鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十 座頭の金を盜む僧盲と成る事 附 死人を爭ふ僧氣違ふ事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されているものの、不思議なことに、完全ではなく、標題を「座頭の金を盗む僧、盲と成る事 付 死人を争ふ僧、気違ふ事」(同抄録本は頭の数字を外してあり、当該章の最後に『(下の十)』と附している)とありながら、第二話の「死人を争ふ僧、気違ふ事」が存在しない。これは恐らく編集上のミスである。他に、一章の中を一部をカットしているものがないからである。なお、第二話の一部には不審箇所があったので、以下の初版板本で確認し、訂した。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]
十 座頭の金を盜む僧盲と成る事
附死人を爭ふ僧氣違(きちが)ふ事
越後の府に、五智の如來堂あり。
奧州より、座頭一人、官(くわん)の爲(ため)に上洛する時、如來堂に通夜(つや)し、如來を拜み奉り、琵琶箱を開き、官金入れたる袋を、先(ま)づ、膝の下に置き、琵琶を取り出だして、「平家」を三句、如何にも靜かに語る。
斯(かゝ)りける處に、同國林泉寺の僧、江湖頭(かうこがしら)立願(りふぐわん)の爲に、七日、通夜して居(ゐ)けるが、是を見て、悅び、
『御利生(ごりしやう)、忝(かたじけ)なし。』
と念じ、悅びて、竹にて鉤(かぎ)を作り、金袋(かねぶくろ)を引寄(ひきよ)せて取る。
座頭、夢にも知らず、「平家」を語り納めて、膝の下を搜(さぐ)るに、金袋、なし。
「はつた」
と力を落(おと)し、あきれはてたり。
暫しありて思ふ樣(やう)、
『是は、如來の御方便(ごはうべん)なるべし。我、官に緣無き故なり。是より、盲目乞食(まうもくこつじき)と成つて、諸國を行脚し、菩提を願(ねがは)ん。』
と思ひ定めて、琵琶箱を隔子(かくし)に括(くゝ)り付け、如來へ献(たてま)つて、歸りける。
大下(おほげ)の橋の眞中(まんなか)にて、人(ひと)、數多(あまた)、打伴(うちつ)れて來(きた)るに、
「はつた」
と行き逢ひける時、兩眼(りやうがん)、忽ち、明(あ)きけり。
豫(かね)て思ひ寄らざる事なれば、途方なく、
「是(これ)は、是は、」
と呼(よば)はり、初めて生れたる心地して、悅ぶこと、限りなし。
不思議に思ひ、
「爰(こゝ)は何方(いづかた)ぞ。」
と問へば、
「大下の橋なり。」
と答ふ。
「扨(さて)、如來堂は何方(いづかた)ぞ。」
と問へば、
「我々、如來へ參る者なり。」
とて、同道しけり。
扨、如來堂へ參り、如來を拜み奉り、立歸(たちかへ)らんとする處に、坊主一人(にん)、俄(にはか)に盲目と成りて、悲(かなし)み居(ゐ)けり。
故を問へば、
「座頭の官錢を盜みて、斯樣(かやう)に罷(まか)り成る。」
と云ふ。
人々、是を聞きて、
「惡因、報う事、忽ちなり。」
と、大(おほき)に驚けり。
其の證據(しやうこ)に、琵琶箱、今に、如來堂に掛けてありと。
海岸和尙、物語りなり。
[やぶちゃん注:「越後の府」旧国府跡は不明なものの、十世紀頃までは、現在の新潟県上越市今池附近にあったとする説が有力である。
「五智の如來堂」「江戸怪談集(中)」の注に、『現新潟県上越市五智国分寺の天台宗五智山華蔵院国分寺。通称五智さん。本尊五智如来。』とある。ここ。
