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2022/10/23

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 始動 目次・第一「文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記錄」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 目次はそのままにして手を加えていない。本文の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

兎園小說拾遺目次

 

   第 一

平井兄弟が福州に爲體をいひおこせし讃岐の高松人消息の寫し

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版目次では、以下の第一話の標題と全く同じ『文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記録』となっている。]

おなじ頃、京なる一兩人より申來る消息

[やぶちゃん注:同前では、末尾の「消息」が『風聞』となっている。]

谷中瑞林寺の卵塔を掘りて金を得たりといふ事の實說

阿彌陀峰の南の岡なる地藏山の土を掘とるとて古墳を犯して祟ありし奇談

伊豆州田方郡年川村の山同郡田代村へ遷りたる圖說

肥前大村領にて擊獲たりといふ虎皮の縮圖

志賀隨應神道傳授の書

[やぶちゃん注:同前では、『志賀随王神書』である。]

西國處々大風洪水幷に越後大地震風聞略記

[やぶちゃん注:同前では、後の「越後大地震風聞略記」が『越後大地震の風説』である。]

  通計八箇條      著作堂主人輯錄

 追加

雷砲同德辨

浦賀屋六右衞門話記

將軍文禰麿骨龕圖【◎本文脫漏】

[やぶちゃん注:以上の一条は吉川弘文館随筆大成版にはない。]

 共二三ケ條三子紀事共二十二ヶ條

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、以上の一行はなく、『天保二年辛卯春正月三子出生の事』と『風聞』の標題が並置されてある。]

   第 二

イギリス船圖說

江戶大雹

文政十三伊勢御蔭參の記

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では、『伊勢お蔭参りの記』とある。]

 松坂一友人來翰の寫

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『松坂友人書中御陰参の事』となっている。]

 泉州堺の人の書狀の寫

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『伊勢参宮お陰参りの記』となっている。]

 駿州沼津人の書狀の寫

 松坂人琴魚書中抄錄

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『松坂人、琴魚より來狀』(読点は編者の打ったものと推定される)となっている。]

 享保八年御蔭參抄錄

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版でも新字で同じだが、一字下げはない。]

京都地震の記

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では末尾の「記」は『事』となっている。]

 飛脚問屋島屋佐右衞門注進狀

[やぶちゃん注:以上の一条は吉川弘文館随筆大成版にはない。]

 二条御番内與力伏屋書狀寫

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『二条御番内藤豊後守組寄騎伏屋吉十郎より或人へ郵書』となっている。]

 西本願寺觸狀寫

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはない。]

 伊勢松坂一友人來翰寫

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、以上の一条の前に、一字下げはなしで、『寅七月二日申上刻京師大地震聞書』があって、同じく一字下げなしで、『伊勢松坂一友人来翰中京の人六右衛門書状の写し』となっている。

 平安萬歲樂

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはなく、『地震奇談平安万歳楽』となっている。]

 風怪狀【戲作、】

[やぶちゃん注:以上の一条は、吉川弘文館随筆大成版では一字下げはない。]

駒込追分家主長右衞門奇特御褒美錄

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、「奇特」は、ない。]

奧州東磯江村百姓治右衞門の娘とめ孝行記事

豆腐屋市五郞孤女たか奇談

一月寺開帳御咎遠慮聞書

伊勢内宮御山炎上略記二通

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、『文政十三寅の閏三月十九日伊勢御境内出火』とある。]

大阪寺院御咎聞書

荒祭宮以下炎上に付傳奏方雜掌達書寫

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、『荒祭宮以下炎上の節、伝奏方雑達書』である。]

伊勢内宮炎上の略繪圖

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版にはない。というより、底本本文にも、この条は実際には存在しない。]

文政十三年雜說幷に狂詩二編

[やぶちゃん注:底本本文(及び吉川弘文館随筆大成版目次)には、ここに、

宿河原村靈松道しるベ

の一条がある。脱落。最後に「追錄」されてある。]

