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2022/10/26

ブログ1,840,000アクセス突破記念 梅崎春生 青春

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和四〇(一九六五)年八月号『小説新潮』に掲載された。但し、この年の七月十九日に梅崎春生は逝去しているので遺作の一つと言える。以下の底本の沖積舎全集で初めて収録された。因みに、梅崎春生には先行する同名の別な小説「青春」があるが(昭和二三(一九四八)年五月号『小説新潮』発表)、それは既にこちらで公開してある。

 底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年十二月沖積舎刊)に拠った。

 文中に注を添えた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、昨日夜初更、1,840,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二二年十月二十六日 藪野直史】]

 

   青  春

 

 西東と尾山フサコと、いつそんな関係になったのか、久住は知らない。そんなことにいちいち眼を光らせるほどの好奇心を持っていなかったし、またそれほど彼は人間関係に熟していなかった。

[やぶちゃん注:「西東」「さいとう」と読んでおく。]

 西東は彼の級友であった。二年か三年か浪人して入って来たので、年齢も彼よりは多い。色の浅黒い、ほりの深い顔を持っていたから、実際以上に老成して見えた。あの頃の(十七、八歳から二十歳ぐらいの)二、三歳違いというのは、たいへんなへだたりがあるものだ。同級生というより、小父さんとかおっさんという感じがする。西東もそれを知っていて、意識的にそれを利用していた。議論などしていて旗色が悪くなると、いつも舌打ちをして言った。

 「お前たち子供は、何も判っとらんようだな」

 いくら年長とはいえ、二十歳の知恵や経験など、今思えばたかが知れている。しかし当時はそう行かなかったのだ。子供といわれても、それを反駁(はんばく)する材料は、何もなかった。背伸びして対等に話そうという気持にもならない。

 しかし西東から子供あつかいにされた男が、面と向ってこう言ったことがある。

「そんなに経験豊富なおっさんでも、おれたちと机を並べて、同じ講義を聞いているじゃないか」

 わるいことには、西東はあまり学校の出来がよくなかった。年度末の及落会議にかかって、やっと二年生になることが出来たくらいで、年長の故をもって級友の尊敬をあつめるわけには行かなかったのだ。その頃の高等学校(旧制)は、立身出世の色合いが濃く、成績の悪いのは教師からも級友からもかろんじられる傾向があった。もちろん逆の方向、勉強ばかりして席次に一喜一憂している男への軽蔑、それも併立してあったけれども。

 彼は西東を、その学業成績の点では、かろんじなかった。第一に久住は立身出世を望まなかった。第二に出来の悪い点では西東と同じようなものであった。その二つの理由で彼は西東にいくらかの親近を感じていた。寮の自分の机の前に、

『我が望み低きにあらず。東京帝国大学法学部』

 などと貼紙をして勉強ばかりしている級友を、軽蔑することにおいて、人後に落ちなかった。しかし人生経験の浅い若者の軽蔑なんて、何ごとだろう。彼は軽蔑しているつもりでいで、出世に執(しゅう)する世間知に、むしろ畏怖を感じていたのかも知れない。要するに、西東が言うように、久住はまだ子供だったのだろう。

[やぶちゃん注:「久住」「くづみ」と読む。梅崎春生の遺作となってしまった本篇と並行して書かれたと推定される名篇「幻化」(昭和四〇(一九六五)年六月号及び八月号『新潮』に掲載されたが、春生はその間の、七月十九日午後四時五分に東大病院上田内科にて肝硬変のために急逝している。同作のブログ分割版はこちらPDF縦書一括版はこちら。私のマニアックな注附きである)の主人公の名は「久住五郎」である。これは、既にして確信犯である。それは「幻化」を読まれた方ならば、以下、読み進めてゆけば、随所でお感じ戴けることであろう。

「その頃の高等学校(旧制)」この設定は著者の経歴と合致する。梅崎春生は熊本五高(現在の熊本大学)を昭和一一(一九三六)年三月に二十一歳で卒業(二年時に落第したため。卒業時も試験の成績が悪く、卒業認定で教授会は三十分近く揉めた)し、四月に東京帝大文学部国文科に入学した。

 尾山フサコというのは、当時二十七、八の独身女である。一度軍人と結婚したが、家風に合わぬと追い出され、白川のほとりに家を新築して、下宿屋を始めた。初対面の時はそう美しいと思わなかった。眼が大きくまつ毛が長く、いつも濡れているように見える。つまり眼だけが独立して、あとの鼻や口や耳などと均衡を保っていない。もっとも彼はまだ破調の美を知らなかった。泰西(たいせい)名画に出て来る女のようなのにしか、美しさを感じなかった。しかしその点で自分は幼いと思っていたので、友達に話さなかったし、まして西東などとの会話には、一度も女の美について口を出したことはない。

[やぶちゃん注:「白川」(しらかわ)は熊本県中北部のここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示のものは同じ)を流れる一級河川。旧五高はこの川の右岸直近にあった。

「泰西」当該ウィキによれば、『中国および日本で用いられる、ヨーロッパ』。『大義には西洋世界全体を指す語。英語ではFar Westと訳され、いわゆる極東の対義語とみなされている。もともとこの語は内陸アジアやインドを指すものだったが、マテオ・リッチが中国から見た西洋の外名としても使い始めた。彼はヨーロッパ中心主義的な極東という概念に対し、西洋を泰西と呼ぶことで』、『中国と西洋を対等な地域圏とみる視点を編み出したのである。泰西という語は江戸時代の日本でも』、たびたび『用いられたが、現在では単に欧州またはヨーロッパと呼ぶのが一般的で、この語はあまりみられない』とある。私自身、書いた文章の中で、この熟語を用いたことは、六十五になるこの年まで、一度も、ない。]

 一度フサコに訊(たず)ねてみたことがある。

「どうして小母さんは――」

 齢が十も違っていた。それに相手は曲りなりにも下宿の女将であり、こちらは止宿人なので、小母さん呼ばわりをしても不自然でない。

「前の旦那さんと別れたんだね?」

「あんな生活、とてもたまらなかったのよ。姑はいるし、小姑はいるし――」

「姑や小姑は問題じゃないだろ。小母さんは旦那さんと結婚したんだから」

 彼は言った。彼は世の家庭というもの、その仕組みや構造について、ほとんど知識がなかった。

「旦那さんさえよけりゃ、充分だと思うがなあ」

「主人は悪い人じゃなかったのよ。でも、こちこちの軍人でね、いざこざが起った時、あたしの味方にゃならなかった」

 フサコはこの土地の出身ではない。よその土地で結婚して、主人が第六師団司令部に配属されて来たのである。久住はそのこちこちの軍人、うるおいのない家庭を想像して見た。すると何となく、フサコはその家庭に似合わないだろう、という感じを持った。大尉夫人や少佐夫人という顔ではない。顔として、すこし派手過ぎるのである。

「だから下宿屋稼業の方がたのしいんですよ。あんたたち若い人たちの世話をして、しばられない生活をしてる方が、生甲斐を感じるわ」

[やぶちゃん注:「第六師団」大日本帝国陸軍のそれ。明治五(一八七二)年に設置された「熊本鎮台」を母体に明治二一(一八八八)年五月に師団として編成された。熊本・大分・宮崎・鹿児島の九州南部出身の兵隊で編成され、衛戍地(えいじゅち)を熊本とした。]

 彼はフサコを美しいとは思わなかった。しかしその不均衡な容貌に、いつかはひかれるだろうという漠然たる予感があった。

「だって女の幸福というのは、よき家庭の主婦になることじゃないのかなあ」

 彼はいっぱしの口をきいた。そうそう子供ではないことを示したかったのだ。

「そう思うの? 久住さん」

 フサコは笑いを含んで答えた。

「あんたの家は、どうだったの?」

「そうだな」

 彼は多少の狼狽を感じながら答えた。

「おふくろは、うまくやっているよ。いるように思うよ。ぼくにはよく判らないけれどね」

「世の中には、いろんな生き方があるんですよ。自分を犠牲にして生きて行くか、自分を開放して気ままに過すか、その中間にいろいろね。男にもあるんじゃない? わき目もふらず勉強ばかりする、たとえば江田さんのような人や、その逆のたとえば――」

