて、不法の働をいたし候儀は、大隅守、不ㇾ存《ぞんぜざる》儀に候へば、先々《まづまづ》、怒《いかり》を鎭め、大隅守、致快復候樣、被ㇾ致べし。然《しから》ば、神に成共《なるとも》、佛に成とも、彼《かの》山に、永く、致尊敬、且、讀經の回向《ゑかう》も相營み可ㇾ申候間、何分、大隅守、致本復候樣、相賴候。」

旨、申聞候得ば、尼、

「先《まづ》、此趣を、立歸りて、大隅守に、申聞《まをしきこゆ》べし。」

と答て、倒れ候よしなり。

 右、猿寺へ參り候者、松井宅に立歸り候へば、最早、大隅守は致落命候。

 右、祟にて、掛りの者、是迄、八人、同病にて相果申候。

 其後、山へ入候者、無御座候。

 當時、大佛妙法院宮は、閑院の宮より被ㇾ爲ㇾ成《なしなされ》候御治定《おんぢぢやう》御座候へ共、未《いまだ》御幼椎にて、御里御殿に被ㇾ爲ㇾ在候に付、院家金剛院諸事、執計《とりはから》ひ候に付、右の始末、承り、其儘差置候儀も難相成

「左馬介は、坂本にて致滅亡候得ども、誰ぞ、ゆかりの者にても、此鳥部野へ收《をさめ》候事、可ㇾ有ㇾ之哉《や》。何分、右、土中《どちゆう》を得《とく》と見屆參候樣。」

申付候へ共、「可ㇾ參。」と申者、無ㇾ之。

 依ㇾ之、院家配下に「功節庵」と申《まをす》寺、有ㇾ之。是へ申付、

「『地藏山』と號《なづけ》候山に候得ば、地名を以、地藏一體、彼穴に收、讀經、致供養《くやういたせ、と》、可ㇾ申。」

と申付候。

 依ㇾ之、右、法事、修行之由、御座候。

[やぶちゃん注:「功節庵」不詳。現存しない模様。]

 右、鍵屋彌兵衞妻も、此節、同病にて相惱居《あひなやみをり》候由に御座候。

 右之沙汰、取々、御座候處、一兩日以前、建仁寺町五條下る町たばこ屋の僕童《ぼくどう》、右、山の近邊を通りかゝり、此節、評判の山の儀に御座候故、不ㇾ圖存付《はからずも、ぞんじつき》、彼《かの》穴の口へ、參り見候處、是も、夫《それ》より、忽《たちまち》、大熱、出、相果候由に御座候。

 誠に奇怪、大掘事《おほほりごと》に御座候。

[やぶちゃん注:「建仁寺町五條下る町」この中央附近か。

「僕童」丁稚(でっち)のことであろう。

 以下は、底本では「被ㇾ下候由に御座候。」まで、全体が一字下げ。]

 右は、近來《ちかごろ》の珍事に御座候故、奉申上候。大隅守、右、山の土を賣拂ひ候に付ても、聊《いささか》の德分にて、世話仕候者共、皆、山師共にて、全《すべて》、自分共の邪慾より、事、起り、彼是、三人、命を失候儀、無是非候得ども、大隅守、未、老年にも無ㇾ之、困窮の上、聊の德分にて祟を受、一命に拘《かかわ》り候義は、誠に微運の至《いたり》に御座候。尤、右、山は、昔より、人のおそれ候地のよしに付、獅子吼院樣より、三十三間堂諸佛へ御寄附、日々、供し候、花・松の、「眞《しん》など、切出《きりいだし》候樣に。」との思召にて被ㇾ下候由に御座候。

[やぶちゃん注:「眞《しん》など、切出《きりいだし》候樣に。」は私の勝手な読み。「しん」は「芯」。花道で「草花の芯を残すと、それが盛り上がって、水上げが悪くなって具合がよくない。」と言うようなので、そのようにとった。]

右、此頃、追々、評判高く御座候に付、實說、承り合せ奉申上候。猶、又、相替候儀御座候はゞ、可申上候。以上。

[やぶちゃん注:以下、「來書、其寫。」までは、底本では全体が一字下げ。]

 八月廿五日【文政十一戊子年。】この一通、齋藤平角より申來る。同年九月廿三日、着。京都に罷在候齋藤平角より、來書、其寫《そのうつし》。

[やぶちゃん注:「齋藤平角」不詳。]

一、先便、東本願寺の儀、奉申上候。定《さだめ》て此程は、相屆《あひとどき》、御被見被ㇾ下候御儀と奉ㇾ存候。其砌《そのみぎり》、地藏山土掘出し候儀に付、奇怪御座候故、此節、本願寺より、

「取入置《とりいれおき》候土《つち》、元のごとくに返し度《たし》。」

由に御座候得共、右、地藏山へ運送仕候者、無ㇾ之由にて、甚《はなはだ》迷惑の由に御座候。本願寺普請、專ら、木取等、有ㇾ之候處、色々、變、有ㇾ之由。且は、「○印手支《まるじるしてづかへ》」等も御座候由にて、「暫《しばらく》、相休《あひやす》み候。」由に承り申候。

 先年、本願寺炎上の節、私共、見及居《みおよびをり》候處、風は、南より北へ吹候處、出火は、北の端より、もえ上り、南へ、南へと、火、傳ひ、暫時に、諸堂・大門迄、無ㇾ殘、燒失仕候。

 其以前、「西山御坊」と申《まをす》、掛所、建立《こんりふ》の企《くはだて》にて、西山に場所を買取候。其邊《そのあたり》、至《いたつ》て、狐、多く住居《すみをり》候て、穴、澤山に御座候處、右、穴を掘返し、地取《ぢとり》、出來《しゆつたい》の上、御門主、見分に被罷越候歸路、一統、狐にばかされ、尤、其砌《みぎり》は、門徒の貴賤群集、仕候折柄《をりから》なれば、供廻り、形粧《きやうさう》、美敷《うつくしく》有ㇾ之候處、右の狐にたぶらかされ、東へ可ㇾ歸《かへるべき》道を、北をさして、深田《ふかだ》の中を、夜明《よあけ》迄、行列にて、步行《ありき》、上嵯峨邊《あたり》の百姓に咎められ、漸々《やうやう》。心附、一統、深田の中を步行候儀に御座候得者《そうらえば》、泥に染《そみ》、誠に見苦敷《みぐるしき》爲體《ていたらく》のよし。

 其砌、大評判に御座候處、引續き、右御堂、燒失、

「是、全く、狐の所爲《しよゐ》。」

と申事に御座候。

 此度《このたび》の再建も、色々、惡《あしき》說、有ㇾ之、怪敷《あやしき》事共、御座候趣、承り申候。猶、亦、相替候儀、御座候はゞ、可申上候。

 九月十五日

此來書二通は、文政十一年十月初旬、老候の、「見よ。」とて、御使《おつかひ》太田九吉をもて、貸し下されしかば、人の手をかりて、寫さし置《おき》たるが、誤字の多かれば、こたび、寫しあらためて、この册子に收めかきつゝ、けふしも、「さぬきの復讐錄」より、こゝに至て、廿七頁、只、一と日の程に、寫し果《はた》しかば、己《おのれ》が筆にも、あやまちあるべし。そは又、異日《いじつ》、校し、正すべきになん。

[やぶちゃん注:「○印手支《まるじるしてづかへ》」「〇印」は日本と中国のみで通ずる、「お金」を意味する指で丸を作る「OKサイン」のこと。「手支」はそれを受けて金銭的に窮してしまうことを言っている。

「暫、相休み候由に承り申候」先に注した通り、文政六(一八二三)年十一月十五日の境内の失火によって阿弥陀堂と御影堂の両堂が焼失した、その東本願寺再建普請は、結局、回禄から十二年も後の、天保六(一八三五)年にやっと完遂している。

「西山御坊」現行では浄土真宗本願寺派(西本願寺「お西さん」)の本願寺西山別院の別称であるが、ここは浄土真宗大谷派の東本願寺(「お東さん」)の話であるから、違う。京都の「西山」は京都市西京区(洛西)・長岡京市・向日(むこう)市・大山崎町に跨る地域の広域地方名である。この中央南北部分に当たる。

「掛所」浄土真宗の寺院の内、地方に設けられた別院。後には、別院の資格のない支院を呼ぶようになったが、一方の本願寺派では、こう呼ばずに「休泊所」と称した(今は違うようである。例えば、本願寺派の「本願寺函館別院」のこちらの解説を見られたい)。

「老候」馬琴の嫡男瀧澤興継が医員として取り立てられていた松前藩の、第八代藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)。既に本「兎園小説」では、お馴染みで、馬琴とも非常に親しかった。当該ウィキによれば、彼は寛政四(一七九二)年十月二十八日に隠居し、長男章広に家督を譲ったが、文化四(一八〇七)年三月、『藩主在任中の海防への取り組みや』、『素行の悪さを咎められて、幕府から謹慎(永蟄居)を命じられる。この背景には元家臣の讒言があったとも言われる』。但し、十四年後の文政五(一八二一)年三月、この謹慎は解かれている。

「太田九吉」『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 阿比乃麻村の瘞錢』と、『曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 松前家牧士遠馬の記』に道広の使いとして登場している。

「さぬきの復讐錄」本篇の冒頭の「文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記錄」。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「文政十年丁亥の秋谷中瑞林寺の卵塔を穿掘して三千金を得たるものありとて、ゑせあき人が板せしを賣あるきしその事の實說」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段二行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 標題は「文政十年丁亥」(ひのとゐ:一八二七年)「の秋」(あき)「谷中瑞林寺の卵塔を穿掘」(せんくつ)「して三千金を得たるものありとて、ゑせあき人が板」(はん)「せしを賣」(うり)「あるきしその事の實說」と読んでおく。

 この「谷中瑞林寺」は、現在の東京都台東区谷中にある日蓮宗本山慈雲山瑞輪寺(ずいりんじ:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)である。同寺は天正一九(一五九一)年、日本橋馬喰町に創建され、慶長六(一六〇一)年に神田筋違橋外へ移り、その後、慶安二(一六四九)年に現在地に移転している。日蓮宗(旧法華宗)江戸三大触頭(ふれがしら)の一つに連なる名刹である(以上は、しばしばお世話になる松長哲聖氏の「猫の足あと」の同寺の記載に拠った。

 また、「御府内寺社備考による瑞輪寺の縁起」の項には寺名を『慈雲山瑞林寺』としている)。「ゑせあき人が板せし」とは、しばしば馬琴が批判的に使う卑称で、虚実綯(な)い交(ま)ぜの噂を面白可笑しく垂れ流す似非商人(えせあきんど)、則ち、「瓦版屋」を指す。]

 

   ○文政十年丁亥の秋谷中瑞林寺の卵塔を

    穿掘して三千金を得たるものありとて、

    ゑせあき人が板せしを賣あるきしその

    事の實說

「瑞林寺卵塔所《らんたふじよ》にて、金《かね》を掘《ほり》候。」と申《まをす》儀、さぞ、御聞及候半《おききおよびさふらはん》。「願主は橘樹《たちばな》郡東子安村、百姓孫右衞門祖父縺崎。同人、病氣に付《つき》、名代《みやうだい》孫右衞門、願ひ出《いで》、寺社奉行檢使、立合《たちあひ》之上、先月廿日後《はつかご》より、廿九日迄に、廣さ四尺餘四方、深さ二丈餘《あまり》ほり候處、朽骨《きうこつ》、五人分、出候のみにて、金は更に出不ㇾ申。」と申《まをす》、屆書《とどけがき》、一昨朔日《いつさくさくじつ》、出申候。「先祖より申傳《まをしつたふ》。」と申《まをす》事にて、しかといたし候。證據は、なきよし、申候。三千兩とか出候由、うりあるき候は、全く虛說にて御座候。

 「縺」字は、「散水(さんすい)の誤《あやまり》」にも候歟。

 當人の書面、右之通に御座候。

  九月三日

右、近隣、一友翁《いちゆうをう》より、告《つげ》られしまゝを錄す。

  丁亥九月四日

 この卵塔を掘《ほり》しもの、「諸雜費、

 凡《およそ》二十金に及びしのみにて、

 功なかりし。」と、しれる人、云ひけり。

 おろかにて、慾ふかきものゝ所行、かゝ

 る事、多かるべし。

  文政十一年八月

[やぶちゃん注:「卵塔所」ここでは広義の「卵塔場」(らんとうば)で単なる「墓場」の意。狭義の「卵塔」は無縫塔(むほうとう)で、主に僧侶(特に禅僧)の墓塔として使われる石塔を指す。塔身が卵形(というより擂り粉(こぎ)木尖塔状)を成す。百姓の墓には決して使われない。

「橘樹郡東子安村」現在の神奈川県横浜市神奈川区子安通のこの附近

「縺崎」読み不明。「縺」は音「レン」で訓は「もつれる・もつれ」である。後で馬琴は、『「縺」字は、「散水(さんすい)の誤《あやまり》」にも候歟』(か)と疑問を呈しているのだが、これがまた、意味が判らない。「散水」という単語は「撒水」とも表記し、慣用読みで「さつすい(さっすい)」があるので、表記や発音上・慣用読みの誤りではないか、と言っているものか。色々調べたが。「散水の誤り」という慣用句は発見出来なかったし、「縺崎」は逆立ちしても「さんすい」「さつすい」とは読めない。それにしても、これ、この当時生きている百姓の祖父の名前としても、例えば、「つれさき」と読んでも、奇異なること、極まりない。この文字列で検索しても、ヒントになるページどころか、クリックしたくない怪しげなサイトしか掛かってこない。お手上げである。切に識者の御教授を乞うものである。

「一昨朔日」「おとつひ(おととい)さくじつ」とも読めるか。本文に即して推定すると、墓の掘削が終わったのが、文政十年丁亥の八月二十九日と読め、この年の八月は大の月であるから、八月三十日がある。文書末のクレジットは「九月三日」であるから、「九月一日に届け書きは出しました。」という意味となり、この日付には齟齬はないことが判る。]

2022/10/23

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「おなじ頃、京なる一兩人より申來る風聞」(新たに項を起こした前回分の続篇)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段冒頭から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 なお、本篇は前話「文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記錄」の新たに項を起こしてある続篇であるので、そちらをまずは読まれたい。そちらで注したことは、繰り返すつもりはないからである。底本では頭に「○」が附されずに行頭から書き出されてあるが、ここは吉川弘文館随筆大成版を参考に三字下げで「○」を添えた。また、当該敵討事件と同じ事件を扱っているものの、こちらは、ソースが異なるため、人物の名前や表記、及び、事件の詳細の一部のシーンに有意な異同があるので、注意されたい。

 

   ○おなじ頃、京なる一兩人より申來る風聞

江州膳所家中平井兄弟敵討之事

 敵《かたき》 硏師辰藏【當亥四十二、三歲。】

右、生國は讃州高松在、阿野(あや)郡羽床下之村(はゆか《しものむら》)の者、十ケ年以前に、其地を出奔いたし、當時、膳所に來り、町々、住宅《すみいへ》いたし、硏師《とぎし》幷に刀・脇指の賣買いたし居候。

     膳所家中

      平井才兵衞實子總領

       平井市郞次【其節、廿六、七歲】

右、才兵衞嫡子にて、家督相續いたし、給人《きふにん》、相勤居《あひつとめをり》候處、故障、有之、其節は致隱居罷在候。

[やぶちゃん注:以下は「隱居被候由に御座候」までが、底本では全体が一字下げ。]

 右故障の譯は、平井才兵衞、馬醫《ばい》の事に委《くはし》く候故、格別に加增有ㇾ之、市郞次も、其跡、相續人の儀候故、爲馬醫の術修行、東都へ罷越、其術、委き方へ、致入門、修行中、同門の人、才器、勝れ候哉《や》、早く、皆、傳《でん》いたし、市郞次は、おくれ候に付、不圖《ふと》、癎症《かんしやう》、差起《さしおこ》り、麁妄《そまう》の事、多く、有之《これあり》。依ㇾ之、隱居被候由に御座候。

[やぶちゃん注:「給人」江戸時代、武家で扶持米を与えて、抱えて置いた平侍(ひらざむらい)。

「麁妄」やることが雑で、出鱈目であること。]

    膳所よりの書狀のうつし。

     水口御家中

      平井才兵衞二男

        竹 内 作 次

      當時改名

        平井外記【當亥廿七歲。】

一、五ケ年已前、平井家斷絕に付、主君水口候へ奉ㇾ願候て、暇《いとま》をとり、弟九市郞と共に敵討に出申候。

     平井才兵衞三男

        平井九市郞【當亥廿一歲。】

[やぶちゃん注:「水口御家」膳所藩家臣に水口姓はネットでは見出せなかった。ただ、近江国水口周辺(現在の滋賀県甲賀市)を領した水口藩(みなくちはん)があり、或いは、膳所藩とは、何らかの友好関係があったのか? 判らぬ。

 以下、底本では、「親類中へ御預被ㇾ成候。」まで全体が一字下げ。]

兄市郞次儀、故障、有ㇾ之、隱居被申付候節、名、相續として、中・小姓組に被申付相勤居候處、市郞次、被ㇾ討候節【右、九市郞、當十六歲。】、宿に爲居合候得共《ゐあはせさうらえども》、不行屆始末、有ㇾ之に付、暇、出申候。其節は思召も有ㇾ之趣にて、改易に成《なり》候。其節、九市郞、祖母、幷に、叔母一人、有ㇾ之候處、親類中へ御預被ㇾ成候。

一、五ケ年前に、隱居市郞次と辰藏と、爭論の儀、有ㇾ之候處、其儀も事濟候て、辰藏、是迄の通り、入込居候處、或日、辰藏參り、市郞次へ、「能き刀、出候間《いでさふらふあいひだ》、見せ申度《まをしたき》。」由、申に付、何心なく出候處、後《あと》より、だまし討《うち》に切下《きりさ》げ、又、一刀、胸先へ切付、其儘、かけ出し候折《をり》、其家の叔母、臺所に居合せ、行當り、打倒候處を、行樣《ゆきざま》に、一刀、切付、直《ぢき》に、表へ出《いで》、西裏の野邊へ出候て、山手へ懸け、山を越、京都へ出、丹州路《たんしうぢ》を經て、但馬邊迄は、足付候得共、其餘は、行方、相知不ㇾ申候。勿論、其節、直に主人【膳所候也。】家より、諸國へ手當の人數《にんず》、出候得ども、能々《よくよく》忍び候哉《や》、相分り不ㇾ申候。其節、市郞次は卽死、叔母は淺手故、日を經て致平癒候。

[やぶちゃん注:以下、底本では、「子細なく候。」まで全体が一字下げ。]

此叔母、貝崎藤内、預り居申候。此度[やぶちゃん注:ママ。吉川弘文館随筆大成版も同じだが、しかし、「このたび」では、ここに相応しくない。私は「者」の誤字ではないかと疑っている。]、平井家出身にて、爰元《ここもと》家内にても、每々《たびたび》申出候。此叔母の歡び、いかならんと、御察し可ㇾ被ㇾ下候。

 【京の友、書狀、別紙。】内々の事

市郞次事《こと》、辰藏に切害《せつがい》せられし譯は、もと、色情の事にて、實は、あまりよからぬ筋合なり。されども、一旦、事濟候上は、何にもせよ、辰藏、あしく候。敵討《かたきうつ》たるものは、子細なく候。

又、膳所よりの狀、寫し。

一、敵打の節、其場に居候目明しの者、則《すなはち》、高松侯よりの使《つかひ》の御同心に付添《つきそひ》、參り、咄《はなし》いたし候一件。

右兄弟、敵《かたき》辰藏は、藝州邊に居《をり》候樣子、承り、早速、下り相尋《あひたづね》候へども、住宅《すみいへ》、知れ不ㇾ申候。其節、近國にて知己に相成、段々、懇意に成候間、賴み候也。

     周防岩國吉川家浪人

      本名黑杭才次郞

       當時、明闇寺宗派の者

        雲  龍【當亥廿六歲。】

[やぶちゃん注:「周防岩國吉川家」江戸時代を通じて長州藩毛利家一門の吉川(きっかわ)家が領主だったため(大名ではない)、吉川藩という通称もある。江戸時代、特殊な扱いであったことについては、当該ウィキを読まれたい。

「明闇寺」京都市東山区にある普化正宗総本山虚霊山明暗寺(みょうあんじ)。かのおぞましい廃仏毀釈により廃宗廃寺の浮き目を見たが、明治二三(一八九〇)年に復宗復興した。公式サイトはこちら。]

右、出地《しゆつち》・案内幷に見證《けんしやう》に相賴《あひたのみ》申候樣子。其後《そののち》、讚州高松邊へ致徘徊候由、直《ぢき》に四國へ押渡り、右三人、高松在《あり》、兼《かね》て承り居候。辰藏、舊里、羽床下村邊を相尋候處、彌《いよいよ》、住居《すまひ》致候樣子、承り【先年も、辰藏、舊里の事故《ことゆゑ》、一度、相尋候處、其節は他國に居候哉《や》、「知不ㇾ候《しれさふらはず》。」由。この儀は貝崎の話しに候。】、其家を伺候處、折節、其日は佛事の樣子にて、大勢、打寄居《うちよりをり》候故、無是非、其夜は野邊へ退《しりぞ》き、物靜《もんおしづか》なる墓所に入《いり》、一夜《ひとよ》を明《あか》し、翌閏六月十二日、早天《さうてん》》に、右、家に參り、表口、裏口より、兄弟、相伺候處、辰藏は致硏物居《をる》樣子故、直《ただち》に飛込、名乘懸け、一刀打懸候處、辰藏、其向《そのむかひ》に立置《たておき》候一刀《いつたう》を追取《おつとり》、引拔《ひきぬか》んとせし處、硏刀《とぎがたな》の事故、目釘、無ㇾ之、柄《つか》計《ばかり》、手に取候故、直《ぢき》に引返し、表口ヘ逃行《にげゆき》候處、庭に、九市郞、居候故、其儘、一刀、切懸候得《さうらえ》ども、何を申《まをす》も、短刀故《ゆゑ》、淺手にて、又、裏口へ、逃出候處、彼《かの》雲龍に行當り、裏口外にて倒れ候を、外記、九市、追懸出、討留《うちとめ》、致留《とどめ》を候由、尤《もつとも》三人共、諸國修業者之體《てい》にて、平井兄弟は明闇寺宗派をはなれ居《をり》候由。三人共、四國道者《だうじや》の體にて、所持の劍《けん》は、一尺餘りの短刀を、竹に仕込、有ㇾ之候由。但、三人共、非人同樣に成居《なりをり》申候。

[やぶちゃん注:「出地」仇相手がどの国に潜入したかということを調べること。

「案内」探索の際の種々の案内役。

「見證」仇討ちの首尾を見届けること。

「平井兄弟は明闇寺宗派をはなれ居候」平井兄弟は普化宗(ふけしゅう)とは無関係であるの意でとる。

「四國道者」四国巡礼者。

 以下、底本では、「尙又、承り可二申上一候。」まで全体が一字下げ。][

 辰藏は、獨身にも無ㇾ之、やとひ女の樣なるもの、有ㇾ之候が、其節、はやく逃去候とやらん、及ㇾ承候。時に、此節、高松、在々所々、盜賊、多く致徘徊候に付、右三人も、「怪敷體《あやしきてい》の者故、可召捕。」と、段々、付廻《つけまは》し、則《すなはち》、其朝《そのあさ》も、三人連《さんいんづれ》にて致徘徊候故、彌《いよいよ》怪《あやし》く、後を付候處、右家近邊にて立留り、何か談合の樣子故、「もし。付廻し候を、氣取られては六ケ敷《むつかしき》。」と、暫く、見合せ候處、殊の外、騷敷《さはがしく》、「人殺し。」と呼《よばは》り候故、早速、駈付見候へば、「敵討の由。」呼はり候故、尙、亦、見合せ居《をり》候内、討留《うちとめ》候《さふらふ》て、段々、譯合《わけあひ》を聞《きき》、庄家《しやうや》へ連行《つれゆき》、其後《そののち》、御城下へ六里計《ばかり》も有ㇾ之候處、早速、致注進候に付、諸御役人、御出候て、警固、有ㇾ之、則、御城下へ御引取にて、當時、御城下へ被差置、殊の外、御叮嚀の御會釋《おんえしやく》の由。右高松候、町御奉行より、同心二人、下方《したがた》の者二人、使として、膳所町奉行所へ、手簡《しゆかん》參り候。當所も、諸役人、評定の上《うへ》、

   物頭一人  榊原新八郞

           組子二十人

           小頭 一人

   給人目付  高 橋 彌 八

           下役三人

   徒士目付  林 吉 兵 衞

           同心二人

 右、上下、總人數《にんず》七十人計《ばかり》、去月《きよげつ》廿九日、高松表《おもて》へ致出立候。右敵討の樣子は、高松侯、御同心の咄にて承り候。定《さだめ》て、右兄弟の者、是迄、尋巡るり候五ケ年内、艱苦《かんく》可ㇾ有ㇾ之候。此儀は、當人、面會の上、尙、又、承り可申上候。

一、高松候より、大小、時服《じふく》・身の廻り一通り、其節、直《ぢき》に御差出しにて御座候由。勿論、同斷、一通りづゝ、三人前、此方《こなた》よりも、差出《さしいだ》しに相成候。

[やぶちゃん注:「時服」この場合は、夏まっさかりであるから、その時候に合った服を賜られたのである。]

一、高松候より、此趣、いまだ、公儀え、御屆も無ㇾ之儀、御互に、先々《まづまづ》、請取候迄は、國切《くにぎり》の取沙汰《とりざた》、外々《ほかほか》へ、御咄も候はゞ、此儀、御心得可ㇾ被ㇾ下候【これは同年七月の書狀也。】。

[やぶちゃん注:以上の一条、意味がよく判らない。藩主松平頼恕(よりひろ)が気を使って言っているのは、思うに、「この仇討ちの完遂は、未だ諸君(と言っても平井の二兄弟)の藩主であられる膳所侯の耳に届いてはおらぬから、まずまず、膳所侯の帰藩の免状が届くまでは、国違い(「國切」は「國分(くにわけ)」で本来は戦国時代の大名間の領土協定を指す語である)の場での、仇討ち成功の話(それから発生するところの「噂」「取り沙汰」)については、そなたらの藩以外の場所では、安易に話は、これを心得て――遠慮して話はせぬように――おくように。」と伝えた内容を遠回しに言ったのではなかったか? 大方の御叱正を俟つ。

京の友、文通。

其後《そののち》、高松と膳所と、段々、懸合《かけあひ》の譯《わけ》、其節、高松より出《いで》候、「近江八景」の落首、且、又、膳所候、在府にて、三人の者、御使、東都へ下向の話【大公儀《おほやけのぎ》へ御屆に成り候、趣。】。外記、九市、五ケ年の内、諸國相尋候事、餘り、事、長ければ、不申上候。御聞可ㇾ被ㇾ成、思召も候はゞ、可ㇾ被仰下候。

[やぶちゃん注:これは大いに不満!!!

同《おなじく》。

一、雲龍、本名、黑杭才二郞【解《とく》云《いはく》、前書に「黑根」とあるは、誤寫なるべし。】と申候へ共、吉川家中に在ㇾ之候節も、他家相續いたし候樣子に聞え申候。當時は、本姓、栗谷、才次郞と名乘候。

同。

一、平井氏、去冬《きよとう》、八十石被宛行候《あてゆかられさふらふ》。其節、外記は六兩三人扶持にて、水口候へ歸參被申付、准給人《じゆんきふにん》に被ㇾ成候。九市は、先年、中小姓《ちゆうこしやう》の節、幾人扶持とやらに候處、元の通りにても難ㇾ有仕合の處、存外、高祿被ㇾ下、立身無此上候。竹内作次【外記事《げきが、こと》。】も養家を暇《いとま》を取《とり》、敵討に出候故、右、養家にては、他人、致相續候故、新家御取立に候へ共、全體、御主君、御小身故、外記も、右の仕合《しあはせ》に候。且、件《くだん》の一件、御家《おんけ》にも拘らぬ事にて候故、殊なる恩賞は無ㇾ之かと申候。

[やぶちゃん注:やっぱり主家水口家、よう、判らん。]

又、京師友人、文通。

一、十二月朔日、栗谷才次郞、膳所へ十五人扶持、召出《めしいだし》、家作料として金三十兩被ㇾ下、給人に被召抱候。十二月末より、才次郞、疱瘡にて、餘程、六ケ敷《むつかしく》候へ共、無難に致全快候由。去冬は、二十歲、三十歲の者の疱瘡、多く有ㇾ之。誠に稀成《まれなる》事どもにて御座候。

同《おなじく》。

一、爰に又、愚妻の親元【親は嘉藤太と申。今は、なし。】吉田平右衞門、懇意の家に、三村善五太夫と申者、給人に候。右、善五太夫、女子計り、四人、有り。總領娘は京都西三條御殿へ宮仕《みやづかへ》に參り、二女も白川殿へ遣《つかは》し置候處、善五太夫、全體、動向、首尾能《しゆびよく》、段々、出身の處、存外、大病にて、大《おほき》に、内證《ないしやう》[やぶちゃん注:家内の財政状態。]、手惡敷成候上《てあしくなりさふらふうへ》、長病《ながのやまひ》、終《つひ》に不ㇾ宜、相果候故、後室、大に當惑にて、娘達世話不行屆困り入候處、白川家に居候二女、其娘十三歲、世話人、有ㇾ之、膳所より五里計《ばかり》有ㇾ之、田上といふ所へ養子に遣し候處、大に不仕合《ふしあはせ》にて、存外、辛《から》きめにあひ、其處《そこ》にては、一、二を爭ふ舊家なれども、片田舍の事故、右樣《みぎさま》も、日々、農業に罷出、一向にならはぬ事共《ども》故、大に難儀いたし、彼《かの》「山庄太夫《さんしやうだいふ》」とやらんに、使《つかは》れ候思ひにて、泣暮《なきくら》し居《をり》候處、不ㇾ計《はからず》、「養父入(やぶ《いり》)」に歸り、一向に打歎《うちなげ》き候。何樣《いかさま》、人柄も替り果《はて》候故、「虛言《そらごと》には有間敷《あるまじ》。」と、親、幷に、隣家の人々にも致相談、無理に引取候處、家内に置《おき》候ても、日々の事も六ケ敷《むつかしく》、奉公に出《いだ》し候にも、衣類、無ㇾ之、大に困り入候に付、平右衞門、了簡上《りやうけんのうへ》にて、「拙者方ヘ、ケ樣の譯故、下女の替りにいたし、差置吳候樣《さしおきくれさふらふやう》。」被ㇾ賴《たのまれ》、上村《うへむら》、後室よりも、別《べつし》て被ㇾ賴候。愚妻は、元來、懇家《こんけ》の事、十五歲の歲暮《としのくれ》より、此方に置《おき》候處、全體、生れ付、貞實にて、容儀よく、申分《まをしぶん》無ㇾ之、女子《をなご》にて御座候也。此上村は、平井氏と近隣にて、彼《かの》九市とは、幼年の頃より、親しく、親ども、聢《しかと》と致約束たるにもなく候得ども、咄合《はなしあひ》も有ㇾ之程の事、此度《このたび》、歸參被仰付、右娘も爰元《ここもと》に浮物《うくもの》にて、重疊《ちやうじやう》の事と被ㇾ思候。然處《しかるところ》、先年、姉娘、引取、相續として、養子出來《しゆつらい》、當時、「上村善五太夫」と名乘《なのり》候。此人の緣家に、京都の町人、某《なにがし》あり。右娘、名を貞《さだ》と申《まをし》、妻の從弟《いとこ》と稱し、爰元に居《をり》候時、右の人も、よく存知、彼《かの》今の養子【後の善五太夫。】に言込《いひこみ》、「もうらひ度《たき》。」よし、段々、かけ合《あひ》、入組候得共《いれくみさふらえども》、さだの叔父もあり、「町家へは、許容、無ㇾ之。」とて、段々、斷《ことわり》候へ共、何分、今の名前主[やぶちゃん注:読みも意味も不詳。]、「是非とも其方へ致相談度《たき》。」などゝ申、落着不ㇾ仕候。「何分、もはや、當年十八歲に相成、爰元に差置候ても如何《いかが》、委細の相談は、手近くならでは。」とて、相談、極《きはま》り、當春、差戾《さしもどし》候。此段、如何相成候事哉《や》、戯場小說《ぎじやうしやうせつ》、何樣《いかさま》、今日、まのあたりの事と、感心仕候。

京師友人手簡。本文。

愚妻は、膳所家中、當時、吉田平右衞門と申者の妹にて候。右、吉田氏緣家に、貝崎藤内《かひざきとうない》と申《まをし》、是も、給人、相勤《あひつとめ》候。右、貝崎、平井氏は親《したし》き緣類にて候故、拙者事も緣續きとは申ながら、平井氏とは親しからず候へども、右、敵討の次第、荒增《あらまし》及ㇾ承候段、別紙に相したゝめ申候。先《まづ》は、右の趣に御座候。

此一枚ずりは、去《さる》七月、至《いたつ》てはやく、高松の者共、京へ持上《もちのぼ》り、大津邊・京師は勿論、近國迄、町々、賣步行《うりありき》候處、近年、類ひ無ㇾ之程にうれ申候。

其後《そののち》、芝居にいたし、初春の雙六《すごろく》の畫《ゑ》にも出來《しゆつらい》、大《おほき》に流行いたし候。もし、雙六の圖など、可ㇾ被ㇾ成御覽候はゞ、取寄入御覽可ㇾ申候。

 二月十二日      角 鹿 淸 藏

            秀     寫

[やぶちゃん注:最後の「一、爰に又、愚妻の親元【親は嘉藤太と申。今は、なし。】吉田平右衞門、懇意の家に……」以下の話は、私は読んでいても、全く、面白くも糞くもなかったので、一切、注する気にならない。悪しからず。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 始動 目次・第一「文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記錄」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 目次はそのままにして手を加えていない。本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

兎園小說拾遺目次

 

   第 一

平井兄弟が福州に爲體をいひおこせし讃岐の高松人消息の寫し

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版目次では、以下の第一話の標題と全く同じ『文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記録』となっている。]

おなじ頃、京なる一兩人より申來る消息

[やぶちゃん注:同前では、末尾の「消息」が『風聞』となっている。]

谷中瑞林寺の卵塔を掘りて金を得たりといふ事の實說

阿彌陀峰の南の岡なる地藏山の土を掘とるとて古墳を犯して祟ありし奇談

伊豆州田方郡年川村の山同郡田代村へ遷りたる圖說

肥前大村領にて擊獲たりといふ虎皮の縮圖

志賀隨應神道傳授の書

[やぶちゃん注:同前では、『志賀随王神書』である。]

西國處々大風洪水幷に越後大地震風聞略記

[やぶちゃん注:同前では、後の「越後大地震風聞略記」が『越後大地震の風説』である。]

  通計八箇條      著作堂主人輯錄

 追加

雷砲同德辨

浦賀屋六右衞門話記

將軍文禰麿骨龕圖【◎本文脫漏】

[やぶちゃん注:以上の一条は吉川弘文館随筆大成版にはない。]

 共二三ケ條三子紀事共二十二ヶ條

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、以上の一行はなく、『天保二年辛卯春正月三子出生の事』と『風聞』の標題が並置されてある。]

   第 二

イギリス船圖說

江戶大雹

文政十三伊勢御蔭參の記

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では、『伊勢お蔭参りの記』とある。]

 松坂一友人來翰の寫

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『松坂友人書中御陰参の事』となっている。]

 泉州堺の人の書狀の寫

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『伊勢参宮お陰参りの記』となっている。]

 駿州沼津人の書狀の寫

 松坂人琴魚書中抄錄

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『松坂人、琴魚より來狀』(読点は編者の打ったものと推定される)となっている。]

 享保八年御蔭參抄錄

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版でも新字で同じだが、一字下げはない。]

京都地震の記

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では末尾の「記」は『事』となっている。]

 飛脚問屋島屋佐右衞門注進狀

[やぶちゃん注:以上の一条は吉川弘文館随筆大成版にはない。]

 二条御番内與力伏屋書狀寫

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『二条御番内藤豊後守組寄騎伏屋吉十郎より或人へ郵書』となっている。]

 西本願寺觸狀寫

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはない。]

 伊勢松坂一友人來翰寫

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、以上の一条の前に、一字下げはなしで、『寅七月二日申上刻京師大地震聞書』があって、同じく一字下げなしで、『伊勢松坂一友人来翰中京の人六右衛門書状の写し』となっている。

 平安萬歲樂

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『地震奇談平安万歳楽』となっている。]

 風怪狀【戲作、】

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはない。]

駒込追分家主長右衞門奇特御褒美錄

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、「奇特」は、ない。]

奧州東磯江村百姓治右衞門の娘とめ孝行記事

豆腐屋市五郞孤女たか奇談

一月寺開帳御咎遠慮聞書

伊勢内宮御山炎上略記二通

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、『文政十三寅の閏三月十九日伊勢御境内出火』とある。]

大阪寺院御咎聞書

荒祭宮以下炎上に付傳奏方雜掌達書寫

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、『荒祭宮以下炎上の節、伝奏方雑達書』である。]

伊勢内宮炎上の略繪圖

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版にはない。というより、底本本文にも、この条は実際には存在しない。]

文政十三年雜說幷に狂詩二編

[やぶちゃん注:底本本文(及び吉川弘文館随筆大成版目次)には、ここに、

宿河原村靈松道しるベ

の一条がある。脱落。最後に「追錄」されてある。]

麻布大番町奇談

山形番士騷動聞書幷に狂詩

夜分磨古墓石怪幷に後記

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では「夜分磨古墓石怪」と返り点附きで、それに「石塔みがき後記」が並置されてある。]

 追錄

宿河原村靈松道しるベ

 

 

兎園小說拾遺第一

  

