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2022/10/01

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版)始動 / 饗庭篁村序・雲歩和南序・上卷「一 亡者人に便りて吊を賴む 附 夢中に吊を賴む事」

 

[やぶちゃん注:著者鈴木正三(しょうさん 天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年)は元は三河武士で、臨済僧にして仮名草子作者。通称は九太夫。名は重三。「正三」は法号(これが本名で「しょうぞう」であったとする説もある)。徳川家康・秀忠に仕え、「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」に参加したが、元和五(一六一九)年の大坂城番勤務の際、同僚であった儒学者から、「仏教は、聖人の教えに反する考えで、信じるべきではない。」との意見に激しく反発し、その論難書「盲安杖」(もうあんじょ)を書くと、翌年、四十二歳で出家してしまった。旗本の出家は禁止されていたが、主君の秀忠の温情で罰せられることもなく済み、正三の家督も、秀忠の命で、養子を迎え、存続が許されている。その後、越前大安寺の大愚宗築、京の妙心寺の愚堂東寔(とうしょく)、江戸では起雲寺の万安に師事し、諸国を遍歴修行した後、三河の石平山恩真寺(せきへいざんおんしんじ)に住んだ。寛永一四(一六三七)年の「島原の乱」では、僧として切支丹を排撃していたことから、志願して従軍している。後、江戸の牛込天徳寺境内の了心庵に移り、庶民に仁王坐禅を説いた。著書に「万民徳用」「驢鞍橋」(ろあんきょう:弟子の編した彼の語録)、キリシタン駁論書「破(は)吉利支丹」・「でうす物語」、また本書の他、仮名草子では蘇東坡の「九相詩」を翻案して導入、仏理を説いた「二人(ににん)比丘尼」や「念仏草紙」などがある(以上は諸百科事典を複数元にした)。

 本「因果物語」は、当該ウィキによれば、『鈴木正三が生前に書き留めていた怪異譚の聞き書きを』、『弟子たちが』没後六年後に寛文元(一六六一)年に『出版した』ものであるが、刊本経緯には諸事情がある。以下に電子化する片仮名本「因果物語」(全三巻)はその『年に刊行されたが、これは、それ以前に』、『正三の戒めに反して』、『勝手に平仮名本が刊行され』、『その内容には』、『偽作されたものなどが含まれていたため、弟子たちが正本として発表したものであり』、『片仮名本の序文を書いた』正三の弟子『雲歩和尚』(「和南」の誤読。後注参照)『は、先行して世に出ていた平仮名本を「邪本」と呼んで非難している』。『鈴木正三は』寛永四(一六二七)年から、怪異譚の聞き書きを始めたとされているが、その目的は集成、出版ではなく、仏教的な内容の講話のための素材の収集にあったと考えられて』おり、各説話は正三自身が見聞した諸国の怪異譚の聴書であり、総てが怪異趣味が目的ではなく、あくまで仏教的因果応報の事実として、時・場所・名などを掲げて、言い添えで、「確かに語られた事実である」「実見した人も多い」と語って、真実性を強調している(これは、本篇の冒頭の五話を見ても、よく判る。これは所謂、創作としての怪奇談集としてではなく、確かな本当に起った仏教説話、実話怪奇教訓談、として正三は書いているのである)。少なくとも、その内容は『鈴木が文学的潤色を加えずに、民衆の間の伝説類を書き記したものと』信じられるものである。『しかし、こうした仏教説話としての性格をもっていた』「因果物語」ではあったが、その後の太平の世にあっては、『娯楽としての草子の』怪異談の格好の『題材となることで性格を変化させることとなった』。『挿画も入り、浅井了意などが関わって膨らまされたと見られる平仮名本は、片仮名本以上に普及し』、『版を重ね、後世に大きな影響を残し』、正三の意思に反して、怪奇談集の嚆矢としてもて囃されることとなった。なお、平仮名本は私の好きな浄土真宗僧であった浅井了意が改変作者の一人と目されている。

