鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十一 亡母來りて娘に養生を敎うる事 附 夫の幽靈女房に藥を與ふる事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]
二十一 亡母(ばうぼ)來りて娘に養生を敎うる事
附夫の幽靈女房に藥を與ふる事
尾州名古屋、朝倉市兵衞(あさくらいちびやうゑ)内儀、恒(つね)に病者なり。
或夜(あるよ)、夢に、亡母、來りて、
「汝が病(やまひ)は禁物(きんもつ)をしたらば、治(ぢ)すべし。」
と告げたり。
娘、
「聲は、慥(たしか)、母の聲なるが、形の見え給はず。如何に。」
と云ふ。
母、云く、
「生死(しやうじ)を離れて、形、なし。」
娘、云く、
「扨(さて)は、何を禁物に爲(せ)んや。」
母、云く、
「七色(なゝいろ)、有り。第一、米を三年、絕つべし。其外、六は、一生の内、絕つべきなり。五辛(ごしん)の類ひ、鷄・鰶(このしろ)・葡萄・酒・菌(くさびら)の類ひ也。必ず、必ず、疑ひあるベからず。此證據(しやうこ)を知らすべし。明日(みやうにち)、晝時分、『南無地藏大菩薩』と、三返(べん)、唱へて、起きて見よ。必ず、立つ事、叶ふべがらず。」
と、懇(ねんごろ)に告げ、了(をは)れり。
娘、夢、覺(さ)めて、之を怪しみ、疑ふ。
さる間、告(つげ)に任せて、明日(あくるひ)、晝程、
「南無地藏大菩薩。」
と、三返、唱へて、立たんとすれぱ、總身(そうみ)、すくみ、提燈(てうちん)を疊むが如くに覺え、立つ事、中々、叶はず。
是より、疑ふ心なく、信心を發(おこ)して、絕ち物をすれぱ、早速に、無病に成りたり。
母、又、夢に告げて云ふ。
「汝に米を絕(たゝ)するは、過去に米を惡(あし)くしたる科(とが)の故なり。何(いづ)れも報いの理(ことわり)有り。」
と委しく敎へけり。
前方(まへかた)、煩(わづら)ひの中(うち)に食(しよく)に向へば、腰、痛み、若(くる)しむゆゑ、腰を打(うた)せて、少し宛(づゝ)飯(めし)を喰ひけり。
扨、敎への後(のち)、粥を少し喰(く)ひければ、即ち、煩ひ、發(おこ)りて苦しかりけり。急ぎ、持佛堂に向つて、侘言(わびごと)して、經咒(きやうじゆ)を誦(じゆ)しければ、頓て、本復(ほんぶく)するなり。
[やぶちゃん注:「七色」七種類。
「五辛」当該ウィキによれば、『五つの辛味ある野菜のこと。五葷』(ごくん)『ともいう。酒と肉にならんで、仏教徒では禁食されている食べ物である。具体的には韮 (にら)、葱 (ねぎ)、蒜 (にんにく)、薤 (らっきょう)、薑 (しょうが) のことである』「楞厳経」(りょうごんきょう)の『巻八に、この五種の辛味を熟して食すと』、『淫がめばえ、生』(なま)『で食すと』、『怒りが増し、十方の天仙は』、『この臭みを嫌い、離れてゆく』(此五种之辛、熟食者发淫、生啖者增恚、十方天仙嫌其臭秽、咸皆远离)『とある』。『もともとはインドのバラモンで禁忌とされていた。道教でも同様に』、『心が落ち着かず』、『修行の邪魔になるとされ、食べないほうが良いとされている』とある。
「鰶」条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus。一般に関東の寿司屋で新子(しんこ)・小鰭(こはだ)と呼ばれる。本種を焼く臭いは人の死骸を焼く臭いと同じとされ、古来、忌避されている。私は大いにこれには異議があるあるが、それは「大和本草卷之十三 魚之下 鱅(コノシロ)」の私の注を参照されたい。
「菌」茸(きのこ)全般を指す。
「腰を打せて、少し宛飯を喰ひけり」この「打たせる」というのは、恐らく、「ちゃんと座らずに、腰を伸ばして中腰にさせて」の意であろう。]
○武州神田、吉祥寺(きちじやうじ)の會下(ゑか)に、呑養(どんやう)と云ふ僧あり。
