鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 下卷「四 生きながら女人と成る僧の事 附 死後女人と成る坊主の事」
[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されている。
なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。
本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]
四 生きながら女人と成る僧の事
附死後女人と成る坊主の事
武州江戶、或山(あるやま)の學徒、實相坊は、無類の學者にして、高慢、甚だしかりけるが、江州坂本、眞淸派(しんせいは)に入つて、法談を演(の)ぶるに、僧俗、是を尊(たつと)ぶ事、限りなし。
其れより信州へ行きて、或家に一宿す。
亭主、馳走して留(とゞ)むる處に、傷寒(しやうかん)を煩ひ、七十日程、過ぎ、本復(ほんぶく)して、行水をするに、男根(なんこん)、落ちて、女人と成る。
其れより、學(がく)したる才智・文字、皆、忘(ばう)して、愚人(ぐにん)と成る。
力(ちから)なく、酒屋の婦(ふ)と成る。
其後(そのゝち)、彼(か)の山の衆徒(しうと)、海道を通るに、
「酒を呑まん。」
とて、四、五人立寄(たちよ)る。
彼(か)の女、淚を流し悲(かなし)む。
僧衆、不思議に思ひ、故(ゆゑ)を尋ぬるに、有りの儘に語る。
此の物語りは、牛込泉藏院・三光院、語るを、忠庵、聞きて語るなり。
[やぶちゃん注:「或山」「江戸怪談集(中)」の注に、『「山」は大寺をいう。』とある。
「眞淸派」同前で、『近江坂本の西教寺』(ここ)『を本山とする、天台宗真清派。學僧を優遇した。』とある。
「傷寒」漢方で「体外の環境変化により経絡が冒された状態」を指し、高熱を発する腸チフスの類を指す。
「海道」「街道」に同じ。
「牛込泉藏院、三光院」「江戸怪談集(中)」の注に、『共に天台宗上野寛永寺末寺。新宿の牛込泉蔵院と牛込三光院』(部分)とあった。「東京都公文書館デジタルアーカイブズ」の「御府内備考 五十五(牛込之三)」(文政一二(一八二九)年)の「目錄」に、『牛込之三 肴町 行元寺門前 安養寺門前 三光院門前 養善寺門前 通寺町 松源寺門前 正蔵院門前 末寺町 末寺橫町 長源寺門前 橫手町 泉藏院門前』(表記は記帳のママ)とあった。個人ブログ「てくてく 牛込神楽坂」の「朝日坂|横寺町」に載る江戸切絵図で両院の位置が確認出来るが、ここをグーグル・マップ・データで調べると、孰れも現存しない。「両寺の住職が」、ということであろう。
「忠庵」不詳。]
〇上州藤岡より、武州秩父へ、經帷子(きやうかたびら)賣りに行く僧、山家(やまが)の町にて、或る酒屋へ入(い)つて見れば、此の前、伴ひし僧に、似たる女房あり。
此の僧を見て、隱れぬ。不審に思ふ處に、暫くありて、酒賣りに出でけるが、面(おもて)を隱して、直(ぢき)に見せず。
此の時、
「其の方(はう)は、我が近付(ちかづき)の僧に似たり。若し、其の姉か、妹かにて有らん。」
と云へば、默(もく)として、淚を流し、奧に入り去る。
あたりの人に、此の女の來處(らいしよ)を尋ぬるに、
「上野筋(かうづけすぢ)より來(きた)ると云へども、親類、知らず。」
と云へり。
亦、歸りに立寄り、彼(か)の女を呼び出(いだ)し問へば、
「我は、御僧、舊友の何某(なにがし)なるが、何となく、煩ひ付きてより、不圖、男根(なんこん)、落ちて、女と成る。もはや、子、二人、有り。無念の次第なり。」
と、泣く泣く、語りける。
寬永年中の事なり。
[やぶちゃん注:「上州藤岡」「武州秩父」現在の群馬県藤岡市と、その南に接する埼玉県秩父市。
「經帷子賣りに行く僧」経帷子を売るのを目的に秩父へ行くというこの僧、「酒屋へ入」ってもいるし、まあ、かなり程度の低い僧ではある。
「もはや、子、二人、有り」この場合、両性の生殖器を持って生まれた真正の半陰陽(アンドロギュヌス)である。