 底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村(あえばこうそん)校訂になる「因果物語」(片仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記に変更されており、助動詞などの一部の漢字もひらがな化されてあって、非常に読み易い)を使用した。この古本は思い出深いもので、十二年ほど前、磯子の老女主人の忘れられたような時間の止まった感のある古本屋で見つけたもので、「ぼろぼろだから二十円でいいよ。」と言われ、ぐっと目頭が熱くなって、「百円で買います。」と応じたものだ。そうしたものだから、以下に表紙・背・裏表紙、及び、扉の画像のみを添えておく(電子化はしない)。扉の後ろにある「名著文庫」の「冨山房編輯局」の辞は無縁なのでカットする。本文の手前に「目次」があるが、これは総てが終わってから、電子化する。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。漢字は、原本に可能な限り、忠実に再現し、同一の字がフォントとして再現出来ない場合は、最も近い異体字或いは「※」として、後に字体を注で説明した。例せば、「塚」は多くが「塜」であり、「苦」は総てが代用異体字「若」である。但し、底本のその字体は「若」とは若干異なり、第五画の払いの端が「口」より先には出ていないのだが、「苦」とは明らかに違うので、「若」と示した。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は漢字表記・読みなどの不審箇所を校合するのに用いた。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののにみ限った。踊り字「〱」「ぐ」は正字化した。適宜、オリジナルに注を附す。]

 

Ingamonogatari1

 

Ingamonogatari2

 

[やぶちゃん注:以下、校訂者で小説家・劇評家の饗庭篁村(安政二(一八五五)年~大正一一(一九二二)年)の解題。彼は江戸生れで、本名は与三郎。。明治七(一八七四)年、読売新聞社に入社し、明治十九年に小説「当世商人気質(とうせいあきゅうどかたぎ)」や「人の噂」を連載して認められた。同二二(一八八九)年には東京朝日新聞社に移り、劇評や江戸文学研究に力を注いだ。

 太字は底本では傍点「﹅」。なお、この解題は囲み罫線とノンブルも含め、全部が明るい紫色で印刷されてある。]

 

   解   題

 

此書の作者鈴木正三は三河の人にして、德川旗下の士なり。其先は熊野八庄司より出で、世々武名あり。關ケ原および大坂兩度の陣に功ありしが、若きより佛法を信じ、生死の理に疑を抱きたりしを、戰場の有樣に於て悟るところあり、生死を出離するは只管勇猛精進の修行によりて得べしとて、四十二歲にて遁世し、千難萬苦をものともせず諸國を遍歷して、師を訪ひ道を尋ね、奮鬪的捨身の行をなして、寒暑饑渴の苦、身心を冐さゞる[やぶちゃん注:底本では、「冐」の上部は「回」であるが、表記出来ないので、「冒」(をかさざる)の異体変字と断じて、かく示した。]に至り、三河國石平山に入りて、座禪觀法す。こゝに至りて其德四方に傳はり、僧俗したがひて其法話を聞く者多し。(此の書も其信徒が出費して開板したるものなりちものなり)正三一處にとどまらず、山を出で、また諸國に巡錫して僧俗を化度し、後に江戶に出で、神田鈴木町(即ち正三入道の家を繼ぎし舍弟鈴木兵衞左衞門の賜邸地なるゆゑ、其名を町名に呼びしなり)の舍弟邸宅内の一小室に於て寂す。ときに明曆元年六月二十五日、行年七十七歲、著はすところ、此書の外「盲安杖」「驢鞍橋」「二人比丘尼」等あり。其の說くところ、出隱生死の一大事にありて、勇猛精進を說きて、孤弱懈怠をゆるさず。盲安杖に曰く「石火電光目の前なれども、無常幻化なることを知らず。まことに衣鉢を首にかけ、出離の道に入て、諸法空なることを修行する人も、つひに常住の機はなれがたし。されば此身をまつたく思ふが故に、日夜のくるしみやときなし。まことに身をおもふ人ならば、すみやかに身をわすれよ若患[やぶちゃん注:「若」は「苦」の代用字で、二字で「くげん」と読む。この代用字は頻繁に本書に出現するので、一々注することは避けるので、悪しからず。]いづれのところより出るや、唯これ身を愛する心にあり、とりわけ武士の生涯は、生死を知らすば有るべからず、生死を知る時はおのづから道あり云々」まことに例法の奧儀を說くが如し。勇武の士、一たび首を廻らして佛門に入り、剛氣熾盛、煩惱をも焚き盡すべく、死生の難關も踏破るべし。德川初世の幕下の士、風塵の外に脫出したる者、詩に石川丈山、佛門に正三入道ありと併稱せらる。正三俗稱は九太夫、石平道人と號す。

