曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その7)
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。本パートはここの左ページ上段の十四行目から。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。
句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。
なお、(その1)の冒頭に配した私の注を、必ず、参照されたい。]
○燒死の尸骸《しがい》の多かりしは、木挽町の橋のほとり、三十間堀の川筋、八町堀桑名候の長屋の下の溝などには、幾人たりともなく、ありけり。
[やぶちゃん注:「木挽町の橋」木挽町は既出既注。当該「江戸切絵図」で、北から「紀伊國橋」、「新シ橋」、「木挽橋」。
「三十間堀の川筋」木挽町の川を隔てた西側。上記「江戸切絵図」参照。
「八町堀桑名候」既出既注。]
劣甥《れつせい》[やぶちゃん注:「甥」の遜卑称。]田口某、次の日、主君の使者に出《いで》て、そこらを目擊しけるに、
「燒《やけ》ふすぼりたる尸骸は、頭毛・衣裳、燒うせ、黑くふすぼり、いと、ちいさくなりて、男女を分別しがたし。『犬か』と思ひて、よく見れば、みな、是、人の尸骸也。」
と、いひけり。
[やぶちゃん注:「劣甥」「甥」(おい)の謙遜卑称。]
この他、本町《ほんちやう》すぢ・日本橋・小田原河岸《がし》などにも、燒亡のもの、多くあり。吾家へ日每に來ぬる魚《うを》あき人《びと》の、四、五日の間は、
「けふも、小田原河岸にて、『灰を搔く』とて、死人をほり出し候ひき。」
などいふことの、しばしば、耳に入りたりき。
[やぶちゃん注:「本町」江戸本町。現在の中央区日本橋本町二・三丁目、日本橋室町二・三丁目、日本橋本石町二・三丁目。この中央附近。
「本橋」ここ。
「小田原河岸」中央区築地六丁目。隅田川右岸。本願寺南東に接する。
「吾家」ここで言っておくと、後で馬琴自身が言っているが、馬琴はこの時、神田明神下石坂下同朋町(現在の千代田区外神田三丁目の秋葉原の芳林公園付近)に家を建てて興継らと住んでいた。]
或は、稚《をさな》きものを脊負《せおひ》ひて、七、八才なる子の手を挽きながら、倒れ死したる婦人あり。
或は、
「妻と、子どもの、ゆくへ、知れず。」
とて、尋ねあるくものありと、聞えしも、日每のやうなりき。
そが中に、吾居宅のほとり近き、あき人【伊勢屋。】がり、脫《のが》れ來ぬるものも、妻と子どものゆくへ、知れざりしに、二、三日を歷て、
「紀州の御藏屋敷の、灰の中より、ほり出《いだ》せし。」
と聞えけり。こは、木挽町に、をりしものにぞ有ける。
かくて、やよひ廿六日は、吾先考《わがせんかう》の祥月忌《しやうつきき》なれば、菩提所へ詣《まうで》たるかへるさに、鳶坂《とびざか》なる茶店に憩ひしに、茶店の老婆が問ずがたりに、
「こたび大火の折、ゆくへしれずなりしものも、多かるべし。きのふ、こゝにいこひ給ひし木挽町なるあき人の、
『妻と子どもを尋ねて、きのふ迄、四、五日、尋《たづね》あるき候へども、些《いささか》の便りを、得ず。けふは、淺草わたりより、山の手を尋ん。』
とて出《いで》たる也。家を亡《うしな》ひ、本錢《もとぜに》をうしなひ、妻と子どもさへ喪ひては、何を、よすがに、世渡りをせん。せめて、かれらが亡骸也とも、見まほし。」
といはれし。」
と、いひにき。
[やぶちゃん注:「吾先考の祥月忌」私の父の祥月命日。馬琴(本名瀧澤解(とく))は旗本松平信成の用人瀧澤運兵衛興義(おきよし:当時四十三歳)・門(三十歳)夫妻の五男として明和四年六月九日(一七六七年七月四日に生まれた。父興義は、安永四(一七七五)年三月二十六日、馬琴九歳の時に亡くなっている。]
おもふに、これらも彼《かの》御藏屋敷へ、火をのがれんとて、其處《そこ》にて燒死したるにはあらぬか、是も亦、知るべからず。
近來は江戶の良賤、みな、火災に熟《な》れて、進退、遲鈍ならざるべきに、こたびは、多く、うろたへて、死するものゝ千百に及びしは、家財に殉ずると油斷して、火に包まれし故也。日ごろより、士人たるもの、火災の折の進退に用心して、其期《そのご》に及びて慾に惑《まど》はずば、かくまでには、あるべからず。
[やぶちゃん注:「家財に殉ずる……」「家財を第一に守らんとする結果、どこかで命を守るという大切な基本に油断が及び、おめおめと火にまかれて、亡くなったのである。」の意か。]
吾身は江戶に生れて、ひとたびも、類燒しつること、なければ、幸にして、この苦を知らず。明和九年の大火の折は、年甫《ねんぽ》六歲にて、親はらからと共に深川にありければ、彼《かの》燬《くゐ》を免れたり。又、文化丙寅《ひのえとら》の大火の折は、飯田町に在りければ、亦、免れたり。かくてこたびの大火には、神田明神下に在るをもて、さわぐ程の事も、なかりき。生涯かくあらんには、只、是、人間の一大幸《いちたいこう》といはまくのみ。
[やぶちゃん注:「明和九年の大火」「明暦の大火」(明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)まで江戸の大半を焼いた大火災。詳しくは当該ウィキを参照されたい)に次ぐ「江戸三大火」の一つ「明和の大火」「目黒行人坂(ぎょうにんざか)の大火」。安永元(一七七二)年二月二十九日昼過ぎ、目黒行人坂大円寺より出火、西南の強風に煽られ、麻布・芝・郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草等に延焼、千住まで達し、翌晦日の夕刻、漸く鎮火した。また二十九日夕刻には、本郷丸山町より出火、駒込・谷中・根岸を焼いた火災もあった。延焼地域は長さ六里(約二十四キロメートル)・幅一里で、江戸の約三分の一に及び、延焼距離は江戸時代から今日までの最長とされる大火であった。
「年甫」正月。ここは「数え年」の意。
「燬《くゐ》」現代仮名遣の音で「キ」。「焼かるる」の意。
「文化丙寅の大火」文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)に江戸芝の車町(くるまちょう:現在の港区)から出火し、大名小路の一部、京橋・日本橋のほぼ全域、神田・浅草の大半を類焼した「江戸三大大火」の一つ。「車町火事」・「牛町(うしちょう)火事」(車町の別称)とも呼ぶ。死者は一千人を超え、増上寺・芝神明社・東本願寺なども被害を受けた。幕府は罹災者を御救小屋(おすくいごや)に退避させ、救済金を与え、火災後の諸色物価・高値(こうじき)取り締りなどの対策も講じている。]
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