   〇文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記錄

 讃州阿野《あや》郡高松領、南羽床下《みなみはゆかしも》ノ村《むら》、無宿與之助《よのすけ》と申者、年齡三十八歲、先年【十六ケ年已前と云。】、江州不動寺へ罷越《まかりこし》、家來に成り居《をり》候事、有ㇾ之。右、不動寺は、元來、羽床村出生之者之由、右之由緣にて、與之助、罷越、家來に成り候。然處、與之助儀、膳所御城下なる町人方へ婿養子に罷成、養家之女《むすめ》【名は臺《だい》。】、幷に、養母と、三人暮しにて罷在候處、膳所《ぜぜ》家中、平井市郞二《ひらゐいちらうじ》と申者、右、臺女と密通之風聞、有ㇾ之に付、與之助、殘念に存罷在候内《ぞんじまかりありさふらふうち》、如何之譯《いかなるのわけ》に候哉《さふらふや》、養家、離緣に相成候。『此事、市郞二より、養家へ惡く申成《まをしなり》し候故、及離緣候儀。』と、與之助、致推量、遣恨、彌《いよいよ》增《まし》、不ㇾ得已事《やむことをえず》、右、市郞二を、だまし討《うち》にいたし、立退《たちのき》候。又、一說に、右、臺女をも、不動寺へ連行《つれゆき》、致殺害候とも申候。何れにも與之助儀は、人柄不ㇾ宜《よろしからざる》者にて、羽床村へ立歸り候ても、諍論出入《じやうろんでいり》之取扱ひ、人の腰推《こしお》し等いたし、聊《いささか》、棒なども、つかひ候て、全體、大男の由に御座候。右市郞二弟外記《げき》【廿七歲。】、同人弟九市《くいち》【廿二歳。】。此餘、黑根【「黑根」、當ㇾ作「黑杭」。】才二郞《くろねさいじらう》と申《まをし》、元來、防州家中に候處、樣子、有ㇾ之、國許を立退《たちのき》、鎗術、稽古いたし、薦僧《こむそう》に成り居候者《をりさふらはば》、「敵討場所見屆《かたきうちばしよみとどけ》」として同道、都合、三人連《づれ》にて、諸國を尋《たづね》に出《いづ》【「草ざうし」などに有ㇾ之候樣なる難儀の事、有ㇾ之、候由。略す。】。當月中旬、豫州へ致渡海、夫《それ》より、金毘羅へ罷越、羽床村へ入込《いりこみ》、漸《やうやく》、與之助居所《ゐどころ》を見付、去る十一日、討留可ㇾ申存候處、居宅を窺ひ候へば、何やらん、佛事、有ㇾ之樣子にて、大勢集り罷在候に付、不ㇾ果《はたせず》。其夜は、無常場辻堂に止宿いたし、翌十二日夕七半時《ゆふななつはんどき》頃、敵、討留申候【此節、危き事、有ㇾ之。左の如し。】。羽床下の村百姓、傳藏と申者、去る六月廿一日、盜賊の爲に、品々、被盜取候事、有ㇾ之。右詮議を、如ㇾ例、金毘羅、源右衞門へ賴《たのみ》候に付、源右衞門手寄りの者六人外、辨當持一人、都合、七人連にて、村方へ入込、右無常場へ罷越候處、非人居申候。「此邊に怪敷《あやしき》者は不ㇾ居候哉《をらずさふらふや》。」と尋候へば、「昨夜、此辻堂に非人體《てい》之者二人、又、一人は薦僧と見候者、致止宿候。」由申候付、「それこそ、必定《ひつぢやう》、盜賊にて可ㇾ有ㇾ之候。昨夜の事なれば、遠くは退き申間敷《まをすまじき》。」とて、夫より、處々、相尋《あひたづね》、十二日夕方、山之辻より見下し候處、與之助、居宅廻りに、右三人の者居候樣子に付、早速、走着《はしりつけ》、搦捕《からめとる》べき手段にて、下山いたし候處、與之助、被討果候折《せつ》にて、「御用。」と、聲をかけ、家内へ入込候處、「我等は、兄の敵《かたき》を討留候者にて、江州家中之由。」、相名乘《あひなの》り、御用の趣、相尋、「各《おのおの》は、何役に候哉。」と申に付、「手寄《てよせ》にて、盜賊方。」之由、相答《あひこたへ》、「我々共は、御用にて、相廻り候。」由、申聞候處、「左候《ささふら》はゞ、如ㇾ斯《かくのごとく》、敵、討留候に付、定《さだめ》て、與之助眷族《けんぞく》の者、又は、百姓中《うち》抔も狼藉者と存《ぞんじ》、無法之儀、有ㇾ之候ては、致迷惑候間、樣子に寄り、御村方及騷動に候ては恐入候。宜《よろしく》御守護被ㇾ下度《くだされたく》候、是、又、此樣子を、早々、庄屋へ相屆申度候間、案内いたしくれ候樣。」申に付、則、致案内、右、才二郞、屆に罷越、同夜五時過《いつつどきすぎ》、村役人、罷越、見分いたし、三人の者へは下宿《げじゆく》申付、手寄《てよせ》も、右下宿へ相詰《あひつめ》させ置候て、庄屋より注進申出候。

[やぶちゃん注:地下文書としては、かなり整理されていて、非常に読み易いものである。当時の制度では、「敵討ち」は、先ず、属する組織の上役に願い出て、この場合は、藩の重臣が吟味した上、藩主に許可を得ることになる(内容と敵討ちの相手が逃亡しそうな時には、上司へのそれのみで可能なこともあったという。これを「願い捨て」と称した。但し、敵討ちを希望する当事者の、その被殺者が父親以外の親族の場合(この一件は兄で、まさにそれにあたる)は、吟味の中で不許可になることもあった。なお、言わずもがな、不許可で藩外に出れば、脱藩となる)。また、許可がおりても、自藩以外の場所に仇(かたき)いることが判明し、仇討(あだう)ちを実行に移すためには、その藩主や知行地の知行者の許可を得る必要があった。この場合は高松藩に、それを申し出ねばならなかったはずなのである。しかし、以上の最後の台詞(恐らくは話者は平井外記)を読むに、その許可をどうも得てはいないニュアンスを感じる(というか、そもそも奉行所を通じて藩に許可を得る手続きを踏むと、その過程で、敵討ちの相手の親しい関係者がそれを知ってしまうリスクが高くなり、簡単に逃げられそうな気がする)。以上は、サイト「warakuweb」の『親の仇をとるのは役所に届け出てから!?驚きの江戸時代「敵討ち」事情』に拠った。

「文政十年丁亥閏六月十二日」グレゴリオ暦一八二七年八月六日。

「讃岐州阿野郡羽床村」現在の香川県綾歌(あやうた)郡綾川町(あやがわちょう)羽床下(はゆかしも:グーグル・マップ・データ。以下指示のないものは同じ)。

「江州不動寺」現行、滋賀県には二寺ある。孰れも古刹である。膳所との近さからは、滋賀県大津市田上森町(たなかみもりちょう)にある天台寺門宗太神山不動寺(たいじんさんふどうじ)か。

「家來」というのが、よく判らない。不動寺の寺の、全くの非僧の寺の一般実務に使役された者を指すか。

「膳所御城下」膳所藩(本多氏)。

「臺《だい》」流石に「うてな」とは読まんだろう。

「諍論出入」争いを好み、喧嘩出入りを好んでやらかす鼻つまみの乱暴者。

「人の腰推《こしお》し」自分では争いの表には立たず、人をそそのかしてやらせるという意であろう。

「棒なども、つかひ候て」所謂、長い棒を武器とする武術としての「棒術」であろう。

「黑根【「黑根」、當ㇾ作「黑杭」。】」割注は、姓の「黑根」(くろね)は、別な一本の資料では、「黑杭」(くろくひ)とあるようであるという意であろう。

「防州家中」長州藩士。

「樣子、有ㇾ之」何らかの不都合があっての意か。

「無常場辻堂」村外れにある墓場に付随する辻堂。墓地も辻も村落共同体と異界との境であり、村の辺縁にある。

「夕七半時」これは不定時法である。夏であるから、午後五時頃である。

「手寄りの者」手下の者。

「非人」遺体の葬送・埋葬・火葬などの不浄な作業は、差別された非人らの仕事とされたので、こうした辻堂などや、その近くのあばら家に定住していた。

「非人體」敵地に乗り入れるので、兄弟は武家であるが、変装していたのである。

「手寄にて、盜賊方」「手下方(てしたがた)ではありますが、盗賊改(とうぞくあらため)方で御座います。」。]

      敵討場所の大略

九市は表口に脇指を拔持罷在《ぬきもちまかりあり》、裏口に才二郞、尺八を持罷在、外記一人、内へ入、與之助に向ひ、「敵討候間、致覺悟候樣。」申聞候處【此時、與之助は江州にて仕馴候硏職《しなれさふらふとぎしよく》幷に刀脇指賣買之取次等、渡世にいたし候に付、則《すなはち》、脇指を、ひねくり廻し罷在候。】、與之助、「心得候。」とて持《もち》たる脇指を振揚《ふりあげ》候へども、目釘、無ㇾ之故、刄《やいば》は、鞘共に、飛散《とびち》り、柄のみ、手に殘り候間、外記、不ㇾ透《すかさず》、肩先へ切付《きりつけ》候【餘程、深手の由。】。」依ㇾ之、與之助、裏口へ迯出《にげいで》候處、才二郞、罷在、「迯候事、不相成候。」迚《とて》、押戾し候由【或は、尺八にて打候とも申候。】。表に罷在候、九市、早速、飛込《とびこみ》、左之腕首を切落候【「此時、與之助老母、外記に組付《くみつき》候も、もぎ放し候。」とて、聊《いささか》、時合《じあひ》、延《のび》候よしなり。】外記も亦、追付《おひつき》、首、半分、切《きり》ける。則、「耳の後より、留《とど》めを刺《さし》候。」由に御座候【この時、九市、怒《いかり》の餘り、脇指にて、與之助の面部へ、橫疵を付け候間、疵所、御檢使之節、「敵《かたき》の面《つら》へ疵付、恥敷《はづかしく》存候。」と申、外記、弟九市を、叱り候よしに御座候。】。然處《しかるところ》、手寄《てよせ》の者、入込《いりこみ》、前條の趣に有ㇾ之。扨《さて》、又、敵討候已後、村内の百姓、二十人計《ばかり》、鍬・棒等を持參《もちまゐり》、「狼籍者を打殺せ。」とて入込候を、手寄のもの、推留《おしとどめ》、引取《ひきとら》せ候。「手寄の者、不ㇾ居候《をらずさふら》はゞ、及騷動可ㇾ申處、無故障相靜り、致大慶候。」旨、右三人の者共、厚く歡びを述候由に御座候。

就ㇾ右《みぎにつき》、支配代官中村九兵衞、不取敢出鄕、檢使には徒目付《かちめつけ》、罷越、御城へ引寄《ひきよ》せ候に付、御物頭《おものがしら》二人、罷越候。始末の義は、御用狀には可申參候間、略文仕候。夫々《それぞれ》、御引合《おひきあはせ》、御覽可ㇾ被ㇾ下候。扨々、珍事、是迄、右樣之事、御國許には、先例、無ㇾ之候。當一件、大造成《たいさうなる》御物入《おものいり》にて、凡《およそ》、三十貫目程も掛り可ㇾ申哉《かな》と奉ㇾ存候。御城下ヘ引寄《ひきよせ》候節、田中氏居宅表《おもて》を通り候に付、同所へ打揃《うちそろひ》罷越、透見《すきみ》仕候處、才二郞事《こと》雲龍、儀、大男にて、きつぱり、額の角を拔き、總髮にて罷在候間、別《べつし》て目立申候。外記・九市兩人は、色白にて、中肉、外記は、勢《せい》高く見え候。且、右三人、十二日夜、不宿《ふしゆく》にて、一向、眠り不ㇾ申夜明《よあか》し仕《つかまつり》、依ㇾ之、手寄の者も、夜明し仕候由に御座候。「尤《もつとも》、眷屬に返り討《うち》の用心も可ㇾ之。」と、其節、人々、評判仕候。御城下へ引寄候行列、別紙之通に御座候。

狀中、下ケ札《しもがさつ》

右三人の者、豫州表《おもて》にて、「是より、何方《いづかた》へ可ㇾ行哉《や》。」と、くじ、取《とり》いたゞき候處、「高松表に罷越候樣。」、有ㇾ之。「是は、與之助、故鄕故、我等の心より、高松へ罷越、可ㇾ然存候故、くじ、出候半《いでさふらはん》。」とて、三度迄、取改候得ども、同樣に付、其旨、早朝、咄合《はなしあひ》、先づ、金毘羅を拜し候て立出、途中にて、茶店へ腰を掛け、休み居候處、旅人兩三人、居中《をるうち》、脇指を拔《ぬき》、「此硏《このとぎ》は、羽床下村の與之助と申者、いたし候。殊の外、能《よく》出來候。」よし申候を承り、夫より急ぎ、同村へ罷越候由に御座候。武運の開け、御神《おんかみ》の加護も可ㇾ有ㇾ之と、奉ㇾ存候。

 右、丁亥秋八月十三日朝、借《かり》、抄、畢《をはんぬ》。

[やぶちゃん注:これもまた、臨場感に富んだ記録である。最後の部分は敵討ちに向う際の不思議な「くじ」=「籤」の告げによって、首尾よく与之助のいる所へ向かうことが出来たという神意譚として面白い。

「脇指を、ひねくり廻し罷在候」脇差の修繕をするために分解して、いろいろと直していたのである。そのために、咄嗟に入ってきた討手の外記に向うのに、それを振り上げた結果、ばらばらになってしまったのである。

「聊、時合、延候」その与之助の母の抵抗に対処するために、時間がかかったことを言う。

「不取敢出鄕」「取り敢へず、出鄕(しゆつきやう)」。まずは、とるもの取り敢えず、直ちに当該の村へ出向き。

「徒目付」同職には城内の宿直勤務があったので、その日の当番の人物であろう。

「御物頭」同職は、城下の警備・火災消火を担当していた足軽の組頭である。

「大造成御物入にて、凡、三十貫目程も掛り可ㇾ申哉と奉ㇾ存候」この仇討ち事件の処理に大金が掛かったというのである。銭一貫は一千文で、江戸中後期の金一両は六千五百文であるから、四十六両、江戸後期の一両は現在の四~六万円相当であるから、百八十四~二百七十六万円相当である。

「透見仕候」藩の重臣クラスの一人が、事件当事者らの姿を、長屋門脇の部屋の透き格子から彼らを観察したのである。

「才二郞事雲龍」虚無僧才次郎の僧名。虚無僧は、尺八を吹いて物乞いをする僧。薦僧(こもそう)・ぼろんじ・暮露(ぼろ)・「ぼろぼろ」とも呼んだ。その初めは、単なる「薦を携えて流浪する者」の称であったと思われる。鎌倉時代、中国の禅宗の一派である普化 (ふけ) 宗の流れを汲む日本の天外明普が、虚無宗を開き (鎌倉後期の 鎌倉後期の永仁年間(一二九三年~一二九九年)、京都白川で、門弟を教導し、尺八吹奏による禅を鼓吹したのに始まる。「世は虚仮(こけ)で、実体がない。」と知り、「心を虚しくする」という、その教えから、この名があるとされる。江戸では青梅(おうめ)の鈴法寺(れいほうじ)、下総小金(こがね)の一月寺(いちがつじ)、京都では明暗寺(みょうあんあんじ)に属し、天蓋 (編笠) を被り、袈裟を着け、尺八を吹いて、托鉢して回った。仇討ちの浪人や、密偵などが、世を忍んで、虚無僧となった者も多いとされる。百姓や町人は、なれないなどの規則もあったが,後には、門付け芸人ともなった。江戸中期頃から。尺八を得意とする者で、派手な姿で、「伊達 (だて) 虚無僧」となった者もある(概ね、「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「額の角を拔き」彼は虚無僧というが、これは例の虚無僧笠ではない。額とあるからには、修験道の山伏が被る黒白の布で作った兜巾(ときん)としか思われない。或いは、これも仇討ち助っ人の彼の変装の一つであったか。]

   讃州復讐錄追書

此度、阿野郡南羽床村にて、敵討有ㇾ之候に付、村方庄屋より注進狀の寫し上申候。

         阿野郡南羽床村出生

          百姓與太郞忰

           出奔人無宿

              與 之 助

[やぶちゃん注:以下、箇条書の前までは、底本では全体が一字下げ。]

右者、江洲膳所本多下總守樣御内、平井外記・同九市兄、市郞二と申者を、去《いんぬる》文政六未年、致殺害、同所を立退候由にて、是迄、處々、心懸け申候處、今日、七半《ななつはん》時分、當村方《かた》、川下中★、百姓半九郞、枝村の内にて出合《であひ》、敵討取候段、黑根才次郞と申者、右市郞二、親友の事故、見屆心添場所《みとどけこころぞへばしよ》爲立合《たちあひなし》罷出候由にて、同人儀、私方《わたくしかた》へ屆參候。尤《もつとも》、右外記・九市者《は》、與之助死體、見守爲ㇾ仕《つかまつりなし》候段、申出候に付、私儀、組頭、召連、罷越、見分仕り候處、疵、左之通。

[やぶちゃん注:「★」部分は、崩し字画像で挿入されてあり、横にママ注記がある。底本の国立国会図書館デジタルコレクション当該箇所から最大でダウン・ロードしてトリミング補正すると、以下である。

Husyouji

吉川弘文館随筆大成版では、『免』と活字化してママ注記がある。確かに、この崩しは「免」である。吉川版がママとするのだが、私が思うには、これは江戸時代の年貢の賦課率に由来する地名で、「川下中免」(読みは不詳。「かはしたちゆうめん」と取り敢えず読んでおく)ではないかと考える。但し、戦前の地図も確認したが、見当たらなかった。大方の御叱正を俟つ。

一、左之腕、切落し御座候。

一、左之肩、切疵、一ケ所。

一、首、半分、切り下げ。

一、左之目之下、切疵、一ケ所。

一、左之眼、疵、一ケ所。

一、左之耳、後、突疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:以下、次の「一、去る十六日」の前まで、底本では一字下げ。]

右之通、裸身《らしん》にて打捨御座候に付、早速、番人、付設《つめまうけ》御座候。外記・九市。才次郞儀は、下宿、申付、番人等、付置御座候。

 閏六月十二日

            羽床村庄屋

               傳 右 衞 門

右庄屋え、屆參候、黑根才次郞と申者は、岩國加藤佐渡守樣御内、浪人者の由に御座候。右、才次郞儀、助太刀仕候者にて御座候。尤、右三人共、邊路《へんろ》に相成《あひな》り、廻國六部、又は、非人同樣にて、刀等《かたななど》は、こも包《づつみ》に致し、或は、金剛杖《こんがうづゑ》に仕込、罷在候由。

右に付、羽床村より引繼申《ひきつぎまをし》、物頭《ものがしら》中、二頭《にがしら》御組三十、猩々緋袋入《しやうじやうひのふくろいり》鐵炮等、爲ㇾ持《もちなしたり》。十五日朝七時《あさななつどき》致出立《しゆつたつ》候。右、何れも、引纏罷歸《ひきまとひまかりかへ》り、西新通町《にししんとほりまち》、津輕屋孫兵衞方に引取候。右に付、御家中は不ㇾ及ㇾ申、鄕村共、見物に罷出申義、不相成段、御觸《おんふれ》御座候。

[やぶちゃん注:「岩國加藤佐渡守」不詳。識者の御教授を乞う。

「邊路」四国遍路に変装したのである。

「引纏」捕縛の縄を絡みつけた状態で。

「朝七時」定時法で午前四時頃。

「西新通町」香川県高松市通町(とおりまち)はここで高松城の南東近くだか、試みに「今昔マップ」で戦前の地図を見たところ、高松城の南西直下に「西新通町」を発見出来た。]

一、去る十六日、無ㇾ障、引纏、津輕屋迄、罷歸申候。誠に々々、珍敷《めづらしき》事にて、御林前より、丸龜町《まるがめまち》・古新町《ふるじんまち》・西新通町迄の群集は、言葉にも、筆紙にも、難ㇾ述次第に御座候。津輕屋にても、晝夜共、御醫者幷に物頭中《ちゆう》御組、召連、時不明《ときふめいに》、御番にん、御座候。右に付、三人の衆中《しゆううち》へ、御上樣《おかみさま》より、仕着《しきせ》等被ㇾ下、帷子《かたびら》黑紗綾《くろしやあや》・帶・じゆばん・下帶・羽織等迄被ㇾ下、膳所へ御差遣《おんさしつかは》し、御引渡に相成候由に御座候。皆々、大男にて、大力の人物の由、御座候。道行《みちゆき》、五、六町も續《つづき》、村役人初《はじめ》、大庄屋・小庄屋・郡代組《ぐんだいぐみ》・鄕方手代《がうがたてだい》・代官・物頭、雨具籠《あまぐかご》三荷《さんか》、物頭は、騎馬箱、傘、鎗持《やりもち》、先づ、是等が、先立《さきだち》候分《ぶん》、是より、御用の衆、駕籠に乘り、兩脇ヘ、一人に御足輕《おんあしがる》六人宛《づつ》立圍《たちかこ》ひ、其次へ、物頭、中郡奉行、右、何れも騎馬、大同勢に御座候。先《まづ》は、荒々、右之段申上候。

    閏六月十九日

         助太刀

         吉川監物馬廻り相勤四十石取

             黑 根 才 次 郞

[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では、全体が一字下げ。]

右の樣子、有ㇾ之候て、岩國を立退、宗役《しゆうやく》憲順《けんじゆん》の弟子に成り、「雲龍」と申候。

町方與力、物書同心、津輕屋へ相詰《あひつめ》、見聞被仰付候。右、津輕屋内《うち》は、此方《このはう》、引請《ひきうけ》、相勤《あいひつとめ》申候。

平井市郞次、知行六十石、馬廻り番組、相勤候人、右、召連候名前、左之通り。

            木内與惣右衞門

            中 村 茂 太 夫

            小 頭 二 人

            中 間 五十人

[やぶちゃん注:「丸龜町」ここ

「古新町」ここ

「御上樣」当時の讃岐高松藩主は松平頼恕 (よりひろ)。

「五、六町」約五百四十六~六百五十五メートル弱。

「鄕方手代」郡代・代官などの下役として村郷の農政を直接担当した実務役の地方(じかた)役人の一つ。

「騎馬箱、傘、鎗持」「騎馬箱」と「傘」の「持」を省略したもの。

「中郡奉行」この「中」が判らない。「郡奉行」は「こほりぶぎやう」で郡村の行政を統轄する郡代・代官を指すが、江戸時代の藩ではそれらの代わりに「郡奉行」を置いたところが多かった。「中」が宙ぶらりん。識者の御教授を乞う。]

2022/10/22

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 假男子宇吉 / 「兎園小説余禄」~完遂

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 本篇を以って「兎園小説余禄」は終わっている。]

 

   ○假男子宇吉

吾友、松坂なる篠齋《じやうさい》の來書に云《いはく》【壬辰冬十二月の郵書なり。】、「京都祗園町《ぎをんまち》に宇吉《うきち》といふものあり。こは、女《をんな》也。元は曲妓なりしよし。いつの程にか、男姿《をとこすがた》になりて、あり。最《もつとも》、元服、「天窓《てんさう》」也。衣服より、立振舞《たちふるまひ》まで、すべて、男にかはること、なし。但し、是は惡事《あくじ》あるものには、あらず。曲妓の時より、皆人《みなひと》、知居《しりをり》候へども、「男の女」にて、人々、濟《すま》し居《をり》候樣子也。怪しく、をかしき事は、やゝもすれば、其邊《そのあたりの》娼妓抔と情を通じ、いはゆる、間夫《まぶ》に成《なり》候事、一人、二人、ならず。當時は、ある曲妓の勤《つとめ》を引《ひき》たる美婦と、右宇吉、夫婦の樣子、一つ家《いへ》に住居《すみをり》候由に御座候。猶、くはしく申《まを》さまほしく候へども、頗《すこぶる》、筆頭に載《のせ》がたき所も有れ之候故、それらの事は省き候。右兩婦、衾中《きんちゆう》の私語《ささめごと》など、密《ひそか》に聞《きき》候へば、眞《まこと》に男女《なんによ》の樣に候よし、をかしく、いぶかしき事に御座候。右、宇宙の廣き、樣々の奇物もあるものに御座候。右、宇吉を、琴魚《きんぎよ》などは、よく存居《ぞんじをり》候事に御座候。但し、曲中などには、「妹分」などとて、男女の間より、親しき筋抔も有ㇾ之ならひに候へば、宇吉は、その長じたるものともいふべし。嚮《さき》に仰越《おほせこ》され候、かの吉五郞は、今一段、奇怪の婦と存候」云々。

この書によりておもふに、件《くだん》の宇吉は「半月(ふたなり)」なるべし。「半月」は、上半月《うへふたなり》男體《をとこのからだ》にて、下半月女體《をんなのからだ》なるも、あり。又、陰門と男根と相具《あひぐ》するものも、あり。「その男根は、陰門に隱れてあり、事を行ふとき、發起《ほつき》しぬる事、禽獸の陽物の如し。」といふ說あり。吾《わが》舊宅近邊の商人《あきんど》の獨子《ひとりご》に「半月(ふたなり)」ありけり。そが幼少の折《をり》、母親の將《ひき》て、錢湯に浴するを、則《すなは》ち、荆婦《けいふ》などは、「折々、見き。」といふ。「陰門の中に、男根あり。廷孔(ていこう)のほとりに、龜頭、少許《すこしばかり》、垂れたり。「なすび」といふものゝ如し。母親は、人に見られん事を、傍《かたは》ら痛く思ひて、「下《しも》に居《い》よ、下に居よ。」といへども、小兒の事なれば、恥もせで、立《たち》てありし。」と也。七、八歲までは、女子《をなご》のごとくにしてありけるが、十歲以上になりてより、名をも、男名に改めて、男裝に更《かへ》たり。近ごろ、その父は歿して、親の活業《なりはひ》を嗣《つぎ》てあり。小男《こをとこ》にして、溫柔なり。『「半月(ふたなり)」は、嗣《つぎ》、なし。』といふ。寔《まこと》に、しかなり。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

按、「齋東野語」【卷第十六。】云、大般若經載五種黃門云。凡言扇𣝸半釋迦。唐音黃門。其類有ㇾ五。一曰半釋迦。總名也。有男根用。而不ㇾ生ㇾ子。二曰伊利沙半釋迦。此云ㇾ妱謂他行欲。卽發不ㇾ見。卽無ㇾ具男根。而不ㇾ生ㇾ子。三曰扇𣝸半釋迦。謂本來男根不滿。亦不ㇾ能ㇾ生ㇾ子。四曰博叉半釋迦。謂半月能男。半月不ㇾ能ㇾ男。五曰留拿半釋迦。此云ㇾ割。謂被ㇾ割刑。此五種黃門名。爲ㇾ人中惡趣受ㇾ身處。然周禮奄人。鄭氏註云。閹眞氣藏者。謂之宦人。是皆眞氣不足之所ㇾ致耳【摘要。】。この餘、「黃門《くわうもん》」の事は、「五雜俎」などにも見えたり。文、多ければ、亦、贅《ぜい》せず。

 

 

兎園小說餘錄第二

[やぶちゃん注:「篠齋」既出既注の殿村篠齋(とのむらじやうさい)。再掲しておくと、国学者殿村安守(やすもり 安永八(一七七九)年~弘化四(一八四七)年)の号。本姓は大神。伊勢松坂の商人殿村家の分家の嫡男。本家を継いで、殿村整方の養子となった。寛政六(一七九四)年に養父に倣って本居宣長に入門し、寵愛を受けた。宣長没後は本居春庭に師事し、盲目の春庭を物心両面から援助した。馬琴とは特に親しく、「南総里見八犬伝」や「朝夷巡島記」を批評し、これに馬琴が答えた「犬夷評判記」があるが、実際には、その殆んどは馬琴の手になったものではないかともされる(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「壬辰」(みづのえたつ)「冬十二月」は天保三年十二月。グレゴリオ暦では十二月一日でも既に一八三三年一月二十一日。

「曲妓」「くるわのあそびめ」で普通の「廓の芸妓」の意か。或いは「曲」は「くせ」で「悪い」の意で、下級の性質(たち)のよくない芸妓のことかとも思ったが、篠斉の書きぶりからは、そうした卑称とは思われない。

「最」ちゃんと。

『元服、「天窓」』元服して「天窓」と名乗っている。

「男の女」両性の生殖器を持って生まれた真正半陰陽か、男性仮性半陰陽(精巣組織を持つが内性器又は外性器が女性型であるもの)か、以上の記載では、よく判らない。

「間夫」ここでは「遊女の情夫」。

「琴魚」戯作者で、書簡の筆者殿村安守の弟にして馬琴の弟子の櫟亭琴魚(れきていきんぎょ 天明八(一七八八)年~天保二(一八三一)年)。伊勢松坂生まれ。名は精吉。文化五(一八〇八)年に馬琴の門に入った。兄と師が共同執筆した「犬夷評判記」(馬琴の「南総里見八犬伝」と「朝夷巡島記」の批評と馬琴自身のそれへの回答の形式をとる評論物)を校訂。浮世絵師合川珉和(あいかわみんわ)とも親交があった。作品に「刀筆青砥石文」などがある。

「吉五郞」本「兎園小説余禄」で先行する「僞男子」に登場する、男装の真正の女「吉五郞」のこと。

「半月(ふたなり)」真正半陰陽・男性仮性半陰陽・女性仮性半陰陽(卵巣組織をもつが陰核肥大などの男性化性器を有するもの)を総て含むもの。

「上半月《うへふたなり》男體《をとこのからだ》にて、下半月女體《をんなのからだ》なるも、あり」見た目は男性であるが、生殖器が女性のものである男性仮性半陰陽であろう。

「陰門と男根と相具するもの」真正半陰陽のアンドロギュヌス(Androgynous)。

「發起」勃起に同じ。

「禽獸の陽物の如し」馬などで見られるように、大きく伸び上ってエレクトすることを言っている。

「荆婦」自分の妻を言う際の遜卑称。

「廷孔」膣。

「下に居よ」「しゃがんで座っていなさい。」。

「『「半月(ふたなり)」は、嗣《つぎ》、なし。』といふ。寔《まこと》に、しかなり」その後、この商人の家の男子は成人して妻を貰ったが、結局、子は出来なかったということを指す。「齋東野語」)さいとうやご)は宋末元初の文人・詩人周密(一二三二年~一二九八年)の随筆。「中國哲學書電子化計劃」の影印本こちらの当該部で校合したところ、「𣝸の字が底本も(へん)が「木」が「扌」になっていたので訂した。「閹」も「奄」とあるのを訂した。内容が内容だけに、かなり訓読が難しいが、頭から自然流で試みる。最初に言っておくと、以下に見る通り、仏典にちゃんと載るもので、「黃門」(くわうもん(こうもん))は、ここでは先の広範囲な半陰陽を指すが、本邦の隠語では、「受胎させることが出来ない性的な不具合(勃起不全や無精子症等の生殖不能症)を持っている男を指したり、「有婦の男子で、子のない人のこと」を「子(こ)を産(う)まん」を「黄門」に捩った謂いとされる。

   *

按ずるに、「齋東野語」【卷第十六。】に云はく、

『「大般若經」に五種の黃門(くわうもん)を載(の)せて云はく、『凡そ、「扇𣝸半釋迦(せんてつはんしやか)」と言ふ。唐音は「黃門」なり。其の類、五つ、有り。一(ひと)つを「半釋迦」と曰ふ。總名(さうめい)なり。男根を用ふること有るも、而れども、子を生ぜず。二(に)を「伊利沙半釋迦(いりさはんしやか)」と曰ふ。此れ、「妱」(しやう)とも云ふ。他行(たぎやう)を欲するを謂ひ、卽ち、發(はつ)することを見ず。卽ち、男根を具ふること、無し。而しれば、子を生ぜず。三(さん)を「扇𣝸半釋迦(せんきはんしやか)」と曰ふ。本來の男根の不滿なるを謂ふ。亦、子を生ぜず。四(し)を「博叉半釋迦(はくさはんしやか)」と曰ふ。半月(ふたなり)の能(のう)のある男(をとこ)を謂ふ。半月は、男たる能(あた)はず。五(いつ)に「留拿半釋迦」(るだはんしやか)と曰ふ。此れ、割れたるを云ふ。割刑(かつけい)にされたる者を謂ふ。此の五種、黃門の名たり。人として、惡趣に中(あた)れる身を受けたる處(ところ)なり。』

と。

 然(しか)れども、「周禮」(しうらい)の「奄人」(えんじん)の、鄭(てい)氏が註に云はく、

『眞(まこと)の氣藏を閹(あん)ずる者は、之れを「宦人」(かんじん)と謂ふ。是れ、皆、眞の氣、不足に致(いた)るのみ。』と。【摘要なり。】。

   *

判ったような判らぬ話だが、一寸だけ言っておくと、「他行(たぎやう)を欲するを謂ひ、卽ち、發(はつ)することを見ず」は、同衾するものの、コイツスを好まず、別なことを要求し、少しも興奮せず、実は男根を所有していない様態(男性仮性半陰陽)を言っているようだ。「本來の男根の不滿なるを謂ふ」は勃起不全であろう。「半月(ふたなり)の能(のう)のある男(をとこ)を謂ふ」真正半陰陽。「此れ、割れたるを云ふ。割刑(かつけい)にされたる者を謂ふ。此の五種、黃門の名たり。人として、惡趣に中(あた)れる身を受けたる處(ところ)なり」という最後まで読むと、これは所謂、宮刑(きゅうけい)、宦官(かんがん)のように男性生殖器を切断する刑を受けた者を指しているようには読める。「奄人」は宦官と同義。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。検索で三箇所ほど見つけたが、馬琴も引用していないのだから、私がやる必要はない。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 稻葉小僧

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○稻葉小僧

天明のはじめの頃、あだ名を「稻葉小僧」といふ盜賊ありけり。親は稻葉殿の家臣なりしが、その身、幼少より盜癖ありければ、竟《つひ》に親に勘當せられて、夜盜になりぬ。よりて、惡黨仲ケ間にて、「稻葉小僧」と呼ぶといふ巷說あり。虛實は知らず。かくて此もの、谷中《やなか》のほとりにて、町方定廻《まちかたぢやうまは》り同心に搦捕《からめと》られ、向寄《むかひより》の自身番へ預けられしかば、町役人等《ら》、索《なは》かけられしまゝ具して、町奉行所へ赴く程に、「不忍の池」ほとりにて、「内《うち》、逼《せま》りぬ、出恭《だいべん》せまほし。」といふより、そのほとりなる茶店の雪隱《せつちん》に入れたるに、厠《かはや》にありし程、竊《ひそか》に綁縛《ほうばく》の索を解《とき》はづして、走りて、池中に飛入《とびい》りつゝ、水底《みなそこ》をや潛りけん、ゆくへも知れずなりし、とぞ。「折から、薄暮の事なりければ、さわぐのみにて求獵《あさり》かねし。」といふ風聞、人口に膾炙しけり。この頃、葺屋町《ふちやちやう》の歌舞伎座にて、この事を狂言にとり組《くみ》て、殊さらに、繁昌したりき。世界は「お染久松」の世話狂言にて、市川門之助は、お染が兄の惡黨何がしと、お染と、二役の早がはり、大當り也【久松は市川高麗藏《こまざう》、是、今の松本幸四郞なり。久松の親、野崎の久作は、大谷廣次にて、淨瑠璃あり。】。お染が兄、縛られて率《ひか》るゝ折、索を脫《ぬけ》て池中へ飛入《とびいる》ると、やがて、お染になりて、花道の切幕《きりまく》より出《いづ》る「はやがはり」、惡黨と、美女子と、しわけたる新車《しんしや》【門之助が俳名。】を、人みな、うれしがりし也。この狂言は、五日も觀たり。今の世ならば、かゝる狂言は、必ず、禁ぜらるべきに、この比《ころ》までは、さる沙汰もなかりき。扨《さて》、彼《かの》稻葉小僧は、逃《にげ》て上毛《じやうまう》のかたへ赴きしに、痢病を患ひて、病死したりとぞ。程經て、同類の盜人の搦捕られし折、白狀、この事に及びしよし、當時、風聞ありけり。抑《そもそも》、件《くだん》の稻葉小僧は、前に錄したる「鼠小僧」と相似《あひに》たる夜盜にて、しばしば、大名がたの屋敷ヘしのび入りて、金銀・衣類・器物をぬすみとりしとぞ。かゝる窃盜の病死せしは、恨み也。その惡名の、當時、噪《かまびす》しかりしは、この兩小僧に、ますもの、なし。但《ただし》、稻葉小僧は、「逃《にげ》たり」といふより、その名、世に聞え、鼠小僧は搦捕られてより、その名、俄《にはか》に聞えけり。無益のことながら、錄して、もて、いましめとなすのみ。

[やぶちゃん注:「稻葉小僧」は当該ウィキによれば、『因幡小僧と記載されることもある』とし、天明五(一七八五)年に『捕らえられた当時』は二十一『歳であったという。名は新助といった』。『しかし、彼の出生や最期、名前の由来については、山城国淀藩』十万二千『石の城主稲葉丹後守正諶』(まさのぶ)『の家臣の子だったため』、『「稲葉小僧」と呼ばれたという説や、因幡国で生まれたために「因幡 → 稲葉」の名で呼ばれたという説など、諸説あり、またその多くが』、「田舎小僧」の『逸話と混同されていて、定かではない』。『稲葉小僧新助の口書の写し(筆者不明)には、稲葉小僧は稲葉丹後守の侍医の子で、幼少より甚だたくましく、熊坂長範の如き「兵(つはもの)とも相成るべき力量のもの」と記されている』という(以下、本篇を現代語で紹介しているが、略す)。『杉田玄白の』「後見草」(のちみぐさ:警世書。天明七(一七八七)年成立)では、『稲葉小僧の活躍が評判になったのは天明』五『年の春から秋にかけてで、人家の軒に飛上り』、『飛下る様は』、『天をかける鳥よりも軽く、塀を伝い』、『屋根を走ること、地を走る獣よりも』、『はやいと噂されたとある。どのような堅固な屋敷であっても』、『入り得ぬことなしとされ、御三卿の本殿を筆頭に薩摩藩、熊本藩、広島藩、小倉藩、津藩、郡山藩の他、時の老中である浜田藩松平康福や相良藩田沼意次の屋敷の御寝所、御座の間近くに』、『いつの間にやら忍び入り、太刀、刀、衣服、調度、それに』、一千金・二千金もする『宝を数多く盗みとったとされる。それを聞いた人々は』、『稲葉小僧は人間にあらず、妖術使いの悪党である』、『と噂した。稲葉小僧が捕まったのは』、天明五年九月十六日の『夜』、『一橋家の屋敷に忍び込んだ時のことであった。名も無い小者に捕えられ、奉行所に引き渡された稲葉小僧は、自分は武蔵国入間郡の生れの新助という男で年齢は』三十四『歳、片田舎の生れのため』、『田舎小僧と名乗っていたのが、聞き違いから』、『稲葉小僧と呼ばれるようになったと供述』し、『ほどなく判決が下り、稲葉小僧新助は獄門となった』とする。『玄白は、いかに平和の世とはいえ、たとえ戸締まりはしていなくとも、その御威勢に恐れ入って武家屋敷に忍び入ろうなどとは考える道理も無いはずが、それを容易に侵入する新助は「是ぞ誠に人妖」と評している。しかし、取調に対する供述で』、『稲葉小僧は、大名家というものは居間も寝所も戸締まりはせず、番士が警護しているといっても』、『他人の持ち場には関ろうとはせず、自分の管轄のみ守ろうとするのが「武家一同の風儀なり」として、忍び込むのは至って容易いことであったと語っている』。『また、盗むのは』、『金銀の諸道具や腰物(刀剣類)のみで、衣類には決して手を出さなかったのは、「顕れ安き故」つまり衣類は売却しても』、『足がつきやすい』から、『とも言っていたという』。『とある大名屋敷の寝所に忍び入り、そこにあった太刀を盗んだはいいが、余りの逸品であ』ったために、『上手く売却できず、仕方なく』、『穴を掘って地中に埋めたと自白したので、埋めたという場所から件の太刀を掘り出すのを、本多利明は目撃したという』とある。以下、「田舎小僧のエピソードとの混同」の項。『田舎小僧と稲葉小僧』は、『語呂が似ており』、『名も「新助」で、盗賊として活動していた時期が近く、両者とも大名屋敷に盗みに入ったことなどから』、二『人の逸話を混同して書いた記録は多い。曲亭馬琴は不忍池に飛び込んで逃れた新助を稲葉小僧とし、松浦静山は天明』五『年に獄門になった新助が稲葉小僧で、杉田玄白は田舎小僧が稲葉小僧と聞き間違えられたと記している』。『三田村鳶魚も、田舎小僧と稲葉小僧は』、一『人の泥棒に仕上げられたとしている。稲葉小僧は不忍池を泳いで逃げ』、『潜伏先で死んだのだから、本名も凶状も分からない。稲葉小僧は刀・脇差ばかり盗み、逆に田舎小僧は刀剣には手をつけなかったのに』、『申渡しには「金子並』(ならびに)『腰のもの、亦は小道具、反物、提げもの、衣類」を窃取したとあるのは』、『稲葉小僧の分まで罪を着せられたもので、これは稲葉家としても家中の人間から盗賊を出したとあっては外聞を憚るので、事実を塗抹すべく運動したのだろうと鳶魚は考えている』。『それに』、『田舎小僧より』、『稲葉小僧の方が聞えもよく、稲葉小僧の罪も背負わせた方が泥棒らしくなるので、よく芝居や講釈の材料になったとも鳶魚は語っている』とある。以下、馬琴も述べている「稲葉小僧を扱った創作物」の項があるが、私は歌舞伎が大嫌いなので、以下の注はそちらに任せ、一切注さない。悪しからず。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その8) / 「己丑七赤小識」~了

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの右ページ上段の後ろから三行目から。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。今回は、残りを総て一緒に電子化注した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

