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2022/10/19

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 大空武左衞門

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、今回は段落を成形した。

 なお、この「大空武左衞門」(おほぞらぶざゑもん)は講談社「日本人名大辞典+Plus」によれば、寛政八(一七九六)年生まれで、天保三(一八三二)年に享年三十七で亡くなった力士で、肥後出身、本姓は坂口。文政一〇(一八二七)年に江戸の勝ノ浦部屋に入り、土俵入りを専門に務めた。身長二メートル二十七センチ、体重百三十一キロの巨人ぶりが評判となって、「牛股」「牛またぎ」と呼ばれ、錦絵にもなった当時の著名人である。サイト「東京散歩トリビア」の「江戸に現れた巨人。大空武左衛門(おおぞら ぶざえもん)」が詳しい(画像・手形碑有り)。また、サイト「山都町郷土史伝承会」の「大空武左衛門と角盤」も参考になる。さらに、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらPDF)で、まさに滝沢馬琴の賛の付随した、かの渡辺崋山(馬琴及び長男興継とは親しかった)の筆になる「大空武左衛門肖像」(最初のリンク先の解説によれば、この原画は、崋山が、所謂、ピンホール・カメラの一種である「カメラ・オブスクラ」(本文に出る「蘭鏡」がそれ)を使用して描いたとある)の亀屋文寳(かめやぶんぽう:大田南畝の弟子で二代目蜀山人を名乗った。馬琴の親友で本文にも出る。本書刊行に先立つ文政一二(一八二九)年に没している)の写本(文政一〇(一八二七)年頃)を見ることができ、さらに同じデータベースのこちらHTML)では、同じ時期に歌川国安が描いた錦絵も見ることが出来る。まずは、それらを見られてより、本文を読まれると、より面白いと存ずる。

 底本の挿絵は、最大でダウン・ロードし、トリミング補正をして原画像よりも、より見やすくした。]

 

   ○大空武左衞門

 文政十年丁亥《ひのとゐ》五月、江戶に來ぬる大男、大空武左衞門は、熊本候の領分、肥後州《ひごのくに》益城《ましき》郡矢部庄《やべのしやう》田所《たどころ》村なる農民の子也。今茲《こんじ》、二十有五歲になりぬ。身の長《たけ》、左の如し。

[やぶちゃん注:「文政十年」一八二七年。

「熊本候」文政十年時は細川斉護(なりもり:在位:文政九(一八二六)年~万延元(一八六〇)年)。

「益城郡矢部庄田所村」熊本県上益城(かみましき)郡山都町(やまとちょう)田所(グーグル・マップ・データ)。

 以下、底本では、二段組であるが、一段で示した。]

一、身長、七尺三分。[やぶちゃん注:二メートル二十一センチ。]

一、掌、一尺。[やぶちゃん注:三十・三センチ。]

一、跖《あしのうら》、一尺一寸五分。[やぶちゃん注:三十四・八センチ。]

一、身の重さ、三十二貫目。[やぶちゃん注:百二十キログラム。]

一、衣類着、丈け、五尺一寸。[やぶちゃん注:一メートル五十四・五センチ。]

一、身幅【前、九寸。後、一尺。】[やぶちゃん注:「九寸」は約二十七センチ。]

一、袖、一尺五寸五分。[やぶちゃん注:約四十六センチ。]

一、肩行、二尺二寸五分。[やぶちゃん注:約六十八センチ。]

 全身、瘦形にて、頭、小さく、帶より上、いと長く見ゆ。

 右武左衞門は熊本老候御供にて、當丁亥五月十一日、江戶屋敷へ來着、當時、巷街說には、牛をまたぎしにより、「牛股」と號するなど、いへりしは、虛說也。

 「大空」の號は、大坂にて、相撲取等が願出《ねがひいで》しかば、侯より賜ふ、といふ。是、實說也。

 武左衞門が父母幷《ならびに》兄弟は、尋常の身の長け也とぞ。父は既に歿して、今は母のみあり。生來、溫柔にて、小心也。力量は、いまだ、ためし見たることなし、といふ。

 右は同年の夏六月廿五日、亡友關東陽《せきとうやう》が柳河《やながは》候下谷の邸にて、武左衞門に面話せし折《をり》、見聞のまにまに、書つけたるを寫すもの也。

[やぶちゃん注:「關東陽」「兎園会」会員で「海棠庵」で頻出する三代に亙る書家関思亮(しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の号。本書に二年先立つ天保元(一八三〇)年九月に三十六の若さで亡くなっている。

「柳河侯」筑後国柳河藩の当時の藩主は立花鑑賢(あきかた:在位:文政三(一八二〇)年~天保元(一八三〇)年)。]

