曲亭馬琴「兎園小説余禄」 靈蝦蟇靈蛇
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。
句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、今回は段落を成形した。標題は「れいひき・れいじや」と読んでおく。]
○靈蝦蟇靈蛇
東叡山御領、根岸の御隱殿《ごいんでん》に、辨才天の祠《ほこら》あり。神體は畫幅《ぐわふく》也。
「利益あり。」
とて、その邊の良賤は、常に參詣す。
[やぶちゃん注:「東叡山御領」(ごりやう)「根岸の御隱殿」東叡山寛永寺本坊で公務をこなしていた門跡輪王寺宮さまが、時に、息抜きをするために設けられていた、旧根岸にあった別邸。「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「根岸谷中辺絵図」の右上方の判例下方に「東叡山御山内」とあり、その左手に「御隱殿」が確認出来る。グーグル・マップでは、ここの中央附近一帯に当たる。寺からそちらへ下る御隠殿坂を左中央に配した。また、サイト「おでかけナビ」の「御隠殿跡碑」のページに『敷地は三千数百坪で、老松の林に囲まれた池を持つ優雅な庭園で、ここから眺める月が美しかったといわれ』たが、慶応四(一八六八)年の「上野戦争」に『よって焼失し、現在は全くその跡を留めてい』ないとあり、その遺跡を示す碑が根岸薬師堂(地図有り)にある旨の記載がある。
「祠」「ほこら」。]
文政三年壬辰の冬十一月中旬、宮樣御家來にて、御隱殿の勤役《つとめやく》すなる豐田冲見といふもの、夫婦、彼《かの》辨天に參詣したるに、その夜、豐田が家僕《かぼく》の夢に、物ありて、告《つぐ》るやう、
「われは、當家の庖廚《くりや》なる上下流(うはながし)の下《した》に、年來《としごろ》、栖《すめ》る癩蝦蟇也。けふしも、主人夫婦、前面《まへおもて》なる辨天の祠に【冲見が宅は御隱殿の邊に在り。彼《かの》辨天の祠と遙《はるか》に向へりといふ。】、參詣の折、婦人は月の障りありて不淨也。折から、御橋の下に靈蛇ありて、行法《ぎやうはふ》を修《じゆ》してありしに、件《くだん》の不淨に觸れて、行法、破れたり。是により、靈蛇は、主人夫婦を怨みぬ。明晚、その怨《うらみ》を復さん爲に、あまたの蛇を駈催《かけもよほ》して、推《おし》よせ來つべし。われ、年來の報恩の爲《ため》、命を捨て、蛇孼《へびのわざはひ/じやげつ》を防《ふせが》んとは思へども、一己《いつこ》の力に及ばずば、われを助けて、かの蛇を逐拂《おひはら》ひ給へ。」
と、いひけり。
[やぶちゃん注:「文政三年壬辰」(みづのとたつ/じんしん:但し、底本はこの干支の横にママ注記あり)「の冬十一月中旬」文政三年は「庚辰」(かのえたつ/こうしん)である。文政に「壬辰」はないので、この場合、「文政三年」を信用する(干支の誤りはそれだけで史料的真実性が否定されるのが普通)。グレゴリオ暦では一八二〇年十二月十五日から二十三日までとなる。
「上下流(うはながし)」家内の床の上で用いる炊事用の流し台。
「癩蝦蟇」ハンセン病を患ったヒキガエル。ハンセン病、旧「癩病」(これは永く不当に差別されてきている病名であるから、現在は使うべきではない)については、先般、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「十七 人の魂、死人を喰らふ事 附 精魂寺ヘ來る事」』の「癩病氣」で注したので、そちら、及び、その私の注のリンク先を読まれたい。この謂いは甚だ差別的で気に入らない。ハンセン病の皮膚病変はさまざまあるが、時に、ヒキガエルの背面のような顆粒状の変成を示すことがあり、単にそれをミミクリーとして、かく名づけたことが判るからである。
「豐田冲見」「とよだおきみ」或いは「よよだちゆうけん」。前者で読んでおく。
「月の障り」メンス。旧民俗社会の「血の穢れ」である。]
天明《よあけ》て、僕、この夢を主人に告るに、半信半疑しつれども、聊《いささか》、心におぼえや、ありけん、
「縱《たとひ》、實《じつ》なき夢想也とも。」
とて、その夜は間《ま》每《ごと》に燈燭《たうしよく》を點じて、主・僕、おのおの、刀を佩《は》き、鎗・棒を引《ひき》つけて、終夜、まちけれども、『怪し』と思ふこともなくて、既にして、天は明《あけ》けり。
「さては。虛夢にこそありけめ、さりながら、彼《かの》蝦蟇は、『とし來《ごろ》、下流邊《したながしへん》」にあり。』といへば、まづ、よく、そこらを見よ。」
といひつゝ、主・僕、流しを引起《ひきおこ》しつゝ見るに、果して、殊に大きなる癩蝦幕の、死して、仰《あふのけ》ざまになりたる、あり。
かゝれば、
『よしあることに、こそ。』
と思ふに、胸は、安からず。
「その死したる蝦蟇をば、家構《いへがまへ》の内《うち》に埋《うづ》めよ。」
と吩附《いひつ》けるに、この日は、これ彼《かれ》と、事の多くて、いまだ、埋めざりけるに、この夜、又、彼《かの》癩蝦蟇が、主人の夢にみえて、