一、三月廿一日の大火に奇なる事あり。

 本町三丁目【一丁目の方より左り側中ほど。】の賣藥の建看板《たてかんばん》、火中に燬《やかるる》を免れて、聳然《しやうぜん》たり。こは、余も目擊したるに、看板の覆戶《おほひど》はさら也、柱に至るまで、毫も焦《こげ》たる處、なし。この邊《あたり》は、みな、藏造りにて、向ひも、三、四軒、店庫《たなぐら》なればなるべし。さるにても、火粉《ひのこ》は飛散りたらんに、かくの如きは、いと奇也。

[やぶちゃん注:「本町三丁目」現在の新日本橋駅前郵便局前の国道十四号一帯。

「看板の覆戶」ネットで調べても見当たらないが、その高く建てた店看板をさらに覆う格子戸或いは金属の網目戸が付随していたものか。]

 又、和泉橋のあなた南の土手際に、さゝやかなる柿葺屋《こけらぶきや》あり。そのほとりなる茶店は、なごりなく燒《やき》うせて、寸草[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版にはママ注記がある。「寸毫」の誤字か。]も殘さゞりしに、此小家のみ、燬を免れたり。こゝは、火元より、第一の火さきにて、風のいと烈しかりければ、火は向ひへ走る勢ひにて、彼《か》家に及ざりしにやあらん。かゝることは、折々なきにあらねば、奇とするに足らねども、本町なる建看板は、見る人每に駭嘆《がいたん》せざるは、なかりき。

[やぶちゃん注:「和泉橋」現在の東京都千代田区を流れる神田川に架かる、「昭和通り」(国道四号)上の橋。左岸(北側)は神田佐久間町一丁目及び神田佐久間河岸(本大火の出火元)、右岸は神田岩本町および岩本町三丁目となる。ここ

 以下、一行空けた。]

 

一、築地なる御救小屋《おすくひごや》は、後に愛宕下《あたごした》へ移されけり。

 是は夜中に、燒亡の幽靈、あらはれて、怪しき事ありて、其處にをるもの、すくなくなりしによりてなり。

 四月中旬、築地の海にて、「河施餓鬼(かはせがき)」ありけり。

 しかるに、件《くだん》の幽靈は、贋物にて、人を驚かして、物を奪ひとらんと欲せし盜賊の所爲なりき。その事、露顯して、盜人は搦捕られたるよし、當時、風聞あり。

 虛實、詳《つまびらか》ならざれども、御救小屋を他所へ移されし事などを思ひ合《あは》するに、虛談には、あらざるべし。

 彼本町なる賣藥の看板の事と、この幽靈の事は、「薪の煙《けぶり》」に漏らされたれば、『後の話柄の爲にも』と思ふばかりに、しるすのみ。

[やぶちゃん注:「御救小屋」(その4)で既出既注だが、幽霊の話が出るので再掲しておく。この「文政の大火」の際、幕府が緊急に設けた避難民の避難所。「国立公文書館」公式サイト内の「天下大変 資料に見る江戸時代の災害」の「32. 文政回禄記」を見られたい。直後に発生した怪談話も載っている。

「愛宕下」現在の港区新橋から西新橋へかけての地域で、愛宕山の東側、東海道と挟まれた低地一帯の名称。大名屋敷が多かった。

「河施餓鬼」主に水死人の霊を弔うために川岸や舟の上で行う施餓鬼供養。私の「小泉八雲 海のほとりにて  (大谷正信訳)」も参考になろう。

「薪の煙」既出既注。「薪」は「たきぎ」か「まき」かは、不明。

 以下一行空けた。追記記事で、底本では全体が一字下げとなっている。]

 

 每年、相摸《さがみ》より、江戶の武家、及《および》、市店《いちみせ》へ、下女奉公に出るもの、八、九百人あり。麹町《かうぢまち》には、「さがみや」と唱へて、それらが手引をなし、且、請人《うけにん》にもなりて、世渡りにするもの、二軒あり。

 しかるに、こたびの火災に、右の下女等《ら》、多く燒死したるをもて、怕《おそ》れて、相摸より出《いづ》る下女、稀になりたり。

 但《ただし》、相摸のみならず、江戶近郊よりも、農戶《のうこ》の娘を、江戶へ召仕《めしつかひ》に出《いだ》すことを、欲せず。

 この故に、己丑の春より、今に至るまで、下女奉公人、まれなり。たまたま、ありても、過分の給金をのぞみ、よろづ己がまゝにして、主《あるじ》を主とも思はず、吾《われ》ごとき、わづかに下女一人を使ふものすら、年中、事をかくまでになりたり。羹《あつもの》に懲《こ》りて韲《なます》を吹く人情、かゝる事、世に多かり。

[やぶちゃん注:江戸の大火での大量死が風聞として伝わり、こうした結果になったと言った感じが表向きはするが、実際には、馬琴の不満は、そうした江戸の辺縁から来る下女の質の悪さの方を、実は、言い添えたかった感が強いな。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その7)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの左ページ上段の十四行目から。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

○燒死の尸骸《しがい》の多かりしは、木挽町の橋のほとり、三十間堀の川筋、八町堀桑名候の長屋の下の溝などには、幾人たりともなく、ありけり。

[やぶちゃん注:「木挽町の橋」木挽町は既出既注当該「江戸切絵図」で、北から「紀伊國橋」、「新橋」、「木挽橋」。

「三十間堀の川筋」木挽町の川を隔てた西側。上記「江戸切絵図」参照。

「八町堀桑名候」既出既注。]

 劣甥《れつせい》[やぶちゃん注:「甥」の遜卑称。]田口某、次の日、主君の使者に出《いで》て、そこらを目擊しけるに、

「燒《やけ》ふすぼりたる尸骸は、頭毛・衣裳、燒うせ、黑くふすぼり、いと、ちいさくなりて、男女を分別しがたし。『犬か』と思ひて、よく見れば、みな、是、人の尸骸也。」

と、いひけり。

[やぶちゃん注:「劣甥」「甥」(おい)の謙遜卑称。]

 この他、本町《ほんちやう》すぢ・日本橋・小田原河岸《がし》などにも、燒亡のもの、多くあり。吾家へ日每に來ぬる魚《うを》あき人《びと》の、四、五日の間は、

「けふも、小田原河岸にて、『灰を搔く』とて、死人をほり出し候ひき。」

などいふことの、しばしば、耳に入りたりき。

[やぶちゃん注:「本町」江戸本町。現在の中央区日本橋本町二・三丁目、日本橋室町二・三丁目、日本橋本石町二・三丁目。この中央附近

「本橋」ここ

「小田原河岸」中央区築地六丁目。隅田川右岸。本願寺南東に接する。

「吾家」ここで言っておくと、後で馬琴自身が言っているが、馬琴はこの時、神田明神下石坂下同朋町(現在の千代田区外神田三丁目の秋葉原の芳林公園付近)に家を建てて興継らと住んでいた。]

 或は、稚《をさな》きものを脊負《せおひ》ひて、七、八才なる子の手を挽きながら、倒れ死したる婦人あり。

 或は、

「妻と、子どもの、ゆくへ、知れず。」

とて、尋ねあるくものありと、聞えしも、日每のやうなりき。

 そが中に、吾居宅のほとり近き、あき人【伊勢屋。】がり、脫《のが》れ來ぬるものも、妻と子どものゆくへ、知れざりしに、二、三日を歷て、

「紀州の御藏屋敷の、灰の中より、ほり出《いだ》せし。」

と聞えけり。こは、木挽町に、をりしものにぞ有ける。

 かくて、やよひ廿六日は、吾先考《わがせんかう》の祥月忌《しやうつきき》なれば、菩提所へ詣《まうで》たるかへるさに、鳶坂《とびざか》なる茶店に憩ひしに、茶店の老婆が問ずがたりに、

「こたび大火の折、ゆくへしれずなりしものも、多かるべし。きのふ、こゝにいこひ給ひし木挽町なるあき人の、

『妻と子どもを尋ねて、きのふ迄、四、五日、尋《たづね》あるき候へども、些《いささか》の便りを、得ず。けふは、淺草わたりより、山の手を尋ん。』

とて出《いで》たる也。家を亡《うしな》ひ、本錢《もとぜに》をうしなひ、妻と子どもさへ喪ひては、何を、よすがに、世渡りをせん。せめて、かれらが亡骸也とも、見まほし。」

といはれし。」

と、いひにき。

[やぶちゃん注:「吾先考の祥月忌」私の父の祥月命日。馬琴(本名瀧澤解(とく))は旗本松平信成の用人瀧澤運兵衛興義(おきよし:当時四十三歳)・門(三十歳)夫妻の五男として明和四年六月九日(一七六七年七月四日に生まれた。父興義は、安永四(一七七五)年三月二十六日、馬琴九歳の時に亡くなっている。]

 おもふに、これらも彼《かの》御藏屋敷へ、火をのがれんとて、其處《そこ》にて燒死したるにはあらぬか、是も亦、知るべからず。

 近來は江戶の良賤、みな、火災に熟《な》れて、進退、遲鈍ならざるべきに、こたびは、多く、うろたへて、死するものゝ千百に及びしは、家財に殉ずると油斷して、火に包まれし故也。日ごろより、士人たるもの、火災の折の進退に用心して、其期《そのご》に及びて慾に惑《まど》はずば、かくまでには、あるべからず。

[やぶちゃん注:「家財に殉ずる……」「家財を第一に守らんとする結果、どこかで命を守るという大切な基本に油断が及び、おめおめと火にまかれて、亡くなったのである。」の意か。]

 吾身は江戶に生れて、ひとたびも、類燒しつること、なければ、幸にして、この苦を知らず。明和九年の大火の折は、年甫《ねんぽ》六歲にて、親はらからと共に深川にありければ、彼《かの》燬《くゐ》を免れたり。又、文化丙寅《ひのえとら》の大火の折は、飯田町に在りければ、亦、免れたり。かくてこたびの大火には、神田明神下に在るをもて、さわぐ程の事も、なかりき。生涯かくあらんには、只、是、人間の一大幸《いちたいこう》といはまくのみ。

[やぶちゃん注:「明和九年の大火」「明暦の大火」(明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)まで江戸の大半を焼いた大火災。詳しくは当該ウィキを参照されたい)に次ぐ「江戸三大火」の一つ「明和の大火」「目黒行人坂(ぎょうにんざか)の大火」。安永元(一七七二)年二月二十九日昼過ぎ、目黒行人坂大円寺より出火、西南の強風に煽られ、麻布・芝・郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草等に延焼、千住まで達し、翌晦日の夕刻、漸く鎮火した。また二十九日夕刻には、本郷丸山町より出火、駒込・谷中・根岸を焼いた火災もあった。延焼地域は長さ六里(約二十四キロメートル)・幅一里で、江戸の約三分の一に及び、延焼距離は江戸時代から今日までの最長とされる大火であった。

「年甫」正月。ここは「数え年」の意。

「燬《くゐ》」現代仮名遣の音で「キ」。「焼かるる」の意。

「文化丙寅の大火」文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)に江戸芝の車町(くるまちょう:現在の港区)から出火し、大名小路の一部、京橋・日本橋のほぼ全域、神田・浅草の大半を類焼した「江戸三大大火」の一つ。「車町火事」・「牛町(うしちょう)火事」(車町の別称)とも呼ぶ。死者は一千人を超え、増上寺・芝神明社・東本願寺なども被害を受けた。幕府は罹災者を御救小屋(おすくいごや)に退避させ、救済金を与え、火災後の諸色物価・高値(こうじき)取り締りなどの対策も講じている。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その6)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの右ページ下段の十一行目から。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

一、築地なる紀州の御藏屋敷に、逃籠《にげこも》りて、燒死したる男女《なんによ》、數、百十數人ありし事は、世の人のしる所也。

 そが中に、境の塀を乘越《のりこえ》つゝ、他所《よそ》へ脫《のが》れ出《いで》て、恙なかしりもの、一人、あり【名を忘れたり。】。そは吾媳《わがよめ》の親と相識《あひし》るものなりき。

 凡《およそ》、木挽町・築地わたりにすまひしものゝ、常にいひしは、

「紀州の御藏屋敷は、昔より、一とたびも類燒せざる所也。前は海にて、御藏、多く、棟《むね》をならべたれば、よしや、いかばかりの大火にても、件《くだん》の御藏のほとりにあらんには、燒死すること、なかるべし。」

とて、たのもしく思はぬは、なかりき。

 この故に、初《はじめ》、築地なる本願寺へのがれゆきしものも、其處《そこ》すら、危《あやふ》くなりし折《をり》、件《くだん》の御藏屋敷へ逃籠りしもの、多かりしに、餘炎、御藏にさへ、かゝりて、多く、御藏、燒失《やけうせ》ければ、もろ人、免るゝに路《みち》なくて、木石《ぼくせき》とともに、燒《やか》れしも尠《すくな》からず。或は、海に逃入《にげい》らんとして、溺死せしも、いくばくなりけん。

 それにはあらで、深川なる料理酒や平淸《ひらせい》が娘、十九歲、八町堀なる某候の奥方《おくがた》に給事(みやづかへ)してありければ、其親平淸、みづから、下男、三、四人を將《ひきい》て、はやく、件の屋敷へ、かけつけしに、

「鑑札《かんさつ》、なければ、内へ入れがたし。」

とて、門番人、許さず。

 しかるに、この娘も、

「召仕ふ下女とともに、彼《かの》船中にて、燒死したり。」

とて、次の日、深川なる宿《やど》へ、知《しら》せ來つ。

「尸骸《しがい》を引《ひき》とるべし。」

とて、呼《よば》れしとぞ。

 親の遺恨は、いかならん。

 この一條は、平淸としたしきものゝ、はなしなり。

[やぶちゃん注:「築地なる紀州の御藏屋敷」これは安易に認識してしまうと、とんでもない誤りを引き起こす。何故かというと、例えば、「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「築地八町堀日本橋南之圖」には、築地本願寺前の海際(真東。この図は右が北)に突き出たところに「紀伊殿」とあり、これは確かに紀州藩の蔵屋敷なのではあるが、この切絵図は、実は「文政の大火」よりも後のものなのである。而して、この事実関係を明確に明かして呉れるのが、サイト「和歌山社会経済研究所」の「紀州 in 東京(紀州藩江戸屋敷)」の「(8)築地邸(中央区築地6-20)」であり、そこに、『文政123月の火事で木挽町の蔵屋敷が焼失した後、同年6月旧南小田原町(現在の築地6丁目辺り)にあった旧堀田家中屋敷の敷地(6,320坪)を拝領した(「江戸史跡事典」新人物往来社)』とあることで、この本願寺海側の「紀州殿」蔵屋敷は、まさに「文政の大火」で、本篇に出るそれ以前の蔵屋敷がそこに語られるようにテツテ的に焼け果てた結果として、紀州藩が「文政の大火」後に拝領した蔵屋敷なのである。そして、さらに時間が経って、『幕末も近くなると』、『黒船来航など海外からの開国要請が強まる中、幕府は防備と海軍力を強化する必要に迫られ』、『築地の紀州藩蔵屋敷は江戸の中心部に近く、海の玄関にあたる好立地であったため、安政3年(1856年)幕府の講武場(幕府の武芸訓練機関。後、講武所と改称。)が設けられたときに、紀州藩は幕府に返上したのではない』『か』とあって、『翌年、長崎海軍伝習所の一部が移転してきて、講武所の中に軍艦教授所(後、軍艦操練所と改称)が開かれ』、『勝海舟やジョン万次郎達が教官となり、咸臨丸などが練習船となった時代で、大慌ての海軍創設期』となったとあるのが、ここの歴史なのである。事実、私の所持する「江戸切絵図」嘉永年間(一八四八年~一八五三年)版の文久元(一八六一)年改正再刻版では、ここは最早、「御軍艦操練」となっているのである。

 では、ここで言っている「御蔵屋敷」はどこなのかというと、前のリンク先の「(6)木挽町邸(中央区銀座1-19202-1216)」がそこのなのである。そこの解説に、『拝領時期が定かではない』が、『慶長17年(1612年)という説もあり、そうなると』、『一番古い紀州徳川家の江戸屋敷かもしれ』ないとされ、『「南紀徳川史」によると、この屋敷は前後両度御拝領とあり、何故か宝永5年(1708年)に返上し直ぐ再拝領してい』とある。そしてここは、『紀州から船で海上輸送されてきた物産(松脂、椎茸、鰹節、塩鯨など数十品目)を納入・保管していた蔵屋敷として使用されてい』『た(「江戸史跡事典」新人物往来社)』とあるのである。これは、『大坂冬の陣・夏の陣の23年前で』、『未だ徳川幕府が政権不安定な時代』であり、『江戸城を築城し』、『防備を固めることが最優先課題であり、江戸の“町づくり”も急がれた時代』でもあった。『早い段階から蔵屋敷が準備されていたことには、徳川幕府が戦闘集団でありながら、経済的な基盤を固めるための施策にも長けていたことの現われかと関心を惹かれ』るとある。『なお、物産は紀州家出入りの特権商人(栖原屋角兵衛と紙屋庄八)によって売り捌かれていた』。但し、『今はこの蔵屋敷跡(銀座2丁目の東半分に相当)に何の痕跡も残されて』おらず、『寛永9年(1632年)の寛永江戸図には「紀伊大納言様御蔵屋敷」が三十間堀の南側に記載されてい』るという。『三十間堀には藩が架橋したと言われる「紀伊国橋」が架かっており、対岸には銀貨を鋳造していた「銀座」の表記が読み取れ』るが、『この三十間堀は戦後埋立てられてしまい』、『「紀伊国橋」も撤去され』、『影も形も』ないそうである。さて、この以下が重要なポイントで(太字は私が附した:☞)、『この地図で面白いのは』、『蔵屋敷の南側は』、『直ぐ』、『海として描かれてい』るとあって、『江戸初期で』ある『から』、『築地の埋立が終わっていなかったので』(☜)あろうと推定されておられる。「文政の大火」の前年の『文政11年(1829年)分間江戸大絵図・栖原屋茂兵衛版にも同じ場所に中屋敷の表示をつけて、紀伊国橋ともども記載されて』おり、『寛永江戸図では海であった場所が』、『この分間江戸大絵図では武家屋敷地となってい』る。『しかしこの屋敷も、この翌年、神田佐久町からの火事で類焼失してしま』うとあるのである。これこそが、本編で語られる焼け落ちた「紀州蔵屋敷」であることが判明するのである。

 而して、そこに示された地図に従うと、この「文政の大火」で焼失した蔵屋敷があった場所は、中央区役所の北西の銀座二丁目の角辺りであり、南南東六百メートル圏内に築地本願寺があることが判るのである。先の「江戸切絵図」の本願寺左上方に「板倉周防守」の邸があるが、その上にある「二丁目」が「木挽町」のそれである。ここが本篇の舞台だったのであり、「文政の大火」の時でも、この辺りまで、海が、運河を広くした形で、深く貫入していたのである。

「吾媳《わがよめ》」馬琴の嫡男興継の嫁の土岐村 路(ときむら みち 文化三(一八〇六)年~安政五(一八五八)年)。後年、曲亭馬琴の筆記助手を務めたことでとみに知られる。当該ウィキによれば、『紀州藩』(☜)『家老三浦長門守の医師・土岐村元立(げんりゅう)の次女として神田佐久間町』(☜:「文政の大火」の出火元)『に生まれる。はじめ』、『鉄と名づけられ、手習い、三絃を学ぶが』、『三絃を好まず』、『舞踊を学ぶ。姉とともに』摂津国尼崎藩第五代藩主『松平忠誨』(ただのり)『邸に仕える。その後』、『江戸城に勤め』、二十一『歳で父の許にあり、文政』十年、二十二『歳で曲亭馬琴の嫡子滝沢宗伯興継に嫁し、みちと改名する。嫡男太郎興邦のほか』、『二女を儲け』たが、天保六(一八三五)年に宗伯は亡くなってしまう。翌』『年』、『神田信濃町で馬琴夫婦と同居す』るようになり、天保一〇(一八三九)年『前後より』、『馬琴の眼疾が進み』、『遂に』失明『に至るが、路は』、『その口述筆記を行い』、『時に琴童の名で代作も行』った。但し、馬琴の妻会田氏の娘「お百」が彼女に嫉妬し、なかなかな修羅場であったらしい。

「鑑札」「八町堀なる」「某候」(=大名)の屋敷内に入ることを許されている許可証。]

2022/10/21

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その5)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの左ページ下段の終りから七行から。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

一、この日、茅場町《かやばちやう》にて火に包まれて、「鎧《よろひ》の渡」の川へ逃のびたる、男三人、女一人、ありけり。

 「砂場蕎麥《すなばそば》」のほとり、こなたの河岸《かはぎし》の家どもの、燒《やく》るまにまに、火の粉、ひまなく、降りかゝりて、かくても、凌ぎがたかりしかば、その男等《をとこら》が、女にむかひて、

「おん身のもて來ぬる葛籠《つづら》の内には、衣《き》もの、あるべし。とり出《いだ》して、われらにも、貨し給へ。水に浸《ひた》し、頭に被《かぶ》りて、火を防《ふせが》ん。」

と、いへば、女、こたへて、

「問《とは》るゝごとく、この葛籠には、きものゝみあり。命だにたすかることならば、何をか惜《をしま》ん。ともかくも、し給へ。」

といふ。

 男等、歡びて、葛籠の鎖《かぎ》を、こぢ、ひらきつゝ、上なる衣《ころも》、四つばかり、取出《とりいだ》すに、みな、縮緬袖《ちりめんそで》・八丈縞の、まだ、巳の時ばかりなりしを、手に手に、わかちとりて、女にも、ひとつ、とらせ、各《おのおの》、件《くだん》の衣を、水にひたしつゝ、頭にうちいたゞきて、火の粉を防ぐに、火氣《ひのけ》にて乾くを、いくたびとなく、水にひたしては、うちかむりつゝ、からくして恙なきことを得たり。

 只、この資《たす》け、あるのみ、ならず。

 はじめ、川へ逃入《にげい》りし折《をり》、水中に、大八車、二、三輛、ありけり。

 これは、そのほとりなる車力《しやりき》の、石を、おもりにつけて、沈め置きし也。

 件の男女は、この車の上にのぼりをり。よりて、水に溺れざりき。女の背負ひ來《き》ぬる衣つゞらも、この車の上に措《さしおき》たれば、身を放ちても、流れず。

 扨《さて》、火の鎭りて、川より出《いづ》る折、女のゆくてを問ふに、

「本所なる所親《しよしん》がり、赴く。」

よし、聞えしかば、濡らせし衣どもは、みな、よく絞りて、葛籠に收め、

「此衣のありたればこそ、からくも恙なきことを得たれ。報恩の爲、送りゆかん。」

とて、一人、件の葛籠を背負《せおひ》て、女を、本所なる所親がり、送りしとぞ。

 この一條も、吾婿《わがむこ》、渥見某と踈《うと》からざりし牧野殿の家臣の話にて、來歷あり。浮《うき》たることにはあらざる也。

 又、只、この事のみならず。

 茅場町の向ひ河岸、小網町《こあみちやう》にても、火に包《つつま》れて、川へ逃入りつゝ、水火の爲に死《しし》たるもの、すくなからず。

 小網町一丁目なる西野屋といふあき人《びと》の組合の家主の子も、死して三日の後《のち》、件の川より、尸骸《しがい》を得たり。

 かゝること、なほ、多くあり。

 燒死の人のうへには、あはれなるもすくなからねど、只、風聞のみにして、來歷、定かならざるは、省《はぶ》きつ。

[やぶちゃん注:「茅場町」中央区日本橋茅場町附近

「鎧《よろひ》の渡」日本橋川の渡し。東京都中央区日本橋兜町のここに跡がある。リンク先のサイド・パネルのこちらの画像で中央区教育委員会の説明版が視認出来るので、読まれたい。

「砂場蕎麥」ウィキの「砂場(蕎麦屋)」によれば、『大坂を起源とする蕎麦屋老舗のひとつ』で、『蕎麦屋の老舗としては、更科・藪とあわせて』三『系列が並べられることが多い』とし、『名称の由来は、大坂城築城に際しての資材置き場のひとつ「砂場」によるものとされる』ものの、『砂場(大坂)の正確な創立年代はわかっておらず』、『諸説ある』とある(以下の成立年代等はリンク先を読まれたい)。『江戸への進出時期についても明確な記録はないが』、寛延四・宝暦元(一七五一)『年に出版された』「蕎麦全書」に『「薬研堀大和屋大坂砂場そば」の名称が』、一七八一年から一七八九年に板行された「江戸見物道知辺」(えどけんぶつみちしるべ)に『「浅草黒舟町角砂場蕎麦」の名称が、それぞれ見られる』ものの、『大坂の砂場との関係は明らかではない』とある。

「車力」大八車の類いを牽いて、荷物の運搬を生業(なりわい)としていた者。

「吾婿、渥見某」前回、既出既注

「牧野殿」やはり前回既出既注の丹後国田辺藩第八代藩主牧野節成。

「小網町」東京都中央区日本橋小網町。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その4)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの左ページ中ほどから。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

一、又、海賊橋《かいぞくばし》なる牧野佐渡守殿の第《だい》は、市中に近ければ、火災を防ぐ爲にとて、長屋はさら也、厩・雪隱《せつちん》までも、瓦屋《かはらや》にせられて、杮葺《こけらぶき》はあることなかりしに、廿一日の大火の折《をり》、はやく、玄關なる板庇《いたびさし》に、火の飛移《とびうつ》りしを、もろ人、

「防ぎとゞめん。」

とて、なべて、其處《そこ》につどひし程に、火は、板塀にも、もえ移り、又、芥溜《ごみため》よりも燃起《もえおこ》りし程に、奧長屋にありける人々は、出口を失ひて、せんかたのなきまゝに、川手の小門《こもん》をひらきて見しに、屋根船一艘ありければ、人みな、これに乘りけれども、船やるべき棹なければ、鎗をもて、漕《こが》んとするに、風の烈しかりければ、船、覆《くつがへ》らんとしたりしかば、

「とく、屋根を、碎《くだ》き捨《すて》よ。」

と罵《ののし》るに、とみには、破るべくもあらねば、手に手に、刀を引《ひき》ぬきて、からくして、柱を伐《きり》たふし、船の屋根を、とり棄《す》て、一石橋《いつこくばし》まで漕退《こぎしりぞ》けり。

「このとき、危かりし事、述盡《のべつく》しがたし。」

と、いへり。

 此折、侯の奧方、立退《たちのき》、後《おく》れさせ給ひて、怪我ありしなど、風聞ありしは、そら言也。彼《かの》藩中には、下ざまのものまでも、恙なく、立退たり。

 只、土藏は、十七棟、なごりなく燒《やけ》うせけり。

 彼藩中の士、幾人か、吾婿《わがむこ》の同家中【宇都宮候。】に親族ありて、そが、小屋に退《の》き來つる人々の話說、

「かくのごとし。」

と聞《きき》にき。

 又、淀侯【稻葉。】の築地の中屋敷の土藏も、十數棟、燒《やけ》たり。

「その、くらには、武具を多く入れ置れしが、みな、烏有《ういう》になりし。」

といふ。是も吾婿の所親《しよしん》あれば、實說なり。

[やぶちゃん注:「海賊橋」「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「築地八町堀日本橋南絵図」[2-201]「海賊橋」で江戸切絵図の位置が判る。「位置合わせ地図表示」があるが、ちょっと判り難いので、グーグル・マップ・データで「海運橋親柱」をリンクさせておく。「海賊橋」は明治元(一八六八)年十月に「海運橋」と改められ、その後、「東京オリンピック」に向けた道路整備の一環で架かっていた「楓川」が埋め立てられたため、橋は消滅した。この異様に見える橋の名は「中央区」公式サイト内の「中央区民文化財24 海運橋親柱(かいうんばしおやばしら)」によれば、『東詰に海賊衆(幕府成立後は船手頭)・向井将監の屋敷があったことにちなむようで』ある、とある。

「牧野佐渡守」中村岳稲氏のサイト「按針亭」の「向井将監忠勝上屋敷跡」に、『向井将監忠勝上屋敷は、元海運橋(将監橋または海賊橋)東詰親柱(日本橋兜町3-11(三田証券)正面左手植込中)から北東方向で』、『現「東京証券取引所ビル」辺りにあったといわれる』。『向井将監忠勝は、向井一族に中で』、最『初に「将監」を名のり、もっとも華やかに活動した人といわれる』。『向井将監忠勝が寛永』一八(一六四一)年に『に没し、忠勝』の次『男直宗(忠宗)が継いだものの』、『忠勝没』の三『年後の寛永』二十一年に三十八歲で『病死』し、『その跡を継いだ直宗の子息・右衛門太郎某も正保』四(一六四七)年に『病死した』。『これにより』、『向井将監忠勝上屋敷であった邸は、翌慶安元年』(一六三八年)『に牧野内匠頭信成邸となり さらに慶安』三(一六五〇)年に『牧野信成の子息・牧野佐渡守親成の屋敷となった』とある。但し、この「文政の大火」の時は、牧野氏の後裔で丹後国田辺藩第八代藩主の牧野節成(ときしげ:但し、養子)の代であるが、彼は「佐渡守」ではなく、「河内守」なので、それは誤り。先の注の「海賊橋」の近くのそれも、「牧野河内守」となっている。

「一石橋」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「築地八町堀日本橋南之圖」の標題の右手にある(この図は右方向が北)。現在のここ

「吾婿の同家中【宇都宮候。】」馬琴の末娘(と思われる)鍬(くわ)は文政一〇(一八二七)年に宇都宮藩藩士で優れた絵師でもあった渥美覚重(雅号は赫州(かくしゅう))に嫁している。

「小屋」この「文政の大火」の際、幕府が緊急に設けた避難民の避難所「御救小屋」(おすくいごや:現代仮名遣)のこと。「国立公文書館」公式サイト内の「天下大変 資料に見る江戸時代の災害」の「32. 文政回禄記」を見られたい。直後に発生した怪談話も載っている(大災害のごく直後に怪談が囁かれるというのは、噂話としては現象的には珍しい部類に属すると思うが、実はその一部は幽霊に化けて避難民の所持品を盗もうとした輩がいたことが、本篇の最後(「その8」内)に記されてある)。

「淀侯【稻葉。】」山城淀藩稲葉家第十代藩主稲葉正守(在位:文政六(一八二三)年~天保一三(一八四二)年)。

「築地の中屋敷」淀藩中屋敷は築地木挽町にあった。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「築地八町堀日本橋南之圖」で判る通り、現在の築地本願寺の真ん前である。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その3)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの右ページ頭から。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

一、又、元飯田町中坂下なる湯屋《ゆうや》惣兵衞が姪【名は梅。】、そが、おさなかりし折、予も識れるものにて、辨慶橋のほとりなる疊や何がしの妻になりたり。此梅がいふよしを聞しに、かの日【三月廿一日。】、

「神田に火事あり。」

と聞《きき》て、風の、いと烈しければ、

「先づ、晝飯をたうべてこそ、家財を、とり片づけん。」

とて、あるじをはじめ、家の内のものども、飯をたうべてありしに、

「はや、一軒さきなる家に、火の、飛《とび》うつりたり。」

といふに、皆、さわぎ立《だ》つ程に、火は、急にして、物を出《いだ》すいとまもあらず、あるじは、錢箱ひとつ、引提《ひつさげ》て、妻もろ共に、逃出《にげ》けり。

 扨《さて》、京橋まで來にけるに、此わたりも、風下なれば、

「本所なる所親《しよしん》がり、いなん。」

とて、引《ひき》かへすに、京橋を渡る折柄《をりから》、人に推しもまれて、苦しさに堪《たへ》ざれば、橋の上より、錢箱を、川へ、

「はた」

と投棄《なげす》て、からかくして、兩國橋まで來にけるに、逃《にげ》まどふもろ人《びと》、幾千萬にやありけん、さしも廣大なる兩國橋は、人に、人、かさなりて、進退、自由ならざるに、火熖《くわえん》の、そびらの方より、降《ふり》かゝりて、頭の上に落《おち》かゝるもあれば、その艱苦《かんく》、譬《たとへ》るに、物も、あらず。このとき、心に思ふやう、

『錢・財・衣裳も、何にせん、只、この橋を恙なく渡り果《はて》なば、生涯の幸ひならん。』

と念ぜし、とぞ。

 さて、又、京橋にて棄《すて》たる錢箱には、あるじの名も、町名も、書《かき》つけてありければ、二、三日を經て、京橋なる町役人より、件《くだん》の錢箱を、とりあげ置《おき》たるよしを、辨慶橋の町役人に告《つげ》おこしにけり。

 よりて、あるじは、その錢箱を受取にゆきけるに、

「相違あらじと思へども、後々の爲《ため》なれば、家主《やぬし》もろ共に、書札《しよさつ》をしたゝめて、もて來よ。」

と、いはる。

 さばれ、家主のゆくへ、知れざりければ、親類、加印《かいん》の證文を、もてゆきて、件の錢箱を受とりし、といふ。

 是より先、廿二日の宵の程、あるじ夫婦は、

「吾家《わがや》の燒跡を見ん。」

とて、本所より、かへり來にけるに、人ありて、灰を搔起《かきおこ》しつゝ、火鉢・藥鑵《やかん》の類《たぐひ》の燒《やけ》たるを、とるもの、あり。

 あるじ、これを咎《とが》めしに、そのもの、聲をふり立《た》て、

「汝は、是、何ものぞ。吾《わが》燒失《やきうしな》ひし物を取るを、咎るは、賊《ぞく》ならん。近づかば、一打《ひとうち》ぞ。」

と罵りながら、突立《つきたて》たる朸《あふご》を、とり直したる勢ひに、妻はさら也、あるじさへ、怖れて、おめおめと取《とら》せしとぞ。

「『泰平の時だにも、かゝる折には、人をおそれぬ盜兒《たうじ》の多かるに、亂れたる世は、さぞありけん。』と、今さら、思ひあはせし。」

と、いへり。

 此疊やが町内の番人は、彼《かの》大火の折、火の見梯子に登りて、頻りに半鐘を打鳴《うちな》らしてありけるが、只、向ひのみを見て、火の近づき來ぬるを、知らず。扨、ありける程に、火の見の下なる家に、火は、もえ移りて、此やぐら【やぐらといへ共、梯子也。寬政の御改正以後、此やぐらばしご、町々にあり。】を燒く程に、くだることを得ざりけん、燒鎭《やきしづま》りて後《のち》に、人々、これを見しに、件の番人は、燒死したるか、みづから、飛《とび》おちたるにや、膝を折布《をりし》きたるまゝにして、倒れも、えせず、ありけると也。すべて、高きより、飛《とび》たるものが、死するといふとも、倒れず、といふことは、かさねて聞《きき》たることながら、此番人の死ざまにて、その事實を知るに足れり。

[やぶちゃん注:「元飯田町中坂下」現在の東京都千代田区九段北一丁目和洋九段女子中学校・高等学校の「講堂・体育館・プール」の入り口の前に「中坂」の表示板が建っている。ストリートビューのここ。グーグル・マップ・データではここ。従って、「中坂下」は九段北一丁目交差点附近となろう。

「辨慶橋」神田松枝町と岩本町の間を流れる藍染川に架けられていたが(現在のこの附近)、明治に入り、川が下水道工事で埋められたため、後に現在の東京都千代田区紀尾井町と港区元赤坂一丁目の間の弁慶堀上に架け替えられた。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「日本橋北之圖」の上部中央左附近の「和泉橋」を南南東に下った、小さな藍染川に架かっている([ 3-097 ])。この橋は、当該ウィキによれば、『江戸城普請に携わった大工の棟梁であった弁慶小左衛門が架けた橋に始まり、彼の名から「弁慶橋」と名付けられたと伝えられる』とあり、現行の「弁慶濠」とは元は関係なかった(というより、移設された橋の名が明治になって濠の名となったように思われる)ことが判る。

「京橋」橋も京橋川も現存しない。東京都中央区京橋のここ「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「築地八町堀日本橋南之圖」の上部中央の[ 2-131 ]

「兩國橋」ここ

「そびら」「背(そ)平(ひら)」の意で。背中。背後。

「書札」確かに本人であることを証明する家主の記載・署名による証明書きを添えた書付(かきつけ)。

「朸《あふご》」現代仮名遣「おうご」。天秤棒のこと。

「盜兒」泥棒。「兒」は子どもや青年の意味ではなく、接尾語で、「~を成す輩・男」の意。この場合は多分に卑称のニュアンスを持つように私には思われる。

「寬政の御改正」江戸中期に老中松平定信が在任期間中の天明七(一七八七)年(天明九年一月二十五日(グレゴリオ暦一七八九年二月十九日)に寛政に改元)から寛政五(一七九三)年に主導して行われた広範な分野に及んだ幕政改革「寛政の改革」。ここでは、火災の多く、その被害も甚大であった江戸の新しい都市政策の一環の中で行われたもの。但し、平凡社「世界大百科事典」に拠れば、江戸では、火の見『櫓のない町には』、『自身番屋の上に火の見梯子が設けられた。防火策として火の見櫓は画期的なものではあったが,たとえ町方が先に火災を発見しても,定火消の太鼓が鳴らぬかぎり,半鐘を鳴らすことは許されなかったという』とあった。グーグル画像検索「火の見梯子」をリンクさせておく。それを見て戴くと判る通り、現在でも地方には現存している。

「膝を折布きたるまゝにして、倒れも、えせず、ありける」膝を折ってちゃんと正座して上半身を立てて座ったまま、倒れずに、亡くなっていたということであろう。]

2022/10/20

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その2)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここから(右ページ上段五行目の改行部から)。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]

 

 按ずるに、この年、太歲己丑《たいさいつちのとうし》は、九紫《きうし》、中宮《ちゆうぐう》に入れり。九紫は、南方、火《くわ》を掌る。この年の月宿春三月は、三碧《さんぺき》、中宮に入れり。三碧は、東方、木《もく》をつかさどる。されば、月宿の三碧木、年宿の九紫火に入りぬ。

[やぶちゃん注:「太歲」ここでは単に以下の干支が「年」(とし)を指すことを表わすための冠字。本来は、古代中国の天文暦学に於いて、現在の「木星」の鏡像となる仮想の惑星名を指した。その木星は、十二年の周期で巡行すると考えられたことから、十二支の運行と関連して考えられるようになり、「太歳〇〇」の形で、後に示す干支によって歳=年を記す暦法が行なわれるようになったのである。

「九紫、中宮に入れり」私は一切の占いに興味がないため、九星術について判りたいとも思わないので、注する気があまり起らない。幸い、札幌市西区にある西野神社の公式サイト内のこちらに説明されてあり、また、占いサイト「ウラコレ」の「星気学」にも図を用いて、ここに出る「中宮」なども説明されてあるので、そちらを参照されたいが、小学館「日本国語大辞典」によれば、「九紫」は「九紫火星」(きゅうしかせい)で、『運勢判断でいう九星の一つ。南を本位とし、五行では火に、八卦』『では離(り)に属する』とある。後者リンク先によれば、『方位版はその時々によって配置が変わ』る『が、基本的な配列は五黄土星(ごおうどせい)が中心である「後天方位盤」というもので』あり、その盤の『中心を「中宮」と言い、ここにどの星が配置されるか』(移動してくるか)『により』、『方位や運勢を占うことができ』るとある。

「月宿春三月」以上のような私にはどこで切れて、どう読んで、何を言っているのか判らない。調べたが、判らない。悪しからず。取り敢えず「げつしゆく/はる/さんがつ」と読んでおく。ただ、以下の「三碧」というのは、小学館「大辞泉」に『九星の一。星では木星、方角では東。』とあるからして、これは年単位で「三碧木星」、月単位で「九紫火星」で、七星術では、既に年としては、火星が中宮に入っており、この春三月には(その月の単位の方が「月宿」という表現であるものか)、木星が中宮に入る、ということを指しているらしい。]

