「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 千人切の話(その3)
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(左ページ二行目。底本も改行されてある)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で「選集」を参考(「選集」は漢文部が編者によって訓読されてある。但し、現代仮名遣という気持ちの悪いもの)に訓読を示した。なお、本篇は、やや長いので、分割した。]
指鬘《しまん》、梵語で鴦窶利摩羅(あんぐりまありや)、略して央掘摩《わうくつま》と書く。劉宋の世《よ》、支那え[やぶちゃん注:ママ。]來たりし印度僧、德賢(ぐにやばあどら)所譯『央掘摩羅經《あうくつまらきやう》』によれば、佛、在世に、舍衞城の北、薩那(さつな)村に梵種の貧女(ひんぢよ)賢女(ばあどら)と名《なづ》くる有り。男兒を產み、一切世間現(いつさいせけんげん)と名く。少(せう)にして、父、死す。十二歲にして、人相色力《にんさうしきりき》、具足し、聰明辨才あり。無垢賢(まにばあどら)と云《いへ》る梵師に學ぶ。或日、師王の請《せい》を受け、世間現に、留守、賴み、出で往く。師の妻、年若く、美人なりしが、世間現を見て、染着(せんちやく)し、忽ち、儀軌を忘れ、前(すゝ)んで其衣を執る。世間現、「師の妻はわれの母に齊《ひと》し。如何《いかん》ぞ非法を行はん。」とて、衣を捨てゝ、之を避く。彼《かの》婦、慾心、熾盛(さかん)にて、泣《なき》て念ずらく、『彼れ、意に隨はず。要(かなら)ず、彼を殺し、更に他の女を娶《めと》らざらしめん。』と。卽ち、自攫二其體一、婬亂彌熾、自燒成病〔自(みづ)から其の體を攫(つか)み、婬亂、彌(いよい)よ、熾(さか)んにして、自ら、燒きて病ひと成る。〕、女人、得意の謟(いつはり)を行ひ、其身を莊嚴(かざり)たて、繩もて、自ら縊《くく》り、足、地を離れず。夫、歸り來り、刀もて、繩を截(た)ち、大《おほい》に叫んで、「誰《た》が所爲(しわざ)ぞ。」と問h。婦、答ふらく、「是れ、世間現、非法を行なはん迚《とて》、吾に强逼(きやうふく)し、斯《かく》行へり。」と。夫、無垢賢、豫(かね)て、世間現、生まれし日、一切王種所有の刀劍、自《おのづか》ら拔け出で、捲屈(まきかがん)で、地に落《おち》たる瑞相より推して、此人、大德力あるを知り、『迚(とて)も自分の手に及ばぬ奴。』と思ひければ、『何とかして、自滅させ遣《やら》ん。』とて、世間現を招き、「汝は惡人也。所尊(めうえ[やぶちゃん注:ママ。])を毀辱(きじよく)せり。千人を殺して罪を除《のぞ》け。」と命ず。世間現、天性、恭順、師の命を重んず。卽ち、師に白(まを)す。「千人を殺す事、我《わが》志に非ず。」と。師、之を强《しひ》しかば、止むを得ず、承諾す。師、又、告ぐ。「一人を殺す每に、其指を取《とり》て鬘《まん》と作し、千人の指を、首に冠《かふぶ》りて還らば、婆羅門となるべし。」と。これより、世間現を指鬘と名く。已に九百九十九人迄殺し、「今一人で事濟(すむ)べし。」と、血眼に成《なり》て暴れ廻る處へ、其母、彼の饑(うえ[やぶちゃん注:ママ。])たるを察し、自ら四種の美食を持ち、送り往く。子、母を見て、『我母を千人の員(かず)に入れ、天上に生まれしむべし。』迚、劍を執《とり》て之を殺さんとす。その時、世尊、一切智もて、此事を知り、忽然、指鬘の前に現ぜしかば、「我れ、母の代りに、この者を殺すべし。」と、斬懸《きりかか》りしも、佛、神足もて、斬られず、反つて偈(げ)を說《とき》て、母恩の大なるを曉(さと)し、指鬘を降伏して、得道し、羅漢と成《なら》しむ。然れども、多く人を殺せし報いに因《より》て、日夜、血の汗、衣を徹《とほ》せりと云ふ。玄奘の『西域記』に、「指鬘が母を殺さんとして、佛に降伏されし故蹟を覩(み)たり。」と記せり。『增一阿含經(ぞういちあごんきやう)』卷三に、釋尊、自ら、諸弟子を品評せる内、我聲聞中第一比丘、體性利根、智慧深淵、所謂央掘魔比丘是也〔我聲聞中(わがこゑぶんちゆう)第一の比丘は、體性(たいしやう)、利根にして、智慧、深遠なり。所謂(いはゆる)、央据魔比丘(わうくつまびく)、是れなり。〕。と見え、卷卅一に、「央据摩千人切」を說く、略《ほぼ》上文に同じく、其得道の後、「我、賢聖に從《したがひ》て生《しやう》じ、以來、殺生せず。」と、至誠の言を持して、難產婦人を安產せしめたり、と見ゆ。罪深かりし丈《だ》け、中々の俊傑と思はる。
