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2022/10/24

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「京師大佛領阿彌陀が峰南の方地藏山を穿掘して古墳の祟ありし奇談」

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「京師大佛領阿彌陀が峰南の方地藏山を穿掘して古墳の祟ありし奇談」

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段三行目から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。やや長いので、今回は段落を成形した。

 標題は「京師」(けいし)「大佛領阿彌陀が峰南の方」(かた)「地藏山を穿掘」(せんくつ)「して古墳の祟」(たたり)「ありし奇談」と読んでおく。これは、この「阿彌陀が峰」(現在の京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町に山頂がある阿弥陀ヶ峰(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ))「京」の「大佛」が嘗てあった方広寺の寺領であることを言っているようである。「地藏山」は不詳。現在、「地蔵山墓地」があるが、ここか。「今昔マップ」の戦前図のこの左の地図の中央がそこを見ると、既に墓地があるが、ややそこは高くなっているようには見える。但し、ここは西南西で、南というには、ちょっと問題がある。或いは、ここから東の方へずれた尾根のピークを指しているか。なお、以下の本文で、そこの旧広域地名を、かの風葬の地「鳥部野」(とりべの)の名を出しているが、旧鳥部野の範囲は、この地図の南北の阿弥陀ヶ峰と地蔵山墓地を包含する南北中央部に相当し、謂いは頗る正しい。また、文中に頻出する宮家については、私自身、その殆んど総てに興味が湧かないし、話の展開とも大きな関係を持たないと思われるので、注を附さなかった。悪しからず。]

 

   ○京師大佛領阿彌陀が峰南の方地藏山を穿掘して古墳の祟ありし奇談

 當所、大佛領の山、阿彌陀が峯の山添《やまぞひ》、南の方《かた》、地藏山《ぢざうやま》【この山は、昔、總名を「鳥部野」と申候内也。】と號《なづけ》候。

 此山は、大佛妙法院宮の諸大夫松井大隅守、御先代の宮、獅子吼院《ししくゐん》宮樣より、致拜領候山にて御座候由。

[やぶちゃん注:「大佛妙法院宮」京都市東山区妙法院前側町にある天台宗南叡山妙法院。阿弥陀ヶ峰の西北西一キロ圏内。「地蔵山墓地」はもっと近く四百メートル圏内。当該ウィキによれば、『近世には方広寺(京の大仏)』(☜☞)『や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も妙法院所管の仏堂となっている』とある。

「諸大夫松井大隅守」妙法院諸大夫であった松井永貞。「ADEAC」の「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の「三十三間堂矢場之図」の解説に、「地下家伝」のデータとして宝暦一一(一七六一)年三月に大隅守に任ぜられた、とある。

「御先代の宮獅子吼院宮」不詳。堯恕(ぎょうじょ)親王の院号として知られるが、彼は元禄八(一六九五)年没なので違う。]

 此、松井大隅守と申者、至《いたつ》て舊家にて、後白河院、三十三間堂、御建立《ごこんりふ》有ㇾ之候時、右、松井氏を堂守に被成置《なしおかれ》、其後、今、以、連綿と相續仕《つかまつり》、追々、分家、仕候《つかまつりさふらふ》て、當時、三軒に相成《あひなり》、大隅守を本家と致し、無祿にて、三十三間堂の賽錢、又は、矢數《やかず》等、有ㇾ之時、諸候樣方之御付屆・收納物等を以、相續罷在候處、近來《ちかごろ》、勝手向《かつてむき》、必至《ひつし》と不如意に相成候に付、出入之者共、種々《しゆじゆ》相談の上、此度《このたび》【文政十一年戊子《つちのえね》夏六月初旬の事也。】、東本願寺再建普請に付、地ならしの土《つち》、入用の儀、承り候間、右、地藏山の土を、年限《としかぎり》にて、賣渡《うりわたし》候はゞ、相應の德分も可ㇾ有ㇾ之、且、諸木、伐出《きりいだ》し候得者《さふらえば》、旁《かたがた》、以、宜《よろしく》候に付、大隅守へ右之趣、申聞《まをしきかせ》候處、