              篁  村

[やぶちゃん注:「石川丈山」(いしかわじょうざん 天正一一(一五八三)年~寛文一二(一六七二)年)は漢詩人・書家。本名は重之。徳川家の家臣であったが、「大坂夏の陣」で、軍規を犯したことから、辞して剃髪、後に藤原惺窩(せいか)に儒学を学び、比叡山麓に詩仙堂を建て、文筆生活に専念した。著に「詩仙詩」・「詩法正義」などがある。

 以下、正三の門人であった雲歩和南の序。序文本文活字は有意に大きいが、本文と同ポイントとした。]

 

 

佛祖世に出で種々(しゆじゆ)方便を垂れ、譬喩言詞(ひゆごんし)を以て苦(ねんごろ)に因果の道理を設示(せつじ)し給ふといへども、年代深遠にして信ずる者少也(すくなし)。故(かるがゆゑ)にや正三老人因果歷然の道理(ことわり)面前の事ども記し認(とゞ)めて、以て諸人(しよにん)發心の便りと爲さんと誓ふ。師昔日(そのかみ)、人の來り左(さ)の如きの事を語る每(ごと)に、箇樣(かやう)のことを聞捨(きゞずて)にするは無道心(むだうしん)の至り也、末世の者如ㇾ是(かくのごとき)の事を以て不ㇾ救して何を以か救はんやと云うて、是を集む。誠(まこと)なる哉、一念の業(ごふ)に因(よつ)て苦樂順逆忽ちに相酬(あひむく)う、一念の用に因て成佛墮獄有り、一念の執(しふ)に因て怨靈鬼神(をんりやうきじん)と成り、一念の迷ひに因て永劫の輪廻と成る事眼前に書記(かきしる)せり。殊に此物語は元亨釋書(げんかうしやくしよ)、砂石集(しやせきしふ)に、載る所よりも證據(しようこ)正しくして、初心の人の爲に大幸(たいかう)ありといへども只今現在する人の假名(けみやう)有之(きれある)を以ての故に、門人堅く秘して世に不ㇾ出(いださず)也。然るに頃(このご)ろ犯す者あり、竊(ひそか)に寫し取(とり)て猥(みだ)りに板行(はんかう)す。剩(あまつさ)へ私(わたくし)に序文を作(な)し、恣(ほしいまゝ)に他の物語を雜入(ざふにふ)して人を瞞(まん)する事不ㇾ少(すくなからず)、斯(こゝ)に於て弟子等(ら)止(やむ)ことを不ㇾ得(えず)、師の正本(しやうほん)を以て梓(し)に鏤(ちりば)め、邪本(じやほん)の惑(まどひ)を破らんと欲す。若し人(ひと)邪(じや)を捨て正(しやう)に皈(き)せぱ菩提の勝緣(しようえん)此(こゝ)に在也(あり[やぶちゃん注:二字への読み。])。

  寬文辛丑仲秋日

    豐陽久住山下に庵す 雲步和南題

[やぶちゃん注:「和南」が「和尙」でないことは、初版板本8コマ目を見られたい。

 先に述べた通り、この後に続く「目錄」は全電子化注を終えた最後に回す。

 なお、以下本文では、段落を設け、読点・記号等も変更・追加し、読み易くした。一群の話柄の中の、条が変わる箇所は、一行空けた。なお、標題中の「附」は「つけたり」と読む。この注は以降では略す。

 

 

因果物語上卷

       義雲  雲步  同撰

 