[やぶちゃん注:「指鬘」「鴦窶利摩羅(あんぐりまありや)」「央掘摩」既注のアングリマーラ。
「劉宋」南宋(四二〇年~四七九年)のこと。「劉」は帝の姓。
「德賢(ぐにやばあどら)」詳細事績不詳。
「央掘摩羅經」は「大蔵経データベース」では、経典引用はあるが、全経典の電子化が見当たらない。但し、「大方廣佛華嚴經隨疏演義鈔」にいほぼ同一の文字列を確認出来た。他にも複数の中文サイトの当該経のものも参考にして校合した。一九九一年河出書房新社刊の『河出文庫』中沢新一編《南方熊楠コレクションⅢ》「浄のセクソロジー」所収の本篇の注によれば、『四巻。宋の求那跋陀羅訳。仏弟子の一人、央掘魔羅の経歴を大乗的に脚色して述べた経典』とある。
「舍衞城」サンスクリット語「シュラーバスティー」の漢音写。釈迦在世当時、北インドにあった憍薩羅(かまら)国の首都の名。波斯匿(プラセーナジット)王の統治下にあり、後に釈迦族は、その子、毘瑠璃(ヴィルーダカ)王に亡ぼされた。都城南方の祇園精舎は著名。現在のウツタル・プラデシュ州のサヘート・マヘート(グーグル・マップ・データ)一帯に相当する。
「薩那(さつな)村」不詳。
「梵師」バラモン僧。後に「無垢賢」と出るのも彼を指す。
「强逼(きやうふく)」強迫に同じ。
「所尊(めうえ)」目上。
「毀辱(きじよく)」謗(そし)り辱(かづかし)めること。
「鬘」「かづら(かずら)」。髪飾り。ここは殺した人の指を一本斬り取り、蔓草にそれ連ねた飾としたものを指す。「ユニバーサル・ソルジャー」のドルフ・ラングレンが演じた彼が、ベトナム戦争中に殺した人の耳を繋げて首にかけてニヤっとしていたのを思い出す。
「增一阿含經」は「大蔵経データベース」で「增壹阿含經」でヒットし、同一の文字列を確認出来た。同前の「浄のセクソロジー」所収の本篇の注によれば、『四『阿含経』(長・中・雑・増一)の一つ。五一巻。東普の瞿曇僧伽提婆』(くどんそうぎゃだいば)『訳。『阿含経』は原始仏教の経典で実際にブッダが説いたと思われる言葉が含まれている』とある。 ]
戰國より織・豐二氏の頃、首供養と云ふ事有り。例せば『氏鄕記』に、村瀨又兵衞、首取村瀨と云ふ。首供養、三度迄、せり。無智の者故、氏鄕、五百石與へしを、不足にて、「千石、賜え。」と愁訴す。とかくしてあるうち、毒蕈(どくきのこ)を食《くら》ひ、死せりと云ひ、『常山紀談』に「『別所家《べつしよけ》にて、首供養したる人有り。』と孝隆《よしたか》(黑田)、聞きて、「秦桐若(はだ きりわか)、首、三十一、取りたるに、惜しむべきは、死したりき。吉田六之助正利、供養すべし。」と言《いは》れしに、正利、「首數《くびかず》、二十七、取りて候。』とて、辭したりけり。孝隆、「小氣《せうき》なる男哉《かな》。今、卅一歲也《なり》。此後、首取る間敷《まじき》とや。先づ、供養して、後に、其數を合《あは》せよ。」とて、米百石、與へ、供養して、播州靑山の南に塚を築きたり。後、所々の合戰、朝鮮の軍《いくさ》迄に、取《とり》たる首、五十に及べり」と載す。惟《おも》ふに田代孫右衞門(西鶴は源右衞門、又、如風とし、『繪本合邦辻』には彌左衞門とせり)、若かりし時、戰場で、首、多く取り、又、辻切《つじぎり》抔(など)試みける人の、老後、天王寺内に首供養の塚を築き、碑を立てたるを、千人切りの石塔と略傳せしならん。扨《さて》、後年、上出《じやうしゆつ》佛經諸說を附會して、千疋切りの譚、出で來し物歟。
[やぶちゃん注:「氏鄕記」戦国武将蒲生氏郷の事跡を記した書。似たようなものに「蒲生氏郷記」があるが、別本。国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧」第十四冊で並んで掲載されている。ここからが、「氏鄕記」。二度、探して、やっと見つけた。ここの右ページ最終行から次のページの六行目まで。
