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2022/10/02

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「三 幽靈夢中に人に告げて僧を請ずる事 附 血脉を乞ふ事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村(あえばこうそん)校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

    幽靈夢中(むちう)に人に告げて僧を請(しやう)ずる事

      血脉(けちみやく)を乞ふ事

 小田原、氏直(うぢなほ)の老臣某(なにがし)、或時、主君氏直公の、三十三年忌を吊(とむら)はんと欲(す)る時、夢中に、氏直、來り、彼(か)の老臣に向つて、

「汝が心(こゝろ)、替(かは)るゆゑ、我、亡びたり。汝、逆心の恨(うらみ)は、云ふばかりなし。乍去(さりながら)、今、我忌日(きにち)を吊はんと思ふこと、祝着(しうちやく)なり。然(しか)らば、只、塔の澤の山居(さんきよ)、僧を供養すべし。其仔細は、彼(か)の和尙、每朝、念比(ねんごろ)に、法界を憐(あはれ)み、生飯(さば)を取り給ふ。それが屆き、每朝(まいあさ)、食するゆゑに、終(つひ)に餓鬼の若(く)を免(まぬか)れて居(ゐ)るなり。是に何とも御禮申すべき樣(やう)なし。然る間、此和尙を、念比に馳走してくれよ。」

となり。

 老臣、夢、覺め、則ち、彼の忌日に、山居の和尙を慇懃(いんぎん)に供養せしとなり。

 是、久しき物語なれども、慥(たしか)なることなり。爰を以て思ふに、出家などは、生飯(さば)を取らず、牛馬(うしうま)の物喰(ものく)ふ樣(やう)に、めたと、喰ふ筈(はず)にあらず。眞實に、生飯をも取り、眞實に、法界に回向(ゑかう)すべきことなり。

[やぶちゃん注:「氏直」後北条氏第五代当主北条氏直(永禄五(一五六二)年~天正一九(一五九一)年)。彼は天正八(一五八〇)年八月十九日に、父氏政の隠居によって家督を継いでいる。天正一八(一五九〇)年の秀吉による「小田原攻め」で敗北、氏直自身が切腹するという条件で将兵の助命を請うて、降伏した。父氏政及び叔父氏照は切腹となったが、秀吉は氏直の申し出を神妙とし、家康の婿(正室督姫(とくひめ)は家康の娘)でもあったことから助命され、高野山にて謹慎した。翌天正十九年の二月には、秀吉から家康に赦免が通知され、同年五月上旬には大坂の旧織田信雄邸を与えられ、八月十九日に秀吉と対面して正式な赦免と、河内及び関東に一万石を与えられて豊臣大名として復活したが、同年十一月四日、享年三十で大坂で病死した(「多聞院日記」によれば、死因は疱瘡とされる)。なお、この北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続している(以上はウィキの「北条氏直」に拠った)。

「三十三年忌」氏直の祥月命日は十一月四日で、寛永元(一六二四)年。

「祝着(しうちやく)」底本は「祝者」であるが、初版板本(一括PDF)の13コマ目を視認したところ、正しく「祝着」となっていたので、かく、した。

「塔の澤」現在の塔ノ沢温泉。戦国時代、既に温泉があり、後北条氏が支配していた。そこに旧北条氏の山荘もあったのであろう。江戸時代は江戸幕府が管理した。

「生飯(さば)」「生飯」の唐音「さんぱん」からとされる。「散飯」「三把」「三飯」などとも書き、食事の際、自分の食物から取り分けた飯粒。屋根などに置いて、鬼神・餓鬼に供え、鳥獣に施すもの。「さんば」(初版板本ではそれで振られてある)「さんばん」とも。]

 

○上野(かうつけ)新田(につた)、玉眼院(ぎよくがんゐん)、守作(しゆさく)長老、門前の老婆、日比(ひごろ)、血脉(けちみやく)を望めども、何彼(なにか)と延引す。

 老婆、程なく死す。

 長老、終(つひ)に血脉を授けず、引導し給ふ。

 五日過ぎて、日暮(ひくれ)に、彼(かの)老婆、來つて、茶堂(さだう)に居(きよ)す。

 長老云(いは)く、

「汝は死したるが、何とて來(きた)るや。」

 答へて云ふ、

「日比、望み申す御(おん)血脉を授け給へ。」

 長老、

「實(げ)に、尤もなり。」

とて、室間(しつのま)に入りて、認(したゝ)め、授け給へば、

「御利益に預かること、忝(かたじけな)し。」

と悅ぴて、頂戴して云ふ、

「貧女なれば、何にても、布施物(ふせもの)、なし。持ち合(あは)せける。」

とて、錢(ぜに)三文、献ずるを、請け取り給へば、即ち、失せて、影もなし。

「不思議なり。」

とて、塜
を見せ給へば、血脉、塜の上にあり。

 守誾(しゆぎん)と云ふ庫裡坊主(くりばうず)は、長老、血脉を認め給ふ中(うち)、老婆と向居(むきゐ)たり。

 長老、後(のち)に守誾を呼出(よびい)だし、愚國和尙に語り給ふ、

 我、愚國和尙より、聞くなり。寬永六年のことなり。

[やぶちゃん注:「上野新田、玉眼院」群馬県太田市大字東金井町にある曹洞宗玉巖寺であろう。

「守作長老」不詳。

「血脉」在家の受戒者に仏法相承の証拠として与える系譜。「けつみやく」とも読む。

「守誾」不詳。「誾」は「穏やかに是非を論じるさま」を言う。

「庫裡坊主」禅寺では、学僧を中心として住僧以下の僧侶や仏前に供える食事を調理する場所を「庫裏」(「裡」は俗字)と称し、僧堂も兼ねるので、そうした食膳担当や下働きをする僧であろう。