     亡者人に便(たよ)りて吊(とむらひ)を賴む事

      夢中に吊を賴む事

 東三河千兩(ちぎり)と云ふ村に、茂右衞門(もゑもん)と云ふ者あり。

 子供三人、靈(りやう)に取殺(とりころ)され、四人目の子に取憑き、口走りて、

「我は此屋敷の主(ぬし)なり。信玄、野田の城を攻め給ふ時、雨山村(あめやまむら)に落ち行くを、「そま坂(ざか)」にて、追詰(おひつ)めて、討たれたるが、今に修羅の若患(くげん)、堪へかたきゆゑに、此屋敷に祟(たゝ)るなり。吊うて助けば、此子を活(いか)さん。」

と云ふ。茂右衞門、聞いて、

「何(なに)と吊ひ申すべし。好み給へ。」

と云へば、

「唯今、死(しゝ)たる如く、禪宗の智識を賴み、棺・旗・天蓋を作り、鈸(ばち)・皷(つゞみ)にて野送りし、下火念誦(あこねんじゆ)にて結緣(けちえん)て、懴法(せんばふ)興行し給へ。」

と云ふ。

 茂右衞門、急ぎ妙嚴寺(めうごんじ)に行きて、牛雪(ぎうせつ)和尙へ、此由を賴む。

 和尙、則ち、正保(しやうほう)二年七月三日に、茂右衞門處(ところ)へ御出(おんい)でありて、好みの如く、吊ひ給ふ。

 一兩日過ぎて、又、茂右衛門、廿(はたち)ばかりなる子に憑いて、口走り、

「吊ひゆゑ、最早、助かりたり。我(わが)名は、『鵜(う)の彥藏(ひこざう)』と云ふ者なり。願(ねがは)くは、屋敷堺(さかひ)に、古塜(ふるづか)あり。注(しるし)の石、取除(とりのけ)てあり。其石を以て本(もと)の如く、塜を築(つ)き給へ。」

と云ふ。

 和尙、指圖して、塜を築かせ給へば、其より、よく、をさまりたり。牛雲和尙より直談(ぢきだん)に聞くなり。

[やぶちゃん注:「東三河千兩(ちぎり)と云ふ村」現在の愛知県豊川市千両町(ちぎりちょう:グーグル・マップ・データ。以下、本書の注では特にこの注記のないものは総て同じとし、注さない)。

「信玄、野田の城を攻め給ふ時」愛知県新城市豊島本城(とよしまほんじょう)に野田城跡がある。信玄がこの城を直接に攻めたのは、信玄最後の戦いとされる、元亀四(一五七三)年一月から二月にかけて、信玄率いる武田軍と徳川家の間で行われた「野田城の戦い」である。武田軍に水を断たれ、城主菅沼定盈(さだみつ)は開城・降伏している。

「雨山村」愛知県岡崎市雨山町(あめやままち)。

「そま坂」愛知県豊川市千両町杣坂(そまざか)。

「下火念誦(あこねんじゆ)」「あこ」は「下火」の仏語に多く用いられる唐音で、禅宗で火葬の際、松明(たいまつ)で棺に火をつけながら、引導を渡す儀式及びその火付け役。後には松明に火をつけずに、偈を唱えて、点火の仕草をするだけになった。

「懴法(せんばふ)」経を誦して罪過を懺悔(さんげ)する法要。「法華懺法」・「観音懺法」などの種別がある。

「妙嚴寺(めうごんじ)」通称の「豊川稲荷」で知られる、愛知県豊川市豊川町にある曹洞宗円福山豊川閣妙厳寺(えんぷくざんとよかわかくみょうごんじ)。

「牛雪(ぎうせつ)和尙」サイト「神殿大観」の同寺のページに、第十二代住持月岑(げっしん)牛雪の名がある。

「正保二年七月三日」一六四五年八月二十四日。]

 