 こゝをもて、江戶の中央、みな、燒けたり。

[やぶちゃん注:五行思想に於いては、「木生火」(もくしょうか)で「相生」(そうしょう:順送りに相手を生み出して行く「陽」の関係を示す)であり、「木は燃えて火を生む」それが、中宮に入っているから、「中宮」のミミクリーで江戸の「中央」が灰燼に帰したのだ、と馬琴は言っているようである。]

 只、これのみにあらず、この春、三月廿一日、乙卯《きのとう》なり。乙は、丙、火《くわ》を生ず。卯も亦、木《もく》に屬す。

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、最後の「木」を「本」としているが、底本に従う。五行思想では十干・十二支を配置するに、「木」には「甲・」、「寅・・辰」が配されあるからである。この重合を、陰陽説では「比和」(ひわ)と呼び、これは、「同じ気が重なると、その気は盛んになり、その結果が良い場合には、ますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。」とされるのである。しかも、「乙」の次に従う「丙」は「火」に属するのである(ウィキの「五行思想」を参照した)。]

 且、この日の巳の時は、五不遇時《ごふぐうじ》に値《あた》れり。失火は四半時《よつはんどき》なれば、なほ、巳の終り也。乙卯の納音《なついん》は「水」なれども、大溪水《だいけいすい》なれば、火を制するに、力、なし。又、この日は閉也。閉は勾陳《こうちん》也。加ㇾ旃《しかのみならず》、月宿・天吏・致死・血支の惡殺に値れり。吉星《きつせい》は官日・嬰安・五合・鳴吠對の四星のみ。星殺《せいさつ》方位の吉凶も偶然にあらず。怕《おそ》るべし。

[やぶちゃん注:「巳の時」本大火の出荷推定時刻。午前十一時頃。

「五不遇時」これは五行説に基づいて形成された風水学で、日の十干と、時の十二支が、相克となることを指し(日の十干と時の十干とする記載もあったが、十干を時刻に当てるというのは不学にして知らない)、この時間帯に何らか行動が起こされると、そこに不和の大凶となる状態が生ずるとされる(諸風水学サイトを参考にした)。而して、この日は「乙」で、その五不遇時は、確かに巳時(みどき)で、午前九時から十一時に相当する。

 底本でもここは改行されてある。

「四半時」定時法で午前十一時。

「納音」現代仮名遣「なっちん」。「のういん(なふいん)」の連声(れんじょう)。甲子から癸亥にいたる六十干支を、五行の孰れかに帰属させるために、五音(ごいん:伝統的な中国音韻学に於ける声母(頭子音(とうしいん)))と音楽の十二律呂(じゅうにりつろ)とを組み合わせた六十律を当て嵌め、それによって、各干支の五行を定める法。基本的には宮(土)・商(金)・角(木)・徴(火)・羽(水)の五音五行によって五分するが、さらに甲子・乙丑は海中金、丙寅・丁卯は爐中火というような名称をつけ、三十種に細別する。運勢判断に用いられる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。「乙卯の納音」は確かに「大溪水」であるが、ネットでは人柄のことばかりで、「火を制するに、力、なし」に相当する内容は見当たらなかった。但し、そのある記載に、大河のような総てを呑み込む度量はない、と書かれていたから、「火(か)」には負けるらしい。

「閉」サイト「占いのお店 アプラボ」の「閉」では、「とづ」と訓読みしており、『金銭出納、建墓は吉。棟上げ、結婚、事始め、諸事一般は凶。』とあった。

「勾陳」「土」に属し、時では「土用」、方角では「中央」に対応する不動性を司る神で、土地・建物・愚鈍さなどを現わす(「コトバンク」の「占い学校 アカデメイア・カレッジ」の「占い用語集」に拠った記載を参照した)。

「月宿・天吏・致死・血支」「・」は私が打った。中文サイトの占いサイトの「凶神にして忌むべきもの」という意味のタイトルの中に、それぞれ、ばらばらにあった。調べる気になりません。悪しからず。

「惡殺」非常な凶を指す語らしい。「ココナラブログ」の昭晴 Akiharu氏の「【四柱推命神殺】自分の命式にある凶殺の影響力」の中に、四回、「悪殺」の語が現われる。但し、「殺」自体は「突発的に現れる運気」を言うフラットなものであるようだ。その昔、流行ったねぇ、天中殺とか……。

「官日嬰安五合鳴吠對」「・」は私があてずっぽで打った。「四星」とする内、「HITOSHIブログ!」の「擇日日家吉神 ―象意解説①―」の記事に、最後の「鳴吠對」があったことと、「J-STAGE」の黄智暉氏の論文「馬琴の吉凶観―『後の為乃記』を中心に―」(『近世文藝』八十五巻・二〇〇七発行・PDFでダウン・ロード可能)の47ページに、「後の為乃記」の引用があり、そこに黄氏が中黒を打って、『吉神は月徳合・五合・明堂・鳴吠対のみ』たるのを見出したからである。それぞれの星は調べる気にならない。悪しからず。それにしても……馬琴は大変な占い好きだったのだねぇ……六十五になる私は……神社の「おみくじ」さえも、今まで一度も引いたことがない輩なんでねぇ……

「星殺」星宿神のそれらしいが、もう、結構です、すみません。

 以下は底本でも改行している。]

 又、按ずるに、凡《およそ》、大火に及べるときは、火氣《ひのき》、地中に徹《とほ》るものなれば、井の水の、常のごとくには、涌出《わきいで》ず。河水も、多く、涸れて、潮も常のごとくにさし來《きた》らざるもの也。

 この日、八町堀なる桑名候に給事の女房は、役人、はからひて、門前より、船に乘せて、立退《たちのか》せんとしつるに、その船、ゆかず。とかくする程に、むかひ河岸《かはぎし》より、火熖《くわえん》、舶中にふりかゝりて、防ぐによしなく、乘船の男女《なんによ》、會《あはせて》、多く、怪我ありし、と聞えたり。

[やぶちゃん注:「八町堀なる桑名候」伊勢国桑名藩。当時の藩主は松平定永(さだなが)で松平久松家初代藩主。同藩の江戸上屋敷は、現在の八重洲通りの貫通するこの附近(グーグル・マップ・データ。以下、本篇で指示のないものは同じ)にあった。「江戸マップβ版」の江戸切絵図の「築地八町堀日本橋南繪圖」の中央やや右手に「松平越中守」とあるのが、それである。屋敷の西側を楓川(かえでがわ)が流れているのが確認出来る(現在は干拓されて存在しない)。]

 予が少《わか》かりし時、一老翁の言に、

「近火《ちかび》の折《をり》は、主人たるもの、はやく、臺所なる瓶《びん》の水、家のほとりなる溷(どぶ)にも、手をさし入れて、試るべし。その甁の水、溷の水、あたゝかならば、火事は、なほ、遠し、といふとも、はや、その火氣の、地中に入り來《きたり》ぬる也。さるときは、十に八、九は、脫《のが》れがたしと、知るべし。縱《たとひ》、火事は近くとも、瓶の水も、溷の水も、冷やかなるは、十に八、九は、燬《くゐ》を免るゝものぞ。」

と、いひにき。

[やぶちゃん注:「燬」現代仮名遣の音で「キ」。「焼かるる」の意。「やかるる」と訓じた方が古老の言葉としては自然かとも思う。]

 この儀を思ひ合するに、「己丑の大火」の日、井の水も、常のまゝならず、河の水も涸れて、潮水さへ匱《とぼ》しかりしこと、亦、偶然にあらずかし。

 又、按ずるに、「薪のけぶり」にしるされし、火災にあへる人々のうへなどは、或は、傳聞により、或は、見聞のまゝを載《のせ》たれば、『いかにぞや』と思ふも、まじれり。こゝには、親しく、その人に聞し事、或は、その人の所親《しよしん》の、予が爲にいへりしを、ふたつ、みつ、とり出《いで》て、しるすもの、左の如し。

[やぶちゃん注:「所親」親しい間柄或いは遠い親戚筋を指す語。

 以下、底本でも改行。]

一、元飯田町《もといひだまち》なる木具や惣兵衞といふもの、三月廿一日の大火の折、その所親、三十間堀なる親族何がしがり、走りゆきて、家財をとり出し、つかはしなど、しけるに、その家のほとりに、土藏、三棟《みむね》ありて、川に臨めり。こは、あるじの親方の土藏にて、あるじは、これを守るもの也ければ、家財は、この土藏を片どりて、みな、川端へ出《いだ》しにけり。かゝりし程に、その處も亦、風下になりて、火の、やうやう、近づき來にければ、

「こゝに家財は設《まうけ》がたかり。いづこにまれ、風脇《かぜわき》へ移せよ。」

といふを、あるじは、聽かで、

「この處は藏を盾《たて》にして、前は川也。何事のあるべき。」

とて、さわぎたる氣色、なければ、

「さて、おきつ。」

とて、する程に、いよいよ、火は、もえ來にければ、あるじも、今さら、おどろき、怕れて、

「かくては、こゝに凌ぎがたし。はやく、風わきへ、家財を移し給はれ。」

といふ。惣兵衞、

「こゝろえたり。」

とて、數町あなたへ、家財を移すこと、ふたゝび、既に、三たびに及びし折、件の土藏に、火の入りて、火勢、甚しくなりしかば、とりもて、退《の》かんとしぬる葛籠《つづら》を、そがまゝ、火中へ、うち棄て、走り去《さ》らまくする程に、火は、はや、川むかひへも、移りたり。むかひは、薪《たきぎ》、多く積たる處なるに、その薪に、火のうつりしかば、いづち、ゆくべき處も、あらず。已むことをえず、川へ飛入りたるに、折から、潮、そこりにて、水、涸れたれば、火を凌ぐに足らず、只、泥水の中へ、身をまろばしつゝ、

「焦《こが》されじ。」

と、したりとぞ。かゝる處に、誰とはしらず、五、六人、又、この川へ逃入《にげい》りて、どろ水を、身にそゝぐもの、ありければ、惣兵衞は、わがかたはらに、人の來ぬるを見かへりて、

「聊《いささか》こゝろづよく覺し。」

とぞ。この折、又、三十間堀の橋の下にも、五、六人、居《ゐ》たり。そを、こなたより見て、

「只今、あの橋、燒落《やけおち》なば、下《した》なる人は、必ず、死《しな》ん。やよ、こなたへ、來よかし。」

と、聲を限りに呼《よび》かくれども、烈しき風の音と、熚𤏋《ひはつ》たる猛火《まうくわ》の、物をやく、ひゞきに、まぎれて、得《え》聞えざりけん、なほ、その處にありける程に、果して、橋は、燒落て、その火、下なる人を打《うち》しかば、矢庭に死するもの、二人、ありけり。殘れる四人は泥の中に、くゞり入りなどしつゝ、からくして、死《しな》ざりけり。姑《しばら》くして、少し、潮のさし來にければ、川中なる人々、これに、ちからをえて、身に水をそゝぎつゝ、十死の中に一生をなん、得たりける。

 扨、惣兵衞は、そこらの火のやけ鎭《しづま》りて後《のち》に、川より出《いで》て、その夜《よ》、飯田町なる宿所にかへりしと云【己丑四月朔《ついたち》、惣兵衞と同町のもの、予が爲に、いひしまゝを、しるすものなり。】

[やぶちゃん注:「元飯田町」現在の千代田区富士見一丁目及び九段北一丁目

「木具や」「木具屋」「木具」は恐らくは足付きの折敷(おしき:歴史的仮名遣は「をしき」)である「足打折敷(あしうちおしき)」「木具膳(きぐぜん)」を作る職人である。

「三十間堀」現在の東京都中央区銀座通と昭和通の間を並行に流れていた三十間堀(現在は埋め立てられて現存しない)の西河岸にあった町名。北から南に八丁目まであった。「江戸マップβ版」の江戸切絵図の「築地八町堀日本橋南繪圖」の左上方(右が北)に確認出来る。

「走り去らまくする」上代語の助動詞「む」のク語法を転じた「まくほし」の持つ希望・遺志の意を示したものであろう。

「そこり」「底り」で名詞。潮が引いて海の底が出ること。潮干(しおひ)。干潮。

「熚𤏋」盛んに火が燃え、しかも、それが、跳ね、飛び散ること。

「得」不可能の呼応の副詞「え」の当て字。

「己丑四月朔」大火出火の九日後。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その1)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、標題は「つちのとうし しちせき しやうしき」と読んでおく。読み始めで判るので、先に言っておくと、内容は文政一二(一八二九)年三月二十一日昼前に出火した「文政の大火」の記事である。別名を「佐久間町火事」(さくまちょうかじ)「己丑(つちのとうし)の火事」ともいう。昼前の巳の刻過ぎ(午前十一時頃)、神田佐久間町二丁目の材木商尾張屋徳右衛門の材木小屋より出火し、西北の強風に煽られ、日本橋・京橋・芝一帯を焼き、その焼失面積は幅二十町(約二・二キロメートル)、長さ一里に及んで、翌朝、鎮火した。大名屋敷七十三、旗本屋敷百三十、町屋の類焼約三万軒、船や橋も、多数、焼失し、二千八百余名が焼死した(概ね、平凡社「世界大百科事典」に拠った。因みに、佐久間町一帯は材木商や薪商が多く、一丁目には特に前者が多くあったことから、「神田材木町」の俗称もあったが、扱う物が物だけに、火災の発生も有意に多かったことから、口の悪い江戸っ子は語呂合わせで「悪魔町(あくまちょう)」と呼んだりした。場所は「江戸マップβ版」の「江戸切絵図の「東都下谷繪圖」の左端中央にある「和泉橋」(神田川に架かる)を北(右)に進んだ直ぐの東西(南北)部分にあることが確認出来るはずである。グーグル・マップ・データで示すと、この中央部の国道一号の、西の少しと、東側に相当する)。「己丑」は以下に見る通り、文政十二年の干支で、「七赤」は中国伝来の暦・占いに用いられる九星術の星の一つ。「小識」は「ちょっとした覚え書き」の意。この文政十二年は九星術で「七赤金星」に当たる年であった。なお、しかも、出火したその日を調べてみたところ、今も和風の暦に附される六曜の赤口(しゃっこう/しゃっく)であった。「赤口」は一般に「仏滅」の次に縁起が悪いとされるもので、「赤」は、まさに火事や血を連想させるからでもある。

 この「文政の大火」についての現代の論考では、「J-STAGE」のこちらからダウン・ロード可能な災害間題評論家秋田一雄氏の「己丑火事と甲午火事」(『安全工学二十四巻・一九八五年第三号『談話室』内所収』が、事前に読まれる価値が十分にあるものと存ずる。氏はそこで、本「文政の大火」は「文化の大火」(通称「車町(くるまちょう)火事」)の代わりに「江戸の三大大火」の一つとすべき資格があり、『むしろそのほうが妥当かもしれない』とさえ評しておられる。是非、一読されたい。その本大火部分の解説は、そのまま以下の馬琴の本文への有効な注にもなるからである。

 

   ○己丑七赤小識

 文政十二年己丑春三月廿一日、江戶大火の顚末は、「八人抄」、「薪のけぶり」といふ二書に、しるしつけられたれば、今、亦、こゝに具《つぶさ》に、いふべくもあらず。さばれ、この火事の火元の事は、件《くだん》の二書にも、只、風聞によれるのみにて、實說を得ざりければ、予が聞く所をもて、詳《つまびらか》にす。

[やぶちゃん注:「八人抄」不詳。ネット検索でワードは勿論、いかなるフレーズで検索しても、いっかな掛かってこない。辛うじて、「グーグルブックス」の柴田光彦・神田正行編「馬琴書翰集成 第七巻」の画像の中に、「55」として『文政十二年十二月十四日』附で松阪の殿村『篠斉宛』の馬琴の書簡に書誌に、『『八犬伝』上帙、『秘書八人抄』発送覚』とあるのを最後の最後に見出した。これがそれか。或いは、馬琴の執筆になる「文政の大火」の記録なのかも知れない。

「薪のけぶり」「国文学研究資料館学術情報リポジトリ」の岩淵令治氏の論文「18 世紀の〈消防教訓書〉と江戸町人の消防意識」(『国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇』五十三巻十八号・二〇二二年三月発行・リンク先からPDFでダウン・ロード可能)の注22に、『「御坊主衆竹谷次春」作の写本で、国立国会図書館、東京都公文書館などの所蔵が複数確認できる。』とあった。]

 原《たづ》ぬるに、初《はじめ》、この火は、外神田佐久間町河岸《さくまちやうがし》なる、材木商人伏見屋と尾張屋が材木置場の堺垣《さかいがき》の邊より出《いで》たれど、猛烈風の折《をり》なれば、その火、忽《たちまち》に、材木に移りしかば、定かに見とめたるもの、あらず。

 扨《さて》、尾張屋の材木河岸には、秣屋某(まぐさや《なにがし》)が借用して、建措《たてお》くところの飼葉小屋《かいばごや》あり。この小屋より、火が發《おこ》れりなど、いふめり。

 この日、伏見屋構《かまへ》の河岸にて、

「津輕侯の普請を受負《うけおひ》たる、材木の伐組《きりぐみ》をす。」

とて、大工等《ら》、手斧《てうな[やぶちゃん注:現代仮名遣「ちょうな」。]》どりしてありしかど、

「巳の刻、少し過《すぎ》たる頃なりければ、いまだ、煙草休《たばこやす》みといふことも、せず。かゝれば、聊《いささか》にても、火をとり扱ひたることは、あらず。」

と、いふ。

[やぶちゃん注:「津輕侯」弘前藩の通称。当時の藩主は津軽信順(のぶゆき)。]

 又、尾張屋には、

「このあした、材木を買はんとて來ぬる客もなければ、わが構《かまへ》の河岸へ、出入りせしものは、なし。」

と、いひけり。

[やぶちゃん注:「あした」。朝。]

 されば、

「飼葉小屋より、出火せしならん。」

など、罵《ののし》り、爭ふ、のみ。

 さりとて、聢《しか》と見たることにはあらで、伏見屋が構の河岸にありける大工等すら、火の起りしを、しらでありしに、神田川を遡《さかのぼ》る船の篙師(ふなびと)が、はやく見いだして、

「云々。」

と呼《よばは》りしかば、これにぞ、件《くだん》の大工等も、駭《おどろ》き、譟《さは》ぎしことなれば、伏見屋と尾張屋と秣商人《まぐさあきんど》と、互《たがひ》に相爭《あひあらそ》ひて、果《はて》しなかりき。

[やぶちゃん注:前掲の秋田一雄氏の論考では、秣商人は示さず、前の二者を火元候補として挙げられた上で、『いずれが真実かわからないが』、尾張屋『のほうが正しそうな気がする』と記しておられる。根拠は記しておられないが、以下の馬琴の、町奉行の吟味部分の記事を読むに、腑に落ちる事柄が語られてある。

「篙師(ふなびと)」「篙」(音「コウ」)は「船を進めるための竹竿(たけざお)」の意。]

 かくて、件の三人と、初に火を見出したる笥師をも、町奉行所【榊原主計頭殿《さかきばらかずへのかみどの》御番所。】へ召呼《めしよば》れて、吟味ありしに、伏見屋・尾張屋がまうす趣《おもむき》は、右のごとし。又、飼葉屋が。まうすやうは、

「やつがれは、出入の大名方へ、月每に定目《ぢやうもく》ありて、秣を納め候に、居宅《きよたく》より、程遠く候へば、尾張屋が構の材木置場の内を、些《すこし》ばかり、借用して、小屋をしつらひ、件の秣を入置《いれおき》候のみ。この四、五日は、『秣納め』の定日《ぢやうじつ》に候はねば、秣小屋の戶を開きしこと、なく、勿論、件の河岸へ立入りしことは、候はず。しかれども、やつがれが秣小屋より出火したるや。この儀は見とめざることなれば、いかにとも、まうしがたし。」

と、いひけり。

[やぶちゃん注:「榊原主計頭殿」旗本で、当時は江戸北町奉行であった榊原主計頭忠之(明和三(一七六六)年~天保八(一八三七)年)。当該ウィキによれば、彼は『迅速かつそつのない裁決を行い、江戸市民から人気があった。北町奉行在任は』十七『年に及び、これは歴代江戸町奉行中でも長期にわたる』。江戸後期の儒者山田三川(さんせん)が記した著名人二百八十四名のエピソード計千百四十一話を集めた一種の伝記的随筆「想古録」では、『「前任者が七八年、時には十年以上掛かっていた採決を二三日で行ってしまう」ほどのスピード裁判であったと伝えており、長期にわたる訴訟で訴訟費用に苦しんでいた江戸庶民から歓迎された。また、在任中に鼠小僧次郎吉、相馬大作、木鼠吉五郎など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した』とある名奉行として知られた人物であった。]

 これも亦、まうす所、實情に近く、且、その理《ことわり》あれば、いづれとも、定めかねられて、なほ、再三、吟味あり。

 しかるに、尾張屋には、二軒の枝店《してん》あり。そは、尾張屋佐兵衞、尾張屋德右衞門とか喚《よばは》るゝものども也。前《さき》の德右衞門【イ佐兵衞。】は、本店なる尾張屋に、年來《としごろ》仕へたる老手代也ければ、主人の娘を妻《め》あはして、出店《でみせ》にはしたる也。しかるに、件の材木置場は、本店なる尾張屋が構の河岸なれども、今の德右衞門が借用して、その身の材木を置くことも、久しくなりぬ。かゝりし程に、この年三月廿日に、德右衞門が老母、病死してけり。これにより、その夜《よ》さり、年わかき手代二人、棺に建《たて》る花筒《はなづつ》に、

「竹を伐らん。」

とて、小夜《さよ》ふけしころ、張灯《てうちん》を引提《ひきはり》つゝ、件の材木置場にゆきて、竹を伐りしことあり。この事、主人德右衞門は、しらざりければ、

「はじめ、吟味の折、『材木置場へ出入せしもの、一人もあらず候。』とまうせしに、再三の吟味に及びて、この事ありと聞えしには、德右衞門は知らずといふとも、その前夜に、二人の手代が、張灯をものして、材木置場にゆきしことありながら、數度の吟味に及ぶまで、推默《おしだま》りてありしこと、不埓《ふらち》也。定めて、隱情《をんじやう》あるべし。」

とて、件の手代二人は入牢し、火元は尾張屋德右衞門に定められて、おん咎《とが》を蒙《かうむ》りつゝ、件の材木置場は、百日許《ばかり》の間、灰だも搔くことを許されざりき。

 かくて、二人の手代等《ら》、しばしば、拷問ありしかど、

「聊《いささか》も、手あやまちせし覺《ぼえ》、候はず。」

と、いく度も、まふす[やぶちゃん注:ママ。]ことの違《たが》はざりしかば、榊原殿も、

『冤なるべし。』

と、おもはれけるにや、秋に至りて、評定所へ召出さるゝ罪人の茶の給仕などにして、苦艱《くげん》なきやうに、ものせられしとぞ。

[やぶちゃん注:「隱情」この場合は、町奉行が、この時は、「主家及び支店主人に対する申し訳ないという思いから、不当にその事実実態を隠蔽しているのであろう。」と推断したのである。]

 この事、多く世の人は知らず。只、さまざまに風聞したる也。

 これによれば、この火災は、誰があやまちより發りしといふことは、詳ならず。實《げ》に、是、天災也。彼《かの》尾張やの本店のあるじと親しかりける和泉屋【外神田金澤町《かなざわちやう》の髮結の隱居。】の源藏といふ老人が、おなじ年の八月、予が爲にいふ所、右のごとし。

[やぶちゃん注:底本でも、ここで以下が改行されてある。

「外神田金澤町」千代田区外神田三丁目の内。右下方に出荷元の神田佐久間河岸を配しておいた。]

2022/10/19

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 大空武左衞門

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、今回は段落を成形した。

 なお、この「大空武左衞門」(おほぞらぶざゑもん)は講談社「日本人名大辞典+Plus」によれば、寛政八(一七九六)年生まれで、天保三(一八三二)年に享年三十七で亡くなった力士で、肥後出身、本姓は坂口。文政一〇(一八二七)年に江戸の勝ノ浦部屋に入り、土俵入りを専門に務めた。身長二メートル二十七センチ、体重百三十一キロの巨人ぶりが評判となって、「牛股」「牛またぎ」と呼ばれ、錦絵にもなった当時の著名人である。サイト「東京散歩トリビア」の「江戸に現れた巨人。大空武左衛門(おおぞら ぶざえもん)」が詳しい(画像・手形碑有り)。また、サイト「山都町郷土史伝承会」の「大空武左衛門と角盤」も参考になる。さらに、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらPDF)で、まさに滝沢馬琴の賛の付随した、かの渡辺崋山(馬琴及び長男興継とは親しかった)の筆になる「大空武左衛門肖像」(最初のリンク先の解説によれば、この原画は、崋山が、所謂、ピンホール・カメラの一種である「カメラ・オブスクラ」(本文に出る「蘭鏡」がそれ)を使用して描いたとある)の亀屋文寳(かめやぶんぽう:大田南畝の弟子で二代目蜀山人を名乗った。馬琴の親友で本文にも出る。本書刊行に先立つ文政一二(一八二九)年に没している)の写本(文政一〇(一八二七)年頃)を見ることができ、さらに同じデータベースのこちらHTML)では、同じ時期に歌川国安が描いた錦絵も見ることが出来る。まずは、それらを見られてより、本文を読まれると、より面白いと存ずる。

 底本の挿絵は、最大でダウン・ロードし、トリミング補正をして原画像よりも、より見やすくした。]

 

   ○大空武左衞門

 文政十年丁亥《ひのとゐ》五月、江戶に來ぬる大男、大空武左衞門は、熊本候の領分、肥後州《ひごのくに》益城《ましき》郡矢部庄《やべのしやう》田所《たどころ》村なる農民の子也。今茲《こんじ》、二十有五歲になりぬ。身の長《たけ》、左の如し。

[やぶちゃん注:「文政十年」一八二七年。

「熊本候」文政十年時は細川斉護(なりもり:在位:文政九(一八二六)年~万延元(一八六〇)年)。

「益城郡矢部庄田所村」熊本県上益城(かみましき)郡山都町(やまとちょう)田所(グーグル・マップ・データ)。

 以下、底本では、二段組であるが、一段で示した。]

一、身長、七尺三分。[やぶちゃん注:二メートル二十一センチ。]

一、掌、一尺。[やぶちゃん注:三十・三センチ。]

一、跖《あしのうら》、一尺一寸五分。[やぶちゃん注:三十四・八センチ。]

一、身の重さ、三十二貫目。[やぶちゃん注:百二十キログラム。]

一、衣類着、丈け、五尺一寸。[やぶちゃん注:一メートル五十四・五センチ。]

一、身幅【前、九寸。後、一尺。】[やぶちゃん注:「九寸」は約二十七センチ。]

一、袖、一尺五寸五分。[やぶちゃん注:約四十六センチ。]

一、肩行、二尺二寸五分。[やぶちゃん注:約六十八センチ。]

 全身、瘦形にて、頭、小さく、帶より上、いと長く見ゆ。

 右武左衞門は熊本老候御供にて、當丁亥五月十一日、江戶屋敷へ來着、當時、巷街說には、牛をまたぎしにより、「牛股」と號するなど、いへりしは、虛說也。

 「大空」の號は、大坂にて、相撲取等が願出《ねがひいで》しかば、侯より賜ふ、といふ。是、實說也。

 武左衞門が父母幷《ならびに》兄弟は、尋常の身の長け也とぞ。父は既に歿して、今は母のみあり。生來、溫柔にて、小心也。力量は、いまだ、ためし見たることなし、といふ。

 右は同年の夏六月廿五日、亡友關東陽《せきとうやう》が柳河《やながは》候下谷の邸にて、武左衞門に面話せし折《をり》、見聞のまにまに、書つけたるを寫すもの也。

[やぶちゃん注:「關東陽」「兎園会」会員で「海棠庵」で頻出する三代に亙る書家関思亮(しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の号。本書に二年先立つ天保元(一八三〇)年九月に三十六の若さで亡くなっている。

「柳河侯」筑後国柳河藩の当時の藩主は立花鑑賢(あきかた:在位:文政三(一八二〇)年~天保元(一八三〇)年)。]

 下《しも》に粘《ねん》する武左衞門が指掌の圖は、右の席上にて、紙に印《しる》したるを、模寫す。當時、「武左衞門が手形也。」とて、坊賣《ぼてぶり》の板《はん》せしもの、兩三枚ありしが、皆、これと、おなじからず。又、武左衞門が肖像の錦畫、數十種、出《いで》たり【手拭にも染出せしもの、一、二種あり。】。後には、春畫めきたる猥褻の畫さへ摺出《すりいだ》せしかば、その筋なる役人より、あなぐり、禁じて、みだりがはしきものならぬも、彼が姿繪は、皆、絕板せられにけり。當時、人口に膾炙して、流行、甚しかりし事、想像(おもひや)るべし。

[やぶちゃん注:「坊賣」「振り売り」のこと。笊・木桶・木箱・籠を前後に取り付けた天秤棒を振り担いで、商品(又は種々のサービス)を売り歩いた業者。その異称である「棒手売(ぼてふ(ぶ)り)」の当て字であろう。

「あなぐり」警邏(けいら)し。]

 しかれども、武左衞門は、只、故鄕をのみ、戀《こひ》したひて、相撲取にならまく欲《ほつ》せず。この故に、江戶に至ること、久しからず、さらに侯に願ひまつりて、肥後の舊里に、かへりゆきにき。

[やぶちゃん注:ここは底本も改行している。]

 當時、この武左衞門を、林祭酒の、「見そなはさん。」とて、八代洲河岸の第《だい》に招かせ給ひし折、吾友渡邊華山も、まゐりて、その席末にあり。則、蘭鏡《らんきやう》を照らして、武左衞門が全身を圖したる畫幅あり。亡友文寶、揃來《そろひきたり》て、予に觀せしかば、予は又、そを、文寶に摹寫《もしや》せしめて、一幅を藏《をさ》めたり。この肖像は蘭法《らんぱふ》により、二面の水晶鏡を掛照らして、寫したるものなれば、一毫も差錯《ささく》あること、なし。錦繪に振り出せしは、似ざるもの、多かり。さばれ、件《くだん》の肖像は、大幅なれば、掛《かく》る處、なし。今こそあれ、後々には、話柄になるべきものにしあれば、その槪略を、しるすになん。

[やぶちゃん注:「林祭酒」儒者で林家第八代林大学頭(だいがくのかみ)述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。「祭酒」は大学頭(幕府直轄の昌平坂学問所を管理した役職)の唐名。

「差錯」乱れや、誤りのこと。

 図の以下は手形の上にあるキャプション。底本のそれは全体がポイント落ちの一字下げで改行されて載るが、字間の乱れがあるので、字下げは一部に留め、解説部を続けて電子化した。]

 

Ohozora1

 

 大空武左衞門手形

  (原寸六分の一)

 文政十年丁亥夏六月廿五日、柳河候の邸にて、武左衞門が掌に、燕脂《えんじ》を塗りて、紙に印したるを摹寫す。當時、坊間にて板せし渠《かれ》が手形は、これと、同じからず。合せ見ば、玉石立地に分明なるべし。

[やぶちゃん注:「燕脂」「臙脂」とも書く。本来は、臙脂虫(えんじむし)の雌から採取する赤色染料を指し、ウチワサボテン属(ナデシコ目サボテン科ウチワサボテン亜科 Opuntioideae)のサボテンに寄生する有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科コチニールカイガラムシ科コチニールカイガラムシ属コチニールカイガラムシ Dactylopius coccus の虫体に含まれる赤色系の色素を抽出したものを指す。アステカやインカ帝国などで古くから養殖され、染色用の染料に使われてきた。本邦には棲息せず、現代ではメキシコに分布するが、古くはインド・西アジア産のものがあり、江戸時代に大陸から到来してはいる。但し、ここでは、強い赤い色の色名として用いられているもので、恐らくは、キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctoriusキク科ベニバナから精製された「臙脂」を指しているものと思われる。

「玉石立地」意味不明。「ぎよくせきりつち」と読んでおくが、「玉(ぎょく)と石(いし)くれほどの違いがあり、立ちどころに真贋は明らかになるはずである。」の意であろうとは思う。

 以下は彼の草履の模写の画像。キャプションは底本通り、前に持ってきた。]

 

 大空武左衞門所ㇾ穿裏附草履(原寸五分の一)

[やぶちゃん注:「大空武左衞門、穿(は)く所(ところ)の裏附草履(うらつきざうり)」。後もキャプション風に挟まっている。]

 

Ohozora2

 

 亡友海棠庵は、その性《しやう》、好事《こうず》なりければ、かゝるものすら、もらさず、蠟墨《ろうずみ》にて、草履のはしばしを搨《す》りて、その形を、とりおきにたるを摹寫す。

[やぶちゃん注:以下の後の二行もキャプション。]

 

Ohozora3

 

肥後國熊本在、矢部村、出生。牛股武左衞門、

亥廿六歲、身丈《みのたけ》七尺六寸。

[やぶちゃん注:以下、本文に戻る。箇条は「一」の後に続くが、読点を挟み、二段組を一段とした。データが異なるのは、最後に示された瓦版のようなものに拠ったからである。]

 

   武左衞門、人品、幷、「牛股」と名乘る事

一、年二十六歲。

一、身重さ五十二貫目。[やぶちゃん注:底本には「五十」の右にママ注記がある。百九十六キログラムは流石におかしい。]

一、身の長《たけ》、七尺六寸。[やぶちゃん注:二メートル三十センチ。]

一、かほ、長《ながさ》、二尺二寸。[やぶちゃん注:三十六・三センチ。]

一、手首より中指迄、一尺二寸。[やぶちゃん注:約三十六・四センチ。]

一、たび、長、一尺四寸。[やぶちゃん注:四十二・四センチ。]

一、兩手を合せ、米、一升三合、入《いる》。[やぶちゃん注:米の重量換算で一キロ九百五十グラム。]

一、こし、巡《めぐ》り、八尺一寸。[やぶちゃん注:約二メートル四十五センチ。]

 熊本より二十里ほど、東の方、矢部むらの出生也。しぜんと、太守の御聞《ごぶん》にたつし、

「御らん被ㇾ遊度《たし》。」

との上意に付、衣類・上下《かみしも》を下さる。其寸法、着丈《きだけ》、六尺二寸[やぶちゃん注:一メートル八十八センチ弱。]、袖、二尺三寸[やぶちゃん注:約三十九・四センチ。]。

「酒食をあたへ、酒と飯とは、はかり、ためすべき。」

よしの上意、まづ、酒五升、米五升、其外、種々《しゆじゆ》、御料理を給はる。

 太守、御すき見あそばさる。

 およそ、酒三升、のむ。飯は、五升を、半分、給べる。一尺五、六寸[やぶちゃん注:約四十五~四十八センチ。]の鯛、三まい、二まいを、さしみ、一まいを、「あら」ともに煮附にしたるを、殘らず、たべる。

 御側の衆、

「いまだ給べる哉《や》。」

 武左衞門、申上《まをしあげ》る。

「ぼう食は、毒なるよし、父母、申候へども、珍味、御料理ゆゑ、父母にそむき、たべすぎ候。」

と申《まをす》。

 その後《のち》、御狩野《おかりの》の節、

「武左衞門を、つれ行《ゆく》べき。」

との上意、前々日、よびよせ、御ぜん所にて、御遠見《おとほみ》被ㇾ遊、

「にこやかなる奴《やつこ》也。」

との上意、太守の一言、捨置《すておき》ならず、一升ぶち・五人扶持、給はる。

「御なぐさみも。」

とて、色々の力業《ちからわざ》を御覽に入《いる》る中に、大《おほき》なるコトヒウシを、ひき出《いだ》し、たゝせおき、そのうしの脊を、またぎ、こす。

 太守、不ㇾ斜《なのめならず》、

「くつきやう也。」

と、上意なり。

「名を『牛股《うしまたぎ》』と名乘《なのる》べし。」

との上意、明日《みやうにち》、刀・脇差を給はるべし。

[やぶちゃん注:「コトヒウシ」「特牛(ことひうし)」強健で大きな牡牛(おうし)を指す語。

 以下の段落は、底本では、全体が一字下げ。]

 文政十丁亥年五月十八日、市中を賣あるきしを購得《かひえ》たり。「このもの、本月、江戶に到る。猶、道中なり。」といふ。或は、「既に到來しつ。」とも、いへり。到來といへるが、實《まこと》なるべし。

 右に貼《てん》せしは、世にサゲとか、唱《となへ》らるゝ「ゑせ商人《あきんど》」の、當時、巷を喚《よばは》りつゝ、賣《うり》もて、ありきし也。かゝる類《たぐひ》に、三板《さんぱん》あり。六、七月に至《いたり》て、肖像の錦繪、多く、出たり。それも、はじめは「牛股」としるせしを、後には、皆、「大空」と改めて出《いだ》せり。身のたけなど、或は、推量をもて、しるし、或は傳聞によれるのみなれば、謬《あやま》りならざるは、なかりき。只、上に識《する》すもの、實事也。もて、標準となすべし。

[やぶちゃん注:「サゲ」小学館「日本国語大辞典」に、『江戸時代、事件を印刷して急報することを業とした者。また、その印刷物。』とあり、なんとまあ、例として、ここが引用されていた。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 雀戰追考

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、今回は段落を成形した。

 本篇は『曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~追記 雀戰』の追考である。標題はそれに合わせて「すずめいくさ ついかう」と読んでおく。]

 

   〇雀戰追考

 客の云《いはく》、

「「左經記《さけいき》」に、後一條院長元四年五月二日、宇佐宮、神殿にて、雀、鬪ひ、或《あるい》は、栖《すみか》を作る、といふこと、見えたり。」

と、いへり。

 「左經記」は藏弃《ざうき》せざれば、「大日本史」、後一條帝の紀を檢索せしに、「日本史」には、八月四日の下《した》に見えたり。五月にありし事を、八月に至りて言上しつるにや。こゝろ得じ【以上、木默老人の說なり。】。

 よりて、予も亦、「大日本史」【卷三十八。】後一條天皇の紀を閱《けみ》するに、「史」に云、『長元四年云々、八月四日己卯。卜群雀巢宇佐宮殿上於軒廊【「紀略」、『係十二日、十七日、今從「左經記」。』。】と、ばかり、ありて、「雀戰」の文、なし。註に『今從「左經記」。』と、あれば、客の『五月二日云々』といへりしは、暗記の失《しつ》には、あらずや。なほ、考ふべし【「扶桑略記」、長元四年の條に、雀戰の事、漏れたり。】。

 愚、按ずるに、「巢」は「栖」を爭ふことにて、雛を生《しやう》ぜん爲に、巢を、いとなみ、作りしには、あらざるか。又、八月、巢を作ることの奇異なれば、おん卜《ぼく》、ありしか。不審。

○小津桂窓云【伊勢松坂の人。】、

「文政十二、三年の頃、遠州秋葉山街道、森村といふ所にて、雀戰ありしよし、同鄕の何がし、いへり。そは、その人の正しく見たるにあらず、掛川なる相識《さうしき》より、告《つげ》おこせし事なれど、虛談にあらず。」

といへり。

 又、一說に、凡《およそ》、春每《ごと》に、雀の雛、多く生ずれば、秋にいたりて、ねぐらを爭ふて、群《むれ》、戰《たたか》ふこと、田舍には、折々、これあり。怪しむに足らず。」

と、いへり。「本集」第十六【「別集」下卷。】に收めたる、壬辰の秋、湯島天澤山麟祥院の隣寺《となりでら》にてありし雀戰の條下に、これらのよしを、漏《もら》したれば、追錄す。和漢の故實は、なほ又、異日、暇《いとま》あらん折《をり》に、考索して、別にしるすべし【又、三、四年前、伊勢の白子のほとりにて、雀戰ありけるよし、松坂なる殿村篠齋《とのむらじやうさい》より告らる。かゝること、なほ、あるべし。】