「官の爲」所謂、「盲官」。視覚障碍者で琵琶 ・管弦・鍼 ・按摩などを業とした者に与えられた官名。検校・勾当(こうとう)・座頭・衆分(しゅぶん)などの階級に分かれ、江戸時代には、幕府が彼らに当道座(とうどうざ:中世から発生した男性盲人の自治的職能互助組織)への加入を奨励し、総検校・総録検校がこれらを支配統轄した(階層構造は恐ろしく多く、当道座に入座して検校に至るまでには七十三の位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった)。これらの官位は、この組織の中で伝手を得た上で、金銭で、入手するものであった。それがここに出る「官金」である。
「林泉寺」現在の新潟県上越市中門前(なかもんぜん)にある曹洞宗春日山(かすがさん)林泉寺。米沢藩上杉家の菩提寺であり、同藩士で知られた名将直江兼続の菩提寺でもある。
「江湖頭」「がうこ」が正しい。「江湖會(がうこゑ)」、則ち、既注の夏安居(げあんご)時期の修行に於いて、それを統括する僧を指す。
「隔子」格子戸。]
〇東三河、岡村と云ふ處に、長慶寺と云ふ寺あり。
其寺の檀那、某(なにがし)と云ふ者、寬永十八年に死す。
内々(ないない)、大洞(おほほら)へ親しく出入(しゆつにふ)しける間、大洞にて吊(とむら)はんとす。
時に、長慶寺の長老、嗔(いか)りて、
「先祖より、代々、當寺の檀那なり。吊はすべからず。」
とて、村中(むらぢう)の檀那を賴み、棒打(ぼううち)の用意なり。
此由、大洞へ聞え、
「六(むつ)かしき事なり。」
とて、住持、引導に出で給はず、さまざま、扱(あつか)つて、やうやう、すみけり。
然(しか)るに、次の年の春、長慶寺の長老、気違ひて、狂ひけり。
檻(をり)を結びて置くに、人、來れば、糞をつかみ、打ちかけ抔(など)して、終(つひ)に狂ひ死にけり。あさましき次第なり。
[やぶちゃん注:正直、意外にも、この一篇、今までの本書の中で一番、「料簡が狭過ぎ! しょぼい!」と呆れた話である。同じ曹洞宗なんだから、いいじゃないの! って感じ。こんなことで狂気して監禁されるというのも、全く以って救いようのない、サイテー話である。但し、他宗派での弔いは厳に禁ぜられていた。日蓮宗は人気が高く、他宗からの宗旨替えをする者も多かったが、その場合は、旦那寺の許可を得て、当該寺との仏縁を切り、先祖代々の墓も基本は崩し、宗門帳も新たに書き換えて公儀の許可を得ねばならず、居住地と寺・宗門の状況、例えば、本話もそうした雰囲気を感じるが、その村全体が残らず、一つの寺の檀家だった場合などには、人間関係上からも、転居・転出しなければならない場合も、しばしば、あった。
「東三河、岡村」「長慶寺」愛知県豊川市金沢町藤弦(ふじづる)にある曹洞宗長慶禅寺。この寺の附近は、古くは広域で「岡」と呼んでいたものと思われる。少し古い大正期の地図を「今昔マップ」で見ると、この寺の東に「岡」という地名が示されているのが判る。明治の地図に地名がないのは、なかったからではなくて、そこまで細かに記していない古い現地での呼称だからである。現在でも、この寺の周辺には北西に「岡下」、南西に「岡畑」があることからも、そう断言出来る。
「寬永十八年」一六四一年。
「大洞」静岡県周智(しゅうち)郡森町(もりまち)橘(たちばな)にある曹洞宗橘谷山(きっこくさん)大洞院(だいとういん)。名刹として知られる。国を越えているものの、長慶禅寺直線で四十二キロ地点で、ここにその旦那が親しく通っていたことに違和感は私には感じられない。
「棒打の用意」実際のゲバ棒を持っているのではなく、喧嘩腰になることを言う。そもそも、国違いで、知行も異なるであろうから、実際の暴徒集団が集合したり、そんな連中が寺から先方へ向かって出ただけで大問題で、皆、國境へ行きつく前に捕縛され、処罰を受ける。]
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