「常山紀談」江戸中期の随筆・史書。正編二十五巻・拾遺四巻に付録「雨夜灯」(あまよのともしび)一巻で全三十冊から成る。儒者で備前岡山藩士の湯浅常山の著になる。元文四(一七三九)年の自序があり、原型は其頃に成ったと思われるが、刊行は著者没後三十年程後の文化・文政年間(一八〇四年~一八三〇年)。戦国から江戸初頭の武士の逸話や言行七百余を諸書から任意に抄出して集大成したもの。著者自らが「ここに収めた逸話は大いに教訓に資する故に、事実のみを記す」と述べている通り、内容は極めて興味深いエピソードに富み、それが著者の人柄を反映した謹厳実直な執筆態度や平明簡潔な文章と相俟って多くの読者を集めた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。私も好きな本で、所持する岩波文庫版で読みを添えた。]
「別所家」播磨の戦国大名を輩出した氏族。
「孝隆(黑田)」竹中半兵衛重治とともに秀吉の参謀として知られる黒田如水孝高(よしたか)のこと。「孝隆」は初名「祐隆」から改名した時の名で、後に「孝高」と変えている。
「秦桐若」黒田孝高の家臣秦桐若丸(はた(はだ)のきりわかまる 天文一一(一五四二)年~天正一三(一五八三)年)。当該ウィキによれば、播磨国生まれで、『黒田家中で軍功を挙げ』、『関西から中国地方にかけての習慣となっていた、首を』三十三『個取った者が行う首供養を最初に行った』。「山崎の戦い」(天正一〇(一五八二)年六月二日の「本能寺の変」を受け、同年六月十三日に摂津国と山城国の境の山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町)から勝龍寺城(同前で京都府長岡京市)一帯で、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、明智光秀の軍勢が激突した戦い)での『負傷が元で、翌』『年』『に亡くなった』。一丈(約三メートル)の『旗指し物に唐団扇(とううちわ)を使用していた。これを見た敵は近付けず、近付いてから掲げられれば』、『驚き引き退いたと言われる』。「新書太閤記」では、十『人力の壮士であり、「黒田の十団子」と世に知られ』、「山崎の戦い」にあっては、『踏み止まって』、『寄せ手を持て余させていた明智方に対』した。『左右から切りかかる藤田藤蔵、藤田伝兵衛を切り、そこへ槍で突きかかってきた奥田市助、溝尾五右衛門を』、三『ヶ所の傷を負いながら』、『これも切り倒した。しかし、翌年の正月、湯治していた有馬温泉の湯を飲んで』、『腹痛を起こし、傷が破れて』、四十『歳で亡くなったとされている』とある。毒茸に、有馬の湯と如何にもしょぼ臭い死に様は……何やらん、数多の首の怨念か……
「吉田六之助正利」黒田二十四騎の一人に吉田長利(天文一六(一五四七)年生まれ)がおり、同じ一人に菅(かん)正利(永禄一〇(一五六七)年)がいる。後者は数え十五で小姓として出仕した折り、孝高の命によって吉田長利(六郎太夫)の武運にあやかるように「六之助」を名乗っている。「今、卅一歲」とあること、「播州靑山」(兵庫県姫路市青山)「の南に塚を築」いたこと(吉田は、姫路のすぐ北の八代山に城を構えていた八代道慶の子として生まれている。一方の菅は、父の代に播磨国越部(この附近)に移り住んでいるので、決め手にならない)、「朝鮮の軍」(「文禄・慶長の役」はグレゴリオ暦一五九二年から一五九八年までであるが、二人ともに従軍して活躍しているのでこれもダメ)のに出て活躍したという三つが正しく一致するのは、年齢が決め手となった。それは、先の秦桐若が亡くなった天正一三(一五八三)年の時点で吉田長利は既に数え三十七になってしまっているからで、これは菅六之助正利の誤りであることが判った。]
