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2022/10/31

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 淫書の効用

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 画像は底本よりトリミング補正して載せた。]

 

 

     淫 書 の 効 用 (明治四十五年七月『此花』凋落號)

 

Insyonokouyou     

 

 『此花』第十八枝に、「大阪の夜發(よたか)」と題せる圖を載せて、『異態の百人一首よりとれり。』とあり。此百人一首は、只今、小生の座右にあり。然るに、これと同筆にて、圖の大きさのみ異なる繪を混入せる異態の『女大學』一册あり。小生、往年、龍動(ろんどん)に在りし日、巴里の故林忠正氏店《みせ》より、購《あがな》へり。今は和歌山に置きあり。「雅俗文庫」には、必ず、これあらん。其『女大學』の中ほどにある「野郞仕立樣の事」の條に、野郞の鼻低きを高くする法あり。圖のごときものを作り、鼻を其間に挾み、夜、臥《ふ》さしむべし、とあり(寸法、忘る)。然るに、一咋年、『大阪每日新聞』を見しに、巴里通信に、新發明の婦女の鼻を高くする器といふあり。全く件(くだん)の野郞の鼻を高くする法と同じきものにて、用法も、夜間、鼻を、これに挾みて、臥する由、記しありたり。日本と佛國とにて、別々に發明したるものとするも、日本の方、はるかに古く、凡そ百年以上も早し。小生、明治十九年、米國に渡り、トランクの盛んに行なわるゝを見て、其便利に呆(あき)れしが、後、寬永頃の日本の繪本を見しに、車長持とて日本に古く既にありしなり。此類の事、多々ならん。春畫などつまらぬものながら、世態風俗の變替(へんたい)より、奇巧の具の曾て存せし事を見るに大効力あること、如此。

[やぶちゃん注:以下、底本では二字下げ。ブラウザの不具合を考え、途中で改行した。「選集」には、この一行はない。恐らくは「選集」は投稿記事に従ったもので、以下は『此花』編集者宮武外骨への添え書きであろう。]

  此事、此文、眠たくて、シツカリ書き得ぬが、
  短く御書き直しの上、『此花』へ御載せ被下度
  候云々。

[やぶちゃん注:本篇は表向き「鼻を高くする器具」について述べていながら、題名の「淫書の効用」及び本文の記載から推すに、この器具、女性の自慰用、或いは、若衆道(男色)用の「張形」=ディルド(Dildo)、或いは、その用法から、男根を伸ばす器具ということを暗に匂わせているものではないかと私には思われたのだが、当たらずとも遠からずであることが判った。後の「女大學」の注を参照。

「明治四十五年」(一九一二年)「七月『此花』凋落號」既出既注

「『此花』第十八枝」「大阪の夜發(よたか)」」同雑誌の全リスト・データがあるサイト「ARTISTIAN」の「此花(大阪版)(雑誌)」に第十八枝(明治四十四年十一月十五日発行:「枝」は「号」を雑誌名に洒落て用いたもの)に「大阪の夜鷹」という表記の記事がある(作者不詳)。「夜發(よたか)」は「夜鷹」の別表記。江戸時代の街娼の一種で、夜になると出てきて、野天、もしくは夜だけの仮小屋で売春した女性たちのこと。京都では「辻君」(つじぎみ)、大坂では「惣嫁」(そうか)と呼ばれた者の江戸版で、名称の由来は、夜間に横行するため、あるいは、夜鷹という鳥がいたのでこれに擬えたものともされている。いずれも安い代価(二十四文ともいわれる)で売春する最下級の「もぐり娼婦」たちで、主たる巣窟は本所吉田町にあり、客は武家・商家の下級奉公人や下層労働者であり、しばしば夜鷹狩りの取締りの対象となった(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「異態の百人一首」まず、しばしば巷間に見られる「百人一首」を淫猥なものに作り替えたそれであろう。