「某《それがし》、既に命《いのち》を捨《すて》て、蛇孼を退《しりぞ》け候へば、この後《のち》、祟り、あるべからず。後《あと》安く思ひ給へ。又、某が亡骸《なきがら》は鼠山《ねづみやま》にもてゆきて、彼處《かしこ》に埋め給ひねかし。わが命數の盡きたれども、種《たね》を當所《たうしよ》に遺《のこ》したれば、なほも、おん家《け》を守るべし。疑ひ給ふべからず。」
と、いひけり。
[やぶちゃん注:」「鼠山」ちょっと前に、「甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件」で、『個人ブログ『Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク』の『江戸期の絵図でたどる「鼠山」』で古地図を用いて細かな考証がなされている。恐らくは、下落合の丘陵地帯で、この「御留山」辺りに近いか。』と注したのだが、どうも、御隠殿と位置が離れ過ぎているのが、気になった。而して、実はもっとずーっと以前に私は「鼠山」を注に出していることに気づいたのであった。それは「耳嚢 巻之八 租墳を披得し事」の中で、「感應寺」という寺への注の中でである。詳しい経緯は、そちらの注を読まれたいが、この寺は通称を「鼠山感応寺」と呼ぶ日蓮宗であったものが、天保四(一八三三)年の宗門改により、同寺が、幕府が激しく弾圧した日蓮宗のファンダメンタルな不受不施派に属していたことが発覚し、天台宗へ改宗したのだったが、後に、再び日蓮宗に改宗する再興運動が日蓮宗内に起こった。ここで輪王寺宮舜仁法親王で、その働きによって、日蓮宗への改宗は中止となり、長耀山感応寺から護国山天王寺(現在の東京都台東区谷中にあり、寛永寺の直近であり、寛永寺とともに門跡寺院でのである)へ改称しているのである。但し、日蓮宗再興のそれも汲んで、別に上記リンク先の鼠山に、天保六(一八三五)年に感応寺の寺の再興が認められたのである。則ち、ここに僅かながら、この場所と鼠山の接点が見えてくるのである。本篇の事件内の時制は文政三(一八二〇)年であるが、本篇が書かれたのは、最後の割注によって天保四(一八三三)年一月以降である。則ち、タイトだが、この話、実は、執筆時に形成された新しい「噂話」だったのではなかろうか? そこにうっかり、新しい感応寺の通称、「鼠山」を出してしまったというのが、真相ではないか? いや、もしかすると、この怪談を考えた人物は、感応寺のままで、日蓮宗としてここに再興して貰いたかった一派に属していた者のではなかったか? さればこそ、確信犯で、この蝦蟇を日蓮宗の信者ならぬ「信蝦蟇」として描き、「鼠山」へ遺骸を葬って呉れ、と言わせているのではなかろうか? 但し、感王寺は天保一二(一八四一)年に再興の中心人物であった僧日啓が女犯の罪で捕縛され、遠島を申し渡されたが、牢死し、感応寺は破却・廃寺となって現存しない。]
主人は奇異の思をなして、則、蝦蟇の亡骸を鼠山に埋めたるに、その夜、又、件《くだん》の蛇が、主人冲見の夢にみえて、
「嚮《さき》には、『婦人の不淨によりて、わが行法の破れたる怨を復さん。』と思ひしに、癩蝦蟇に防がれて、宿意をば、得《え》果さねども、あるじ夫婦の身代《みがは》りに立《たつ》たる蝦蟇を殺したれば、今は、怨の、はれたる也。されば、『今より、怨を轉じて、われも當家の守護神にならん。』とばかりにして、驗《しるし》なくば、なほ、疑《うたがは》しく思はれん。翌《あす》、辨天に參詣し給へ。その折《をり》、必《かならず》、見るよし、あらん。扨《さて》、宿所にかへりし折、鞠箱《まりばこ》を、開きて見給へ。さらば、應驗を知るに足らん。」
と、告らるゝと思へば、夢、さめけり。
あるじは、いよいよ、怪《あやし》み、おそれて、明《あけ》の朝、御隱殿なる辨才天に參詣しけるに、社壇の内より、忽然と、蛇、ふたつ、走り出で、ひとつは、祠の簀子(えし)[やぶちゃん注:簀(す)の子(こ)。]の下に走り隱れ、一蛇《いちじや》は、神前なる池の内に走り入《いり》て、共に、みえず、なりにけり。
かくて、宿所に立《たち》かへりて、鞠箱を【冲見は蹴鞠を嗜むにより、祕藏の鞠ありと云。則、その箱なり。】とりおろし、やがて葢《ふた》をひらきて見るに、箱の内に、いと、ちひさなる蝦蟇と、小蛇、ありけり。
こゝに至て、あるじ夫婦は、いよいよ、驚き、且、歡びて、小蝦蟇をば、庖廚なる、上ながしのほとりに放ち、小蛇をば、硝子《がらす》の壜《びん》に沙を敷き、その内に藏《をさ》めて、日々に祭る、といふ。
この一條は、鈴木有年の話也。
「昔ばなしにありぬべき、怪談に似たる事ながら、彼《かの》豐田生は、德ある人にて、常住坐臥に恭謙ならざることなし。かゝれば、虛談をいふべくもあらず。」
と云《いふ》。
鈴木生も、同家臣にて、家は根津の三島門前にあり。豐田の居宅と相去《あひさ》ること、遠からず。正《まさ》しく、その小蛇を見て、いひおこしたる奇事なれば、聞けるまにまに、しるすになん【壬辰冬閏十一月十九日、琴嶺、が有年の「喪《も》ごもり」を問ひし折《をり》、この事を聞《きけ》る也けり。】。
傳聞のまゝなれば、漏れたる事も、たがへることも、あらん。そは異日、有年に面會の折、たゞすべし。
[やぶちゃん注:「壬辰冬閏十一月十九日」天保三年のこの日は、グレゴリオ暦では既に一八三三年一月九日。
「琴嶺」馬琴の長男瀧澤興継(おきつぐ)。「琴嶺舍」(きんれいしゃ)は彼の号。]