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« 曲亭馬琴「兎園小説余禄」 大空武左衞門 | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その2) »

2022/10/20

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 己丑七赤小識(その1)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、本篇は長いので、段落を成形し、分割した。

 なお、標題は「つちのとうし しちせき しやうしき」と読んでおく。読み始めで判るので、先に言っておくと、内容は文政一二(一八二九)年三月二十一日昼前に出火した「文政の大火」の記事である。別名を「佐久間町火事」(さくまちょうかじ)「己丑(つちのとうし)の火事」ともいう。昼前の巳の刻過ぎ(午前十一時頃)、神田佐久間町二丁目の材木商尾張屋徳右衛門の材木小屋より出火し、西北の強風に煽られ、日本橋・京橋・芝一帯を焼き、その焼失面積は幅二十町(約二・二キロメートル)、長さ一里に及んで、翌朝、鎮火した。大名屋敷七十三、旗本屋敷百三十、町屋の類焼約三万軒、船や橋も、多数、焼失し、二千八百余名が焼死した(概ね、平凡社「世界大百科事典」に拠った。因みに、佐久間町一帯は材木商や薪商が多く、一丁目には特に前者が多くあったことから、「神田材木町」の俗称もあったが、扱う物が物だけに、火災の発生も有意に多かったことから、口の悪い江戸っ子は語呂合わせで「悪魔町(あくまちょう)」と呼んだりした。場所は「江戸マップβ版」の「江戸切絵図の「東都下谷繪圖」の左端中央にある「和泉橋」(神田川に架かる)を北(右)に進んだ直ぐの東西(南北)部分にあることが確認出来るはずである。グーグル・マップ・データで示すと、この中央部の国道一号の、西の少しと、東側に相当する)。「己丑」は以下に見る通り、文政十二年の干支で、「七赤」は中国伝来の暦・占いに用いられる九星術の星の一つ。「小識」は「ちょっとした覚え書き」の意。この文政十二年は九星術で「七赤金星」に当たる年であった。なお、しかも、出火したその日を調べてみたところ、今も和風の暦に附される六曜の赤口(しゃっこう/しゃっく)であった。「赤口」は一般に「仏滅」の次に縁起が悪いとされるもので、「赤」は、まさに火事や血を連想させるからでもある。

 この「文政の大火」についての現代の論考では、「J-STAGE」のこちらからダウン・ロード可能な災害間題評論家秋田一雄氏の「己丑火事と甲午火事」(『安全工学二十四巻・一九八五年第三号『談話室』内所収』が、事前に読まれる価値が十分にあるものと存ずる。氏はそこで、本「文政の大火」は「文化の大火」(通称「車町(くるまちょう)火事」)の代わりに「江戸の三大大火」の一つとすべき資格があり、『むしろそのほうが妥当かもしれない』とさえ評しておられる。是非、一読されたい。その本大火部分の解説は、そのまま以下の馬琴の本文への有効な注にもなるからである。

 

   ○己丑七赤小識

 文政十二年己丑春三月廿一日、江戶大火の顚末は、「八人抄」、「薪のけぶり」といふ二書に、しるしつけられたれば、今、亦、こゝに具《つぶさ》に、いふべくもあらず。さばれ、この火事の火元の事は、件《くだん》の二書にも、只、風聞によれるのみにて、實說を得ざりければ、予が聞く所をもて、詳《つまびらか》にす。

[やぶちゃん注:「八人抄」不詳。ネット検索でワードは勿論、いかなるフレーズで検索しても、いっかな掛かってこない。辛うじて、「グーグルブックス」の柴田光彦・神田正行編「馬琴書翰集成 第七巻」の画像の中に、「55」として『文政十二年十二月十四日』附で松阪の殿村『篠斉宛』の馬琴の書簡に書誌に、『『八犬伝』上帙、『秘書八人抄』発送覚』とあるのを最後の最後に見出した。これがそれか。或いは、馬琴の執筆になる「文政の大火」の記録なのかも知れない。