○西三河阿彌陀堂村に、善兵衞(ぜびやうゑ)と云ふ者の門屋(かどや)に貧女あり、娘を一人(いちにん)持つ。

 死して後(のち)、娘に憑き、酒を願ひて飮(のみ)けり。

 娘も、程なく死す。

 二七日目に、善兵衞婦(よめ)、屋敷の茄子、出來(でき)たるを見て、下女に、

「あの茄子を、一つ、喰(くひ)たく思ふ。」

と云ふ。

 下女、

「易き事なり。」

とて、二つ、切(きり)て、與へければ、是を喰て、口走りて云ふ。

「我(わが)死骸に土を被(か)くこと、踈(おろ)かなり。死して二七目になれども、火を燃し、香華(かうはな)を手向くる者、無し。故に闇(くら)さは暗し、飢渴の苦は忍び難し。茄子を喰ひたく思へども、人、與へねば、喰はれず。下女に言はんも、『叱(しかり)やせん。』と思ひて、いはず。唯今、下女、切りて與ゆるゆゑ、望(のぞみ)を叶へたり。只、依草附木(えさうふぼく)の精靈(せいれい)となるばかりなり。あら、うらめしの、一向坊主(いつかうばうず)や。如何樣(いかやう)にもして、淸僧に吊(とむら)はせて給へかし。然(さ)あれば、何寺(なにでら)へなりとも行當(ゆきあた)り次第に、手向(たむけ)の水を受くべしきなり。」

と、さめざめと泣き侘びて賴みけるゆゑ、處(ところ)に無智の僧有るを呼び、施餓鬼を誦(よ)ませ、火を燃(とも)し、水を手向け吊ひければ、早速に、婦(よめ)、本復(ほんぶく)し、重ねて祟ること、なし。

「地下中(ぢげぢう)に男女(なんによ)、集(あつま)り、此若患(くげん)を語るを聞く。」

と、其座に在りし者、かたるなり。

[やぶちゃん注:「阿彌陀堂村」旧愛知県碧海(へきかい)郡阿弥陀堂村であろう。後に愛知県碧海郡畝部村(うねべむら)となり、現在は豊田市南部のこの附近に相当する。

「門屋(かどや)」江戸時代の長屋門の端部屋。また、そこに住んだ隷属農民の呼称でもある。地方によって、「分付(ぶんづけ)」「家抱(けほう)「庭子(にわこ)」「釜子(かまこ)」「鍬子(くわこ)」「名子(なご)」「被官」などとも呼ばれたが、主家への隷属の程度は多様である。一般には、主家から耕地を分与され、独立経営を行いながらも、年貢・諸役は主家を通じて上納し、主家に労役を提供する場合もあった。初期の検地帳には、分付記載され、宗門帳でも、主家の宗門の末尾に付記されるのが普通である。高持(たかもち)百姓ではあるが、村落共同体の成員たる本百姓とは見做されず、墓所なども区別されていた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「依草附木の精靈となるばかりなり」「往生どころか、その辺りの雑草や樹木にとり憑いて魑魅(すだま)となるしかない。」という意か。以上の雰囲気からは、転生したものの、餓鬼道に落ち、しかも現世にパラレルに存在している餓鬼に近い状態でいるものと感ぜられる。

「一向坊主」ただ念仏を唱えれば、極楽往生出来ると信ずる一向宗(浄土真宗)徒。]

 