「寬永年中」一六二四年から一六四四年まで。]
〇江州高野、永源寺の末寺、鮫村(さめむら)に有り。
此の坊主、あざ、ありて、片目なり。綽名(あだな)に「あざ坊主」と云ふ。
此の坊主、隱し子、有り。出家に爲(な)して、跡を、ゆづる。
此の子坊主、還俗(げんぞく)して、即ち、寺を在家(ざいけ)にし、女子(によし)一人(にん)、男子(なんし)一人、持つ。
親坊主、死して後(のち)、「あざ」有りて片目なる大蛇(おほへび)、出來(いでき)て、屋敷を離れず。
彼(か)の孫娘も「あざ」有り、片目なるが、十九の歲(とし)、緣に付けるに、其の年の暮(くれ)に、夫に、暇(いとま)を乞ふて、家に歸り、尼と成りて、弟に繫(かゝ)り居(ゐ)たり。
惣じて此の娘、餘所(よそ)にて、食物(しよくもつ)食う事、叶はず。頭(かしら)、痛む故に、餘所に居(ゐ)る事、成らず。
さる程に、正保三戌(いぬ)の年、彼の娘、廿九歲の時、本秀和尙に見(まみ)えて云ふ樣(やう)は、
「某(それがし)、『楞嚴咒(れうごんじゆ)』・『觀音經(くわんおんきやう)』・「大悲神咒(だいひじんじゆ)」・施餓鬼など、習はずして、能く誦(よ)み申すなり。我は疑ひなき祖父、『あざ坊主』の生れ替(がは)りなり。親の屋敷に居(ゐ)れば、心快(こゝろよ)し。願はくは、和尙の御弔ひを受けたし。」
と望む也。
「あざ坊主」を知りたる者ども、此の娘を見て、
「形・姿・聲、其儘、祖父に似たり。」
と云ふ。
さて又、
「件(くだん)の大蛇も、『あざ坊主』なり。」
と。
母、同道し來(き)て語ると、本秀和尙、直談なり。
兎角、「出家は、大略(たいりやく)、女に生まる。」と云へり。尾州折津(をりづ)の正眼寺(しやうげんじ)、用益(ようえき)和尙は、九州の人なりしが、九州にて、五千石(ごく)取る侍の、女子(によし)に生れたり。手の内に書き付け持ちて、出でたる由にて、折津へ尋ね來(きた)る、と云へり。
[やぶちゃん注:「江州高野、永源寺」「江戸怪談集(中)」の注に、『滋賀県神崎郡永源寺町大字高野にある。創建当時は臨済宗永源寺派本山瑞石山永源寺。信長の焼き打ち後、寛永二十年に妙心寺開山派として再興。』とある。現在は滋賀県東近江市永源寺高野町(えいげんじたかのちょう)のここである。
「鮫村」同前で『現多賀町佐目の旧名。』とある。滋賀県犬上郡多賀町(たがちょう)佐目(さめ)。
「正保三」一八四六年。
「正眼寺」愛知県小牧市三ツ渕にある曹洞宗青松山正眼寺。「江戸怪談集(中)」の注に、『元禄二年以前は下津(おりづ)(現一宮市)にあった』とあるが、調べた限りでは、下津は、愛知県一宮市の南方に接する稲沢(いなざわ)市下津町(おりづちょう)である。不審。]
〇尾州名古屋、聖德寺(しやうとくじ)、良敎(りやうけう)と云ふ一向坊主、一年、江戶へ下るとき、途中にて、脇指(わきざし)を失ひ、
「伴(つ)れたる門前の馬方(うまかた)、取りたるべし。」
と、疑ひ居(ゐ)たりけるが、死して、三年目に、彼(か)の馬方の、娘に、生れ來(きた)る。
其の證據(しやうこ)には、臂(ひぢ)の折目(をりめ)に、「聖德寺良敎」と確(たしか)に筋(すぢ)あり。聖德寺弟子坊主、六條に、寺、持ちて居たりけるが、名古屋へ下り、之を見て、馬方より、乞ひ請けて、此の娘を、上方へ連(つれ)て上るなり。
寬永十五年の事なり。新右衞門と云ふ人、確に語るなり。
[やぶちゃん注:「名古屋、聖德寺」浄土真宗に限定しても、複数(四つは確認)、存在するので、特定不能。「江戸怪談集(中)」の注も、ただ『不詳』である。
『臂(ひぢ)の折目(をりめ)に、「聖德寺良敎」と確(たしか)に筋(すぢ)あり』肱の皺にこの五文字をしっかりと読めるというのは、ちょっと、微苦笑してしまいました。そう読める人は如何なる崩し字も、物ともしないんだろうな、サウイフ人ニ私はナリタイ――
「寬永十五年」一六三八年。]
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