「難澁の族《うから》の儀に御座候へば、右體《みぎてい》之儀、出來候者《いできさふらへば》、可ㇾ然《しかるべき》談合いたし吳候樣《くれさふらうやう》。」

申《まをす》に付、則《すなはち》、大佛前に罷在候、鍵屋彌兵衞、丁子屋《ちやうじや》善七、申合《まをしあはせ》、本願寺へ掛合候處、幸《さひはひ》、土、入用の儀に有ㇾ之候得者、右、山を買取《かひとり》候對談、相整《あひととのひ》、拾ケ年・五十金計《ばかり》の定《さだめ》にて、本願寺より、役人、相詰《あひつめ》、當六月頃より【文政十一年丁亥六月。】、日々、人足を以、土を掘取罷在候。

[やぶちゃん注:「矢數」三十三間堂の「通し矢」の「大矢数(おほやかず)」の行事の収入。ウィキの「通し矢」を参照されたい。

「東本願寺再建普請」この五年前の文政六(一八二三)年十一月十五日、浄土真宗大谷派の東本願寺境内からの失火で、阿弥陀堂と御影堂(ごえいどう:宗祖親鸞の御真影を納める)の両堂が焼失していた。同寺から「地蔵山墓地」は直線で二キロ圏内である。

「年限」一定の年数を限って、土取りや木材伐採を許可すること。

「文政十一年戊子」一八二八年。

「文政十一年丁亥」吉川弘文館随筆大成版も同じだが、干支がおかしい。「丁亥」は文政十年。流れから、「文政十年」の誤り。

 然處《しかるところ》、

「右山に、松の木、三本計《ばかり》、有ㇾ之候所を、昔より『山の神』と申傳、有ㇾ之。此山の神の四方四十間は、土掘出し候儀、除《のぞき》吳候樣。」

兼《かね》て、致議定置、段々、掘出《ほりいだし》候て、最早、境目近く相成候に隨ひ、至《いたつ》て能《よき》土、出、境目に至り候得ば、吹革《ふいご》に用ひ候、土、出《いで》候。フイゴに用ひ候土は、容易に得がたき物の由にて、境目より、少しづゝ、穴となし、掘入候《ほりいれさふらふ》にしたがひ、彌《いよいよ》、よき土、出、中々、敷土《しきつち》抔に用ひ候土にては無ㇾ之故、穴にワクを入《いれ》、三丈計《ばかり》、掘入候處、當八月初旬、大き成《なる》壺に掘當《ほりあたり》、

「怪敷《あやしき》。」

と存候《ぞんじさふら》へ共《ども》、追々、右之土、出候に付、壺之廻り、幷に、底之方へ、掘入候得者、俄《にはか》に、土中、致鳴動候て、右之壺、すり落《おち》候音に驚き、人足、兩人、卽死仕候《そくしつかまつりさふらふ》。

[やぶちゃん注:「吹革に用ひ候、土」不詳。金属を溶かす過程で、温度を調節するために鞴(ふいご)で吹き入れる土ででもあるか。識者の御教授を乞う。

「四十間」七十二・七二メートル。]

 然所《しかるところ》、世話仕候、鍵屋彌兵衞、幷に彌兵衞忰某、丁子屋善七、松井大隅守、本願寺掛り役人兩人、其始末、聞付《ききつけ》候より、俄に、大熱病《だいねつびやう》、相發《あひはつし》、色々、祈禱等、仕候得ども、無其驗、兩三日の内に、追々、病死仕候。

[やぶちゃん注:いくら何でも、以上の全員が即死したわけでもあるまいにと思うだろうがのぅ、これ、「ツタンカーメン王の呪い」の江戸版じゃて!]

 依ㇾ之、大隅守親類共、打寄《うちより》、

「右山の神の祟にて可ㇾ有ㇾ之候。昔より、山神とは承り候へども、何と申《まをす》事、聢《しかと》と相分り候儀も無ㇾ之候へば、何卒、祈禱者に相賴《あひたのみ》、『神おろし』を致し、相詫《あひわび》候樣に可ㇾ致。」

とて、若黨一人、此節、流行《はやり》仕候、當處《たうしよ》、繩手通り三條下る三軒寺と申《まをす》内《うち》、「猿寺」と申《まをす》寺へ罷越、相賴、右寺にて、經文を致讀誦候時、老尼、出候て、寄りをかけ候趣《おもむき》にて、段々、修法《しゆはふ》の内、右、老尼、絕入《ぜつじゆ》候樣の形に相成候時、幣《ぬさ》を爲ㇾ持《もちなほし》候へば、