多くの動物を殺して、人を呪詛する事、眞言の諸方に屢《しばし》ば、見え、支那にも巫蠱(ふこ)の蠱の字は、皿に蟲を盛れるに象《かたど》る。『康煕字典』に『通志・六書略《りくしよりやく》』を引《ひき》て、造ㇾ蠱之法、以二百蟲一置二皿中一、俾二相啖食一、其存者爲ㇾ蠱。〔蠱(こ)を造るの法は、百蟲を以つて皿の中(うち)に置き、相(あひたが)ひに啖-食《くら》はしめ、其の存(そん)する者を蠱と爲(な)す。〕とあり、『焦氏筆乘』續集五に、江南之地多ㇾ蠱、以二五月五日一、聚二百種蟲一、大者至ㇾ蛇、小者至ㇾ虱、合置二器中一、令二自相啖一、因ㇾ食入二人腹内一、食二其五臟一、死則其產、移二蠱主之家一(下略)。〔江南の地に、蠱、多し。五月五日を以つて、百種の蟲を聚(あつ)む。大(だい)なる者は蛇に至り、小なる者は虱(しらみ)に至る。合はせて器中(きちゆう)に置き、自(みづ)から相ひ啖(く)はしむ。食(しよく)に因りて、人の腹の内に入(い)るれば、五臟を食らひ、死すれば、則ち、其の產は、蠱主の家に移る。(下略)」〕。今も後印度(こういんど)に斯《かか》る法を行ふ者有り。田代が龜を殺さんとせし時、龜、手・足・首を出ださずと云《いへ》るは、『雜阿含經《ざふあごんきやう》』卷四十三に、龜蟲畏二野干一、藏二六於殼内一、比丘善攝ㇾ心、密藏二諸覺想一、不ㇾ依不二怖畏一、覆ㇾ心勿二言說一〔龜蟲(かめ)は野干(やかん)を畏れ、六(ろく)を殼(かく)の内(うち)に藏(かく)す。比丘は、善(よ)く心を攝(をさ)め、密(ひそ)かに諸(もろもろ)の覺想(かくさう)を藏す。依らず、彼(かのもの)を怖れず、心を覆《おほ》ひて、言說する勿(なか)れ。〕、比丘(びく)が、能く口を愼むを、龜が首尾手足を藏して、野干に喫(くらは)れざるに比せるに出づ。扨、『本草』に、贔屓《ひき》は大龜の屬、好んで重きを負えば[やぶちゃん注:ママ。]、今、石碑の下の龜趺(かめいし)、其形に象ると云ふ。此風を傳えて[やぶちゃん注:ママ。]、田代氏が建《たて》たる碑にも、龜狀の座石《すへいし》を設けたるを、藏六の譬喩と合せて、彼人(かれ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]龜を殺さんとして、母に妨げられし、と作りしなるべし。『類聚名物考』千人斬りの條の次(あと)に、短く指鬘のことを列せるも、田代氏のことを序《のべ》ず。序(つひで)に言ふ、紀州日高郡、寒川(さむかは)の大迫《おほさこ》某、銃獵の名人で、百年許り前、千疋供養を營めりと、その後胤《こういん》西面欽一郞《にしおきんいちらう》氏より聞く。
[やぶちゃん注:「巫蠱(ふこ)」「蠱毒」「蠱術」「蠱道」などとも呼ぶ、古代中国において用いられた呪術で、一般的にはブラック・マジックに属するネガティヴなものを指す。当該ウィキによれば、『動物を使うもので、中国華南の少数民族の間で受け継がれている』。『犬を使用した呪術である犬神、猫を使用した呪術である猫鬼などと並ぶ、動物を使った呪術の一種である。代表的な術式として』明代の楼英の撰になる「医学綱目」(一五六五年刊)の『巻二十五の記載では「ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いさせ、勝ち残ったものが神霊となるため』、『これを祀る。この毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、思い通りに福を得たり、富貴を図ったりする。人がこの毒に当たると、症状はさまざまであるが「一定期間のうちにその人は大抵死ぬ」と記載されている』。『古代中国において、広く用いられていたとされる。どのくらい昔から用いられていたかは定かではないが、白川静など、古代における呪術の重要性を主張する漢字学者は、殷・周時代の甲骨文字から蠱毒の痕跡を読み取っている』。『「畜蠱」(蠱の作り方)についての最も早い記録は』、「隋書」の「地理志」にある『「五月五日に百種の虫を集め、大きなものは蛇、小さなものは虱と、併せて器の中に置き、互いに喰らわせ、最後の一種に残ったものを留める。蛇であれば蛇蠱、虱であれば虱蠱である。これを行って人を殺す」といったものである』。『中国の法令では、蠱毒を作って人を殺した場合』或いは『殺そうとした場合』、さらに『これらを教唆した場合には死刑にあたる旨の規定があり』、「唐律疏議巻十八では絞首刑、「大明律」巻十九や、「大清律例」巻三十では『斬首刑となっている』。『日本では、厭魅(えんみ)』(「魘魅」とも書く。咒(まじな)いで以って人を呪い殺すこと。或いは、呪法によって死者の体を起こして、これに人を殺させるゾンビ様のものも含まれる)『と並んで「蠱毒厭魅」として恐れられ、養老律令の中の「賊盗律」に記載があるように、厳しく禁止されていた。実際に処罰された例としては』、神護景雲三(七六九)年に、女官の『県犬養姉女』(あがたのいぬかいのあねめ)『らが不破内』(ふわない)『親王の命で』、『蠱毒を行った罪によって流罪となったこと』、宝亀三(七七二)年に『井上内親王が蠱毒の罪によって廃されたこと』『などが』「続日本紀」『に記されている。平安時代以降も、たびたび詔を出して禁止されている』とある。