 下《しも》に粘《ねん》する武左衞門が指掌の圖は、右の席上にて、紙に印《しる》したるを、模寫す。當時、「武左衞門が手形也。」とて、坊賣《ぼてぶり》の板《はん》せしもの、兩三枚ありしが、皆、これと、おなじからず。又、武左衞門が肖像の錦畫、數十種、出《いで》たり【手拭にも染出せしもの、一、二種あり。】。後には、春畫めきたる猥褻の畫さへ摺出《すりいだ》せしかば、その筋なる役人より、あなぐり、禁じて、みだりがはしきものならぬも、彼が姿繪は、皆、絕板せられにけり。當時、人口に膾炙して、流行、甚しかりし事、想像(おもひや)るべし。

[やぶちゃん注:「坊賣」「振り売り」のこと。笊・木桶・木箱・籠を前後に取り付けた天秤棒を振り担いで、商品(又は種々のサービス)を売り歩いた業者。その異称である「棒手売(ぼてふ(ぶ)り)」の当て字であろう。

「あなぐり」警邏(けいら)し。]

 しかれども、武左衞門は、只、故鄕をのみ、戀《こひ》したひて、相撲取にならまく欲《ほつ》せず。この故に、江戶に至ること、久しからず、さらに侯に願ひまつりて、肥後の舊里に、かへりゆきにき。

[やぶちゃん注:ここは底本も改行している。]

 當時、この武左衞門を、林祭酒の、「見そなはさん。」とて、八代洲河岸の第《だい》に招かせ給ひし折、吾友渡邊華山も、まゐりて、その席末にあり。則、蘭鏡《らんきやう》を照らして、武左衞門が全身を圖したる畫幅あり。亡友文寶、揃來《そろひきたり》て、予に觀せしかば、予は又、そを、文寶に摹寫《もしや》せしめて、一幅を藏《をさ》めたり。この肖像は蘭法《らんぱふ》により、二面の水晶鏡を掛照らして、寫したるものなれば、一毫も差錯《ささく》あること、なし。錦繪に振り出せしは、似ざるもの、多かり。さばれ、件《くだん》の肖像は、大幅なれば、掛《かく》る處、なし。今こそあれ、後々には、話柄になるべきものにしあれば、その槪略を、しるすになん。

[やぶちゃん注:「林祭酒」儒者で林家第八代林大学頭(だいがくのかみ)述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。「祭酒」は大学頭(幕府直轄の昌平坂学問所を管理した役職)の唐名。

「差錯」乱れや、誤りのこと。

 図の以下は手形の上にあるキャプション。底本のそれは全体がポイント落ちの一字下げで改行されて載るが、字間の乱れがあるので、字下げは一部に留め、解説部を続けて電子化した。]

 

Ohozora1

 

 大空武左衞門手形

  (原寸六分の一)

 文政十年丁亥夏六月廿五日、柳河候の邸にて、武左衞門が掌に、燕脂《えんじ》を塗りて、紙に印したるを摹寫す。當時、坊間にて板せし渠《かれ》が手形は、これと、同じからず。合せ見ば、玉石立地に分明なるべし。

[やぶちゃん注:「燕脂」「臙脂」とも書く。本来は、臙脂虫(えんじむし)の雌から採取する赤色染料を指し、ウチワサボテン属(ナデシコ目サボテン科ウチワサボテン亜科 Opuntioideae)のサボテンに寄生する有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科コチニールカイガラムシ科コチニールカイガラムシ属コチニールカイガラムシ Dactylopius coccus の虫体に含まれる赤色系の色素を抽出したものを指す。アステカやインカ帝国などで古くから養殖され、染色用の染料に使われてきた。本邦には棲息せず、現代ではメキシコに分布するが、古くはインド・西アジア産のものがあり、江戸時代に大陸から到来してはいる。但し、ここでは、強い赤い色の色名として用いられているもので、恐らくは、キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctoriusキク科ベニバナから精製された「臙脂」を指しているものと思われる。

「玉石立地」意味不明。「ぎよくせきりつち」と読んでおくが、「玉(ぎょく)と石(いし)くれほどの違いがあり、立ちどころに真贋は明らかになるはずである。」の意であろうとは思う。

 以下は彼の草履の模写の画像。キャプションは底本通り、前に持ってきた。]

 

 大空武左衞門所ㇾ穿裏附草履(原寸五分の一)

[やぶちゃん注:「大空武左衞門、穿(は)く所(ところ)の裏附草履(うらつきざうり)」。後もキャプション風に挟まっている。]

 

Ohozora2

 

 亡友海棠庵は、その性《しやう》、好事《こうず》なりければ、かゝるものすら、もらさず、蠟墨《ろうずみ》にて、草履のはしばしを搨《す》りて、その形を、とりおきにたるを摹寫す。

