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2022/10/02

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 上卷「五 妬み深き女死して男を取殺す事 附 女死して蛇と成り男を卷く事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村(あえばこうそん)校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。

 なお、今回は、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」に載る本作(同書は全篇ではなく、抜粋版)の挿絵(底本は東洋文庫岩崎文庫本。挿絵本らしい。この当該話部分には二枚ある。二枚とも掲げた)を適当と思われる箇所に参考挿入した。この本は、私が最初に満足出来た江戸の怪奇談集である。これが抜粋乍ら、これを読んだのは、三十三年前のことで、ここに部分的に載っていることを、すっかり失念していたが、本篇の第二話を読んで、「あれ? これ読んだぞ!」っと気がついたのであった。而して、次回からは、その本文をOCRで取り込み、加工データとして一部で使用させて戴く。挿絵もその都度、引用元として示す。注も参考にする。これで電子化注のスピードは各段に速くなる。

 

    妬み深き女死して男を取殺す事

     女死して蛇と成り男を卷く事

 越後の國、大沼郡(おほぬまぐん)の代官、吉田作兵衞と云ふ者、信濃善光寺の者にて、妻子を善光寺に置きけり。

 或時、妻、召(めし)使ひし下女、失去(うせさ)りぬ。是は、作兵衞、内通(ないつう)にて、走らせ、大沼へ呼寄(よびよ)せ置く由。

 本妻、後(のち)に聞き付け、大に腹立ち、

「大沼へ行き、此恨み、申すべし。」

と、狂ひ走り出でけるを、近所の者共、宥(なだ)めて押(おさ)へければ、力無く止(とゞま)り、朝夕、是を恨みけるが、身心、日々に衰へ、重病(おもきやまひ)と成り、今を限りの時、作兵衞手代、武兵衞(ぶひやうゑ)と云ふ者、幼少より、作兵衞夫婦に、養育せられけるゆゑ、件の樣子を聞きて、驚き、早速に參り、

「御氣色(おんきしよく)、如何(いかゞ)。」

と問ふ。

 妻女、答へて云ふ、

「自(みづか)らが煩(わづら)ひ、別の仔細にあらず。作兵衞に斯樣(かやう)々々の恨みあるに付(つい)て、今、斯(かゝ)る體(てい)と成りたるぞ。」

と語る。

 武兵衞、

「扨々(さてさて)、是非なき御事(おんこと)かな、思召(おぼしめし)置かるゝ事、なきや。」

と申しけれぱ、妻女、云ふ、

「願はくは、大沼の妾(てかけ)を殺して、首ぞ持來(もちきた)り、自(みづか)ら存命の内に、一目見せて給へかし。然(さ)なくんぱ、相果てゝ、後世(ごぜ)の障(さはり)なり。」

と、打嘆(うちなげ)きて深く賴みけるゆゑ、了簡に及ばず、大沼へ行き、作兵衞留守に、彼の妾を賺(すか)し出(いだ)して、指殺(さしころ)し、首を執りて、善光寺へ參り、

「斯(かく)。」

と申しければ、女房、

「瓦破(がば)」

と起き上り、居長高(ゐながだか)に成りて、大に悦び、

「につこ」

と笑ひて、

「扨々、嬉しや、有難や、我等、日頃、如何ばかりか嗔恚(しんい)を燃(もや)し、遣(や)る瀬なく、若(く)に沈みしに、其方の影(かげ)にて、今、この妄執、解けて、心、晴やかになりたり。」

 

Kubikurahi

 

[やぶちゃん注:右上のキャプションは、「ゑちごのこふ」だが、「こふ」が判らぬ。「功」か「國府」か。]

 

と云うて、手を合せ拜み、彼(かの)首(くび)を引寄(ひきよ)せ、氣色、替(かは)り、其儘、喰ひ付き、髪の毛を、拽(ひき)かなぐる有さま、中々、怖ろしき體(てい)なり。

