鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三 起請文の罰の事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、この「三」は収録されていない。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]
三 起請文(きしやうもん)の罰の事
江州かばた村は、松平何某(なにがし)の知行なり。
庄屋寺村庄右衞門(てらむらしやうゑもん)、起請文を書き、前々の物成帳(ものなりちやう)二つ、取り隱しけるが、頓(やが)て田蟲(たむし)の如くの瘡(かさ)出來(でき)て、總身(そうみ)を喰(く)ひ廻し、咽(のど)ぶえ、少し、明(あ)きけり。
咽ぶえを喰ひつめると、其儘、死して、跡、絕えたり。
彼(か)の明屋敷(あきやしき)の畦(くね)に、長さ二間程周(まは)りに、二尺ばかりの大蛇(おほへび)出でたり。
人々、肝を銷(け)し、見る處に、此蛇、
「木に登る。」
とて、蛭(ひる)を落(おと)す。
跡より、血の出づるを見れば、皆、蛭なり。
斯(か)くのごとく、三十日程、見えたり。
「未(ひつじ)の年、卯月中ごろのことなり。」
と、池内次左衞門、見て、たしかに語るなり。
[やぶちゃん注:「江州かばた村」いろいろ調べて見たが、不詳。郷土史研究家の方の御教授を乞う。
「物成帳」当該の村の田畑から出す年貢の項目と各量を記したものであろう。それは知行者である松平氏が閲し、花押が記されるもので、ここは、それが「起請文」の具体的対象であったのであり、「前々の物成帳二つ」を「取り隱しける」とあることから、それを安く少なく書き変えて偽造し、その誤魔化した分を寺村は自分のものにして私腹を肥やしていたという筋書きであろうか。にしても、書き込みが浅過ぎて、よく判らない。
「田蟲(たむし)の如くの瘡(かさ)出來(でき)て、總身(そうみ)を喰(く)ひ廻し、咽(のど)ぶえ、少し、明(あ)きけり。咽ぶえを喰ひつめると、其儘、死して、跡、絕えたり」この病態はかなり激しいもので、実際の疾患としては、同定し難い。当初は、特徴的な発疹と、皮膚の壊死、喉頭部の穿孔などから、梅毒の末期を考えたが、急激に進行しているようなので、そうなると、最近、「人食いバクテリア」などと呼ばれている劇症型溶血性レンサ球菌感染症辺りが相当するか。
「二間」三メートル六十四センチ。
「跡より、血の出づるを見れば、皆、蛭なり」この辺り、描写が不十分で判り難い。大きな蛇の登って行った木の下で、それを見上げている村人らに、蛭(ヤマビル)がボタボタと落ちて、彼らが気がつくと、既に血を吸われており、皆、体から血を垂らしていたというシークエンスか。それにしても、後半の異様なスプラッター怪異が、グロテスクな前半との因果を持っているようには示されておらず(その猟奇性を楽しんで書いていると言っては失礼か)、如何にも拙速の怪奇談の失敗作にしか見えない。気づいているのだが、ここのところの各篇は、日時は明らかにしているものの、正確な年をぼかしていて(何より、日時の十二支や月を出すぐらいなら、年の正確な干支を出せ! と正三に言いたい気が、このところ、ひどくしているのである。それを気にしたものか、次は年が明らかに出る)、真実性が著しく低下しているように思われる。]
○同州信樂木(しがらき)の中(うち)、杉山村と山城の内(うち)、湯舟村(ゆぶねむら)と山堺(やまざかひ)の論あり。
代官より、檢使(けんし)を立てゝ堺を見るに、杉山の分に見立てたり。
又、前々よりの申し分は、湯舟村の申し分、理(り)なり。
此時、杉山村の者共、
「兎角(とかく)、起請(きしやう)にて、申し分(わ)くべし。」
とて、一村、殘らず、起請文を書きて、山を取るなり。
尤も「白癩黑癩(びやくらいこくらい)」の文(もん)を書入れたり。
正保三年の事なるに、漸(やうや)く、一年過ぎて、慶安二年丑の春、起請文の如く、村中、殘らず癩病を受け、五、六百間(けん)の村、一時に荒れ果つるなり。
「天罰、明(あきら)かなり。」
と、人々、云へり。
其村の樣子、慥(たしか)に見たる、山口市之丞内(うち)の者、語るなり。
[やぶちゃん注:「同州信樂木」「信楽焼」で知られる滋賀県甲賀市信楽町長野を中心とした信楽地区。
「杉山村」信楽町杉山。
「山城」不詳。杉山地区の北西少し離れてある信楽町下朝宮(しもあさみや)の「朝宮城山城跡」を広域地名に用いたものか。
「湯舟村」上記二地区の間に、貫入するように、京都府相楽郡和束町(わづかちょう)湯船(ゆぶね)がここにある。こりゃ、山境の問題が起こるわけだわ!