[やぶちゃん注:以下の後の二行もキャプション。]

 

Ohozora3

 

肥後國熊本在、矢部村、出生。牛股武左衞門、

亥廿六歲、身丈《みのたけ》七尺六寸。

[やぶちゃん注:以下、本文に戻る。箇条は「一」の後に続くが、読点を挟み、二段組を一段とした。データが異なるのは、最後に示された瓦版のようなものに拠ったからである。]

 

   武左衞門、人品、幷、「牛股」と名乘る事

一、年二十六歲。

一、身重さ五十二貫目。[やぶちゃん注:底本には「五十」の右にママ注記がある。百九十六キログラムは流石におかしい。]

一、身の長《たけ》、七尺六寸。[やぶちゃん注:二メートル三十センチ。]

一、かほ、長《ながさ》、二尺二寸。[やぶちゃん注:三十六・三センチ。]

一、手首より中指迄、一尺二寸。[やぶちゃん注:約三十六・四センチ。]

一、たび、長、一尺四寸。[やぶちゃん注:四十二・四センチ。]

一、兩手を合せ、米、一升三合、入《いる》。[やぶちゃん注:米の重量換算で一キロ九百五十グラム。]

一、こし、巡《めぐ》り、八尺一寸。[やぶちゃん注:約二メートル四十五センチ。]

 熊本より二十里ほど、東の方、矢部むらの出生也。しぜんと、太守の御聞《ごぶん》にたつし、

「御らん被ㇾ遊度《たし》。」

との上意に付、衣類・上下《かみしも》を下さる。其寸法、着丈《きだけ》、六尺二寸[やぶちゃん注:一メートル八十八センチ弱。]、袖、二尺三寸[やぶちゃん注:約三十九・四センチ。]。

「酒食をあたへ、酒と飯とは、はかり、ためすべき。」

よしの上意、まづ、酒五升、米五升、其外、種々《しゆじゆ》、御料理を給はる。

 太守、御すき見あそばさる。

 およそ、酒三升、のむ。飯は、五升を、半分、給べる。一尺五、六寸[やぶちゃん注:約四十五~四十八センチ。]の鯛、三まい、二まいを、さしみ、一まいを、「あら」ともに煮附にしたるを、殘らず、たべる。

 御側の衆、

「いまだ給べる哉《や》。」

 武左衞門、申上《まをしあげ》る。

「ぼう食は、毒なるよし、父母、申候へども、珍味、御料理ゆゑ、父母にそむき、たべすぎ候。」

と申《まをす》。

 その後《のち》、御狩野《おかりの》の節、

「武左衞門を、つれ行《ゆく》べき。」

との上意、前々日、よびよせ、御ぜん所にて、御遠見《おとほみ》被ㇾ遊、

「にこやかなる奴《やつこ》也。」

との上意、太守の一言、捨置《すておき》ならず、一升ぶち・五人扶持、給はる。

「御なぐさみも。」

とて、色々の力業《ちからわざ》を御覽に入《いる》る中に、大《おほき》なるコトヒウシを、ひき出《いだ》し、たゝせおき、そのうしの脊を、またぎ、こす。

 太守、不ㇾ斜《なのめならず》、

「くつきやう也。」

と、上意なり。

「名を『牛股《うしまたぎ》』と名乘《なのる》べし。」

との上意、明日《みやうにち》、刀・脇差を給はるべし。

[やぶちゃん注:「コトヒウシ」「特牛(ことひうし)」強健で大きな牡牛(おうし)を指す語。

 以下の段落は、底本では、全体が一字下げ。]

 文政十丁亥年五月十八日、市中を賣あるきしを購得《かひえ》たり。「このもの、本月、江戶に到る。猶、道中なり。」といふ。或は、「既に到來しつ。」とも、いへり。到來といへるが、實《まこと》なるべし。

 右に貼《てん》せしは、世にサゲとか、唱《となへ》らるゝ「ゑせ商人《あきんど》」の、當時、巷を喚《よばは》りつゝ、賣《うり》もて、ありきし也。かゝる類《たぐひ》に、三板《さんぱん》あり。六、七月に至《いたり》て、肖像の錦繪、多く、出たり。それも、はじめは「牛股」としるせしを、後には、皆、「大空」と改めて出《いだ》せり。身のたけなど、或は、推量をもて、しるし、或は傳聞によれるのみなれば、謬《あやま》りならざるは、なかりき。只、上に識《する》すもの、實事也。もて、標準となすべし。

[やぶちゃん注:「サゲ」小学館「日本国語大辞典」に、『江戸時代、事件を印刷して急報することを業とした者。また、その印刷物。』とあり、なんとまあ、例として、ここが引用されていた。]

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