鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「四 親不孝の者罰を蒙る事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。但し、本篇は、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に収録されているので、OCRで読み込み、加工データとした。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]
四 親不孝の者(もの)罰を蒙る事
攝州天王寺、石の鳥居の前より、一町半程、北西の南稜(みなみかど)の家主(いへぬし)九兵衞と云ふ者、母を蹴る。當座に、足、萎(な)へて、起きず、其後(そのゝち)、母の頭(かしら)を押さへければ、當座に、手なへに成りけり。
手足、叶はぬに依(よつ)て、母を睨(にら)みければ、忽ち、眼(まなこ)、引(ひき)がだかり、面(つら)の樣子(やうす)、替(かは)り、終(つひ)に※癩(かつらい)に成り、手足、腐れて、相果(あひは)つること、亥(ゐ)の七月十日なり。
母を蹴ることは戌の年也。
吾も本秀和尙と同道にて、彼(か)の家を見るなり。
[やぶちゃん注:「※」は「疒」に「歇」の異体字のこれ(「グリフウィキ」)を入れたもの。「※癩」は多様な外見上の病変を示すハンセン病(前の私の注を参照)の一つの様態を示すものと思われる。
「當座に」その場で即座に。
「引(ひき)はだかり」「はだかる」は「開(はだ)かる」で、「目・口・指などが大きく開く」の意であるから、「目尻が避けて、大きく剝き出しになる」の謂いであろう。
「亥(ゐ)の七月十日なり。母を蹴ることは戌の年也」即時、発病し、僅か一年のうちに、重体化して手足が壊死し、死去したことになる。ハンセン病では、こんな急変は生じない。
「本秀長老」既出既注。恐らく、本書の中で最も頻繁に登場する正三と親しい曹洞宗の僧である。]
○同じ州(くに)榎並(えなみ)、けまと云ふ村に、賤しき女あり。一人の娘を持つ。此の娘を中村の者、養子にして、身代(しんだい)能く成りければ、再々(さいさい)、母を蹈(ふ)み付け、
「己(おのれ)が子に生れて、無念なり。」
と嗔(いか)ること、度々(たびたび)なり。
彼の娘、子を產むとて、死にけるを、吊(とむら)ひ、火葬するに、何としても燒けず。
「餘り、見若(みぐる)し。」
とて、淀河(よどがは)へ流しければ、本(もと)の處に揚(あが)り居(ゐ)て、再々、流せども、流れず、又、本の處に有々(ありあり)するなり。
[やぶちゃん注:「榎並(えなみ)、けま」孰れも淀川の沿岸近くの地名。現行では大阪府大阪市都島区毛馬町(けまちょう)が現在の淀川の左岸にあり、その毛馬地区の南東後背で毛馬の北端で淀川から分流する大川の左岸に榎並の名を冠する史跡。施設が、複数、点在する。ここでは、恐らく「榎並」が広域地名で彼らは「毛馬」の住人であったと考えてよく、淀川へ水葬するというのも、毛馬がベスト・ロケーションとなる。]
○濃州(ぢやうしう)多藝郡(たきぐん)、さる村の者、川向ひに、田を作りけり。
其の祖父(おほぢ)、幼少なる孫を伴れて、田打(たうち)に行けば、傍らに遊びて居(ゐ)けるが。見えし。
『さては、早(はや)、歸りたるか。』
と思ひ、祖父も家に歸る。
「彼の孫、あとより歸る。」
とて、河にて、死にけり。
息子、腹立ち、
「父は我が子の敵(てき)なり。打殺(うちころ)さん。」
と云ふを、人々、扱(あつか)うて、宥(ゆる)しけり。
然(しか)れども、愚痴深き故に、憤(いきどほり)を止(や)むること能はず。
「兎角、我(わが)子の敵なり。打殺して、胸を晴(はら)さん。」
と云ふ。
父、聞いて、
「其れならば、晝は人目も惡(あし)し。夜に入りて、我を殺せ。」
と云ふ。
終(つひ)に、近所の宮(みや)へ父を伴ひ行き、拜殿にて鉞(まさかり)を振り上げ、父の眞向(まつかう)を打たんとするに、打(うち)はづして柱に打込(うちこ)む。
忽ち、手、すくみ、鉞、拔けず、作り付けたるが如くにして居(ゐ)けり。
里人(さとびと)、聞き付け、大勢、走り來て、鉞を拔くに、拔けず。鋸(のこぎり)にて、柄(え)を摺切(すりき)れば、柄を握りたる手、離れず。
「何と、もぎ取らん。」
と、すれども、執(と)られず。
後(のち)まで、柄を握りて有りしとなり。
寬永十五年のことなり。
[やぶちゃん注:「濃州多藝郡」旧「多藝郡」は「たぎぐん/たぎのこほり」と読むのが正しい。近代の郡域は大垣市の一部・海津(かいづ)市の一部・養老郡養老町(ようろうちょう)の大部分に相当する。この附近。
「彼の孫、あとより歸る。」「先に帰ったが、どこかで道草して遊んでいるのであろう。後から帰るよ。」のニュアンス。
「人々、扱(あつか)うて」他の親族や村人らが、仲裁して。
「寬永十五年」一六三八年。]
○江州日野の町に、何某(なにがし)と云ふ者、有り。
母、早く死して、父、獨り、在り。
或時、彼(か)の父、十死一生の痢病(りびやう)をやむなり。
婦(よめ)、情けある者にて、能(よ)くいたはり、しめしを洗ひ替え、洗ひ替えて、看病す。
父、娘を餘所(よそ)へ在り付け置きけるが、見舞(みまひ)の爲(ため)に來(きた)る。
兄、云ふやう、
「親のしめしなるに、せめて、一度(いちど)、洗ひて見よ。」
と、しめしを差出(さしいだ)しければ、娘、見て、鼻をしかめ、つばきを吐き掛け、「あら、むさや。」
と云ふ。
然(しか)るに、彼の娘、頓(やが)て鼻の下に、物、出來(いでき)、唇(くちびる)上下(うえした)、共(とも)に腐り、おとがひまで腐り落ちて、終(つひ)に死にけり。
本秀和尙、能く知つて、語り給ふなり。
[やぶちゃん注:「江州日野の町」滋賀県蒲生郡日野町。
「痢病」激しい下痢を伴う疾患であるから、赤痢あたりか。
「しめし」おしめ。]
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