「愚國和尙」不詳。

「寬永六年」一六二九年。]

 

○三州賀茂郡(かもぐん)、九牛平(くぎうだいら)の内、「梅がたわ」と云ふ村に、何某(なにがし)と云ふ者の女房、膈(かく)の病(やまひ)を受け、七十日が間(あひだ)、食すること、叶はず。

 種々(しゆじゆ)、養生祈念などすれども、治(ぢ)せず。

 此時、岡崎より、「朝日」と云ふ「みこ」を喚(よ)び、よりを立(た)て、祈らせければ、より、口走りて、

「我は、百五十年前に、此屋敷を取立(とりた)てたる主(ぬし)なり。死してより此方(このかた)、世界に居所(ゐどころ)なく、餓鬼の若(く)を受くるなり。便(たよ)る處なきゆゑに、此屋敷を便りて、此女に憑きたり。命(いのち)の義は、取るまじ。我を吊(ともら)うてくれよ。」

と云ふ。

 時に、

「望(のぞみ)を叶へん間(あひだ)、何(なに)にて吊ふべきか、望め。」

と云ヘば、

「足助(あすけ)に香積寺(かうしやうじ)と云ふ寺あり。彼(かの)寺の住持、本秀和尙の血脉を申し請け、施餓鬼を賴みくれよ。」

と云ふ。

 則ち、香積寺に使(つかひ)を立て、賴む。

 和尙、即ち、血脉を授け、下火(あこ)を爲(な)し、使の者に向ひて、

「其方にて、火をきよめ、食を炊(かし)ぎ、新らしき天目(てんもく)三つに盛り、一盃は血脉、一盃は萬靈(ばんれい)、一盃は病人に備へ、一門共、盡(ことごと)くより、念佛申すべし。晚の五(いつ)つ時分より、爰元(こゝもと)にて吊ふ間、左樣に心得べし。若(も)し、病者、食を好むことあらば、其病者に備へたる、食を、くはすべし。」と云ひ付けて、返し給ふ。

 其夜、施餓鬼をよみ、眞實(しんじつ)に吊ひ給ふ。

 然(しか)るに、彼(かの)病者、其夜、四(よ)つ時分、食を乞ふ。

 則ち、彼の一盃の食を與(あた)ゆれば、皆、喰(く)ひ、

「まだ、喰はん。」

と云ふに、血脉の食(めし)を、半分、くはすれば、病者、

「ころころ」

と眠り入(い)る。

 明くる日、四つ時分まで、いね、起きて、本復し、行水す。

 餘り、能く治(をさ)まりけるゆゑ、親類共、「朝日」をよび、口を寄せければ、口走りて、

「我、百五十年、流轉せしに、御吊(おんとふら)ひ故に若患(くげん)を離れたり。能く御禮申してくれよ。」

と云ふ。

 彼(か)の親類共、禮の爲め、香積寺へ來(きた)る。

 其後(そのゝち)、山中にて、本秀和尙、具(つぶさ)に語り給ふ。

 折節、我弟(おとゝ)、大坂より來合(きあ)ひて、肝を銷(け)し、便(すなは)ち、本秀和尙の血脉を授かりて歸る。則ち、夫婦の血脉、二本、申請(まをしうけ)たり。

 寬永の末(すゑ)の事なり。

[やぶちゃん注:最後の正三の弟の絡み部分によって、事実性が強力に補強されている

『三州賀茂郡、九牛平(くぎうだいら)の内、「梅がたわ」と云ふ村』愛知県豊田市九久平町(くぎゅうだいらちょう)の、恐らくは梅ノ入(うめのいり)地区附近ではないかと思う。但し、航空写真に変えてみても、現在は全くの山間で、人家があるようには見えない。

「膈」胃が物を受けつけず、吐き戻す症状を指す。

「岡崎」現在の愛知県岡崎市。九久平町は北の直近ではある。

「よりを立て」依代に霊を憑依させて。この場合は、巫女自身がそれである。

「足助(あすけ)」「香積寺(かうしやうじ)」愛知県豊田市足助町(あすけちょう)飯盛(いいもり)にある曹洞宗飯盛山(はんせいざん)香積寺(こうじゃくじ)。

「本秀和尙」複数のサイトで香積寺の寛永年間頃の第十一世住職に参栄本秀(三栄と表記する場合もあり)の名を見出せる。

「晚の五つ時」暮五ツは午後八時前後。

「夜、四つ時」暮四ツは午後十時前後。

「明くる日、四つ時分」明四ツは午前十時前後。

「百五十年」最後の「寬永の末」を末年とすれば、寛永二一(一六四四)年で、機械換算すると、明応三(一四九四)年で戦国最初期。]

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