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2022/10/17

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 木下建藏觀琉球人詩

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入した。]

 

   ○木下建藏觀琉球人詩

天保三壬辰冬。維月閏餘當黃鐘。初之九日天漸霽。滿地無ㇾ風曉色濃。聘使此日上東台。虎旗龍刀部伍雄。正使豐見城王子。烏冕玉帶錦袍紅。身駕花轎簾半捲。朱顏黑髭中山風。賛度親雲左右連。副使親方稱澤岷。紫袍白鬚肩輿中。騎馬黃帕是樂正。束髮花簪里之童。凉傘牌符紅映ㇾ日。喇叭銅角響徹ㇾ空。見者滿城群如ㇾ山。街頭衞護新作ㇾ關。樓上簾翠樓下幕。朱門粉壁似仙寰。美服飾粧鋪花氈。玳瑁銀簪照香鬟。一望驚ㇾ目中山客。始信扶桑冠百蠻。吾輩幸是太平臣。座見入貢萬里人。萬里波濤南海外。兒女祈ㇾ安天孫神。遙憶首里歸ㇾ鞍日。說盡海東結構新。

[やぶちゃん注:標題は「木下建藏、琉球人を觀るの詩」と読んでおく。

 以下は、底本では全体が一字下げ。]

この詩、よく出來たり。恨らくは、「始信扶桑冠百蠻」の句あり、前儒腐爛、皇國をもて、夷狄に比するもの、往々あり。木下生もその謬妄を受て悟らざるのみ。この頃、諸家の「藏板琉球狀」【一卷。】、「中山傳信略」【折本一卷。】、「琉球年代記」【一卷。】等出たり。當日、營中にて、「諸吏、琉球の事を見るには、何の書がよかるべきや。」など、いへりしを、貂皮君、聞て、「琉球の事實を知らまくほりせば、『弓張月』を見給へ。詳にして盡せしものは、彼小說に、ますこと、なし。」と宣ひにきと、ある人の話也。この節、「弓張月」を見るもの尠からず、といふ。さもあらんか。

こたび、「琉球より、大さ、九尺まわりある琉球芋を、獻上したり。」などいふ風聞ありしを、その筋なる吏職に質問せしに虛談也。「あはもりの壺を菰にて包みしを見て、『りうきう芋ならん。』と推量せしものゝ、いひ出ぬるかとなるべし。」といへり。又、正使・副使の品川にて、よみし、といふ歌を、ある人の見せたれど、虛實、詳ならざれば、寫しとめざる也。

[やぶちゃん注:これは天保三(一八三二)年琉球王国琉球の第二尚氏王朝第十八代国王尚育王(在位:一八三五年~一八四七年:父尚灝王(しょうこうおう)の体調不良により(通説では精神疾患を患っていたとされる)一八二八年に摂位し、十五歳で実質的な王位に就いていた。以上は当該ウィキに拠った)の即位に先だって、江戸幕府へ派遣された謝恩使を詠じた漢詩とそれへの馬琴の批評・感想である。漢詩の作者である「木下建藏」なる人物は不詳。この時の来朝の行列についての本邦側の板行本「琉球人行列記」が「琉球大学附属図書館」の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」のこちらで、視認出来る。その解説ページによれば、一六〇九(慶長十四年)『年の島津侵入以後、琉球では、徳川将軍の代替わり(就職)の際には慶賀使、琉球国王代替わりの際には謝恩使を江戸へ派遣し、これを「江戸立ち」と言っていた。本史料は、』一八三二『年に京都で出版された版本で、この年の江戸立ちの使者を紹介したものである。使者の名前や行列の挿絵などを載せ、解説している。「琉球人行列記」は天保』三年、十三年、嘉永三(一八五〇)『年に重版されている。このときの使節は、正使豊見城朝春』(とよみぐすくちょうしゅん)『(途上死亡)、副使沢岻安慶』(「たくしあんけい」か)、『合計』九十七『名であった』とある。翻刻電子化は、こちらで見ることが出来る。その最終丁に『干時天保三年辰十月耒朝』(時に、天保三年辰(たつ)十月、耒朝(らいてう))とある。グレゴリオ暦では十月一日は一八三二年十月二十四日である。但し、詩の二行目から、江戸に入ったのは、同年の閏十一月ではないかと思われ、そうすると、閏十一月一日は十二月二十二日であるから、この月一杯、使節がいたとすれば、既に一八七三年一月となっている。

