鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十七 蘇生の僧四十九の餅の次第を記す事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]
二十七 蘇生の僧四十九の餅の次第を記す事
日光山寂光寺、寛永の比(ころ)より、百五十年以前の住持は、佐野何某(なにがし)兄弟なり。此坊、行證(ぎやうしやう)、欠(か)くる事なく、勤學(きんがく)、聞え有りて、殊勝第一の人なり。
或時、頓死して、冥途の事を記(しる)して、普(あまね)く愚蒙(ぐまう)を驚かす。
彼(か)の記錄の中(うち)に四十九の餅を備へ、四十九院を供養する因緣(いんえん)、並(ならび)に四十九の餅の次第を載せらる。
「八寸釘十六本、一尺六寸釘六本、六寸釘十二本、殘りは、皆、五寸釘なり。四十九日の間(あひだ)、念佛四十九万返(ぺん)唱(とな)へば、此釘に當らず。」
と書き付けて有り。
日光山參詣の者は、所望して拜見するとなり。
[やぶちゃん注:「日光山寂光寺」現存しない。「日光山輪王寺」公式サイトのこちらによれば、この寺は(コンマを読点に代えた)、『日光山内の西、寂光の滝の傍らにあった寺院です。弘仁』一一(八二〇)年『に弘法大師空海が瀧尾に次いで開いたといわれ、室町時代から江戸時代にかけて広く信仰を集め』たが、『神仏分離後の』明治一〇(一八七七)年『に火災に遭い、寂光権現の本社をはじめとする伽藍』『は烏有』『に帰してしま』った。『今は若子神社』(じゃっこじんじゃ:ここ)『として往時の姿をわずかに忍ばせ』るのみである。『寂光寺は様々な伝説で彩られて』おり、『弘法大師は寂光の滝で修行をした後、自ら不動明王をつくり、不動堂に祀』り、『天台宗三祖で唐から密教を伝えた慈覚大師は求聞持堂(ぐもんじどう)に自作の虚空蔵菩薩を祀』り、『比叡山の僧侶で「往生要集」の著者たる恵心僧都源信は』、『これまた』、『自ら作った阿弥陀三尊像を常念仏堂(じょうねんぶつどう)に祀った』という。『こうした伝承は、真言宗に限らず、天台宗や浄土教の影響も大きかったことを伺わせ』る。『一方で』、『日光三山のひとつ女峰山』(にょほうさん:ここ)『の登山口として修験者の拠点でもあり、いわば日光山の縮図のような寺院だった』という。『室町時代、覚源上人による地獄巡りの様子や、地獄での責め苦からの救済を説く』、「寂光寺釘念仏縁起」を)『中心として、寂光寺から輪王寺に伝わった什宝』は、現在の輪王寺に伝えられて守られている、とある。「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「釘念仏」によれば、『栃木県日光市・旧寂光寺に伝わる念仏。先亡追善と念仏者自身の往生のために行われる。旧寂光寺に伝わり、今は日光山輪王寺が所持している』「寂光寺釘念仏縁起」に『よると、覚源が仮死した際にみた地獄の様子についての伝説が、この念仏が始められた要因とされる。この伝説では、地獄に落ちた亡者は四十九日の間に』四十九『本の釘を身体に打ち込まれ、その釘は現世における罪悪の軽重によって長さが違う。そのため現世に生きている間に、仏に対する信心を持ち』、『功徳を積んで』、四十九『万遍の念仏を称えることによって、釘を打ち込まれる苦しみから逃れられる、と言い伝えられている。この念仏の始まった由来などはよくわかっていないが、室町時代から寂光寺を中心に釘念仏が行われていたと言われている。江戸時代以降は、釘念仏は全国に広がったとされる。たとえば新潟県佐渡市には釘念仏の石塔が現存し、高知県長岡郡大豊町では今では行われていないが、釘念仏を再開する試みが行われている。伝承のもととなった寂光寺は廃仏毀釈の際に廃寺になり、現在では若子(じゃっこ)神社として社が現存するのみである。釘念仏に関するお札と誓紙は、現在でも日光山三仏堂および常行堂において授与している』とある。私は神仏分離令・廃仏毀釈令は日本の近代史と言わず、本邦の永い文化史の中で、最大最悪の蛮行であったと考えている。関口靜雄氏・岡本夏奈氏・阿部美香氏の共同資料論考「一枚摺の世界――その小釈の試み(6)」(『学苑』第九〇五号・二〇一六年三月発行・ネット上でダウン・ロード可能。同論文には、印行された「釘念佛札」の画像も載っている)によれば、
《引用開始》
延宝四年(一六七六)三月二十七日、寂光寺に詣した増上寺の僧恵中は『日光山寂光寺釘念仏縁起聞書』(内閣文庫蔵)に、寂光寺上人覚源の坊号が龍泉坊であること、その龍泉坊が頓死したのは文明七年乙未十月二十日であり、閻魔王から授与された釘念仏札を左手に握って蘇生したこと、龍泉坊はみずから縁起を執筆し、それが二百余年後の今も寂光寺に所蔵されていることを伝え、覚源上人梓行という寂光寺の釘念仏札は「黒キ五輪ニ白キ釘キ穴四十九アリ」と記しているから、龍泉坊覚源上人は釘念仏札を梓行するに際して五輪塔を墨一色にし、四十九の圈点を白抜きにしたのである。
《引用終了》
とあった。文明七年乙未は室町後期の、ユリウス暦一四七五年である。本篇に「寛永の比より、百五十年以前」とあるが、寛永は一六二四年から一六四四年までであるから、寛永元(一六二四)年から百五十年前は一四七四年で、ぴったりと一致することが判る。
「佐野何某兄弟」正三はあたかも、この佐野氏の兄弟の一人が覚源であるかのような書き方をしているが、何を根拠にしているかは不明である。
「行證」修行と悟りへの行程。
「四十九の餅」これについては、サイト「紅葉山葬儀社」の「傘餅について」の解説が、ヴィジュアルも含めて、非常に判り易いので、是非、一見されたい。一説としてはあるが、『死者が地獄』『に行ったとき、手足など』、『身体のあちこちに釘を打ち込まれるので、この四十九日餅を作って地獄の冥衆(鬼類)に捧げることによって、釘が餅に当り、死者が苦痛を受けずにすむともいわれている』とある。則ち、四十九個の餅は人体の骨肉の代替シンボルなのである。
「八寸」約二十四センチメートル。
「一尺六寸」四十八・五センチ。
「六寸」十八センチ。
「五寸」十五センチ。]
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