「薪のけぶり」「国文学研究資料館学術情報リポジトリ」の岩淵令治氏の論文「18 世紀の〈消防教訓書〉と江戸町人の消防意識」(『国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇』五十三巻十八号・二〇二二年三月発行・リンク先からPDFでダウン・ロード可能)の注22に、『「御坊主衆竹谷次春」作の写本で、国立国会図書館、東京都公文書館などの所蔵が複数確認できる。』とあった。]

 原《たづ》ぬるに、初《はじめ》、この火は、外神田佐久間町河岸《さくまちやうがし》なる、材木商人伏見屋と尾張屋が材木置場の堺垣《さかいがき》の邊より出《いで》たれど、猛烈風の折《をり》なれば、その火、忽《たちまち》に、材木に移りしかば、定かに見とめたるもの、あらず。

 扨《さて》、尾張屋の材木河岸には、秣屋某(まぐさや《なにがし》)が借用して、建措《たてお》くところの飼葉小屋《かいばごや》あり。この小屋より、火が發《おこ》れりなど、いふめり。

 この日、伏見屋構《かまへ》の河岸にて、

「津輕侯の普請を受負《うけおひ》たる、材木の伐組《きりぐみ》をす。」

とて、大工等《ら》、手斧《てうな[やぶちゃん注:現代仮名遣「ちょうな」。]》どりしてありしかど、

「巳の刻、少し過《すぎ》たる頃なりければ、いまだ、煙草休《たばこやす》みといふことも、せず。かゝれば、聊《いささか》にても、火をとり扱ひたることは、あらず。」

と、いふ。

[やぶちゃん注:「津輕侯」弘前藩の通称。当時の藩主は津軽信順(のぶゆき)。]

 又、尾張屋には、

「このあした、材木を買はんとて來ぬる客もなければ、わが構《かまへ》の河岸へ、出入りせしものは、なし。」

と、いひけり。

[やぶちゃん注:「あした」。朝。]

 されば、

「飼葉小屋より、出火せしならん。」

など、罵《ののし》り、爭ふ、のみ。

 さりとて、聢《しか》と見たることにはあらで、伏見屋が構の河岸にありける大工等すら、火の起りしを、しらでありしに、神田川を遡《さかのぼ》る船の篙師(ふなびと)が、はやく見いだして、

「云々。」

と呼《よばは》りしかば、これにぞ、件《くだん》の大工等も、駭《おどろ》き、譟《さは》ぎしことなれば、伏見屋と尾張屋と秣商人《まぐさあきんど》と、互《たがひ》に相爭《あひあらそ》ひて、果《はて》しなかりき。

[やぶちゃん注:前掲の秋田一雄氏の論考では、秣商人は示さず、前の二者を火元候補として挙げられた上で、『いずれが真実かわからないが』、尾張屋『のほうが正しそうな気がする』と記しておられる。根拠は記しておられないが、以下の馬琴の、町奉行の吟味部分の記事を読むに、腑に落ちる事柄が語られてある。

「篙師(ふなびと)」「篙」(音「コウ」)は「船を進めるための竹竿(たけざお)」の意。]

 かくて、件の三人と、初に火を見出したる笥師をも、町奉行所【榊原主計頭殿《さかきばらかずへのかみどの》御番所。】へ召呼《めしよば》れて、吟味ありしに、伏見屋・尾張屋がまうす趣《おもむき》は、右のごとし。又、飼葉屋が。まうすやうは、

「やつがれは、出入の大名方へ、月每に定目《ぢやうもく》ありて、秣を納め候に、居宅《きよたく》より、程遠く候へば、尾張屋が構の材木置場の内を、些《すこし》ばかり、借用して、小屋をしつらひ、件の秣を入置《いれおき》候のみ。この四、五日は、『秣納め』の定日《ぢやうじつ》に候はねば、秣小屋の戶を開きしこと、なく、勿論、件の河岸へ立入りしことは、候はず。しかれども、やつがれが秣小屋より出火したるや。この儀は見とめざることなれば、いかにとも、まうしがたし。」