 以下、漢詩の訓読を試みる。参考にすべきものがないので、自然流でやる。

   *

天保三壬辰(みづのえたつ/じんしん)の冬

維(こ)れ 月(げつ)の閏餘(じゆんよ) 當(まさ)に黃鐘(わうしやう/くわうしき/くわうしき)たり

初めの九日 天 漸(やうや)く霽(は)れ

滿地(まんち) 風 無く 曉(あかつき)の色 濃し

聘使(へいし) 此の日 東台(とうたい)に上(のぼ)る

虎旗(こき) 龍刀(ろんとう) 部伍(ぶご) 雄(ゆう)たり

正使 豐見城王子(とよみぐすくわうじ)

烏冕(うべん) 玉帶(ぎよくたい) 錦袍(きんぱう) 紅(くれなゐ)たり

身は花轎に駕(が)して 簾(すだれ) 半(なかば)捲(ま)きたり

朱顏 黑髭(こくし) 中山(ちゆうざん)の風(ふう)

賛度(さんど)の親雲(おやくも) 左右に連なり

副使の親方 澤岷を稱す

紫袍(しはう) 白鬚(はくしゆ) 肩輿(けんよ)の中(うち)

騎馬の黃帕(わうはく) 是れ 樂正(がくしやう)

束髮 花簪(くわしん) 里之童

凉しき傘 牌符 紅 日に映ず

喇叭(らつぱ)銅角(どうかく) 響(ひび)きて 空(そら)を徹(てつ)す

見る者 滿城 群るること 山のごとく

街頭の衞護 新たに關(せき)を作る

樓上 簾翠(れんすい) 樓下(らうか)に幕(まく)し

朱門 粉壁(ふんぺき) 仙寰(せんくわん)に似たり

美服 飾粧 花(はな)の氈(まうせん)を鋪(し)く

玳瑁(たいまい) 銀簪(ぎんしん) 香鬟(かうくわん)を照らし

一望 目を驚ろかす 中山(ちゆうざん)の客(かく)

始めて信ず 扶桑(ふさう) 百蠻(ひやくばん)の冠(かんむり)たるを

吾輩(わがはい) 幸ひ 是れ 太平の臣

座して 見入る 貢(みつぎ) 萬里(ばんり)の人

萬里 波濤 南海の外(そと)

兒女 安(やすん)じて祈れ 天孫の神(かみ)

遙かに憶へ 首里 鞍(くら)を歸すの日に

說き盡(つく)せ 海東の結構の 新たなるを

   *

 あんまり上手い詩ではない。

「閏餘」一年間の実際の日時が暦の上の一年より余分にあること。既に述べた通り、天保三年は閏十一月があった。

「孽」不詳。

「黃鐘」陰暦十一月の異称。

「東台」「関東の台嶺(たいれい)の意で、東叡山寛永寺及びそ上野の山の異称。東岱(とうたい)とも表記する。

「虎旗 龍刀」「琉球人行列記」のこちらに絵図があり、「虎旗(とらのはた)」「龍刀(なぎなた)」の訓がある。「虎旗」には「ふうき」の読みも添えられている。

「部伍」隊列の組をつくること。また、その組。「隊伍」。

「豐見城王子」豊見城御殿(とみぐすくうどぅん)七世豐見城王子朝春。「琉球人行列記」のこちらに「轎」(きょう)に載った人物が描かれてあり、添書に装束は中国式の衣冠であると書かれてある。キャプションにもちゃんと彼の名が記されているのだが、この絵の人物、実は彼ではない。朝春は往路の鹿児島で客死してしまったため、急遽、普天間親雲上(おやくもい:後注参照)朝典が「替え玉」となって、豊見城王子と偽って、正使役を務めたのであった。

「烏冕」「烏」は本邦の烏帽子に擬えた言い方で、「冕」は本邦では、天子・天皇や皇太子が大礼の時に着用した礼冠。冠の上部に五色の珠玉を貫いた糸縄を垂らした冕板(べんばん)をつけたところからいう。これ自体が中国からの移入であるから、琉球王のそれは中国直伝のそれである。

「玉帶」宝玉の飾りをつけた革製の帯。貴族の束帯に用いられた。

「錦袍」錦(にしき)で作った豪華な上衣。

「黑髭」黒い口髭。

「中山」琉球国の統一王朝名。もと沖縄本島に興った山北・中山・山南の三国があったが、中山が一四二九年までに北山・南山を滅ぼし、琉球を統一した。これ以降、統一王国としての琉球王国が建国され、国号・王号は「琉球國中山王」を継承し、これは幕末の不当な「琉球処分」まで続いた。

