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2022/10/29

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 千人切の話(その2)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ七行目の半ばやや下。底本では続いているが、「選集」では改行されてある)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で「選集」を参考(「選集」は漢文部が編者によって訓読されてある。但し、現代仮名遣という気持ちの悪いもの)に訓読を示した。なお、本篇は、やや長いので、分割した。]

 

 是等は小說なれど、古《いにしへ》より諸邦に、淫蕩の人、情事(いろごと)の數多きに誇りし例、少なからず。『三楚新錄』卷一、馬希範淫而無禮、至於先王(馬殷)妾媵無ㇾ不烝通、又使尼潛搜士庶家女有容色上者、皆强取ㇾ之、前後約及數百、然猶有不足之色、乃曰、吾聞軒轅御五百女以昇天、吾其庶幾乎、未ㇾ幾死、大爲識者所ㇾ笑〔馬希範(ばきはん)は、婬にして、禮、無し。先王(馬殷(ばいん:十国の楚の初代の王))の妾媵(せふよう)、烝通(じようつう)せざるは、無し。又、尼(あま)をして士庶(ししよ)の家の女の容色ある者を搜さしめ、皆、强ひて、之れを取る。前後、約(およ)そ、及ぶこと、數百たり。然(しか)も、猶ほ、不足の色、有り。乃(すなは)ち曰はく、「吾(われ)聞く、『軒轅(けんえん)は五百の女を御(ぎよ)して、以つて、天に昇る。』と。吾、其れ、庶-幾(ちか)きか。」と。未だ幾(いく)ばくもなくして死す。大いに識者に笑はらるることと爲(な)れり。〕。支那の黃帝、亜喇伯(あらびあ)の馬哈默德(まほめつと)、希臘の「ヘラクレス」、何《いづ》れも御女《ぎよじよ》の數、莫大なりしを、「盛德」として喧稱され、三世紀の末、「ガウル」の勇將「プロクルス」の自賛に、「サルマチヤ」を征して素女(きむすめ)百人を獲《とり》、一夜に十人を御《ぎよ》し、半月ならぬに、百人を擧げて、既婚婦《しんぞう》に化《くわ》し遣《つか》はせり、と有る。其剛强無雙、恐縮の至りと、「ギボン」先生も『羅馬衰亡史』拾貳章に感嘆せり。古今、實際、かかる俊傑、多ければ、故「ハーバート・スペンセル」が、一夫多妻(ポリガミー)の起りは、繼嗣(あとつぎ)を望むとか、經濟の爲とかよりも、主として、婦女を自意(わがこゝろ)に任せうる事、多きに、誇れるにありと、論ぜしは、最もな言(こと)也。本邦には『長祿記』に、業平の契り玉ひし女、三千三百三十三人、とあり。後世、業平大明神とて、漁色家が專ら仰ぎし事、浮世册子類にしばしば見えたり。六月一日の『日本及日本人』九四頁に、「文化九年云々。『甲子(かつし)夜話』に、ある公卿、もと、院傳勤めし人の、家も富有なるが、何等の好色にや、一千人の女と交わるべき發願して、年若き時より、壯若貴賤を撰ばず、力の及ぶだけ、漁色したり。此兩三年前、願の數に盈(みち)ちたりとて、其祝《いはひ》せられけると云《いへ》るは、高倉太宰大貳永孚(えいふ)(卅九)の事なるべし。」と見ゆ。是等より推して、情事の千人供養も絕無の事ならざるを知るべし。

[やぶちゃん注:「三楚新錄」宋の周羽翀(うちゅう)撰になる十国時代の楚史かと思われる。「中國哲學書電子化計劃」の同書の影印本画像の当該部を調べたところ(影印本の四行目下方から。なお、右の電子化版は機械判読と思われ、誤りが多いので、参考にしてはいけない)、熊楠の引用にはやや問題があることが判ったので、それを参考に手を加えた。返り点なども推定で加えた。