麻布大番町奇談

山形番士騷動聞書幷に狂詩

夜分磨古墓石怪幷に後記

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では「夜分磨古墓石怪」と返り点附きで、それに「石塔みがき後記」が並置されてある。]

 追錄

宿河原村靈松道しるベ

 

 

兎園小說拾遺第一

  

   〇文政十年丁亥閏六月十二日讃岐州阿野郡羽床村復讐之記錄

 讃州阿野《あや》郡高松領、南羽床下《みなみはゆかしも》ノ村《むら》、無宿與之助《よのすけ》と申者、年齡三十八歲、先年【十六ケ年已前と云。】、江州不動寺へ罷越《まかりこし》、家來に成り居《をり》候事、有ㇾ之。右、不動寺は、元來、羽床村出生之者之由、右之由緣にて、與之助、罷越、家來に成り候。然處、與之助儀、膳所御城下なる町人方へ婿養子に罷成、養家之女《むすめ》【名は臺《だい》。】、幷に、養母と、三人暮しにて罷在候處、膳所《ぜぜ》家中、平井市郞二《ひらゐいちらうじ》と申者、右、臺女と密通之風聞、有ㇾ之に付、與之助、殘念に存罷在候内《ぞんじまかりありさふらふうち》、如何之譯《いかなるのわけ》に候哉《さふらふや》、養家、離緣に相成候。『此事、市郞二より、養家へ惡く申成《まをしなり》し候故、及離緣候儀。』と、與之助、致推量、遣恨、彌《いよいよ》增《まし》、不ㇾ得已事《やむことをえず》、右、市郞二を、だまし討《うち》にいたし、立退《たちのき》候。又、一說に、右、臺女をも、不動寺へ連行《つれゆき》、致殺害候とも申候。何れにも與之助儀は、人柄不ㇾ宜《よろしからざる》者にて、羽床村へ立歸り候ても、諍論出入《じやうろんでいり》之取扱ひ、人の腰推《こしお》し等いたし、聊《いささか》、棒なども、つかひ候て、全體、大男の由に御座候。右市郞二弟外記《げき》【廿七歲。】、同人弟九市《くいち》【廿二歳。】。此餘、黑根【「黑根」、當ㇾ作「黑杭」。】才二郞《くろねさいじらう》と申《まをし》、元來、防州家中に候處、樣子、有ㇾ之、國許を立退《たちのき》、鎗術、稽古いたし、薦僧《こむそう》に成り居候者《をりさふらはば》、「敵討場所見屆《かたきうちばしよみとどけ》」として同道、都合、三人連《づれ》にて、諸國を尋《たづね》に出《いづ》【「草ざうし」などに有ㇾ之候樣なる難儀の事、有ㇾ之、候由。略す。】。當月中旬、豫州へ致渡海、夫《それ》より、金毘羅へ罷越、羽床村へ入込《いりこみ》、漸《やうやく》、與之助居所《ゐどころ》を見付、去る十一日、討留可ㇾ申存候處、居宅を窺ひ候へば、何やらん、佛事、有ㇾ之樣子にて、大勢集り罷在候に付、不ㇾ果《はたせず》。其夜は、無常場辻堂に止宿いたし、翌十二日夕七半時《ゆふななつはんどき》頃、敵、討留申候【此節、危き事、有ㇾ之。左の如し。】。羽床下の村百姓、傳藏と申者、去る六月廿一日、盜賊の爲に、品々、被盜取候事、有ㇾ之。右詮議を、如ㇾ例、金毘羅、源右衞門へ賴《たのみ》候に付、源右衞門手寄りの者六人外、辨當持一人、都合、七人連にて、村方へ入込、右無常場へ罷越候處、非人居申候。「此邊に怪敷《あやしき》者は不ㇾ居候哉《をらずさふらふや》。」と尋候へば、「昨夜、此辻堂に非人體《てい》之者二人、又、一人は薦僧と見候者、致止宿候。」由申候付、「それこそ、必定《ひつぢやう》、盜賊にて可ㇾ有ㇾ之候。昨夜の事なれば、遠くは退き申間敷《まをすまじき》。」とて、夫より、處々、相尋《あひたづね》、十二日夕方、山之辻より見下し候處、與之助、居宅廻りに、右三人の者居候樣子に付、早速、走着《はしりつけ》、搦捕《からめとる》べき手段にて、下山いたし候處、與之助、被討果候折《せつ》にて、「御用。」と、聲をかけ、家内へ入込候處、「我等は、兄の敵《かたき》を討留候者にて、江州家中之由。」、相名乘《あひなの》り、御用の趣、相尋、「各《おのおの》は、何役に候哉。」と申に付、「手寄《てよせ》にて、盜賊方。」之由、相答《あひこたへ》、「我々共は、御用にて、相廻り候。」由、申聞候處、「左候《ささふら》はゞ、如ㇾ斯《かくのごとく》、敵、討留候に付、定《さだめ》て、與之助眷族《けんぞく》の者、又は、百姓中《うち》抔も狼藉者と存《ぞんじ》、無法之儀、有ㇾ之候ては、致迷惑候間、樣子に寄り、御村方及騷動に候ては恐入候。宜《よろしく》御守護被ㇾ下度《くだされたく》候、是、又、此樣子を、早々、庄屋へ相屆申度候間、案内いたしくれ候樣。」申に付、則、致案内、右、才二郞、屆に罷越、同夜五時過《いつつどきすぎ》、村役人、罷越、見分いたし、三人の者へは下宿《げじゆく》申付、手寄《てよせ》も、右下宿へ相詰《あひつめ》させ置候て、庄屋より注進申出候。