天保四癸已年春二月下旬、伊勢松坂村、篠齋より、差越候書付、

      覺

凡、四十年前、

一、津、古川と申《まをす》所え、雀、夥敷《おびただしく》集り候よし。

廿七年前、

一、神戶《かんべ》領高岡村え、夥敷、集り、四、五町四方え、鳴聲、聞え候よし。

五年以前、

一、御領分郡山《こほりやま》村。

 是は、雙方、藪へ集り、折々、食合《くひあひ》、少々、死鳥《してう》も出來《しゆつらい》候よし。最《もつとも》、六、七日の間に候由。

去《さる》卯六月末より、七月初《はじめ》迄、

一、同、圓應寺村。

 畠中、又は、藪へ、夥敷、集り、畠場《はたば》、荒し候に付、近村へ、每日、人夫十人宛《づつ》、追人《おひびと》出《いだ》し候由。是、又、折々、食合、少々づゝは、死鳥も出來候て、鳴聲、三、四町、四方へ響《ひびき》候由に御座候。

一、玉垣村の儀者《は》、聞合《ききあひ》候處、存知候者《もの》、無御座候。

一、江戶、當年、集り候者《は》、「むく鳥」に御座候。

右の通《とほり》、模寄《もより》の者に相尋候處、實說に御座候。在中《ざいうち》には、前段の事共《ども》、折々、御座候由。「不ㇾ珍《めづらしからず》。」抔と申居候。

中にも、前《さき》、申上候者《ば》、其内、目立《めだち》候筋《すぢ》にて、見物に罷出候者も御座候也。

 辰十二月十八日       市 兵 衞

    佐六樣

[やぶちゃん注:「左經記」平安中期に書かれた参議左大弁源経頼の日記。「経頼記」「糸束記」とも呼ぶ。写本で 十五冊。欠けている年もあるが、長和五(一〇一六)年 から長元九(一〇三六)年の記事を含み、当時の宮廷儀式・摂関政治・貴族の生活などを知る上で貴重な史料である(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「長元四年五月二日」ユリウス暦一〇二九年六月十六日。グレゴリオ暦換算で六月二十二日。

「宇佐宮」現在の大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮(グーグル・マップ・データ。以下、指示のないものは同じ)。馬琴が不審を抱いている通りで、国立国会図書館デジタルコレクションの大正四(一九一五)年日本史籍保存会編の「左經記」の長元四年五月二日の条を見たが、そんな記事はない。馬琴の指示する長元四年八月四日の条に、

   *

依宇佐宮恠異、可有軒廊御卜也、

   *

とあり(右ページ上段九行目)、さらに、同じページの下段の九行目に、その具体な「恠異」の内容が、

   *

自去五月二日、至于晦比、宇佐神殿上、雀群集、或作栖云々、

   *

とあった。

「藏弃」整理せずに蔵書すること。蔵書の謙遜の辞と思う。

『「大日本史」後一條帝の紀』「八月四日の下に見えたり」の「卷三十八」は馬琴の誤りで、「卷之四十」である国立国会図書館デジタルコレクションの明治三三(一九〇〇)年刊の「大日本史」第五冊のここ。右ページの九行目に、

   *

八月四日己卯、卜郡雀巢宇佐宮殿上於軒廊、【左經記○日本記略 係十二月十七日

   *

「木默老人」『曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~追記 雀戰』に出るが、不詳。

「扶桑略記」歴史書。元三十巻。天台僧皇円の著になり、平安末期に成立した。漢文体による神武天皇から堀河天皇に至る間の編年史書。仏教関係の記事が主で、現存するのは十六巻分と抄本である。

「小津桂窓」小津久足(おづひさたり 文化元(一八〇四)年~安政五(一八五八)年)は江戸深川に店を構えた豪商で、松坂の干鰯問屋「湯浅屋」の六代目で、蔵書家にして紀行家。当該ウィキによれば、十四『歳で本居春庭に師事し』、『国学・和歌を学ぶ』。文政五(一八二二)年に『家督を継いだ後も』、『詠歌に励み』、文政十一年に『春庭が没した後は』、『その継嗣である有郷の後見人となって』、『歌会を取り仕切った』。天保八(一八三七)年に『家督を婿に譲り』、『稼業を退いた後も』、『詠歌を続け、生涯に』実に七『万首以上の歌を詠』んでいる。「文政元年久足詠草」など四十を『超える歌稿本』を成し、『歌論書として』「桂窓一家言」を記している。『紀行家としての久足は』、十九『歳の時に綴った』「吉野の山づと」を始めとして、「陸奥日記」など、生涯に四十六点の『紀行文を残すが、その作品は友人である曲亭馬琴をして「大才子」と評価される程質の高いものであ』あった。また、『久足は蔵書家としても知られており、幅広い分野の書籍、数万巻を所蔵した』「西荘文庫」は、『曲亭馬琴・本居宣長・上田秋成らの自筆本などの貴重な本を多数含む、近世後期を代表する文庫である』。『馬琴の愛読者であった久足は』、『同郷の友人殿村篠斎の紹介により』、『知己となって以降』、「八犬伝」などの『作品に対する詳細な批評を馬琴に送』り、『馬琴もまた』、『久足の批評に対して丁寧に回答するなど、「馬琴三友」の一人として親密な交際を続けた』とあり、驚くべきことに、『映画監督の小津安二郎は久足の異母弟の孫』とある。

「文政十二、三年」一八二九年から一八三一年(文政十三年十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元している)。

「遠州秋葉山街道、森村」静岡県周智郡森町(もりまち)。因みに、「町」を「まち」と読むのは静岡県でここのみである。秋葉山の南東直近。

「掛川」静岡県掛川市。森町の南東直近。

「相識」互いによく知っている知人。

『「本集」第十六【「別集」下卷。】に收めたる、壬辰の秋、湯島天澤山麟祥院の隣寺《となりでら》にてありし雀戰の條下』既にリンクさせた正編のこと。

「伊勢の白子」三重県鈴鹿市白子(しろこ)。

「殿村篠齋」既出既注

「天保四癸已年春二月下旬」一八三三年。

「凡、四十年前」寛政五(一七九三)年前後。

「津古川」三重県津市の古河町域か。

「廿七年前」文化三(一八〇六)年頃。

「神戶領高岡村」旧神戸(かんべ)藩領であった三重県津市一志町のこの附近。伊勢は、江戸時代、藩と天領が混在していたため、この市兵衛なる者の書き方では、村域を確定することがやや難しい。

「四、五町」約四百三十七~五百四十五メートル強。

「五年以前」天保一二(一八四一)年頃。

「御領分郡山村」この「御領分」は前の条を受けた同じ神戸藩の「御領分」の意であろう。とすれば、これは三重県鈴鹿市郡山町(こおりやまちょう)と断定出来る。

「食合」私はスズメが共食いをするというのを聴いたことがない。スズメが相互に戦って結果して死んだというのも、不学にして、知らない。従って、この「戰」「鬪」も含めて、甚だ不審を持っている。その真相の私の推定は既に『曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~追記 雀戰』の注で述べたので、参照されたい。

「去卯六月末より、七月初」この書簡の書かれた前年は天保三年で、その六月は大の月で六月三十日、グレゴリオ暦では八月七日である。

「同、圓應寺村」現在の三重県鈴鹿市郡山町及び三重県津市河芸町(かわげちょう)西千里(にしちさと)に跨る旧村名。「Stanford Digital Repository」の戦前の地図で「圓應寺」村が確認出来る(左上部)。

「追人」雀を追い払う役の者。

「三、四町」約三百二十八~四百三十六メートル。

「玉垣村」三重県鈴鹿市内のここに南・北・東玉垣町の三町がある。

「むく鳥」ズメ目ムクドリ科ムクドリ属ムクドリ Sturnus cineraceus 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 椋鳥(むくどり) (ムクドリ)」を参照されたい。

「市兵衞」不詳。小津久足の隠居した元使用人か。

「佐六」殿村篠斎の隠居後の名。]

2022/10/18

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 靈蝦蟇靈蛇

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、今回は段落を成形した。標題は「れいひき・れいじや」と読んでおく。]

 

   ○靈蝦蟇靈蛇

 東叡山御領、根岸の御隱殿《ごいんでん》に、辨才天の祠《ほこら》あり。神體は畫幅《ぐわふく》也。

「利益あり。」

とて、その邊の良賤は、常に參詣す。

[やぶちゃん注:「東叡山御領」(ごりやう)「根岸の御隱殿」東叡山寛永寺本坊で公務をこなしていた門跡輪王寺宮さまが、時に、息抜きをするために設けられていた、旧根岸にあった別邸。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「根岸谷中辺絵図」右上方の判例下方に「東叡山御山内」とあり、その左手に「御隱殿」が確認出来る。グーグル・マップでは、ここの中央附近一帯に当たる。寺からそちらへ下る御隠殿坂を左中央に配した。また、サイト「おでかけナビ」の「御隠殿跡碑」のページに『敷地は三千数百坪で、老松の林に囲まれた池を持つ優雅な庭園で、ここから眺める月が美しかったといわれ』たが、慶応四(一八六八)年の「上野戦争」に『よって焼失し、現在は全くその跡を留めてい』ないとあり、その遺跡を示す碑が根岸薬師堂(地図有り)にある旨の記載がある。

「祠」「ほこら」。]

 文政三年壬辰の冬十一月中旬、宮樣御家來にて、御隱殿の勤役《つとめやく》すなる豐田冲見といふもの、夫婦、彼《かの》辨天に參詣したるに、その夜、豐田が家僕《かぼく》の夢に、物ありて、告《つぐ》るやう、

「われは、當家の庖廚《くりや》なる上下流(うはながし)の下《した》に、年來《としごろ》、栖《すめ》る癩蝦蟇也。けふしも、主人夫婦、前面《まへおもて》なる辨天の祠に【冲見が宅は御隱殿の邊に在り。彼《かの》辨天の祠と遙《はるか》に向へりといふ。】、參詣の折、婦人は月の障りありて不淨也。折から、御橋の下に靈蛇ありて、行法《ぎやうはふ》を修《じゆ》してありしに、件《くだん》の不淨に觸れて、行法、破れたり。是により、靈蛇は、主人夫婦を怨みぬ。明晚、その怨《うらみ》を復さん爲に、あまたの蛇を駈催《かけもよほ》して、推《おし》よせ來つべし。われ、年來の報恩の爲《ため》、命を捨て、蛇孼《へびのわざはひ/じやげつ》を防《ふせが》んとは思へども、一己《いつこ》の力に及ばずば、われを助けて、かの蛇を逐拂《おひはら》ひ給へ。」

と、いひけり。

[やぶちゃん注:「文政三年壬辰」(みづのとたつ/じんしん:但し、底本はこの干支の横にママ注記あり)「の冬十一月中旬」文政三年は「庚辰」(かのえたつ/こうしん)である。文政に「壬辰」はないので、この場合、「文政三年」を信用する(干支の誤りはそれだけで史料的真実性が否定されるのが普通)。グレゴリオ暦では一八二〇年十二月十五日から二十三日までとなる。

「上下流(うはながし)」家内の床の上で用いる炊事用の流し台。

「癩蝦蟇」ハンセン病を患ったヒキガエル。ハンセン病、旧「癩病」(これは永く不当に差別されてきている病名であるから、現在は使うべきではない)については、先般、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十七 人の魂、死人を喰らふ事 附 精魂寺ヘ來る事」』の「癩病氣」で注したので、そちら、及び、その私の注のリンク先を読まれたい。この謂いは甚だ差別的で気に入らない。ハンセン病の皮膚病変はさまざまあるが、時に、ヒキガエルの背面のような顆粒状の変成を示すことがあり、単にそれをミミクリーとして、かく名づけたことが判るからである。

「豐田冲見」「とよだおきみ」或いは「よよだちゆうけん」。前者で読んでおく。

「月の障り」メンス。旧民俗社会の「血の穢れ」である。]

 天明《よあけ》て、僕、この夢を主人に告るに、半信半疑しつれども、聊《いささか》、心におぼえや、ありけん、

「縱《たとひ》、實《じつ》なき夢想也とも。」

とて、その夜は間《ま》每《ごと》に燈燭《たうしよく》を點じて、主・僕、おのおの、刀を佩《は》き、鎗・棒を引《ひき》つけて、終夜、まちけれども、『怪し』と思ふこともなくて、既にして、天は明《あけ》けり。

「さては。虛夢にこそありけめ、さりながら、彼《かの》蝦蟇は、『とし來《ごろ》、下流邊《したながしへん》」にあり。』といへば、まづ、よく、そこらを見よ。」

といひつゝ、主・僕、流しを引起《ひきおこ》しつゝ見るに、果して、殊に大きなる癩蝦幕の、死して、仰《あふのけ》ざまになりたる、あり。

 かゝれば、

『よしあることに、こそ。』

と思ふに、胸は、安からず。

「その死したる蝦蟇をば、家構《いへがまへ》の内《うち》に埋《うづ》めよ。」

と吩附《いひつ》けるに、この日は、これ彼《かれ》と、事の多くて、いまだ、埋めざりけるに、この夜、又、彼《かの》癩蝦蟇が、主人の夢にみえて、

「某《それがし》、既に命《いのち》を捨《すて》て、蛇孼を退《しりぞ》け候へば、この後《のち》、祟り、あるべからず。後《あと》安く思ひ給へ。又、某が亡骸《なきがら》は鼠山《ねづみやま》にもてゆきて、彼處《かしこ》に埋め給ひねかし。わが命數の盡きたれども、種《たね》を當所《たうしよ》に遺《のこ》したれば、なほも、おん家《け》を守るべし。疑ひ給ふべからず。」

と、いひけり。

[やぶちゃん注:」「鼠山」ちょっと前に、「甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件」で、『個人ブログ『Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク』の『江戸期の絵図でたどる「鼠山」』で古地図を用いて細かな考証がなされている。恐らくは、下落合の丘陵地帯で、この「御留山」辺りに近いか。』と注したのだが、どうも、御隠殿と位置が離れ過ぎているのが、気になった。而して、実はもっとずーっと以前に私は「鼠山」を注に出していることに気づいたのであった。それは「耳嚢 巻之八 租墳を披得し事」の中で、「感應寺」という寺への注の中でである。詳しい経緯は、そちらの注を読まれたいが、この寺は通称を「鼠山感応寺」と呼ぶ日蓮宗であったものが、天保四(一八三三)年の宗門改により、同寺が、幕府が激しく弾圧した日蓮宗のファンダメンタルな不受不施派に属していたことが発覚し、天台宗へ改宗したのだったが、後に、再び日蓮宗に改宗する再興運動が日蓮宗内に起こった。ここで輪王寺宮舜仁法親王で、その働きによって、日蓮宗への改宗は中止となり、長耀山感応寺から護国山天王寺(現在の東京都台東区谷中にあり、寛永寺の直近であり、寛永寺とともに門跡寺院でのである)へ改称しているのである。但し、日蓮宗再興のそれも汲んで、別に上記リンク先の鼠山に、天保六(一八三五)年に感応寺の寺の再興が認められたのである。則ち、ここに僅かながら、この場所と鼠山の接点が見えてくるのである。本篇の事件内の時制は文政三(一八二〇)年であるが、本篇が書かれたのは、最後の割注によって天保四(一八三三)年一月以降である。則ち、タイトだが、この話、実は、執筆時に形成された新しい「噂話」だったのではなかろうか? そこにうっかり、新しい感応寺の通称、「鼠山」を出してしまったというのが、真相ではないか? いや、もしかすると、この怪談を考えた人物は、感応寺のままで、日蓮宗としてここに再興して貰いたかった一派に属していた者のではなかったか? さればこそ、確信犯で、この蝦蟇を日蓮宗の信者ならぬ「信蝦蟇」として描き、「鼠山」へ遺骸を葬って呉れ、と言わせているのではなかろうか? 但し、感王寺は天保一二(一八四一)年に再興の中心人物であった僧日啓が女犯の罪で捕縛され、遠島を申し渡されたが、牢死し、感応寺は破却・廃寺となって現存しない。]

 主人は奇異の思をなして、則、蝦蟇の亡骸を鼠山に埋めたるに、その夜、又、件《くだん》の蛇が、主人冲見の夢にみえて、

「嚮《さき》には、『婦人の不淨によりて、わが行法の破れたる怨を復さん。』と思ひしに、癩蝦蟇に防がれて、宿意をば、得《え》果さねども、あるじ夫婦の身代《みがは》りに立《たつ》たる蝦蟇を殺したれば、今は、怨の、はれたる也。されば、『今より、怨を轉じて、われも當家の守護神にならん。』とばかりにして、驗《しるし》なくば、なほ、疑《うたがは》しく思はれん。翌《あす》、辨天に參詣し給へ。その折《をり》、必《かならず》、見るよし、あらん。扨《さて》、宿所にかへりし折、鞠箱《まりばこ》を、開きて見給へ。さらば、應驗を知るに足らん。」

と、告らるゝと思へば、夢、さめけり。

 あるじは、いよいよ、怪《あやし》み、おそれて、明《あけ》の朝、御隱殿なる辨才天に參詣しけるに、社壇の内より、忽然と、蛇、ふたつ、走り出で、ひとつは、祠の簀子(えし)[やぶちゃん注:簀(す)の子(こ)。]の下に走り隱れ、一蛇《いちじや》は、神前なる池の内に走り入《いり》て、共に、みえず、なりにけり。

 かくて、宿所に立《たち》かへりて、鞠箱を【冲見は蹴鞠を嗜むにより、祕藏の鞠ありと云。則、その箱なり。】とりおろし、やがて葢《ふた》をひらきて見るに、箱の内に、いと、ちひさなる蝦蟇と、小蛇、ありけり。

 こゝに至て、あるじ夫婦は、いよいよ、驚き、且、歡びて、小蝦蟇をば、庖廚なる、上ながしのほとりに放ち、小蛇をば、硝子《がらす》の壜《びん》に沙を敷き、その内に藏《をさ》めて、日々に祭る、といふ。

 この一條は、鈴木有年の話也。

「昔ばなしにありぬべき、怪談に似たる事ながら、彼《かの》豐田生は、德ある人にて、常住坐臥に恭謙ならざることなし。かゝれば、虛談をいふべくもあらず。」

と云《いふ》。

 鈴木生も、同家臣にて、家は根津の三島門前にあり。豐田の居宅と相去《あひさ》ること、遠からず。正《まさ》しく、その小蛇を見て、いひおこしたる奇事なれば、聞けるまにまに、しるすになん【壬辰冬閏十一月十九日、琴嶺、が有年の「喪《も》ごもり」を問ひし折《をり》、この事を聞《きけ》る也けり。】。

 傳聞のまゝなれば、漏れたる事も、たがへることも、あらん。そは異日、有年に面會の折、たゞすべし。

[やぶちゃん注:「壬辰冬閏十一月十九日」天保三年のこの日は、グレゴリオ暦では既に一八三三年一月九日。

「琴嶺」馬琴の長男瀧澤興継(おきつぐ)。「琴嶺舍」(きんれいしゃ)は彼の号。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 目黑魚

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入した。]

 

   ○目黑魚

天保三年壬辰の春二月上旬より三月に至て、目黑魚【鮪の類なり。】、最、下直也。いづれも中まぐろにて、二尺五、六寸、或は、三尺許のもの、小田原河岸の相場、「一尾、二百文也。」など聞えしが、後には裁賣[やぶちゃん注:「きりうり」。]も、片身、百文、ちひさきは、八十文に賣たり。巷路々々に、まぐろ、たち賣をなすもの、多くあり。わづかに廿四文許、費せば、兩三人、飯のあはせ物にして、なほ、あまりあり。かくまで、まぐろの多く捉られたる事は、おぼえず。さりながら、旬はづれの魚なれば、味ひ、可ならず。「餘魚、最、高料にて、河岸にも稀也。」といふ。さればにや、鯛・平魚・ほふぼふ・かながしらなど、春の物ながら、賣あるくものは、なかりき。一奇といふべし。無益の事ながら、後の話柄の爲に、しるしつ【壬辰三月四日記。】。

[やぶちゃん注:「天保三年壬辰の春二月上旬より三月」グレゴリオ暦で一八三二年三月十二から四月三日(陰暦三月四日)相当。

「最、下直也」「もつとも、げぢきなり」。最安値を更新したことを言う。因みに、天保元年で米一升の小売値は百五十文、酒一升は百二十から二百文であった。

「小田原河岸」現在の中央区築地六丁目(グーグル・マップ・データ)。

「平魚」「旬」と言っているので、条鰭綱カレイ目カレイ亜目ヒラメ科ヒラメ属ヒラメ Paralichthys olivaceus ととっておく。

「ほふぼふ」新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目コチ亜目ホウボウ科ホウボウ属ホウボウ Chelidonichthys spinosus

「かながしら」ホウボウ科カナガシラ属カナガシラ Lepidotrigla microptera 。思わず、馬琴の魚の好みが判る形となっている。

「無益の事ながら、後の話柄の爲に、しるしつ」あんまり、以下の話の枕にはなっていないと思うがなぁ。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 雷雪

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入した。]

 

   ○雷雪

天保二年辛卯冬十二月十八日の朝、伊勢松坂邊、雪中に雷鳴あり。その中に、大雷鳴、三聲、大坂も亦、おなじ。京は雷のみにて、雪はふらざりし、といふ。この事、松坂なる殿村篠齋の郵書に告らる。篠齋は、雷を怕るゝ癖あれば、俄に蚊帳を垂れて籠り居たりし、とぞ。江戶も、この日、雪はふりたれども、雷鳴は、なし。但、每夜、深更に遠電ありしのみ、越後などには、雪中の雷も稀にはありと、かねて聞えしかども、そは、名におふ雪國なればなん、この例には、なしがたし。按ずるに、宋の周密が「癸辛雜識」云、『至元庚寅正月二十九日癸酉。是年二月三日春分。送女子吳氏。至博陸早雪作。至未時電光。繼以大雷。雪下如ㇾ傾。而雷不ㇾ止。天地爲ㇾ之陡黑。余生平所未見。爲驚懼者終日。客云。記得。春秋魯隱公九年三月。三國吳主孫亮太平二年二月。晉安帝元興三年正月。義煕六年正月。皆有雷雪之變。未ㇾ及ㇾ考也。』【「見續集」第四十八條、○周密字公謹。宋末人。至元元世祖號。庚寅當ㇾ作丙寅。】。

[やぶちゃん注:「天保二年辛卯」(かのとう/しんぼう)「冬十二月十八日」グレゴリオ暦では既に一八三二年一月十六日。

「殿村篠齋」(とのむらじやうさい)は国学者殿村安守(やすもり 安永八(一七七九)年~弘化四(一八四七)年)の号。本姓は大神。伊勢松坂の商人殿村家の分家の嫡男。本家を継いで、殿村整方の養子となった。寛政六(一七九四)年に養父に倣って本居宣長に入門し、寵愛を受けた。宣長没後は本居春庭に師事し、盲目の春庭を物心両面から援助した。馬琴とは特に親しく、「南総里見八犬伝」や「朝夷巡島記」を批評し、これに馬琴が答えた「犬夷評判記」があるが、実際には、その殆んどは馬琴の手になったものではないかともされる(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「周密」(一二三二年~一二九八年)は宋末元初の文人で詩人・詞人。呉興(浙江省)の人。原籍は済南(山東省)。宋末に任官したが、宋の滅亡後は杭州に流寓し、風雅の生涯を送った。詩文・書画に優れ、美術の鑑識で重んじられた。歌辞文芸「詞」に於いて、殊に有名で、先輩の呉文英と「二窓」と並び称さられ、高雅幽遠な南宋文人詞を代表する詩人である。詩集は「草窓韻語」、詞集は「蘋洲漁笛譜」(「草窓詞」とも)。また、詞の名作を選んだ「絶妙好詞」を編集している。ほかに美術評論「雲煙過眼録」や随筆「武林旧事」・「斉東野語」(せいとうやご)などがある(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「癸辛雜識」(きしんざっしき:現代仮名遣)は周密が見聞した多くの出来事を記載した随筆で、当時の社会状況を知る重要な資料とされる。以下は、同書の「続集」の上の「雷雪」で、維基文庫のこちらに電子化されてある(「48雷雪」)。それと比べると、若干の異同がある。以上の訓読を自然流で試みる。返り点のない一部でそれに従わずに読んだ。

   *

至元庚寅(こういん)正月二十九日癸酉(きいう)、是の年、二月三日、春分なり。女子を送る。吳氏へ嫁せり。博陸(はくりく)に至りて、早(はや)、雪と作(な)る。未(ひつじ)の時に至りて、電光あり、繼いで、大雷(だいらい)を以つてす。雪の下(ふ)ること、傾(かたぶ)くがごとく、而(しか)も、雷、止まず。天地、之れが爲めに陡(には)かにして黑(くら)し。余、生平(ひごろ)、未見の所なれば、驚懼を爲(な)すは、終日たり。客、云はく、「記得(きどく)するに、「春秋」に『魯の隱公九年三月』と、三國の吳主孫亮の太平二年二月と、晉の安帝の元興三年正月と、義煕(ぎき)六年正月と、皆、雷雪の變、有り。』と。」と。未だ、考ふるに及ばざるなり【「續集」の第四十八條を見よ。○周密、字(あざな)は公謹、宋末の人。「至元」は元の世祖の號。「庚寅」は當(まさ)に「丙寅」と作(な)すべし。】。

   *

「博陸」は地名(不詳)ととった。「未の時」午後二時前後。「記得するに」「私の記憶によれば」。「魯の隱公九年」紀元前七一四年。所持する岩波文庫版「春秋左氏伝」の当該条に『三月癸酉、大雨、震電ス。庚辰、大イニ雪雨(フ)ル』とあるが、これは「雪中の雷」ではなく、時季外れの雷と雪の天変の意である。「吳主孫亮の太平二年二月」二五七年。「晉の安帝の元興三年正月」東晋で四〇四年。「義煕六年正月」前と同じ東晋の安帝の年号で、四一〇年。割注は馬琴によるもの。「號」元号。馬琴はここで元号の干支が誤っているとして「庚寅」は「丙寅」とすべきであると言っているのだが、「是の年、二月三日、春分なり」を根拠として逆算したもの。確認済み。「至元」はモンゴル帝国のカアン・クビライ(元の世祖)の治世で用いられもので、元年は一二六四年で、至元三十一年まで。「至元」の「庚寅」は至元二十七年で一二九〇年、「丙寅」は至元三年で一二六六年である。

   *]

「草木子」云、『雪中雷電。自至正【元順宗年號。】、至庚寅【至正十年。】。已後屢々見ㇾ之。葢陰陽差升之氣。異平常也。辛亥【明太祖洪武四年。】春正月十一日。雷而大雪者凡三四日。又其甚也【見二卷三「克謹篇」。】。又按。明錢希言「獪園」云、『萬曆癸丑冬十二月二十六日。立春先一日。夜半子刻忽有烈風暴雨。震雷閃電。一時交作。霹靂數聲。擊ㇾ人而死。月駕園千年怪柏。爲ㇾ風吹斷。遲明乃定。占者謂、「冬行夏令。主其國澇。」。至明年甲寅五月。果大水。然幸不ㇾ爲ㇾ苗矣。」【卷十五「妖草編」。】。

[やぶちゃん注:同前で訓読を試みる。

「草木子」に云はく、『雪中の雷電は、至正より【元の順宗の年號。】庚寅(こういん)に至り【至正十年。】、已後(いご)、屢々(しばしば)、之れを見たり。葢(けだ)し、陰陽の差升(さしよう)の氣、平常と異(こと)なるなり。辛亥(しんがい)【明の太祖洪武四年。】春正月十一日、雷して、大雪するは、凡そ、三、四日。又、其れ、甚だしきなり【二卷三「克謹篇」を見よ。】。又、按ずるに、明の錢希言が「獪園」(くわいゑん)云はく、『萬曆癸丑(きちう)冬十二月二十六日、立春は先きの一日(ついたち)たり。夜半、子(ね)の刻、忽ち、烈風暴雨、有り。震雷・閃電、一時は交じり作(な)す。霹靂、數聲、人を擊ちて、人をして、死せし。月駕園の千年の怪柏(くわいはく)、風の爲めに、吹き斷(を)れり。遲明にして、乃(すなは)ち、定(ぢやう)せり。占者、謂はく、「冬行夏令(とうぎやうかれい)、其れ、國澇(こくらう)を主(あるじ)す。」と。明年(みやうねん)甲寅(こういん)五月に至りて、果(はた)して、大水(おほみづ)あり。然れども、幸ひにして、菑(わざは)ひとは、爲(な)らず。』と【卷十五「妖草編」。】。

   *

「草木子」元末・明初の葉子奇の撰になる文学的散文。「至正」元年は一三四一年。「差升」不詳。陰陽の気の変動を言うか。「明の太祖洪武四年」一三七一年。「明の錢希言」官人。「獪園」は志怪小説らしい。「萬曆癸丑」万暦四十一年で一六一三年。「立春は先きの一日たり」二月一日。確認済み。「月駕園の千年の怪柏、風の爲めに、吹き斷たる」『「月駕園」という庭園(不詳)にある樹齢千年とされる、妖しくも名樹たる古木の柏(はく:中国ではカシワではなく、ヒノキの類を指す)が、その暴風のために、吹き折られた。』。「遲明」夜明けがた。暁よりは曙の頃であろう。「定せり」穏やかに静まった。「冬行夏令」冬であるのに夏のようであるの意で、「激しい異常気象」を指すものと思われる。「國澇を主す」「澇」は「長雨」の意であるから、この暴風雷電は凶兆であり、これより、一国全体を長雨・洪水が襲うことを言っているようである。

 以下、前の段落に続いているが、改行した。]

解云、寒中の雷雨は文政十年丁亥十二月中旬、一夕、暴雨雷電【丑より曉方に至る。】。明年戊子の秋、西國、幷に、東海道濱松邊、大風雨。洪水の菑[やぶちゃん注:「わざはひ」。]あり。但、雷雪の故實は、外朝の先蹤のみ、管見をしるす。天朝の故實は、いまだ考に及ばず。文政十二年己丑冬十二月十五日【小寒後、四日也。】、今夜、雨ふる。夜中、雷、三、四聲、晚に至て、小雪、まじり、程なく、雨、歇[やぶちゃん注:「やむ」。]。去々年[やぶちゃん注:「おととし」。]、寒中に雷電あり。今茲、又、かくのごとき氣候の差異あり。明年の夏、江戶郊外、野疏、豐ならず。米價も、頗[やぶちゃん注:「すこぶる」。]のぼりにき。

[やぶちゃん注:「解」「とく」。馬琴の本名。

「文政十年丁亥十二月中旬」グレゴリオ暦では既に一八二八年一月中旬から二月上旬に相当する。

「文政十二年己丑冬十二月十五日」グレゴリオ暦では既に一八二九年一月二十日。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 鰻鱧の怪

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 久々の本格怪異譚。句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入した。例によって、ダラダラのベタ文なので、段落を成形し、読みの一部を《 》で推定で歴史的仮名遣にて添えた。

 標題の「鰻鱧」は音は「マンレイ」だが、そもそも「鱧」は海産の「はも」(但し、その場合は国字。漢語では「大鯰(おおなまず)」或いは「八目鰻」を指す。孰れにせよ、ウナギを指さない)で、この熟語はおかしい。ウナギを別に「鰻鱺」(バンレイ)と書くので、その誤りではないかと思う。二字で「うなぎ」と読んでおく。但し、実は題名から判る通り、これはウナギの怪奇談で、「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」には、本書を引用元としているため、「鰻鱧」の標題で載り、しかも読みは「バンレイ」となっている。正直、甚だ不審ではある。

 

   ○鰻鱧《うなぎ》の怪

 吾友鈴木有年《いうねん》、名は秀實《しゆうじつ》、俗字は一郞【東臺輪王寺の御家臣。】。

 叔父某乙《ぼうおつ》は、沙翫《さくわん》の頭領也【有年の實父は、伊勢の龜山侯の家臣にて、下谷《したや》の邸《やしき》にあり。今玆《こんじ》、七十二歲にて、十月廿四日に歿したり。有年は東臺の儒臣鈴木翁の養嗣たり。件《くだん》の叔父は、則《すなはち》、父の弟也。】。

「わかゝりし時、放蕩なりしかば、浮萍《うきくさ》のごとく、東西南北して、竟《つひ》に沙翫になりし。」

といふ。

[やぶちゃん注:「東臺輪王寺の御家臣」「輪王寺」(りんのうじ)は東京都台東区にある門跡寺院であった天台宗東叡山輪王寺。皇族が関東に下向して輪王寺宮となっていた。鈴木有年の養父は、その門跡附きの儒学者であったということであろう。

「某乙」姓名を伏せた仮名。

「伊勢の龜山侯」伊勢亀山藩。藩主は譜代の石川家。

「沙翫」壁塗り職人の左官(さかん:この字は当て字で、古くは「沙官」「沙翫」と表記した)。]

 いまだ、泥匠《でいしやう》ならざりし時、某町《ぼうちやう》なる「うなぎ屋」の養嗣になりて、しばらく、その家に在りける程、養父とともに、鰻鱧の買出《かひだ》しに、千住へもゆき、日本橋なる小田原河岸へゆくことも、しばしば也。凡《およそ》、鰻鱧は、一笊《ひとざる》の價《あたひ》、何《いか》ほどと、定め、手をもて、ひとつ、ひとつに引《ひき》あげ、見て、利の多少を推量《おしかは》ること也とぞ。

[やぶちゃん注:「泥匠」一人前の左官職人のこと。

「小田原河岸」現在の中央区築地六丁目(グーグル・マップ・データ)。

「利」個体の良し悪し。]

 かくて、あるあした、又、養父と共に、かひ出しに赴きて、かたのごとく、うなぎを引あげ、見つゝ、損益をはかりて、幾笊か、買《かひ》とりしを、輕子《かるこ》に、荷《に》なはして、かへり來つ。

[やぶちゃん注:「輕子」軽籠(かるこ:縄を縦横に編んだ正方形の網に、四隅に棒を通す縄を付けて、石などを二人で組んで運ぶもの。一人用で背負うタイプもある。「簣(あじか)」「もっこ」とも称する)で荷物を運んだところから、雇われて荷物を運ぶ担(かつ)ぎ人足のこと。]

 しばらくして、養父なるもの、件のうなぎを生簀箱《いけすばこ》に入《いれ》けるに、特に大きなる鰻鱧、ふたつ、ありけり。養父、いぶかりて、有年の叔父なりける某乙に、

「かゝる大うなぎあり。今朝、買とる折には、『かくまで、大うなぎは、なし。』と、思ひしが、いかにぞ。」

といふに、某乙も亦、訝《いぶか》りて、

「宣ふごとく、こは、おぼえず候へども、こは、めづらしきものにこそ候へ。折々、來給ふ得意の何がしどのは、鰻鱧の大きなるを好み給へば、かこひ置《おき》て、賣《うら》ばや。」

といふに、養父、うなづきて、

「寔《まこと》に、さる事あり。かの人にまゐらせなば、價を論ぜず、よろこばれん。かこひおくこそ、よかめれ。」

と、いひけり。

 かくて、その次の日、彼《かの》大うなぎを好む得意の町人、ひとりの友とともに、

「うなぎを食《くは》ん。」

とて、來にければ、あるじは、

「しかじか。」

と告知《つげし》らするに、その人、歡びて、

「こは。いと、めづらかなるもの也。とく、燒《やき》て出《いだ》せ。」

とて、友人とともに二階に登りたり。

 その時、あるじは、件の大鰻鱧《おほうなぎ》を、ひとつ、生簀より引出《ひきいだ》して、裂《さか》んとしつるに、年來《としごろ》、手なれしわざなるに、いかにかしけん、うなぎ錐《きり》にて、手を、したゝかに、つらぬきけり。

 既に、いたみに堪《たへ》ざれば、有年の叔父某乙を呼びて、

「われは、かゝる怪我をしたり。汝、代りて、裂くべし。」

とて、左手を抱へて退《しりぞ》きければ、某乙、やがて、立代《たちかは》りて、例のごとく裂《さか》んとせしに、その大うなぎ、左の手へ、

「きりきり」

と、からみ付《つき》て、締《しむ》ること、甚しく、既にして、動脈の得《え》かよはずなるまでに、麻癱(しび)るゝ痛みに堪ざれば、少し、手をひかんとせしに、その大うなぎ、尾をそらして、腔(ひばら)を、

「はた」

と打《うつ》たりける。

[やぶちゃん注:「得」は不可能の呼応の副詞「え」の当て字。

「腔(ひばら)」脾腹。脇腹。]

 是にぞ、息も絕《たえ》るばかりに、痛みをかさねて、難儀しつれど、人を呼《よば》んは、さすがにて、なほも、押へて、些《すこし》も緩めず、ひそかに、うなぎに、打向《うちむか》ひて、

「汝、われを惱《なやま》すとても、助かるべき命に、あらず。願ふは、首尾、克《よく》、裂《さか》してくれよ。しからば、われは、この家を立去《たちさ》りて、後々まで、かゝる渡世を、すべからず。思ひ給《たまへ》よ。」

と、しのびねに、かきくどきたりければ、そのこゝろを、うけひきけん、からみたる手を、まきほぐして、やすらかに裂《さかれ》にけり。

 扨《さて》、燒立《やきた》て出《いだ》せしに、得意の客も、その友も、

「心地、例ならず。」

とて、これをたうべず。

 初《はじめ》、かの得意の客は、わづかに半串《はんぐし》たうべしに、

「死人《しびと》の如きにほひして、胸、わろし。」

とて、吐きにけり。

 かくて、その夜さり、丑三《うしみつ》の頃、うなぎの生簀のほとりにて、おびたゞしき音のしてければ、家の内のもの、みな、驚き覺《めざめ》て、

「何にか、あらん。」

と訝る程に、某乙、はやく起出《おきいで》て、手燭《てしよく》を秉《とり》て、生簀船《いけすぶね》を見つるに、夜さりは石を壓《おし》におく。その石も、もとのまゝにて、異《い》なる事のなけれども、

『さりとも。』

と思ひて、生簀船の蓋を開きて見ぬるとき、あまたのうなぎの、蛇の如くに、頭を、もたげて、にらむに似たり。

 只、この奇異のみならで、ひとつ殘りし大うなぎは、いづち、ゆきけん、あらずなりけり。

 某乙、ますます、驚き怕《おそ》れて、次の日、養家を逐電しつゝ、上總の所親《しよしん》がり、赴きて、一年ばかり歷《ふ》るほどに、養父は、

「去歲《きよさい》より、大病《たいびやう》にて、今は、たのみなくなりぬ。とく、立《たち》かへり給へ。」

とて、飛脚、到來してけるに、既に退身《たいしん》したれども、いまだ、離緣に及ばざれば、已むことを得ず、かへり來て、

「養父の看病せん。」

と、しつるに、養母は密夫を引入《ひきい》れて、商賣にだも、身を入れず、病臥したる良人をば、奧なる三疊の間《ま》にうち措《おき》て、看《み》とるものもなかりしを、某乙、その怠りを、たしなめて、病人を納戶《なんど》に臥《ふせ》さしつ。

 藥をすゝめ、粥を薦《すすむ》るに、いさゝかも、飮《のま》ず、くらはず。

[やぶちゃん注:「所親《しよしん》がり」親しい間柄或いは遠い親戚筋の方(かた)へ。

「去歲」昨年。

「三疊の間」あなたは三畳間に住んだことは、まず、ないであろう。私は大学の最初の一年間、渋谷の今やお洒落な町となった代官山の路地の奥の、関東大震災で倒れなかったという歴史的遺構の如き下宿屋の、二階の三畳間の部屋に住んだ。

「措て」邪魔者として除(のけ)おいて。

「納戶」衣服・調度類・器財などを納めておく部屋。一般には屋内の物置部屋をいうが、主人夫婦や家族の、居間や寝室などにも転用した。]

 只、好みて、水を飮むのみ。

 ものいふことも、得ならずして、鰻鱧のごとく、頤《おとがひ》をふくよかにして、息をつく、あさましき體《てい》たらく、又、いふべくもあらざりけり。

[やぶちゃん注:運動機能障害がひどく動けない結果、水ばかり飲み、顔がむくんで、ウナギの鰓の前の頤の如く、膨らんでいるのである。糖尿病のもともとも基礎疾患と、重い脳梗塞の併発が疑わられる。]

