鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十八 卒塔婆化して人に食物を與ふる事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]
二十八 卒塔婆(そとば)化(け)して人に食物を與ふる事
上州鹿久保村(しかくぼむら)に、内匠(たくみ)と云ふ人、碓氷合戰(うすひがつせん)に、數箇處(すかしよ)、手を負ひて、臥したるを、
『討ち死にしたり。』
と思ふて、捨て置き、宿(やど)へ歸り、忌日々々(きにちきにち)の弔ひをなす。
一周忌に當たつて供養をなす處に、伺處(いづく)とも知らず、若き僧、來たり。
「内匠と云ふ人、『山中の木のうつろに、活(いき)て有り。迎ひを遣り給へ。』と、慥(たしか)に傳言なり。」
と、固く云ひ屆けて、去りぬ。
子息、聞いて、不思議に思ひ、彼(か)の僧に對面して、委しく問はんと、走り出で、尋ねけれども、行方(ゆきがた)なし。
さる程に、山中に行きて、此彼(こゝかしこ)を尋ねければ、木のうつろに、身は不具(かたは)と成りて、命、永らへて、有り。
子(こ)、嬉しさ、限りなく、さて、
「如何に。」
と子細を尋ぬるに、寒き時分なれば、凍(こゞ)えて、本性(ほんしやう)、なし。
急ぎ、火に當(あ)て、暖めければ、漸(やうや)く本性に成つて、語りければ、
「今迄、坊主、七人にて、一日替(にちがは)りに、食物・湯水を與へけるが、其中(そのうち)、一僧、鼻(はな)欠(か)け、有りし。」
と語る。
子息、稀代(きたい)に思ひ、虛荼毘(からだび)の跡を見れば、七本卒塔婆の中に、一本、闕目(かけめ)、有り。
「七人の僧は、定めて、是なるべし。」
と當(あた)り、追善の儀、疑ひなき事と信ぜしなり、と。
彼(か)の人の孫、三河吉田に有りけるが、三澤(たく)に語ること、確(たし)かなり。
誠(まこと)に卒塔婆など、能く拵(こしら)へて、立つべき事なり。
殊に、靈供(りやうぐ)は、能く能く、念比(ねんごろ)に備ふべきなり。
[やぶちゃん注:「碓氷合戰」「江戸怪談集(中)」の注に、『碓氷峠での、天文十五』(一五四六年)『年の合戦。翌年六月、上杉が甲州の武田に敗れた。』とある。この一篇、本書の中では、かなり過去に遡った話柄の一つである。但し、冒頭の部分が不全である。「『討ち死にしたり。』と思ふて、捨て置き、宿(やど)へ歸り、忌日々々(きにちきにち)の弔ひをな」したのは、続きから考えて、匠の縁者か、当の子息でないとおかしいのだが、誰と書いていないのが不満である。子息は勿論、一族の誰かであっても、捨て置かざる状況を語らないはずはない。それがないというのは、実は、この話、話者或いは、聴いた「三澤」(不詳)の創作を疑わせるのである。そこが長いので、カットしたとなら、これは、あるべき因果話として甚だ質の低いものと言える。正三は、これを採録すべきではなかったという気が私はしている。
「虛荼毘の跡」ここでは、匠と子息は故郷へ帰って、遺体がないままに子息が供養した匠自分の塚を二人して参ったのである。
「七本卒都婆」既出既注。
「三河吉田」吉田城のある愛知県豊橋市今橋町。江戸時代は吉田藩の藩庁が置かれた。]
« 鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十七 蘇生の僧四十九の餅の次第を記す事」 | トップページ | 鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十九 夙因に依て經を覺えざる事」 »