「通志・六書略」南宋の歴史家鄭樵(ていしょう)が書き、一一六一年に板行された優れた史書。形式は断代史を批判して通史である「史記」に倣い、三皇から隋唐各代までの法令制度を記録する。全書二百巻に、考証三巻を付け加え、紀伝体としての帝紀十八巻・皇后列伝二巻・年譜四巻・二十略五十一巻・列伝百二十五巻を包括しているが、中でも二十略が最も高く評価される。二十略は紀伝体における「書」・「志」といった分野をより拡充したもので、従来の政治史や人物伝に偏りがちな歴史の記述・論評を、様々な学術分野の発展の様子に重きを置いたものにしたいという抱負から生まれたものである。その「六書略」は巻三十一から三十五までで、「漢字の成り立ち」について記されたものである(以上は当該ウィキに拠った)。
「俾」は使役の助字。
「焦氏筆乘」明の儒学者で歴史家の焦竑(しょうこう 一五四〇年~一六二〇年)の随筆。「中國哲學書電子化計劃」の同書の影印本の当該箇所で校合し、熊楠の返り点もおかしいので、勝手に手を加えた。
「死則其產、移二蠱主之家一」の「產」は、一見、その蠱毒の対象生物が、もともとその蠱を作った主人の家に戻るという意味に見えるが、私は中国の蠱毒が、怨念に加えて、さらに極めて現実的利益に係わることから、蠱毒で死んだ者の全財「産」は蠱を作った者の物になるという意味でとった。中国の志怪小説では、そうしたケースが、結構、多いからである。
「後印度(こういんど)」東南アジアの欧米人による旧称。「後インド」(英語:Further India)。
「雜阿含經」の部分は「大蔵経データベース」で校合し、そこに附帯する別な版本の正字を採用した。
「野干」原仏典のそれはインドに棲息するジャッカルを指すが、ジャッカルがいない中国では、キツネに似た妖獣として認識され、本邦では、専ら、狐の異名となってしまった。「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(5:狼)」の私の『家犬の祖先が狼また「ジヤツカル」より出たるは、學者間既に定論あり』の注で詳しく考察した。
「贔屓《ひき》」読みは「ひいき」ではないの注意(但し、意味は以下に示される通り、これに基づく)。当該ウィキによれば、『中国における伝説上の生物。石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と言う』。『中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ』九『頭の神獣・竜生九子の一つで、その姿は亀に似ている。重きを負うことを好むといわれ、そのため』、『古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。日本の諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺だが、その由来は、柱の土台である贔屓を引っぱると』、『柱が倒れるからに他ならない』。『「贔屓」を古くは「贔屭」と書いた。「贔」は「貝」が三つで、これは財貨が多くあることを表したもの。「屭」はその「贔」を「尸」の下に置いたもので、財貨を多く抱えることを表したものである。「この財貨を多く抱える」が、「大きな荷物を背負う」を経て、「盛んに力を使う」「鼻息を荒くして働く」などの意味をもつようになった』。『また』、『「ひき」の音は、中国語で力んだ時のさまを表す擬音語に由来する』。『明代の李東陽』(一四四七年~一五一六年)『が著した』「懐麓堂集」や、明の文人楊慎(一四八八年~一五五九年)が著した「升庵外集」に『その名が見られる』とある。リンク先に中国の当該物の画像があるが、事実、中国では頻繁に見かけたし、本邦でも、名刹の碑文の台によく認められる。