 フサコは言いよどみ、口をつぐんだ。彼は言った。

「たとえば、ぼくのようにかね?」

「あんたじゃありませんよ。久住さんは中途半端なだけですよ」

 たとえば西東さんのように、と言いたかったらしいた気がついたのは、ずっと後のことである。

「あんたはまだ子供なんだから、無理をしないで生きて行くこと。それが大切よ」

 

 彼をこの下宿に紹介したのは、小城という男だ。小城は中学四年修了で入って来たので彼より年少であり、頰のふっくらとした美少年であった。中学は西東と同じで、大分県である。小城は同郷の故で西東をけむたがっていた。

「中学の時、こいつはおれの稚児(ちご)だったんじゃ」

 西東はなかば揶揄(やゆ)するように、時々放言する。それもけむたい理由のひとつだったのだろう。

[やぶちゃん注:「小城」「こじろ」と読んでおく。]

 寮にいた時、四、五人が一部屋に集まり、こたつに入って、南京豆など食べながら、雑談をしていた。二・二六事件が起きた冬で、たいへん寒かった。その中の誰かが、怪談を始めた。次のような月並みな怪談だ。

[やぶちゃん注:「二・二六事件が起きた冬」昭和一一(一九三六)年。]

 一部屋二人制の寄宿舎で、その一人が時々夜中にいなくなる。不審に思った同室人が、どこに行くのか確かめてやろうと思う。狸寝入りをしていると、真夜中その男が起き上って、同室人の眠りを確かめ、そっと部屋を出て行く。同室人はすぐはね起きて、マントをかぶり、あとをつける。

 つけられているとも知らぬ男は、寮を抜け出し、学校の寮にある山に登り始める。しばらく登ると、墓地があるのだ。そこに這入り、男は墓を掘り始める。

 同室者はがたがたと慄えながら、それを見守っている。慄えるから、マントが笹や木の枝に触れ合って、がさごそと音を立てる。男はきっと振り返る。そして絶望的な声で言う。

「見たな!」

 男の手には、土葬された死体の腕がある。それが血まみれになっている。――

 かんたんな怪談だが、話し方がうまかったので、雰囲気が出て、かなり恐かった。その怪談の途中に、こたつのやぐらに乗せていた久住の手に、濡れてあたたかい掌が、突然かぶさった。ぎゅっとにぎりしめて来た。彼はおどろくというより、あっけに取られた感じで、級友たちの顔を見廻した。皆語り手の顔を見、話にひき入れられていた。話が佳境に入ると、掌の力がさらに強まった。彼も語り手から眼を放さずに思った。

〈小城だな〉

 掌の位置や方向から判る。振りはらう気持は別になかった。秘密を共有しているという隠微な愉しささえある。彼は視線をちらと小城の方に動かした。小城は聞くことに夢中になっているようだ。無意識なのか、頭と掌を意識的に使い分けをしているのか、とっさに彼は判じかねた。

〈すぐ判断をしなくてもいい。しばらく様子を見ていよう〉

 と久住は思った。それは彼の性格であり、生きて来て身につけた唯一の処世術でもあった。その夜は、それで終った。

 

 この学校の寮は、一年生だけで、二年目になると要員だけ残り、あとは校外に出て下宿する。そんなシステムになっていた。そのための素人下宿があちこちにあり、選ぶのに不自由はしない。供給が需要を上廻っていた。娘との交際を欲するものは娘付き下宿へ、遊び好きは街近くへ、勉強好きは静かな下宿へと、好みのまま選択が出来る。

  年の学期末試験が近づいていたが、久住はまだ迷っていた。

 ある夜、彼は試験勉強をしていた。同室者は外出していたので、彼はひとりであった。扉をたたく音がするので、応答すると、小城が入って来た。彼はノートブックを伏せ、小城に向き直った。ただ遊びに来たのでないことは、その様子で判ったからだ。小城は言った。

「もう下宿は、きめたの?」

 まだきめていない、と彼は答えた。

「じゃ一昨日話した通り、尾山荘にして呉れないか」

「なぜそんなにおれを誘うんだね?」

「やはり親しく知り合った同士で住みたいからさ。あそこは川に向いていて、静かだし、学校にも近いし――」

 彼は黙っていた。すると突然、小城は彼の体にしなだれかかって来た。

「もう尾山さんに話をつけてあるんだ」

「おれが下宿することをか?」

 彼はすこし驚いて言った。

「そんなむちゃな。おれはまだその尾山荘なるものを、見たこともないんだよ」

「だから、明日いっしょに行ってー――」

 小城は彼の右手に唇をつけた。不潔だとか、うとましいとは別に感じなかったが、こころよいとも感じなかった。しばらく相手のなすままに任せていた。それから三十分後に、彼はとうとう尾山荘行きを承知させられてしまった。

 翌目の課業がすむと、二人は連れ立って、尾山荘を訪れた。それは白川に面して建っている。新築というのも、うそでなかった。女将の尾山フサコに会う。

〈ふしぎな顔をした小母さんだな〉

 そう思っただけである。それから部屋々々を見て廻った。

  山荘、などと言うと、アパートメントみたいなものを想像するが、この下宿屋はふつうの住宅で、貸す部屋は二階の三部屋だけである。玄関のとっつきに洋風の応接間があったが、それはまだ貸す気はないようなフサコの目ぶりであった。二階に廊下があり、四畳半が二つ、突当りに六畳があった。新築のくせに、二階を歩くと、何か不安定な感じがした。

「ずいぶん大工が手を抜いたらしいな」

 寮に戻りながら、彼は言った。

「未亡人と思って、大工がばかにしたんだろう」

「未亡人じゃないんだよ。離婚したんだ」

 そのあらましを小城は説明した。

「ふん。そんなことかね」

 彼は気のない返事をした。

「それで君は奥の六畳間を約束したのか?」

「そう」

「するとおれは四畳半というわけか」

 小城は黙っていた。彼は追いかぶせるように言った。

「あの六畳をおれにゆずるなら、下宿してもいいな。おれは広い部屋の方が好きなんだ」

 小城は彼の顔を見た。怨(えん)ずるような表情になった。

「どうしても奥の間を――」

「そうだ」

 彼はつっぱねるように答えた。

「でなければ、他の宿をさがす」

 寮に着くまで、あとは口をきかなかった。

 その夜、また小城が訪ねて来た。

「六畳は君にゆずるよ。その代りに――」

 秘密を打ちあけるような、低声であった。

「ぼくにお客が来た時だけ、君の部屋を使わせて呉れないか」

「お客? どんな客だね?」

「身、身内のものなんだけれどね」

 と小城はどもった。何だかあやふやな口ぶりである。彼は単純に考えた。

〈肉親が訪ねて来た時、こんないい部屋で勉強している、ということを見せたいのかな〉

 そして彼は、小城のそのような稚(おさな)い見栄に、かすかな嘲笑がのぼって来るのを感じた。あとになって判ったが、嘲笑さるべきは彼の方であった。

「それなら下宿してもいい」

 彼は答えた。

 学期試験がすむと、彼は小城といっしょに、尾山荘に荷物を運んだ。二階のとっつきの部屋は、江田という理科の男が入っていた。その次が小城。奥の六畳は、この間見た時から、気に入っていた。小さいながらも床の間がついていたし、南の窓をあけると、白川の流れが見える。畳は新しいし、壁もきれいだ。久住は自分だけの部屋を今まで持ったことがない。そのことの満足もあった。

 尾山荘の背後にも素人下宿屋があり、西東はそこに入っていた。その下宿は尾山荘より格が落ちた。尾山荘があるので、展望がきかないのである。その点久住の部屋は『眺望絶佳』と言ってよかった。

 いいことずくめのようだが、ひとつ見込み違いをしたことに彼が気付いたのは、ニヵ月あとのことである。それは蚊であった。五月末になると、蚊が出始めた。河原のところどころに水たまりがあり、そこで発生するのだ。だから寝る時には蚊帳をつらねばならない。寝る時だけでなく、勉強する時も蚊帳が必要なのである。

