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2022/10/14

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十六 死後馬と成る人の事 附 牛と成る人の事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   十六 死後馬と成る人の事

      牛と成る人の事

 江州大津、車路町(くるまみちまち)に、左兵衞(さひやうゑ)と云ふ者、月毛馬(つきげうま)三寸(ずん[やぶちゃん注:ママ。])程なるを、二、三年、持ちて、腰を折(くじ)かせ、直段(ねだん)下(さが)り、草津の淸兵衞(せいびやうゑ)と云ふ者に賣るなり。

 寬永十六年三月の比(ころ)、人、二人(ふたり)、來つて、此馬を尋(たづ)ぬ。

「何事ぞ。」

と問へば、

「斯樣々々(かやうかやう)の馬、草津に有りと聞けども、尋ね逢はず。是(これ)に久しく有る由、承はる。草津の馬主(うまぬし)へ、案内者(あんないしや)を賴みたき故、尋ね來(きた)る。」

と云ふ。

「さらば。」

とて案内を添へければ、草津の淸兵衞處へ行き、

「馬を、一見、仕(つかまつ)らん。」

と所望す。

 馬主、

「三十日以前に求めたり。賣馬(うりうま)にては、なし。」

と云ふ。

 色合(いろあ)ひを云ひ、所望しければ、馬主、

「人喰馬(ひとくひうま)なれば、金轡(かなぐつは[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])を、はめて置く。引出(ひきいだ)す事、六(むづ)かしき間(あひだ)、其儘、見給へ。」

と云ふ。

 彼(か)の二人、

「若(くる)しからず。」

と云うて、羈(おもづら[やぶちゃん注:ママ。])を放し、引出すに、馬、淚を流し、凋(しほ)れたる有樣(ありさま)なり。

 二人(にん)の者ども、憐みたる氣色(けしき)にて、馬を引廻し、口を明けて、年(とし)を見んとするに、自ら、口をあけて、牙(は)を見せけり。

 馬主、

「斯樣(かやう)に人に隨ふ事、始(はじめ)てなり。」

と云ふ。

 さる程に、二人(にん)の者、

「此馬を所望仕りたき。」

と云ふ。

 馬主、

「叶(かな)ふまじき。」

と云ひけるを、種々(しゆじゆ)、言(ことば)を盡し、無理に所望して、本(もと)の買直(かひね)の如く、金二兩に買取(かひと)りて行くなり。

 馬主、跡(あと)にて、

『餘り、不思議なる有樣(ありさま)なり。仔細を問はばや。』

と思ひ、半里程、行きけるを、追掛(おひか)けて、仔細を問ふ。

 其時、二人(にん)の者、

「耻(はづ)かしながら申すべし。是は、我等、親なり。

『年忌を吊(とむら)ふべし。』

と心當仕(こゝろあてつかま)つる處に、兄弟の者の夢に、父、告(つげ)て、

『我、今、馬と成りて、草津にあり。「強(つよき)馬。」とて、重荷を負(お)ふせて、隙(ひま)なく、江戶、上下(じやうげ)す。此若患(くげん)、限りなくして、人を喰(く)ひ蹈(ふ)みけれれば、「癖馬。」とて、金轡(かなぐつは)を、はめて、彌々(いよいよ)、再々(さいさい)、上下さする間(あひだ)、若患、耐へがたし。願はくは、我を買取つて給へかし。今は、草津にあり。』

と、有々(ありあり)と、兄弟、共に、夢、見たるゆゑ、兄は弟(おとゝ)の處へ行き、弟は兄の處へ行き、途中にて行合(ゆきあ)ひ、互(たがひ)に語るに、同じ夢なり。大津の町、馬主の名、馬の毛、年(とし)の比まで、慥(たしか)に見しより、此(か)く如くなり。」

と云ふ。

 其時、草津の馬主、淚(なんだ)を流し、

「此金(このかね)、皆、返したく思へども、御邊達(ごへんたち)志(こゝろざし)の品なれば。」

とて、二步(ぶ)、返しけり。

 二人(にん)、

「是(これ)は、如何に。結句、本(もと)の直(ね)より、高く買ふべきこそ本意(ほんい)なるに、平更(ひらさら)、御取(おんと)りあれ。」

と言へども、取らず、暇乞(いとまごひ)して歸るなり。

 二人(にん)の者は、尾州中島郡(なかじまぐん)の内、羽根(はね)と云ふ處の者なり。

 佐和山大雲寺(さわやまだいうんじ)、衆寮普請(しゆれうふしん)に、大津の車地(くるまち)に居(ゐ)る、大工理右衞門と云ふ者、來(き)て、委しく語るなり。

 扨、二人(にん)の者ども、數多(あまた)の僧を供養して吊(とふら)ひければ、馬、頓(やが)て死し、それより、二人(にん)の者、京へ上り、發心して、馬の菩提を、とひける、となり。

「其比、京中(きやうちう)に『馬念佛(うまねんぶつ)』と云ふ事あり。」

と。

 又、大坂にて、久譽(きうよ)、能く知つて、語られたり。

[やぶちゃん注:本書の中でも長い話で、しかも、展開するロケーションも、馬主の暗い厩から、後半、晩春の広野のワイドな田園風景の中で語りが、しみじみと、行われ、最後の馬主の台詞と小さくなってゆくその画像まで、画面構成が素晴らしくリアルになされており、私は本「因果物語」中、文学として、最も完成した一篇として称揚するものである。