と、いひけり。

[やぶちゃん注:「榊原主計頭殿」旗本で、当時は江戸北町奉行であった榊原主計頭忠之(明和三(一七六六)年~天保八(一八三七)年)。当該ウィキによれば、彼は『迅速かつそつのない裁決を行い、江戸市民から人気があった。北町奉行在任は』十七『年に及び、これは歴代江戸町奉行中でも長期にわたる』。江戸後期の儒者山田三川(さんせん)が記した著名人二百八十四名のエピソード計千百四十一話を集めた一種の伝記的随筆「想古録」では、『「前任者が七八年、時には十年以上掛かっていた採決を二三日で行ってしまう」ほどのスピード裁判であったと伝えており、長期にわたる訴訟で訴訟費用に苦しんでいた江戸庶民から歓迎された。また、在任中に鼠小僧次郎吉、相馬大作、木鼠吉五郎など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した』とある名奉行として知られた人物であった。]

 これも亦、まうす所、實情に近く、且、その理《ことわり》あれば、いづれとも、定めかねられて、なほ、再三、吟味あり。

 しかるに、尾張屋には、二軒の枝店《してん》あり。そは、尾張屋佐兵衞、尾張屋德右衞門とか喚《よばは》るゝものども也。前《さき》の德右衞門【イ佐兵衞。】は、本店なる尾張屋に、年來《としごろ》仕へたる老手代也ければ、主人の娘を妻《め》あはして、出店《でみせ》にはしたる也。しかるに、件の材木置場は、本店なる尾張屋が構の河岸なれども、今の德右衞門が借用して、その身の材木を置くことも、久しくなりぬ。かゝりし程に、この年三月廿日に、德右衞門が老母、病死してけり。これにより、その夜《よ》さり、年わかき手代二人、棺に建《たて》る花筒《はなづつ》に、

「竹を伐らん。」

とて、小夜《さよ》ふけしころ、張灯《てうちん》を引提《ひきはり》つゝ、件の材木置場にゆきて、竹を伐りしことあり。この事、主人德右衞門は、しらざりければ、

「はじめ、吟味の折、『材木置場へ出入せしもの、一人もあらず候。』とまうせしに、再三の吟味に及びて、この事ありと聞えしには、德右衞門は知らずといふとも、その前夜に、二人の手代が、張灯をものして、材木置場にゆきしことありながら、數度の吟味に及ぶまで、推默《おしだま》りてありしこと、不埓《ふらち》也。定めて、隱情《をんじやう》あるべし。」

とて、件の手代二人は入牢し、火元は尾張屋德右衞門に定められて、おん咎《とが》を蒙《かうむ》りつゝ、件の材木置場は、百日許《ばかり》の間、灰だも搔くことを許されざりき。

 かくて、二人の手代等《ら》、しばしば、拷問ありしかど、

「聊《いささか》も、手あやまちせし覺《ぼえ》、候はず。」

と、いく度も、まふす[やぶちゃん注:ママ。]ことの違《たが》はざりしかば、榊原殿も、

『冤なるべし。』

と、おもはれけるにや、秋に至りて、評定所へ召出さるゝ罪人の茶の給仕などにして、苦艱《くげん》なきやうに、ものせられしとぞ。

[やぶちゃん注:「隱情」この場合は、町奉行が、この時は、「主家及び支店主人に対する申し訳ないという思いから、不当にその事実実態を隠蔽しているのであろう。」と推断したのである。]

 この事、多く世の人は知らず。只、さまざまに風聞したる也。

 これによれば、この火災は、誰があやまちより發りしといふことは、詳ならず。實《げ》に、是、天災也。彼《かの》尾張やの本店のあるじと親しかりける和泉屋【外神田金澤町《かなざわちやう》の髮結の隱居。】の源藏といふ老人が、おなじ年の八月、予が爲にいふ所、右のごとし。

[やぶちゃん注:底本でも、ここで以下が改行されてある。

「外神田金澤町」千代田区外神田三丁目の内。右下方に出荷元の神田佐久間河岸を配しておいた。]

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