鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「七 僧の口より白米を吐く事 附 板挾に逢ふ僧の事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]
七 僧の口より白米を吐く事
附板挾(いたばさみ)に逢ふ僧の事
東三河に、貴雲寺と云ふ寺あり。其弟子の僧、同行(どうぎやう)五人にて、立山へ參詣す。
下向の時、俄(にはか)に日暮れける間、
「宿(やど)を借らん。」
とするに、村里、なし。
傍らに、燈火(ともしび)、幽(かす)かに見ゆる處あり。
此所へ至つて、見れば、寺なり。
一人(にん)、「金剛經」を誦(よ)み居(ゐ)られたり。
「是は、立山へ參りたる者なり。宿を借し給へ。」
と云ふ。
老僧、則ち、
「安き事なり。」
とて、宿を借し給ふ。
「我は、然(さ)る方(かた)へ參るなり。其方達、食(めし)を拵へ、喰ひ給へ。米も味噌も、奧にあり。」
とて、老僧は、出でられたり。
「然(さ)らば、飯(めし)を焚(た)かんか。」
とて、客僧、眠藏(めんざう)へ、米、とりに行きければ、僧、一人(にん)、倒(さかまさ)につるし、下に新しき桶(をけ)をすけて有り。
彼の坊主の口より、白米。
「ざらざら」
と出づるなり。
不思議に思ひ能く見れぱ、我師匠の坊主なり。
此僧、大(おほい)に驚き、
「やれ、地獄なり。」
と云うて、かけ出でければ、本の如く、明るく成りたり。
それより、此僧、
「出家と成りて、信施(しんせ)をきるは、怖ろしき事なり。」
とて、還俗(げんぞく)し、名古屋にて、足輕に出でゝ、今に居(ゐ)るなり。
元和年中の事なり。
本秀和尙、彼(か)の僧に逢ひ給ふなり。
[やぶちゃん注:「東三河」「貴雲寺」不詳。
「信施をきる」「信施」は「しんぜ」とも読み、信者が仏・法・僧の三宝に捧げる布施を指すが、ここは「出家して、信心を絶対無二のものとして、決定(けつじょう)し、修行に専念する」の意味で用いているものと思う。
「元和年中」一六一五年から一六二四年まで。
「本秀和尙」複数回、既出既注。本書で最も多く登場する僧で、正三の最も親しい人物であり、まさに最大の因果話の情報屋と言ってよい人物である。]
○伺某(なにがし)、相州小田原御番(ごばん)の時、金田(かねだ)の近所に、正順(しやうじゆん)と云ふ眞言坊主、有りけるを、
「齋日(ときび)に參らるゝ樣(やう)。」
と、約束、有り。
然(しか)るに、此坊主、來らず、二日過ぎて、來りて云ふ。
「御斎日(おんときび)に參らざるは、存外の儀ありて、筈違(はずたが)へ申すなり。其仔細は、我等、近處の村に、小菴(せうあん)あり。
『此坊主、金(かね)、少し、持ちたる。』
と、人も沙汰せし處に、彼(か)の坊主、頓(やが)て、死するに、金(きん)一步(ぶ)ならでは、なし。一周忌の時分、彼の坊主の旦那庄屋、餘所(よそ)へ往(ゆ)く時、彼の坊主、瘦衰(やせおとろ)へて、
『よろよろ』
と步み來(きた)る。驚き見る處に、長(たけ)一丈程の大男、板を持來(もちきた)つて、坊主を挾(はさ)みて、押し掛け、責めけり。肝を銷(け)し、面(おもて)を伏せて居たるが、心元(こゝろもと)なく思ひ、面を上げて見れぱ、大男は、無し。坊主、殘つて步み來(きた)る。逃げたく思へども、是非なく居(ゐ)る處に、坊主、來(きた)る。卽ち、坊主は、
『何事にて、只今の樣なる責(せめ)には、逢ひ給ふぞ。』
と問へば、坊主、答ヘて、
『我、死して後(のち)、吊(とむら)ふ者なき故に、日夜に、五、六度の責を受くるなり。我、金子、少し待ちたるを、旦那衆(だんなしゆ)の内に、五兩、借(か)し、又、柿の木の下に、壺に入れ、蚫貝(あはびかひ)を蓋(ふた)にして置くなり。願くは、是にて、吊ひて給へかし。若(も)し、旦那衆、「借らぬ」と諍(あらそ)はば、證據(しようこ)を、見すべし。』
と云うて、深く賴みける。庄屋、
『心得たる。』
と肯(うけ)がへば、坊主、消え去りぬ。扨(さて)、庄屋、歸つて、旦那衆を呼び、此由、
「斯(か)く。」
と云ひければ、金子借用の者、急ぎ出(いだ)しける間、今朝(こんてう)まで、經を誦(よ)み、吊ひ申す故、參らぬなり。」
と、確(たしか)に語る由。
證據、正しき事なり。
[やぶちゃん注:「相州小田原御番」ウィキの「小田原城」によれば、秀吉の「小田原攻め」の『後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世』(ただよ)『を小田原城に置いた。小田原旧城は』、『現在の小田原の市街地を包摂するような巨大な城郭であったが、大久保氏入部時代に規模を縮小させ、以後』、十七『世紀の中断を除いて』、『明治時代まで大久保氏が居城した』とあるので、この「何某」は小田原藩主家の大久保氏の藩士ということになる。
「金田」「Stanford Digital Repository」の戦前の地図を確認したところ、現在の大井地区の北、酒匂川左岸に「金田村」を確認出来た。ここである。そもそも、この「何某」は小田原城番であるのだから、小田原城内以外には、勤番中、出て行けない。この位置ならば、城内と考えてよい。他にも「金田」を冠する現在の施設があるが、旧村名のこれが確実と思う。
「齋日」既出既注であるが、再掲すると、これは、仏教の戒律の規定に従い、月の十五日と三十日に、同一地域の僧が集って、自己反省をする集まりを指している。この「何某」は武士であったが、経も読め、弔いの法要も出来る、仏教に強い関心を持っている者であった故に、この正順という真言僧と日頃より親しくしており、正順は、特に「斎日」の僧衆の話や議論を見学させようとしたものと思われる。
「筈違へ」矢の端の、弓の弦につがえる切り込みのある部分の「矢筈(やはず)」と弓の「弦」とをよく合わせることは弓術の初歩であり、「筈が違(たが/ちが)ふ」というのは、「思った通りにならない」ことを意味する。如何にも武士に相応しい言い方である。]
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