「江州大津、車路町」現在の滋賀県大津市春日町に「逢坂越えの車道・車石」があり、幾つかの資料を見るに、旧東海道の滋賀大津の方のこの一帯附近にあったものと思われる。

「月毛馬」葦毛(葦の芽生えの時の青白の色に因んだもので、栗毛・青毛・鹿毛・の原毛色に、後天的に白色毛が発生してくる馬)の、やや赤みを帯びて見える馬。

「三寸(ずん)」これは「さんずん」ではなく、「みき」と読まなくてはならない。これは古来、馬の背高さを呼ぶのに用いた特殊単位で、地面から首の根の背までの体高を、標準の高さの基本を「四尺」(一メートル二十一センチ)として、それより一寸(すん)(約三センチ)高い場合を「一寸」(いっき)と呼び、以下、「二寸」(にき)、「三寸」(さんき)、と呼んで区別したものである。「三寸」は一メートル三十センチとなる。身長の高い武士は大きく逞しい八寸(やき)(一メートル四十五センチ)を好む傾向があった。

「草津」滋賀県草津市

「寬永十六年三月」三月一日はグレゴリオ暦一六三九年四月四日。

「人喰馬」すぐに人に噛みつくような暴れ馬であることを言う。

「金轡(かなぐつは)」歴史的仮名遣は「かなぐつわ」でよい。馬の口に取りつけ、手綱(たづな)をつけて馬を御する馬具。日本語の起源は「口輪」(くちわ)からの転訛とする説がある。古くは「くつばみ」と言い、手綱のことを「くつわ」ということもあった。「轡」は「勒」(ろくはみ)・「銜」(くつわはみ)という語を用いることもある。これを、常時、咬ませてあるのは、邪魔になって、大きく人に噛みつくことがし難くなるからである。

「羈(おもづら)」ここは、轡を固定するために馬の頭の上から掛ける組み紐。 同前に理由。

「牙(は)」馬の年齢を即物的に判断するには前歯(切歯)の擦り減り方に拠る。詳しくは、サイト「JODHPURS」(ジョッパーズ)のこちらの記事を読まれたい。但し、素人には判らないとある。

「淚(なんだ)」「なみだ」の音変化。近代までよく使われた。例えば、私の「石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 心の聲 (全七章)」の「落葉の煙」の初出形の第四・六連や、初期によく使った萩原朔太郎の、同じく私の電子化である「竹(「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)」の初出形を見られたい。

を流し、

「此金(このかね)、皆、返したく思へども、御邊達(ごへんたち)志(こゝろざし)の品なれば。」

「二步(ぶ)」小判一両は四分(ぶ=「歩」)。

「平更(ひらさら)」副詞。是非とも。

「尾州中島郡の内、羽根」愛知県の旧中島郡は、現在の稲沢市の大部分・一宮市の一部・清須市の一部からなるが、現地名を調べたが、見当たらない。

「佐和山大雲寺」現在の滋賀県彦根市河原にある曹洞宗青龍山大雲寺。佐和山城のある佐和山町の南西直近ではある。

「衆寮」修行僧の生活する僧堂。

「普請」建築工事。

「大津の車地」先の「車路町」と同義と採る。或いは、より広域の用法かも知れない。

「馬念佛」不詳。単に「馬の耳に念仏」の浄土真宗などへの悪意を含んだ洒落ではあるまいか。

「久譽」不詳。]

 

○江州越川(ゑちかは)の問屋(とひや)、彌右衞門と云ふ者、愚癡慳貪、無類者なるが、死して三年目、正保四年亥の年、栗澤次郞右衞門と云ふ者の、馬の子に產れ出づるなり。

 栗毛(くりげ)に、白き毛の文字(もじ)細々と、「越川彌右衞門」と有り。

 護谷(ごこく)和尙、

「行きて見給ふに、文字、明(あきら)かならず、よくよく見れば、確(たしか)なり。」

と語り給ふなり。

[やぶちゃん注:「江州越川」滋賀県彦根市三津町(みつちょう)に越川城跡があるが、この附近か。

「正保四年」一六四七年。

「栗毛」馬の毛色の名。地肌が赤黒く、鬣(たてがみ)と尾が赤茶色を呈しているもの。品種改良の結果、出現したもの。

「護谷和尙」不詳。]

 

〇東三河一の宮の神主(かんぬし)、二郞太夫(じらうたいふ)内(うち)の左衞門四郞と云ふ者、死して、牛に成りて、步行(ありき)けり。

 皆人(みなひと)。

「牛鬼(うしおに)。」

と云うて、是を怖(おそ)る。

 左衞門四郞が家の近處(きんじよ)、二、三間、逃げて、明屋(あきや)に成りたり。

江州東願寺と云ふ處の、淸寳(せいはう)と云ふ坊主、吊(とむら)ひけれども、叶はず、又、長山(ながやま)の正眼院(しやうげんゐん)長老を賴み、吊ひけれども、治まらず、其後(そのゝち)、土井川(どゑがは)の明嚴寺(みやうごんじ)、牛雪(ぎうせつ)和尙を賴み、治めけり。

 寬永五年の事なり。

[やぶちゃん注:「東三河一の宮」これは、神社名で、現在の三河一之宮砥鹿(とが)神社のことであろう。

「牛鬼」妖怪名としては、本邦で特に西日本で知られる妖獣で、頭が牛で、首から下が鬼の胴体を持ち(または、その逆)、概ね非常に残忍獰猛で、毒を吐き、人を食い殺す。しかし、ここでは、具体なその姿が描かれていないから、実体のない、噂か。しかし、三人目でやっと治まった(消えた)というのだから、何らかの夜間に徘徊する変質者か、夜行性の動物がいたということなのだろうか。どうも、その辺が脱落していて、つまらない。]

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