「馬希範」十国時代の楚の第三代の文昭王(八九九年~九四七年/在位:九三二年~九四七年)の本名。武穆(ぶぼく)王馬殷の四男。当該ウィキによれば、『異母兄の衡陽王馬希声の薨去に際し、武穆王馬殷の兄弟相続の遺命により、鎮南軍節度使であった馬希範がその地位を継承した。まもなく』、中国北部を広範に支配していた後唐(こうとう)から『武安武平両軍節度使兼中書令に任じられ、更に』九三四年『には楚王に封』ぜられた。『馬希範は学問を好み』、『漢詩に長じて』は『いたが』、浪費癖や好色癖が『著しく、特に正妻である彭夫人(唐の吉州刺史の彭玕の娘)が死去した後は』姦淫に『走り』、『宴席を数多く設けたとされる。また』、『天策府を建築した際には』、『その門戸檻桿を金や玉で装飾し、壁を丹砂数十万斤を以って塗ったと史書に記録される』。『楚は金銀を産し、また茶葉販売の利益が大きく』、『財政的には豊かであったが、これらの相次ぐ奢侈により国家財政が逼迫、住民への課税が強化されると共に、売官行為や贖罪刑が横行』、『国内は乱れた』。死後は『弟の馬希広が継承し』ているとあった。

「妾媵」「妾」は側室、「媵」(よう)は周代の婚姻形態に始まるとされる側室の一種。当時の天子や貴族が正室を娶る際には、正室の女性とともに、同族の姉妹や従妹が「媵」としてつき従った。そして、正室となった女性が子供を産めなかった場合、その代理として「媵」が子供を産む役目を負った。側室の一種であるが、「妾」とは異なり、媵が産んだ子供は正室の子として扱われた(「媵」の部分は当該ウィキに拠った)。

「烝通」「烝」には「目上或いは身分の高い女性と姦通する」の意がある。

「士庶」「士」は「道を修め、人の長たる身分の者」を、「庶」は「農工商に従う者」の意から転じて、身分の高い人に対して、「一般の人々」の意となった。

「軒轅」中国の伝説上の皇帝である「黄帝」の名。

「庶-幾(ちか)き」この場合は、「庶」・「幾」ともに「近い」の意で、「極めて似ていること」を言う。か。」と。未だ幾ばくもなくして死す。大いに識者に笑はらるることと爲(な)れり。

『「ガウル」の勇將「プロクルス」の……』以下はイギリスの歴史家エドワード・ギボン(Edward Gibbon  一七三七年~一七九四年)の「羅馬衰亡史」(The History of the Decline and Fall of the Roman Empire :一七七六年~一七八八年刊)の「拾貳章」(十二章)を読めば判るだろうと、「The Project Gutenberg」の英文の当該章をざっと見たが、どうも判らない。私は訳本を持たないので、それを購入して調べるまで、以下の部分の注はペンディングする。悪しからず。

「ハーバート・スペンセル」イギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。

「一夫多妻(ポリガミー)」polygamy

「長祿記」室町時代に成立した、「応仁の乱」の元凶といわれる畠山義就(よしなり)の軍記物。「国文学研究資料館」の写本を見ると(始まりはここの右丁の三行目から以下で、熊楠の引用する箇所はここの右丁の後ろから二行目である)、「交野業平事」(かたののなりひらのこと)と目録して、義就が河内国に転戦した際、交野ヶ原を通った折りに、昔、業平がここに鷹狩に来て、俄に大雪に見舞われ、宿を貸してくれた女を見染め、京へ連れ帰ったものの、日に日に女は衰えを見せ、遂に姿を消してしまう。彼女は雪の精であったのであったという話を記したものである。

「日本及日本人」月刊評論雑誌。明治二一(一八八八)年四月、三宅雪嶺・井上円了・杉浦重剛ら政教社同人により創刊された『日本人』を、明治四〇(一九〇七)年に改題したもの。当初から西欧主義に反発した国粋主義を主張し、後、雪嶺の個人雑誌的色彩を濃くした(但し、大正一二(一九二三)年の大震災罹災直後に運営方針から内部で対立し、同年秋に雪嶺は去った)。昭和二〇(一九四五)年二月、終刊。戦後の昭和四一(一九六六)年一月に復刊したものの、時勢に合わず、四年後には廃刊となった。

「文化九年」一八一二年。

「『甲子(かつし)夜話』に、ある公卿、……」私は東洋文庫版で全巻を所持するが、巻数も標題もない中で、調べるのは面倒である。発見したら、電子化して追記する。悪しからず。

「高倉太宰大貳永孚(えいふ)(卅九)」不詳。

 以下の段落は底本でも改行している。]