 かゝる業病《ごふびやう》也ければ、病むこと、稍《やや》久しくして、竟《つひ》にむなしくなりし折《をり》、某乙は後《あと》の事など、叮嚀にものしつゝ、扨、養母と養母の親族に身《み》の暇《いとま》を乞ひ、離緣の後《のち》、料《はか》らず、泥匠のわざを習ふて、その世渡りになすよし也。

 こは、天明年間の事なりければ、さすがに、叔父のうへながら、有年は、かゝる事のありしともしらざりしに、今より、五、七年以前に、家を作り替《かへ》ぬる折、その壁一式を、叔父にうちまかせしかば、叔父は弟子を日每《ひごと》に遣し、その身も、をりをり來つるにより、ある日の晝食に、鰻鱧の蒲燒を出《いだ》せしに、叔父は、いたく、忌嫌《いみきら》ひて、

「われは、うなぎを、見んとも思はず。とく、退《の》けて給ひね。」

といふ事、頻《しきり》なりければ、有年夫婦、いぶかりて、

「よのつねなる職人ならぬ、叔父なればこそ、心を用ひ、とりよせたりける物なれども、嫌ひとあるに、强《しひ》かねて、ほい、なかりき。」

と呟きしを、叔父は、

「さこそ。」

と慰めて、

「わがうなぎを忌嫌ふは、大かたのことならず。この儀は、和郞(わらう)が未生《みしやう》以前の事なりければ、しらぬなるべし。懺悔《さんげ》の爲に說示《ときしめ》さん。その故は、箇樣々々。」

と、彼《かの》怪談に及びしとぞ。

[やぶちゃん注:「天明年間」一七八一年から一七八九年まで。]

 其叔父の名も、養父の家名も、しるすに易き事なれども、よき祥《きざし》にしも、あらざれば、あなぐりもせず。有年の話せるまゝに、錄するのみ。

[やぶちゃん注:「あなぐり」細かな部分を訊ね聴いて詮索すること。]

「彼《かの》大うなぎは、稀なるものにて、かの折、腕を、三まき、卷《まき》て、尾をもて、瞎を打《うつ》たるにて、その長さを推量《おしはか》るべし。打れし迹《あと》はうち身になりて、今も寒暑の折は發《おこ》る。」

といふ。

[やぶちゃん注:「瞎」は「片眼」(かため)の意があるが、彼が打たれたのは、前の当該シーンでは、脇腹であって、「腔(ひばら)」とあった。「腔」の崩し字を誤判読したととるのが自然であろう。因みに、仮に片方の眼を打たれた時、鰻の生の鮨がないのは、ウナギやアナゴの血液にはイクシオトキシン(ichthyotoxin)という有毒物質が含まれているからで、一定量を飲用すると、下痢・吐き気を惹起し、傷口に入ると、炎症を起こす。大量に誤飲すれば、死亡することさえある。これ、眼に入ると、激しい結膜炎を発症し、下手をすると、本当の「片眼」になることさえある。その辺りを判読者は想起して、思わず、かくしてしまったものかも知れない、などと、夢想した。ウナギの博物誌は、私のサイト版の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の「鰻鱺」、或いは、「大和本草卷之十三 魚之上 鰻鱺 (ウナギ)」も参照されたい。なお、寺島は「無鱗魚」に入れているが、誤りである。ウナギはしっかり鱗がある。ただ、非常に微細なものがびっちり並んでおり、それに加えて、あの「ぬめり」(体液中のタンパク質ムチン由来)のために、「ウナギには鱗はない」と考えている日本人も多いと思われる。ユダヤ教は戒律が数多くあることで知られ、彼らは鱗のない魚は食べない。それに由来する私の面白い体験談を後者の注で紹介しているので、是非、読まれたい。]

「うなぎ渡世をするものは、末《すゑ》、よからず。」

といふよしは、常に聞くことながら、こは正しき怪談也。浮たる事にはあらずかし。【天保壬辰《みづのえたつ/じんしん》の冬閏十一月十三日の夜、關潢南《せきかうなん》に招れて、彼處《かしこ》に赴きし折、有年は、なほ、喪中ながら、はからずも、來《きたり》て、まとひに入《い》りけり。その折、有年の、「かゝる事しも、ありけり。」とて、話《はなし》せられしを、こゝにしるすもの也。有年は關の親族也。】

[やぶちゃん注:「天保壬辰の冬閏十一月十三日」天保三年閏十一月十三日は、既にグレゴリオ暦一八三三年一月三日である。

「關潢南」江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。彼は兎園会の元締であった曲亭馬琴とも親しく、息子の関思亮は「海棠庵」の名で兎園会のメンバーでもあった。

「喪中」冒頭割注にある通り、実父にそれ。

「まとひ」「まどひ」「円居・団居」。円座の談話会。

 なお、江戸時代、食されることが多かった鰻に関しては、その怪異譚が、思いの外、多くある。中でも、私の「耳嚢 巻之八 鱣魚の怪の事」(「鱣魚」(せんぎょ)は「鰻」のこと)が出色で、そこで魚類絡みの怪異類話も紹介してあるので参照されたい。]

2022/10/17

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 感冒流行

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号(「〽」も)も挿入した。]

 

   ○感冒流行

文政三年庚辰[やぶちゃん注:一八二〇年。]の秋九月より十一月まで、世上、一同に感冒、流行して、一家十人なれば、十人、みな、免るゝものなし。輕きは、四、五日にして、本復す。大かたは、服藥せず。重きは傷寒のごとく、寒熱、甚しくて、譫言[やぶちゃん注:「うはごと」。]するものもあれども、それも病臥十五、六日にして、痊可[やぶちゃん注:「せんか」。治癒に同じ。]に及べり。この風邪にて病死せしものは、なし。江戶は九月下旬より流行して、十月盛りなりき。京・大坂・伊勢、及、長崎などは、九月、さかりなりしよし、大坂、並に、伊勢松坂なる友人の消息に聞えたり。前々流行の風邪には、「何風」など唱へて、必、苗字ありしが、こたびの風邪には、苗字を唱ることを、聞かず。二十餘年前に、琉球人來朝の折も、感冒流行したるに、今茲[やぶちゃん注:「こんじ」。今年。]も亦、琉球人の來ぬれば、京大坂にては「琉球風」といふものもありとぞ。予、おもふに、はやり歌・はやり詞の流行せる年は、必、感冒、流行す。安永の「おせ話風」、文化の「たんほう風」など、當時のはやり詞・はやり歌を苗字にして唱へたり。今茲は、秋八月の比より、江戶にて、「かまやせぬ」といふ小うた、流行したり【『〽くもらば、くもれ、箱根山、はれたとて、お江戶が見ゆるぢや、あるまいし、コチヤ、かまやせぬ。[やぶちゃん注:底本にここに囲み字で『原本脫字』とある。]く、名高き團十郞、あらためて、海老藏になりたや、親の株、こちや、かまやせぬ、』などいふたぐひ、あまたありて、小人は、をさをさ、うたへり。此うた、はじめは、「よみうり」とかいふ、ゑせあき人の、うたひしものなり。】しかるに、こたみ、流行の感冒は、中より以下の男女、多く、服藥せぬひとゝいへども、かまはずして、おこたりにき。童謠は、必、吉凶の表兆[やぶちゃん注:「へうてう」。前触れ。]たる事、和漢に例、尠[やぶちゃん注:「すくな」。]からず。「かまひはせぬ」といふ童謠、又、是、一奇といふべし。しかれども初冬一ケ月は、江戶中の湯屋[やぶちゃん注:「ゆうや」。銭湯。]も浴るもの[やぶちゃん注:「あびるもの」と訓じておく。]、多からざりしかば、風邪流行に付、「夕七時早仕舞」[やぶちゃん注:「ゆふななつどきはやじまひ」。不定時法で午後四時頃。]といふ札を出し置たり。この折、「窮民御救ひ」の御沙汰ありて、籾藏町會所へ裏借屋の町人を召呼れ、一人別に、御米五升、女は四升、三才以上の童には、三升づゝ下されしよし、聞えたり。文化の「たんほう風」の折には、錢にて、一人別に、二百五十文づゝ下されしよしなりしが、こたびは、米にて下されたり。借家といへども、表店に在りて、渡世しつるもの、並に、召仕は、男女ともに、除れしと云。

[やぶちゃん注:「感冒」現在のインフルエンザ。

「傷寒」漢方で「体外の環境変化により経絡が冒された状態」を指し、高熱を発する腸チフスの類を指す。

「二十餘年前に、琉球人來朝の折」文化三(一八〇六)年、琉球王国第二尚氏王朝の第十七代国王尚灝王(しょうこうおう 在位:享和四・文化元(一八〇四年)~天保五(一八三四)年)の国王就任挨拶の謝恩使使節が来府した時のことを指す。

「琉球風」この時のそれは前の来府の二十六年後に当たる天保三(一八三二)年。本篇の前の「木下建藏觀琉球人詩」の記事を参照。

『安永の「おせ話風」』病院検索サイト「DDまっぷ」の「感染症(インフルエンザ)特集2022 / 2023 インフルエンザの歴史と進化」では、安永五(一七七六)年に流行した風邪については、当時人気の高かった浄瑠璃「城木屋お駒」という毒婦の祟りという事で「お駒風」』(おこまかぜ)『と呼ばれた』と書かれてあったが、別な信頼出来る論文によれば、安永九(一七八〇)年に、当時の流行語に「大きに御世話、お茶でもあがれ」というのがあったとあるので、この別名もあったことが判る。

『文化の「たんほう風」』前注のリンク先に文政四(一八二一)年の『「ダンホ風(当時人気だった小唄のおはやしに”ダンホサン・ダンホサン”とあった事より)」』があったとある。文政の始めを、文化の終りと馬琴が勘違いしたものかも知れない。

「籾藏町會所」(もみくらまちかいしょ)「籾藏」囲籾(かこいもみ)= 囲米(かこいまい)と称して、 江戸幕府が、非常時に備えて、諸藩や町村などに命じて備蓄した籾米。 凶作や災害時の備蓄が目的であったが、中期以降は米価調節にも利用された。江戸では五ヶ所に常置された「町會所」は町内の用務のために町役人などが寄り合った所。

「裏借屋」(うらかりや)と読んでおく。借り長屋住まいの者。

「召呼れ」「めしよばれ」。

「表店」(おもてだな)「に在りて、渡世しつるもの」表通りに店を構えて商売をしている商人。

「召仕」(めしつかひ)。

「除れし」(のぞかれし)。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 木下建藏觀琉球人詩

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入した。]

 

   ○木下建藏觀琉球人詩

天保三壬辰冬。維月閏餘當黃鐘。初之九日天漸霽。滿地無ㇾ風曉色濃。聘使此日上東台。虎旗龍刀部伍雄。正使豐見城王子。烏冕玉帶錦袍紅。身駕花轎簾半捲。朱顏黑髭中山風。賛度親雲左右連。副使親方稱澤岷。紫袍白鬚肩輿中。騎馬黃帕是樂正。束髮花簪里之童。凉傘牌符紅映ㇾ日。喇叭銅角響徹ㇾ空。見者滿城群如ㇾ山。街頭衞護新作ㇾ關。樓上簾翠樓下幕。朱門粉壁似仙寰。美服飾粧鋪花氈。玳瑁銀簪照香鬟。一望驚ㇾ目中山客。始信扶桑冠百蠻。吾輩幸是太平臣。座見入貢萬里人。萬里波濤南海外。兒女祈ㇾ安天孫神。遙憶首里歸ㇾ鞍日。說盡海東結構新。

[やぶちゃん注:標題は「木下建藏、琉球人を觀るの詩」と読んでおく。

 以下は、底本では全体が一字下げ。]

この詩、よく出來たり。恨らくは、「始信扶桑冠百蠻」の句あり、前儒腐爛、皇國をもて、夷狄に比するもの、往々あり。木下生もその謬妄を受て悟らざるのみ。この頃、諸家の「藏板琉球狀」【一卷。】、「中山傳信略」【折本一卷。】、「琉球年代記」【一卷。】等出たり。當日、營中にて、「諸吏、琉球の事を見るには、何の書がよかるべきや。」など、いへりしを、貂皮君、聞て、「琉球の事實を知らまくほりせば、『弓張月』を見給へ。詳にして盡せしものは、彼小說に、ますこと、なし。」と宣ひにきと、ある人の話也。この節、「弓張月」を見るもの尠からず、といふ。さもあらんか。

こたび、「琉球より、大さ、九尺まわりある琉球芋を、獻上したり。」などいふ風聞ありしを、その筋なる吏職に質問せしに虛談也。「あはもりの壺を菰にて包みしを見て、『りうきう芋ならん。』と推量せしものゝ、いひ出ぬるかとなるべし。」といへり。又、正使・副使の品川にて、よみし、といふ歌を、ある人の見せたれど、虛實、詳ならざれば、寫しとめざる也。

[やぶちゃん注:これは天保三(一八三二)年琉球王国琉球の第二尚氏王朝第十八代国王尚育王(在位:一八三五年~一八四七年:父尚灝王(しょうこうおう)の体調不良により(通説では精神疾患を患っていたとされる)一八二八年に摂位し、十五歳で実質的な王位に就いていた。以上は当該ウィキに拠った)の即位に先だって、江戸幕府へ派遣された謝恩使を詠じた漢詩とそれへの馬琴の批評・感想である。漢詩の作者である「木下建藏」なる人物は不詳。この時の来朝の行列についての本邦側の板行本「琉球人行列記」が「琉球大学附属図書館」の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」のこちらで、視認出来る。その解説ページによれば、一六〇九(慶長十四年)『年の島津侵入以後、琉球では、徳川将軍の代替わり(就職)の際には慶賀使、琉球国王代替わりの際には謝恩使を江戸へ派遣し、これを「江戸立ち」と言っていた。本史料は、』一八三二『年に京都で出版された版本で、この年の江戸立ちの使者を紹介したものである。使者の名前や行列の挿絵などを載せ、解説している。「琉球人行列記」は天保』三年、十三年、嘉永三(一八五〇)『年に重版されている。このときの使節は、正使豊見城朝春』(とよみぐすくちょうしゅん)『(途上死亡)、副使沢岻安慶』(「たくしあんけい」か)、『合計』九十七『名であった』とある。翻刻電子化は、こちらで見ることが出来る。その最終丁に『干時天保三年辰十月耒朝』(時に、天保三年辰(たつ)十月、耒朝(らいてう))とある。グレゴリオ暦では十月一日は一八三二年十月二十四日である。但し、詩の二行目から、江戸に入ったのは、同年の閏十一月ではないかと思われ、そうすると、閏十一月一日は十二月二十二日であるから、この月一杯、使節がいたとすれば、既に一八七三年一月となっている。

 以下、漢詩の訓読を試みる。参考にすべきものがないので、自然流でやる。

   *

天保三壬辰(みづのえたつ/じんしん)の冬

維(こ)れ 月(げつ)の閏餘(じゆんよ) 當(まさ)に黃鐘(わうしやう/くわうしき/くわうしき)たり

初めの九日 天 漸(やうや)く霽(は)れ

滿地(まんち) 風 無く 曉(あかつき)の色 濃し

聘使(へいし) 此の日 東台(とうたい)に上(のぼ)る

虎旗(こき) 龍刀(ろんとう) 部伍(ぶご) 雄(ゆう)たり

正使 豐見城王子(とよみぐすくわうじ)

烏冕(うべん) 玉帶(ぎよくたい) 錦袍(きんぱう) 紅(くれなゐ)たり

身は花轎に駕(が)して 簾(すだれ) 半(なかば)捲(ま)きたり

朱顏 黑髭(こくし) 中山(ちゆうざん)の風(ふう)

賛度(さんど)の親雲(おやくも) 左右に連なり

副使の親方 澤岷を稱す

紫袍(しはう) 白鬚(はくしゆ) 肩輿(けんよ)の中(うち)

騎馬の黃帕(わうはく) 是れ 樂正(がくしやう)

束髮 花簪(くわしん) 里之童

凉しき傘 牌符 紅 日に映ず

喇叭(らつぱ)銅角(どうかく) 響(ひび)きて 空(そら)を徹(てつ)す

見る者 滿城 群るること 山のごとく

街頭の衞護 新たに關(せき)を作る

樓上 簾翠(れんすい) 樓下(らうか)に幕(まく)し

朱門 粉壁(ふんぺき) 仙寰(せんくわん)に似たり

美服 飾粧 花(はな)の氈(まうせん)を鋪(し)く

玳瑁(たいまい) 銀簪(ぎんしん) 香鬟(かうくわん)を照らし

一望 目を驚ろかす 中山(ちゆうざん)の客(かく)

始めて信ず 扶桑(ふさう) 百蠻(ひやくばん)の冠(かんむり)たるを

吾輩(わがはい) 幸ひ 是れ 太平の臣

座して 見入る 貢(みつぎ) 萬里(ばんり)の人

萬里 波濤 南海の外(そと)

兒女 安(やすん)じて祈れ 天孫の神(かみ)

遙かに憶へ 首里 鞍(くら)を歸すの日に

說き盡(つく)せ 海東の結構の 新たなるを

   *

 あんまり上手い詩ではない。

「閏餘」一年間の実際の日時が暦の上の一年より余分にあること。既に述べた通り、天保三年は閏十一月があった。

「孽」不詳。

「黃鐘」陰暦十一月の異称。

「東台」「関東の台嶺(たいれい)の意で、東叡山寛永寺及びそ上野の山の異称。東岱(とうたい)とも表記する。

「虎旗 龍刀」「琉球人行列記」のこちらに絵図があり、「虎旗(とらのはた)」「龍刀(なぎなた)」の訓がある。「虎旗」には「ふうき」の読みも添えられている。

「部伍」隊列の組をつくること。また、その組。「隊伍」。

「豐見城王子」豊見城御殿(とみぐすくうどぅん)七世豐見城王子朝春。「琉球人行列記」のこちらに「轎」(きょう)に載った人物が描かれてあり、添書に装束は中国式の衣冠であると書かれてある。キャプションにもちゃんと彼の名が記されているのだが、この絵の人物、実は彼ではない。朝春は往路の鹿児島で客死してしまったため、急遽、普天間親雲上(おやくもい:後注参照)朝典が「替え玉」となって、豊見城王子と偽って、正使役を務めたのであった。

「烏冕」「烏」は本邦の烏帽子に擬えた言い方で、「冕」は本邦では、天子・天皇や皇太子が大礼の時に着用した礼冠。冠の上部に五色の珠玉を貫いた糸縄を垂らした冕板(べんばん)をつけたところからいう。これ自体が中国からの移入であるから、琉球王のそれは中国直伝のそれである。

「玉帶」宝玉の飾りをつけた革製の帯。貴族の束帯に用いられた。

「錦袍」錦(にしき)で作った豪華な上衣。

「黑髭」黒い口髭。

「中山」琉球国の統一王朝名。もと沖縄本島に興った山北・中山・山南の三国があったが、中山が一四二九年までに北山・南山を滅ぼし、琉球を統一した。これ以降、統一王国としての琉球王国が建国され、国号・王号は「琉球國中山王」を継承し、これは幕末の不当な「琉球処分」まで続いた。

「風」風習。

「賛度」不詳。「常に国王を讃える」の意か。

「親雲」「親雲上」(おやくもい)。沖縄方言で(ペーチン/ペークミー)は琉球王国の士族の称号の一つ。主に中級士族に相当する者の称号で、黄冠を戴き、銀の簪(かんざし)を差した。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「澤岷」「澤岻」の誤り

「肩輿」肩で担ぐ輿(こし)。先の「琉球人行列記」の図を参照されたい。拡大して見ると、輿の前後にいる担ぎ手は前後に出た引手から上方へ出た棒の上に、横に置かれた材を肩に掛けて担いでいることが判る。

「黃帕」琉球で王・世子以下の位階によって被った鉢巻。一見、冠(帽子)のように見える。「琉球人行列記」のこちらの「議衞正(きゑしやう)」とあるのが、この「樂正」(何故、こう書いたかは不明。或いは、行列の前の方にいた「樂人(がくじん)」と混同して誤ったものか)であろうから、その被り物が「黃帕」と考えてよい。

「牌符」「琉球人行列記」の前を行く者が持っている謝恩使の行列であることを示す牌板(「謝恩使」・「中山王府」)を指す。

「喇叭」「銅角」「琉球人行列記」のこちらに載る。この絵図を見ると、キャプションに「喇叭」(「喇」の字の(つくり)は「利」)には「ちやるめる」とあり、その下に「銅角(とんしゑ)」とあって、これは絵から見ても、二つの楽器ではなく、銅製の吹き口が角(つの)状に尖ったチャルメラの意ととれる。

「粉壁」江戸城の白壁であろう。

「仙寰」仙界。

「玳瑁」海亀のタイマイで作った鼈甲製の櫛か。

「香鬟」香り良き油を塗った髷(わげ)。

『恨らくは、「始信扶桑冠百蠻」の句あり』よくぞ言ったり! 馬琴先生! 今の政府の連中に先生の爪を煎じて呑ませたい!!!

「謬妄」「びやうまう」。出鱈目な理屈。

「藏板琉球狀」「琉球狀」は「琉球大学附属図書館」の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」の解説ページによれば、馬琴の盟友で、「耽奇会」「兎園会」の常連であった『江戸幕府御家人で国学者であった屋代弘賢』『が』寛政九(一七九七)年に『桑山左衛門に宛てた書簡であることが奥書に見える。本文の差し出し人である輪池先生とは屋代弘賢の号である。この書を源直温が木版を製作し、同好の識者に配布したものと考えられる。内容は、屋代弘賢が当時の琉球という名称について、各書物を引用しながら検討をしている。当時の識者が琉球に対してどれほどの知識を共有してもっていたことがうかがわれる史料である』とある。こちらで、視認でき、翻刻もこちらで読める。

「中山傳信略」清の徐葆光(ほこう)が一七二一年(本邦では享保六年)に著した琉球の地誌。全六巻。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍ビューア」のこちらで全巻を閲覧できる。

「琉球年代記」「琉球大学附属図書館」の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」の解説ページによれば、天保三(一八三二)年に『大田南畝』『の遺稿として刊行された』もので、『琉球開闢以来の歴代国王について記した「琉球年代記」、江戸上り』『の年代をまとめた「来聘年暦」、琉球国王の印の図、琉球の寺社の説明、神仏の図像、娼妓の図および説明、酒や銭に関することなど、琉球の実情・風俗を記した「琉球雑話」の項目に大別できる』とある。こちらで原本も視認できる。

「貂皮君」テンの毛革を着した謝恩使節の高官を指すのであろう。

「弓張月」馬琴の読本「椿説弓張月」(ちんせつゆみはりづき)。葛飾北斎画。文化四(一八〇七)年から同八年にかけて刊行された。全五編二十九冊。「保元物語」に登場する強弓の武将鎮西八郎為朝と琉球王朝開闢の秘史を描く、勧善懲悪の伝奇物語であり、後発の「南総里見八犬伝」とならぶ馬琴の代表作。当時は「八犬伝」よりもこちらが絶大なる人気を得た。詳しくは、参照した当該ウィキを読まれたい。

「琉球芋」サツマイモ。]

2022/10/16

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版)「目錄」+「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内「貴重和本ライブラリー」所収初版板本最後に載る僧報慈の「跋文」 / 「因果物語」オリジナル電子化注~了

 

[やぶちゃん注:「目錄は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用したが、それと全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、サイド・パネルに漢字のみの目次が電子化されてあるので(但し、新字体)、それを加工データとさせて貰った。但し、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限って読みを添えた。前で一度ふったものと同じ場合は、原則、附さないこととした。通し番号の「十一」以下は底本では半角であるが、全角で示した。

 各話へのリンクは附さないが、この目録と、別にブログ・カテゴリ「続・怪奇談集」を開いて並べて戴ければ、容易に当該話にジャンプ出来る。なお、本文と送り仮名や漢字などの表記の異なるものが多くあるが、そのままとしておき、注も附さない。因みに、「付」(本文内では「附」の右寄せポイント落ち表記)は読みはふられていないが、「つけたり」と読む。なお、本文でもそうであるが、「中」(ちゅう)の読みを「ちう」とするが、正確には、正しい「中」の現在の音「チュウ」の歴史的仮名遣は、「ちう」ではなく、「ちゆう」であることは、ここに指摘しておきたい。

 さらにその後に、参考追加資料として、本底本には存在しない、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで視認出来る初版板本(一括PDF)の最後(8687コマ目)にある跋文(カタカナ漢字交りの表記)を本底本に合わせて、ひらがな漢字交りに訓読したものを(読点を自由に追加した。読みに関しては同前)、アスタリスク三点以下に示すこととし、オリジナル電子化注の最後の手向けの花とした。当初は一部、タイピングのため、時間がかかると踏んだのだが、結局、概ね、これだけに集中作業した結果、「怪奇談集」電子化注の短期完成の記録を、今回も、十六日と、また、最短期間更新をした。

 

因果物語 目 錄

 

     上  卷

一、亡者人に便(たより)て吊(とむらひ)を賴む事夢中に吊を賴む事

二、幽靈夢中(むちう)に僧に告(つげ)て塔婆(たふば)を書直す事經書寫(きやうしよしや)を請(こ)ふ事

三、幽靈夢中に人に告げて僧を請(しやう)ずる事血脈(けちみやく)を乞ふ事

四、人を詛(のろ)ふ僧忽ち報いを受(うく)る事火炙(ひあぶ)りの報いの事

五、妬(ねた)み深き女(をんあ)死して男を取殺(とりころ)す事死して蛇(へび)と成り男(をとこ)を卷く事

六、妬み深き女死して後(のち)の女房を取殺す事下女を取殺す事

七、下女(げぢよ)死して本(もと)の妻を取殺す事主人の子を取殺す事

八、愛執(あいしふ)深き女忽ち蛇體(じやたい)と成る事夫婦蛇(ふうふへび)の事

九、夫(をつと)死して妻を取殺す事

十、罪(つみ)無(な)うして殺さるゝ者怨靈と成る事

十一、女生靈(いきりやう)夫に怨(あだ)を作(な)す事

十二、塚燒る事付塚より火の玉飛び出る事

十三、生(いき)ながら地獄に落(おつ)る事精魂(せいこん)地獄に入(い)る事

十四、弟(おとゝ)の幽靈兄に怨を成す事兄婦(あによめ)に付く事

十五、先祖を吊(とむら)はざるに因(よつ)て子に生れ來(き)て責(せむ)る事孫を喰(くら)ふ事

十六、難產にて死したる女幽靈と成る事鬼(おにご)子を產む事

十七、幽靈來(きた)つて禮を云ふ事不吉を告(つぐ)る事

十八、幽靈來りて藏(くら)を守る事亡父(まうふ)子(こ)に告(つげ)て山を返す事

十九、善根(ぜんこん)に因(よつ)て富貴(ふうき)の家に生るゝ事

二十、臨終よき人の事

      中  卷

一、神明利生(りしやう)の事御罰(ごばつ)の事

二、佛像を破り報いを受(うく)る事堂宇塔廟を破り報いを受る事

三、起請文(きしやうもん)の罰の事

四、親不孝の者(もの)罰を蒙(かうむ)る事

五、二升(ふたます)を用ふる者雷(らい)に摑(つかま)るゝ事地獄に落(おつ)る事

六、食(しよく)を踈(おろそか)にして家(いへ)亡(ほろぶ)る事

七、鳩(はと)來り御劍(ぎよけん)を守り居(ゐ)る事神前(しんぜん)の刀(かたな)にて化物(ばけもの)を切る事

八、石塔(せきたふ)人に化(ばけ)る事

九、鳩の愛執(あいしふ)の事

十、母鳥(はゝどり)子(こ)の命(いのち)に替る事猿(さる)寺に來り子(こ)の吊ひを賴む事

十一、鷄(にはとり)寺入(てらいり)する事

十二、鯰(なまず)人の夢に告(つげ)て命を乞ふ事牛(うし)夢中に命の禮(れい)を云ふ事

十三、馬(うま)の物言(ものい)ふ事犬の物言ふ事

十四、蛇(へび)人へ遺恨を成す事犬猫(いぬねこ)の遺恨の事

十五、蝮(まむし)に呑(のま)れ蘇生する者の事[やぶちゃん注:この「蝮」は大蛇の「蟒蛇」(うわばみ)の意。]

十六、大河(たいが)を覺へず走る事[やぶちゃん注:「覺へず」はママ。以下の「廿九」も同じ。]

十七、雪石(せつせき)夢物語りの事

十八、實盛(さねもり)或僧に錢甕(ぜにがめ)を告(つぐ)る事

十九、產(うま)れ子(こ)の死したるに註(しる)しを作(な)して再來を知る事

二十、幽靈來りて算用する事布施配る事

廿一、亡母(まうぼ)來りて娘に養生を敎(をしふ)る事夫の幽靈女房に藥を與ふる事

廿二、亡者錢(ぜに)を取り返す事鐵(くろがね)を返す事

廿三、幽靈來りて子を產む事亡母子(こ)を憐(あはれ)む事

廿四、生れ子(こ)田地を沙汰する事生れ子親に祟る事

廿五、常に惡願(あくぐわん)を起(おこ)す女人(によにん)の事母子(ぼし)互(ただひ)に相憎(あひにく)む事

廿六、幽靈と問答する僧の事幽靈と組む僧の事

廿七、蘇生の僧四十九の釘(くぎ)の次第を記(しる)す事

廿八、卒塔婆(そとば)化(け)して人に食物(しよくもつ)を與(あたふ)る事

廿九、夙因(しゆくいん)に依つて經を覺へざる事

三十、畜生人(ひと)の恩を報ずる事

卅一、犬(いぬ)生(うま)れ僧と成る事

卅二、殺生の報いの事

卅三、馬の報いの事

卅四、乞食(こつじき)を切(きり)て報いを受(うく)る事

卅五、幽靈刀(かたな)を借(かり)て人を切る事

卅六、精靈棚(しやうりやうだな)を崩されて亡者寺(てら)に來(きた)る事

     下 卷

一、閻魔王より使ひを受(うく)る僧の事長老魔道に落る事

二、亡者引導師により輪回(りんえ)する事引導坊主に就き行(あり)く事

三、生(いき)ながら牛と成る僧の事馬の眞似する僧の事

四、生ながら女人と成る僧の事死後女人と成る坊主の事

五、僧の魂(たましひ)蛇(へび)と成り物を守る事亡僧(ばうそう)來りて金(かね)を守る事

六、知事(ちじ)の僧(そう)鬼(おに)に打るゝ事弟子を取殺す事

七、僧の口より白米(はくまい)を吐く事板挾(いたばさみ)に逢ふ僧の事

八、無道心の僧亡者に責(せめ)らるゝ事破戒の坊主雷(らい)に逢ふ事

九、怨靈と成る僧の事

十、座頭(ざとう)の金(かね)を盜む僧盲(めくら)と成る事死人(しにん)を爭ふ僧機違(きちが)ふ事

十一、惡見(あくけん)に落(おち)たる僧自他(じた)を損(そん)する事

十二、愚痴の念佛者(ねんぶつしや)錯(あやま)つて種々(しゆじゆ)の相(さう)を見る事

十三、第二念を起(おこ)す僧(そう)病者に若(く)を授(さづ)くる事

十四、破戒の坊主死して鯨(くじら)と成る事姥(うば)猫と成る事

十五、死後(しご)犬と成る僧の事犬と成る男女(なんによ)の事

十六、死後馬(むま)と成る人の事牛と成る人の事

十七、人の魂(たましひ)死人(しにん)を喰(くら)ふ事精魂(せいこん)寺に來(きた)る事

十八、女の魂(たましひ)蛇(へび)と成り夫(をつと)を守る事餅(もち)鮎(あゆ)を守る事

十九、五輪(りん)の間(あひだ)に蛇有る事

二十、愛執深き僧蛇と成る事

廿一、慳貪者(けんどんしや)生(いき)ながら餓鬼の報いを受(うく)る事種々(しゆじゆ)の若(く)を受る事

   目錄を安ずるに、因て、年代を前後す。又、當時、現存する人、其名を除く者、多也。

[やぶちゃん注:最後の添え辞の最後の読みは「多きなり」であろう。]

 

   *   *    *

 

師、平日(へいじつ)、人(ひと)、耒(き)たり、右の如き事を語るを聞く毎(ごと)に嘆じて曰はく、「かほど大事なることを知らず、人毎(ひとごと)に死ねば、なにも無きやうに思ひ、後世(ごせ)を恐れる人、なく、𢙣(あく)を愼む者、なし。扨々(さてさて)、笑止千万也。」。亦、曰はく、「是(か)くの如くの物語(ものかたり)を聞(きゝ)ても、恐(をそる)る心なきは、業障(ごふしやう)の深き故(ゆへ)也。」と云云。誠(まこと)に此の書を余所(よそ)に見るは、愚(おろか)なる心(こゝろ)なり。皆、是れ、人々(にんにん)、一念上(ねんしやう)の事(じ)也。念力の作(な)す処(ところ)、右、種々(しゆじゆ)の事(じ)を見て、自己を慚愧(さんぎ)すべし。「經(きやう)」に曰(《いはく》)、『假使(たとひ)、百千劫(ひやくちんがう)、作(つく)る所《ところ》の業(がふ)は亡《ほろ》びず。因緣(いんゑん)の會遇《えゑぐう》の時(とき)、果報、還(かへ)りて、自(おのづか)ら受く。』と說(と)き玉(《たまふ》)。此の文(もん)を信(しん)にして、𢙣(あく)をも成すべからず。况んや、亦、一念、纔(わづか)に生(しやう)すれば、生死(しやうじ)に輪廽(りんね)して、永刧(やうがう)、浮ぶこと、無し。誰(たれ)か、是(これ)を悲しまざらんや。此の外(ほか)、何ことか大事あらんや。是(かく)の如く、見得(けんとく)して心頭(しんとう)に眼(まなこ)を著(つ)けば、此の書の本意(ほんい)なり。若(も)し又、自己(じこ)を忘れて、他(た)の事となさば、佛祖も亦、救ふこと、得(ゑ)ず。甚だ、懼るべし。開板助縁 報慈比丘書

 

[やぶちゃん注:句読点や記号は私が打った。歴史的仮名遣の誤りはママ。読みの一部を送り仮名に出した。《 》部分は、汚損が激しいため、推定での読みを示したもの、或いは欠損している読みを振ったもの。「經に曰」はく、の「經」は「華厳経」の一節である。冒頭の書き出しから、筆者の報慈(ほうじ)という僧は鈴木正三の弟子の僧である。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「二十一 慳貪者生ながら餓鬼の報いを受くる事 附 種々の若を受くる事」 / 「因果物語」本文~了

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「二十一 慳貪者生ながら餓鬼の報いを受くる事 附 種々の若を受くる事」 / 「因果物語」本文~了

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   二十一 慳貪者(けんどんしや)生(いき)ながら餓鬼の報いを受くる事

       種々(しゆじゆ)の若(く)を受くる事

 江州肥野(ひの)の谷(たに)、石原村に道節(だうせつ)と云ふ福人(ふくにん)、有り。慳貪(けんどん)、無道心なること、類ひ無し。

 七十歲にて、生きながら、餓鬼と爲つて、大食(たいしよく)、限り無し。一日に四、五升、飯(めし)喰(く)ひして、終(つひ)に、あがき、死す。

 六十日目に、己れが婦(よめ)に取り憑き、

「飯、喰ひたし、飯、喰ひたし、」

と、呼ばはること、十日ばかりなり。是は、樣々、吊(とむら)ひければ、頓(やが)て本復(ほんぶく)す。

 彼(か)の道節兄(あに)も、乾(かわ)き病(やまひ)にて、大食、限り無し。大桶(おほをけ)に食(めし)を入れ、晝夜(ちうや)共に、喰(く)ひ次第に喰はせけるが、百日程、際限もなく喰ひて、終に死しけり。

 大塚(おほつか)にて、確(たしか)に聞くなり。

[やぶちゃん注:「江州肥野の谷、石原村」滋賀県蒲生郡日野町(ひのちょう)石原

「福人」金持ち。

「慳貪」吝嗇(けち)で欲張りにして、無慈悲なこと。

「乾き病」この場合は、異常な多食症状を指す。]

 

〇江州かばた村、孫右衞門と云ふ者、法體(ほつたい)して西源(せいげん)と名付く。

 或夜(あるよ)、大入道(おほにふだう)に責(せめ)られ、其後(そのゝち)、荒男(あらをとこ)に縛り吊(つる)され、火に入れ、水に入れ、色々、呵責(かしやく)せらるゝ程に、後(のち)には雪隱(せついん)などに隱れけれども、尋ね出(いだ)して責め、終(つひ)には、五十日程に、責め殺されたり。所の代官治右衞門、語るを、平右衞門、聞きて語るなり。

[やぶちゃん注:「江州かばた村」『中卷「三 起請文の罰の事」』にも出たが、不詳。再度、識者の御教授を乞う。滋賀県針江の古くからある浄水システム「かばた」(川端)は知っているが、ここは確かな村名である。ただ、今回、「代官」の名として「治右衞門」が出たので、これがヒントにはなりそうだ。但し、変名(特に代官職の場合、可能性が高い)であるとすると、お手上げである。

「雪隱」せっちん。便所。]

 

〇越前鶴河(つるが)に、隱れ無き分限者、有り。貪慾深き者なり。

 寬永廿年六月の末(すゑ)に、難病を受け、眼(まなこ)を皿程に見出(みいだ)し、金銀を取出(とりいだ)し、積ませ、

「此の金にて、養生して、命を助けよ。」

と云ふて若(くる)しみけり。

「今日(けふ)、死ぬ、今、死ぬ、」

と云ふて、廿日程、强く若痛(くつう)して、怖しき有り樣(さま)にて、死す。

 押籠(おしこめ)て置くに、又、活返(いきかへ)り、匍(は)ひ回りけるを、敲(たゝ)けども、死せず。

 爲方無(せんかたな)く、終(つひ)に、切り殺すなり。

 死骸の捨樣(すてやう)、知りたる者、なし。

[やぶちゃん注:「鶴河」福井県敦賀。

「寬永廿年」一六四三年。]

 

〇京、西魚屋町(にしうをやまち)に、骨屋與宗右衞門(ほねやよそうゑもん)と云ふ者、有り。内裏樣(だいりさま)へ肴(さかな)を上ぐる魚屋なり。

 勝(すぐ)れて慳貪の者なりしが、老いて後(のち)、本願寺にて、剃刀(かみそり)を頂き、法體(ほつたい)せんとするに、髮、更に、切れず。

 剃刀、七本、合(あは)せて、取替(とりか)へ、取替へ、剃れども、切れず。

 餘(あま)り、爲方なく、鋏(はさみ)にて、鋏み切りて置きけり。

 死期(しご)に、火の病(やまひ)を受け、狂ひける程に、數多(あまた)、看病して居(ゐ)たるに、何(いつ)の間(ま)にか、井(ゐ)の中へ入りて、死にけり。

 寬永十七年の事なり。

 水翁(すゐわう)、物語(ものがたり)なり。

[やぶちゃん注:「京、西魚屋町」「江戸怪談集(中)」の注に、『中京区竹屋町押小路通柳馬場西入』(たけやちょうおしこうじどおりやなぎのばんばにしいる)『のあたりにあった』とある。この附近

「火の病」重傷の熱病。冷やしたくなる故に井戸に入水したのであろう。熱性マラリアと思われる。

「寬永十七年」一八四〇年。]

 