[やぶちゃん注:地下文書としては、かなり整理されていて、非常に読み易いものである。当時の制度では、「敵討ち」は、先ず、属する組織の上役に願い出て、この場合は、藩の重臣が吟味した上、藩主に許可を得ることになる(内容と敵討ちの相手が逃亡しそうな時には、上司へのそれのみで可能なこともあったという。これを「願い捨て」と称した。但し、敵討ちを希望する当事者の、その被殺者が父親以外の親族の場合(この一件は兄で、まさにそれにあたる)は、吟味の中で不許可になることもあった。なお、言わずもがな、不許可で藩外に出れば、脱藩となる)。また、許可がおりても、自藩以外の場所に仇(かたき)いることが判明し、仇討(あだう)ちを実行に移すためには、その藩主や知行地の知行者の許可を得る必要があった。この場合は高松藩に、それを申し出ねばならなかったはずなのである。しかし、以上の最後の台詞(恐らくは話者は平井外記)を読むに、その許可をどうも得てはいないニュアンスを感じる(というか、そもそも奉行所を通じて藩に許可を得る手続きを踏むと、その過程で、敵討ちの相手の親しい関係者がそれを知ってしまうリスクが高くなり、簡単に逃げられそうな気がする)。以上は、サイト「warakuweb」の『親の仇をとるのは役所に届け出てから!?驚きの江戸時代「敵討ち」事情』に拠った。

「文政十年丁亥閏六月十二日」グレゴリオ暦一八二七年八月六日。

「讃岐州阿野郡羽床村」現在の香川県綾歌(あやうた)郡綾川町(あやがわちょう)羽床下(はゆかしも:グーグル・マップ・データ。以下指示のないものは同じ)。

「江州不動寺」現行、滋賀県には二寺ある。孰れも古刹である。膳所との近さからは、滋賀県大津市田上森町(たなかみもりちょう)にある天台寺門宗太神山不動寺(たいじんさんふどうじ)か。

