鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「十五 先祖を吊はざるに因て子に生れ來て責る事 附 孫を喰ふ事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、既に述べたように、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に抜粋版で部分的に載っているので、既に述べたように、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。そちらにある(底本は東洋文庫岩崎文庫本)挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]
十五 先祖を吊(とむら)はざるに因(よつ)て子に生(うま)れ來て責(せむ)る事
附孫を喰(くら)ふ事
尾州名古屋、長者町に、次郞八と云ふ者、一人の子を持つ。六歲まで、腰、立たず。
祖父の次郞八を見知りたる本秀和尙、見給ひて、
「是の子は慥(たし)か祖父(おほぢ)なるべし。咲(わら)ひ顏、成り振り、常に手枕(てまくら)してありし癖まで、殘る處も無く、能く似たり。如何樣(いかさま)、因果なるべし。」
と云はれて、次郞八云ふ、
「皆人(みなひと)も左樣に申せしが、思ひ當ること、有り。『我父の佛事、そも能く吊はず。』とて、元は一向宗なれども、即ち、禪宗に成りたり。其の母、今に存命にて、此の子を預り置くに、六歲まで、物言ふこと、叶はず。剩(あまつさ)へ、親をも、見知らず。目は『うるうる』として、酒に醉ひたる者の如し。父の次郞八、洒に醉ひて死しけり。」
『先祖を吊はざれば、子となつて責むる。』と、古今、云ひ習はせること、是なり。
[やぶちゃん注:段落構成は「江戸怪談集(中)」のものとは、異なった構成とした。
「名古屋、長者町」名古屋市中区のここの、地下鉄「丸の内駅」と「伏見駅」を南北に結び、そこからそれぞれ、桜通と錦通を東に伸ばし、本町通りでカットした、ややいびつな正方形相当の地域が、旧長者町に相当する。]
○越後衆(ゑちごしう)に、何某と云ふ者有り。關が原陣にて、討ち死にす。
其の比(ころ)、かた子(こ)有り。成人して、九左衞門と云ふ。廿二、三歲にて女房を求む。男子二人を產む。一人、腰拔け也。引き立つれば、足有り。骨は、なし。
九左衞門。是を悲しみ、此の子を叱りければ、夢に告げて云ふ、
「吾は汝が父なり。終(つひ)に弔ふこと無き故、修羅の若患(くげん)悲しきの儘、汝が子に成りたり。」
と。
夢、醒めて、母に問へば、
「尤も。夢の告げのごとしなり。」
と云へり。
[やぶちゃん注:「關が原陣」「關が原の戰ひ」。慶長五(一六〇〇)年。
「かた子」「片子」。一歳に満たない赤子(あかご)。]
○奧州會津に、何の九郞左衞門と云ふ浪人あり。細工などして、世を渡りけり。本國は上方なり。
此の人、六歲の時、父に後(おく)れ、母の養育によつて、成人す。
越後にて、女房を求め、會津へ來たり。
子一人、持ちたり。此の子、
「通り神に逢ひたり。」
とて、腰立たず、十三にて、死したり。
夫婦、愁歎限り無し。
七日の弔ひに、宵より、僧を供養するに、其の夜の夢に、子、告げて、
「我は、汝が父なり。我(われ)死して後(のち)、終(つひ)に供養すること無き故に、汝が子に生まれ來て、十三年の養育を受けたり。明日(みやうにち)は廿七年に相當(あひあた)れり。」
と、慥かに云ふて、夢、醒めたり。
不思議さの儘、年月(ねんげつ)を算(かぞ)ふれば、誠に廿七年に當たりたる也。
[やぶちゃん注:「細工」「江戸怪談集(中)」の注に『竹細工、箒などを作ること。当時は賤職とされた。』とある。
「通り神」同前で、『妖怪の一種。主として悪霊のしわざを言う。』とあった。]
○東三河、西原(にしはら)村庄屋、勘左衞門と云ふ者、寬永十九年に死す。其の子、不孝にして、長山の眞源院を賴みて送りたるばかりにて、其の後は、吊ふ事、無し。
三年目の六月、勘左衞門子息の内の者、兩人(りやうにん)、畠(はた)の稗(ひえ)を刈り居(ゐ)たる處へ、死したる勘左衞門、來たりて、
「汝等に、云ひ傳へんとて、來(きた)るなり。」
と云ふ。
一入、譜代(ふだい)の者にて、能く見知りて、
「祖父樣が、何事にて候。」
と問ふ。
「誠に、久しくて、逢(あ)ふたり。我(われ)、食物、無くして、佛(ほとけ)に窺(うかゞ)ひ申せば、
『何にても、與(あた)ゆる物、なし。汝が子を、食(しよく)せよ。』
と、仰(おほせ)有り。此の由を云ひ傳へよ。」
と云ふて、歸るを見れば、塚の上へ上(のぼ)り、穴の中へ入(い)る樣(やう)に足を踏み込みけり。
頓(やが)て五、六歲の子、死するなり。
[やぶちゃん注:「西原(にしはら)村」愛知県宝飯(ほい)郡の旧西原村で、その後、吸収合併が繰り返し行われ、現在は愛知県豊川市上長山町(かみながやまちょう)西原(さいばら)が相当地と思われる。
「寬永十九年」一六四二年。
「眞源院」愛知県豊川市上長山町南宝地にある曹洞宗松源院の子院。「江戸怪談集(中)」の注の一部を参考にしたが、前回もそうだったが、この寺を『一宮市』とするのは、誤りと思われる。なお、ここだが、現在、真源院という子院は認められない。
「勘左衞門子息の内の者、兩人」勘左衛門の子の使役している下男の内の二人。
「譜代の者」代々、その家に仕えてきた古株の使用人。
「頓て五、六歲の子、死するなり」「江戸怪談集(中)」の注に、『父勘左衛門の霊が孫の幼児を食べたのである。』とあるのだが、この部分、何かしっくりこない。供養しないから餓えて苦しいという左衛門の懇請に対して、仏・菩薩は何故に『何にても、與ゆる物、なし。汝が子を、食せよ。』と冷酷な言葉を発し得るのか? 彼が供養をしない我が子を食わずに、孫を食ったのは、我が子を食うことによって生活困難となる、妻・孫・下男らのことを考えてのことであろうけれども、そんなことは、現世上の下らぬ屁理屈に過ぎない。孫のあるべき人生とそれに繋がるであったろう総ての人々の総体的精神エネルギを無化した仏の指令は納得し難い。少なくとも、正三はその正当性を、ここで解くべきであった。私は、彼がそれをどう解くかという一点にこそ、興味がある。]
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