「とく」

と居直り、右。松井氏より參候者を、

「きつ」

と、にらみ付、

「寬太《くわんたい》也。下《さが》れ。」

と申聞候。

[やぶちゃん注:「繩手通り三條下る三軒寺」「内」「猿寺」現在の京都府京都市下京区東塩小路町にある正行院は通称を「猿寺」と呼ぶが、三条通ではない。「三軒寺」という地名もない。三条縄手なら、この辺りか。というより、この「尼」と言っているが、所謂、胡散臭い「巫女」系の感じが強い。

「絕入」気絶。

「寬太」神霊の名らしい。]

 然處《しかるところ》、右參り候者の云《いはく》、

「『寬太(くわんたい)なり』と申候は、何者に有ㇾ之哉《や》、名を名乘《なのり》可ㇾ申。」

と問《とひ》かけ候へば、尼、答《こたへ》て、

「我は、明智《あけち》の一類の者也。」

と答《こたふ》。

 又、問《とふ》、

「明智の一類と計《ばかり》にては、不相分一《あひわからず》。何と申、名の人ぞ。」

 尼、云、

「左馬介也。人の情《なさけ》によりて、彼《かの》山に葬《ほふり》を受《うけ》、被ㇾ稱「山の神」《やまのかみと、しやうせられ》てありしを、理不盡の振舞、此《この》欝憤、やむ事、なし。一々に、思ひしらして可ㇾ晴欝憤也。此旨を、立歸りて可ㇾ申。」

と也。

[やぶちゃん注:「明智」「左馬介」明智光秀の重臣、或いは、彼の女婿であるとか、異説に従弟(明智光安の子)ともされるが、真偽のほどは定かではない、明智秀満(天文五(一五三六)年?~天正一〇(一五八二)年)のこと。通常は「左馬助」と書く。当該ウィキによれば、天正一〇(一五八二)年六月の「本能寺の変」では、『先鋒となって』『本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き』、十三『日の夜、羽柴秀吉との山崎の戦いで光秀が敗れたことを知る』。『そこで』、十四『日未明、安土を発して坂本に向かった』。『大津で秀吉方の堀秀政と遭遇するが、戦闘は回避したらしく』、『坂本城に入った』(ここ)。この日、『堀秀政は坂本城を包囲し、秀満はしばらくは防戦したが、天主に篭り、国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの名物が無くなる事を恐れて、これを荷造りし、目録を添えて』、『堀秀政の一族の堀直政のところへ贈った。このとき』、『直政は目録の通り請取ったことを返事したが、光秀が秘蔵していた郷義弘の脇指が目録に見えないが』、『これはどうしたのかと問うた。すると秀満は、「この脇差は光秀秘蔵のものであるから、死出の山で光秀に渡すため秀満自ら腰に差す」と答えたとされる』。十四『日の夜、秀満は光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺した後、腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる』、『その振る舞いは戦国武将の美学を具現化したようなもので、敵方も称賛している』とある。先の「寬太」の名乗りの由縁は不明。]

 又、問、

「左馬介は、江州坂本にて滅亡と申事は傳聞候へ共、其後、彼《かの》山に墳墓有ㇾ之事は、思ひもよらず。山の神より四方四十間は相除《あひのぞ》き、土を掘出候樣、申付置候得ども、人足共、慾心にて、不法の働をいたし候儀は、大隅守、不ㇾ存《ぞんぜざる》儀に候へば、先々《まづまづ》、怒《いかり》を鎭め、大隅守、致快復候樣、被ㇾ致べし。然《しから》ば、神に成共《なるとも》、佛に成とも、彼《かの》山に、永く、致尊敬、且、讀經の回向《ゑかう》も相營み可ㇾ申候間、何分、大隅守、致本復候樣、相賴候。」

旨、申聞候得ば、尼、

「先《まづ》、此趣を、立歸りて、大隅守に、申聞《まをしきこゆ》べし。」

と答て、倒れ候よしなり。

 右、猿寺へ參り候者、松井宅に立歸り候へば、最早、大隅守は致落命候。

 右、祟にて、掛りの者、是迄、八人、同病にて相果申候。

 其後、山へ入候者、無御座候。

 當時、大佛妙法院宮は、閑院の宮より被ㇾ爲ㇾ成《なしなされ》候御治定《おんぢぢやう》御座候へ共、未《いまだ》御幼椎にて、御里御殿に被ㇾ爲ㇾ在候に付、院家金剛院諸事、執計《とりはから》ひ候に付、右の始末、承り、其儘差置候儀も難相成