「家來」というのが、よく判らない。不動寺の寺の、全くの非僧の寺の一般実務に使役された者を指すか。

「膳所御城下」膳所藩(本多氏)。

「臺《だい》」流石に「うてな」とは読まんだろう。

「諍論出入」争いを好み、喧嘩出入りを好んでやらかす鼻つまみの乱暴者。

「人の腰推《こしお》し」自分では争いの表には立たず、人をそそのかしてやらせるという意であろう。

「棒なども、つかひ候て」所謂、長い棒を武器とする武術としての「棒術」であろう。

「黑根【「黑根」、當ㇾ作「黑杭」。】」割注は、姓の「黑根」(くろね)は、別な一本の資料では、「黑杭」(くろくひ)とあるようであるという意であろう。

「防州家中」長州藩士。

「樣子、有ㇾ之」何らかの不都合があっての意か。

「無常場辻堂」村外れにある墓場に付随する辻堂。墓地も辻も村落共同体と異界との境であり、村の辺縁にある。

「夕七半時」これは不定時法である。夏であるから、午後五時頃である。

「手寄りの者」手下の者。

「非人」遺体の葬送・埋葬・火葬などの不浄な作業は、差別された非人らの仕事とされたので、こうした辻堂などや、その近くのあばら家に定住していた。

「非人體」敵地に乗り入れるので、兄弟は武家であるが、変装していたのである。

「手寄にて、盜賊方」「手下方(てしたがた)ではありますが、盗賊改(とうぞくあらため)方で御座います。」。]

      敵討場所の大略

九市は表口に脇指を拔持罷在《ぬきもちまかりあり》、裏口に才二郞、尺八を持罷在、外記一人、内へ入、與之助に向ひ、「敵討候間、致覺悟候樣。」申聞候處【此時、與之助は江州にて仕馴候硏職《しなれさふらふとぎしよく》幷に刀脇指賣買之取次等、渡世にいたし候に付、則《すなはち》、脇指を、ひねくり廻し罷在候。】、與之助、「心得候。」とて持《もち》たる脇指を振揚《ふりあげ》候へども、目釘、無ㇾ之故、刄《やいば》は、鞘共に、飛散《とびち》り、柄のみ、手に殘り候間、外記、不ㇾ透《すかさず》、肩先へ切付《きりつけ》候【餘程、深手の由。】。」依ㇾ之、與之助、裏口へ迯出《にげいで》候處、才二郞、罷在、「迯候事、不相成候。」迚《とて》、押戾し候由【或は、尺八にて打候とも申候。】。表に罷在候、九市、早速、飛込《とびこみ》、左之腕首を切落候【「此時、與之助老母、外記に組付《くみつき》候も、もぎ放し候。」とて、聊《いささか》、時合《じあひ》、延《のび》候よしなり。】外記も亦、追付《おひつき》、首、半分、切《きり》ける。則、「耳の後より、留《とど》めを刺《さし》候。」由に御座候【この時、九市、怒《いかり》の餘り、脇指にて、與之助の面部へ、橫疵を付け候間、疵所、御檢使之節、「敵《かたき》の面《つら》へ疵付、恥敷《はづかしく》存候。」と申、外記、弟九市を、叱り候よしに御座候。】。然處《しかるところ》、手寄《てよせ》の者、入込《いりこみ》、前條の趣に有ㇾ之。扨《さて》、又、敵討候已後、村内の百姓、二十人計《ばかり》、鍬・棒等を持參《もちまゐり》、「狼籍者を打殺せ。」とて入込候を、手寄のもの、推留《おしとどめ》、引取《ひきとら》せ候。「手寄の者、不ㇾ居候《をらずさふら》はゞ、及騷動可ㇾ申處、無故障相靜り、致大慶候。」旨、右三人の者共、厚く歡びを述候由に御座候。

