鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十三 生きながら地獄に落つる事 附 精魂、地獄に入る事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、既に述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、既に述べたように、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]
十三 生きながら地獄に落つる事
附精魂(せいこん)、地獄に入る事
[やぶちゃん注:冒頭注で示した一九八九年岩波文庫刊の高田衛編「江戸怪談集(中)」の挿絵(底本は東洋文庫岩崎文庫本)。キャプションは「ひぜん国うんせんかだけ」。]
肥前の國、温泉山(うんせんさん)へ、同行(どうぎやう)三人、參詣す。一人は豐後の町人(まちびと)、一人は出家、肥前の人、一人は浪人。彼(か)の出家の寺に、宿を借りて居(ゐ)たり。
彼の坊主、地獄、涌き出づる所へ、指を、少し、揷(さ)し入れて、
「さのみ、熱くなし。」
と云ふて、指を引き出だしければ、彼の指、熱くして、叶はず。
又、指を入れければ、熱さ、止(や)む。
「今は、快(こゝろよし)。」
とて、指を引きければ、彌々(いよいよ)、熱さ增して、堪へ兼(かね)、又、指を入れ、兎角、引出(ひきいだ)されず、次第々々に、深く、入れて、腕、皆、入(い)る。
又、引きて見れば、彌々、熱くして、堪へず。
後(のち)には、總身(そうみ)、皆、入りて、頭(かしら)ばかり、出(いだ)し、
「一段と、心好し(こゝろよ)し。去(さ)りながら、下へ引くこと、つよし。」
と云うて、後には、目を見出(みいだ)して、
「中々、怖しき。」
と、悲(かなし)む事、限りなし。
二人の同行、あきれて、泣く泣く、下向(げかう)したり、と語るを、慥(たしか)に聞くなり。
寬永年中の事なり。
[やぶちゃん注:「肥前の國、温泉山」現在の雲仙岳(うんぜんだけ)及びその周辺。そもそも雲仙岳の峰の一つである普賢岳一帯は近代に至るまで、「溫泉岳(うんぜんだけ)」と呼んでいた事実があるからである。「今昔マップ」の戦前の地図を見られたいが、更に、その地図を少し南西に移動させると、「温泉(うんぜん)」の地名が確認されるのである。
「目を見出(みいだ)して」「江戸怪談集(中)」の注に『目を大きく見開いて』とある。
「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。]
○下野(しもつけ)の國、那須の湯涯(ゆぎは)、三町隔てゝ、地獄あり。那須の敎傳(けうでん)と云ふ者、山へ薪(たきゞ)を取りに行きけるが、
「朝食(あさめし)遲くして、伴(とも)にはぐるゝ。」
とて、母を蹈倒(ふみたふ)す。
扨(さて)、山へ行くに、地獄の涯(きは)を通る時、俄(にはか)に大地獄の出來(いでき)て、敎傳、其の儘、落ち入る。友達、走り寄つて、頭(つむり)を取れども、留(とゞ)まらず、終(つひ)に、にえ入りけり。
今に至つて、「敎傳地獄」と云ひ傳へてあり、
「敎傳、甲斐なし。」
と云へば、俄に涌出(わきい)づるなり。
[やぶちゃん注:「下野の國、那須の湯涯、三町隔てゝ、地獄あり」栃木県那須郡那須町湯本の茶臼山山腹に「無間地獄」はあるが、ここで言っているのは、那須温泉神社の脇、殺生石の前にある「教伝地獄」である。サイト「とちのいち」のこちらによれば、『その昔、もとより素行が悪く、母の好意を無下にして』、『この殺生石の地に訪れた教傅という住職が突如として』、『その場から噴き出した火炎熱湯によって、その下半身を焼かれながら”おれは地獄に墜ちていく”という言葉を残し亡くな』っ『たという言い伝えがあります』。『その後、供養の為に地蔵を建立』し、『この場所は教伝地獄と呼ばれることとなり”親不孝の戒め”として参拝する者が後を絶たなかったと言い伝えられています』とある。]