 六月の末、隣家の西東の部屋に碁を打ちに行ったことがある。蚊はいなかった。一局打ち終って、彼は質問した。

「蚊は出ないのか」

「時々出て来るよ。寝る時は蚊取線香を立てる」

「蚊取線香ですむのか。うらやましいな」

「君んとこには、よく出て来るね」

「いるのなんのって、夜窓をあけると、わんわん入って来る」

 彼は首筋をかきながら言った。

「すごく大きな蚊でね、刺されるとひどく痒い。河原から発生するんだ」

「そりゃ気の毒だね。河原の蚊は尾山荘だけで満足して、うちには廻って来ないんだ」

 西東は笑いながら言った。

「蚊というやつは、人跡未踏の場所にもいる。ということは、人間の血を吸わないでも生きて行けるんだ。だから蚊が人血を吸うのは、趣味か道楽なんだよ」

「道楽でおれは刺されているのか?」

 久住は苦笑いをした。

「尾山荘に入る時、蚊のことだけは、計算に入れなかった」

「そんなに蚊が多いとは、おれも気付かなかったな。初めおれは尾山荘に入る予定だったんだ」

「なぜ入らなかったのかね?」

「入ろうと思ったら、満員だった。小城が無理に君を引っぱり込んだ。そうだね?」

 久住はうなずいた。

「小城がなぜ君を引っぱり込んだか。その意味が判るかい?」

「意味なんて、あるのかね」

「あるさ。君が入らなきゃ、おれが入る。すると小城は困るんだ」

「なぜ困る?」

 西東は立って窓をしめ、元の座に戻って来た。

「小城にこの間女の客が来たね」

「ああ。来たよ」

 彼は答えた。

 西東は家が隣のせいもあって、しょっちゅう尾山荘に遊びに来ていた。久住や小城の部屋にはほとんど入らなかったが、附下の応接室で久住と碁を打ったり、フサコをまじえて花札を引いたりした。フサコも勝負ごとは好きだったようである。独り身の佗(わび)しさを勝負ごとに託するのか、それとも生来のものなのか、ことに花札は強かった。

「花札の強い女なんて、軍人の家庭に似つかわしくないな」

 負けて口惜しいので、久住はそんな冗談を言ったことがある。するとフサコはむきになって答えた。

「あら。あたしは花札を、主人から習ったのよ」

 小城は勝負ごとに無関心らしく、応接間の仲開には入らなかった。西東がけむたかったのかも知れない。

 久住は質問した。

「あの女、一休何ものだね?」

 

 五月なかばの土曜日であった。お客が来るから、二日間部屋を交換して呉れ、と小城が申し込んで来た。

「二日間って、その客は泊るのか?」

「そうなんだよ」

 媚(こ)びるような眼で、小城は彼を見た。

「頼む」

 部屋交換は初めからの約束なので、彼は寝具を小城の部屋に運んだ。客が到着したのは、夕方である。女であった。

 その日の夕食は、小城はとらなかった。女客と町に出て、食事をしたり、映画などを見たのだろう。戻って来たのは、十二時近くである。

[やぶちゃん注:ここから尾山荘は下宿人にそれぞれ玄関の合鍵を持たせている方式らしいことが判る。]

 久住は布団の中に、横になっていた。電燈を消したが、部屋がかわったせいか、なかなか寝つかれない。しばらくして廊下を忍び歩く二人の足音を聞いた。足音は奥の六畳問に入り、襖(ふすま)がぴたりとしめられた。

 久住は聞こうとはしなかったが、隣室の物音が自然に耳に入って来る。新築だけれど、安普請(やすぶしん)なので壁が薄い。寝巻に着かえる気配がする。会話も聞える。彼は眼を閉じたまま考えた。

〈小城は寝具をひとつしか持ってない筈だが、一緒に寝るつもりか〉

 しゃべっていることは判るが、その内容は聞きとれない。すこしずつ声が高くなる。調子が戯語めいて来る。電燈を消す音がつづいた。彼は観念した。

 〈これじゃ眠れそうにないな〉

 音や声はしばらく続き、そして突然やんだ。久住は音のしないように起き上り、催眠薬をのみ、薬罐(やかん)に口をつけて、水とともに飲み下した。

[やぶちゃん注:「戯語」「じょうだん」(冗談)と当て訓しておく。漢語として「ぎご」「けご」ともあるが、凡そここに相応しくはない。但し、春生はルビを振るべきであったと思う。]

 朝眼が覚めたのは、午前七時。その部屋の廊下に面した障子は、上と下は紙で、中間にはガラスがはめこまれている。六畳聞の襖が開かれる音で、眼が覚めたのだ。彼は首だけを寝床から立てた。ガラスの幅だけ、女の姿が見えた。紫色が見える。袴(はかま)のようだと思った時、姿はガラスを横切って消えた。顔や手は見えない。つづいて小城が出て来る。

 それまで見届けて、頭を枕に伏せた。催眠薬がまだ頭に始残っていて、眼がちかちかする。彼はふたたび眠りに入った。十二時頃、本式に目覚めた。寝床にあぐらをかき、煙始草に火をつけた。さっきの紫色を思い出した。先ほどは寝ぼけ眼で見たが、はっきり覚めた今、その色はかなり妖しい情念を彼にもたらした。

 煙草をもみ消すと、彼は階下に降りて行った。昼食の用意がととのえられている。彼はチャブ台の前に坐り、フサコに話しかけた。

「小城んとこに来たお客、あれは何だね?」

「あたしも知りませんよ」

 フサコは不機嫌な答え方をした。

「一昨日電報が来ました。故郷(くに)の人じゃないかしら」

「いくつぐらいの女? たしか袴をはいでいたね」

「顔は見なかったの?」

「見なかったね。寝ていたから」

「小城さんよりずっと年上よ」

「じゃやはり身内の女かな。ひどく親しげだったから」

「のぞいたの?」

 フサコは大きな眼をさらに大きくしで、彼を見た。

「のぞきゃしないよ。ぼくにそんな好奇心はない。部屋を交換しただけだ」

「部屋を交換した?」

 フサコはいぶかしげな顔になった。

「じゃあんたは小城さんの部屋に寝たの?」

「そうさ。いけないかね」

「いけないとは言わないけれど、するとあんたも共犯者ね」

「共犯? 冗談じゃないよ。あれ、犯罪か?」

「ここの風儀を乱したのは、よくないことよ」

 フサコは強い調子で言った。

「うちは逢引(あいびき)宿じゃないの!」

「そ、それは判っているが、初めからの約束だった」

 彼は弁解した。

「しかし逢引きかどうか、ぼくは知らない。小母さんにも判らないんだろ」

 フサコは返事をしなかった。彼に茶を注ぐと、立ち上って二階へ登って行った。彼は茶をすすりながら考えていた。共犯者という言葉に、しばらくこだわっていた。

 

「あれは小学校の先生なんだ」

 西東は碁石を片付けながら言った。

「恰好(かっこう)見れば判りそうなもんだ。つまり小城のやつは、その中田先生から習ったんだよ」

「先生?」

 ガラス越しに見た袴の紫色を、彼は思い出した。

「受持の先生なのか?」

「そうだ。小城が六年生の時、女子師範から赴任して来た。もちろんその時は何もなかった。中学に入ってから、

火がついたんだ」

「どうして君はそれを知っている?」

「おれと小城は同郷だ。小さな町でね、おれもその小学校を卒業したんだ。女教師の顔もよく知っている」

「すると――」

 ちょっと久住は言い淀んだ。

「やはりぼくの部屋で、逢引きをしたんだな」

「君の部屋?」

「うん」

 そして久住は交換の一部始終を説明した。西東は腕組みをして聞いていた。

「お前は利用されたんだよ」

「そうか」

「お前がおとなしいかと思って、尾山荘に引き入れたんだ。お前は口が堅いからな」

 口が堅いのではない。この件に関してしゃべる材料がないだけだと、彼は思ったが、口には出さなかった。

「お前は人が好いんだ」

「そう思うか」

 尾山荘に引き入れられた事情やいきさつについて、彼は、西東に話さなかった。

「しかし、自分が教わった教師と関係を持つというのは、どんな気持のものかなあ」

 久仕がそこに興味を持っているのは、事実であった。彼にはもちろんその経験はない。小学生の時、彼も女教師に教わったことがある。紫色の袴は母性と威厳をたたえていた。だからガラス越しに見た紫色が、強いショックを彼に与えたのだ。久住は言った。

