曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その4)
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの左ページ中ほどから。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。
句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。
なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]
一、又、海賊橋《かいぞくばし》なる牧野佐渡守殿の第《だい》は、市中に近ければ、火災を防ぐ爲にとて、長屋はさら也、厩・雪隱《せつちん》までも、瓦屋《かはらや》にせられて、杮葺《こけらぶき》はあることなかりしに、廿一日の大火の折《をり》、はやく、玄關なる板庇《いたびさし》に、火の飛移《とびうつ》りしを、もろ人、
「防ぎとゞめん。」
とて、なべて、其處《そこ》につどひし程に、火は、板塀にも、もえ移り、又、芥溜《ごみため》よりも燃起《もえおこ》りし程に、奧長屋にありける人々は、出口を失ひて、せんかたのなきまゝに、川手の小門《こもん》をひらきて見しに、屋根船一艘ありければ、人みな、これに乘りけれども、船やるべき棹なければ、鎗をもて、漕《こが》んとするに、風の烈しかりければ、船、覆《くつがへ》らんとしたりしかば、
「とく、屋根を、碎《くだ》き捨《すて》よ。」
と罵《ののし》るに、とみには、破るべくもあらねば、手に手に、刀を引《ひき》ぬきて、からくして、柱を伐《きり》たふし、船の屋根を、とり棄《す》て、一石橋《いつこくばし》まで漕退《こぎしりぞ》けり。
「このとき、危かりし事、述盡《のべつく》しがたし。」
と、いへり。
此折、侯の奧方、立退《たちのき》、後《おく》れさせ給ひて、怪我ありしなど、風聞ありしは、そら言也。彼《かの》藩中には、下ざまのものまでも、恙なく、立退たり。
只、土藏は、十七棟、なごりなく燒《やけ》うせけり。
彼藩中の士、幾人か、吾婿《わがむこ》の同家中【宇都宮候。】に親族ありて、そが、小屋に退《の》き來つる人々の話說、
「かくのごとし。」
と聞《きき》にき。
又、淀侯【稻葉。】の築地の中屋敷の土藏も、十數棟、燒《やけ》たり。
「その、くらには、武具を多く入れ置れしが、みな、烏有《ういう》になりし。」
といふ。是も吾婿の所親《しよしん》あれば、實說なり。
[やぶちゃん注:「海賊橋」「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「築地八町堀日本橋南絵図」[2-201]「海賊橋」で江戸切絵図の位置が判る。「位置合わせ地図表示」があるが、ちょっと判り難いので、グーグル・マップ・データで「海運橋親柱」をリンクさせておく。「海賊橋」は明治元(一八六八)年十月に「海運橋」と改められ、その後、「東京オリンピック」に向けた道路整備の一環で架かっていた「楓川」が埋め立てられたため、橋は消滅した。この異様に見える橋の名は「中央区」公式サイト内の「中央区民文化財24 海運橋親柱(かいうんばしおやばしら)」によれば、『東詰に海賊衆(幕府成立後は船手頭)・向井将監の屋敷があったことにちなむようで』ある、とある。
「牧野佐渡守」中村岳稲氏のサイト「按針亭」の「向井将監忠勝上屋敷跡」に、『向井将監忠勝上屋敷は、元海運橋(将監橋または海賊橋)東詰親柱(日本橋兜町3-11(三田証券)正面左手植込中)から北東方向で』、『現「東京証券取引所ビル」辺りにあったといわれる』。『向井将監忠勝は、向井一族に中で』、最『初に「将監」を名のり、もっとも華やかに活動した人といわれる』。『向井将監忠勝が寛永』一八(一六四一)年に『に没し、忠勝』の次『男直宗(忠宗)が継いだものの』、『忠勝没』の三『年後の寛永』二十一年に三十八歲で『病死』し、『その跡を継いだ直宗の子息・右衛門太郎某も正保』四(一六四七)年に『病死した』。『これにより』、『向井将監忠勝上屋敷であった邸は、翌慶安元年』(一六三八年)『に牧野内匠頭信成邸となり さらに慶安』三(一六五〇)年に『牧野信成の子息・牧野佐渡守親成の屋敷となった』とある。但し、この「文政の大火」の時は、牧野氏の後裔で丹後国田辺藩第八代藩主の牧野節成(ときしげ:但し、養子)の代であるが、彼は「佐渡守」ではなく、「河内守」なので、それは誤り。先の注の「海賊橋」の近くのそれも、「牧野河内守」となっている。
「一石橋」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「築地八町堀日本橋南之圖」の標題の右手にある(この図は右方向が北)。現在のここ。
「吾婿の同家中【宇都宮候。】」馬琴の末娘(と思われる)鍬(くわ)は文政一〇(一八二七)年に宇都宮藩藩士で優れた絵師でもあった渥美覚重(雅号は赫州(かくしゅう))に嫁している。
「小屋」この「文政の大火」の際、幕府が緊急に設けた避難民の避難所「御救小屋」(おすくいごや:現代仮名遣)のこと。「国立公文書館」公式サイト内の「天下大変 資料に見る江戸時代の災害」の「32. 文政回禄記」を見られたい。直後に発生した怪談話も載っている(大災害のごく直後に怪談が囁かれるというのは、噂話としては現象的には珍しい部類に属すると思うが、実はその一部は幽霊に化けて避難民の所持品を盗もうとした輩がいたことが、本篇の最後(「その8」内)に記されてある)。
「淀侯【稻葉。】」山城淀藩稲葉家第十代藩主稲葉正守(在位:文政六(一八二三)年~天保一三(一八四二)年)。
「築地の中屋敷」淀藩中屋敷は築地木挽町にあった。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「築地八町堀日本橋南之圖」で判る通り、現在の築地本願寺の真ん前である。]
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