「女大學」まともなものは江戸中期以降、広く普及した女子教訓書群の汎名であるが、如何にもおかしい。調べてみたところ、サイト「ようこの本棚」の「女大楽宝開」(おんなたいらくたからがい:著者「開茎(かいまら)先生」(安永年間(一七七二年~一七八一年)刊)を紹介して、『この「女大楽宝開」は、「女大学」の注釈本「女大学宝箱」をもじって色事本に仕立てたもので、女性の身体の図解、男女の人相図、美人の条件や遊廓の遊び方や価格表や、房中術まで事細かく書かれて』おり、『若衆についても』、十五『枚の画とともに、陰間の育て方などが記されてい』るとあって、以下に「若衆仕立様の事」の原文(新字体)が引かれ、そこに若衆(稚児:男色の女性役)を如何に美しい女に仕立てるかという中に、『鼻筋の低きは十、十一、十二の時分、毎夜ねしなに檜木の二、三寸くらいなるにてこのごとく摘み板を拵え、右の通りに紐をつけ、鼻に綿をまき、その上を右の板にて挟み、左右の紐を後にて、仮面(めん)きたるごとく結びてねさせば、いかほど低き鼻にても鼻筋通り高くなるなり。ただし、十二の暮より仕立てんと思わば、初め横にねさし、一分のりを口中にてよくとき、彼処へすり、少し雁だけ入れてその夜はしまうなり。また二日めにも雁まで入れ、三日めには半分も入れ、四日めより今五日ほど、毎日三、四度ほんまに入るなり。ただし、この間に仕立つる人きをやるは悪し。右のごとくすれば後門沾(うるお)いてよし。また、はじめより荒けなくすれば、内しょうを荒らし煩うこと多し。また十三、四より上は煩うても口ばかりにて深きことなし。これは若衆も色の道覚ゆるゆえ、わが前ができると後門をしめるゆえ、客の方には快く、また客荒く腰を使えば肛門のふちをすらし、上下のとわたりのすじ切るるものなり。これにはすっぽんの頭を黒焼にして、髪の油にてとき付けてよし。右記せし仕様の品は、たとえ町の子供にても、右の伝にて行なうがよし。また新べこには、仕立てたる日より、毎晩棒薬をさしてやるがよし。この棒薬というは、木の端を二寸五ぶ[やぶちゃん注:熊楠が忘れたもの。七センチ六ミリ弱。]ほどにきり、綿をまき、太みを大抵のへのこほどにして、胆礬(たんばん:硫酸鋼)をごまの油にてとき、その棒にぬり、ねしなに腰湯さしてさしこみねな(さ?)せば、煩うこと少なし。ただしねさし様は、たとえは野郎、客に行きて、晩く帰りたる時は、その子供の寝所へ誰にても臥し居て、子ども帰ると、その人はのき、すぐさま人肌のぬくもりの跡へねさすべし。かくのごとくして育つれば無病なり。とかく冷のこもるわざなれば、冬などこたつへあたるは悪し。野郎とても晩く帰るときは、右の通りにしてねさすべし。これだい(一・事?)のことなり』とあって、以下の本図と酷似する道具の画像が載っている(同ページより拝借した画像を以下に示す。因みに画像名は「kgema1」(陰間=江戸時代、宴席に侍って男色を売った者の名)である。

 

Kagema1

 

而して、上記の原文を見ても判る通り、「鼻」は叙述の具合が途中から隠語となって変容していることが判然とする。実は「鼻」は「鼻の大きい男はあそこも大きい」と言うように、転じて「男根」のことを隠語で指すのである。さても、熊楠の「女大學」は、実はこの「淫書」たる「女大樂寶開」であることが判り、この器具は、若衆道の淫靡な性具であることが判るのである。

「林忠正」(嘉永六(一八五三)年~明治三九(一九〇六)年)は美術商。越中国高岡(現在の富山県高岡市)出身。当該ウィキによれば、明治一一(一八七八)年に『渡仏。多くの芸術的天才を生んだ』十九『世紀末のパリに本拠を置き、オランダ、ベルギー、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国、中国(清)などを巡って、日本美術品を売り捌いた。美術品の販売ばかりではなく、日本文化や美術の紹介にも努め、研究者の仕事を助けたり、各国博物館の日本美術品の整理の担当をしたりした』明治三三(一九〇〇)年の『パリ万国博覧会では日本事務局の事務官長を務めた』。『その文化的貢献に対し、フランス政府からはそれ以前の明治二七(一八九四)年に、「教育文化功労章二級」を、一九〇〇年には、「教育文化功労章一級」及び「レジオン・ドヌール三等章」を『贈られた。また、浮世絵からヒントを得て、新しい絵画を創りつつあった印象派の画家たちと親交を結び、日本に初めて印象派の作品を紹介した』。一八八三年に』『没したエドゥアール・マネと親しんだのも、日本人として』は、彼、ただ『一人である』。明治三八(一九〇五)年の『帰国に際し』ては、実に五百『点もの印象派のコレクションを持ち帰り、自分の手で西洋近代美術館を建てようと計画したが、その翌年に果たせぬまま』『東京で』五十二歳で病『没した』とある。

「雅俗文庫」雑誌『此花』を刊行した出版社の名。

「明治十九年」一八八六年。

「寬永」一六二四年から一六四四年まで。

「車長持」(くるまながもち)は移動しやすいように、車輪を下部に取り付けた長持。明暦三(一六五七)年の江戸大火で、車長持が道を塞ぎ、混雑したことから、それ以後、禁止された。]

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