「風」風習。

「賛度」不詳。「常に国王を讃える」の意か。

「親雲」「親雲上」(おやくもい)。沖縄方言で(ペーチン/ペークミー)は琉球王国の士族の称号の一つ。主に中級士族に相当する者の称号で、黄冠を戴き、銀の簪(かんざし)を差した。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「澤岷」「澤岻」の誤り

「肩輿」肩で担ぐ輿(こし)。先の「琉球人行列記」の図を参照されたい。拡大して見ると、輿の前後にいる担ぎ手は前後に出た引手から上方へ出た棒の上に、横に置かれた材を肩に掛けて担いでいることが判る。

「黃帕」琉球で王・世子以下の位階によって被った鉢巻。一見、冠(帽子)のように見える。「琉球人行列記」のこちらの「議衞正(きゑしやう)」とあるのが、この「樂正」(何故、こう書いたかは不明。或いは、行列の前の方にいた「樂人(がくじん)」と混同して誤ったものか)であろうから、その被り物が「黃帕」と考えてよい。

「牌符」「琉球人行列記」の前を行く者が持っている謝恩使の行列であることを示す牌板(「謝恩使」・「中山王府」)を指す。

「喇叭」「銅角」「琉球人行列記」のこちらに載る。この絵図を見ると、キャプションに「喇叭」(「喇」の字の(つくり)は「利」)には「ちやるめる」とあり、その下に「銅角(とんしゑ)」とあって、これは絵から見ても、二つの楽器ではなく、銅製の吹き口が角(つの)状に尖ったチャルメラの意ととれる。

「粉壁」江戸城の白壁であろう。

「仙寰」仙界。

「玳瑁」海亀のタイマイで作った鼈甲製の櫛か。

「香鬟」香り良き油を塗った髷(わげ)。

『恨らくは、「始信扶桑冠百蠻」の句あり』よくぞ言ったり! 馬琴先生! 今の政府の連中に先生の爪を煎じて呑ませたい!!!

「謬妄」「びやうまう」。出鱈目な理屈。

「藏板琉球狀」「琉球狀」は「琉球大学附属図書館」の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」の解説ページによれば、馬琴の盟友で、「耽奇会」「兎園会」の常連であった『江戸幕府御家人で国学者であった屋代弘賢』『が』寛政九(一七九七)年に『桑山左衛門に宛てた書簡であることが奥書に見える。本文の差し出し人である輪池先生とは屋代弘賢の号である。この書を源直温が木版を製作し、同好の識者に配布したものと考えられる。内容は、屋代弘賢が当時の琉球という名称について、各書物を引用しながら検討をしている。当時の識者が琉球に対してどれほどの知識を共有してもっていたことがうかがわれる史料である』とある。こちらで、視認でき、翻刻もこちらで読める。

「中山傳信略」清の徐葆光(ほこう)が一七二一年(本邦では享保六年)に著した琉球の地誌。全六巻。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍ビューア」のこちらで全巻を閲覧できる。

「琉球年代記」「琉球大学附属図書館」の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」の解説ページによれば、天保三(一八三二)年に『大田南畝』『の遺稿として刊行された』もので、『琉球開闢以来の歴代国王について記した「琉球年代記」、江戸上り』『の年代をまとめた「来聘年暦」、琉球国王の印の図、琉球の寺社の説明、神仏の図像、娼妓の図および説明、酒や銭に関することなど、琉球の実情・風俗を記した「琉球雑話」の項目に大別できる』とある。こちらで原本も視認できる。

「貂皮君」テンの毛革を着した謝恩使節の高官を指すのであろう。

「弓張月」馬琴の読本「椿説弓張月」(ちんせつゆみはりづき)。葛飾北斎画。文化四(一八〇七)年から同八年にかけて刊行された。全五編二十九冊。「保元物語」に登場する強弓の武将鎮西八郎為朝と琉球王朝開闢の秘史を描く、勧善懲悪の伝奇物語であり、後発の「南総里見八犬伝」とならぶ馬琴の代表作。当時は「八犬伝」よりもこちらが絶大なる人気を得た。詳しくは、参照した当該ウィキを読まれたい。

「琉球芋」サツマイモ。]

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