鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「二十一 慳貪者生ながら餓鬼の報いを受くる事 附 種々の若を受くる事」 / 「因果物語」本文~了
鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「二十一 慳貪者生ながら餓鬼の報いを受くる事 附 種々の若を受くる事」 / 「因果物語」本文~了
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]
二十一 慳貪者(けんどんしや)生(いき)ながら餓鬼の報いを受くる事
附種々(しゆじゆ)の若(く)を受くる事
江州肥野(ひの)の谷(たに)、石原村に道節(だうせつ)と云ふ福人(ふくにん)、有り。慳貪(けんどん)、無道心なること、類ひ無し。
七十歲にて、生きながら、餓鬼と爲つて、大食(たいしよく)、限り無し。一日に四、五升、飯(めし)喰(く)ひして、終(つひ)に、あがき、死す。
六十日目に、己れが婦(よめ)に取り憑き、
「飯、喰ひたし、飯、喰ひたし、」
と、呼ばはること、十日ばかりなり。是は、樣々、吊(とむら)ひければ、頓(やが)て本復(ほんぶく)す。
彼(か)の道節兄(あに)も、乾(かわ)き病(やまひ)にて、大食、限り無し。大桶(おほをけ)に食(めし)を入れ、晝夜(ちうや)共に、喰(く)ひ次第に喰はせけるが、百日程、際限もなく喰ひて、終に死しけり。
大塚(おほつか)にて、確(たしか)に聞くなり。
[やぶちゃん注:「江州肥野の谷、石原村」滋賀県蒲生郡日野町(ひのちょう)石原。
「福人」金持ち。
「慳貪」吝嗇(けち)で欲張りにして、無慈悲なこと。
「乾き病」この場合は、異常な多食症状を指す。]
〇江州かばた村、孫右衞門と云ふ者、法體(ほつたい)して西源(せいげん)と名付く。
或夜(あるよ)、大入道(おほにふだう)に責(せめ)られ、其後(そのゝち)、荒男(あらをとこ)に縛り吊(つる)され、火に入れ、水に入れ、色々、呵責(かしやく)せらるゝ程に、後(のち)には雪隱(せついん)などに隱れけれども、尋ね出(いだ)して責め、終(つひ)には、五十日程に、責め殺されたり。所の代官治右衞門、語るを、平右衞門、聞きて語るなり。
[やぶちゃん注:「江州かばた村」『中卷「三 起請文の罰の事」』にも出たが、不詳。再度、識者の御教授を乞う。滋賀県針江の古くからある浄水システム「かばた」(川端)は知っているが、ここは確かな村名である。ただ、今回、「代官」の名として「治右衞門」が出たので、これがヒントにはなりそうだ。但し、変名(特に代官職の場合、可能性が高い)であるとすると、お手上げである。
「雪隱」せっちん。便所。]
〇越前鶴河(つるが)に、隱れ無き分限者、有り。貪慾深き者なり。
寬永廿年六月の末(すゑ)に、難病を受け、眼(まなこ)を皿程に見出(みいだ)し、金銀を取出(とりいだ)し、積ませ、
「此の金にて、養生して、命を助けよ。」
と云ふて若(くる)しみけり。
「今日(けふ)、死ぬ、今、死ぬ、」
と云ふて、廿日程、强く若痛(くつう)して、怖しき有り樣(さま)にて、死す。
押籠(おしこめ)て置くに、又、活返(いきかへ)り、匍(は)ひ回りけるを、敲(たゝ)けども、死せず。
爲方無(せんかたな)く、終(つひ)に、切り殺すなり。
死骸の捨樣(すてやう)、知りたる者、なし。
[やぶちゃん注:「鶴河」福井県敦賀。
「寬永廿年」一六四三年。]
〇京、西魚屋町(にしうをやまち)に、骨屋與宗右衞門(ほねやよそうゑもん)と云ふ者、有り。内裏樣(だいりさま)へ肴(さかな)を上ぐる魚屋なり。
勝(すぐ)れて慳貪の者なりしが、老いて後(のち)、本願寺にて、剃刀(かみそり)を頂き、法體(ほつたい)せんとするに、髮、更に、切れず。
剃刀、七本、合(あは)せて、取替(とりか)へ、取替へ、剃れども、切れず。
餘(あま)り、爲方なく、鋏(はさみ)にて、鋏み切りて置きけり。
死期(しご)に、火の病(やまひ)を受け、狂ひける程に、數多(あまた)、看病して居(ゐ)たるに、何(いつ)の間(ま)にか、井(ゐ)の中へ入りて、死にけり。
寬永十七年の事なり。
水翁(すゐわう)、物語(ものがたり)なり。
[やぶちゃん注:「京、西魚屋町」「江戸怪談集(中)」の注に、『中京区竹屋町押小路通柳馬場西入』(たけやちょうおしこうじどおりやなぎのばんばにしいる)『のあたりにあった』とある。この附近。
「火の病」重傷の熱病。冷やしたくなる故に井戸に入水したのであろう。熱性マラリアと思われる。
「寬永十七年」一八四〇年。]
〇攝州大坂、天滿(てんま)、高倉屋庄衞門と云ふ者の母、勝(すぐ)れて慳貪なる者にて、恒(つね)に婦(よめ)を、せこめけること、限りなし。