就ㇾ右《みぎにつき》、支配代官中村九兵衞、不取敢出鄕、檢使には徒目付《かちめつけ》、罷越、御城へ引寄《ひきよ》せ候に付、御物頭《おものがしら》二人、罷越候。始末の義は、御用狀には可申參候間、略文仕候。夫々《それぞれ》、御引合《おひきあはせ》、御覽可ㇾ被ㇾ下候。扨々、珍事、是迄、右樣之事、御國許には、先例、無ㇾ之候。當一件、大造成《たいさうなる》御物入《おものいり》にて、凡《およそ》、三十貫目程も掛り可ㇾ申哉《かな》と奉ㇾ存候。御城下ヘ引寄《ひきよせ》候節、田中氏居宅表《おもて》を通り候に付、同所へ打揃《うちそろひ》罷越、透見《すきみ》仕候處、才二郞事《こと》雲龍、儀、大男にて、きつぱり、額の角を拔き、總髮にて罷在候間、別《べつし》て目立申候。外記・九市兩人は、色白にて、中肉、外記は、勢《せい》高く見え候。且、右三人、十二日夜、不宿《ふしゆく》にて、一向、眠り不ㇾ申夜明《よあか》し仕《つかまつり》、依ㇾ之、手寄の者も、夜明し仕候由に御座候。「尤《もつとも》、眷屬に返り討《うち》の用心も可ㇾ之。」と、其節、人々、評判仕候。御城下へ引寄候行列、別紙之通に御座候。

狀中、下ケ札《しもがさつ》

右三人の者、豫州表《おもて》にて、「是より、何方《いづかた》へ可ㇾ行哉《や》。」と、くじ、取《とり》いたゞき候處、「高松表に罷越候樣。」、有ㇾ之。「是は、與之助、故鄕故、我等の心より、高松へ罷越、可ㇾ然存候故、くじ、出候半《いでさふらはん》。」とて、三度迄、取改候得ども、同樣に付、其旨、早朝、咄合《はなしあひ》、先づ、金毘羅を拜し候て立出、途中にて、茶店へ腰を掛け、休み居候處、旅人兩三人、居中《をるうち》、脇指を拔《ぬき》、「此硏《このとぎ》は、羽床下村の與之助と申者、いたし候。殊の外、能《よく》出來候。」よし申候を承り、夫より急ぎ、同村へ罷越候由に御座候。武運の開け、御神《おんかみ》の加護も可ㇾ有ㇾ之と、奉ㇾ存候。

 右、丁亥秋八月十三日朝、借《かり》、抄、畢《をはんぬ》。

[やぶちゃん注:これもまた、臨場感に富んだ記録である。最後の部分は敵討ちに向う際の不思議な「くじ」=「籤」の告げによって、首尾よく与之助のいる所へ向かうことが出来たという神意譚として面白い。

「脇指を、ひねくり廻し罷在候」脇差の修繕をするために分解して、いろいろと直していたのである。そのために、咄嗟に入ってきた討手の外記に向うのに、それを振り上げた結果、ばらばらになってしまったのである。

「聊、時合、延候」その与之助の母の抵抗に対処するために、時間がかかったことを言う。

「不取敢出鄕」「取り敢へず、出鄕(しゆつきやう)」。まずは、とるもの取り敢えず、直ちに当該の村へ出向き。

「徒目付」同職には城内の宿直勤務があったので、その日の当番の人物であろう。

「御物頭」同職は、城下の警備・火災消火を担当していた足軽の組頭である。

「大造成御物入にて、凡、三十貫目程も掛り可ㇾ申哉と奉ㇾ存候」この仇討ち事件の処理に大金が掛かったというのである。銭一貫は一千文で、江戸中後期の金一両は六千五百文であるから、四十六両、江戸後期の一両は現在の四~六万円相当であるから、百八十四~二百七十六万円相当である。