七歲にて、父に離れたり。
九歲の時、母、大熱を煩ひ、既に末期(まつご)に及ぷ。
時に、亡父、夜半の頃、木履(ぼくり)を穿きて、
「かたかた。」
として、來り、戶、細目に開きたるに、内へ入りて、呑養に言(ことば)を掛(かけ)て、
「昨日(きのう)も來れども、其方に逢はず。」
と云うて、女房の額(ひたひ)を押(おさ)へて、
「大事の煩ひなり。死病に究まる。二人の子供、何(なに)と成るべし。」
と、悲(かなし)みて、
「藥を與ふべし。」
と云ふ。
女房、
「作庵(さくあん)の藥を用ふるゆゑ、餘人(よじん)の藥は、いや。」
と云へば、夫、
「先々(まづまづ)、飮め。」
と云うて、印籠(いんろう)より、練藥(ねりぐすり)を取出(とりいだ)し、口に塗りて、
「湯を呑(のま)せよ。」
と云ふ。
十二に成る姉娘、
「湯は、ぬるし。」
と云へば、
「ぬるくとも、飮ませよ。」
と云うて、呑養に暇乞(いとまごひ)して、
「さらば。」
と云うて、出づるに、戶は、立てゝ有り。
此時、呑養、
「扨は。今のは、父なり。」
と知る。
藥を取出す時、右の手の小指、少し曲りたるを見て、
「慥(たしか)に、父なり。」
と知るなり。
扨、又、二階に寢たる助市(すけいち)と云ふ者、
「今のは、父彌兵衞の聲なり。」
と云へり。
母は彼(かの)藥を飮むと、口、凉々(すゞすゞ)と覺えて、氣色(きしよく)よき樣(やう)なれども、一頻り、煩ひて、汗出でて、八つ過(すぎ)に、すきと、本復して、子供、
「寢(ね)よ。」
と云うて、衣物(きもの)着せて、寢(ね)せけり。
明日(あくるひ)は、早朝より、起きて、茶を煎じ、近邊(きんぺん)の人を呼ぴ、飮(のま)せけり。
人々、
「稀代(きたい)なり。」
と悅び、江戶鐵砲町(てつぱうちやう)にて、隱れ無き事なり。
母は四十七歲の時なり。
牛込天德院にて、呑養、直(ぢき)に語るを、聞くなり。
[やぶちゃん注:「吉祥寺」これは東京都文京区本駒込にある太田道灌が創建した曹洞宗諏訪山吉祥寺であろう。神田との位置関係も近い。
「會下」「会座」(えざ)に集まる「門下」の意で、特に禅宗・浄土宗などに於いて師の僧の下(もと)で修行する僧を指す。「ゑげ(えげ)」とも読む。
「木履」下駄。
「二階に寢たる助市」名前からして座頭である。目が見えない分、音声に敏感であるから、弥兵衛の声を二階に居ながらにして、聴き判じることが出来たのである。恐らくは、父弥兵衛の生前から、この家の二階に間借りして親しく接していた座頭だったのであろう。弥兵衛は「二人の子供、何と成るべし」と心配しているが、姉娘と呑養で二人であるから、助市は子ではないことは明白である。助市の「父彌兵衞の聲なり。」の「父」は面倒を見て貰った「親父さん」の「父」である。この助市の何気ない登場シーンは、父の姿が見えており、会話もしている、子の二人と病床の母の共同妄想であることを否定し、声で弥兵衛の例の確かな出現の決定的事実を支える、極めて優れた場面であることを見逃してはならない。
「江戶鐵砲町」何時もお世話になっているサイト「江戸町巡り」のこちらによれば、現在の中央区日本橋本町三・四丁目に相当する。『江戸初期までは「千代田村」といったらしい。町名は幕府の御用鉄砲師・胝(あかがり)宗八郎がこの地を拝領し屋敷を設けたのに因む。子孫は町名主を世襲した』とある。ここは神田の南東直近であるから、冒頭のそれとの齟齬はない。
「牛込天德院」中野区上高田にある曹洞宗乾龍山天徳院。この寺は先の諏訪山吉祥寺の五世用山元照和尚を勧請開山として一山智乗和尚が慶長七(一六〇二)年に創建したものである(以上は、やはりいつもお世話になっている、東京都寺社案内の強力なサイト「猫の足あと」の同寺の記載に拠った。]
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