鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「五 二升を用ふる者雷に摑まるゝ事 附 地獄に落つる事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、本篇は、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に収録されているので、OCRで読み込み、加工データとした。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]
五 二升(ふたます)を用ふる者(もの)雷(らい)に摑(つか)まるゝ事
附地獄に落つる事
江州松原と云ふ處に後家あり。表家(おもてや)を人に借して、奧に居(ゐ)たり。
寬永廿年の六月、表の庭に、雷(かみなり)、落ちて、表屋(おもてや)の中(うち)を通り、六歲に成る子を摑んで、三間ほど、なげければ、持佛堂の戶に打ち當てけり。
母、是に駭(おどろ)きて、奧の後家(ごけ)に行きて、
「唯今の雷に、子を抛(な)げられたり。」
と云ふて、見れば、音もせず、臥し居(ゐ)たり。
「何とし給ふぞ。」
と云ふて、引き起こしければ、死してけり。
驚きて、是を見れば、肩、黑く成りたる所ばかりあつて、疵(きず)もなし。
不思議に思ひ、
「頓死なり。」
とて、其の日は、其の儘、置きけり。
明日(あくるひ)、磯山(いそやま)と云ふ廟所(べうしよ)へ、舟にて、行く處に、俄(にはか)に、大雨、降りて、車軸を流し、雷電、轟きて、四方、黑暗(くらやみ)と成り、東西を失(しつ)す。
各々(おのおの)、
『叶はぬこと。』
と思ひ、
「先づ、内へ歸らん。」
と議す。
其の時、水主(かこ)ども、
「是程(これほど)のことに、臆病なり。」
と、互ひに、精を出(いだ)し、櫓(ろ)を押す。
漕ぎ行く舟に添ひて、雷聲(らいせい)、頭(つむり)の上に落ち掛(かゝ)るやうに鳴り渡りければ、八人の者、
「此度(このたび)仕損(しそん)じては癖氣(しけ)なり。」
とて、命(いのち)を捨てゝ、聲を掛けて、押しければ、漸々(やうやう)、天も晴(はれ)て、廟所へ着きけり。
扨(さて)、棺(くわん)を彼處(かしこ)にすゑ、薪をつみ、火を掛(かけ)て、歸りけり。
明日(あくるひ)、行きて見れば、死骸を取り出(いだ)し、十間程、遠くに、捨て置きたり。
宗庵、確(たしか)に見たるなり。
此の後家、飽くまで、慾、深く、二升を用ひて、一生を送りたる科(とが)なり。
「天罰、違(たが)はず。」
と、人々、云ひあへり。
[やぶちゃん注:「江州松原」彥根市松原町(まつばらちょう)。
「寬永廿年の六月」一六四三年七月十六日から八月十四日。
「六歲に成る子を摑んで、三間」(五・四五メートル)「ほど、なげければ、持佛堂の戶に打ち當てけり」幸いにも、この子は大きな怪我もなかったのである。持仏堂の仏が、戸をクッションにしたものであろう。
「磯山と云ふ廟所」不詳。但し、松原町の北に川を挟んで、米原市磯という地があるので、この琵琶湖畔に共同墓地があったものかとも思われる。同地の湖岸の、この附近には、寺や地蔵尊などが、有意に認められるからである。
「癖氣(しけ)」小学館「日本国語大辞典」にも載らないが、「江戸怪談集(中)」の注に、『「退け」のこと。敗北。不首尾。』とある。
「死骸を取り出(いだ)し、十間」(約十八メートル)「程、遠くに、捨て置きたり」「死骸が焼き場から、何者かに、取り出されて、離れたところに投げ捨てられていたのである。
「宗庵」不詳だが、一度、前に登場している。
「二桝を用ひて」穀物の売買の際に、見かけ上では判らない大・小の桝を後ろ手に用い、量を誤魔化し、暴利を得ていたのである。]
