曲亭馬琴「兎園小説余禄」 稻葉小僧
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。
句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]
○稻葉小僧
天明のはじめの頃、あだ名を「稻葉小僧」といふ盜賊ありけり。親は稻葉殿の家臣なりしが、その身、幼少より盜癖ありければ、竟《つひ》に親に勘當せられて、夜盜になりぬ。よりて、惡黨仲ケ間にて、「稻葉小僧」と呼ぶといふ巷說あり。虛實は知らず。かくて此もの、谷中《やなか》のほとりにて、町方定廻《まちかたぢやうまは》り同心に搦捕《からめと》られ、向寄《むかひより》の自身番へ預けられしかば、町役人等《ら》、索《なは》かけられしまゝ具して、町奉行所へ赴く程に、「不忍の池」ほとりにて、「内《うち》、逼《せま》りぬ、出恭《だいべん》せまほし。」といふより、そのほとりなる茶店の雪隱《せつちん》に入れたるに、厠《かはや》にありし程、竊《ひそか》に綁縛《ほうばく》の索を解《とき》はづして、走りて、池中に飛入《とびい》りつゝ、水底《みなそこ》をや潛りけん、ゆくへも知れずなりし、とぞ。「折から、薄暮の事なりければ、さわぐのみにて求獵《あさり》かねし。」といふ風聞、人口に膾炙しけり。この頃、葺屋町《ふちやちやう》の歌舞伎座にて、この事を狂言にとり組《くみ》て、殊さらに、繁昌したりき。世界は「お染久松」の世話狂言にて、市川門之助は、お染が兄の惡黨何がしと、お染と、二役の早がはり、大當り也【久松は市川高麗藏《こまざう》、是、今の松本幸四郞なり。久松の親、野崎の久作は、大谷廣次にて、淨瑠璃あり。】。お染が兄、縛られて率《ひか》るゝ折、索を脫《ぬけ》て池中へ飛入《とびいる》ると、やがて、お染になりて、花道の切幕《きりまく》より出《いづ》る「はやがはり」、惡黨と、美女子と、しわけたる新車《しんしや》【門之助が俳名。】を、人みな、うれしがりし也。この狂言は、五日も觀たり。今の世ならば、かゝる狂言は、必ず、禁ぜらるべきに、この比《ころ》までは、さる沙汰もなかりき。扨《さて》、彼《かの》稻葉小僧は、逃《にげ》て上毛《じやうまう》のかたへ赴きしに、痢病を患ひて、病死したりとぞ。程經て、同類の盜人の搦捕られし折、白狀、この事に及びしよし、當時、風聞ありけり。抑《そもそも》、件《くだん》の稻葉小僧は、前に錄したる「鼠小僧」と相似《あひに》たる夜盜にて、しばしば、大名がたの屋敷ヘしのび入りて、金銀・衣類・器物をぬすみとりしとぞ。かゝる窃盜の病死せしは、恨み也。その惡名の、當時、噪《かまびす》しかりしは、この兩小僧に、ますもの、なし。但《ただし》、稻葉小僧は、「逃《にげ》たり」といふより、その名、世に聞え、鼠小僧は搦捕られてより、その名、俄《にはか》に聞えけり。無益のことながら、錄して、もて、いましめとなすのみ。
[やぶちゃん注:「稻葉小僧」は当該ウィキによれば、『因幡小僧と記載されることもある』とし、天明五(一七八五)年に『捕らえられた当時』は二十一『歳であったという。名は新助といった』。『しかし、彼の出生や最期、名前の由来については、山城国淀藩』十万二千『石の城主稲葉丹後守正諶』(まさのぶ)『の家臣の子だったため』、『「稲葉小僧」と呼ばれたという説や、因幡国で生まれたために「因幡 → 稲葉」の名で呼ばれたという説など、諸説あり、またその多くが』、「田舎小僧」の『逸話と混同されていて、定かではない』。『稲葉小僧新助の口書の写し(筆者不明)には、稲葉小僧は稲葉丹後守の侍医の子で、幼少より甚だたくましく、熊坂長範の如き「兵(つはもの)とも相成るべき力量のもの」と記されている』という(以下、本篇を現代語で紹介しているが、略す)。『杉田玄白の』「後見草」(のちみぐさ:警世書。