「西東。なぜ君は小城のことを、そんなに気にするんだね?」

「気にはしないさ。しないけれども――」

 西東はそのまま口をつぐんだ。碁盤をたたいた。

「もういっちょやろうや」

 西東の声や態度は、もう元に戻っていた。大したことはないんだな、と彼は思った。

 

 それと同じ申込みが、七月上旬にも小城からあった。やはり土曜日で、久住は放課後寝具を小城の部屋に移し、そのまま外出して、級友の三田村の下宿に遊びに行った。三田村の宿は坪井にあった。

[やぶちゃん注:「坪井」熊本県熊本市中央区坪井。]

 彼のクラスは碁好きが多い。皆入学して始めたので、腕前もほぼ同じである。三田村とも西東とも、彼は互先で打っていたが、どうも三田村が一番上達が早い感じがする。三度やると、二番は負けた。数局打つと、彼はすこし疲れた。その彼に三田村は言った。

「どうだ。ビールを飲みに行かないか」

 生ビールの季節になっていた。否も応もなく、久住はついて行く気になった。今日だけは下宿に戻って、飯を食う気にはなれなかった。

[やぶちゃん注:「互先」(たがいせん)と読む。私は勝負事に、一切、興味がなく、全く知らないので(特に碁は「五目並べ」以外で幼少期に遊んだ以外には全く知らない)、当該ウィキを引く。『囲碁の手合割の一つ』で、『ハンデキャップのない対局を指し、棋力が近い場合に採用される』もの。『囲碁は単純に目数で勝敗を決するとすると先手が有利であるため、一局で勝敗を決する場合、コミを用いて先手(黒)と後手(白)の均衡を図る。日本では』二〇〇〇『年代以降、後手に』六『目半のコミを与える(先手が』七『目以上リードしていないと勝ちとしない)のが一般的となっている。先手・後手はニギリ』(当該ウィキ参照)『によって決められる』。『互先の用語はもともとコミの無い時代に、互いに先(交互に白黒)を持つところからきている』。『棋力に差がある場合には定先』(じょうせん:当該ウィキ参照)や『置き碁』(当該ウィキ参照)『を採用する』。]

 街に出て、生ビールをジョッキで二杯飲んだ。それから行きつけのそば屋に座を移し、酒を飲んだ。そば屋と言っても、門構えのある屋敷風の建物で、部屋々々は独立している。宴会用の広間もある。そばを看板にしているが、むしろ料亭に近かった。二、三の料理を取り寄せ、盃(さかずき)を傾けながら、三田村は言った。

「君の下宿はどうだい。エッセン(食事のこと)はいいか?」

「普通だろうね。ただ蚊が多くて困る」

[やぶちゃん注:「エッセン」ドイツ語“Essen”。食事・料理・食い物。]

 しばらく下宿の話をした。寮の賄(まかない)との比較や環境のことなど。一般論から急に三田村は具体的な話に入った。

「君はあの下宿を出た方がいいよ」

「蚊がいるからか」

「いや。そうじゃない」

 三田村は手を振った。

「あの方向の下宿には、何か毒気があるよ。蛾の粉のようなものが散らばっとる」

「そうかね」

 久住も盃をなめた。三田村がどの程度まで事情を知っているか、興味があった。

「しかしおれはもともと、毒気に当てられないたちだよ」

「あそこに君を引き入れたのは、小城だろう」

 また追加した酒で、三田村は額が赤くなっていた。

「どんな風(ふう)にあいつは持ちかけて来た?」

 久住は返事をしなかった。

「君のためを思って言っているんだぞ。あんな女の腐ったような男と、つき合うな!」

「女の腐った男じゃない。あいつは相当なしたたか者だ」

「したたか者?」

 三田村は反問した。

「具休的には、どういうことだ?」

「どうだっていいよ。ぼくにも君にも関係ないことだ」

「あそこの女将は、未亡人だそうだね」

「それも関係ないよ」

 彼はわらいながら答えた。

「おれは眺めているだけさ」

「しかし醜悪だな。よく眺めるだけでいられるな」

 小城が女将と関係している。三田村がそう解釈しているらしいことが、やがて言葉の端々(はしばし)で判って来た。それを否定する証拠は、久住は持たなかった。

「でも女将は、小城のことを、小城のやり方を、心配しでいるようだよ」

 と久住は言った。

「関係があるなんて、誰からそんなことを聞いた?」

「西東だよ。いつか集会所で碁を打っていたら、そんなことをほのめかした」

「はっきり言ったのか」

「はっきりじゃない。謎をかけるような調子でだ」

「そりゃ君の聞き違いじゃないのか」

 と彼は言った。

「もっともおれは世間知らずだからね。わけも判らないことに、首をつっ込むのはいやなんだ」

 いい加減に飲み、かつ食べて、外に出た。夜の街を歩きながら、久住は言った。

「今晩君んとこに泊めて呉れないか」

「いいよ」

 三田村の宿では、客用の布団を出して呉れた。蚊帳も必要でなかった。三田村の実家は北九州の造酒屋である。押入れから一本出し、蚊取線香のにおいの中で、冷やの茶碗酒を何杯か飲んだ。三田村は言った。

「寝るところがきまったら、酔いつぶれてもいいんだ。家か出る時、おやじにそう言い聞かせられた。酔っても道ばたに寝るのはよせとね」

 部屋の隅に、一週間ほど前に出た校友会雑誌が出ていた。久住は手に取って、ばらばらめくった。西東が短歌を発表しでいた。十首ばかりで、題は『若い日の恋。別離』

『吾が胸にひしとすがりて別れうらむ君いぢらしき若き日の恋い』

 に始まり、

『何時か会はむと吾が手握りし面影の君を抱きて吾旅立ちぬ』

 で終っていた。久住には短歌に趣味はなかったが、すこしばかばかしい気がして、丸めて放り出した。

「いい加減なおっさんだな。西東は」

「いい気なもんだ」

 三田村も相槌(あいづち)を打った。

[やぶちゃん注:「校友会雑誌」『龍南』は明治二四(一八九一)年十一月二十六日の創刊(初期は『龍南會雜誌』か)の熊本第五高等学校の交友会誌。五高の英語教授であった夏目漱石を始めとして、厨川白村・下村湖人・犬養孝・大川周明・上林暁・木下順二などの後の錚々たる文学者が寄稿した。梅崎春生も昭和九(一九三四)年度には編集委員に名を連ねており、同誌に春生は多くの詩作品も投稿している。私は既に当該詩篇群を原雑誌を底本として、その全十六篇を、ブログ単発ではブログ・カテゴリ「梅崎春生」で公開しており(頭が「梅崎春生 詩」とあるのがそれら)、別にサイトの「心朽窩旧館」の「梅崎春生」の頭に『藪野直史編「梅崎春生全詩集」(ワード縦書版)』(ここをクリックしてもよい)がダウン・ロード出来るようにしてある。その内、後者はPDF版にする。]

 翌朝眼がさめると、いい天気であった。朝飯を食べながら、三田村が提案した。

「どうだ。今から阿蘇に登らないか」

 彼は別に異存はなかった。夏の阿蘇なので、別に支度する必要もない。豊肥線に乗り、坊中で下車、あとはバスで頂上近くまで登れる。しかし、バスには乗らなかった。足を使って、えいえいと登った。あと一息で頂上に達するところで、突然地鳴りがして、小さな爆発が起きた。火口にいた何百の登山客が、あばかれた蟻(あり)の巣のように、方向も定めずに急坂をころがり降りた。二人の周囲にも、小さな火山弾が落下した。

