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2022/10/19

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 雀戰追考

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、今回は段落を成形した。

 本篇は『曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~追記 雀戰』の追考である。標題はそれに合わせて「すずめいくさ ついかう」と読んでおく。]

 

   〇雀戰追考

 客の云《いはく》、

「「左經記《さけいき》」に、後一條院長元四年五月二日、宇佐宮、神殿にて、雀、鬪ひ、或《あるい》は、栖《すみか》を作る、といふこと、見えたり。」

と、いへり。

 「左經記」は藏弃《ざうき》せざれば、「大日本史」、後一條帝の紀を檢索せしに、「日本史」には、八月四日の下《した》に見えたり。五月にありし事を、八月に至りて言上しつるにや。こゝろ得じ【以上、木默老人の說なり。】。

 よりて、予も亦、「大日本史」【卷三十八。】後一條天皇の紀を閱《けみ》するに、「史」に云、『長元四年云々、八月四日己卯。卜群雀巢宇佐宮殿上於軒廊【「紀略」、『係十二日、十七日、今從「左經記」。』。】と、ばかり、ありて、「雀戰」の文、なし。註に『今從「左經記」。』と、あれば、客の『五月二日云々』といへりしは、暗記の失《しつ》には、あらずや。なほ、考ふべし【「扶桑略記」、長元四年の條に、雀戰の事、漏れたり。】。

 愚、按ずるに、「巢」は「栖」を爭ふことにて、雛を生《しやう》ぜん爲に、巢を、いとなみ、作りしには、あらざるか。又、八月、巢を作ることの奇異なれば、おん卜《ぼく》、ありしか。不審。

○小津桂窓云【伊勢松坂の人。】、

「文政十二、三年の頃、遠州秋葉山街道、森村といふ所にて、雀戰ありしよし、同鄕の何がし、いへり。そは、その人の正しく見たるにあらず、掛川なる相識《さうしき》より、告《つげ》おこせし事なれど、虛談にあらず。」

といへり。

 又、一說に、凡《およそ》、春每《ごと》に、雀の雛、多く生ずれば、秋にいたりて、ねぐらを爭ふて、群《むれ》、戰《たたか》ふこと、田舍には、折々、これあり。怪しむに足らず。」

と、いへり。「本集」第十六【「別集」下卷。】に收めたる、壬辰の秋、湯島天澤山麟祥院の隣寺《となりでら》にてありし雀戰の條下に、これらのよしを、漏《もら》したれば、追錄す。和漢の故實は、なほ又、異日、暇《いとま》あらん折《をり》に、考索して、別にしるすべし【又、三、四年前、伊勢の白子のほとりにて、雀戰ありけるよし、松坂なる殿村篠齋《とのむらじやうさい》より告らる。かゝること、なほ、あるべし。】

天保四癸已年春二月下旬、伊勢松坂村、篠齋より、差越候書付、

      覺

凡、四十年前、

一、津、古川と申《まをす》所え、雀、夥敷《おびただしく》集り候よし。

廿七年前、

一、神戶《かんべ》領高岡村え、夥敷、集り、四、五町四方え、鳴聲、聞え候よし。

五年以前、

一、御領分郡山《こほりやま》村。

 是は、雙方、藪へ集り、折々、食合《くひあひ》、少々、死鳥《してう》も出來《しゆつらい》候よし。最《もつとも》、六、七日の間に候由。

去《さる》卯六月末より、七月初《はじめ》迄、

一、同、圓應寺村。

 畠中、又は、藪へ、夥敷、集り、畠場《はたば》、荒し候に付、近村へ、每日、人夫十人宛《づつ》、追人《おひびと》出《いだ》し候由。是、又、折々、食合、少々づゝは、死鳥も出來候て、鳴聲、三、四町、四方へ響《ひびき》候由に御座候。

一、玉垣村の儀者《は》、聞合《ききあひ》候處、存知候者《もの》、無御座候。

一、江戶、當年、集り候者《は》、「むく鳥」に御座候。

右の通《とほり》、模寄《もより》の者に相尋候處、實說に御座候。在中《ざいうち》には、前段の事共《ども》、折々、御座候由。「不ㇾ珍《めづらしからず》。」抔と申居候。

中にも、前《さき》、申上候者《ば》、其内、目立《めだち》候筋《すぢ》にて、見物に罷出候者も御座候也。

 辰十二月十八日       市 兵 衞

    佐六樣

[やぶちゃん注:「左經記」平安中期に書かれた参議左大弁源経頼の日記。「経頼記」「糸束記」とも呼ぶ。写本で 十五冊。欠けている年もあるが、長和五(一〇一六)年 から長元九(一〇三六)年の記事を含み、当時の宮廷儀式・摂関政治・貴族の生活などを知る上で貴重な史料である(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「長元四年五月二日」ユリウス暦一〇二九年六月十六日。グレゴリオ暦換算で六月二十二日。

「宇佐宮」現在の大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮(グーグル・マップ・データ。以下、指示のないものは同じ)。馬琴が不審を抱いている通りで、国立国会図書館デジタルコレクションの大正四(一九一五)年日本史籍保存会編の「左經記」の長元四年五月二日の条を見たが、そんな記事はない。馬琴の指示する長元四年八月四日の条に、