「左馬介は、坂本にて致滅亡候得ども、誰ぞ、ゆかりの者にても、此鳥部野へ收《をさめ》候事、可ㇾ有ㇾ之哉《や》。何分、右、土中《どちゆう》を得《とく》と見屆參候樣。」

申付候へ共、「可ㇾ參。」と申者、無ㇾ之。

 依ㇾ之、院家配下に「功節庵」と申《まをす》寺、有ㇾ之。是へ申付、

「『地藏山』と號《なづけ》候山に候得ば、地名を以、地藏一體、彼穴に收、讀經、致供養《くやういたせ、と》、可ㇾ申。」

と申付候。

 依ㇾ之、右、法事、修行之由、御座候。

[やぶちゃん注:「功節庵」不詳。現存しない模様。]

 右、鍵屋彌兵衞妻も、此節、同病にて相惱居《あひなやみをり》候由に御座候。

 右之沙汰、取々、御座候處、一兩日以前、建仁寺町五條下る町たばこ屋の僕童《ぼくどう》、右、山の近邊を通りかゝり、此節、評判の山の儀に御座候故、不ㇾ圖存付《はからずも、ぞんじつき》、彼《かの》穴の口へ、參り見候處、是も、夫《それ》より、忽《たちまち》、大熱、出、相果候由に御座候。

 誠に奇怪、大掘事《おほほりごと》に御座候。

[やぶちゃん注:「建仁寺町五條下る町」この中央附近か。

「僕童」丁稚(でっち)のことであろう。

 以下は、底本では「被ㇾ下候由に御座候。」まで、全体が一字下げ。]

 右は、近來《ちかごろ》の珍事に御座候故、奉申上候。大隅守、右、山の土を賣拂ひ候に付ても、聊《いささか》の德分にて、世話仕候者共、皆、山師共にて、全《すべて》、自分共の邪慾より、事、起り、彼是、三人、命を失候儀、無是非候得ども、大隅守、未、老年にも無ㇾ之、困窮の上、聊の德分にて祟を受、一命に拘《かかわ》り候義は、誠に微運の至《いたり》に御座候。尤、右、山は、昔より、人のおそれ候地のよしに付、獅子吼院樣より、三十三間堂諸佛へ御寄附、日々、供し候、花・松の、「眞《しん》など、切出《きりいだし》候樣に。」との思召にて被ㇾ下候由に御座候。

[やぶちゃん注:「眞《しん》など、切出《きりいだし》候樣に。」は私の勝手な読み。「しん」は「芯」。花道で「草花の芯を残すと、それが盛り上がって、水上げが悪くなって具合がよくない。」と言うようなので、そのようにとった。]

右、此頃、追々、評判高く御座候に付、實說、承り合せ奉申上候。猶、又、相替候儀御座候はゞ、可申上候。以上。

[やぶちゃん注:以下、「來書、其寫。」までは、底本では全体が一字下げ。]

 八月廿五日【文政十一戊子年。】この一通、齋藤平角より申來る。同年九月廿三日、着。京都に罷在候齋藤平角より、來書、其寫《そのうつし》。

[やぶちゃん注:「齋藤平角」不詳。]

一、先便、東本願寺の儀、奉申上候。定《さだめ》て此程は、相屆《あひとどき》、御被見被ㇾ下候御儀と奉ㇾ存候。其砌《そのみぎり》、地藏山土掘出し候儀に付、奇怪御座候故、此節、本願寺より、

「取入置《とりいれおき》候土《つち》、元のごとくに返し度《たし》。」

由に御座候得共、右、地藏山へ運送仕候者、無ㇾ之由にて、甚《はなはだ》迷惑の由に御座候。本願寺普請、專ら、木取等、有ㇾ之候處、色々、變、有ㇾ之由。且は、「○印手支《まるじるしてづかへ》」等も御座候由にて、「暫《しばらく》、相休《あひやす》み候。」由に承り申候。

