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2022/10/08

鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「二十四 生れ子田地を沙汰する事 附 生れ子親に祟る事」

 

[やぶちゃん注:底本は、所持する明治四四(一九一一)年冨山房刊の「名著文庫」の「巻四十四」の、饗庭篁村校訂になる「因果物語」(平仮名本底本であるが、仮名は平仮名表記となっている)を使用した。なお、私の底本は劣化がひどく、しかも総ルビが禍いして、OCRによる読み込みが困難なため、タイピングになるので、時間がかかることを断っておく。なお、所持する一九八九年刊岩波文庫の高田衛編「江戸怪談集(中)」には、本篇は収録されていない。

 なお、他に私の所持品と全く同じものが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにあり、また、「愛知芸術文化センター愛知県図書館」公式サイト内の「貴重和本ライブラリー」のこちらで、初版板本(一括PDF)が視認出来る。後者は読みなどの不審箇所を校合する。

 本文は饗庭篁村の解題(ルビ無し)を除き、総ルビであるが、難読と判断したもの、読みが振れるもののみに限った。]

 

   二十四 生(うま)れ子(こ)田地を沙汰する事

       生れ子親に祟る事

 濃州別不(じようしうべつふ)の近處(きんじよ)、仁井村(にいむら)と云ふ處の六太夫と云ふ者、寬永十七年三月の比(ころ)、女房、孖子(ふたご)を產む。

 同六月、或夜(あるよ)、男の聲にて、

「我は別不の宗兵衞(そうびやうゑ)なり。」

と、高らかに名乘る。

 六太夫、目醒(めざ)めて、是を聞いて、

『如何樣(いかさま)、我に怨(あだ)を爲(な)さんとて來(きた)るか。』

と思ひ、帶を締め、刀を取つて、之を聞くに、女房の寢所(ねどころ)なり。

 夫、

『女房の寢語(ねごと)か。』

と思ひ、起して見るに、寢入りて、起きず。

 頻りに、名渠る聲、女房の懷(ふところ)なり。

 餘りに不審に思ひ、二人(にん)の子の口に、手を當てゝ見れぱ、此内、一人(にん)、息を吹懸(ふきか)けて、名乘るなり。

 さる程に、

「汝は、何を言ふぞ。」

と問へば、

「我は別不一向宗の毛坊主(けばうず)宗兵衞(そうびやうゑ)なり。」

と云ふ。

「何とて、來(きた)るぞ。」

と問ヘぱ、我、此世(このよ)に在りし時、子供に家を渡すに、田地内(ない)、稔(みのり)多き處を、子に渡す事、惜(をし)く思ふ。此心、强き故に、生れ來りたり。」

と言ふ。

「其(その)田地は、何と云ふ處ぞ。」

と問へば、

「年貢四斗納めて、九俵取る處と、亦、八、九斗納めて、十五、六俵、取る處、三箇所(がしよ)、有り。此外、何程々々。」

と云ふ。

 六太夫、委しく覺えて、十七に成る市十郞と云ふ甥(おひ)を呼びて、一々に書付(かきつ)けさせ、夜明けて、別不へ行き、此由、尋ね聞くに、子息宗兵衞、

「少しも違(たが)はず。親、三年以前に相果(あひは)てられたり。田地の樣子、少しも違はず。」

と云ふ。

 則ち、六太夫處(ところ)へ、子の宗兵衞、來りて、物言ひたる子を見、歎きて、歸る。

 六太夫、卅七歲の者なり。予、彼(かれ)が處へ行き、直(ぢき)に語るを、確(たしか)に聞くなり。

[やぶちゃん注:正三が当該怪奇現象を体験した当事者自身から聴いたという、貴重な一篇である。

「濃州別不の近處、仁井村」岐阜県瑞穂市別府なら、ここ。「仁井村」は「今昔マップ」で戦前の地図も調べたが、不詳。

「毛坊主」小学館「日本大百科全書」より引く。『剃髪』『して生涯独身を通すのが僧侶』『の通例と考えられた時代での、半僧半俗の有髪(うはつ)の人たちをいう。中世から近世にかけて、主として北陸から近畿にわたる地帯の、浄土真宗の農村に多かった。当時は寺院をもたない村も多かったが、これらの地帯では』、『村ごとに道場をもち、寺院の出張所と集会所のような役目を果たしていた』。概ね、『自宅を道場として、日常は農業を営み、わずかな田畑を耕作していた。それでも、家の入口などに小さな釣鐘をかけ、村内に死者があると、導師となって正規の僧侶と同じような役割を果たし、年忌などがあると』、『出かけて行ってお経を唱えた。当時としては学問があって、長百姓(おさびゃくしょう)や庄屋』の次男や三男などが、『毛坊主になったのであろう。そのほか、定職をもたない人や寺男なども、経文を覚えて道場に住み着くことがあった』。明治五(一八七二)年の『道場廃止令によって、寺院に昇格したものもあり、一般の農家になったものもある。北陸地方では』、『いまも道場は存続しており、他の地方でも地名に残るものが多い。毛坊主は下級の僧侶とみられてきたが、寺をもたない小集落において、道場の制度とともに浄土真宗の民間布教に果たした役割は大きい』とある。

「子の宗兵衞、來りて、物言ひたる子を見、歎きて、歸る」の部分では、ちょっと首を傾げざるを得ない。何故、彼は、当然、継ぐべき田地を奪還出来ずに、歎いて帰るのか? 子息に継がせなかった田地は、一体、誰が続けて耕作しているのか? 彼が以上のような毛坊主として、その仁井村で絶大な信頼が置かれていたとなら、その一向宗徒の農民に分け与えられたものか? そうでなかったとすれば、以下に上田であったとしても、その農地は死後に休耕田となり、田地としては、劣化してだめになっているかも知れない。そもそも、百歩譲って、この生まれ変わりの双子の一人が宗兵衛のそれだとしても、この子がその田地を受け継ぐことを、当時の村社会や藩や知行地の代官が、転生を認め、許可するなどということは、逆立ちしても考えられないことだ。何だか、この話、阿呆臭くて、まともに考えるのも馬鹿々々しい感じがするのである。

「寬永十七年」一六四〇年。]

 

〇東三河賀茂河原に、孖子(ふたご)を產む者あり。

 夫に隱して、一人(にん)の子を、立臼(たてうす)の下へ入れ、殺しけり。

 其子、頓(やが)て、父母(ちゝはゝ)に取付(とりつ)きて、臼の下にて苦患(くげん)したる如く、手足、むぐめき、無言にて死にけり。

 兄弟一人以上、三人、取り殺す。

 今、殘り一人の子を資(たす)けん爲めに、伯父與次衞門(よじゑもん)と云ふ者、牛雪和尙を賴み入り、吊(とむら)ひければ、是より、祟る事、なし。

[やぶちゃん注:「東三河賀茂河原」愛知県豊橋市賀茂町(かもちょう)川原(かはら)であろう。

「一人の子を、立臼の下へ入れ、殺しけり」「立臼」は普通に土に据えて餅を搗く臼のことである。これは貧困から間引きしたものであり、赤子を臼で圧殺するというのは極めて常套的な手段であった。

「牛雪和尙」既出既注。]

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