「動かない方がいいよ」

 三田村はしずかに言った。

「動くと落石に当る可能性が多くなる」

「そうかな」

 久住は空を見上げながら、そう言った。しかし三田村の言に、瞬間疑いを持った。たとえば俄(にわ)か雨の時、じっとしているのと、走るのとでは、どちらが余計に濡れるのか。一分間ほどで、爆発はやんだ。しかし頂上の火口に行く気持はなかった。方針を変えて山を降り、夕方栃ノ木温泉に泊った。翌日昼間はそこらをぶらぶらして、夕暮れに熊本に戻って来る。そのまま別れるのに忍びず、また街でビールを飲み、夜更(ふ)けて尾山荘に戻って来た。玄関がしまっているので、ベルを押した。フサコが出て来た。

「今までどこに行ってたの?」

「阿蘇山に登った」

 彼は正直に答えた。

「そして栃ノ木温泉に泊ったんだよ」

 そう言い捨てて、彼は二階に上った。見ると彼の寝具は元の六畳に戻され、蚊帳もつられていた。部屋には香水のにおいが残っていた。勉強机の上には見慣れぬ花瓶があり、花が挿してある。彼は酔眼を見開いて、しばらく考えた。

〈一体誰が、どんなつもりで、これを置いたんだろう〉

 気持が激するのを感じながら、彼はその花束を引き抜き、南の窓から力まかせに投げた。ついでに花瓶も投げ捨てた。自分の区切った生活の中に、異質なものが入って来るのが、不愉快だったのだ。

 翌朝の朝食の時、花瓶のことについて、誰も触れなかった。もちろん久住も黙っていた。久住から口に出すべき問題ではなかったからである。

[やぶちゃん注:「豊肥線」(ほうひせん)大分県大分市の大分駅から熊本県熊本市西区の熊本駅に至る当時の国鉄の豊肥本線。路線名の「豊」は現在の大分県に当たる豊後国、「肥」は同前式の肥後国に由来する。当初、大分駅と玉来(たまらい)駅の間は「犬飼軽便線(いぬかいけいべんせん:後に犬飼線に改称)、宮地(みやじ)駅と熊本駅の間は「宮地軽便線(みやじけいべんせん:後に宮地線に改称)と称したが、最後の区間であった玉来駅と宮地駅の間が開業し、大分駅 から熊本駅の間が全通したのは、昭和三(一九二八)年で、宮地・犬飼両線を合わせて「豊肥本線」となった。

「坊中」坊中駅。現在の阿蘇駅

「栃ノ木温泉」栃木(とちのき)温泉。阿蘇山南西麓のこの附近。]

 

 夏体みが過ぎて、二学期が始まった。各地方からぞろぞろと、学生たちが下宿に戻って来る。皆日焼けして、黒くなっていた。

 同級の五、六人と、学校の裏にある立田山に登った。酉東もいっしょであった。彼は西東をからかった。

「何時か会わんと吾が手握りし君と、また別れを告げて来たのかい?」

「あれはフィクションだよ」

 西東は冴えない声で答えた。

「君に話があるんだが、連中をまこう」

[やぶちゃん注:「立田山」(たつだやま/たつたやま)は熊本市のほぼ中央に位置する標高百五十一・七メートルの山。現在の熊本大学の東北後背に当たる。]

 先に登って行く級友たちと、別のコースをたどり、静かな場所に出た。巨(おお)きな杉の根っこに腰をおろし、西東はゲルベソルテに火をつけた。

[やぶちゃん注:「ゲルベソルテ」“GELBE SORTE”。ドイツ製の煙草の銘柄。私も若い頃、パッケージが箱型上開きで渋いので、両切りであったが、吸っていた。空き箱がどこかにあるはずなのだが、見出せない。グーグル画像検索「GELBE SORTE」をリンクさせておく。]

「実はおれは尾山のばばあに相談を受けたんだ」

 ばばあ呼ばわりをするところに、西東の偽悪趣味がおこった。

「何の相談だね?」

「小城のことについてだ」

「いつ?」

「そら。小城の女が来た時、君は阿蘇に行っただろ。あれから二、三日してからだ」

 西東は苦笑いをした。

「よく聞いてみると、小城はおれを、よっぽどの悪人に仕立てているんだな。驚いたよ」

「どんな悪人だね?」

「つまりぐうたらで、女たらしということだね。おれの短歌まで利用してさ。言うまでもなく、あれは架空の乙女なんだ」

「そうだろうね。あれは想像だ」

 彼は相槌を打った。

「経験者なら、あんな甘っちょろい歌をつくる筈がない」

「おい。それはおれをほめてるのか、けなしているのか?」

「ほめているんだよ」

 西東からその外国煙草を一本もらいながら、久住は答えた。西東の家は旧家で、大地主だと聞いたことがある。だからこそ外国煙草が買えるのだ。

「で、相談とは何だい?」

「小城のことだよ。女教師と密会している――」

「何で君に相談を持ちかけたんだろう。ぐうたらな君にさ」

 久住は首をひねった。

「どうしでおれに相談を――」

「君ではだめたんだ」

「子供だからか?」

「いや。お前は子供じゃない」

「子供じゃなくなったのか?」

「君は尾山のばばあの花瓶を、河原に投げ捨てただろう」

 西東は煙草を踏み消しながら言った。

「あの花瓶、安物じゃなかったそうだよ。しかし、お前のために、割れて使えなくなってしまった」

「あれ、尾山のばあさんのものなのか?」

 彼はびっくりして、反問した。

「何で花瓶を、おれの部屋に置いたんだろう?」

「君をなぐさめるためにさ」

「何でおれをなぐさめる必要がある?」

 彼は言葉を強めた。

「おれは同情されるのは御免だ」

「まあ、まあ、そう怒るなよ」

 西東は空気を手で押さえつけるようにした。

「ばあさんは小城のことで、いらいらしているんだ」

「嫉妬でかね?」

「嫉妬? それはどんな意味だい?」

「ばあさんと小城と肉体的に関係しているということさ」

 彼はゆっくりした口調で言った。

「君はそのことを、ある男にしゃべっただろう」

「うそだ。誰にもしゃべりはしない」

「しゃべらないにしても、ほのめかすぐらいのことはしただろう」

 西東は顎(あご)に手を当て、しばらく考えていた。顔を上げた。

「関係があるかどうか、おれは知らない。現場を見たわけじゃないからな」

「では、相談というのは、嫉妬からじゃないのかい?」

 西東はまた黙った。少し経って、重そうに口を開いた。

「言葉の上じゃそうでなかった。うちの部屋であんなことをされては困ると言うんだね」

「それはおれも言われたよ。しかも、おれが共犯だってさ」

 彼は煙草の火を杉の根にすりつけながら答えた。

「部屋を貸したばかりに共犯あつかいさ。でもばあさんは、何故そんなことにこだわるのだろう?」

「実を言うと、ばあさんはね、元の亭主のところに戻りたいんだ」

「あの軍人にかい?」

「そうだよ。迎えに来て呉れはしまいかという期待を、まだ捨て切れないでいるんだ。それで逢引宿という噂が立つのを、ひどくおそれてんだ」

「なるほど」

 彼は思わす嘆息した。

「姑(しゅうと)や小姑は悪いやつだが、亭主はいい人間だと、いつかばあさんは言ってたな。そんなことか」

「で、女教師をうちに来させないか、あるいは小城に出て行ってもらうかだ。それが相談の内容だよ。おれにやって呉れと言うんだ」

 西東は立ち上って、背伸びをした。

「おれは小城の中学の先輩だし、同郷だろ」

「うん。おれは共犯者で、花瓶をこわしてしまった」

 彼も立ち上った。どちらからともなく歩き出した。

「しかし、話がちょっと変だな。小城が君を悪者あつかいにしているのを、ばあさんはそれまで隠していたのかね?」

「そうらしい」

「相手が女教師だということを、ばあさんはいつ知ったんだろう?」

「一回目のすぐあとさ、おれが教えてやったんだ」

 西東はややうつむき気味に歩きながら言った。

「女教師を来させない方法は、いくつかある。女教師に手紙を書くとか、小城に忠告するとか、いろいろね。しかしあのばあさんは、自分を悪人にしたくないんだ」

「それで君に委嘱(いしょく)したわけだね」

「まあそういうことだ」

「で、断ったのかい?」

「いや。引受けたよ」

「ばかだね」

 と、久住はわらった。

「他人の情事に頭をつっこむなんて、引合わない話だよ。成功しても怨まれるし、不成功でも憎まれるしね」

「では、相談に乗って呉れないと言うんだね」

「そうだよ」

 彼はつっぱねた。

「君だけでやればいい。おれは君を援助もしないし、邪魔もしないよ」

「そうか。案外つめたい男だな」

 西東は落着いた口調で言った。

「船が沈没して、お前がボートに乗っている時、泳いでいるやつが舷(ふなばた)にしがみついたとする。その指を引剝がして海につっぱねるか、ボートに引揚げてやるか、お前はどちらもやらないだろう」