七十餘歲にて、煩ひ付き、命限(いのちかぎ)りの時、怖しき有樣(ありさま)にて、死す。
三日目、大(おほき)なる蟇(かへる)、蚊屋の内へ入(い)つて、婦に喰(く)ひ付くこと、度々なり。
下女、心得て、此の蟇を捉(とら)へて、耻(はぢ)しめ、惡口(あくこう)して、敲き出(いだ)しければ、再び、來たらず。
其後(そのゝち)、婦を許して、寺社堂塔へ參詣させし、となり。
[やぶちゃん注:「攝州大坂、天滿」
「せこめけること」「せこめる・せごめる」(他動詞マ行下一段活用)或いは「せこむ」(同下二段活用)は「責める・いじめる・虐待する・ひどい目にあわせる」の意。鎌倉中期の経尊(きょうそん)の著になる建治元(一二七五)年成立の語源辞書「名語記」(みょうごき)に既に載る。同書は当時の語彙を、まず、音節数で分類し、次いで第二音節までを、イロハ順に配列、相通・反音・延音・約音などを用いながら、語源を問答体で記してある。なお「名」は「体言」を、「語」は「用言」を指し、他に「テニハ」などの名称もあって、品詞分類の萌芽が見られる辞書とされる(書名解説は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「大なる蟇(かへる)」ヒキガエル。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」を参照されたい。
「心得て」蟇がその「高倉屋庄衞門」の亡き母の変じたものだと判って。
「耻しめ、惡口して」ここでは、ヒキガエルに正面から向って立ち、母の名をじかに名指して、かく、したものであろう。こういう場合、民俗社会では、相手の正体を正しく先に名指すことで、対象者たる鬼神や変化(へんげ)の物は、後手に回る側に落ち、引いては、退散するケースが多いからである。
「婦を許して」亡き母が主語である。今までの本書に例を見るに、彼女の夢に出て、「寺社堂塔へ參詣」して菩提を弔って呉れ、とでも言ったというのであろう。]
〇京、新在家(しんざいけ)、角屋永春(かどやえいしゆん)、女房、常に煩ひ故、永春、悔いて、
「町人は、女房の營(いとなみ)を以つて、世を渡るに、其方(そのはう)が樣(やう)に、常に煩ひて、何の用(よう)にも立たず、男の若勞(くらう)になる。死なば、早く、死にもやらで。」
と、折々、云ひける處に、女房、煩ひ、重り、死期(しご)に及ぶ時、永春を近付(ちかづ)けて、「我、日比(ひごろ)、煩ふに付き、『早々(はやはや)、死ねがし。』と、度々(たびたび)申されけるが、唯今、相果(あひは)つる間(あひだ)、定めて、本望たるべし。」
と云ふ。
永春も、少し、いぶせく思ひ、何かと、陳(ちん)じけれども、女房、聞きも入れず、終(つひ)に死す。
さて、一兩日、過ぎて、夜半(やはん)の比(ころ)、永春が家へ、裏の口を敲(たゝ)く。
永春、寢間(ねま)近き間(あひだ)、起きて、
「何者ぞ。」
と云へば、我(わが)女房の聲にて、
「此の戶を、明け給へ。」
と云ふ。
永春、以つての外に驚き、寢間へ逃入(にげい)り、戶を鎖(さ)して居(ゐ)けるに、
「此の戶を明け給はずは、表の口ヘ廻(まは)るべし。」
と呼(よば)はると否(いな)や、表の戶を、
「さらり」
と明けて、寢間へ走り入つて、永春が肩に、したゝかに、咬(く)ひ付く。
内の者ども、聞き付け、火(ひ)を燃(とも)して見れば、永春、殺入(せつじ)す。
其家(そのいへ)の向かひに、宗愚(そうぐ)と云ふ醫者、有り。呼び寄せ、氣付(きつけ)を與へければ、漸々(やうやう)、活(い)き返る。
此の疵(きず)、癒えて後(のち)まで、牙痕(はあと)、失せず。
同じ町の正庵(しやうあん)と云ふ人、委しく知つて語るなり。
寬永の初めの事なり。
因果物語下卷大尾
[やぶちゃん注:「京、新在家」地名。「江戸怪談集(中)」の注に、『上京区中立売通新元町』(なかだちうりどおりしんもとちょう)『のあたりの旧地名』とある。ここ。
角屋永春(かどやえいしゆん)、女房、常に煩ひ故、永春、悔いて、
「少し、いぶせく思ひ」ちょっと気詰まりに思って。
「何かと、陳(ちん)じけれども」いろいろと、弁解して謝ったりしたが。
「殺入」既出既注。「絕入」(ぜつにふ(ぜつにゅう))に同じ。気絶すること。
「寬永の初め」寛永は元年は一六二四年で、寛永二十一年まで。
この後に奥附があるが、私の底本と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの画像の当該リンクに留める。]
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