 上に引《ひき》たる『繪本合邦辻』に、田代の母、百萬遍を催すに先だち、檀寺の僧、仔細を聞《きき》て、「昔し、班足王(はんぞくわう)、『千人の命を絕(たつ)べし。』と大願を發し、九百九十九人を殺し、今一人になって、老母を以て員(かづ[やぶちゃん注:ママ。])に充《あて》んとす。已に害せんとせし時、忽然と、大地、裂けて、班足を陷《おちいれ》る。老母、驚き悲《かなし》み、其髮を摑んで引上《ひきあげ》んとすれど、體、既に地中に落入《おちい》り、髮のみ、老母の手に遺《のこ》りしと、經文に說けり。彌左衞門も、同樣の罪によって、「目前、阿毘《あび》・焦熱《しやうねつ》の苦を受くると覺ゆ。」と言《いへ》りと有り。是れ、其僧、又、著者が記憶の失《しつ》にて、諸經說を混淆せり。乃《すなは》ち、班足王が百王の肉を食らわん迚《とて》、九十九王を囚《とら》え[やぶちゃん注:ママ。]、最後に善宿(ぜんしゆく)王を擒《とら》えしに[やぶちゃん注:ママ。]、「梵志に食を施《ほどこ》さん。」と約して、與へぬ内に死するを悲しむを見、時を期して放還せしに、藏を開き、施し畢《をは》りて、約の通り、還り來たりしに感心して、九十九王と共に縱《ゆる》し歸せし譚(ものがたり)は、『出曜經(しゆつえうきやう)』卷十六に出で、地に陷《おちい》る子の、髮のみ母の手に留まりし話は、『雜寶藏經』卷七に、子が、母の美貌に着(ちやく)し、病と成り、母に推問《おしとは》れて、其由を告《つげ》しに、母、子の死せん事を怕《おそ》れ、卽便喚ㇾ兒、欲ㇾ從其意、兒將ㇾ上ㇾ牀、地卽擘裂、我子卽時、生身陷入地獄、我卽驚怖、以ㇾ手挽ㇾ兒、捉得兒髮、而我兒髮、今日猶故在我懷中、感切是事、是故出家。〔卽ち、兒(こ)を喚び、其の意に從はんと欲す。兒、將に牀(とこ)に上がらんとするや、地、卽ち、擘-裂(つんざけ)て、我が子、卽時に生身(しやうしん)陷入(かんにふ)す。我、卽ち、驚怖し、手を以つて、兒を挽(ひ)かんとするに、兒の髮を捉へ得たるのみ。而して、我が兒の髮、今日、猶ほ、我が懷中に在り。是の事を感切し、是の故に出家せり。〕。是より轉じて、古く『日本靈異記《にほんりやういき》』中卷と、『今昔物語』卷廿、既に、武藏人吉志火麿(きしのほまろ)、母を殺《ころさ》んとして、地に陷沒し、髮のみ、母の手に殘りし誕(ものがたり)を載せ、今も中山寺《なかやまでら》の鱷口(わに《ぐち》)の綱に、罪《つみ》重かりし巡禮女の長髮(かみ)[やぶちゃん注:二字變へのルビ。]、纏ひ着《つけ》りと傳ふ。其の老母を以て、百人の數に充《あて》んとせしと云ふは、指鬘比丘《しまんびく》の傳に基《もとづ》けるなり。

[やぶちゃん注:「『繪本合邦辻』に、田代の母、百萬遍を催すに先だち、檀寺の僧、仔細を聞《きき》て、……」「(その1)」を参照されたいが、以下の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「帝國文庫」版のここの右ページの後ろから六行目の「僧(そう)橫手(よこて)を打ち……」以下の部分である。

「班足王」「斑足太子」(はんぞくたいし)とも呼ぶ。釈迦の本生譚(ほんしょうたん:前世話)中に説かれる人物。その父が、王山を巡っているうちに、牝獅子に出逢い、この牝獅子と交わり、生まれたという太子。その足に「斑点」があったところから名ぐけられた。太子は王位を継いだ後、邪教を信じ、「神を祀るために、千王の頭を得よう。」と誓い、九百九十九王までを得て、一人を欠いていたが、その後、最後に捕えた普明王によって、解悟し、出家して、無生法忍を得たという。日本に渡来した妖狐「玉藻前」はその塚の神だったともされる(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「阿毘」阿鼻地獄。無間地獄に同じ。八大地獄の一つで、現世で五逆(母を殺すこと・父を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・仏身を傷つけて血を出させること。僧団の和合を破壊すること)などの最悪の大罪を犯した者が落ちる。地獄の中で最も苦しみの激しい所とされる。