「そうだね。その場にならないと判らない」

「まったく悪人だよ。君という男は!」

「悪人?」

 一方につめたくすれば、片方をあたたかくすることになる。それを言おうとしたが、何か面倒で、口には出さなかった。

「悪人かねえ、このおれが」

 

 九月の末、尾山荘に異変が起きた。西東が尾山荘の応接間に引越して来ることになった。久住はフサコに訊(たず)ねた。

「応接間は人に貸さないことになってたんだろ。ぼくの思い違いかしら?」

「初めはそうだったのよ」

 フサコは困った顔で答えた。

「しかし今は物価も上るし、四人いなきゃ家計が立たないの。下宿代を上げるか、食事の質を落すか、どちらもあんたたちは困るでしょう」

 たくみな言逃れだと、その時彼は考えた。しかし西東が移って来ることに、別に異存はなかった。西東が来たって、別に困りはしない。そこで彼は西東の荷物運びを、手伝ってやった。

 それから一週間後、今度は小城がよその下宿に引越して行った。この引越しぶりは電光石火で、土曜日の昼食をとりに尾山荘に戻ったら、小城の姿はなく、部屋もからっぽになっていた。学校を欠席して、引越しをしたのである。西東が玄関番みたいに頑張っているから、出て行く気持は判るけれども、

〈おれに相談もしないで!〉

 という気持が、久住の中に瞬間動いた。もともと懇願しておれを尾山荘に引入れたくせに、当人はすぽっといなくなる。そんなことがあってもいいものか。小城の出て行った部屋に、人見という男が入って来た。なぜ西東を二階に移さなかったのかと聞くと、フサコは、

「小城さんが自分の友人を入れて呉れ、ということでしたから」

 とあっさり答えた。彼女にとっては、小城の問題が片付けばいいのだ、と久住は解釈したが、その解釈は幾分見当外れであった。

 釈然としない気持で、彼は小城と学校で会っても、口をきかなかった。十日ほどその状態がつづき、小城の方から妥協を申込んで来た。

「黙って尾山荘を出て、君には悪かったと思っている。許して呉れ」

「あやまられる理由はないね、おれには」

 久住は答えた。

「それはお前の自由なんだから」

「そう思って呉れるとありがたい」

 小城は頭をかいた。

「なにしろあそこは蚊が多くてね、ぼくには向かないんだ」

「そりゃ誰にも向かないよ。向かないことを知っていて、人見を紹介したのか?」

 小城は困ったような顔をした。少し経って言った。

「十月だからね、もう蚊もいなくなるし、と思ってさ」

 ではお前がとどまればいいじゃないか、と言おうと思ったけれども、やめにした。原因が判っているので、これ以上追求しても無駄である。黙っていると、小城は別の弁解を持ち出して来た。

「あの小母さんと西東が関係してることを、知ってるかい?」

「知らないね」

「それでぼくは、あそこを出て行く気になったんだ」

「しかしそれは、君と関係ないことだよ」

 彼はつめたい声で言った。自分のことは棚上げにして、他を批難する。それがいやであった。

「関係ないけれど、何か不潔――」

 言いかけて、すぐ言い直した。

「何となくいやなんだ」

 不潔という言葉が、両刃の剣のように、自分にはね返って来ると思ったんだろう。そしてあわててつけ加えた。

「これは内緒だよ。西東にも小母さんにも、言っちゃいけないよ」

 

 第三の異変は、尾山フサコに結婚式の招待状が来たことから始まる。差出人は、元亭主の軍人で、つまり再婚の通知であった。

 西東は二日続きの休みを利用して、天草に遊びに行っていた。

 久住が夜夕刊を読みに階下に降りて行くと、フサコは長火鉢の前に坐って、じっと宙をにらんでいた。

「夕刊を見せて下さい」

 彼の姿を見ると、フサコは夢からさめたような顔になった。彼が夕刊を読んでいる間に、お茶をいれる。まだ夕刊を読み終らない中に、フサコは話しかけた。

「ねえ。こんなことってあるものかしら?」

 角封筒に入った書状を、彼に差出した。

「中を見てもいいのかい」

 彼は中身を引っぱり出して読んだ。

「あたしの元主人よ」

「そうか。では結婚式に出席して、祝福して上げなさいよ」

「あんた、本気で言ってるの!」

 語調の激しさに、久住は一瞬たじろいだ。

「おめおめと出られると思ってるの。これ、いやがらせよ。あくどいいやがらせよ」

「そう言えば、そんな気もするね。すると元主人という人は――」

「いえ主人じゃないの。この筆跡は、姑のものよ」

 ああためて眺めると、封筒の字は女の手のようである。西東からあらかじめ聞いていただけに、フサコの怒りと絶望の深さが判るようであった。書状を封筒に収め、帰ろうとすると、その手をフサコの両掌が、長火鉢の上ではさみ込んだ。フサコの掌はつめたかった。

「あたし、とてもつらいのよ」

 彼は黙っていた。黙ってするままに任せていた。フサコは彼の指が一本々々剝ぎ取る。手紙は彼の掌から離れ、角火鉢の角にあたり、ぽとんと畳の上に落ちた。

「あたし、今夜、眠れそうにない」

 フサコは眼を閉じて、訴えるように言った。彼は自分の掌がじわじわと、フサコの方に引寄せられるのを感じた。

「催眠薬を少し分けて上げようか」

 フサコはうなずいた。

「では二階から取って来る」

 フサコの掌を巧みに振り放し、彼は自分の部屋から催眠薬の普通量を紙に包み、階下に降りて来た。フサコの姿はその部屋から消えていた。次の間の襖(ふすま)がすこしあいている。のぞくと布団の上に、フサコの体はくの字形に伏していた。内に足を踏み入れていいものかどうか、彼は迷った。フサコがやがて顔だけ上げた。

「入っておいで」

「ちゃんと寝床に入りなさい。でなきゃ、ぼくは入らない」

 フサコはだるそうに立ち上り、長柳絆姿になり、布団の中に入った。彼は薬とコップの水を持ち、その枕もとに坐った。フサコは薄目をあけて、コップを見た。

「それは、水?」

「そう」

「お酒にしてちょうだい。冷やでいいのよ。お酒は戸棚の中に入ってるわ」

 彼は素直に立ち上り、水を捨て、酒瓶を提げて戻って来た。フサコは腹這いになっていた。空のコップに酒をどくどくと、彼は注いでやった。フサコは錠剤を含み、一息にコップ酒をあおったが、腹這いの姿勢のため、いくらかの酒が敷布の上にこぼれ落ちる。フサコはそのまま頭を枕に乗せた。

「お酒、もう一杯ちょうだい」

「だめです。それだけで完全に眠れるよ」

「じゃ眠るまで、そこにいて呉れる?」

「いて上げるよ」

 フサコは眼をつむった。五分ぐらい経った。フサコが突然小声で何か言った。聞き取れなかったので、耳を近づけた。寝ごとだと思ったら、今度はやっと聞き取れた。

「だめですよ」

 彼は元の姿勢になって答えた。

「小母さん。あんたはいつかぼくのことを、中途半端な男と言っただろう。また無理をしないで生きて行け、とも言った。お説の通り、ぼくは無理をしたくないんだ」

 フサコは返事をしなかった。布団を額まで引きずり上げた。しばらくして、彼はそっと立ち上った。酒瓶を提げて静かに歩き、襖をしめて、二階の部屋に戻った。蚊帳の中で、茶碗に酒を注いでは飲み、注いでは飲んだ。

「据(す)え膳食わぬは男の恥、か」

 その言葉は前から知っていたが、現実に遭遇したのは、これが初めてである。酔いが急速に手足まで廻って来た。彼は眼を据えて考えていた。

〈フサコは屈辱を感じただろうな。しかしそれは、おれの責任じゃない〉

 無理をしたくない、と拒絶したが、拒絶そのものが無理だったのかも知れない。近頃彼はフサコに、すこしずつ魅力を感じ始めていた。頽(くず)れたようなものに対する魅力を。――今夜長儒絆からこぼれた白い肩の丸みや、掌の感触や、なまめいた声などに、感覚的にひかれながら、やっと抵抗した。何のために?