天明七(一七八七)年成立)では、『稲葉小僧の活躍が評判になったのは天明』五『年の春から秋にかけてで、人家の軒に飛上り』、『飛下る様は』、『天をかける鳥よりも軽く、塀を伝い』、『屋根を走ること、地を走る獣よりも』、『はやいと噂されたとある。どのような堅固な屋敷であっても』、『入り得ぬことなしとされ、御三卿の本殿を筆頭に薩摩藩、熊本藩、広島藩、小倉藩、津藩、郡山藩の他、時の老中である浜田藩松平康福や相良藩田沼意次の屋敷の御寝所、御座の間近くに』、『いつの間にやら忍び入り、太刀、刀、衣服、調度、それに』、一千金・二千金もする『宝を数多く盗みとったとされる。それを聞いた人々は』、『稲葉小僧は人間にあらず、妖術使いの悪党である』、『と噂した。稲葉小僧が捕まったのは』、天明五年九月十六日の『夜』、『一橋家の屋敷に忍び込んだ時のことであった。名も無い小者に捕えられ、奉行所に引き渡された稲葉小僧は、自分は武蔵国入間郡の生れの新助という男で年齢は』三十四『歳、片田舎の生れのため』、『田舎小僧と名乗っていたのが、聞き違いから』、『稲葉小僧と呼ばれるようになったと供述』し、『ほどなく判決が下り、稲葉小僧新助は獄門となった』とする。『玄白は、いかに平和の世とはいえ、たとえ戸締まりはしていなくとも、その御威勢に恐れ入って武家屋敷に忍び入ろうなどとは考える道理も無いはずが、それを容易に侵入する新助は「是ぞ誠に人妖」と評している。しかし、取調に対する供述で』、『稲葉小僧は、大名家というものは居間も寝所も戸締まりはせず、番士が警護しているといっても』、『他人の持ち場には関ろうとはせず、自分の管轄のみ守ろうとするのが「武家一同の風儀なり」として、忍び込むのは至って容易いことであったと語っている』。『また、盗むのは』、『金銀の諸道具や腰物(刀剣類)のみで、衣類には決して手を出さなかったのは、「顕れ安き故」つまり衣類は売却しても』、『足がつきやすい』から、『とも言っていたという』。『とある大名屋敷の寝所に忍び入り、そこにあった太刀を盗んだはいいが、余りの逸品であ』ったために、『上手く売却できず、仕方なく』、『穴を掘って地中に埋めたと自白したので、埋めたという場所から件の太刀を掘り出すのを、本多利明は目撃したという』とある。以下、「田舎小僧のエピソードとの混同」の項。『田舎小僧と稲葉小僧』は、『語呂が似ており』、『名も「新助」で、盗賊として活動していた時期が近く、両者とも大名屋敷に盗みに入ったことなどから』、二『人の逸話を混同して書いた記録は多い。曲亭馬琴は不忍池に飛び込んで逃れた新助を稲葉小僧とし、松浦静山は天明』五『年に獄門になった新助が稲葉小僧で、杉田玄白は田舎小僧が稲葉小僧と聞き間違えられたと記している』。『三田村鳶魚も、田舎小僧と稲葉小僧は』、一『人の泥棒に仕上げられたとしている。稲葉小僧は不忍池を泳いで逃げ』、『潜伏先で死んだのだから、本名も凶状も分からない。稲葉小僧は刀・脇差ばかり盗み、逆に田舎小僧は刀剣には手をつけなかったのに』、『申渡しには「金子並』(ならびに)『腰のもの、亦は小道具、反物、提げもの、衣類」を窃取したとあるのは』、『稲葉小僧の分まで罪を着せられたもので、これは稲葉家としても家中の人間から盗賊を出したとあっては外聞を憚るので、事実を塗抹すべく運動したのだろうと鳶魚は考えている』。『それに』、『田舎小僧より』、『稲葉小僧の方が聞えもよく、稲葉小僧の罪も背負わせた方が泥棒らしくなるので、よく芝居や講釈の材料になったとも鳶魚は語っている』とある。以下、馬琴も述べている「稲葉小僧を扱った創作物」の項があるが、私は歌舞伎が大嫌いなので、以下の注はそちらに任せ、一切注さない。悪しからず。]
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