○江戶、北(きた)七太夫(だいふ)、三十三年忌に、三日、能を爲(し)て、是を佛事とす。然(しか)る處に、父、目前(もくぜん)に來りて云ふ、

「能佛事の功は大切なれども、是にては、佛果を得難し。願くは、禪宗を賴み、懴法を讀み、吊ひ給はゞ、速(すみやか)に佛果を成(じやう)ずべし。」

と。

 即ち、好みの如く、佛行(ぶつぎやう)を成す處に、父、亦た、夢に告げて、懴法の功徳(くどく)にて、成佛を遂げたり。」

と云うて、禮謝す。

 それより、子七太夫も、禪宗に成りたり。

 七太夫子息を、堺の何某(なにがし)と云ふ禪門、養子にして置きける、權七と云ふ者、慥(たし)かに語るを、德首座(とくしゆそ)、聞いて、語るなり。

[やぶちゃん注:「北七太夫」喜多七太夫長能(きたしちだゆうちょうのう/おさよし 天正一四(一五八六)年~承応二(一六五三)年)は能楽シテ方喜多流の流祖。当時は「北七太夫」と名乗り、二代十太夫当能より「喜多」を名乗った。後世、古七大夫(こしちたゆう)とも呼ばれた。詳しくは当該ウィキを見られたいが、そこに、この初代は、『堺の目医者・内堀某の子とされるが、はっきりしない』とあり、最後の記載と親和性がある。『徳川家康に冷遇されたこともあって』、「大坂の陣」では『豊臣方に加わ』ったため、『浪人』し、その間は『京都で遊女に舞を教えるなど、能』からは『一時』、『退いていた』。しかし、元和五(一六一九)年の『徳川秀忠の上洛に際し』、『金剛七大夫を名乗って復帰、以後』、『その愛顧を受けて芸界の首位を獲得する。当時』、『各座の大夫格がいずれも若年であったことも幸いしたと考えられ』、『特に大御所となった後』の『秀忠の七大夫への寵愛は著しく、これに追随する形で黒田長政、伊達政宗、藤堂高虎といった大名たちも七大夫を賞翫した』。寛永四(一六二七)年『頃からは北七大夫を称し』、『一代にして喜多流を創立し、記録に残っているだけでも』一千『番を超える能を舞った七大夫は、秀吉時代から江戸初期を代表する能役者であり、以後』、『彼に並ぶ業績を残した能役者はいないと評価されている』とある名手である。

「三十三年忌」本書の著者鈴木正三と北七太夫は完全な同時代人であるから、初代北七太夫の父親のそれである。]

 

○蒲生飛驒守内衆(うちしゆ)、北河監物(きたがはけんもつ)と云ふ人、浪人の時、女房、奧州にて死す。三歲になる娘を伴れて、肥後の國へ下り、加藤殿へ有り付き、頓(やが)て女房を求めけり。

 此女房、彼の娘を憐むこと、淺からず。

 然るに本(もと)の女房、子の守(もり)に取憑きて、

「唯今の内儀、我娘を愛し給ふこと、忝(かたじ)けなし。」

と禮を云ふこと、度々(たびたび)なり。

 然(しか)る間(あひだ)、子守の祈禱に、「般若」をくり、又、山伏を以て加持すること、切々なり。

 然るに、十五日、廿日程ありて、又は、取付き、口走りける間(あひだ)、後(のち)には禪宗洞家(とうか)の去る寺にて施餓鬼を行ふ。

 然れども、未だ、治まらず。監物、女房の兄弟、中島嘉内、行きて、

「汝は、狐か、狸なるべし。我兄弟にてはあるまじ。にくい奴めかな。」

と云ひけれぱ、

「全く僞(いつは)りなし。我、物、かきて、證據を見せん。」

と云ふ。

「さらば。」

とて、硯・筆・料紙を與へければ、子守は無筆なるに、筆を取りて書ぐに、其儘、姉の手跡なり。

「扨は。疑ひなし。其時、其方は奧州にて死(しゝ)たる者が、子の守に憑いて煩(わづら)はすること、以ての外の僻(ひが)ごとなり。隨分の侍の娘なるに、何(なに)とて斯樣(かやう)に、愚痴、强きぞ。」

と云うて、耻(はぢ)しめければ、

「我、死する時、あかぬ別れの悲(かなし)み、少しの妄念、今に殘りて、如此(かくのごとく)なり。」

と云ふ。

「扨。吊ひたる品々の功德、報いたるや。」

と問へば、

「皆々、存知たり。それは、行者(ぎやうじや)ども、我等を畏(おど)して行ふゆゑに、功德、なし。流長院(りゅうちやうゐん)の施餓鬼ばかり、淸淨(しやうじやう)にて、水も請けたり。然(しか)れども、長老、眞實に憐(あはれ)む志(こゝろざし)なきゆゑ、佛經の功德ばかり中途に受けたり。」

と云ふ。

「長老、請込(うけこみ)よくば、成佛すべしや。」

と問へば、

「尤もなり。」

と云ふ。

 即ち、寺へ行き、長老に、此由(このよし)、具(つぶ)さに語り賴み入れけり。

 長老、合點して、死(しゝ)たる時の如く、龕(がん)を拵へ、野邊送りし、下火念誦、作法に、急度(きつと)、吊ひ給ふ。

 其後、(そののち)、また、腰元使(こしもとつか)ひの女に取り憑き、口走り、

「唯今、妄執の若患を離れて浮ぶなり。」

と云ふなり。

[やぶちゃん注:「蒲生飛驒守」蒲生秀行(天正一一(一五八三)年~慶長一七(一六一二)年)は蒲生氏郷の嫡男で陸奥会津藩主。従四位下飛騨守。

「北河監物」不詳。

「肥後の國」「加藤殿」肥後熊本藩初代藩主加藤清正(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)か。