〇攝州大坂、天滿(てんま)、高倉屋庄衞門と云ふ者の母、勝(すぐ)れて慳貪なる者にて、恒(つね)に婦(よめ)を、せこめけること、限りなし。

 七十餘歲にて、煩ひ付き、命限(いのちかぎ)りの時、怖しき有樣(ありさま)にて、死す。

 三日目、大(おほき)なる蟇(かへる)、蚊屋の内へ入(い)つて、婦に喰(く)ひ付くこと、度々なり。

 下女、心得て、此の蟇を捉(とら)へて、耻(はぢ)しめ、惡口(あくこう)して、敲き出(いだ)しければ、再び、來たらず。

 其後(そのゝち)、婦を許して、寺社堂塔へ參詣させし、となり。

[やぶちゃん注:「攝州大坂、天滿」

「せこめけること」「せこめる・せごめる」(他動詞マ行下一段活用)或いは「せこむ」(同下二段活用)は「責める・いじめる・虐待する・ひどい目にあわせる」の意。鎌倉中期の経尊(きょうそん)の著になる建治元(一二七五)年成立の語源辞書「名語記」(みょうごき)に既に載る。同書は当時の語彙を、まず、音節数で分類し、次いで第二音節までを、イロハ順に配列、相通・反音・延音・約音などを用いながら、語源を問答体で記してある。なお「名」は「体言」を、「語」は「用言」を指し、他に「テニハ」などの名称もあって、品詞分類の萌芽が見られる辞書とされる(書名解説は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「大なる蟇(かへる)」ヒキガエル。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」を参照されたい。

「心得て」蟇がその「高倉屋庄衞門」の亡き母の変じたものだと判って。

「耻しめ、惡口して」ここでは、ヒキガエルに正面から向って立ち、母の名をじかに名指して、かく、したものであろう。こういう場合、民俗社会では、相手の正体を正しく先に名指すことで、対象者たる鬼神や変化(へんげ)の物は、後手に回る側に落ち、引いては、退散するケースが多いからである。

「婦を許して」亡き母が主語である。今までの本書に例を見るに、彼女の夢に出て、「寺社堂塔へ參詣」して菩提を弔って呉れ、とでも言ったというのであろう。]

 

〇京、新在家(しんざいけ)、角屋永春(かどやえいしゆん)、女房、常に煩ひ故、永春、悔いて、

「町人は、女房の營(いとなみ)を以つて、世を渡るに、其方(そのはう)が樣(やう)に、常に煩ひて、何の用(よう)にも立たず、男の若勞(くらう)になる。死なば、早く、死にもやらで。」

と、折々、云ひける處に、女房、煩ひ、重り、死期(しご)に及ぶ時、永春を近付(ちかづ)けて、「我、日比(ひごろ)、煩ふに付き、『早々(はやはや)、死ねがし。』と、度々(たびたび)申されけるが、唯今、相果(あひは)つる間(あひだ)、定めて、本望たるべし。」

と云ふ。

 永春も、少し、いぶせく思ひ、何かと、陳(ちん)じけれども、女房、聞きも入れず、終(つひ)に死す。

 さて、一兩日、過ぎて、夜半(やはん)の比(ころ)、永春が家へ、裏の口を敲(たゝ)く。

 永春、寢間(ねま)近き間(あひだ)、起きて、

「何者ぞ。」

と云へば、我(わが)女房の聲にて、

「此の戶を、明け給へ。」

と云ふ。

 永春、以つての外に驚き、寢間へ逃入(にげい)り、戶を鎖(さ)して居(ゐ)けるに、

「此の戶を明け給はずは、表の口ヘ廻(まは)るべし。」

と呼(よば)はると否(いな)や、表の戶を、

「さらり」

と明けて、寢間へ走り入つて、永春が肩に、したゝかに、咬(く)ひ付く。

 内の者ども、聞き付け、火(ひ)を燃(とも)して見れば、永春、殺入(せつじ)す。

 其家(そのいへ)の向かひに、宗愚(そうぐ)と云ふ醫者、有り。呼び寄せ、氣付(きつけ)を與へければ、漸々(やうやう)、活(い)き返る。

 此の疵(きず)、癒えて後(のち)まで、牙痕(はあと)、失せず。

 同じ町の正庵(しやうあん)と云ふ人、委しく知つて語るなり。

 寬永の初めの事なり。

 

 

因果物語下卷大尾

[やぶちゃん注:「京、新在家」地名。「江戸怪談集(中)」の注に、『上京区中立売通新元町』(なかだちうりどおりしんもとちょう)『のあたりの旧地名』とある。ここ

角屋永春(かどやえいしゆん)、女房、常に煩ひ故、永春、悔いて、

「少し、いぶせく思ひ」ちょっと気詰まりに思って。

「何かと、陳(ちん)じけれども」いろいろと、弁解して謝ったりしたが。

「殺入」既出既注。「絕入」(ぜつにふ(ぜつにゅう))に同じ。気絶すること。

「寬永の初め」寛永は元年は一六二四年で、寛永二十一年まで。

 この後に奥附があるが、私の底本と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの画像の当該リンクに留める。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「二十 愛執深き僧蛇と成る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   二十 愛執深き僧蛇と成る事

 下總(しもふさ)の國、結城の高顯寺に、恩貞(おんてい)と云ふ若僧、有り。本國は尾州折津(をりづ)、義恩(ぎおん)長老の弟子なり。

 九州より下る周慶(しうけい)と云ふ僧、館林(たてばやし)、善長寺に居(きよ)す。此の僧、高顯寺の江湖(かうこ)へ來て、恩貞に戀慕(れんぼ)して、煩(わづら)ひと成る。

 善長寺に歸つて、彌々(いよいよ)、憬(あこが)れ、終(つひ)に臥し居(ゐ)たり。

 恩貞、古き袷(あはせ)を、周慶に出(いだ)しければ、是を引きさき、引きさきして、喰(く)ひ盡(つく)し、次第々々に、煩ひ、重くなり、終に死期(しき)に究(きはま)る。

 然(しか)れども、死に難(かね)て、若患(くげん)かぎりなし。

 善長寺、泉牛(せんぎう)長老、恩貞指南坊主へ、右の子細を具(つぶさ)に云ひ遣はして、恩貞を呼び寄せ、周慶に引き合はせければ、目を見出(みいだ)して、手を取り、悅びけるが、則ち、死す。

 其後(そのゝち)、恩貞、伏したるふとんの下に、何やらん、動きけるを、振ひ出(いだ)し、見れば、白き蛇なり。

 六、七度、殺して、串(くし)に指(さ)して捨てけれども、終に絕へず。

 然(しか)る間、關東に居る事、叶はずして、尾張へ歸國しけれども、彼(か)の僧の面影、身に添ひ、畏毛立(おぞけだ)ちて、煩ひに成り、次第々々によわり、終に死す。

 其時まで、蒲團(ふとん)の下に、白蛇、有り。

 確(たしか)に、諸人(しよにん)、知りたる事なり。

[やぶちゃん注:本書で初めて出る男僧の同性愛譚二連発!

「下總(しもふさ)の國、結城の高顯寺」茨城県結城市結城にある曹洞宗天女山永正禅林泰陽院孝顕寺(てんにょざんえいしょうぜんりんたいよういんこうけんじ)。

「尾州折津」愛知県一宮市の南方に接する稲沢(いなざわ)市下津町(おりづちょう)と思われる。「江戸怪談集(中)」の注でも、そこに比定している。

「義恩長老」不詳。

「館林、善長寺」群馬県館林市当郷町(とうごうちょう)にある曹洞宗巨法山(こほうざん)観音院善長寺

「江湖」は既出既注。「がうこ」が正しい。夏安居(げあんご)。

「袷」裏地のある長着のこと。

「恩貞指南坊主」恩貞の師匠。

「目を見出して」目を大きく見開いて。]

 

〇關東にて守誾(しゆきん)と云ふ僧、若僧(にやくさう)に戀慕して、其の念、蛇と成りて、若僧の居(ゐ)たる寮(れう)の、窓より、見入れて居(ゐ)たり。

 若僧、「双紙(さうし)きり」にて、蛇(へび)の目を、つきければ、隣りの寮の僧、「あつ。」

と云ふて、呼ぶ。

 其の由を聞けば、俄かに、片目、つぶれたり。

 其後(そのゝち)、徧參して步きけるが、

「蛇守誾(へびしゆきん)。」

と、人々、云ふなり。

 天正年中の事なり。

[やぶちゃん注:「守誾」読みの「しゆきん」はママ。この漢字の音は「ギン・ゴン」である。初版板本84コマ目)でもママで、唯一、「江戸怪談集(中)」が正しく『しゆぎん』と振る。但し、それが同書の底本である東洋文庫岩崎文庫本でそうなっているかは、現物が見られないので、判らない。高田先生が補訂された可能性もある。先行する『上卷「三 幽靈夢中に人に告げて僧を請ずる事 附 血脉を乞ふ事」』の第二話に全く同名のバイ・プレイヤーとして庫裡坊主「守誾」(但し、そこでは「しゆぎん」と正しい読みが示されてある)が登場するが、同一人物かどうかは不明。同一人物とすると、長老らを除けば、陰鬱なる主人公としての返り咲きという有難くない特異点となる。

「双紙きり」「双紙錐」。草紙を綴るために穴を開けて糸を通すための錐。

「天正年中」一五七三年から一五九二年まで。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十九 五輪の間に蛇有る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十九 五輪の間(あひだ)に蛇有る事

 尾州萬松寺(ばんしようじ)の末寺、福壽院の旦那、大谷八兵衞(おほたにはちびやうゑ)と云ふ人、死す。

 五輪を立て、第三年の時、

「此五輪の臺、ひくし。切直(きりなほ)さん。」

とて、五輪を取放(とりはな)して見れば、五輪の間に、白き蛇、平(ひらた)く成りて居(ゐ)たり。

 其時の奉行、八兵衞内(うち)の佐右衞門(さゑもん)、是を見て、不思議に思ひ、五輪の切合(きりあは)せを見るに、如何にも、能く切合(きりあは)せたり。穴も、四寸程、深し。「ほぞ」も四寸程、有り。

 彼の蛇、平(ひらた)く成りてありしが、俄(にはか)に大くなりて、怖ろしく、見る中(うち)に、穴、一盃(いつぱい)に成りたり。

 此由、子息の八兵衞に告(つげ)ければ、

「知音(ちいん)に、修行者(しゆぎやうじや)有り。」

とて、此人に語りければ、此人、

「目出度(めでたき)事なり。神に成り給ふ。」

と云ふ。

 子息、悅び、酒など、持來(もちきた)り、福壽院にて祝ひけり。

 其後(そのゝち)、本秀和尙、名古屋へ出で給ふに、子息、此由を語る。

 和尙、聞きて、

「是、能き事に非ず。畜生道(ちくしやうだう)へ落ちたり。」

と云ひ給へば、諸人(しよにん)、大に驚く、となり。

 見出したるは、寬永六年三月十八日なり。

 其石塔、今に彼(かの)寺に有り、となり。

[やぶちゃん注:「尾州萬松寺」愛知県名古屋市中区大須にある織田信長(織田信秀により織田氏菩提寺として那古野城の南側に建立されたのが最初)や徳川家康を始めとする戦国武将との縁が深く、名古屋の歴史的観光名所にもなっている亀岳林万松寺。元は曹洞宗であるが、二〇一六年曹洞宗との被包括関係を廃止し、現在は単立寺院。

「福壽院」同じく大須にある曹洞宗福寿院。万松寺の南直近。

「奉行」ここでは、五輪塔改修の総責任者の意。

「五輪の間」五輪塔は全部を個別に作って積み上げた場合、安定が悪いので、古いものを見ても、一番下の方形の地輪の上に「ほぞ穴」を彫り、そこに上部が球状の水輪の下部に「ほぞ」を残して加工し、それを嵌める方法がとられた可能性が高い(少なくとも、現在の新しい五輪塔ではそうした形で組み合わせることが多いように思われる。その上の下から順に笠形の火輪・風輪・空輪のは、私が鎌倉で実地観察した限りでは、古い時代のものは三つを同一の石で掘り出したもの、或いは、上部の風輪と空輪は一緒の石であるものが殆んどである。蛇が出現する部分としても最初に述べた地輪の上部が、映像的にもスペース的にも相応しい。

「本秀和尙」既出既注

「寬永六年」一六二九年。]

 

〇武州江戶、吉祥寺(きちじやうじ)の下、溜池(ためいけ)大堤(おほづつみ)の際(きは)に、淨土寺あり。水戶樣御屋敷に成り、池を埋め給ふ時、此淨土寺の卵塔、土取場(つちとりば)に成る。

 此時、一つの五輪の中に、白き蛇、二筋(ふたすぢ)、からみ合うて、あり。

 見る中(うち)に、大(おほき)になり、一尺七寸程あり。

 是を放しければ、三度(ど)まで、からみ合(あ)うて、去りけり。

 役(やく)の者ども、皆、是を見る時、住持、此二つの蛇を取り、水船(みづぶね)に入れ置きて、人々に見せ、

「今に生きて居(ゐ)たり。」

とて、悅びけり。

「此住持、吊(とむら)うて、畜生になし、利口(りこう)する事、扨々(さてさて)、淺ましき事なり。」

と、人に云はれて、耻(はぢ)をかきけり。

 其亡者の娘、七、八歲に成りけるが、來り、見て、彼(か)の二つの蛇を、持ちて歸るなり。

 其亡者は、前田何某(なにがし)と云ふ人なり。霜月十三日に熱病を煩ひ、死す。女房は六年後、霜月十三日に死すなり。

[やぶちゃん注:「吉祥寺」これは、以前に出た、東京都文京区本駒込にある太田道灌が創建した曹洞宗諏訪山吉祥寺であろう。現在の東大キャンパスの北西部分から北西にあった水戸藩中屋敷に近い。

「溜池(ためいけ)大堤(おほづつみ)の際(きは)に、淨土寺あり」東京都文京区にある浄土宗願行寺(がんぎょうじ)か。東大キャンパスの直近北西で水戸中屋敷直近である。

「卵塔」ここでは「卵塔場」で広義の「墓場」の意。

「一尺七寸」五十一センチメートル強。

「役」池埋めの人夫。

「水船」飲料水を貯めて置く大きな箱・桶。

「利口」軽口を言うこと。冗談。]

昨日クルーズ 第二海堡到達

昨日は、親友のヨットで、クルーズ、念願の第二海堡に到達、その沖で昼食を摂り、往復、六時間足らずで、無事、ハーバーへ帰った。浦賀水道の巨大タンカーの混雑水域で、行きと帰りに警告の汽笛を受けたが、久し振りに、とても楽しかった。

Google-map
グーグル・マップから私がトリミングした第二海堡
Jps
親友のスマホGPS画像(以下、親友の撮影)
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帰途、安全海域で梶取(右は妻)

2022/10/15

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十八 女の魂蛇と成り夫を守る事 附 餅鮎を守る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。

 なお、この「附」(つけたり)の「餅(もち)鮎(あゆ)を守る事」というのは、後の二条の標題としては、判り難い。稲霊(いなだま)の象徴である餅の霊異ということではあろうものの、今一つ、因果発動の機序と、被害を受ける餅搗きの罪のない女性の災難(額に火傷痕が残るのは深刻だ)の連関性が不明であり、本書中、特異点の「訳の分からぬ話」である。そもそも、標題にマッチしなくてはならない第二話は、「餅」が「鮎」を守っている関係性が話柄の中で明らかになっているようには読めない。寧ろ、これは全国に散在する餅の禁忌(餅を作らず、決して食べない)との連関が強くあるようには私は感ずるが、それはしかし、思うに、仏教とは無関係な、本邦独自の古い民俗信仰が根っこにあると私は考えており、それを因果話に安易に繋げた結果として、話が上手く機能しなくなっているのではないかと疑っている。識者の見解を乞うものである。

 

   十八 女の魂(たましひ)蛇と成り夫を守る事

      餅(もち)鮎(あゆ)を守る事

 江州大津、加賀藏(かがくら)の前(まへ)の、銀冶(かぢ)與兵衞(よひやうゑ)、加賀の城、燒けたる時、釘作(くぎつく)りに行きける處に、蛇、三度(ど)來(きた)りて、與兵衞を守り居(ゐ)る處を、何(なに)となく、燒釘(やけくぎ)を、蛇の頭(かしら)に當てければ、蛇、去りぬ。

 其時節、大津にて、鍛冶の女房、

「わつ。」

と云ふ。

「何事ぞ。」

と問へば、

「何者やらん、額(ひたひ)に燒鐵(やきがね)を當てたり。」

と云ふ。

 額の燒迹(やけあと)、後(のち)まで有り。

 要津(えうしん)和尙、此女を見給ふに、懺悔(ざんげ[やぶちゃん注:ママ。])して語るなり。

 慶安元年の比(ころ)、六十餘りなり。

[やぶちゃん注:「江州大津、加賀藏」加賀藩蔵屋敷跡。何故、加賀藩の蔵屋敷が大津にあり、それがどこかは、公益財団法人「滋賀県文化財保護協会」公式サイト内の「新近江名所圖絵第206回 大津蔵屋敷の面影を訪ねて(その1)」に詳しく記されてある(地図もある)ので、そちらを読まれたい。

「加賀の城、燒けたる時」慶長七(一六〇二)年に天守が落雷によって焼失ことを指すものと思われる。ウィキの「金沢城」によれば、『代わりに三階櫓が建造された。また、この頃から金沢城という名称が定着した』とある。

「要津和尙」滋賀県米原に名庭園で知られる曹洞宗吸湖山(きゅうこさん)青岸寺があるが、そのウィキに、『室町時代の延文年間』(一三五六年~一三八一年)、『近江守護の佐々木道誉が不動山の山号と米泉寺の寺号で開創した』。『その後、戦国時代に焼失したが、慶安』三(一六五〇)年、『彦根藩主井伊直澄の命により』、『彦根大雲寺の要津守三』(ようしんしゅさん:☜)『が入山し、敦賀の伊藤五郎助の寄進により再興された』。明暦二(一六五六)年、『伊藤五郎助が卒したことを悼み、彼の諡(おくりな)である青岸宗天に因んで寺号を青岸寺、山号を吸湖山に改めた。寺は曹洞宗に改宗し、大雲寺の末寺となった。再興時に作られた庭園は彦根の玄宮園・楽々園築庭のために庭石が持ち出され、荒廃していたが、後に彦根藩士の香取氏により』延宝六(一六七八)年に『再築された』とある著名な曹洞僧である。

「慶安元年」一六四八年。]

 

○濃州(ぢようしう)東郡(ひがしぐん)「なれ」と云ふ村、長井圓齋(ながゐゑんさい)、家(いへ)にて、鮎を燒くに、蛇、來(き)て、油を舐(なむ)る。

 火箸を燒きて、頭(かしら)に當てければ、庭にて、物(もの)搗く女(をんな)の額(ひたひ)、燒けたり。寺西權兵衞(ごんひやうゑ)、

「圓齋、口(くち)より、聞きたり。」

と語るなり。

[やぶちゃん注:『濃州東郡「なれ」と云ふ村』「東郡」という郡は美濃国に存在しない。「なれ」という特異な地名は、現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびがわちょう)谷汲名礼(たにぐみなれ)ここかどうかは不明。

「長井圓齋」「寺西權兵衞」孰れも不詳。この短さで二名の人物がフル・ネームというのも珍しい。正三自身、この話を採録するに、因果譚としての意味がよく分かっていなかったのではないか? ともかくも怪異な話であり、そこに人智を越えた因果が働いていると無理矢理こじつけるため、リアルさを出さんがための操作のような気さえするのである。却って、周辺的デーティルを飾ってしまった結果、そうした嘘臭さが露わになっている感さえある(噂話特有の、また聴(ぎ)きだし)。正三自身がそれを感じて――因果の関わりに不明な点はあるが、これは私が創作したのではなく、「寺西權兵衞」が「長井圓齋」からじきに聴いた確かな事実なのである――と必死に弁解しているような感じさえ、おぼえるのである。

「油」鮎を焼く時に滴る脂(あぶら)。

「物」「餅」ととっておくが、次の話柄でもそうだが、何故、「餅」と言わないのか? が気になる。私がこれと次の話が「餅の禁忌」と連関が強くあると感じたポイントは、まさのこの「物」という言い方にあるのである。タブーに於いては、その対象を明確に名指すことを激しく忌避するからである。

 

○上州前橋、太郞左衞門處(ところ)にて、内匠(たくみ)と云ふ人、餅を炙る處へ、小蛇(こへび)、來て、是を舐むる。

 内匠、持ちたる火箸にて、蛇の頭(かしら)を突きければ、下女、庭にて、物(もの)搗きて居(ゐ)ながら、

「あつ。」

と叫ぶ。

「何事ぞ。」

と問へば、

「額に、燒鐵(やきがね)を、當て給ふ。」

と云ふ。

 是を見るに、眞(まこと)に燒鐵の迹(あと)、付きたり。

 元和年中の事なり。

 彼(か)の太郞左衞門、語るを、確(たしか)に聞くなり。

[やぶちゃん注:「元和年中」一六一五年から一六二四年まで。]

2022/10/14

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十七 人の魂、死人を喰らふ事 附 精魂寺ヘ來る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十七 人の魂(たましひ)死人(しにん)を喰(く)ふ事

      精魂(せいこん)寺ヘ來る事

 山城より、丹波へ行く路の、沓掛(くつかけ)と云ふ所に、太郞兵衞(たらうびやうゑ)と云ふ者、京四條の多葉粉刻(たばこきざ)み、喜右衞門と云ふ者、近付(ちかづき)にて、恒々(つねづね)、出入(しゆつにふ)す。

 或時、

「沓掛より、京へ行く。」

とて、桂川(かつらがは)を渡れば、頓(やが)て、廟處(べうしよ)、有り。

 死人(しにん)を捨て置きたり。

 見れば、喜右衞門、日比(ひごろ)、癩病氣(らいびやうけ)なるが、彼(か)の死人(しにん)を、小刀(こがたな)にて、切りて、喰ひ居(ゐ)たり。

『さて。不思議なり。』

と思ひ、行きければ、案の外(ほか)、喜右衞門は、家に伏して居(ゐ)る。

 起こして對面すれば、喜右衞門、

「不思議なる夢を、見たり。」

と云ふ。

「何事ぞ。」

と問へば、

「桂川の渡りにて、死人を喰ふて、口の腥(なまぐさ)き事、限りなし。」

と云ふ。

 太郞兵衞、それにて、有(あり)の儘に語りければ、喜右衞門、聞いて、驚き、

『あさましきこと哉(かな)。』

と思ひ、髮を剃り、家を捨て、發心して後(のち)、癩病も、大方(おほかた)、能く成りて、乞食(こつじき)しけり。

 彼の太郞兵衞も、道心を發(おこ)し、慈悲を專(もつぱ)らとして、不斷念佛せし、となり。

 太郞兵衞、直(ぢき)に語るを聞きて、野尻萬助(のじりまんすけ)と云ふ人、一心(いつしん)と云ふ禪門に成りて、確(たしか)に語るを、寬永十八年の霜月に聞くなり。

[やぶちゃん注:「沓掛」「江戸怪談集(中)」の注に、『京都市西京区大枝沓掛町』(おおえくつかけちょう)、『丹波街道老の坂峠の京都側』とある。こ「老の坂峠」は国土地理院のここに相当し、グーグル・マップ・データ航空写真ではここ。大江山(大枝山)北山腹の峠である。

「多葉粉刻み」葉煙草を刻んで、販売する職人。当時は「賃粉(ちんこ)切り」と呼ばれていた。刻み方の好みも時代によって変わってようで、江戸初期は荒く太いものが好まれたが、中期頃には細く糸のように刻むのが好まれるようになった。

「桂川を渡れば、頓て、廟處、有り。死人を捨て置きたり」現在の桂川を渡った左岸の右京区の西院付近は中古以来、風葬の地として知られていた。

「癩病氣」ハンセン病に罹ったような感じ。「江戸怪談集(中)」の注に、『癩病。人肉食によって治癒すると考えられていた。』とある。ハンセン病については、既にこちらで既出既注であり、これも前に注したが、近代以前には、世界的に諸病(特に難病)の特効薬として人糞や人肉を食べる迷信や習慣が広くあった。ハンセン病に人肉が効くという迷信で、最も知られる事件は「野口男三郎(だんざぶろう)事件」であろう。野口男三郎(明治一三(一八八〇)年~明治四一(一九〇八)年七月二日死刑執行)は、謀殺強殺犯の他、著明な漢学者でハンセン病に罹患していた野口寧斎(妹の曾江子は男三郎の妻であった)、及び、野口に人肉を薬として与えんとして十一歳の少年を殺した犯人としても疑われ、結局、薬局店経営者強殺が認定され、絞首刑に処せられた。簡略なものは、『芥川龍之介「VITA  SEXUALIS」やぶちゃん語注』の「野口男三郞の事件」を見られたいが、事件の詳しい全容はウィキの「臀肉」(でんにく)「事件」(同猟奇的疑惑事件の別称)がよかろう。

「野尻萬助」「一心と云ふ禪門」不詳。

「寬永十八年の霜月」一六四一年十二月。]

 

〇賀州、牢奉行、五郞左衞門と云ふ者、後生願(ごしやうねが)ひにて、每月、親の忌日(きにち)に寺へ參る也。

 或時、融山院(ゆうざんゐん)へ來たつて、

「某(それがし)、煩ひ故、御寺へも參らず。」

と云ふて、茶の間にて、茶二、三服(ぷく)、呑みて、歸る。

 明日(あくるひ)、納所(なつしよ)、行きて、

「御煩(おんわづら)ひを存ぜぬ故、見舞ひ申さず、無沙汰なり。扨(さて)、昨日(きのふ)は、能く御出でそろ。」

と云へば、妻子、云ひけるは、

「五郞左衞門は、以ての外に煩ひて、立居(たちゐ)も叶はず、結句、昨日、今日は、取分(とりわ)け、煩ひ若(くる)しき故、『寺參りも成らず、無念なり。』と申されし。」

と語るなり。

[やぶちゃん注:しばしば見られる生霊の寺参りである。

「賀州」加賀国。

「融山院」現在の石川県金沢市寺町にある曹洞宗円通山融山院。元和九(一六二三)年に丹波国円通寺の住持であった融山泉祝が、加賀藩家老横山長知(ながちか)の請(しょう)を受け、八坂で松山寺を建立したが、その後、彼が隠居して結んだ庵が同寺の発祥。三千坪を有する伽藍となったが、幕末・明治の廃仏毀釈で堂宇は消滅した。後、明治の末に現在地に再建したが、第二次世界大戦の空襲で損壊し、現在も仮本堂の状態である(以上は上記リンク先のグーグル・マップ・データのサイド・パネルの解説版写真に拠った)。]

 

〇尾州名古屋、相見寺(さうけんじ)の小姓(こしやう)を、さる御方(おんかた)へ召仕(めしつか)はれけるが、科(とが)有りて、切腹す。

 彼(か)の小姓、寺へ來(きた)り、緣端(えんばな)に手を掛けて、

「菩提を、助(たす)け給へ。」

と云ふ中(うち)に、消え失せたり。

 其時刻を考ふれば、切腹したるより、少し、前方(まへかた)なり。

 閩山(みんざん)和尙の代なり。

[やぶちゃん注:「相見寺」「江戸怪談集(中)」の注に、『現名古屋市中区大須の』興聖山(こうしょうざん)『総見寺。臨済宗妙心寺派に属した。』とある。ここ同寺の公式サイトのこちらに、『織田信雄(のぶかつ)が父・信長を弔うために伊勢国桑名郡の安国寺を引き取り、忠嶽和尚を開山に迎え天正十一年』(一五八三)『に現在の地に「景陽山総見寺」を建立した。しかし、慶長十五年』(一六一〇)『「清須越し」によって名古屋大須に移る』。『名古屋総見寺の三代住職閩山永吃(みんざんえいきつ)和尚』(☜)『は、尾張初代藩主・徳川義直公と亀姫(徳川家康公長女)の御両人から並々ならぬ帰依を受け、義直公自らが開基大檀那となって正保元年』(一六四四)『「興聖山總見院」を現在の地に創建し、閩山和尚を開山に迎え、信長公の菩提を弔うよう命じたのが始まりである』とある。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十六 死後馬と成る人の事 附 牛と成る人の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十六 死後馬と成る人の事

      牛と成る人の事

 江州大津、車路町(くるまみちまち)に、左兵衞(さひやうゑ)と云ふ者、月毛馬(つきげうま)三寸(ずん[やぶちゃん注:ママ。])程なるを、二、三年、持ちて、腰を折(くじ)かせ、直段(ねだん)下(さが)り、草津の淸兵衞(せいびやうゑ)と云ふ者に賣るなり。

 寬永十六年三月の比(ころ)、人、二人(ふたり)、來つて、此馬を尋(たづ)ぬ。

「何事ぞ。」

と問へば、

「斯樣々々(かやうかやう)の馬、草津に有りと聞けども、尋ね逢はず。是(これ)に久しく有る由、承はる。草津の馬主(うまぬし)へ、案内者(あんないしや)を賴みたき故、尋ね來(きた)る。」

と云ふ。

「さらば。」

とて案内を添へければ、草津の淸兵衞處へ行き、

「馬を、一見、仕(つかまつ)らん。」

と所望す。

 馬主、

「三十日以前に求めたり。賣馬(うりうま)にては、なし。」

と云ふ。

 色合(いろあ)ひを云ひ、所望しければ、馬主、

「人喰馬(ひとくひうま)なれば、金轡(かなぐつは[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])を、はめて置く。引出(ひきいだ)す事、六(むづ)かしき間(あひだ)、其儘、見給へ。」

と云ふ。

 彼(か)の二人、

「若(くる)しからず。」

と云うて、羈(おもづら[やぶちゃん注:ママ。])を放し、引出すに、馬、淚を流し、凋(しほ)れたる有樣(ありさま)なり。

 二人(にん)の者ども、憐みたる氣色(けしき)にて、馬を引廻し、口を明けて、年(とし)を見んとするに、自ら、口をあけて、牙(は)を見せけり。

 馬主、

「斯樣(かやう)に人に隨ふ事、始(はじめ)てなり。」

と云ふ。

 さる程に、二人(にん)の者、

「此馬を所望仕りたき。」

と云ふ。

 馬主、

「叶(かな)ふまじき。」

と云ひけるを、種々(しゆじゆ)、言(ことば)を盡し、無理に所望して、本(もと)の買直(かひね)の如く、金二兩に買取(かひと)りて行くなり。

 馬主、跡(あと)にて、

『餘り、不思議なる有樣(ありさま)なり。仔細を問はばや。』

と思ひ、半里程、行きけるを、追掛(おひか)けて、仔細を問ふ。

 其時、二人(にん)の者、

「耻(はづ)かしながら申すべし。是は、我等、親なり。

『年忌を吊(とむら)ふべし。』

と心當仕(こゝろあてつかま)つる處に、兄弟の者の夢に、父、告(つげ)て、

『我、今、馬と成りて、草津にあり。「強(つよき)馬。」とて、重荷を負(お)ふせて、隙(ひま)なく、江戶、上下(じやうげ)す。此若患(くげん)、限りなくして、人を喰(く)ひ蹈(ふ)みけれれば、「癖馬。」とて、金轡(かなぐつは)を、はめて、彌々(いよいよ)、再々(さいさい)、上下さする間(あひだ)、若患、耐へがたし。願はくは、我を買取つて給へかし。今は、草津にあり。』

と、有々(ありあり)と、兄弟、共に、夢、見たるゆゑ、兄は弟(おとゝ)の處へ行き、弟は兄の處へ行き、途中にて行合(ゆきあ)ひ、互(たがひ)に語るに、同じ夢なり。大津の町、馬主の名、馬の毛、年(とし)の比まで、慥(たしか)に見しより、此(か)く如くなり。」

と云ふ。

 其時、草津の馬主、淚(なんだ)を流し、

「此金(このかね)、皆、返したく思へども、御邊達(ごへんたち)志(こゝろざし)の品なれば。」

とて、二步(ぶ)、返しけり。

 二人(にん)、

「是(これ)は、如何に。結句、本(もと)の直(ね)より、高く買ふべきこそ本意(ほんい)なるに、平更(ひらさら)、御取(おんと)りあれ。」

と言へども、取らず、暇乞(いとまごひ)して歸るなり。

 二人(にん)の者は、尾州中島郡(なかじまぐん)の内、羽根(はね)と云ふ處の者なり。

 佐和山大雲寺(さわやまだいうんじ)、衆寮普請(しゆれうふしん)に、大津の車地(くるまち)に居(ゐ)る、大工理右衞門と云ふ者、來(き)て、委しく語るなり。

 扨、二人(にん)の者ども、數多(あまた)の僧を供養して吊(とふら)ひければ、馬、頓(やが)て死し、それより、二人(にん)の者、京へ上り、發心して、馬の菩提を、とひける、となり。

「其比、京中(きやうちう)に『馬念佛(うまねんぶつ)』と云ふ事あり。」

と。

 又、大坂にて、久譽(きうよ)、能く知つて、語られたり。

[やぶちゃん注:本書の中でも長い話で、しかも、展開するロケーションも、馬主の暗い厩から、後半、晩春の広野のワイドな田園風景の中で語りが、しみじみと、行われ、最後の馬主の台詞と小さくなってゆくその画像まで、画面構成が素晴らしくリアルになされており、私は本「因果物語」中、文学として、最も完成した一篇として称揚するものである。

「江州大津、車路町」現在の滋賀県大津市春日町に「逢坂越えの車道・車石」があり、幾つかの資料を見るに、旧東海道の滋賀大津の方のこの一帯附近にあったものと思われる。

「月毛馬」葦毛(葦の芽生えの時の青白の色に因んだもので、栗毛・青毛・鹿毛・の原毛色に、後天的に白色毛が発生してくる馬)の、やや赤みを帯びて見える馬。

「三寸(ずん)」これは「さんずん」ではなく、「みき」と読まなくてはならない。これは古来、馬の背高さを呼ぶのに用いた特殊単位で、地面から首の根の背までの体高を、標準の高さの基本を「四尺」(一メートル二十一センチ)として、それより一寸(すん)(約三センチ)高い場合を「一寸」(いっき)と呼び、以下、「二寸」(にき)、「三寸」(さんき)、と呼んで区別したものである。「三寸」は一メートル三十センチとなる。身長の高い武士は大きく逞しい八寸(やき)(一メートル四十五センチ)を好む傾向があった。

「草津」滋賀県草津市

「寬永十六年三月」三月一日はグレゴリオ暦一六三九年四月四日。

「人喰馬」すぐに人に噛みつくような暴れ馬であることを言う。

「金轡(かなぐつは)」歴史的仮名遣は「かなぐつわ」でよい。馬の口に取りつけ、手綱(たづな)をつけて馬を御する馬具。日本語の起源は「口輪」(くちわ)からの転訛とする説がある。古くは「くつばみ」と言い、手綱のことを「くつわ」ということもあった。「轡」は「勒」(ろくはみ)・「銜」(くつわはみ)という語を用いることもある。これを、常時、咬ませてあるのは、邪魔になって、大きく人に噛みつくことがし難くなるからである。

「羈(おもづら)」ここは、轡を固定するために馬の頭の上から掛ける組み紐。 同前に理由。

「牙(は)」馬の年齢を即物的に判断するには前歯(切歯)の擦り減り方に拠る。詳しくは、サイト「JODHPURS」(ジョッパーズ)のこちらの記事を読まれたい。但し、素人には判らないとある。

「淚(なんだ)」「なみだ」の音変化。近代までよく使われた。例えば、私の「石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 心の聲 (全七章)」の「落葉の煙」の初出形の第四・六連や、初期によく使った萩原朔太郎の、同じく私の電子化である「竹(「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)」の初出形を見られたい。

を流し、

「此金(このかね)、皆、返したく思へども、御邊達(ごへんたち)志(こゝろざし)の品なれば。」

「二步(ぶ)」小判一両は四分(ぶ=「歩」)。

「平更(ひらさら)」副詞。是非とも。

「尾州中島郡の内、羽根」愛知県の旧中島郡は、現在の稲沢市の大部分・一宮市の一部・清須市の一部からなるが、現地名を調べたが、見当たらない。

「佐和山大雲寺」現在の滋賀県彦根市河原にある曹洞宗青龍山大雲寺。佐和山城のある佐和山町の南西直近ではある。

「衆寮」修行僧の生活する僧堂。

「普請」建築工事。

「大津の車地」先の「車路町」と同義と採る。或いは、より広域の用法かも知れない。

「馬念佛」不詳。単に「馬の耳に念仏」の浄土真宗などへの悪意を含んだ洒落ではあるまいか。

「久譽」不詳。]

 

○江州越川(ゑちかは)の問屋(とひや)、彌右衞門と云ふ者、愚癡慳貪、無類者なるが、死して三年目、正保四年亥の年、栗澤次郞右衞門と云ふ者の、馬の子に產れ出づるなり。

 栗毛(くりげ)に、白き毛の文字(もじ)細々と、「越川彌右衞門」と有り。

 護谷(ごこく)和尙、

「行きて見給ふに、文字、明(あきら)かならず、よくよく見れば、確(たしか)なり。」

と語り給ふなり。

[やぶちゃん注:「江州越川」滋賀県彦根市三津町(みつちょう)に越川城跡があるが、この附近か。

「正保四年」一六四七年。

「栗毛」馬の毛色の名。地肌が赤黒く、鬣(たてがみ)と尾が赤茶色を呈しているもの。品種改良の結果、出現したもの。

「護谷和尙」不詳。]

 

〇東三河一の宮の神主(かんぬし)、二郞太夫(じらうたいふ)内(うち)の左衞門四郞と云ふ者、死して、牛に成りて、步行(ありき)けり。

 皆人(みなひと)。

「牛鬼(うしおに)。」

と云うて、是を怖(おそ)る。

 左衞門四郞が家の近處(きんじよ)、二、三間、逃げて、明屋(あきや)に成りたり。

江州東願寺と云ふ處の、淸寳(せいはう)と云ふ坊主、吊(とむら)ひけれども、叶はず、又、長山(ながやま)の正眼院(しやうげんゐん)長老を賴み、吊ひけれども、治まらず、其後(そのゝち)、土井川(どゑがは)の明嚴寺(みやうごんじ)、牛雪(ぎうせつ)和尙を賴み、治めけり。

 寬永五年の事なり。

[やぶちゃん注:「東三河一の宮」これは、神社名で、現在の三河一之宮砥鹿(とが)神社のことであろう。

「牛鬼」妖怪名としては、本邦で特に西日本で知られる妖獣で、頭が牛で、首から下が鬼の胴体を持ち(または、その逆)、概ね非常に残忍獰猛で、毒を吐き、人を食い殺す。しかし、ここでは、具体なその姿が描かれていないから、実体のない、噂か。しかし、三人目でやっと治まった(消えた)というのだから、何らかの夜間に徘徊する変質者か、夜行性の動物がいたということなのだろうか。どうも、その辺が脱落していて、つまらない。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十五 死後犬と成る僧の事 附 犬と成る男女の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十五 死後犬と成る僧の事

      犬と成る男女の事

 尾州名古屋、膳德寺、順的和尙の弟子に、傳可と云ふ僧あり。關東にて、十年程、徧參するなり。後(のち)に三州牛窪と云ふ村に、寺を持ち居(ゐ)たり。

 順的和尙の師匠、牛窪の花居寺(はなゐじ)と云ふ寺に居給ふ。

 さる年の春、師匠、見舞に來り給へぱ、傳可、順的和尙へ向つて、

「我等、參り、納所、仕(つかまつ)るべし、秋中(ちう)に名古屋へ參るべし。」

と約束す。

 然(しか)るに、傳可、夏中に、煩うて死す。

 或夜(あるよ)、順的和尙の夢に、傳可、來つて云ふは、

「『秋中、參るべし。』と御(おん)約束仕る處に、夏中、相果て、忽ち、犬に生れ申すなり。何國(いづく)にも緣なく、居處(ゐどころ)もなき間、是(これ)の庭に、おき養ひ下されよ。」