   *

依宇佐宮恠異、可有軒廊御卜也、

   *

とあり(右ページ上段九行目)、さらに、同じページの下段の九行目に、その具体な「恠異」の内容が、

   *

自去五月二日、至于晦比、宇佐神殿上、雀群集、或作栖云々、

   *

とあった。

「藏弃」整理せずに蔵書すること。蔵書の謙遜の辞と思う。

『「大日本史」後一條帝の紀』「八月四日の下に見えたり」の「卷三十八」は馬琴の誤りで、「卷之四十」である国立国会図書館デジタルコレクションの明治三三(一九〇〇)年刊の「大日本史」第五冊のここ。右ページの九行目に、

   *

八月四日己卯、卜郡雀巢宇佐宮殿上於軒廊、【左經記○日本記略 係十二月十七日

   *

「木默老人」『曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~追記 雀戰』に出るが、不詳。

「扶桑略記」歴史書。元三十巻。天台僧皇円の著になり、平安末期に成立した。漢文体による神武天皇から堀河天皇に至る間の編年史書。仏教関係の記事が主で、現存するのは十六巻分と抄本である。

「小津桂窓」小津久足(おづひさたり 文化元(一八〇四)年~安政五(一八五八)年)は江戸深川に店を構えた豪商で、松坂の干鰯問屋「湯浅屋」の六代目で、蔵書家にして紀行家。当該ウィキによれば、十四『歳で本居春庭に師事し』、『国学・和歌を学ぶ』。文政五(一八二二)年に『家督を継いだ後も』、『詠歌に励み』、文政十一年に『春庭が没した後は』、『その継嗣である有郷の後見人となって』、『歌会を取り仕切った』。天保八(一八三七)年に『家督を婿に譲り』、『稼業を退いた後も』、『詠歌を続け、生涯に』実に七『万首以上の歌を詠』んでいる。「文政元年久足詠草」など四十を『超える歌稿本』を成し、『歌論書として』「桂窓一家言」を記している。『紀行家としての久足は』、十九『歳の時に綴った』「吉野の山づと」を始めとして、「陸奥日記」など、生涯に四十六点の『紀行文を残すが、その作品は友人である曲亭馬琴をして「大才子」と評価される程質の高いものであ』あった。また、『久足は蔵書家としても知られており、幅広い分野の書籍、数万巻を所蔵した』「西荘文庫」は、『曲亭馬琴・本居宣長・上田秋成らの自筆本などの貴重な本を多数含む、近世後期を代表する文庫である』。『馬琴の愛読者であった久足は』、『同郷の友人殿村篠斎の紹介により』、『知己となって以降』、「八犬伝」などの『作品に対する詳細な批評を馬琴に送』り、『馬琴もまた』、『久足の批評に対して丁寧に回答するなど、「馬琴三友」の一人として親密な交際を続けた』とあり、驚くべきことに、『映画監督の小津安二郎は久足の異母弟の孫』とある。

「文政十二、三年」一八二九年から一八三一年(文政十三年十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元している)。

「遠州秋葉山街道、森村」静岡県周智郡森町(もりまち)。因みに、「町」を「まち」と読むのは静岡県でここのみである。秋葉山の南東直近。

「掛川」静岡県掛川市。森町の南東直近。

「相識」互いによく知っている知人。

『「本集」第十六【「別集」下卷。】に收めたる、壬辰の秋、湯島天澤山麟祥院の隣寺《となりでら》にてありし雀戰の條下』既にリンクさせた正編のこと。

「伊勢の白子」三重県鈴鹿市白子(しろこ)。

「殿村篠齋」既出既注

「天保四癸已年春二月下旬」一八三三年。

「凡、四十年前」寛政五(一七九三)年前後。

「津古川」三重県津市の古河町域か。

「廿七年前」文化三(一八〇六)年頃。

「神戶領高岡村」旧神戸(かんべ)藩領であった三重県津市一志町のこの附近。伊勢は、江戸時代、藩と天領が混在していたため、この市兵衛なる者の書き方では、村域を確定することがやや難しい。

「四、五町」約四百三十七~五百四十五メートル強。

「五年以前」天保一二(一八四一)年頃。

「御領分郡山村」この「御領分」は前の条を受けた同じ神戸藩の「御領分」の意であろう。とすれば、これは三重県鈴鹿市郡山町(こおりやまちょう)と断定出来る。

「食合」私はスズメが共食いをするというのを聴いたことがない。スズメが相互に戦って結果して死んだというのも、不学にして、知らない。従って、この「戰」「鬪」も含めて、甚だ不審を持っている。その真相の私の推定は既に『曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~追記 雀戰』の注で述べたので、参照されたい。

「去卯六月末より、七月初」この書簡の書かれた前年は天保三年で、その六月は大の月で六月三十日、グレゴリオ暦では八月七日である。

「同、圓應寺村」現在の三重県鈴鹿市郡山町及び三重県津市河芸町(かわげちょう)西千里(にしちさと)に跨る旧村名。「Stanford Digital Repository」の戦前の地図で「圓應寺」村が確認出来る(左上部)。

「追人」雀を追い払う役の者。

「三、四町」約三百二十八~四百三十六メートル。

「玉垣村」三重県鈴鹿市内のここに南・北・東玉垣町の三町がある。

「むく鳥」ズメ目ムクドリ科ムクドリ属ムクドリ Sturnus cineraceus 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 椋鳥(むくどり) (ムクドリ)」を参照されたい。

「市兵衞」不詳。小津久足の隠居した元使用人か。

「佐六」殿村篠斎の隠居後の名。]

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