『「白癩黑癩(びやくらいこくらい)」の文(もん)を書入れたり』「白癩黑癩」はハンセン病の皮膚病変の様態の違いで言われたものに過ぎない。「癩」は現在は「ハンセン病」と呼称せねばならない。抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法らい予防法が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。ハンセン病への正しい理解を以って以下の話柄を批判的に読まれることを望む。寺島良安の「和漢三才図会卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇」(マムシ)の項ではこの病について『此の疾ひは、天地肅殺の氣を感じて成る惡疾なり。』と書いている。これは「この病気は、四季の廻りの中で、秋に草木が急速に枯死する(=「粛殺」という)のと同じ原理で、何らかの天地自然の摂理たるものに深く抵触してしまい、その衰退の凡ての「気」を受けて、生きながらにしてその急激な身体の衰退枯死現象を受けることによって発病した『悪しき病』である。」という意味である。ハンセン病が西洋に於いても天刑病と呼ばれ、生きながらに地獄の業火に焼かれるといった無理解と同一の地平であり、これが当時の医師(良安は医師である)の普通の見解であったのである。因みに、マムシはこの病気の特効薬だと説くのであるが、さても対するところこの「蝮蛇というのは、太陽の火気だけを受けて成った牙、そこから生じた『粛殺』するところの毒、どちらも万物の天地の摂理たる陰陽の現象の、偏った双方の邪まな激しい毒『気』を受けて生じた『惡しき生物』である。」――毒を以て毒を制す、の論理なのである――これ自体、如何にも貧弱で底の浅い類感的でステロタイプな発想で、私には実は不愉快な記載でさえある。――いや――実はしかし、こうした似非「論理」似非「科学」は今現在にさえ、私は潜み、いや逆に、蔓延ってさえいる、とも思うのである……。因みに、私の亡き母聖子テレジア(筋萎縮性側索硬化症(ALS)による急性期呼吸不全により二〇一一年三月十九日午前五時二十一分に天国に召された)は独身の頃、修道女になろうと決心していた。イタリア人神父の洗礼を受けて笠井テレジア聖子となった。彼女は生涯を長島のハンセン病患者への奉仕で生きることまで予定していたことを言い添えておく。さて。ハンセン病は永く、その皮膚病変のさまから、「生きながらにして地獄の業火に焼かれている罪深い病い」として、民俗社会に於いて強く忌避されていたのであった。そのために、本朝中世の十二世紀の起請文の罰文に、「白癩・黒癩」の文言が出現しているのである。これは神に誓って違うことはないという決まった文言の一つとして、もし、誓約に背いた場合には、「現世ニハ受白癩黑癩之病」と記したのである。
「正保三年」一六四七年。
「一年過ぎて、慶安二年」(一六四九年)「丑の春」春なので、この年を数えに入れず、実質的な計算から「一年過ぎて」としたものである。
「五、六百間の村」九百九メートルから約一キロに広がってあった村。]
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