「焦熱」焦熱地獄。同じく八大地獄の一つ。殺生・偸盗・邪婬・妄語・飲酒・邪見の者が堕ち、罪人は熱した鉄板・鉄棒の上に置かれたり、鉄の沸騰した釜の中に入れられるとされる。但し、地獄思想は中国の偽経が元となったものである。釈迦は私の信ずるところでは、地獄とは永遠の闇の世界とのみ表現しているはずである。

「出曜經」美文体の詩集。倫理的教理を説く「法句経」の系統に属する文献で、竺仏念が中国語訳した(五胡十六国時代の三九八年から翌年にかけて) 。 全三十四章で約 九百三十編から成る。詩の詠じられた背景の物語や解説をも併記してある。詩だけの集成である「法集要頌経」(ほうじゅうようじゅきょう)も、恐らくは同一の原典によるものと考えられている(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「雜寶藏經」の経文部は「大蔵経データベース」の「諸經要集」の中の「雜寶藏經」からの当該部の引用と校合して変えてある。後注参照。

「『日本靈異記』中卷と、『今昔物語』卷廿、既に、武藏人吉志火麿(きしのほまろ)、母を殺《ころさ》んとして、……」まず、「日本靈異記」のそれを所持する角川文庫の板橋倫行校注(昭和五二(一九七七)年十五版)を底本としたが、読点・記号を追加し、段落を成形した。一部で私の判断で歴史的仮名遣で読みを推定で入れてある。それは《 》を使った。上付き文字は板橋先生の注記。

   *

 

   惡逆の子、妻を愛(め)で、母を殺さむ
   として謀り、現に惡死を被る緣第三

 

 吉志(きし)の火麻呂(ほまろ)は、武藏の國多麻《たま》の郡《こほり》鴨《かも》の里[やぶちゃん注:当該地不明。]の人なり。火麻呂の母は、日下部(くさかべ)の眞刀自(まとじ)なり。聖武天皇の御世、火麻呂、大伴(おほとも)名姓、分部分明ならず。筑紫の前守(さきもり)に點(さ)さる。

 三年を經(ふ)べし。母は、子に隨ひて、往きて相《あひ》節(か)ひ養ふ[やぶちゃん注:一緒に暮らした。]。其の婦(め)は、國に留まりて、家を守る。

 時に火麻呂、己が妻を離(か)れて去(ゆ)き、妻の愛(め)でに昇(あ)へずして、逆謀《ぎやくぼう》を發(おこ)し、

『我が母を殺し、其の喪服《さうぶく》に遭ひ、役《やく》を免れて、還り、妻と俱《とも》に居《ゐ》む。』

と思ふ。

 母の自性(ひととなり)、善を行ふを、心とす。

 子、母に語りて言はく、

「東の方《かた》の山の中に、七日(なぬか)、「法花經」を說き奉る大會(だいゑ)あり。母を率(いざな)ひて、聞かむ。」

といふ。

 母、欺かれて、

『經を聞かむ。』

と念(おも)ひ、心を發(おこ)し、湯もちて洗ひ、身を淨め、俱に、山の中に至る。

 子、牛なす目もちて、母を眦(にら)みて、言はく、

「汝、地に長跪(ひざまづ)け。」

といふ。

 母、子の面(おもて)を瞻(まは)りて[やぶちゃん注:目を瞠(みは)って見守って。]、答へて、曰はく、

「何の故に、しか言(い)ふ。もし、汝、鬼に託(くる)へるや[やぶちゃん注:鬼が憑いて気が狂ってしまったのか?]。」

といふ。

 子、橫-刀(たち)を拔きて、母を殺らむとす。

 母、卽ち、子の前に長跪きて言はく、

「木を殖うる志(こころ)は、彼の菓《このみ》を得、竝びに、其の影に隱れむが爲《ため》。子を養ふ志は、子の力を得て、幷《あは》せて、子に養はれむが爲なり。恃(たの)みし樹に、雨、漏《もる》るが如く、何ぞ、吾が子、思ひに違《たが》ひて、今、異(け)しき心、在る。」