「よし!」

 彼は片膝を立てた。まだ機会はある。フサコが階段かを登って来る可能性もある。その時彼は自分の情感に抵抗し切れないだろう。こちらから降りて行く手もある。酔いが彼をけしかけた。

 彼は蚊帳を出て、階下に降りた。足がもつれて、音を立てそうだ。フサコの寝室の襖をそっとあける。電燈がつけ放しになっている。その光の下で、フサコは眠っていた。彼は枕もとにしゃがみ、指でフサコの頰や肩に触れて見た。反応はない。彼女は熟睡におちている。そう確かめて、彼は今のコースを逆に戻り、蚊帳の中に入った。そして残り酒を全部飲み干し、窓から外に放尿し、泥のような眠りに入った。

 

 翌朝の食事時に、フサコと顔を合わせた。フサコは昨夜のことは忘れたように、不断(ふだん)通りに、むしろ濶達にふるまった。それが本体なのか擬態なのか、よく判らない。彼は宿酔のため、梅干を舐(な)め、濃い茶をがぶがぶ飲んだだけで、二階に引上げた。

 西東が天草旅行から戻って来たのは、夕方である。

 その翌日の放課後、街に出ないかと、彼は西東に誘われた。小さなおでん屋で、時間が早かったので、客の姿はない。錫𤏐で二、三杯飲んだところで、西東は切出した。

[やぶちゃん注:「錫𤏐」私は「ちろり」と読みたい。知らない方のために平凡社「百科事典マイペディ」を参考に記すと、酒を温めるための金属製の器で、「銚釐」と書き、「直接に地炉の灰中で温める」の意から「地炉裏」とも書く。多くは錫(すず)・銅・銀・真鍮製で、一般に筒形で、下方がすぼまっており、上部に注ぎ口と取手が付いていて、取っ手をへりに引っ掛けて、湯の中に入れて酒を温めるものである。]

「昨夜、お前はおれの酒を飲んだな」

「あれ、君の酒かい?」

「そうだよ。買って頂けてあったんだ」

 別に詰問する口調ではなかった。

「どうしてあり場所を探り出したんだね。ばあさんが教えたのかい?」

「まあそういうもんだ」

 彼は昨夜のいきさつを簡単に説明した。ただし手をはさまれたことや、そのあとで誘われたことは、話さなかった。

「それだけかね?」

「それから酒瓶を持って二階に上り、飲んでしまったよ。何となく飲みたかったんだ」

 ふたたび二階から降り、フサコの頰や唇に指を触れたことは言えない。

「じゃここは、おれのおごりにしよう」

「いや。それはおれが連れ出したんだから――」

 そう言いかけて、西東は黙った。中途半端な酔い方をして店を出て、表で別れた。

〈あいつはおれに何か相談したかったのかも知れない〉

 三田村の下宿の方に歩きながら、久住は考えた。これ以上尾山荘にとどまると、ろくでないことになるだろう。そんな予感があった。難破を予知して船艙(せんそう)から逃げ出す鼠。自分をそういうものに感じながら、彼は足を早めた。三田村に会って、適当な下宿を頼んだ。

 三田村は笑って承知した。

「そうとう毒気に当てられたな。しかしお前のためには、その方がいいよ」

 

 結局尾山荘を出るのは、二学期の末になった。理由は、川に面しているのでひどく寒いこと、遊びの惰性がつづいて勉強が出来ないこと、などをあげた。実際一学期の成績が悪く、二学期のそれも自信がなかった。勉強しなければ、落第の可能性があった。西東は言った。

「その点はおれも同じだよ。せっせと勉強しなきゃあ、おれも落第だな」

 荷物を引越先に運び出した夜、西東とフサコは長火鉢のある部屋で、彼の送別会をして呉れた。西東は半纏(はんてん)を着ていた。その半纒がフサコの手作りであることを、彼は知っていた。縫っているのを見たことがあるから。

 すこし酔って来ると、西東はフサコに命令したりした。

「フサコ。この間のカラスミの残りがあるだろ。あれを持って来い」

 夫婦気取りである。西東は呼捨てすることによって、彼に宣言したのではない。すべては暗黙裡(り)に、了解が成立していたのだ。はっきりしないことはたくさんある。たとえば西東とフサコがいつ結びついたか、小城がその間でどんな位置を占めているのか、フサコが彼を誘惑したことを西東は知っているのか、その他いろいろが久住には判らない。はっきりしているのは、今眼前の現象だけである。その暗黙の了解を、久住は不潔なものだとは思わない。ただ別の世界だと考えたかった。だから彼は盃をこころよく受けた。

「小母さんは結局――」

 彼はフサコに言った。

「下宿屋の女将という柄じゃなかったね」

「あら。どうして?」

「止宿人と同じ次元で、じたばたしたじゃないか。もっと威厳を保たなきゃ」

「それを言うなよ」

 西東が彼をたしなめた。

「お前はとうとう悪人で通したな。見事なもんだ」

 悪人ではない。臆病なだけだ、と答えようとして、彼はやめた。

 

 引越した下宿で、久住は割に落着いて勉強出来た。学期試験が始まり、そして終った。発表があって、彼はかろうじて進級し、西東は落ちた。自分の進級を見届けたあと、誰にも会わず、彼は故郷に戻った。

 新学期になって、授業が始まっても、西東は姿を見せなかった。人見の話では、荷物はそのまま残してあるという。人見の提案で、寄書を書いて、出て来ることをうながそう、ということになった。で、書状が廻された。

 久住は迷ったが、最後には拒否した。出て来ないのは彼の意志だから、おれはとやかく書く気持はない。その旨(むね)を人見に告げた。旧級友の有志だけで、発送されたようである。そのかわりに彼は尾山荘を訪問し、フサコに会った。元気そうで、以前よりはいくらか肥って見えた。

「あら。あの人、盲腸炎で人院してるのよ」

 フサコはびっくりした声を出した。

「担任の先生に、その届けは出してある筈よ」

「そうか」

 落第したから、担任が変っている。そこに盲点があった。

「しかし――」

 と彼は言った。同郷なのに、小城はそのことを知らなかったのだろうか。そこに不審があった。あるいはあの件で、交際を絶ってしまったのか。

「しかし、何よ」

「いや。何でもない」

 彼は笑って言った。

「西東もいさぎよく落第したもんだな。感服するよ。がっかりしてなかったかい」

「いえ。全然」

 フサコも笑って答えた。

「ゆっくり高校生活をたのしむんだと言ってたわ」

「金のあるやつは、のんきでいいね。うらやましいよ」

 彼は言った。

「出で来たら、歓迎会をやってやろう」

 部屋に上らずに、玄関先の会話だけで、彼は戻って来た。まおあれはあれでいいだろうと思った。教室がいっしょでないので、いつか西東のことは、彼の脳裡から離れていた。

 西東の兄が故郷からやって来て、西東の退学届を出したという話を聞いたのは、ずっと後のことである。何故退学をする気になったのか、彼には理解出来なかった。尾山フサコなら知っているだろうと思ったが、他のことに紛れて、つい訪ねなかった。七月になって行って見ると『尾山』の表札は外(はず)され、他の表札がぶら下っていた。

 彼は白川の河原に降り、しばらく流れを眺めていた。彼は去年の蚊の季節の頃を思い出した。佇(たたず)んでいる間も、大きな蚊が何匹も飛んで来て、彼の顔や手足にまつわった。

 河原から上り、新しい表札の玄関で、事情を聞いた。フサコはこの家を売却し、東京に行ったことが判った。新住人から聞き得たのはそれだけで、他の事情は何も判らない。新しい主人は言った。