「田代氏が建たる碑にも、龜狀の座石を設けたる」先に注したが、再掲すると、天王寺の同碑のサイド・パネルにある一枚の塔全景の画像を拡大して、その台部分を見ると、カメの形であることが判る。]
「藏六の譬喩」「亀は六を蔵す」は「法句譬喩経」(ほっけひゆきょう)にも書かれていることを指す。カメが手足四肢と首部と尾部の「六つの体部」を甲の内に蔵し、他物に傷けられぬようにすることを、人が「六根」(外界と直接に接する眼・耳・鼻・舌・身及び意(それらの刺激に連関して発生する内的意識・認識)を守って外界の無常なる何物にも迷わされぬことに譬えたもの。
「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。当該箇所「千人切」は国立国会図書館デジタルコレクションのここにある(「人事部」の一条。左ページ下段)。
「紀州日高郡、寒川」和歌山県日高郡日高川町(ひだかちょう)寒川(そうがわ)。
「西面欽一郞氏」(明治七(一八七四)年~昭和三(一九二八)年)は所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九四年講談社刊)によれば、兵生の『富豪』で、熊楠を招かれて、『四十日余り厄介にな』ったとあり、また、「南方熊楠顕彰会のスタッフブログ」の二〇一四年二月八日の記事「本日より開催!! 西面欽一郎・賢輔兄弟展」によれば、『二川村兵生(現田辺市中辺路町)の製材所を南方が植物採集のため訪れてから』(明治四三(一九一〇)年十一月か~十二月頃)『親交が深まり』、欽一郞の『弟の賢輔』ともに、『植物・民俗資料の採集、神社合祀反対運動及び復社運動(上山路村丹生ノ川の丹生神社、龍神村三ツ又の星神社)』(ここが星神社(グーグル・マップ・データ)。そこから南西三キロ弱離れた丹生ノ川(にゅうのがわ)川畔に「丹生神社」が確認出来る)『を通じて南方と文通した』。『欽一郎は、大正年間』には『上山路村長を』十三『年間務め』たとあり、兄弟ともに『日高郡上山路村大字丹生ノ川(現田辺市龍神村)に生まれ』であるとある。既出既注。]
上述、阿武隈川の源左衞門、知れぬ人に父を討たれ、無念晴しに千人切りを爲せり、と謠曲に有るより、事、相似《あひに》たれば、西鶴、混じて、田代孫右衞門を源右衞門と作(なせ)るか、件《くだん》の謠曲の源左衞門が事と、田代氏の事、頗る、馬來(まれー)人、又「ブギ」人に發生する、「アモク」症に似たり。乃《すなは》ち、彼輩《かのはい》、負債・離別・責罰等で、不平極《きはま》る時、忽ち、發狂して、前後を覺えず、短劍を手にし、出逢ふ男女老幼を刺し盡さんとして息《や》まず、遂に群集に殺さるゝを、衆、之を賞讃の氣味あり。五十六年前、「ワリス」氏、「マカッサー」島で見聞せしは、斯《かか》る事、月に平均、一兩回有り、每囘、五人、十人、又、廿人も、之に遇《あひ》て殺傷されし、となり(氏の『巫來群島記(まれー・あーきぺらご)』十一章)。印度にも、一六三四年、「ジョドプル王(ラジヤ)」の長男、「ジャハン皇(シヤア)」の廷内に「アモク」し、皇(シヤア)を討洩《うちもら》せしが、其臣五人を殺し、十八世紀に「ジョドプル」王の二使、主人と「ハイデラバッド王(ラジヤ)」の爭論に就き、協議すとて、「ハイデラバッド」に往き、突然、起(たつ)て、王(ラジヤ)を刺し、幷(なら)びに、其二十六臣を殺傷して殺されたり(『大英類典(エンサイクロペヂヤ・ブリタニカ)』十一板、卷一)。『武德編年集成』二五に出《いで》たる、平原宮内が、家康の陣營に、突然、闖入して廿七人を殺傷し、自分も殺されたは、隨分、似て居る。