と。

 子、遂に聽かず。

 時に、母、わびて、身に著(き)たる衣を脫ぎて、三處《みところ》に置く。

 子の前に長跪き、遺言(ゆゐごん)して言はく、

「我が爲に詠ひ被《おほ》ひ裹(つつ)め。一つの衣をもちて、我が兄の男、汝、得よ。一つの衣は、我が中の男[やぶちゃん注:次男。]に贈りたまふ。一つの衣は、我が弟(おと)の男[やぶちゃん注:三男の末っ子の男子。]に贈りたまふ。」

といふ。

 逆子《ぎやくし》、[やぶちゃん注:不孝なる息子の意。]步み前(すす)みて、母の頸(くび)を殺(き)らむとするに、地、裂けて、陷(おちい)る。

 母、卽ち、起ちて前み、陷る子の髮を把(と)り、天を仰ぎて哭き願はく、

「吾が子は、物に託(くる)ひて、事を爲す。實(まこと)の現(うつし)し心に、非ず。願はくは罪を免(ゆる)したまへ。」

といふ。

 なほ、髮を取りて、子を留《と》むれども、子、終《つひ》に陷る。

 慈母、髮を持ちて、家に歸り、子の爲に法事を修し、其の髮を筥(はこ)に入れて、佛像の前に置き、謹みて諷誦(ふじゆ)を請(う)く[やぶちゃん注:僧に読経を依頼したのである。]。

 母の慈は、深し。

 深きが故に、惡逆の子に哀愍《あいみん》の心を垂れ、其の爲に、善を修す。

   *

 思うに、本話は以下の「今昔物語集」を始めとして、後続の因果譚の一つのパターンの手本の濫觴となるのだが、恐らくは、仏典が、この話の原話であろうとは思う。以下の小学館「日本古典文学全集」(昭和五四(一九七九)年第五版)の解説に「雑宝蔵経」第九巻の「婦女厭欲出家縁」や、「法苑珠林」巻二十二の「入道篇引証部」が酷似するとあるが、「大蔵経データベース」で両方とも確認したが、前者はまさに熊楠が引いているそれであり、後者は恐らくは「引證部第四」と思われるが、やはり、内容は母に淫欲を抱いた結果というシノプシスであって、母殺しの動機部分は、或いは本邦で形成されたものかも知れない。或いは、中国の志怪小説にありそうな気もする。

 次に、「今昔物語集」巻第二十の「吉志火麿擬殺母得現報語第三十三」(吉志火麿(きしのひまろ)母を擬-殺(ころ)さむとして現報を得る語(こと)第三十三)を示す。小学館「日本古典文学全集」のテクストを参考に、恣意的に漢字を正字化して示した。その外も同前の仕儀を施してある。特に読みを送り仮名として出した箇所が多い。□は原本の欠字。

   *

 

   吉志火麿、母を擬殺さむとして
   現報を得る語第三十三

 

 今は昔、武藏の國、多摩の郡(こほり)鴨の里に、吉志火丸と云ふ者、有けり。

 其の母は、日下部(くさかべ)の眞刀自(まとじ)也。

 聖武天皇の御代に、火丸、筑前の守□□□□□□と云ふ人に付きて、其の國に行きて、三年(さむねん)を經(ふ)るに、其の母、火丸に隨ひて行きぬれば、其の國にして、母を養なふ。

 火丸が妻、本國に留(とど)まりて、家を守るに、火丸、妻を戀ひて思はく、

『我れ、妻を離れて、久しく相ひ見ず。然(さ)れども、許されざるに依りて、行く事、能はず。而るに、我れ、此の母、殺して、其の喪服(さうぶく)の間(あひだ)、許されて本國に行き、妻と共に居《ゐ》む。』

と思ふ。

 母は、心に慈悲有りて、常に善を修(しゆ)しぬ。

 而る間、火丸、母に語りて云はく、

「此の東(ひむがし)の方(かた)の山の中(なか)に、七日(なぬか)の間(あひだ)、『法花經』を講ずる所、有り。行きて、聽聞(ちやうもん)し給へ。」

と率(いざな)ふ。

 母、此れを聞きて、

「此れ、我が願ふ所也。速かに詣づべし。」

と云ひて、心を發(おこ)し、湯を浴身(みにあ)みし、身を淨めて、子と共に行く。

 遙かに山の中に至りて見るに、佛事を修(しゆ)すべき山寺、見えず。

 而る間、遙かに人離れたる所にして、火丸、母を眦(にら)みて、嗔(いか)れる氣色(けしき)有り。

 母、此れを見て云はく、

「汝(なむ)ぢ、何(なに)の故に嗔れるぞ。若(も)し、鬼の託(つ)きたるか。」

と。

 其の時に、火丸、刀を拔きて、母が頸(くび)を切らむと爲(す)るに、母、子の前に跪(ひざまづ)きて云はく、

「樹(うゑき)を植うる事は、菓(このみ)を得、其の影に隱れむが爲也。子を養ふ志(こころざし)は、子の力を得て、養ひを蒙(かうぶ)らむが爲也。而(しか)るに、何ぞ我が子、思ひに違(たが)ひて、今、我を殺すぞ。」