「いさぎゅう蚊の多かとこですなあ。知らんもんだけん、高う買い過ぎたごたる」

[やぶちゃん注:「いさぎゅう」熊本弁で、「ひどく」「たいそう」の意。]

 

 西東とフサコの関係が、西東家に知られてしまった。そこで親族会議か何かがあったのだろう。西東を学校から引かせ、東京に追いやった。東京で私大の予科にでも入れるつもりである。当人もそれを希望した。

 尾山フサコに手切金が与えられた。もう西東に会わないとの約束で、フサコは一応承諾した。

 田舎の旧家らしい解決法だったが、事はそれで済まなかった。フサコが持ち家を捨てて上京したからである。よりが戻った。

 それも短い期間であった。徴兵猶予の手続きを忘れたために、彼に召集令状が来た。徴集されて二週間後、西東は大陸に渡り、すぐに戦死した。戦死のことは、久住は小城から聞いた。聞いたとたんに、彼はふっと涙が出そうになった。

[やぶちゃん注:「徴兵猶予」旧兵役法では在学者及び国外在住者に対して、定期的に申し出を出すことで、徴兵時期の延期が適用された。]

「ばかだな。手続きを忘れるなんて」

 久住は横を向いて言った。

「好いやつほど、早く死にやがる」

「それは逆だよ。死んだからこそ、いいやつなんだ」

 小城は感情のない声で言った。

「あの春休み、盲腸で入院する前、西東はぼくのお客に――」

「女先生のことか?」

「そうだ」

 小城はちょっと顔をあからめた。

「会っていやがらせを言ったんだよ。どうせ長くはつづかないから、交際はもうやめろってね」

「いやがらせじゃなく、忠告じゃないのかい?」

「うん。まあ忠告かも知れないが、彼に忠告する資格があるのかね?」

 フサコのことをさしていることは判った。そして小城は語気を強めた。

「西東はおせっかい屋なんだ。おせっかいをやき過ぎる。自分のことは棚に上げて、他人の邪魔ばかりしているんだ。そう思わないか?」

「思わないね」

 出かかった涙は、もう引込んでいた。久住は突放すように言った。

「おれはあいつから、おせっかいをされた覚えはないな。それほどべたべたした交際じゃなかったよ」

 

 その年の秋ごろから、久住の気持はやや荒れ始めた。西東の死の影響ではない。このままでいいのかという気分があって、学校を休んだり、酒に溺れたりした。彼はドイツ語がにが手で、その教授の一人から憎まれているという妄想みたいなものがあり、とうとう落第した。

[やぶちゃん注:「彼はドイツ語がにが手で、その教授の一人から憎まれているという妄想みたいなものがあり」恐らくは相似した事実や精神状態が梅崎春生にはあったと考えてよい。遺作『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注 (13)』にも優れて映像として印象的なシークエンスとして描かれてある。

 四年間かかって卒業し、東京に出た。中野のあるバーに尾山フサコがいて、彼に会いたがっていると友人が知らせて呉れたのは、学校に入ってすぐである。会いに行こうか行くまいかと、久住はしばらく迷った。会ってどうなるものでなし、と思ったが、結局出かけることにした。バーは中野駅のすぐ近くにあった。重々しげな扉の上に三角燈をつけ、壁には蔦をあしらった、あまり趣味のいいバーではなかった。

 フサコはずいぶん変っていた。顔は化粧でごまかしているが、首筋のあたりの皮膚はざらざらに荒れている。四年前の白いすべすべした肩を彼は思い出した。あれから四年間、こちらは四つ歳をとったのに、彼女は八年ぐらい老けたらしい。

 なつかしい。昔のことを思い出す。そんな月並みなあいさつから始まって、フサコはぐいぐい飲み始めた。

「おねえさん。そんなに飲んじゃ、休に毒よ」

 同僚の女から注意されるほど、がぶ飲みをした。看板近くになって、まだ話したいことがあるからアパートまで送って来て呉れ、と言い張って聞かなかった。彼がためらっていると、フサコはこんなことを言い出して来た。

「西東が学校をやめたのも、あんたのおかげよ」

「なに。ぼくの?」

「そう。寄書きをよこしたでしょう。西東が盲腸炎になって入院した時にさ」

「ああ。寄書を書いて送ったらしいな。おれは書かなかったけれど」

「ウソ! 書いたでしょう。あたしたちの仲のことを!」

 フサコはじれたがって、彼の胸をとんとんと拳でたたいた。

「書きゃしないよ。誓ってもいい。何て書いてあった」

「それを今もあたしは持っている。アパートにしまっているんだよ」

 酔うとあおくなるたちらしい。フサコは眼を据(す)えた。

「今はもう別に、久住さんを恨む気持もなくなったけどね。あんたは虫も殺さないような顔をして、実はほんとに悪人だったのねえ」

「おいおい。何もしないのに、悪人呼ばわりされちゃ、やり切れないなあ」

「何もしない?」

 フサコはけたたましく笑った。

「よくそんなことが言えたもんね。じゃあたしのアパートに来てごらんなさい。証拠を見せるから」

 行って見よう、と彼は決心した。フサコの足どりが怪しいので、彼は抱きかかえるようにしてバーを出た。学生がバーの女に肩をかして歩く。そんなことがもう許されぬ時節になっていたが、仕方がない。幸いアパートまで一町ほどしかなかったので、警官などに見とがめられずに済んだ。

[やぶちゃん注:「一町」百九メートル。]

 フサコの部屋は二階で、廊下の両側に部屋があり、廊下には七厘やバケッが置かれている。実はバーにいると聞いて、そこのマダムになっていると思っていた。しかしただの女給に過ぎない。それが彼の感慨をそそった。部屋には寝床がしき放しで、見覚えのある長火鉢が置いてあった。上京する時も手放さずに持って来たのだろう。部屋はしめ切りなので、空気が濁っていた。

「上んなさいよう」

 フサコは押入れをあけ、行李をごそごそと探し、古ぼけた封筒を持ち出して来た。彼は坐って、内容を取出す。ゆっくりと拡げて見た。

『元気を出して出て来い』

『一度の落第に気を落すな。人生は長く青春は短し』

 その中で、

『尾山フサコさんが待っとるよ』

 という文句に始まる、かなり長い、猥雑な文章があった。それはあきらかに、西東とフサコの関係を、第三者が読んでも理解出来る文である。その文の最後にはという署名があった。彼は二度読み返した。

[やぶちゃん注:「底本では、太字のが丸印の中にある。ブログでは表記出来ないので注した。]

「これを誰か身内の人が読んだんだね?」

「そうよ」

 彼の眼の動きを見ながら、フサコは答えた。

「西東の兄が読んだのよ」

 西東の兄が退学届を出しに来た事情が、初めてすらすらと彼には判った。彼は顔を上げて、フサコを見た。

「これはおれが書いたんじゃない」

 彼ははっきり言った。

「おれの文字に似せてはあるが、おれんじゃない。絶対に違うよ。西東は犯人はおれだと信じて、出征したのか?」

「いえ。迷ってたわ。するとやっぱり――」

 言いさしてフサコは口をつぐんだ。沈黙が来た。

「久住はこんな卑劣なことをやる男じゃない、と西東は言ってたわ。あんたじゃなかったのね」

「そうだよ」

 しかしそうだとしても、あたしはあんたが憎いと、フサコは言った。

「なぜ?」

「あんたは何も傷つかず、無事に大学生になった。西東だって、あんなことがなければ、大学生になれた筈よ」

 その理窟は通らない、と彼は思ったが、口には出さなかった。過ぎたことは、何を言ってもむなしいのである。フサコも重ねては詰め寄らなかった。彼女もそのむなしさを知っていたのだろう。久住は立ち上ろうとした。

「ねえ。今夜泊って行かない?」

「いや」

 事件に巻込まれるのもイヤだったが、今その感傷につき合うのも御免だという気持があった。そこで本式に立ち上った。

[やぶちゃん注:本篇はここで終わっている。こうした断ち切るような終局シーンは梅崎春生特有のもので、一種、映画的な、芝居の見え透いたクライマックスを作らない手法で、私は好きである。]

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