[やぶちゃん注:「アモク」amuck。本来はマレー人に見られる攻撃的な精神錯乱の発作を指す語。マレー語「amog」に由来するが、この語源を遡ると、「決死隊の戦士」を意味する「アムコ」(amuco)から出ているという。この発作が起こると、激しい興奮状態の下(もと)で、破壊的な攻撃性を示し、刀で人に切りかかったりするが、遂には、疲労困憊して倒れ、あとに記憶の欠損が残る。このアモクを、初めて精神医学の立場から記述したのが、ドイツの、かのクレペリンで(一九〇九年)、彼はこれを癲癇・マラリア・脳梅毒・ハシーシュ中毒・熱射病に伴う反応性精神病、或いは躁病の一型などと考えたが,近年では、一種のヒステリー性朦朧状態ととる人が多い(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。しかし、私はこれはマレー人や「ブギ」人(不詳)に限ったものではなく、恐らくは、例えば、未開民族が急激な文明の侵入によって理解不能となること、文字通りの「カルチャー・ショック」の反応性の強い攻撃的なヒステリー症状とみて間違いないと思う。幕末の「ええじゃないか」と、その根っこは共通である。
「月に平均、一兩回」月平均で、必ず一回、或いは、二回。
『「ワリス」氏』「巫來群島記(まれー・あーきぺらご)」インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線「ウォレス線」で知られるイギリスの博物学者・進化論者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)の‘The Malay Archipelago’(「マレー諸島」・一八六九年刊)。
『「マカッサー」島』恐らくは、インドネシアのスラウェシ島のことであろう。同島の東南端近くに、現在のスラウェシ州の州都であるマカッサル(Makassar)がある。
「『大英類典(エンサイクロペヂヤ・ブリタニカ)』十一板、卷一」「Internet archive」の同書のズバリ! “AMUCK, RUNNING”の項である。人物の綴りはそちらで確認されたい。それらの人物に就いては面倒なので、注はしない。悪しからず。
「武德編年集成」江戸中期に編纂された徳川家康の伝記。当該ウィキによれば、『成立は元文』五(一七四〇)年で、『著者は幕臣』『木村高敦。偽書の説、諸家の由緒、軍功の誤りなどの訂正が行われて』、『寛保元』(一七四一)年に『徳川吉宗に献上され』たとある。以下の、「二五に出たる、平原宮内が、家康の陣營に、突然、闖入して廿七人を殺傷し、自分も殺された」というのは、これはなかなか、とんでもない乱入で家康危うしという大事件なのだが、ネット上の記事で言及しているものを見出せなかった。但し、三田村鳶魚の「公方様の話」(中公文庫・鳶魚江戸文庫・一九九七年)の改題再刊本がグーグル・ブックスにあり、その視認可能部分におおまかな梗概が少し、紹介されている。ここである。しかし、これ、実際の話をちゃんと読みたいと思うのは、私ばかりではあるまい。幸いにして、「国文研データセット」のこちらに「武徳編年集成」が総てが画像化されているので、当該画像をダウン・ロードし、視認して電子化することとした。同書の二十五巻を含む表紙は、左二番目のやや半分より手前に、二十四巻と併置カップリンッグしてあるので、そこを目を凝らして探して戴き、その表紙画像の左上外にある「部分URL」(但し、残念なことにこのタグは機能していないので示せない)の末尾の「.jpg」の前の数字「00632」を「00655」まで「<」ボタンで進めると、それが冒頭となる(右丁四行目以下)。この事件、頭に「○頃日」(けいじつ:近頃)とあるだけで、日時がクレジットされていないのが恨みなのだが、前丁の巻頭の記載、及び、直前の記事から、天正十二年十二月十一日(グレゴリオ暦ではこの旧暦の十二月一日が既に一五八五年一月一日である)よりも以前に発生したものと思われる(最後の附記には一説として、同年九月のこととするが、それを最後には否定している。なお、本記事の後の記事は十二月十九日となっている)。本話は長く、「00657」の右丁後ろから三行目まである。カタカナはひらがなとし、漢字はそのまま再現してある(迷った場合は正字としたが、表記出来ない異体字は通用字で示した)。句読点・濁点を追加、一部難読と思われる部分には推定で歴史的仮名遣で読みを添えた(本部には読みは一切ない)。二行割注は【 】で示した。約物は正字で示した。臨場感を出すために、段落を成形し、記号も用いた。敬意の字空けは私には、却って違和感があるので、改行一字下げで示した。
*