○遠州市野村に、惣衞門(そうゑもん)と云ふ者、高野聖(かうやひじり)の宿(やど)なり。
此の聖、北國(ほくこく)立山へ參詣しけるに、惣衞門女房、立山にて、地獄に入(い)る。
彼の聖、飛び掛(かゝ)りて、帶を引き留めければ、帶は切れて、終(つひ)に、女房、地獄に入りぬ。
不憫に思ひ、下向して、惣右衞門處(ところ)へ至りて見れば、女房、何事なく、居(ゐ)たり。
然(さ)れば、不思議に思ひ、
「夏中(なつちう)に、何(なに)にても、不思議なること、なしや。」
と問ふ。
女房、答へて云ふ、
「夏の末(すゑ)に藏の内へ入(い)るに、口元(くちもと)にて何者か、我等が帶を取りて、後ろより引けども、もちひず、藏の内へ入りければ、帶は、切れて、なし。」
と云ふ。
聖、其日を考ふれば、立山にて、帶を引き取りたる時に違(たが)はず。
是に依(よつ)て、委しく子細を語つて、帶を取出(とりいだ)し、見せければ、肝を銷(け)し、驚き入りたり。
聖、曰く、
「日比(ひごろ)、何にても、惡しき事をば、仕給(したま)はぬか。若(も)し、心に思ひ當つること有らば、懺悔(さんげ)して科(とが)を亡(ほろぼ)すべし。人に隱す科ならば、佛神天道(ぶつじんてんだう)に懺悔めさるべし。然(さ)なくんば、必ず、大地獄に落ち、萬劫(まんごう)を歷(ふ)るとも、閣魔の責(せめ)、遁(のが)るべからず。今より以後、慈悲心深く、正直を專(もつぱ)らとせば、先世罪業(せんせざいごふ)、即ち、消滅すべし。只(たゞ)一心不亂に、念佛信心、有るべし。」
と。
其の時、女房云ふやう、
「思ひ當(あた)ること、有り。日比(ひごろ)、商賣利潤を本(ほん)として、升(ます)に大小を拵らへ、人をぬきたる科なりと、胸に當(あた)れり。」
と。
其處(そのところ)の代官、松下淨慶、物語りなり。
[やぶちゃん注:「遠州市野村」静岡県浜松市東区市野町(いちのちょう)。
「高野聖(かうやひじり)の宿(やど)なり」「高野聖」は平安末から増えた諸国行脚を旨とする聖の中で、高野山を本拠とする集団で、厳しい念仏修行をする一方で、妻帯したり、一定の箇所で期を決めて生産業を行うなど、半僧半俗の生活を営み、特に鎌倉時代以後は、諸国を回国し、弘法大師信仰と高野山への納骨を勧め、霊験譚を広めた。また、橋や道路を造り、造塔造仏の勧進も勤め、各地の「別所」と呼ばれる所に住んだりもした。高野山中では「小田原聖」・「萱堂(かやどう)聖」・「千手院聖」などが、南北朝期に時宗化した。中世末に至って、高野聖の勧進活動は行き詰まり、中には商いを生業とする者も出現し、笈(おい)に呉服を入れて売り歩く「呉服聖」、「行商聖」や、最早、行乞を業とする乞食と変わらぬ聖など、俗悪化が進み、本来の姿を失ったまま、江戸末期まで続いた(ここまでは、平凡社「百科事典マイペディア」を概ね主文とした)。また、当該ウィキには、彼らは、『高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられ、一般に行商人を兼ねていた。時代が下ると』、『学侶方や行人方とともに高野山の一勢力となり、諸国に高野信仰を広める一方、連歌会を催したりして』、『文芸活動も行ったため』、『民衆に親しまれた。しかし一部においては俗悪化し、村の街道などで「今宵の宿を借ろう、宿を借ろう」と声をかけたため「夜道怪」』(やどうかい:これは高野聖を妖怪としたもので、子供を誘拐するそれとして恐れられた)『(宿借)とも呼ばれた集団もあった。また「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」と俗謡に唄われているのはこのためである』。