○三州牛窪(うしくぼ)村に、市兵衞(いちびやうゑ)と云ふ、鑄物師(ゐものし)、石卷山(いしまきやま)の鐘(かね)を盜みけり。
寬永の始め比(ころ)、白山(はくさん)へ參詣す。
山八分目にて、彼(か)の市兵衞、俄(にわか)に立(たち)すくみ、周邊(あたり)より、熖(ほのほ)、燒揚(やけあが)りたり。
同行(どうぎやう)見て、
「彼(か)の者、死せば、穢(けが)れあらん。」
と云ふて、急ぎ、山へ登る。
下向(げかう)に見れば、體(たい)は其の儘(まゝ)有つて、あたりより、熖、出でけり。
皆、肝を消し、下(くだ)る。
又、次年(つぐとし)、東三河より、白山へ參詣する者あり。
見るに、彼の市兵衞、去年(きよねん)の如くして有り。
下向に見れば、早(はや)、消えて、なし。
今に其處(そのところ)より、烟(けむり)り立(たつ)なり。
其の涯(きは)に、五、六尺の石あり、其の石、熱くして、手、付けられず。
道雲寺の守的(しゆてき)野田の意庵、
「慥かに見たり。」
と語るなり。
[やぶちゃん注:「三州牛窪村」愛知県豊川市牛久保町。古くは「牛窪」と書いた。
「石卷山」愛知県豊橋市石巻町南山(みなみやま)にある山。麓と山頂に石巻神社があり、江戸時代には別当寺があったであろうから、鐘があってもおかしくない。
「寬永の始め」寛永は元年は一六二四年で、寛永二十一年まで。
「道雲寺」「江戸怪談集(中)」の注に『豊橋市、臨済宗妙心寺派陽光山東雲寺。』とする。豊橋市野依町中瀬古(のよりちょうなかぜこ)のここ。
「守的」堂守(どうもり)のこと。
「野田」「意庵」不詳。]
○尾州山崎(やまざき)より、寬永十六年の夏、同行十人、立山へ參詣す。
室(むろ)と云ふ處にて、同じ村の、理衞門、又六と云ふ、二人の者に逢ひたり。
「何故(なぜ)、來たりたぞ。」
と問へば、
「用、有りて、來たり。」
と云ふ。
不審に思ふ處に、急いで登る間(あひだ)、
「在所には何事も無きか。」
と問へば、
「何事もなし。」
と云ひ捨て、行くなり。
彌々(いよいよ)心もとなく思ひながら、下向(げかう)してみれば、彼(か)の二人、何事もなし。
同行、皆、隱して居(ゐ)けるに、其の霜月、二人共に、熱病に煩(わづら)ひ、一兩日(りやうにち)づゝ隔(へだて)て死しけり。
其時、立山にて、逢うたる事を委しく語るなり
南野(みなみの)村の休庵、物語りなり。
正保四年に聞くなり。
[やぶちゃん注:「尾州山崎」愛知県安城市山崎町か。
「寬永十六年」一六三九年。
「室」室堂。私の「三州奇談 / 卷之一 白山の靈妙」など、参照されたい。立山の怪奇談はかなりある。「諸國里人談卷之三 立山」を一つ挙げておく。
「下向」ここの下向は今までの狭義の下山ではなく、山崎まで戻ることを言っている。帰ってみると、理衛門と又六は、普通に村におり、凡そ立山に登ってきた様子もない。言わずもがなであるが、立山で遇った二人は、生霊であったのであり、それが、彼らは何んとなく、何かある、よくない予兆と感じたればこそ、二人にさえ、それを語らなかった。而して、それは悲しいことにじきに彼らの相次ぐ死で証明されたのであった。
「南野村」愛知県名古屋市南区南野(みなみの)であろう。
「休庵」不詳。
「正保四年」一六四七年。]
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