 武兵衞、是を見て、

「それは。餘りに淺ましき御事なり。」

と云うて、首を奪ひ、取り捨て、宿處(しゆくしよ)へ歸りぬ。

 其後(そのゝち)、女房、氣色、次第に衰へ、終(つひ)に死す。

 然(しか)れども、其妄念、形を顯はして、

「大沼へ行く。」

と云うて、馬に乘り、作兵衞門(かど)まで乘掛(にりか)けて行きければ、下人、一目見て、肝を消し、

「善光寺の上樣(かみさま)、御越しなされたるよ。」

と、驚きけれぱ、其まゝ、消失(きえう)せしなり。

 其時、馬に乘せたる者、其後(そのゝち)、右の通り、慥かに語る。

 扨、作兵衞、臥せりたる處を、彼の女房、來りて、首を締(し)む。

 作兵衞、驚き、起き上りければ、其儘、清えて、なし。

 度々(たびたび)、首を締めけるに依つて、樣々に、吊(とむら)ひ祈りけれども、叶はず。

 晝夜(ちうや)共に、家に居(ゐ)て、人の目にも見ゆるなり。

 作兵衞、畏恐(おぢおそ)れて、此所彼所(こゝかしこ)に宿(やど)を替へけるに、結句、作兵衞より、先に行きて、顕はれ居(ゐ)るなり。何ともせん方なく、作兵衞、煩ひ付き、終に死去するなり。

 其子、今、越前にあり。越後にて隠れなきことなり。

[やぶちゃん注:「越後の國、大沼郡」魚沼郡であろう。新潟南部最内陸の山間部である。当該ウィキ地図を見られたい。代官を扱っているので差し障りがあるため、確信犯で、かく、したのかも知れぬ。

「代官、吉田作兵衞」不詳。

「善光寺」かの寺院ではなく、地名。現在の善光寺の門前町として発展した長野市。

「内通にて、走らせ」善光寺にあった時から密通していたのを、出奔させて招いたのである。

「手代」江戸時代、郡代・代官に属し、その指揮を受けて、年貢徴収・普請・警察・裁判などの民政一般の実務を担当した小吏。同じ郡代・代官の下僚の「手付(てつき)」と職務内容は異ならないが、手付が幕臣であったのに対し、農民から採用された。吉田作兵衛は越後には手付を同道して、恐らくは現地出身の手代であった彼は善光寺に残したのであろう。

「居長高」「居丈高」。立ち上がって背を反らして、いきり立つさま。

「作兵衞門(かど)」作兵衛の代官屋敷の門前。

「其時、馬に乘せたる者、其後(そのゝち)、右の通り、慥かに語る」毎回、繰り返される話柄の事実確認部を中に挟んだもの。]

 

○寬永年中、大原に如應(によおう)と云ふ、道心者あり。

 彼の發心の所謂(いはれ)を聞くに、

「大工にて、京に居(ゐ)ける時、女房、果てゝ後(のち)、本(もと)の女房の姪(めい)を妻と爲(な)しけり。

 或時、晝寢して居(ゐ)けるに、空(そら)より、蛇、さがり、舌を出(いだ)してあり。是を取り捨てければ、亦、來り。

 後(のち)には、頸に卷き付きて、離れず。

 爲方無(せんかたな)くして、發心し、髮を剃り、托鉢しけれども、蛇、更に去らず。

 後(のち)に高野山へ登る所に、不動坂にて、蛇、失せけり。

 悅び、三年居(ゐ)て下(くだ)るに、本(もと)の坂にて、蛇、又、頸に卷き付きたり。

 人々、怖れをなす故に、手拭(てぬぐひ)を卷きて居(ゐ)けり。

 數年(すねん)經て後(のち)、上京(かみきやう)相國寺(しやうこくじ)の門前、報土寺(はうどじ)權譽(ごんよ)上人、を拜し、一々、懺悔(さんげ)して、十念を授かりて、久しく念佛しければ、いつとなく、蛇、失せたり。」

となり。

[やぶちゃん注:特異点の実体験者の直話である。しかも、これは以下に述べる通り、事実として別の書に具体的に書かれてあり、その所縁の寺も現存するのである。まさに超弩級の事実譚なのである。

「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。

「大原」「おはら」とも呼ぶ。京都市左京区の一地区。旧村名。市街地の北東方にあり、鴨川支流の高野川に沿う独立した小盆地を形成している。若狭街道が南北に貫く。かつては静かな農山村で、京都へ薪などを売りに行く大原女で知られた。三千院や寂光院がある。この附近。高田衛編「江戸怪談集(中)」の注には、『近世では出家の隠栖所が多かった』とある。