と告ぐるなり。

 和尙、

「折角、待ちけるに、扨(さて)は、死にて、犬に成りたるか、不便(ふびん)なり。置くぺし。」

と言ひ給ふと、夢は、醒めけり。

 明朝(めうてう)、大衆(だいしゆ)に、

「不思議の夢を見たり。」

と語り給ふ。

 亦、次の夜(よ)、夢に、右の如く、來りて、云ふ。和尙、

「扨々、くどいこと。」

と宣ひて、夢、さめける。

 明朝、乞食、犬の子を、一疋、連れ來り、

「よい犬の子、進(しん)ぜん。」

と云ふ。

 僧達、見て、

「犬は入(い)らず。持ち去れ。」

と云ふ。

 和尙、聞き給ひ、

「それは。夢に見えたる傳可と云ふ、我弟子なり。」

とて、取り、庫裡(くり)に置き、食(めし)を喰(く)はせ、和尙、茶の間より、

「傳可、傳可。」

と喚び給へば、彼(か)の犬、

「ころころ」

と走り、和尙の側へ徃(ゆ)くなり。

 犬の毛は、うす赤く、手、白々、鼻の先、白しとなり。

 扨、十三年目に、膳德寺に、江湖(かうこ)あり。大衆(だいしゆ)、放參(はうさん)の陀羅尼(だらに)を誦(よ)み給へば、彼(か)の犬も、緣まで上(あが)り、

「わんわん。」

と經を誦みしなり。

 僧達を見て、只(たゞ)、もの淚を流せしとなり。

 江湖は寬永五年の夏なり。

 其江湖に、本秀和尙、居(ゐ)、

「直(ぢじ)に見たり。」

と、語り給ふなり。

[やぶちゃん注:「尾州名古屋、膳德寺」愛知県名古屋市西区に善徳寺があるが、これは浄土真宗であるから、違う。「江湖」(正しい読みは「がうこ」。既出既注)とあるから、禅宗でなくてはならないからで、愛知県名古屋市千種(ちくさ)区城山町(しろやまちょう)にある曹洞宗霊松山善篤寺(れいしょうぜんとくじ)が候補となろう。寺蹟から見ても(「千種区」公式サイトのこちら)問題がない。というより、本篇を勝手に後人が書き変えた「平かな本」「因果物語」の巻三の「十八傳賀(でんが)と云僧死して狗に生れし事」を国立国会図書館デジタルコレクションの京の銭屋板行本で確認してみると、寺の名は正しく「尾州名古屋の善篤寺」となっているのであるから、間違いないと言えるのである。

「順的和尙」不詳。前の平かな本では、「順帰和尚」と表記してある。

「三州牛窪」愛知県豊川市牛久保町。古くは「牛窪」と書いた。一度、出ている

と云ふ村に、寺を持ち居(ゐ)たり。

「牛窪の花居寺」先の平かな本では、「花井寺」と表記してあり、牛久保町の東直近の愛知県豊川市花井町(はないちょう)に曹洞宗花井寺(はないじ)があるので、ここである。

「大衆」ここは「多くの僧」の意。

「放參」「放參」とは、晩に看経(かんきん)すること。禅寺で、夜、経文を黙読すること。「放参勤め」とも言う。

「陀羅尼」サンスクリット語「ダーラニー」漢音写。「総持」「能持」と訳す。梵文(ぼんぶん)を翻訳しない、そのままで唱えるもので、不思議な力をもつものと信じられる比較的長文の呪文を指す。

「僧達を見て、只(たゞ)、もの淚を流せしとなり」このシークエンスは、しみじみとして、いい。「もの淚」何ともいえぬ涙を犬が流しているのである。いかなる因果があるのか判らぬが、この実直な伝可が犬に転生したものか。そこが、憐れであるが、この「淚」は、ある意味、法悦のそれであるととれば、この犬は来世で人となって見事、極楽往生を遂げるものと、考えたい私がいる。

「寬永五年」一六三四年。

「本秀和尙」既出既注。]

 

〇寬永の始め比(ころ)、尾州熱田(あつた)、白鳥(しらとり)の住持、慶呑(けいどん)和尙、濱松普濟寺(ふさいじ)の住(ぢう)に當れり。

 入院、一兩日(いちりやうじつ)過ぎて、町より、うす黑の、「べか」を、一疋、連れ來(きた)る。

 長老、見て、

「珍らしき犬なり。」

とて、留め置き、飼ひ給ふ。

 退院の比、彼の犬を、

「入(い)らぬ、」

と云うて、本(もと)の宿(やど)へ歸し給へば、其夜(そのよ)、長老の夢に、彼(か)の犬、來り、

「我は、其方(そのはう)の親なり。連れて行き、飼ふべし。」

と云ふ。

 明日(あくるひ)、僧衆に向つて、

「扨々(さてさて)、犬と云うても、こすい者かな、『我(わが)親ぢや程に、連れて行け。』と、夢に告ぐるなり。」

と、おどけごとに云ひ給ふ。

 然(しか)るに、次の夜の夢に、犬、來(き)て、

「我、實(じつ)に、其方の親なり。連れて行きめされずんば、命(いのち)を取るべし。」

と云ふ。

 時に、和尙、夢、醒め、驚き、彼(か)の犬を喚びよせ、連れて、熱田へ歸り給ふ。

 白鳥にて、此犬、地(ち)蹈(ふ)まず、座敷にばかり居(ゐ)て、飯(めし)を長老と相伴(しやうばん)に喰(く)ひ、夜(よ)は、和尙の閨(ねや)に臥す。

 寬永十年の比、江湖(かうこ)を置き給ふに、彼(か)の犬、和尙と同じく、一番座(ばんざ)に飯臺(はんだい)に着くなり。

 大衆(だいしゆ)、見て、怒り、

「扨々、畜生と一つに、飯臺に着くこと、あらんや。是を休(や)め給はずんば、江湖を分散せん。」

と云ふ。

 和尙、聞き、大衆に向つて、

「此犬は、我(わが)親なり。宥(ゆる)し給へ。」

と侘言(わびごと)にて、大衆、堪忍す。

 彼の犬、江湖の次の年、死す。

 其の時、龕(がん)・幡(はた)・天蓋(てんがい)を拵へ、懇(ねんごろ)に送り、三日の中(うち)、懴法(せんはふ)を誦(よ)み、吊(とむら)ひ給ふなり。

 本秀和尙、確(たしか)に知つて語り給ふなり。

[やぶちゃん注:「寬永の始め」寛永は元年は一六二四年で、寛永二十一年まで。

「尾州熱田、白鳥の住持」名古屋市熱田区白鳥にある曹洞宗白鳥山法持寺(はくちょうざんほうじじ)。

「慶呑和尙」法持寺八世月峰慶呑。

「濱松普濟寺」既出既注であるが、再掲しておくと、静岡県浜松市中区広沢にある曹洞宗は広沢山普済寺(こうたくさんふさいじ)。信頼出来る論文の史料に、事実、慶呑は寛永七(一六三〇)年に、この普済寺に輪番住持している(いつまでかは、不詳)。

「べか」底本は「へか」であるが、初版板本78コマ目の右丁の後ろから五行目)で訂した。「べか犬」で、「子犬」「小型犬」或いは「犬の子」を指す。一説に「べっかんこうをしたような目の赤い犬」ともいう。「べいか」とも。

「寬永十年」一六三三年。

「江湖(かうこ)」正しい読みは「がうこ」。既出既注

「飯臺」何人かの者が並んで食事をする台。

「龕」遺体を納めた豪華な厨子。

「懴法」経を誦して罪過を懺悔(さんげ)する法要。「法華懺法」・「観音懺法」などの種別がある。

「本秀和尙」既出既注。]

 

○武州江戶麹町(かうぢまち)常泉寺へ、他處(たしよ)より、犬、來りて、子を、三つ、產む。一つの子を惡(にく)みて、乳を飮ませず。

 或時、住持の夢に、犬、告(つげ)て、

「我は前生(せんしやう)、遊女なり。後(のち)、男を持ち、二人(にん)の子を產む。繼子(まゝこ)一人(にん)有り。今、產む、三つの子、一つ、繼子なり。彼(か)の繼子の父、現在(げんざい)に有りけるが、今日(こんにち)、來り、此犬を貰ふべし。早速に、渡し給へ。」

と云ふ。

 明日(あくるひ)、夢の如く、外(ほか)より、男、一人(にん)來り、寺中を一見して、犬の子を見出し、一つ、所望す。

 住持、心得、

「易き事。」

と云へぱ、乳を飮(のま)せざる瘦犬(やせいぬ)を所望して行くなり。

 寬永十五年の事なり。

[やぶちゃん注:「江戶麹町常泉寺」不詳。現行の千代田区麹町周辺には見当たらない。

「寬永十五年」一六三八年。]

2022/10/13

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十四 破戒の坊主死して鯨と成る事 附 姥猫と成る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十四 破戒の坊主死して鯨(くじら)と成る事

      姥(うば)猫と成る事

 羽州最上川のすそ、坂田へ落つる其磯邊(いそべ)に、長さ十二、三間ある、黑き鯨、寄りたり。

 背に「安隆寺(あんりうじ)」と云ふ、大文字(おほもんじ)あり。又、腹中(ふくちう)に、人の兩足に、鞋(わらぢ)着(はき)て、あり、萬(よろづ)、坊主の道具、あり。

 人々、僉議(せんぎ)して、

「何國(いづく)に斯樣(かやう)の寺、有り。」

と尋ねければ、

「坂田に安隆寺と云ふ一向寺(いつかうでら)あり。此の坊主、大欲(だいよく)、人に勝(すぐ)れ、放逸無慚なりしが、三年以前、五十餘りにて、

『越前の敦賀へ船(ふな)わたりする。』

とて、破船して、人、數多(あまた)、死す。」

となり。

 此の鯨、背(せなか)に銘ある上は、疑ひなき、安隆寺坊主なり。故に、此鯨を喰(く)ふ者なく、油も取らず、打ち捨つるなり。

 最上、坂田の僧俗、確(たしか)に知りたる事なり。

[やぶちゃん注:「羽州最上川のすそ、坂田へ落つる其磯邊」山形県酒田市の最上川河口附近。

「十二、三間」二十二~二十三メートル。

「黑き鯨」漂着した場所と色からは、北半球に棲息する深海性の鯨偶蹄目ハクジラ亜目アカボウクジラ科ツチクジラ属ツチクジラ(槌鯨)Berardius bairdii か、或いは、クロツチクジラ Berardius minimus が想定された。後者は、ウィキの「ツチクジラ属」によれば、『北海道沿岸に漂着した試料に基づき』、二〇一九年に『新種として報告された』とあり、『和名のツチ(槌)は、頭部の形状が稲藁を叩く槌に似ているからとされる』とある。但し、ツチクジラ最大体長十三メートルであるから、これは少し大き過ぎる。このサイズで黒いとなると、鯨偶蹄目ナガスクジラ科ザトウクジラ属ザトウクジラ Megaptera novaeangliae であるが、それでも最大二十メートルである。しかし、この場合、死亡個体で体内の腐敗が進んでいるとすれば、納得のいく大きさではある。一方、背中に文字が刻まれているという点からは、背部に引っかき傷が有意に認められるツチクジラ類の方に分があるようにも思われる。

「安隆寺」調べたが、酒田には同名の寺は見当たらない。「江戸怪談集(中)」の注も、『酒田市に現在不伝』とされる。例のズラシである可能性が高いかとも思われるが、創建と宗派を調べる気力にならない。悪しからず。]

 

〇尾州春日部郡(かすかべぐん)、北島村(きたしまむら)に八十餘りの姥(うば)有り。正保元年二月、死す。

 七日も過(すぎ)ざるに、赤き大猫(おほねこ)に成りて、奧の稗俵(ひえだはら)の上に居(ゐ)たり。祖母(ばゝ)の彥(ひこ)、幼少なるが、稗を取りに行きて見れば、俵の上に、獸(けだもの)、有り。

 驚きて、此の由、親に云ふ。

 親、行きて捕(とら)へ出(いだ)し、敲(たゝ)けども、他所(たしよ)へ行かず。

 其の夜(よ)、夢に告(つげ)て、

「我は、此比(このごろ)、死したる姥なり。三年、飼ひ給へ。」

と云ふ。

 不審して、三處(みどころ)にて、占(うらな)はせければ、正(まさ)しく、夢に違(たが)はざるなり。

[やぶちゃん注:「尾州春日部郡、北島村」「春日部郡」愛知県にあった春日井郡(かすがいぐん)であろう。この郡は古代には「春部郡(かすがべぐん)」と称したからである。但し、「北島」は現行、旧郡域にも、複数、それらしいものが認められるので、特定は出来ない。

「正保元年」一六四四年。

「彥」「曾孫(ひこ)」で「曽孫(ひまご)」のこと。

「三處」三箇所の占い師に頼んだのであるが、総てが同じ答えを出したというのである。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十三 第二念を起す僧病者に若を授くる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。なお、既に本書冒頭で注記しているが、「若」は「苦」の代用字である。この代用字は頻繁に本書に出現するので、一々注することは避けるので、悪しからず。OCRなどの誤判読を放置しているなどと、お考えになられるぬように。]

 

   十三 第二念を起(おこ)す僧(そう)病者に若(く)を授くる事

 寛永十七年に、濃州(ぢようしう)加納之城(かなふのしろ)、二(に)の丸殿(まるどの)の内に、「おいちや」と云ふ女の父、大病を受け、既に末期(まつご)に及べり。

 「おいちや」、餘りの悲しさに、關(せき)の龍泰寺(りうたいじ)の全石(ぜんせき)と云ふ僧、全久院へ來(きた)るを、

「幸(さいはひ)なり。」

とて、末期の勸めを賴みけり。

 全石、病人に向つて、經を誦(よ)み、坐禪しければ、病人、云く、

「扨々(さてさて)、此間(このあひだ)、胸中(きやうちう)、色々、禍(わざは)ひ、多くして、遣(や)る方(かた)なき若痛、唯今、俄(にはか)に、胸、凉しくなりて、煩ひ、少しも、なし。」

とて、悅びけり。

 然(しか)るに、三日程、過ぎて、全石、思ふは、

『「全久院の頓寫(とんしや)に逢へ。」と仰せありしが、往くべきやらん、又、止(とどま)るべきやらん。』

と、思案、出來(いでき)たり。

 其時、彼(か)の病人、

「やれやれ、亦、苦しく成りたり。唯今まで、心快(こゝろよ)くありしが、又、本(もと)の如く、悲しさよ。」

と若しむ。

 此由、全石、聞いて、

『扨は。我胸の思ひ、究め難き念の故か。』

と、強く、坐禪し、心を如何にも淸めて、經咒(きやうじゆ)を誦(じゆ)しければ、彼(か)の病人、胸、晴々(はればれ)として、快氣(くわいき)に成りたり。

 此時、全石、

『大事のことなり。』

と思ひ、彌々(いよいよ)坐禪しければ、二日、快(こゝろよ)くなりて、悅び、徃生を遂げたり、と、鐵心和尙の物語なり。

[やぶちゃん注:「寛永十七年」一六四〇年。

「濃州加納之城」当該ウィキによれば、『岐阜県岐阜市加納丸の内にあった城』で、『徳川家康による天下普請によって築かれた平城で、江戸時代には加納藩藩主家の居城となった』とあり、慶長七(一六〇三)年に』『奥平信昌』(のぶまさ)『が入った後、奥平氏の居城となった』が、寛永九(一六三二)年に『奥平忠隆が死去、嫡子がいないために改易されると』、『従兄弟の大久保忠職が入城、一時的に城主となる。その後の』寛永一六(一六三九)年に『戸田』(松平)『光重が入城』し、三代に亙って『城主を務め』たとあるから、時の城主は彼である。ここ

「二の丸殿」本丸東にあった。同前で、本丸に『天守は上げられず、代わりに二ノ丸北東隅に御三階櫓が建てられていた』とあり、その絵図と復元画像が載る。

『「おいちや」と云ふ女の父』二の丸内にいるからには、この父は、戸田光重の重臣と思われる。「おいちや」は城主、或いは、その正室・側室の侍女として勤めていたものか。

「關の龍泰寺」岐阜県関市下有知(しもうち)にある曹洞宗祥雲山龍泰寺

「全久院」加納城の近くの寺はこれらだが、同名の寺はない。「頓寫」は、その全久院の僧の名であろう。龍泰寺の住持から彼に逢うように命ぜられたために、この加納へ下りてきたのであろうから、それが本来、成すべき実務である。

「鐵心和尙」不詳。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十二 愚痴の念佛者錯つて種々の相を見る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十二 愚痴の念佛者(ねんぶつしや)錯(あやま)つて種々(しゆじゆ)の相(さう)を見る事

 相州佐川(さがは)より、一里上(かみ)の在處(ざいしよ)に、さる姥(うば)、常に念佛者にて、苧(お)を紡(う)み、一反(たん)、嫁に織らせ、

「死にたる時の着物にせん。」

とて、曝(さら)しけるが、臼(うす)にて搗きければ、水、濁り、次第々々に、黒くなるなり。

 是を、しぼりて、見れぱ、佛體(ぶつたい)、淺々(あさあさ)と、段々に顯(あらは)れたり。

 皆々、拜みたる人の物語りなり。小田原の年寄衆も取寄(とりよ)せ、見られたるなり。

 寬永十八年の事なり。

[やぶちゃん注:「曝」の字は、底本では、「グリフウィキ」のこの異体字

「相州佐川」恐らく、現在の神奈川県高座郡寒川町(さむかわまち)と思われる。

「苧を紡み」別に「苧を績(う)む」とも書く。「苧」は「そ」とも読む。麻(あさ)や苧(からむし)の繊維を長く縒(よ)り合わせて糸にすることを指す。

「寬永十八年」一六四一年。]

 

〇江戶、或町人の女房、念佛者なり。

 來迎を願ひければ、切々(せつせつ)、來迎にて、後には、手の上へ、來迎、あり。

 其後(そのゝち)は、是を、呑みけり。

 久しく呑む程に、氣(き)、衰へ、煩(わづら)ふなり。

 さる禪師に逢うて、念佛を休(や)め、藥を飮みて、治(ぢ)するなり。

[やぶちゃん注:「切々」「懇ろに」の意でとっておく。]

 

〇江戶にて、青木何某(なにがし)母、勝(すぐ)れたる念佛者なり。

 常に珠数をくりける故に、指に「たこ」あり。「こぶ」に成り、いよいよ、高くなりて後(のち)、佛體(ぶつたい)に成つて落ちけり。

 

〇尾州名古屋に、或女、年(とし)盛んなる時は、大坂に居(ゐ)て、「光り念佛」を申せしが、同行(どうぎやう)八千程ありて、其身(そのみ)、奇特(きどく)、多し。

 同行の中の善惡を、陰(かげ)にて、委しく知り、念佛の回向(ゑかう)も、其時々に陰にて知れり。後に聞合(きゝあは)するに、少しも違(たが)はぬなり。

 又、人の生死(しやうじ)をも、慥(たしか)に知るなり。

 後(のち)に禪の知識に呵(か)せられて、宗旨を替へければ、奇特を失(しつ)するなり。我、確(たしか)に知るなり。

[やぶちゃん注:久しぶりに正三自身の直話である。この女、要するに、惡知恵に堪能で、その人に知られぬように、対象者の日常の善惡に係わる行為や言動、履歴・病歴・人間関係なんどを緻密に調べておき、念仏回向の際の呟きなども、これ、漏らさず、盗聴しておいて、やおら、その人物から相談を受けた際、ピタりと、その悩みを霊的に言い当てたように示すわけだから、たまらない。現代の宗教家や霊能者の中には、こういった似非者が、有象無象、いる。情報入手が電子的に即座に行える今、ハイパーなそういった極悪連中は、ますます蔓延(はびこ)ることであろう。

「光り念佛」「光り」は親鸞の好んだ「正信念仏偈」の「南無不可思議光」の唱え。「不可思議光」は阿弥陀仏の徳号の一つ。人知を超えた如来の悟りの絶対の徳を表し、「光」明(こうみょう)は、その絶対の智慧を示すものである。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十一 惡見に落ちたる僧自他を損ずる事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十一 惡見に落ちたる僧自他を損ずる事

 

 甲州に、關悅(くわんえつ)と云ふ洞家の長老あり。

 伊勢と近江の堺なる、「君(きみ)が嶽(たけ)」と云ふ處に、坐禪して、樣々、異相奇特(いさうきどく)を見、是を、

『悟り。』

と思ふて、他人を誹謗して、向上(かうじやう)に成つて、甲州に居(ゐ)けるが、頓(やが)て氣違ひ、狂ひ死(し)にけり。

 廣岩(くわうがん)長老、舊友にて、坐禪供達なる故、委しく知つて語り給ふなり。

 正保元年の事なり。

[やぶちゃん注:「君(きみ)が嶽(たけ)」滋賀県東近江市君ケ畑町(きみがはたちょう)。

「向上」ここは、「思い上って・うぬぽれて」の悪い意味で、特異な用法。

「廣岩長老」江戸初期の曹洞宗の名僧広岩恵学大和尚。珍しく特定出来た。

「正保元年」一六四四年。]

 

〇尾州名古屋、ひさや町(まち)、庄右衞門母に、或長老、勸めて云ふ、

「汝、我(わが)處へ來て、卅日、坐禪せば、悟りを開くべし。」

と。

 母、即ち、行きて坐禪するに、卅日、經て、三尊の來迎ありて、光耀きければ、悅ぶこと限りなし。

 然れども、萬(よろづ)の態(わざ)、晝(ひる)の念慮、前のごとし。

 次の日、何とやらん、口味(くちあぢ)なくして、味を好む氣(き)あり。

『前生(ぜんしやう)、猫にてありつるか。』

と思へば、其夜(そのよ)、猫、來たりて、目の前に有り。

 其後(そのゝち)、每夜、來迎、有り。

 本秀和尙、聞きて、

「皆、以つて、妄想(まうざう)なり。氣、違ひ、煩(わづら)ひ成るべし。」

と敎化(けうげ)して、右の氣、減り、坐禪を止めければ、來迎も、やみ、無爲(ぶゐ)になりたり。

[やぶちゃん注:「尾州名古屋、ひさや町」愛知県名古屋市東区久屋町(ひさやちょう)。現在は錦栄町交差点の南東の一画に八丁目のみが残る。テレビ塔の南直近。

「萬の態」日常生活の様態。

「晝の念慮」覚醒時の思いや悩み。

「口味(くちあぢ)なくして、味を好む氣あり」何となく、口淋しく、美味い物を好む性癖が進んだ。

「本秀和尙」既出既注。本書のスター・システムの一番手。

「來迎」「江戸怪談集(中)」の注で、『仏が現世に姿を見せること』ととしつつ、『ここでは猫のたぶらかし』とあるが、私は、この注に不満がある。次注を見られたい。

「妄想(まうざう)」仏語で、「とらわれの心によって、真実でないものを真実であると、誤って意識すること。また、そのような迷った考え」を言う。私は、前注のような、猫の誑かしなどではなく、ある長老の安易な悟りの慫慂と、彼女の中の全くの自己妄想大系が肥大し、彼女勝手に空想したものであって、それを猫の生まれ変わりと考えたり、化け猫によって幻視させられた来迎であるとは思わないし、本秀もそう断じているものと思う。そもそも禅宗では、そうした民俗社会の妖怪変化の存在なんどを積極的には肯定していないはずであり、何よりも自身の正しい孤独な観想を基本とする。則ち、ここでは極めて近現代的な精神医学的な意味での関係妄想と同一と考える。「氣、違ひ、煩ひ成るべし」の謂いが、それを名指している。

「無爲になりたり」「江戸怪談集(中)」の注で、『平穩になった』とある。正しい本秀ドクターのカウンセリングの結果と言える。]

 

〇濃州(ぢようしう)八屋(はちや)と云ふ處に、快祝(くわいしゆく)と云ふ關山派(くわんざんは)の長老有り。

 多くの人に悟りを授け、神木(しんぼく)を切り、佛像を破却して、

「佛(ぶつ)は我が心に有り。外に、佛、無し。」

と勸めける間(あひだ)、在處(ざいしよ)の者ども、此の長老を貴(たつと)びて、放逸無慘(はういつむざん)なり。

 彼(か)の長老、報い盡きて、頓(やが)て死去す。

 龕(がん)を舁(か)き出(いだ)さんとする處に、俄(にはか)に、天、曇り、雷(いかづち)、鳴り、火車(かしや)、來つて、長老を摑み行き、此處彼處(こゝかしこ)に死骸を捨てたり。

 扨(さて)、彼(か)の法を聞きたる者ども、頓て、疫病(やくびやう)を煩ひ、若痛(くつう)して、大方(おほかた)、死したり。

 其後(そのゝち)、滅却したる堂社(だうしや)を建て、切り折りたる神木を植ゑてより。在處(ざいしよ)、納まる、となり。

 正保年中の事なり。

 其の比(ころ)、「八屋悟(はちやさと)り」と云ひ傳へたり。

[やぶちゃん注:「八屋」美濃加茂市蜂屋町(はちやちょう)。

「關山派」既出既注。「江戸怪談集(中)」の注では、『不詳。ただし、「快祝」は臨済宗妙心寺派竜雲山瑞林寺、通称柿寺の長老か。』とある。瑞林寺は、堂上蜂屋柿の産地である蜂屋町に室町時代に創建されたとされる寺で、室町幕府に蜂屋柿を献上し、「柿寺」の称号を与えられたとされる。寺はここ

「龕」「江戸怪談集(中)」の注に、『遺体を納めた厨子』とする。今までの本書の「龕」は概ね、普通の棺桶を示しているが、ここは確かに、豪華な感じの方が、直後の死体バラバラのカタストロフの対になって、甚だ、効果的である。

「火車」「狗張子卷之六 杉田彥左衞門天狗に殺さる」の私の最後の注及びその中の私の記事リンクを参照されたい。

「正保年中」一六四四年から一六四八年まで。]

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十 座頭の金を盜む僧盲と成る事 附 死人を爭ふ僧氣違ふ事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されているものの、不思議なことに、完全ではなく、標題を「座頭の金を盗む僧、盲と成る事 付 死人を争ふ僧、気違ふ事」(同抄録本は頭の数字を外してあり、当該章の最後に『(下の十)』と附している)とありながら、第二話の「死人を争ふ僧、気違ふ事」が存在しない。これは恐らく編集上のミスである。他に、一章の中を一部をカットしているものがないからである。なお、第二話の一部には不審箇所があったので、以下の初版板本で確認し、訂した。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

    座頭の金を盜む僧盲と成る事

     死人を爭ふ僧氣違(きちが)ふ事

 越後の府に、五智の如來堂あり。

 奧州より、座頭一人、官(くわん)の爲(ため)に上洛する時、如來堂に通夜(つや)し、如來を拜み奉り、琵琶箱を開き、官金入れたる袋を、先(ま)づ、膝の下に置き、琵琶を取り出だして、「平家」を三句、如何にも靜かに語る。

 斯(かゝ)りける處に、同國林泉寺の僧、江湖頭(かうこがしら)立願(りふぐわん)の爲に、七日、通夜して居(ゐ)けるが、是を見て、悅び、

『御利生(ごりしやう)、忝(かたじけ)なし。』

と念じ、悅びて、竹にて鉤(かぎ)を作り、金袋(かねぶくろ)を引寄(ひきよ)せて取る。

 座頭、夢にも知らず、「平家」を語り納めて、膝の下を搜(さぐ)るに、金袋、なし。

「はつた」

と力を落(おと)し、あきれはてたり。

 暫しありて思ふ樣(やう)、

『是は、如來の御方便(ごはうべん)なるべし。我、官に緣無き故なり。是より、盲目乞食(まうもくこつじき)と成つて、諸國を行脚し、菩提を願(ねがは)ん。』

と思ひ定めて、琵琶箱を隔子(かくし)に括(くゝ)り付け、如來へ献(たてま)つて、歸りける。

 大下(おほげ)の橋の眞中(まんなか)にて、人(ひと)、數多(あまた)、打伴(うちつ)れて來(きた)るに、

「はつた」

と行き逢ひける時、兩眼(りやうがん)、忽ち、明(あ)きけり。

 豫(かね)て思ひ寄らざる事なれば、途方なく、

「是(これ)は、是は、」

と呼(よば)はり、初めて生れたる心地して、悅ぶこと、限りなし。

 不思議に思ひ、

「爰(こゝ)は何方(いづかた)ぞ。」

と問へば、

「大下の橋なり。」

と答ふ。

「扨(さて)、如來堂は何方(いづかた)ぞ。」

と問へば、

「我々、如來へ參る者なり。」

とて、同道しけり。

 扨、如來堂へ參り、如來を拜み奉り、立歸(たちかへ)らんとする處に、坊主一人(にん)、俄(にはか)に盲目と成りて、悲(かなし)み居(ゐ)けり。

 故を問へば、

「座頭の官錢を盜みて、斯樣(かやう)に罷(まか)り成る。」

と云ふ。

 人々、是を聞きて、

「惡因、報う事、忽ちなり。」

と、大(おほき)に驚けり。

 其の證據(しやうこ)に、琵琶箱、今に、如來堂に掛けてありと。

 海岸和尙、物語りなり。

[やぶちゃん注:「越後の府」旧国府跡は不明なものの、十世紀頃までは、現在の新潟県上越市今池附近にあったとする説が有力である。

「五智の如來堂」「江戸怪談集(中)」の注に、『現新潟県上越市五智国分寺の天台宗五智山華蔵院国分寺。通称五智さん。本尊五智如来。』とある。ここ

「官の爲」所謂、「盲官」。視覚障碍者で琵琶・管弦・鍼・按摩などを業とした者に与えられた官名。検校・勾当(こうとう)・座頭・衆分(しゅぶん)などの階級に分かれ、江戸時代には、幕府が彼らに当道座(とうどうざ:中世から発生した男性盲人の自治的職能互助組織)への加入を奨励し、総検校・総録検校がこれらを支配統轄した(階層構造は恐ろしく多く、当道座に入座して検校に至るまでには七十三の位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった)。これらの官位は、この組織の中で伝手を得た上で、金銭で、入手するものであった。それがここに出る「官金」である。

「林泉寺」現在の新潟県上越市中門前(なかもんぜん)にある曹洞宗春日山(かすがさん)林泉寺。米沢藩上杉家の菩提寺であり、同藩士で知られた名将直江兼続の菩提寺でもある。

「江湖頭」「がうこ」が正しい。「江湖會(がうこゑ)」、則ち、既注の夏安居(げあんご)時期の修行に於いて、それを統括する僧を指す。

「隔子」格子戸。]

 

〇東三河、岡村と云ふ處に、長慶寺と云ふ寺あり。

 其寺の檀那、某(なにがし)と云ふ者、寬永十八年に死す。

 内々(ないない)、大洞(おほほら)へ親しく出入(しゆつにふ)しける間、大洞にて吊(とむら)はんとす。

 時に、長慶寺の長老、嗔(いか)りて、

「先祖より、代々、當寺の檀那なり。吊はすべからず。」

とて、村中(むらぢう)の檀那を賴み、棒打(ぼううち)の用意なり。

 此由、大洞へ聞え、

「六(むつ)かしき事なり。」

とて、住持、引導に出で給はず、さまざま、扱(あつか)つて、やうやう、すみけり。

 然(しか)るに、次の年の春、長慶寺の長老、気違ひて、狂ひけり。

 檻(をり)を結びて置くに、人、來れば、糞をつかみ、打ちかけ抔(など)して、終(つひ)に狂ひ死にけり。あさましき次第なり。

[やぶちゃん注:正直、意外にも、この一篇、今までの本書の中で一番、「料簡が狭過ぎ! しょぼい!」と呆れた話である。同じ曹洞宗なんだから、いいじゃないの! って感じ。こんなことで狂気して監禁されるというのも、全く以って救いようのない、サイテー話である。但し、他宗派での弔いは厳に禁ぜられていた。日蓮宗は人気が高く、他宗からの宗旨替えをする者も多かったが、その場合は、旦那寺の許可を得て、当該寺との仏縁を切り、先祖代々の墓も基本は崩し、宗門帳も新たに書き換えて公儀の許可を得ねばならず、居住地と寺・宗門の状況、例えば、本話もそうした雰囲気を感じるが、その村全体が残らず、一つの寺の檀家だった場合などには、人間関係上からも、転居・転出しなければならない場合も、しばしば、あった。

「東三河、岡村」「長慶寺」愛知県豊川市金沢町藤弦(ふじづる)にある曹洞宗長慶禅寺この寺の附近は、古くは広域で「岡」と呼んでいたものと思われる少し古い大正期の地図を「今昔マップ」で見ると、この寺の東に「岡」という地名が示されているのが判る。明治の地図に地名がないのは、なかったからではなくて、そこまで細かに記していない古い現地での呼称だからである。現在でも、この寺の周辺には北西に「岡下」、南西に「岡畑」があることからも、そう断言出来る。

「寬永十八年」一六四一年。

「大洞」静岡県周智(しゅうち)郡森町(もりまち)橘(たちばな)にある曹洞宗橘谷山(きっこくさん)大洞院(だいとういん)。名刹として知られる。国を越えているものの、長慶禅寺直線で四十二キロ地点で、ここにその旦那が親しく通っていたことに違和感は私には感じられない。

「棒打の用意」実際のゲバ棒を持っているのではなく、喧嘩腰になることを言う。そもそも、国違いで、知行も異なるであろうから、実際の暴徒集団が集合したり、そんな連中が寺から先方へ向かって出ただけで大問題で、皆、國境へ行きつく前に捕縛され、処罰を受ける。]

2022/10/12

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「九 怨靈と成る僧の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

    怨靈と成る僧の事

 江州土山(つちやま)半里隔てゝ、一の瀨と云ふ在處あり。

 正保の比(ころ)より八十年以前、丑(うし)の年、百姓の、境(さかひ)、論(ろん)しけるを、德林庵受泉(とくりんあんじゆせん)と云ふ僧、扱(あつか)ひて、無事に濟(すま)しけり。

 飛驒守、聞き給ひて、彼(か)の僧を呼ぴ出(いだ)し、

「能く扱ひた。」[やぶちゃん注:ママ。初版板本でも同じ。「扱ひたり」の欠字か、「扱ふた」の誤記であろう。]

とて、馳走を仰付(おほせつ)け、酒を勸めらる。

「忝(かたじけ)なし。」

と悅びて、ひた呑みに呑むほどに、醉伏(ゑひふ)して、終(つひ)に死にけり。

 故に、寺も斷(た)え、屋敷も畠(はた)と成りて、數年(すねん)すぎければ、在家に作(な)して、又八郞と云ふ者、居(ゐ)たり。

 此又八郞、土山へ行き、酒に醉ひて歸るに、路(みち)にて、

「粟々(ぞくぞく)」

として、煩(わづら)ひ付(つ)き、氣違ひの樣に成り、「受泉坊」と名乘つて、戯言(たはごと)を云ひけるに、家の棟(むなぎ)に、大蛇(おほへび)、來りて居(ゐ)たり。

 子、此蛇を殺し、串(くし)に指(さ)して捨てけれども、明日(あくるひ)は、又、同體(どうたい)なる蛇、居たり。

 又八郞、咽(のど)、乾き、悲しみて、終(つひ)に死す。

 即ち、子を、「又八郞」と云ひけり。

 是も、土山へ行き、酒に醉ひ、歸りに、父の如く、煩ひ付き、家に歸れば、外(ほか)より、禿(かぶろ)、來(きた)る。

 之を、敲(たゝ)き出(いだ)せば、二、三間ばかりなる蛇に成つて、逃行(にげゆ)く。

 度々(たびたび)、此(かく)のごとくしけるが、終(つひ)に、口走り、「受泉」と名乘りて、死にけり。

 其子を淸三郞と云ふ。

 慶安元年卯月初めに、土山より、酒に醉ひて歸るとて、父の如くに煩ひ付き、腹中(ふくちう)、燃ゆる樣にて、咽、乾き、水を呑むこと、限りなし。

 剩(あまつさ)へ、眼(まなこ)潰れ、腰、拔けて、重若悲嘆(ちようくひたん)する間(あひだ)、山伏を賴み、色々、祈禱すれども、叶はず。

 後(のち)には、受泉坊、直(ぢき)に、體(たい)を現はして、家の内へ來(きた)る。

 追出(おひいだ)すに、窓より出でゝ行くを見れば、大蛇なり。

 追つて行けば、卵塔(らんたふ)へ行きて、何も、なし。

 爲方(せんかた)なくして、丑の五月七日、本秀和尙を賴む。

 和尙、卽ち、吊(とむら)ひ給へば、早や、七日の晚より、咽の乾き、止みけり。

 扨(さて)、兩日(りやうにち)吊ひて、血脉(けちみやく)を認(したゝ)め、塔婆を書き、休心(きうしん)と云ふ坊主を遣はし、德林庵に塔婆を立て、供養し、經咒(きやうじゆ)を誦(よ)みければ、其中(そのうち)に、目、明(あ)き、腰も立ちて、すつきと、本復(ほんぶく)す。

「有難し、忝なし、」

と悅ぶ事、限りなし。

[やぶちゃん注:「江州土山」滋賀県甲賀市内の旧土山地区

「一の瀨」現在の地名では見当たらなかったが、「Stanford Digital Repository」の戦前の地図を見たところ、旧土山町の町の中心から北の、まさに「半里」(二・四五キロメートル)ほどの位置の山裾に「市瀨」という集落を発見出来た。現在の滋賀県甲賀市土山町瀬ノ音のこの辺りである。

「正保の比より八十年以前」「正保」は一六四四年から一六四八年までであるから、それより八十年以前の「丑の年」は永禄八年乙丑(きのとうし)で一五六五年で、この年は五月十九日(ユリウス暦一五六五年六月十七日)に三好義継や三好三人衆や松永久通たちが共謀して二条城を襲撃し、室町幕府第十三代将軍足利義輝を殺害した「永禄の変」が起こった年である。本書の中でも、最も古い時制になる。

「境、論しける」百姓の村落単位の土地境(水利も含む)の争い。

「德林庵受泉」不詳。

「飛驒守」かの高山右近の父で、キリシタン大名で、勇猛で教養もあり、領民にも慕われ、誠実な武士の鑑として知られた高山飛騨守(通称)友照(ともあき ?~文禄四(一五九五)年)がいるが、彼の領地は摂津国であるから、違う。この時代のことは、私は冥いので判らぬ。

「二、三間」約三・七から五・五メートル弱。

「慶安元年」一六四八年。

「淸三郞」先の父祖である「又八郞」もそうだが、この三人の直系の連中の喉の渇きを訴える症状は、所謂、「飲水病」で、それも同一の症状であるところから、遺伝する一型糖尿病の可能性が高い。加えて、同じく遺伝的にアルコールに対する耐性が極めて低い体質であったと考えれば、ダブル・パンチで父祖が死に至るというのは、非常に腑に落ちる。私の親族にも二代に亙って酒を全く受けつけない一族がいる。

「卵塔」ここは単なる「卵塔場」、広義の「墓場」の意では、あるまい。卵塔は僧の墓の形式であるから、この蛇が潜り込んで行ったのは、徳林庵受泉の古い卵塔墓だったというのが、如何にも因果が絡んで、効果的だからである。

「丑」翌、慶安二年己丑(つちのとうし)。「丑」の干支を、さりげなく因果の縁としているようである。

「本秀和尙」既出既注。まさに本書一番のゴースト・バスターである。]

 

〇大閤(たいかふ)の御時、南條中書(なんでうちうしよ)、伯耆(はうき)半國(はんごく)を知行して、泰久寺(たいきうじ)の長老を、案内者(あんなんしや)に賴み、知行の境(さかひ)を引く時、惡しく引き給ふに付(つ)いて、山田佐助・海老名源助に、

「此長老を、磔(はりつけ)に掛けよ。」

と云ひ付けて、其身(そのみ)は上洛す。

 源助は、是を勞(いたは)り、少しなりとも、延べたく思へども、佐助、是を惡(にく)み、急いで掛けたり。

 留(とゞ)めを指したる處に、上方(かみがた)より、飛脚、馳せ來つて、

「長老の命(いのち)、助けよ。」

と云ふ。

 死して後(のち)なれば、是非なし。

 長老、頓(やが)て、左助(さすけ)娘(むすめ)に憑きて、口走り、

「左助一門、三年の中(うち)に、惡病(あくびやう)を授(さづ)けて、殘らず、殺すべし。此子は、暫(しば)し、宿を借りたる恩賞に助くるなり。中書は、頓(やが)て死して、大