○頃日、甲信の先方の士を、甲陽古府に召(めし)て拜謁を遂(とげ)させ、忠の輕重を糺され、或は、全く本領を賜ひ、或(あるいは)、舊地を減(へら)せらる。
平原宮内(ひらはらきゆうない)【依田一族。】、本給安堵すべき所に、往日(わうじつ)、「笛吹川一戰」の時、一揆の長(をさ)、大村三右衞門が徒黨たる旨、保坂金右衞門、并に、田村の郷民、是を訴ふ故、兩國の士、拜謁を遂(とぐ)る序(ついで)、
御前に於て、訴人と對决を命ぜらる。
平原、
「通意なき。」
由、陳謝して退出する所、其(その)甲乙、
「未判の事、有(あり)て、再び糺問(きうもん)せらるべし。」
とて、是を呼返(よびかへ)さる。
平原に限らず、羣參(ぐんさん)の先方の士、長袴(ながばかま)を着(ちやく)し、短刀を帶(たい)し、太刀をば、僕從に持(もた)せ置(おき)しが、平原、元來、野心を含める故、其事、露見するかと疑(うたがひ)を生ぜしにや、奥山新八郞が童(どう)、主人の刀を携へ、蹲踞しける處、平原、忽(たちまち)、刀を奪取(うばひとり)て、其僕童を斬殺(きりころ)し、眞驀(まつしぐら)に、
御前に馳入(はせい)る時、甲陽の小幡藤五郞昌忠、辻彌兵衛(やひやうゑ)盛昌、臺子(だいす)の間(ま)に誥合せしが、兩人、平原に向ひ、藤五郞、短刀を拔(ぬき)ながら、平原が切附(きりつく)る刀を受留(うけとめ)、左の手の指、四つ、擊落(うちおと)さる。續(つづき)て、彌兵衞、短刀を鞘ともに翳(かく)し、飛入(とびいら)んとして、額に疵を蒙る。其血、目に入(いり)て、途方を失ふ。
時に甲信の士、長袴を着し、進退、輙(たやす)からず。
[やぶちゃん注:「臺子」点茶に用いる諸道具をのせる棚の一種。]
「誥合せしが」「つげあはせしが」(制止の声をかけたが)か。或いは「詰合」で「つめあはせしが」の誤記と考えた方がすんなり読める。]
手負(ておひ)・死人、廿七人に及べり。
宮内、既に、
午前に近付(ちかづく)處、土屋右衛門昌爲、急に、雨戸を引(ひき)て、是れを隔(へだて)る。
參州衆、永見芯右衞門重頼、傍(かたはら)なる槍を執(とり)けるが、平原、透間(すきま)なく進み來(きた)る故、永見も、槍を取𥄂(とりなを)す。
隙なく、鐏(やさき)を以て、宮内を突倒(つきたふ)せば、榊原康政が部下、伊藤雁助(がんすけ)、平原を組留(くみとめ)る。
「鐏」本来は、石突(いしづき)の一種で槍の柄の端に被せる筒形で先が細まっているキャップ状のものを指すが、ここはそんなことはしていられない。抜き身の槍の先の意であろう。そこで「やさき」と読んでおいた。]
時に、脇より、宮内を斬(きらん)とて、誤(あやまり)て、其刀、雁助に中(あた)る【疵、癰(よう)に成(なり)て、後日、雁助、死亡す。】
[やぶちゃん注:「癰」悪性の腫れ物を指す。]
辻彌兵衞、漸(やうや)く、眼を開き、平原が刀を押(おさ)へ取(とり)、遂に、宮内、誅せらる。
神君、永見・土屋が働(はたらき)を感ぜられ、小幡が深疵を憐み、丸山萬太郞、山本大琳、兩醫を附置(つけおか)れ、療養を遂(すすめ)らる。
且、佐藤甚五郞を御使(おつかひ)として、度〻(たびたび)、小幡が陣營に赴く。
藤五郞、時に二十九歳、日を經て、疵、平癒し、後、又兵衛と改む。
且、彌兵衛、心は剛也と雖(いへども)、白刄(しらは)を揮ふ敵に空手(からて)に等しき體(てい)にて、卒爾に馳向(はせむ)ひ、創(きず)を蒙る事、
御旨(おんむね)に應(わう)ぜず、當三月、
神君へは、八百貫の約を成し仕へ奉る事も、義に叛(そむけ)り。其上、織田信忠へも、勝頼を討(うち)て出(いだ)すべき由にて、三百貫の約をなせし巷說(かうせつ)も有(あり)しかば、僅(わづか)に、綿衣一襲(わたぎぬひとかさね)、黃金一枚、辻に賜はり、御賞愛、甚(はなはだ)、薄(うすし)と云〻。
[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで、全体が一字下げ。]
或曰、「平原が狼藉は、當九月、新府に假屋(かりや)を設け、甲信、先方の士、拜謁を許されし時なり。」とも云へり。又、此時、彌兵衛、改易せらると云(いふ)。皆、非也。
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