と。

 火丸、此れを聞くと云へども、許さずして、猶ほ、殺さむと爲る時に、母の云はく、

「汝、暫く、待て。我れ、云ひ置くべき事有り。」

と云ひて、著(き)たる衣(きぬ)を脫ぎて、三所(みところ)に置きて、火丸に云はく、「此の一の衣をば、我が嫡男(ちやくなむ)也(なる)汝に與ふ。」

と。

「一(ひとつ)の衣をば、我が中男(《ちゆう》なむ)也(なる)汝が弟(おとうと)に與へよ。一の衣をば、我が弟男(ていなむ)也(なる)弟子《をとこ》に與へよ。」

と遺言するに、火丸、刀を以つて母が頸を切らむとす。

 而る間、忽(たちまち)に、地(ぢ)、裂けて、火丸、其の穴に落ち入る。

 母、此れを見、火丸が髮を捕(とら)へて、天に仰(あふ)ぎて、泣々(なくな)く云はく、

「我が子は鬼の託(つき)たる也。此れ、實(まこと)の心(こころ)に非(あら)ず。願(ねがはく)は、天道(てんたう)、此の罪(つみ)を免(ゆる)し給へ。」

と叫ぶと云へども、落ち入り畢(はて)ぬ。

 母と[やぶちゃん注:「と」の誤記か。]捕りたる髮は、拔けて、手に拳(にぎ)り乍(なが)ら留(とどまり)ぬ。

 母、其の髮を持ちて、泣々く家に返りて、子の爲に法事(はふじ)を修(しゆ)して、其の髮を筥(はこ)に入れて、佛(ほとけ)の御前(おほむまへ)に置きて、謹(つつしむ)で、諷誦(ふじゆ)を請(う)く[やぶちゃん注:原話と同じく、僧を招いて、経文や陀羅尼を誦して、読経して貰ったことを指す。]。

 母の心、哀れび深き故に、我れを殺さむと爲(す)る子を哀れびて、其の子の爲に、善根を(ぜんごん)を修(しゆ)しけり。

 實(まこと)に知りぬ、不孝の罪(つみ)を、天道、新たに惡(にく)み給ふ事を。世の人、此れを知りて、

「殺さむまでの事は、有難(ありがた)し。只、懃(ねむごろ)に父母(ぶも)に孝養(けうやう)して、努々(ゆめゆめ)、不孝(ふけう)を成すべからず。」

となむ、語り傳へたるとや。

   *

「今も中山寺の鱷口(わに)の綱に、罪重かりし巡禮女の長髮(かみ)、纏ひ着りと傳ふ」「中山寺」は兵庫県宝塚市中山寺にある真言宗中山寺派大本山紫雲山中山寺。本尊は十一面観世音菩薩。当該ウィキによれば、『インドの勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の姿を写した三国伝来の尊像と伝えられる』とある。以上の因縁譚は「宝塚市」公式サイト内の「宝塚の民話・第2集の11」の「鐘の緒(かねのお)」がよい。

「指鬘比丘」仏弟子の一人アングリマーラ(Aṅgulimāla)のこと。「央掘摩羅」などと音写し、「指鬘外道」(しまんげどう)と漢訳される。彼は釈尊の弟子となる以前、あるバラモンに師事していたが,ある事件によって怒ったそのバラモンが、彼を陥れようとして誤った教えを与えた。彼は師の教えに従って、次々と、人を殺し、その「指」(aṅguli)を切って、それを「髪飾り」(māla)とした。 千人の指を集めようとして、千人目に、自分の母を殺そうとした時、釈尊が教化したので、バラモンの教えを捨て、弟子となった。その後、市民の迫害を受けたにも拘わらず、過ちを、ひたすら、懺悔(さんげ)し、行を重ね、遂に悟りを得たとされる。]

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