鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十六 幽靈と問答する僧の事 附 幽靈と組む僧の事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。最後の話は特に注の必要を感じない。]
二十六 幽靈と問答する僧の事
附幽靈と組む僧の事
奧州會津、松澤(まつざは)と云ふ處に、禪宗、有り、即ち、松澤寺(しようたくじ)と號す。
住持、女人の塔婆を建て置くに、文字一字、書き違(ちが)へけるを、秀可(しうか)と云ふ長老、改め、書き直ほしければ、旦那ども、
「無智の僧なり。」
とて、前の住持を追ひ出(いだ)し、則ち、秀可和尙を住持に爲(な)す。
或夜(あるよ)、幽靈、來りて、秀可和尙に對面し、問うて云く、
「我、獄中に入つて、種々(しゆじゆ)の若(く)を受く。和尙、濟(すく)ひ給へ。」
答へて云ふ、
「圓通(ゑんつう)より出でゝ、圓通に入(い)る、何(いず)れの處(ところ)にか、獄中、有らん。」
靈(れい)、云く、
「獄中を論ずること、なかれ。此躰(このてい)を見よ。」
和尙、云ふ、
「其躰(そのてい)、即ち、佛性(ぶつしやう)に、隔(へだ)て、無し。」
靈、云く、
「名を付けて給へ。」
和尙、云ふ、
「本空禪定尼(ほんくうぜんぢやうに)。」
靈、即ち、消え失せぬ。
秀可長老、直談(ぢきだん)を聞くなり。
[やぶちゃん注:見事な禅問答である。
「奧州會津、松澤」福島県大沼郡会津美里町(みさとまち)松沢。
「松澤寺」「江戸怪談集(中)」の注には、『現福島県会津高田町松沢の曹洞宗松沢寺。寺内に幽霊の掛軸があるので有名。』とあるが、地名は変更されて会津美里町(あいづみさとまち)となっており、「曹洞禅ナビ」に会津美里町松沢字寺内に確かに曹洞宗松澤寺(しょうたくじ)があるが、寺は、現在、普段は無住のようであるが、同寺近くの山中に本寺の墓地らしきものがある(ストリート・ビュー定点画像。二〇二二年六月撮影)。奥に見られる多くは卵塔であるから、住僧の墓と見られる。或いは、「秀可」(事績不詳)の墓もこの中にあるのかも知れない。もしかすると、「本空禪定尼」の墓もここにあったか、あるのかも、知れぬ。また、医療法人社団平成会の美里事業部(医療介護老人保健施設グリーンケアハイツ・グループホームかりん)のブログ「平成会 美里事業部」の「幽霊の掛け軸」(二〇一三年八月十六日)の記事に年に一回の幽霊の掛軸の供養のことが載っており、掛軸の写真もある。必見。また、Kazuyosi W氏のサイト「会津への夢街道」内の「名刹と神社(会津美里町)」のページに同寺の記載があり、同寺の事績が記されてある。そこに、現在は近くの会津美里町永井野中町にある曹洞宗『長福寺が管轄』しているとあり(ここ)、幽霊譚については、『昔々、松沢寺の末寺であった猿沢寺に、全良という若い僧がいた。夫の墓参りきた若い後家「おしゅん」と好い仲になり、懐妊させてしまう』。『発覚を恐れ』、『毒殺』して『しまうが』、『幽霊に悩まされ、供養碑を建てて悔悛したという』とあった。但し、この「おしゅん」が本篇の霊であるかどうかは、判らない。
「圓通」仏・菩薩の悟りは円遍融通して、作用自在であること。円満無碍(むげ)の悟りを言う。
「獄中を論ずること、なかれ。此躰(このてい)を見よ。」「地獄の存在の有無を、今さらに、論じる必要は、御座らぬ! その証拠に、我らのこの為体(ていたらく)を見らるるがよい!」。]
〇下總(しもふさ)の國、東金(とうがね)妙福寺(めうふくじ)に、敎住坊(けうぢうばう)と云ふ、强力僧(がうりきそう)、有り。
曉(あかつき)、御堂(みだう)の勤めに行きけるに、怖しき大入道(おほにふだう)、立ちて居(ゐ)たり。
寄りて、
「ひし」
と組合(くみあ)ひ、良(やゝ)久しくして、組勝(くみかち)ければ、何か、腕に喰(くら)ひ付きたり。
即ち、目をまはし、氣を失ひ居(ゐ)たるを、人々、寄つて見れば、腕に、しやり頭(かうべ)、喰(く)ひ着きてあり。
住持、珠數を持ちて、敲(たゝ)き落(おと)したり。
其後(そのゝち)、百日ばかり、煩(わづら)ひて、本復(ほんぶく)す。天正の末(すゑ)のことなり。
[やぶちゃん注:「東金妙福寺」既出既注。
「敎住坊」不詳。
「天正の末」天正は二十年までで、ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九二年まで。]
〇會津長沼、永光寺の欣察(きんさつ)と云ふ僧、或夜、小用に出づれば、其跡に、人一人(にん)、立ちて居(ゐ)たり。
歸りて、言(ことば)を懸くれども、返答、なし。
『さては。』
と思ひ、組(くみ)けるに、彼(か)の人、力(ちから)、强くして、倒るゝこと、なし。
衆寮坊主(しうれうばうず)、聞き付けて走り出で、是を見、即ち、一喝すれば、倒れけり。
火を燃(とも)して見れば、卒塔婆(そとば)なり。
文字(もんじ)は
「十方佛土中 唯有一乘法 無二亦無三 除佛方便說」
と書いてあり。
十三年忌の供養の塔婆也。
秀可和尙、語り給ふなり。
[やぶちゃん注:「會津長沼」福島県の旧岩瀬郡長沼町で、現在の須賀川(すかがわ)市江花(えばな)。
「永光寺」不詳。「江戸怪談集(中)」の注も『不詳』とする。因みに、江花地区の東直近の須賀川市長沼字寺前に曹洞宗永泉寺ならば、ある。
「衆寮坊主」修行僧の住まう堂の統括僧。
「十方佛土中 唯有一乘法 無二亦無三 除佛方便說」読みは(「一」の読みのみないので、推定で《 》で補った)、「十方佛土中(じつぱうぶつどちう) 唯有一乘法(ゆゐう《いち》じようはふ) 無二亦無三(むにやくむさん) 除佛方便說(ぢよぶつはふべんせつ)」。「十方の仏土の内には、ただ、一つの法だけがあるのであって、二も、三もない。 例外的に方便を以って、仏法を説くことがあっても、ただ、一つの法へ導くためである。」の意で、「法華経」の「方便品第二」が出典。
「秀可和尙」本章第一話に出る。]
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