鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「一 閻魔王より使ひを受くる僧の事 附 長老魔道に落つる事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]
因果物語下卷
一 閻魔王より使ひを受くる僧の事
附長老魔道に落つる事
三州土井川(どゐがは)、妙嚴寺(みやうごんじ)、源高(げんかう)長老、師匠と公事(くじ)をして、二、三年、江戶へ詰め、御奉行衆へ、目安を上げ、寺を請取(うけと)りけり。
其後(そのゝち)、濱松普濟寺(ふさいじ)の輪番(りんばん)に當つて、住す。
然(しか)るに、寬永十二年の春、
「閻魔王よりの使ひ。」
とて、夢に告(つげ)て、
「十年の約束なり。早々、來れ。」
と書狀を持ち來り、
「是、見給へ。」
と云ふ。
其狀を披見するに、十年、過ぎたり。驚き、夢ながら、傍らなる硯の筆を取り、「十」の字の頭(かしら)に、一點、打(うち)て、「千」の字にし、
「此狀、僞(いつは)りなり、急度(きつと)、歸り給へ。」
と云ふ。
彼(か)の使ひ、
「慥(たしか)、十年と、閻魔王、仰せけるが、『千』の字なれば、先づ、歸らん。」
と云ふ。
住持、緣(えん)まで送り出でられければ、客殿(きやくでん)の前に、怖ろしき鬼神(おにがみ)二人、鐵棒を提げ、繩を持ち居(ゐ)たり。
住持、これを見て、殺入(せつじ)したり。
强く呻(うな)る聲、高きを聞いて、僧達、起き來つて、
「何事ぞ。」
と問ひければ、
「扨々(さてさて)、不思議なる怖ろしき夢を見たり。先(ま)づ、汗を拭(ぬぐ)へ。」
と云ふ。
見れば、誠(まこと)に、水中より出でたる如くなり。
其後(そのゝち)、退院して、妙嚴寺にて、此報謝に、末寺の僧達を聚(あつ)め、日待(ひまち)をし給ふ。
長老、方丈に眠り居(ゐ)給ふに、亦、若(くる)しき聲、高し。
僧逹、走り入りて起し、氣を付けて、聞きければ、
「唯今、鬼神、來つて、既に引立(ひきた)て行かんとするを、漸(やうや)く、もぎり、放したり。」
とて、大汗を流しけり。
扨、隱居牛雪(ぎうせつ)和尙、賀茂と云ふ處に住し給ふに、態(わざ)と行きて、兩度の夢を、懺悔(さんげ)し給ふ。
さる程に寬永十五年十二月廿七日に、篠田(しのだ)と云ふ處に、旦那、死して、彼(か)の源高長老、吊(とむら)ひに出で給ふに、旦那の門(もん)の前にて、馬より落ちて、殺入(せつじ)するを、漸く、氣を付けゝれば、
「我に、少しも、虛妄(きよまう)、なし。是、迷惑なることかな。」
と云うて、其後(そのゝち)、物言ふ事なく、性(しやう)を失ひて居(ゐ)たるゆゑ、伴(はん)の僧、亡者を吊ひ、長老は乘物にて寺へ歸り給ふ。
同(おなじ)く廿八日に、總身、赤くなり、火(ひ)の病(やまひ)を受け、叫ぶ聲、大(おほい)にして、牛の吼(ほゆ)るが如くに、色々、若痛(くつう)して、終(つひ)に死去す。即ち、隱居、再住(さいぢう)し給ふ。時に、本秀和尙、見舞ひ給ふなり。
[やぶちゃん注:「三州土井川、妙嚴寺」日本三大稲荷の一つである「豊川稲荷」の通称で知られる、愛知県豊川市豊川町にある曹洞宗円福山豊川閣妙厳寺(えんぷくざんとよかわかくみょうごんじ)。
「源高長老」不詳。
「公事」訴訟及びその審理。裁判を指す。法灯上或いは本寺末寺間の、檀家或いは別な寺との何らかの争い等を指す。
「目安」訴状。
「濱松普濟寺」静岡県浜松市中区広沢にある曹洞宗は広沢山普済寺(こうたくさんふさいじ)。妙厳寺は普済寺の末寺である。