『織田信長は天正』六(一五七八)年、『畿内の高野聖』千三百八十三『人を捕え』、『殺害している。高野山が信長に敵対する荒木村重の残党を匿ったり』、『足利義昭と通じたりした動きへの報復だったというが、当時は高野聖に成り済まし密偵活動を行う間者』(かんじゃ)『もおり、これに手を焼いた末の対処だったともいわれている。江戸時代になって幕府が統治政策の一環として檀家制度を推進したこともあり、さしもの高野聖も活動が制限され、やがて衰えていった』ともある。なお、この本文部分は、「とある高野聖の定宿(ぢやうやど)なり」とあるべきところであろうと思う。
「口元」蔵の入り口のところ。
「懺悔(さんげ)」底本では、「ざんげ」(直後の箇所も同じ)と振っているが、初版板本及び岩波文庫版で訂した。「懺悔」は江戸以前は一貫して「さんげ」と読まれた。明治になってキリスト教の流入によって「ざんげ」の読みが一般化してしまったため、饗庭はうっかり、かく振ってしまったものと思われる。或いは、原稿は「さんげ」であったが、勝手に校正係或いは活字工が、かく組んでしまった可能性もある。
「人をぬきたる」人を欺(あざむ)き騙(だま)した。
「松下淨慶」これは、遠江国浜松で活動した武将で修験者の松下常慶(永禄元(一五五八)年~寛永元(一六二四)年)本人か、或いは、その直系縁者で同名を名乗った者であろう。彼は後に「淨慶」と改名している。当該ウィキによれば、『兄松下清景と共に徳川家康に仕えた』。「徳川実紀」では『「二諦坊」の主と述べられているが、これは、あくまでも後世の伝聞で、実際は家康に近侍した奥勤めであり、身辺警護を任された家康直近の武将である。名は安綱(やすつな)。徳川家康が遠州に進攻する前に、飯尾連龍なきあとの曳馬(浜松)城の開城工作に活躍するなど諜報活動に従事した』(「井伊家伝記」)『という伝承もあるが、松下家系譜によれば』、『三河岡崎城にて、徳川家康に初めて御目見、遠州浜松城部屋住みより始めて、小姓に取り立てられ、勘定頭と奥勤を兼ねた。若い頃は修験者として三河・遠江・駿河の白山先達職を任じられた者として記録されている。三河・遠江に徳川氏の支配が確立するまでは、秋葉山の御師に変装して三河・遠江・駿河など各地を巡歴し、情報を徳川家康や井伊氏に報告した。井伊(松下)直政(虎松)の、徳川家康への初お目見にも活躍したとみられる』。『子に重綱、仙誉、昌俊、貞綱(養子)、房利、氏秀』『らがいる』。天正一八(一五九〇)年、『家康が関東に入国した後、武蔵国都筑郡・多摩郡・常陸国鹿島郡の三郡で』七百四十『石を与えられた。寛永元年』(一六二四年)に六十七歳で亡くなったとされるが、この『没年・没歳には疑問が残る。なぜなら』、六十七『歳没とするのならば、徳川家康の遠州入場前夜、家康の命で曳馬城』(ひきまじょう・浜松城の前身とされる城)『の調略を行った時はわずか』十『歳に過ぎない』ことになってしまうからである。『法名は松林院殿仙壽笑安大居士。墓所は高野山聖無動院』。『直系の子孫は、治安維持の役職を踏襲し、火付け盗賊改め方や駿府町奉行』(☜「代官」ではないが、代官と言い換えそうな職ではある)『を務めた者もいる。静岡市内にはかつて常慶町という町名があった。駿府城の東門は常慶門とも呼ばれる』とある。但し、生年が正しいとすれば、正三より二十一年上であり、没年が正しいとすれば、当時の正三は四十五歳で、出逢って話を聴いたとしても、おかしくはない。もし、正しく彼ならば、本篇までの中で、超弩級に有名な実在人物の直談ということになる。]
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