「透見仕候」藩の重臣クラスの一人が、事件当事者らの姿を、長屋門脇の部屋の透き格子から彼らを観察したのである。

「才二郞事雲龍」虚無僧才次郎の僧名。虚無僧は、尺八を吹いて物乞いをする僧。薦僧(こもそう)・ぼろんじ・暮露(ぼろ)・「ぼろぼろ」とも呼んだ。その初めは、単なる「薦を携えて流浪する者」の称であったと思われる。鎌倉時代、中国の禅宗の一派である普化 (ふけ) 宗の流れを汲む日本の天外明普が、虚無宗を開き (鎌倉後期の 鎌倉後期の永仁年間(一二九三年~一二九九年)、京都白川で、門弟を教導し、尺八吹奏による禅を鼓吹したのに始まる。「世は虚仮(こけ)で、実体がない。」と知り、「心を虚しくする」という、その教えから、この名があるとされる。江戸では青梅(おうめ)の鈴法寺(れいほうじ)、下総小金(こがね)の一月寺(いちがつじ)、京都では明暗寺(みょうあんあんじ)に属し、天蓋 (編笠) を被り、袈裟を着け、尺八を吹いて、托鉢して回った。仇討ちの浪人や、密偵などが、世を忍んで、虚無僧となった者も多いとされる。百姓や町人は、なれないなどの規則もあったが,後には、門付け芸人ともなった。江戸中期頃から。尺八を得意とする者で、派手な姿で、「伊達 (だて) 虚無僧」となった者もある(概ね、「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「額の角を拔き」彼は虚無僧というが、これは例の虚無僧笠ではない。額とあるからには、修験道の山伏が被る黒白の布で作った兜巾(ときん)としか思われない。或いは、これも仇討ち助っ人の彼の変装の一つであったか。]

   讃州復讐錄追書

此度、阿野郡南羽床村にて、敵討有ㇾ之候に付、村方庄屋より注進狀の寫し上申候。

         阿野郡南羽床村出生

          百姓與太郞忰

           出奔人無宿

              與 之 助

[やぶちゃん注:以下、箇条書の前までは、底本では全体が一字下げ。]

右者、江洲膳所本多下總守樣御内、平井外記・同九市兄、市郞二と申者を、去《いんぬる》文政六未年、致殺害、同所を立退候由にて、是迄、處々、心懸け申候處、今日、七半《ななつはん》時分、當村方《かた》、川下中★、百姓半九郞、枝村の内にて出合《であひ》、敵討取候段、黑根才次郞と申者、右市郞二、親友の事故、見屆心添場所《みとどけこころぞへばしよ》爲立合《たちあひなし》罷出候由にて、同人儀、私方《わたくしかた》へ屆參候。尤《もつとも》、右外記・九市者《は》、與之助死體、見守爲ㇾ仕《つかまつりなし》候段、申出候に付、私儀、組頭、召連、罷越、見分仕り候處、疵、左之通。

[やぶちゃん注:「★」部分は、崩し字画像で挿入されてあり、横にママ注記がある。底本の国立国会図書館デジタルコレクション当該箇所から最大でダウン・ロードしてトリミング補正すると、以下である。

Husyouji

吉川弘文館随筆大成版では、『免』と活字化してママ注記がある。確かに、この崩しは「免」である。吉川版がママとするのだが、私が思うには、これは江戸時代の年貢の賦課率に由来する地名で、「川下中免」(読みは不詳。「かはしたちゆうめん」と取り敢えず読んでおく)ではないかと考える。但し、戦前の地図も確認したが、見当たらなかった。大方の御叱正を俟つ。

一、左之腕、切落し御座候。

一、左之肩、切疵、一ケ所。

一、首、半分、切り下げ。

一、左之目之下、切疵、一ケ所。

一、左之眼、疵、一ケ所。

一、左之耳、後、突疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:以下、次の「一、去る十六日」の前まで、底本では一字下げ。]

右之通、裸身《らしん》にて打捨御座候に付、早速、番人、付設《つめまうけ》御座候。外記・九市。才次郞儀は、下宿、申付、番人等、付置御座候。

 閏六月十二日

            羽床村庄屋

               傳 右 衞 門

右庄屋え、屆參候、黑根才次郞と申者は、岩國加藤佐渡守樣御内、浪人者の由に御座候。右、才次郞儀、助太刀仕候者にて御座候。尤、右三人共、邊路《へんろ》に相成《あひな》り、廻國六部、又は、非人同樣にて、刀等《かたななど》は、こも包《づつみ》に致し、或は、金剛杖《こんがうづゑ》に仕込、罷在候由。