 先年、本願寺炎上の節、私共、見及居《みおよびをり》候處、風は、南より北へ吹候處、出火は、北の端より、もえ上り、南へ、南へと、火、傳ひ、暫時に、諸堂・大門迄、無ㇾ殘、燒失仕候。

 其以前、「西山御坊」と申《まをす》、掛所、建立《こんりふ》の企《くはだて》にて、西山に場所を買取候。其邊《そのあたり》、至《いたつ》て、狐、多く住居《すみをり》候て、穴、澤山に御座候處、右、穴を掘返し、地取《ぢとり》、出來《しゆつたい》の上、御門主、見分に被罷越候歸路、一統、狐にばかされ、尤、其砌《みぎり》は、門徒の貴賤群集、仕候折柄《をりから》なれば、供廻り、形粧《きやうさう》、美敷《うつくしく》有ㇾ之候處、右の狐にたぶらかされ、東へ可ㇾ歸《かへるべき》道を、北をさして、深田《ふかだ》の中を、夜明《よあけ》迄、行列にて、步行《ありき》、上嵯峨邊《あたり》の百姓に咎められ、漸々《やうやう》。心附、一統、深田の中を步行候儀に御座候得者《そうらえば》、泥に染《そみ》、誠に見苦敷《みぐるしき》爲體《ていたらく》のよし。

 其砌、大評判に御座候處、引續き、右御堂、燒失、

「是、全く、狐の所爲《しよゐ》。」

と申事に御座候。

 此度《このたび》の再建も、色々、惡《あしき》說、有ㇾ之、怪敷《あやしき》事共、御座候趣、承り申候。猶、亦、相替候儀、御座候はゞ、可申上候。

 九月十五日

此來書二通は、文政十一年十月初旬、老候の、「見よ。」とて、御使《おつかひ》太田九吉をもて、貸し下されしかば、人の手をかりて、寫さし置《おき》たるが、誤字の多かれば、こたび、寫しあらためて、この册子に收めかきつゝ、けふしも、「さぬきの復讐錄」より、こゝに至て、廿七頁、只、一と日の程に、寫し果《はた》しかば、己《おのれ》が筆にも、あやまちあるべし。そは又、異日《いじつ》、校し、正すべきになん。

[やぶちゃん注:「○印手支《まるじるしてづかへ》」「〇印」は日本と中国のみで通ずる、「お金」を意味する指で丸を作る「OKサイン」のこと。「手支」はそれを受けて金銭的に窮してしまうことを言っている。

「暫、相休み候由に承り申候」先に注した通り、文政六(一八二三)年十一月十五日の境内の失火によって阿弥陀堂と御影堂の両堂が焼失した、その東本願寺再建普請は、結局、回禄から十二年も後の、天保六(一八三五)年にやっと完遂している。

「西山御坊」現行では浄土真宗本願寺派(西本願寺「お西さん」)の本願寺西山別院の別称であるが、ここは浄土真宗大谷派の東本願寺(「お東さん」)の話であるから、違う。京都の「西山」は京都市西京区(洛西)・長岡京市・向日(むこう)市・大山崎町に跨る地域の広域地方名である。この中央南北部分に当たる。

「掛所」浄土真宗の寺院の内、地方に設けられた別院。後には、別院の資格のない支院を呼ぶようになったが、一方の本願寺派では、こう呼ばずに「休泊所」と称した(今は違うようである。例えば、本願寺派の「本願寺函館別院」のこちらの解説を見られたい)。

「老候」馬琴の嫡男瀧澤興継が医員として取り立てられていた松前藩の、第八代藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)。既に本「兎園小説」では、お馴染みで、馬琴とも非常に親しかった。当該ウィキによれば、彼は寛政四(一七九二)年十月二十八日に隠居し、長男章広に家督を譲ったが、文化四(一八〇七)年三月、『藩主在任中の海防への取り組みや』、『素行の悪さを咎められて、幕府から謹慎(永蟄居)を命じられる。この背景には元家臣の讒言があったとも言われる』。但し、十四年後の文政五(一八二一)年三月、この謹慎は解かれている。

「太田九吉」『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 阿比乃麻村の瘞錢』と、『曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 松前家牧士遠馬の記』に道広の使いとして登場している。

「さぬきの復讐錄」本篇の冒頭の「文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記錄」。]

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