「輪番」特定の寺の住職を、複数の同宗の寺院で持ち回りでする制度。
「寬永十二年」一六三五年。
「十年の約束なり。早々、來れ。」よく判らないが、「寛永十年に地獄に出頭する約束であるはずだ。早々に、来たれ。」の意か。当初、「今から、十年、地獄にて冥官として務めをすることになっている。」の意かとも思ったが、後で連行のための鬼卒までついて来ているからには、この僧の地獄行きは既に定まっているのでありからして、前者であると思う。
「慥、十年と、閻魔王、仰せけるが、『千』の字なれば、先づ、歸らん。」使いの書状を偽造して、閻魔大王は「十年」と仰せになった、と使いのお前は言っているが、正式な冥官の記した書状には「千年」と書いてある。されば、食い違っておるから、その方、まず、地獄へ帰って、その不審を明らかにせねば、私は行かぬ、とやらかしたのである。
と云ふ。
「殺入(せつじ)」既出既注。「絕入(せつじゆ・せつじ)」に同じ。気絶すること。
「退院して、妙厳寺にて、此報謝」輪番住持であった普濟寺から退院を、何事もなく成し得たことへの、仏縁の「報謝」を妙厳寺で、僧衆を集めて行ったというのである。この前の奇体な夢事件での妙厳寺の僧たちへの「報謝」ではないので注意。
「日待」民間信仰のそれは既出既注であるが、個人サイト「あいのホームページ」の「日待・月待とは?」に、『「仏教においては十五日の月は弥陀の化現とされ、発菩提心や悟境に達するなどのたとえに用いられてきた。その月の姿により、円満無礙(むげ)や西方指向などの譬喩にもつかわれていた。この思想をふまえ、わが国でも平安、鎌倉の時代に十五日の月を礼拝する宗教的儀礼を伴った行事として夜もすがら月にむかい、勤行看経することが行なわれてきた。」他方、「月は勢至菩薩の化現であると説く経典があり、また三十日仏説では勢至の有縁日は二十三日とされている。そこで、月に対する礼拝は二十三夜に行なうのが本筋であるとする考えから、いわゆる二十三夜の月待が室町時代から仏家で盛行するようになった」というのが小花波氏の見解である』とあった。私はこの部分こそが、その見解の有力な一例であるように思われる。
「氣を付けて」魘されているのを、呼び起こし。
「牛雪和尙」既出既注。
「賀茂」京都の賀茂であろう。
「態(わざ)と」わざわざ出向いて。
「兩度の夢を、懺悔(さんげ)」(読みは底本は「ざんげ」。かく、清音にしたことは既注済み)「し給ふ」ここは、夢の中で字を書き変えたことを言わなければ、一度目の夢の懺悔には成らないから、牛雪にはそれを告白していたのである。さればこそ、牛雪のみがその冥途の文書改竄の夢中での事実を知っていた、それを、再住した「隱居」牛雪和尚から、本秀和尚(既出既注)が牛雪を見舞った折りに、その事実を、初めて伝え聴いたのである。だからこそ、ここにそれが記されてあるのである。
「寬永十五年十二月廿七日」一六三九年一月三十日。
「篠田」愛知県あま市篠田か。
「馬より落ちて、殺入する」「其後、物言ふ事なく、性を失ひて居たる」重篤な脳卒中辺りが疑われる。
「性を失ひて居たる」ぼんやりとして、ほおけた状態になること。]
○下總(しもふさ)の國山梨村、大龍寺(だいりうじ)、祖龍(そりやう)長老、寬永十五年の冬、江湖(こうこ)を置き、少し、法門の上手なるに依(よつ)て、尊(たつと)ばれて、慢心、深かゝりけるが、半夏(はんげ)時分に、老僧衆、二、三人を呼び、向上(こうじやう)の事を談じて、
「我顏(わがおもて)、如何樣(いかやう)なりや。」