右に付、羽床村より引繼申《ひきつぎまをし》、物頭《ものがしら》中、二頭《にがしら》御組三十、猩々緋袋入《しやうじやうひのふくろいり》鐵炮等、爲ㇾ持《もちなしたり》。十五日朝七時《あさななつどき》致出立《しゆつたつ》候。右、何れも、引纏罷歸《ひきまとひまかりかへ》り、西新通町《にししんとほりまち》、津輕屋孫兵衞方に引取候。右に付、御家中は不ㇾ及ㇾ申、鄕村共、見物に罷出申義、不相成段、御觸《おんふれ》御座候。

[やぶちゃん注:「岩國加藤佐渡守」不詳。識者の御教授を乞う。

「邊路」四国遍路に変装したのである。

「引纏」捕縛の縄を絡みつけた状態で。

「朝七時」定時法で午前四時頃。

「西新通町」香川県高松市通町(とおりまち)はここで高松城の南東近くだか、試みに「今昔マップ」で戦前の地図を見たところ、高松城の南西直下に「西新通町」を発見出来た。]

一、去る十六日、無ㇾ障、引纏、津輕屋迄、罷歸申候。誠に々々、珍敷《めづらしき》事にて、御林前より、丸龜町《まるがめまち》・古新町《ふるじんまち》・西新通町迄の群集は、言葉にも、筆紙にも、難ㇾ述次第に御座候。津輕屋にても、晝夜共、御醫者幷に物頭中《ちゆう》御組、召連、時不明《ときふめいに》、御番にん、御座候。右に付、三人の衆中《しゆううち》へ、御上樣《おかみさま》より、仕着《しきせ》等被ㇾ下、帷子《かたびら》黑紗綾《くろしやあや》・帶・じゆばん・下帶・羽織等迄被ㇾ下、膳所へ御差遣《おんさしつかは》し、御引渡に相成候由に御座候。皆々、大男にて、大力の人物の由、御座候。道行《みちゆき》、五、六町も續《つづき》、村役人初《はじめ》、大庄屋・小庄屋・郡代組《ぐんだいぐみ》・鄕方手代《がうがたてだい》・代官・物頭、雨具籠《あまぐかご》三荷《さんか》、物頭は、騎馬箱、傘、鎗持《やりもち》、先づ、是等が、先立《さきだち》候分《ぶん》、是より、御用の衆、駕籠に乘り、兩脇ヘ、一人に御足輕《おんあしがる》六人宛《づつ》立圍《たちかこ》ひ、其次へ、物頭、中郡奉行、右、何れも騎馬、大同勢に御座候。先《まづ》は、荒々、右之段申上候。

    閏六月十九日

         助太刀

         吉川監物馬廻り相勤四十石取

             黑 根 才 次 郞

[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では、全体が一字下げ。]

右の樣子、有ㇾ之候て、岩國を立退、宗役《しゆうやく》憲順《けんじゆん》の弟子に成り、「雲龍」と申候。

町方與力、物書同心、津輕屋へ相詰《あひつめ》、見聞被仰付候。右、津輕屋内《うち》は、此方《このはう》、引請《ひきうけ》、相勤《あいひつとめ》申候。

平井市郞次、知行六十石、馬廻り番組、相勤候人、右、召連候名前、左之通り。

            木内與惣右衞門

            中 村 茂 太 夫

            小 頭 二 人

            中 間 五十人

[やぶちゃん注:「丸龜町」ここ

「古新町」ここ

「御上樣」当時の讃岐高松藩主は松平頼恕 (よりひろ)。

「五、六町」約五百四十六~六百五十五メートル弱。

「鄕方手代」郡代・代官などの下役として村郷の農政を直接担当した実務役の地方(じかた)役人の一つ。

「騎馬箱、傘、鎗持」「騎馬箱」と「傘」の「持」を省略したもの。

「中郡奉行」この「中」が判らない。「郡奉行」は「こほりぶぎやう」で郡村の行政を統轄する郡代・代官を指すが、江戸時代の藩ではそれらの代わりに「郡奉行」を置いたところが多かった。「中」が宙ぶらりん。識者の御教授を乞う。]

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