「如應」堤邦彦氏の論文「『因果物語』蛇(くちなわ)道心説話をめぐって―唱導と文芸の間―」(『近世文藝』第四十三巻一九八五年発行所収・「J-Stage」のこちらからダウン・ロード可能)で、詳細な考証がなされ、『大原摂取院の縁起にその詳細を看取し得た』とされて、「山州名跡志」(正徳五(一七一五)年刊)の巻五が引用されており、そこに、この寺は「蛇道心道心の寺」と別号するとして、「淨往(ジヤウワウ)法師」の発心譚が記されてあるのだが、それはまさに、以上の話と一致している。堤氏は『「如応」と「浄住」と表記の違いはあるが、多分それは聞書故の誤記であつて、むしろ片仮名本』(正三の本書のこと)『の口承性をあらわすものとみてよかろう』と述べておられる。しかも、同寺は現存し、『寺宝に浄往脱蛇の図一幅が伝存し、過去帳には』、『摂取院称誉浄往大德』(以下は二行割注【『寛永十八年七月廿八日』】『道心蛇也』と、しっかりと戒名と入滅の年月日まで記されているのである。こんな怪奇談をテツテ的に証明する事実を持った怪奇談は、私は他に知らない。凄い!!! 是非、読まれたい。なお、この寺は京都市左京区大原大長瀬町(おおながせちょう)にある浄土宗龍女山摂取院である。

「不動坂」ここ地図のそのすぐ北に「女人堂」があることで判る通り、この坂の登りきった先から奥は――女人禁制――なのである。

「相國寺」京都市上京区相国寺門前町にある臨済宗相国寺派大本山の萬年山相国寺

「報土寺」浄土宗知恩院派八幡山(はちまんさん)報土寺。この頃は、相国寺門前にあって念仏道場として栄えていた。寛文三(一六六三)年頃、現在の仁和寺街道六軒町西入四番町に移転した。ここ

「權譽上人」堤氏の論文によって、これは摂取院中興の祖とされる「近譽(ごんよ)上人」であるとされ、続く一章を、この上人に当てておられる。]

 

○大坂陣(おほさかのぢん)の、二、三年前、駿河府中、いんれい町(まち)、狐崎(きつねざき)の近所、原田次郞左衞門宿(やど)、四、五間(けん)近所の者、信州へ行きて、女房を求めて居(ゐ)けるが、暫くありて、駿河に歸りけり。

 信州の女房、來(きた)る。

 其有樣(そのありさま)、怖ろしゝ。

 駿河の女房、是を見て、逃げ行き、夫に、

「かく。」

と云ふ。

 夫、彼(か)の女を賺(すか)し、彼(か)の女を三保の松原へ伴(つ)れて行き、舟遊(ふなあそ)びして、海へ入れて、殺しけり。

 

Hebinokosimaki

 

[やぶちゃん注:右上のキャプションは、「みほの松はら舟あそび」。]

 

 頓(やが)て、蛇となりて、腰を卷く。

 何程(なにほど)切りても、亦、卷くに依りて、爲方無(せんかたな)くして、高野へ行きて居(ゐ)たるとなり。

[やぶちゃん注:「十念」浄土宗・時宗に於いて、僧から「南無阿彌陀佛」の六字の名号を十遍唱えて信者に授け、仏との結縁(けちえん)を結ぶことを言う。

「大坂陣(おほさかのぢん)の、二、三年前」「大坂陣」は底本は「坂」が「阪」であるが、初版板本で訂した。こういった場合、慶長一九(一六一四)年十一月の「大坂冬の陣」を指すのか、慶長二〇(一六一五)年五月の「大坂夏の陣」のかよく判らない。ただ、同前後の戦さは七ヶ月のスパンは実質半年ほどしかないから、前者起点でよかろう。

「駿河府中」德川家康の居城駿府城の御府内。東海道五十三次でも府中宿と称した。現在の静岡市の中心部。

「いんれい町」不詳。高田衛編「江戸怪談集(中)」も同前。しかし、以下の「狐崎」と規定の府中宿)「原田次郞左衞門宿」とは原田が旅館業をしており、そこが作者正三の定宿であったと私はとる)との相関関係から、この中央附近に相当すると考える。

「狐崎」静岡市葵区柚木(ゆのき)と駿河区曲金(まがりかね)の間の道沿いにある地域の俗称。幕府を追われた梶原景時が一族とともに戦死した地と伝えられる。]

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