『「般若」をくり』「くり」は「繰る」で「めくる」。ここは「般若波羅蜜多心經」(はんにゃはらみったしんぎょう)を何度も唱え、の意。

「切々なり」心を込めてする様子を言う。

「禪宗洞家」曹洞宗。

「流長院」現在の熊本県熊本市中央区壺川(こせん)に曹洞宗広徳山流長院があり、創建は慶長五 (一六〇〇) 年とする。

「長老」禅宗では一寺の住持、又は、それ以上の高徳の僧を指す。

「龕」この場合は棺桶の意。]

 

○攝州富田町(とんだまち)に、喜右衞門(きゑもん)と云ふ者あり。弟(おとゝ)は雲居(うんこ)和尙の敎化(きやうげ)を受け、菩提心、發(おこ)る故に、父の讓り、銀廿貫目ありけるを、兄の喜右衞門に渡す。喜右樹門、

「我々も、卅貫目、讓銀(ゆづりぎん)、請取(うけと)る故に、商ひ、本手(もとで)あり。其方(そのはう)、菩提の爲(ため)に使へかし。」

と云ふ。

「いや、親の讓(ゆづり)を、むざと使ふこと、不義なり。若(も)し、用所(ようじよ)あらば、使ふべし。先々(まづまづ)。」

と云うて、渡す。

 故に、兄、請け取り、商ひして、豐かに世を送りけり。

 かくて、寬永二十一年三月、喜右衞門、煩ひ付き、末期に及ぶ時、弟、來りて、臨終を勸め、往生を遂させけり。

 近き村の者、江戶へ商ひに行きけるが、箱根山にて、彼(かの)喜右衞門、出で向ひ、

「我(わが)宿(やど)へ、傳言(ことづて)せん。」

云ふ。

「何事ぞ。」

と問へば、我(わが)遣財(ゐざい)を以て、能々(よくよく)吊ひをなし給へ。飢渴寒熱(きかつかんねつ)の若患、限りなし。日々(にちにち)、靈供(りやうぐ)・茶湯(ちやたう)を手向け、僧を供養すべし。」

と云ふ。

「印(しるし)なくんば、叶ふべからず。」

と云へば、着物(きるもの)の左の袖を渡す。

 彼(かの)者、是を持ち歸つて、一門中に見せて、言傳(ことづて)の趣き、委(くわ)しく語りければ、驚き、手を拍(う)ちて、即ち、導師に告げ、樣々(さまざま)吊ひけり。隱れなきことなり。

[やぶちゃん注:

[やぶちゃん注:「富田町」現在の大阪府高槻市富田町(とんだちょう)か。

「雲居(うんご)和尙」底本は「うんこ」であるが、初版板本11コマ目)で訂した。「松島町」公式サイトの 「松島博物館探訪 」の「第五巻」の「雲居(うんご)禅師筆額」に、『雲居希膺(きよう)は天正』一〇(一五八二)年『に伊予国(現愛媛県)で生まれ、その後京都の妙心寺』『に入り、一宙和尚』『について修行しました』。『雲居の高名が政宗に伝わり、瑞巌寺の住持に懇請しましたが、雲居は固辞しました。政宗は雲居が考えを変えないのを敬慕し、洞水東初(どうすいとうしょ)を遣わしました』。『雲居は洞水の説得を受け入れ、政宗は到着を待ちましたが、亡くなりました』。『二代忠宗は政宗の遺志を重んじて、使者に途中まで出迎えさせ、雲居は寛永』一三(一六三六)年、『瑞巌寺九十九世の住持になりました』。『雲居は瑞巌寺の臨済宗妙心寺派としての基礎を築き、陽徳院や大梅寺(現仙台市太白区)の基礎も形成しました』とあり、額の画像と筆額文の訓読も電子化されてある。

「寬永二十一年」一六四四年。]

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