と云ふ。皆、
「常の如し。」
と云へば、
「汝等(なんじら)、見知らず、見知らず。」
と云ふを見れば、即ち、鼻八寸程になつて、口、耳の根まで切れたり。
僧達(そうだち)、驚き見る處に、長老、眼(まなこ)を噴(いか)らかし、口を張りて、
「杉の木の下(した)にて、我を呼ぶ間(あひだ)、唯今、出づる。」
と、跳(おど)り上(あが)り、叫び、狂ひけるを、漸(やうや)く取り留め、組伏(くみふ)せて、大衆(だいしう)、集(あつま)り、取廻(とりまは)して、「般若」をくり、「心經(しんきやう)」を誦(よ)む。
餘りに口を利(き)くゆゑ、「理趣」分(りしゆぶん)一卷(くわん)、口の中へ、押し入れけるに、易々(やすやす)と入りたり。
大衆、强く祈りけれぱ、山々の天狗、名乘(なのり)て、退(しりぞ)く。長老は無性(むしやう)と成りぬ。
扨(さて)、門前近處の者共、
「寺に、火事、有り。」
とて、夥しく馳せ聚(あつま)る。
「何事に來(きた)るぞ。」
と問へば、
「客殿の棟へ、火の手の上りたるを見る故に、急ぎ、參つて見れぱ、然(さ)は、なし。」
と云ふ。
それより、晝夜(ちうや)の差別なく、七日七夜(や)、祈り責めければ、鼻、直り、口、癒(い)えて、漸く、本復(ほんぶく)して曰く、
「深く寢入りて、何の覺えも、なし。」
と。
人の委しく語るを聞きて、自ら前非(ぜんぴ)を悔(く)い、三年を經(へ)て、死去す。
其時の首頂(しゆちやう)辰春(しんしゆん)、多衆を率(ひ)きたる事なれば、關東に隱れ無き事なり。
[やぶちゃん注:「下總の國山梨村、大龍寺」千葉県四街道市山梨の曹洞宗大龍寺。
「祖龍長老」不詳。
「寬永十五年」一六三八年十一月から翌年一月に相当。
「江湖」「がうこ」が正しい。「江湖會」で「がうこゑ」と読むのが正しい。禅宗の、特に曹洞宗に於いて、四方の僧侶を集めて行なう夏安居(げあんご:多くは旧暦四月十五日から七月十五日までの九十日をその期間とした)の行を行うための道場を指す。本邦で夏の梅雨時と暑い時期を、行脚ではなく、屋内での座禅行を修する時期に当てたものである。
「半夏」夏安居の結夏(けつげ)と夏解(げげ)との中間、つまり、前注の九十日に亙る安居の四十五日目の称。
「向上」迷いの境涯から悟りの境に入ること。そこで得られた悟りの智見をも指す。
「八寸」二十四センチメートル。
『「般若」をくり』法要である「大般若轉讀」をすることを言っている。大乗仏教の最初期の経典群である大般若経六百巻を短時間に読み上げるもの。例えば、三十人の職衆(しきしゆう)に二十巻ずつを分担させるなどした上で、「転読」という速読法を修する。これは、元は、巻物仕立ての経を転がしながら目を通すことから出た言葉であるが、この法要では折り本に仕立てた経文を用い、表裏の表紙を、両方の手で支え、経巻を、右、又は、左に傾けながら、本文の紙を、ぱらぱらと一方へ落とすようにする。その際、経題だけは毎巻、大声で読み上げるのである。
「心經」「般若波羅蜜多心經」(はんにゃはらみったしんぎょう)。
「理趣」「理趣經」。正式には「般若波羅蜜多理趣百五十頌」(はんにゃはらみったりしゅひゃくごじゅうじゅ)という。密教経典の一つ。
「無性」ぼんやりとして、ほおけた状態になること。
「首頂」その時の大龍寺での夏安居の僧衆を束ねた僧の意であろう。
「辰春」不詳。
「關東に隱れ無き事なり」主格は「祖龍に纏わる奇怪な一件」である。]
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